中2いじめ苦に自殺 教委も認識 「生きていけない」 福岡・筑前町(西日本新聞) - goo ニュース
いじめの発端、教師に 学校側が謝罪 福岡の中2自殺(朝日新聞) - goo ニュース
このところ、小学生や中学生のいじめが原因で自殺するニュースが後を絶たない。
いじめの原因は、今もなお究明中だし、おそらく真相を語られることはないのだろうと思う。
今日はそれとはちょっと離れたところで、話を展開させてみようと思う。
誰だって一度や二度は「死にたい」と本気で思ったことがあるだろう。
理不尽な仕打ちを受けた時、あるいは失恋して絶望にうちひしがれた時。
「死にたい」と思ったことがある人は、相当数にのぼるだろう。
では、「じゃあ死のう」と心に決めて、それを実際に実行しそうになったことがある人は、どれくらいいるだろうか。
実力行使を考えるに至るというケースは、あまりないはずだ。
というより、実際問題実力行使に出てしまえば、関係各位から前科有りとマークされてしまうこと請け合い。
俺も、死にたいと思ったことなど、数え切れないほどある。
実際に包丁を手にして、腹をかっさばこうと思ったことさえある。
包丁を握った。
尖った剣先で、腹を突っついてみた。
痛かった。
こんなもんが腹に刺さったら、痛いなんてもんじゃないんだろーな…と、ことに及んだ後のことを考える余裕があったのだろうね、今になって考えれば。
あそこで、悪魔がぼそっと耳打ちして、考える暇もなく腹をかっさばいていたら、間違いなく、俺の命はなくなっていただろう。
ことに及ぶって、実はそれくらいの、薄っぺらい紙一重の差なんだろうね。
刺さったら痛そうだなと思いつつ、でも刺さなきゃやってられないだろうなと思った時、いとも簡単に一線を越えてしまうのだろう。
「紙一重」「一線」という言葉は、「プライド」と言い換えられよう。
さあことに及ぼうという段になって、最後に残された「プライド」が、頭をよぎるんだろうね。それさえも乗り越えちゃったら、ことに及ぶのだろう。
でもそれって、勇気がいるんだよな。
鋭利な刃物が腹に刺さったら本気で痛そうと思うから、刺せなかった。
本当に死のうと思って実力行使をしていれば、車がびゅんびゅん流れる成田街道に飛び出していたかもしれないし、夕暮れなずむ舞浜駅で、勢いよく通過する特急列車に飛び込んでいたかもしれないし、あるいは江戸川河口に身を投じていたのかもしれないし、車で死のドライブに出掛けていたのかもしれない。
でも、それらを実力行使することはなかった。
包丁を腹に突きつけた時の感触が、未だに脳裏に焼き付いていたからである。
思えば2年前。ちょうどおいらが心神喪失状態にあった時のこと。
たこすけさんに「お前は絶対に死ぬな! 死ぬなんて考えるな!」と、ことあるごとにさんざん説教されたのは、いつ死ぬかも分からないオーラを出しまくっていたのだろう、おそらく。そのオーラに感づいたたこすけさんは、観察が鋭かった。
まさしく、死にたいということしか考えていなかったから。
誰か間違って車で俺を轢いてくれないかな…とか、幸か不幸かおおよそそんな悪い意味での他力本願しか考えていなかったが、それでも「死にたい」オーラを出しまくっていたことは確かである。何をしても楽しくない、笑いも1ヶ月以上忘れた生活の、一体どこに一筋の明るい光を求めれば良かったのか。光を探してのたうち回るくらいなら、いっそ首でもくくった方がまだマシだ。
しかし、死ねなかった。
やっぱり怖かったのだ。
腹をかっさばいた後に来るであろう痛み。
首をくくった時に襲われるであろう息を吸えない苦しみ。
はねられた時に襲われるであろう全身の痛み。下手に命が助かれば、代償で半身不随だって大いにあり得るのだ。
飛び降りた時に襲われる痛み。
手首を切れば、飛び出す血で卒倒しちゃうんだろうね。
そこまで考えが及んだ時、とても「死ぬ」なんて選択は、出来なかった。
それって、「死ぬ」という勇気があることだから。
その勇気があるなら、生きられるような気がする。
生きていて、良いことがあるかどうかはわからないが。
でも、「死ぬ」勇気があるのなら、その勇気を持って生きて欲しい。
俺が言うのもアレなんだけどさ…。
生きるのは辛いけれど、死ぬのはもっと辛いぜ。
↑STOP! いじめ自殺!
福岡県筑前町の三輪中学校(合谷智校長、425人)の2年の男子生徒(13)が自宅の倉庫で首つり自殺をしていたことが13日、分かった。遺書とみられるメモ紙が計4通見つかり、「いじめられて、もういきていけない」と学校でのいじめを苦に自殺したことを示唆する記述があった。同町教委は「いじめがあった認識がある」として、男子生徒が自殺にいたった経緯を調査している。
同町教委などによると、11日午後8時すぎ、隣家に住む祖父(67)が自宅倉庫のかもいにビニールひもをかけて首をつっている学生服姿の男子生徒を発見。救急車で近くの病院に運ばれたが、死亡が確認された。死亡推定時刻は午後5時すぎとみられる。夕食に姿を見せなかったことから辺りを捜していた。
残された遺書とみられるメモ紙には「いじめられて、もういきていけない」「いじめが原因です」「うざい奴等はとりつきます」などといじめを苦に自殺したことをうかがわせる記述があった。
同中は、男子生徒が自殺した翌12日朝に緊急の全校集会を開催。合谷校長が事実関係を説明した。その後、全校生徒にいじめの有無などを確認するアンケート用紙を配布し、同日中に回収。11日の放課後の直前に男子生徒を学校のトイレで取り囲んでいた同級生計7人から個別に事情を聴いたという。
学校側の聴取に対し担任の男性教諭(45)は「いじめは把握していなかった。(自殺した日、男子生徒は)朝から目前に迫っていた中間テストに向けてプリント学習に励んでいた。給食も元気そうに食べていた」と答えたという。
中原敏隆・筑前町教育長の話 男子生徒が自殺するまで学校内でいじめがあったことは把握していなかった。しかし、遺書にはっきり「いじめられた」と書かれている以上、いじめがあったと認識している。その前提で今後の調査を進めたい。
いじめの発端、教師に 学校側が謝罪 福岡の中2自殺(朝日新聞) - goo ニュース
福岡県筑前町の中学2年の男子生徒(13)が、いじめを受けたという遺書を残して自殺した問題で、1年生の時の担任教諭が生徒に対し、不適切な言動を繰り返していたことがわかった。生徒の両親が「教諭からいじめを受けていたのではないか」とただし、町教委や学校側が15日、認めた。さらに、教諭の言動が、ほかの生徒たちによるいじめの発端になり、自殺につながった可能性があるという見方を示した。
生徒の両親は、14、15両日、自宅を訪れた三輪中学校の合谷智校長やこの教諭らとの話し合いを記者団に公開。この中で、両親は同級生らから聞いたという教諭の過去の言動を示しながら、事実かどうか問いつめた。
両親によると、1年生の1学期に、生徒がインターネットのサイトを繰り返し見ていると母親が教諭に相談。その後、その相談内容が同級生らに漏れ、それにちなんだあだ名がつけられた。生徒はあだ名で呼ばれるようになったことを嫌がり、「学校に行きたくない」と訴えるようになったという。両親は、相談内容を教諭が漏らしたと指摘した。
また、教諭は友人が落とした文具を拾ってあげた生徒を「偽善者にもなれない偽善者」と呼んだという。生徒が2年に進級する際に担任が代わったが、新たな担任に対し、「この子はうそをつく子だ」と申し送りをしたとしている。
ほかの生徒に対しても、漢字を書かせる際に、太った生徒には「『豚』が似合う」と言ったり、忘れ物をした生徒を教室にある花瓶でたたいたりといった行為があったのではないかと問いつめた。
これに対し、教諭は相談内容を漏らしたことや「偽善者」という発言、「うそをつく子」という申し送りなどについて、「はい」などと答えて認めた。亡くなった生徒を集中的にいじめたのではないかと問いつめられたのに対しても、これを認め、その理由について「からかいやすいというのはありました」と説明した。
合谷校長は席上、「そのこと(教諭の発言)が自殺につながった。一番大きな引き金になった。子どもたちの一連のいじめも実際にはあったが、大本となった。あす、子どもたちに、責任が教師にあったときちんと言う」と謝罪し、ほかに被害がなかったかを調べる考えを示した。同席した中原敏隆・町教育長は、教諭の発言から生徒が孤立を深めたのかという記者団の質問に対し、「今の段階で、そのようにとらえている」と答えた。
この問題では、自殺当日の11日、生徒が「死にたい」と漏らしたのに対し、同級生らが「本気なら下腹部を見せろ」などといい、ズボンを脱がせようとしたことなどがわかっている。
このところ、小学生や中学生のいじめが原因で自殺するニュースが後を絶たない。
いじめの原因は、今もなお究明中だし、おそらく真相を語られることはないのだろうと思う。
今日はそれとはちょっと離れたところで、話を展開させてみようと思う。
誰だって一度や二度は「死にたい」と本気で思ったことがあるだろう。
理不尽な仕打ちを受けた時、あるいは失恋して絶望にうちひしがれた時。
「死にたい」と思ったことがある人は、相当数にのぼるだろう。
では、「じゃあ死のう」と心に決めて、それを実際に実行しそうになったことがある人は、どれくらいいるだろうか。
実力行使を考えるに至るというケースは、あまりないはずだ。
というより、実際問題実力行使に出てしまえば、関係各位から前科有りとマークされてしまうこと請け合い。
俺も、死にたいと思ったことなど、数え切れないほどある。
実際に包丁を手にして、腹をかっさばこうと思ったことさえある。
包丁を握った。
尖った剣先で、腹を突っついてみた。
痛かった。
こんなもんが腹に刺さったら、痛いなんてもんじゃないんだろーな…と、ことに及んだ後のことを考える余裕があったのだろうね、今になって考えれば。
あそこで、悪魔がぼそっと耳打ちして、考える暇もなく腹をかっさばいていたら、間違いなく、俺の命はなくなっていただろう。
ことに及ぶって、実はそれくらいの、薄っぺらい紙一重の差なんだろうね。
刺さったら痛そうだなと思いつつ、でも刺さなきゃやってられないだろうなと思った時、いとも簡単に一線を越えてしまうのだろう。
「紙一重」「一線」という言葉は、「プライド」と言い換えられよう。
さあことに及ぼうという段になって、最後に残された「プライド」が、頭をよぎるんだろうね。それさえも乗り越えちゃったら、ことに及ぶのだろう。
でもそれって、勇気がいるんだよな。
鋭利な刃物が腹に刺さったら本気で痛そうと思うから、刺せなかった。
本当に死のうと思って実力行使をしていれば、車がびゅんびゅん流れる成田街道に飛び出していたかもしれないし、夕暮れなずむ舞浜駅で、勢いよく通過する特急列車に飛び込んでいたかもしれないし、あるいは江戸川河口に身を投じていたのかもしれないし、車で死のドライブに出掛けていたのかもしれない。
でも、それらを実力行使することはなかった。
包丁を腹に突きつけた時の感触が、未だに脳裏に焼き付いていたからである。
思えば2年前。ちょうどおいらが心神喪失状態にあった時のこと。
たこすけさんに「お前は絶対に死ぬな! 死ぬなんて考えるな!」と、ことあるごとにさんざん説教されたのは、いつ死ぬかも分からないオーラを出しまくっていたのだろう、おそらく。そのオーラに感づいたたこすけさんは、観察が鋭かった。
まさしく、死にたいということしか考えていなかったから。
誰か間違って車で俺を轢いてくれないかな…とか、幸か不幸かおおよそそんな悪い意味での他力本願しか考えていなかったが、それでも「死にたい」オーラを出しまくっていたことは確かである。何をしても楽しくない、笑いも1ヶ月以上忘れた生活の、一体どこに一筋の明るい光を求めれば良かったのか。光を探してのたうち回るくらいなら、いっそ首でもくくった方がまだマシだ。
しかし、死ねなかった。
やっぱり怖かったのだ。
腹をかっさばいた後に来るであろう痛み。
首をくくった時に襲われるであろう息を吸えない苦しみ。
はねられた時に襲われるであろう全身の痛み。下手に命が助かれば、代償で半身不随だって大いにあり得るのだ。
飛び降りた時に襲われる痛み。
手首を切れば、飛び出す血で卒倒しちゃうんだろうね。
そこまで考えが及んだ時、とても「死ぬ」なんて選択は、出来なかった。
それって、「死ぬ」という勇気があることだから。
その勇気があるなら、生きられるような気がする。
生きていて、良いことがあるかどうかはわからないが。
でも、「死ぬ」勇気があるのなら、その勇気を持って生きて欲しい。
俺が言うのもアレなんだけどさ…。
生きるのは辛いけれど、死ぬのはもっと辛いぜ。
↑STOP! いじめ自殺!
でも、ねえ…。