小馬太郎兵衛@タコのイカ踊りぃっ!!

ブログの老後をユラユラ楽しむ悦楽ブログって言ったけどさ、もう一発くらい狙ってもいいのかな。やってもいいかな?

「三沢光晴さんお別れ会」に行って来ました

2009-07-05 21:11:19 | Weblog
6月13日の事故から半月あまり、自分の中では、三沢さんはこの世にはもういないと、整理をしたつもりでしたが、やはりいざお別れ会に出かけるとなると、実はどうして全く整理がついていない己がいるのだと、再認識させられつつ、4日のお別れ会に出かけてまいりました。

三沢さんに2万6000人、2・4キロ涙の列(日刊スポーツ) - goo ニュース
三沢さんに2万6000人が涙で別れを告げた。6月13日の試合中に急死したノア社長でプロレスラーの三沢光晴さん(享年46)の「お別れ会」が4日、ノアの本拠地、東京・江東区のディファ有明で行われた。当初は5000人前後の参列を見込んでいたが、徹夜組が出るなどファンが殺到。開始約2時間半後の午後4時前には、参列者の行列が2・4キロ離れた中央区晴海に達した。献花台となったリングはトップロープまで花に埋め尽くされ、改めて三沢さんのプロレスの枠を超えた存在の大きさを浮き彫りにした。

 献花のために特設されたリングは、トップロープまで花で埋まった。「三沢、ありがとう」。大勢のファンが涙を流し、絶叫しながら花を投げ入れた。リング正面上のGHCヘビー級のベルトを巻いた等身大の三沢さんの遺影が、途絶えることのないファンの涙をじっと見つめていた。会場の外に特設された机には、酒や寄せ書の色紙があふれ返った。

↑※記事が長いので、全文はリンク先をご覧下さい。

関連記事:「お別れ会」参列者の行列3駅分(日刊スポーツ) - goo ニュース

あれから20日あまり。
酒の席で、何人と、三沢さんのプロレスについて語り合っただろうか。
おいらが初めて三沢さんの不慮の事故を、現実として受け容れたのは、事故から1日が経った14日、「スポーツうるぐす」で流された、事故直後の映像を見てからだった。
あの三沢さんが、全く動くことなく、蘇生のためのマッサージを懸命に施されている。
受け容れ難かった事態をようやく飲み込めたのも、1日かかってのことだった。
現実に起こった事態を飲み込んで、理解しても、心の整理は、実はついているようでついていなかった。

そんな状態の中、元職場の同僚タラコ氏(っつーかHN変わりすぎだっつーのww)と、三沢さんに最後のお別れを告げに行くべく、新橋で11時に待ち合わせ。
世間の予想以上の衝撃を鑑みると、午後2時から始まるファン向けの献花式、11時に新橋待ち合わせでは、正直遅いかも…とも思ったが、あまり早く出過ぎても、天候次第では無駄に体力を消耗してしまうので、現地での待機時間が2時間半くらいになる11時の待ち合わせならちょうどいいのかも。
献花式に使う花束は、八千代台駅前のお花屋さんで仕入れてきた。有明に花屋などあるわけがないだろうし、あったとしても大混雑するに決まっている。ましてや有明にあろうはずがない花屋さん、有明への入口である新橋あたりで仕入れようと思っても、同じようなことを考える人がずらりと行列を作っていても不思議ではないので、少々時間が空こうと、荷物になろうと、地元の駅前で仕入れていく。
しかし、ライブを観に「Zepp Tokyo」に行こうと有明コロシアムに行こうと、台場や有明方面は、とにかく電車だと行きづらい場所で、いっそクルマで出かけた方がよっぽどましなのだが、どうせならゆっくり三沢さんを語りつつ酒を飲み交わしたいし、何より今日に限っては、有明交差点そばに大きな有料駐車場があるのは分かっていても、それらが塞がっていたら駐車場難民になることは必至で、台場・有明方面はクルマが便利なのだけれど、止めどころを考えると躊躇せざるを得なかった。
新橋だと、神田まで定期があるから日暮里乗り換えでも良かったのだが、花束を抱えて日暮里乗り換えも面倒だったので、青砥から押上、都営浅草線回りで新橋へ。やっぱり平面乗り換えは楽ちんで、このルートは高いけれども捨てきれない魅力なのだ。
新橋で降りると、地下街に花屋さんが一軒あったものの、案の定5人くらいが列を作っていた。女性3人、男性2人ほどだったが、たぶんほぼ全員…。
タラコ氏と合流してゆりかもめに揺られて有明テニスの森へ。
ディファ有明は有明コロシアムの北側にあり、以前なら有明からとぼとぼと湾岸道路を歩いて越さなければならなかったが、2006年にゆりかもめが有明から豊洲まで延伸されたので、会場のディファ有明の至近までゆりかもめが連れて行ってくれる。
会場に着いたのは11時30分過ぎだったろうか。
この段階では、行列は思ったほどには伸びておらず、有明交差点をディファの敷地沿いに折れた道へ列は伸びてはいたが、会場横の有明交差点寄りだったので、交差点からはおおよそ50~60メートルといったところか。



この行列は、最終的には晴海大橋まで達したようだけれど、この行列はファン向けのお別れの会に先駆けて、関係者で執り行われた「お別れの会」が始まる午後1時前後から急激に列が伸びたように思う。ふと気がついて行列の後ろを振り返ったら、整理係が持った最後尾の看板が、有明北橋を越えてとうに見えなくなっていた。
その頃と時を同じくして列整理が始まり、会場の敷地内の駐車場へ。列整理をしてもなお、三沢さんへの献花の列が伸び続け、最終的に晴海大橋まで達したのだから、11時集合という判断は、結果的には間違っていなかったことになる。
雲間からは日も覗き、正面にディファの会場、この中で、今まさにお別れセレモニーが行われている…ということを考えると、だんだん口数が少なくなってくる。
三沢さんにお別れを言わなければならない時が、刻一刻と近づいているのだ。

多数のプロレスラーや関係者の出席者を間近で見ながら、午後2時半過ぎに会場へ入る。
当然のことですが、会場内の写真はありません。
全てはおいらの「心のカメラ」に刻み込みます。

ホールの中にリングが設えられ、その三方に献花するようになっている。
多くの花束の中にある、お酒や似顔絵。フィギュアも。
リングの上には三沢さんの遺影。
流れる「スパルタンX」。

この期に及んでも、まだ現実とは向き合うことが出来なかった、もう一人のおいらがいた。
遺影を見ても、まだ「嘘だろう」と思う自分。
手を合わせて、三沢さんになんと言おうか考える余裕が、この時点のおいらには、まだあった。

でも。
手を合わせた瞬間、ダメになった。

そこにあるのは、全てが「現実」だったのだ。

お祈りした瞬間、全てが崩れ落ちてしまった。

おいらはここで、三沢さんに、本当にお別れを言わなければいけなくなったのだ。

本当は、お別れなんか言いたくなかったのに…。

全ての思い出は、物語に変わる。
おいらがテレビで、会場で、熱狂した全ての思い出を、物語に変えなければいけない瞬間がやってきたのだ。
思い出は涙の代わり。
そう思うと、もう後は…。・゜・(ノД`)・゜・。


出口には、ノアの選手が並んで、参列者一人一人に頭を下げていた。
その列の先頭には田上明。
そしてその中には斉藤彰俊の姿も…。

斉藤…。
頑張れ。
頼んだぞ。

そして、その列の先頭に田上明がいたということは…。
いや、この場でそんなことを考えるのはよそう。時が経てばいずれ明らかになることだから。

お別れの儀式を終え、会場を出ると、サプライズが待っていた。
ノアからのメッセージカードと共に、なんとTシャツまで配られたのだ。


↑※クリックで拡大します。

あう。
メッセージカードを上手く撮ろうとするあまり、Tシャツがおろそかになる構図だ…_| ̄|○

このメッセージカードとTシャツは、大事にします…。

相手のファイトを全て受け止めて、そして自身の攻撃を加える三沢さんのスタイルは、ぶっちゃけ、私の生き方そのものにしたいと思うんですよね。
理想かもしれないけれど、それでもいいですよね?
10年前の武道館の三沢小橋戦、おいらが泣き、隣でタラコ氏が絶句状態で鳥肌を立てていたあの戦い。
それだけではもちろんないのだけれど、私の三沢さんの思い出は、全てを物語として紡ごうと思います。

三沢さん、ありがとう…。


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