東京大空襲、国を提訴 被災者ら110人、損賠など求め(産経新聞) - goo ニュース
ネタから言って、このニュースは本来昨日中に取り上げるべきだったのだが、書かずに後回しにしちゃったらこんな時間に。
普通に考えたら、どう考えても訴えるべきは日本国ではなく、大量殺戮を犯したアメリカだよなあ…と思うのだけれど…。
そうか。
サンフランシスコ講和条約で、アメリカへの請求権を放棄しているから日本を訴えたのね。
それはともかく。
今や東京大空襲から62年が経過して、体験談を聞くことも少なくなってきたが、今でも思いがけぬところで体験談を目にすることが出来る。先月鉄道ピクトリアルで京成特集が出た時に、東京大空襲当時、京成上野駅に帯泊していた乗務員の体験談は貴重な資料である。上野公園一帯が炎に包まれ、翌日に這々の体で高砂の乗務区に逃げ帰った体験談が、生々しく綴られている。
こうした鉄道書で有名なのは、故宮脇俊三氏の「時刻表昭和史」で語られた体験談だろう。世田谷区北沢の自宅から、江東地区真っ赤に燃えさかっているのが確認できたくらいだから、どれだけの規模の火の手が上がっていたか、想像を絶する世界である。
うちのおかんも、当時滝野川町(現在の東京都北区滝野川)で空襲に遭ったようで、親戚のつてを頼って、成田へ一家で疎開したという。「御料牧場」という言葉が出てきたから、疎開したのは三里塚の方だろう。今となっては成田空港が出来て、一帯が牧場地域だった面影は、かすかに競走馬の牧場が面影を残すのみである。国道296号を富里から芝山へ走ると、今でもいくつかの牧場が残り、運がいいと放牧に出ている馬の顔を見ることが出来る。
うちのおかんは1941年生まれ。東京大空襲当時は3歳だから、空襲の記憶は残ってはいないのだろうが、昔話はおいらの祖父、つまりはおかんのおとんからいろいろ聞いていただろう。滝野川で焼かれて成田へ疎開して、さらに親戚筋を頼って埼玉県川口市へ居を構えることになった…ということは聞いた。
ただ、滝野川がやられたのが、この日の「東京大空襲」の日だったのか、それとも4月13日に東京北部が焼かれた時の事かは、定かではない。
こうした昔話は、本来なら祖父から聞かなければならなかったのだろうが、当時はそうした興味もなかった上、聞けるような知識がついた頃には、祖父は今で言う認知症の症状が出て、1996年に89歳で没した。今思えば、もう少し前に、昔の話を聞いておくべきだったか…と悔やむ。こうした話は、興味がなければ聞かないだろうし、相手も興味がなければ無理に話すこともないのだから。
語り継ぐべき物は、語り継がなければなるまい。
昭和20年3月10日に米軍機の爆撃で約10万人が死亡したとされる東京大空襲の被災者と遺族約110人が9日、国に総額約12億円の損害賠償と謝罪を求める訴訟を東京地裁に起こした。空襲被害をめぐる集団訴訟は初めてという。
原告1人当たりの請求額は1100万円。空襲から62年となる10日が土曜日のため、前日の提訴になった。
原告団は「国が戦争終結を遅延させるなどした結果、空襲を招いた。にもかかわらず、その後、被害者を救済せずに放置した」と訴えている。
また、国による補償は軍人・軍属とその遺族に手厚い一方、民間人の犠牲者にはほとんどないため「不平等で違憲」とも主張している。
東京大空襲は太平洋戦争中、米軍のB29爆撃機300機以上が現在の東京都江東区、台東区、墨田区などを中心に焼夷(しょうい)弾で攻撃した無差別爆撃。
被害者の正確な人数や実態は今もなお不明だが、推定で10万人以上が死亡、約27万戸が焼失したとされる。下町を中心に当時の東京都の40%に当たる約40平方キロメートルが焦土と化した。その後も空襲は続き、同年5月にも大きな被害が出た。
ネタから言って、このニュースは本来昨日中に取り上げるべきだったのだが、書かずに後回しにしちゃったらこんな時間に。
普通に考えたら、どう考えても訴えるべきは日本国ではなく、大量殺戮を犯したアメリカだよなあ…と思うのだけれど…。
そうか。
サンフランシスコ講和条約で、アメリカへの請求権を放棄しているから日本を訴えたのね。
それはともかく。
今や東京大空襲から62年が経過して、体験談を聞くことも少なくなってきたが、今でも思いがけぬところで体験談を目にすることが出来る。先月鉄道ピクトリアルで京成特集が出た時に、東京大空襲当時、京成上野駅に帯泊していた乗務員の体験談は貴重な資料である。上野公園一帯が炎に包まれ、翌日に這々の体で高砂の乗務区に逃げ帰った体験談が、生々しく綴られている。
こうした鉄道書で有名なのは、故宮脇俊三氏の「時刻表昭和史」で語られた体験談だろう。世田谷区北沢の自宅から、江東地区真っ赤に燃えさかっているのが確認できたくらいだから、どれだけの規模の火の手が上がっていたか、想像を絶する世界である。
うちのおかんも、当時滝野川町(現在の東京都北区滝野川)で空襲に遭ったようで、親戚のつてを頼って、成田へ一家で疎開したという。「御料牧場」という言葉が出てきたから、疎開したのは三里塚の方だろう。今となっては成田空港が出来て、一帯が牧場地域だった面影は、かすかに競走馬の牧場が面影を残すのみである。国道296号を富里から芝山へ走ると、今でもいくつかの牧場が残り、運がいいと放牧に出ている馬の顔を見ることが出来る。
うちのおかんは1941年生まれ。東京大空襲当時は3歳だから、空襲の記憶は残ってはいないのだろうが、昔話はおいらの祖父、つまりはおかんのおとんからいろいろ聞いていただろう。滝野川で焼かれて成田へ疎開して、さらに親戚筋を頼って埼玉県川口市へ居を構えることになった…ということは聞いた。
ただ、滝野川がやられたのが、この日の「東京大空襲」の日だったのか、それとも4月13日に東京北部が焼かれた時の事かは、定かではない。
こうした昔話は、本来なら祖父から聞かなければならなかったのだろうが、当時はそうした興味もなかった上、聞けるような知識がついた頃には、祖父は今で言う認知症の症状が出て、1996年に89歳で没した。今思えば、もう少し前に、昔の話を聞いておくべきだったか…と悔やむ。こうした話は、興味がなければ聞かないだろうし、相手も興味がなければ無理に話すこともないのだから。
語り継ぐべき物は、語り継がなければなるまい。
私もいろんな方面にアンテナは伸ばしたいものです。
失念でした。
それにしてもこういった記憶はどんどん語り継がれるべきなんですが、薄れていってるのが現状。
残念な事です。