ついこの間国交相に任命されたばかりの中山国交相が、在任期間5日で、早くも辞任しました。
中山国交相が問題発言で辞任 政権、衆院選に影響必至(共同通信) - goo ニュース
ちなみに、中山国交相の在職期間5日というのは、戦後2番目の短命だそうで、では1位は誰ぞやというと、1988年の竹下登改造内閣の、長谷川峻法相の在職4日だとか。
長谷川法相…というと、思い出すねえ…。
1988年末の北海道。
当時のJR北海道池北線、翌年から第3セクターのちほく高原鉄道に転換されたものの、一昨年3月でその任務を終え、今ではバスでしか入れなくなった、陸別駅近くの朝のラーメン屋。
朝っぱらから2時間の待ち合わせの中で街を歩き、たまたま湯気が出ていたラーメン屋に声をかけたら、「出来るよ」との有り難い声に、朝からみそラーメンをみんなで鼻水を垂らしながらすすって暖を取ったんだっけ。
そのさなか、誰かがテレビニュースのスーパーに気付いて大声を上げた。
「大変だ、長谷川法相が辞めましたよ!」
当時はおいら中学2年生のはな垂れ小僧の身、閣僚が一人辞めようが、そんな影響などまるで知る由もないが、知る人は、これがどんな意味を持つのか、瞬時に知ったことだろう。
竹下改造内閣が発足して僅か4日目の朝の出来事。
たった一人の閣僚の辞任劇はしかし、「銀河の歴史が、また1ページ」くらいの歴史と、わずか十数人の旅の思い出のスパイスとして、ずっと残ることになったのだ。
普通ならその後すぐ、竹下内閣は倒れても良さそうなものだったが、それがしばらく続いたのは、秋口に倒れられ、日ごとに「今日の下血は…」「今日の吐血は…」と、容態がつぶさに伝えられる異常事態だった、昭和天皇のご容態が日に日に悪化していたことと関係があったのだと思う。年も押し迫った年末の折りも折り、動くに動けなかった一面もあり、竹下内閣が総辞職に至るのは、翌年春まで待たなければならなかった。
更にちなみに、ですが。
この旅は、この本につぶさに書かれておりまして。
この陸別駅の様子もつぶさに記録されており、また、手前味噌ながら、この本には若かりし頃のおいらもさりげなく登場しているので、気になる方は是非上記リンクからクリックして頂いてお買い求めいただき、秋の夜長の共として頂ければ…と存じます。
しかし…。
日教組云々はともかくとして(笑)、他の二つの失言(と言われること)は、いくら発言に他の意味があったとしても、そう受け取られてはいけない発言ばかりで、この辞任劇は正直致し方ないのかなと。いや、そうすれば日教組問題もそうか。
成田空港問題にしても、時代背景もあるとはいえ、政府があのやり方で用地買収を進めておきながら、それを今更「ごね得」というのは、他にどう捉えようがあるのかと思うし、「単一民族」にしても…。
せっかく船出した麻生内閣に、早くも暗雲が。
そういえば、「2人ほど危ないのがいる」と噂された麻生内閣。
もしその2人の中に、中山国交相が入っていないとすると、「危ない」と噂されるもう2人って、誰のことなんだろうねえ…?
中山国交相が問題発言で辞任 政権、衆院選に影響必至(共同通信) - goo ニュース
中山成彬国土交通相(65)は28日午前、麻生太郎首相に官邸で会い、「日教組をぶっ壊す」など一連の問題発言の責任を取って辞表を提出、受理された。24日に新内閣が発足したばかりで閣僚が在職わずか5日で辞任に追い込まれたことにより、今後の麻生政権や11月に想定する次期衆院選に影響するのは必至だ。首相は中山氏の辞任で事態の沈静化を図りたい考えだが、野党は首相の任命責任を厳しく追及する方針。
ちなみに、中山国交相の在職期間5日というのは、戦後2番目の短命だそうで、では1位は誰ぞやというと、1988年の竹下登改造内閣の、長谷川峻法相の在職4日だとか。
長谷川法相…というと、思い出すねえ…。
1988年末の北海道。
当時のJR北海道池北線、翌年から第3セクターのちほく高原鉄道に転換されたものの、一昨年3月でその任務を終え、今ではバスでしか入れなくなった、陸別駅近くの朝のラーメン屋。
朝っぱらから2時間の待ち合わせの中で街を歩き、たまたま湯気が出ていたラーメン屋に声をかけたら、「出来るよ」との有り難い声に、朝からみそラーメンをみんなで鼻水を垂らしながらすすって暖を取ったんだっけ。
そのさなか、誰かがテレビニュースのスーパーに気付いて大声を上げた。
「大変だ、長谷川法相が辞めましたよ!」
当時はおいら中学2年生のはな垂れ小僧の身、閣僚が一人辞めようが、そんな影響などまるで知る由もないが、知る人は、これがどんな意味を持つのか、瞬時に知ったことだろう。
竹下改造内閣が発足して僅か4日目の朝の出来事。
たった一人の閣僚の辞任劇はしかし、「銀河の歴史が、また1ページ」くらいの歴史と、わずか十数人の旅の思い出のスパイスとして、ずっと残ることになったのだ。
普通ならその後すぐ、竹下内閣は倒れても良さそうなものだったが、それがしばらく続いたのは、秋口に倒れられ、日ごとに「今日の下血は…」「今日の吐血は…」と、容態がつぶさに伝えられる異常事態だった、昭和天皇のご容態が日に日に悪化していたことと関係があったのだと思う。年も押し迫った年末の折りも折り、動くに動けなかった一面もあり、竹下内閣が総辞職に至るのは、翌年春まで待たなければならなかった。
更にちなみに、ですが。
この旅は、この本につぶさに書かれておりまして。
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この陸別駅の様子もつぶさに記録されており、また、手前味噌ながら、この本には若かりし頃のおいらもさりげなく登場しているので、気になる方は是非上記リンクからクリックして頂いてお買い求めいただき、秋の夜長の共として頂ければ…と存じます。
しかし…。
日教組云々はともかくとして(笑)、他の二つの失言(と言われること)は、いくら発言に他の意味があったとしても、そう受け取られてはいけない発言ばかりで、この辞任劇は正直致し方ないのかなと。いや、そうすれば日教組問題もそうか。
成田空港問題にしても、時代背景もあるとはいえ、政府があのやり方で用地買収を進めておきながら、それを今更「ごね得」というのは、他にどう捉えようがあるのかと思うし、「単一民族」にしても…。
せっかく船出した麻生内閣に、早くも暗雲が。
そういえば、「2人ほど危ないのがいる」と噂された麻生内閣。
もしその2人の中に、中山国交相が入っていないとすると、「危ない」と噂されるもう2人って、誰のことなんだろうねえ…?
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