1999年1月31日。
ジャイアント馬場さんが亡くなってから、はや10年。
【次代への明言】1月31日・ジャイアント馬場 - MSN産経ニュース
1999年1月31日。
馬場さんが亡くなってから、はや10年。
亡くなられたのは1月31日だったが、その訃報は関係者以外極秘とされ、明るみに出たのは、翌2月1日のことだった。
あの日のことは良く覚えている。
2月1日、仕事から帰ってきて、たまたま午後7時に部屋のテレビを付けたのが、ケーブルテレビで流れていた「NNN24」で、三沢やジャンボ鶴田など、全日本プロレスの面々が沈痛な面持ちで視線を落とす中、百田光雄が記者会見文を読み上げ、馬場さんの死が、公式の第一報として生中継された。
まさか、そんなバカな…。
年頭の「新春ジャイアントシリーズ」を欠場していて、前年1998年末の「世界最強タッグ決定リーグ戦」も、2試合を欠場していた馬場さん。
しかし、12・4千葉大会で復帰し、テレビ録画があった最終戦の翌日の日本武道館大会には元気な姿を見せていたから、そんな体調であるとは思いもつかなかったというのが本心だ。
それなのに…。
だって、千葉大会も武道館大会も、この目でちゃんとファイトを見届けたのだから…。
まさか、馬場さんの生涯ラストファイトのオーラス2戦を、この目で見届けることになるとは、想像だにできなかったのだ。
千葉大会で、売店にどっかり座る馬場さんに、買ったタオルに貰ったサインは、今でも大切に家の押し入れに眠っている。
サインを入れて貰ったものはどれも家宝なのは言うまでもないけれど、家にある数少ないサイン入りグッズの数々も、馬場さんのサイン入りタオルは、他のサイン入りグッズとは似て非なる意味合いを持つことになってしまった。
即座に職場の仲間だったときめき下メロン、氏(っつーかハンドルネーム変わりすぎww)に電話しつつ、家族の前で突っ伏しながら慟哭したあの日のことは、昨日のように覚えている。
あれから10年。
当時から徐々に衰退の兆しを見せ始めていたプロレス界も、よもやここまで衰退どころか灯火が消える寸前まで追い込まれる状況になるとまでは、さすがに予想し得なかったが、これもおそらくは、長らく「馬場・猪木体制」が存在したことで保たれていた均衡が、馬場さんの死去によってバランスが崩れ、一挙に無秩序状態になったことと、決して無関係ではないだろう。
このバランスとて、馬場さんとは直接関わりがない、どうしようもない事例も散見されるのだけれど、猪木はその後総合格闘技路線に走り、好むと好まざるとに関わらず、プロレス界も総合格闘技路線の波に呑まれては次々と撃破され、その愚かしさとあまりにも絶大なリスクにプロレス団体も気がついたか、2000年代前半にはほぼ総合格闘技路線とは決別した形にはなったが、その間にミスター高橋のいわゆる「暴露本」、或いはアメリカで隆盛を極めたWWEのエンターテイメントプロレスの波と、思いもよらぬ大波と時代の流れが、さらなる大津波となってプロレス界をおそっている間に、プロレス界はいつしかマニア路線となっていった。
マニアに迎合しているか否かはおいらには判断しかねるが、まずブックありき、ストーリーありきで、本来の闘争心を忘れてしまった試合内容などは、馬場さんとは直接の関係はないのでここでは問わないが、一つだけ。
最近の男女問わず、特に若い女子レスラーがそうなのだが、アントニオ猪木の「逆エビ固めをかけられて痛いなら、顔をマットに埋めずに、リングサイド5列目の客に痛いということを伝えろ」という言葉を、果たしてどれほどのレスラーが理解できるというのか。そんなに痛みを顔に出すのに恥じらいを感じるというなら、リングに上がるなと言いたい。プロレス技の痛みに恥じらいなんてあるのかと。痛みで心の奥底にある闘争心に火をつけてナンボだろと。
あれから10年。
プロレス界は進化したかと問われたら、必ずしもそうであるとは答えられまい。
テレビでは、新日のジュニアヘビーの試合で、実況アナウンサーがこんな台詞を叫んでいた。
「まるで25年前の、あのタイガーマスク対ダイナマイト・キッドの試合を見ているかのようだ!!」
このアナウンサーに、この台詞に対する思慮がどの程度あったのかは分からないが、この台詞を聞いて唖然としてしまった。
なにせ実況アナウンサーが、「25年前から試合内容は進化していませんよ」と認めてしまったようなものなのだから。結局今のプロレスは、レスラーもそうだけれど、25年前の試合を引き合いに出して例えなければならないほど、進化に乏しい何よりの裏付けになってしまっている。
事実、25年前のタイガーマスク対ダイナマイト・キッドの方が、今のプロレスより何千倍も面白い。
そうでなくても、今からおよそ15年、20年前、或いはそれ以前の昭和時代のプロレスの映像を見ていると、どうして当時の試合の方がより熱を入れて見てしまうのだろう?
技は正直今よりは華麗ではなく、内容も今よりもっと泥臭く、時代が遡れば遡るほど、大男の殴り合い、或いは女子同士の感情むき出しの殴り合いとしか例えられないのに、なぜ、その頃の試合の方が今より圧倒的に面白いのか。
この問いに答えられるプロレスラーが、果たして日本にどれほどいるというのか。
別においらは懐古主義ではない。
カネを払うからには、相応の内容を見せて貰いたいからである。
天国の馬場さんは、今のプロレスを、どのように見つめているのだろう…。
過ぎ去りし10年は、なんだか重いね…。
ジャイアント馬場さんが亡くなってから、はや10年。
【次代への明言】1月31日・ジャイアント馬場 - MSN産経ニュース
■「引退したら一番したいことがあるんです。パリのモンマルトルで座って絵をかきたいんですよ」(ジャイアント馬場『16文の熱闘人生』)
その夢はかなわなかった。10年前のきょう夕方、61歳になったばかりのジャイアント馬場は、「生涯現役」のまま、帰らぬ人となった。209センチという日本人離れした体格と存在感でファンをわかせたプロレスラーだったが、彼の人柄も多くの人を魅了した。僚紙サンケイスポーツは死去を伝える紙面で「忘れない…世界一優しい笑顔」と追悼している。
いくつかの著作を読むと、彼はショーとしてではなく、スポーツとしてのプロレスを育(はぐく)み、ファンに愛してもらうよう努力していたことがわかる。だから、社長を務めたプロレス団体では流血戦や場外乱闘、派手なうたい文句などの“演出”を否定し、選手には「タニマチではなく、ファンこそがスポンサーだ。だから、ファンを大事にし、信頼を裏切らない試合をみせよう」と呼びかけた。
背信を多く経験しながらも、筋を通す性格をまげることなく、体躯(たいく)と同様、心も大きく、広くもつことができた人でもあった。その秘訣(ひけつ)について確か、こんな内容のことを言っていたと記憶する。
「ぼくは人を信用するときは80%にとどめることにしています。だってどんな人にも他人にはわからない20%の事情があるものですから」
1999年1月31日。
馬場さんが亡くなってから、はや10年。
亡くなられたのは1月31日だったが、その訃報は関係者以外極秘とされ、明るみに出たのは、翌2月1日のことだった。
あの日のことは良く覚えている。
2月1日、仕事から帰ってきて、たまたま午後7時に部屋のテレビを付けたのが、ケーブルテレビで流れていた「NNN24」で、三沢やジャンボ鶴田など、全日本プロレスの面々が沈痛な面持ちで視線を落とす中、百田光雄が記者会見文を読み上げ、馬場さんの死が、公式の第一報として生中継された。
まさか、そんなバカな…。
年頭の「新春ジャイアントシリーズ」を欠場していて、前年1998年末の「世界最強タッグ決定リーグ戦」も、2試合を欠場していた馬場さん。
しかし、12・4千葉大会で復帰し、テレビ録画があった最終戦の翌日の日本武道館大会には元気な姿を見せていたから、そんな体調であるとは思いもつかなかったというのが本心だ。
それなのに…。
だって、千葉大会も武道館大会も、この目でちゃんとファイトを見届けたのだから…。
まさか、馬場さんの生涯ラストファイトのオーラス2戦を、この目で見届けることになるとは、想像だにできなかったのだ。
千葉大会で、売店にどっかり座る馬場さんに、買ったタオルに貰ったサインは、今でも大切に家の押し入れに眠っている。
サインを入れて貰ったものはどれも家宝なのは言うまでもないけれど、家にある数少ないサイン入りグッズの数々も、馬場さんのサイン入りタオルは、他のサイン入りグッズとは似て非なる意味合いを持つことになってしまった。
即座に職場の仲間だったときめき下メロン、氏(っつーかハンドルネーム変わりすぎww)に電話しつつ、家族の前で突っ伏しながら慟哭したあの日のことは、昨日のように覚えている。
あれから10年。
当時から徐々に衰退の兆しを見せ始めていたプロレス界も、よもやここまで衰退どころか灯火が消える寸前まで追い込まれる状況になるとまでは、さすがに予想し得なかったが、これもおそらくは、長らく「馬場・猪木体制」が存在したことで保たれていた均衡が、馬場さんの死去によってバランスが崩れ、一挙に無秩序状態になったことと、決して無関係ではないだろう。
このバランスとて、馬場さんとは直接関わりがない、どうしようもない事例も散見されるのだけれど、猪木はその後総合格闘技路線に走り、好むと好まざるとに関わらず、プロレス界も総合格闘技路線の波に呑まれては次々と撃破され、その愚かしさとあまりにも絶大なリスクにプロレス団体も気がついたか、2000年代前半にはほぼ総合格闘技路線とは決別した形にはなったが、その間にミスター高橋のいわゆる「暴露本」、或いはアメリカで隆盛を極めたWWEのエンターテイメントプロレスの波と、思いもよらぬ大波と時代の流れが、さらなる大津波となってプロレス界をおそっている間に、プロレス界はいつしかマニア路線となっていった。
マニアに迎合しているか否かはおいらには判断しかねるが、まずブックありき、ストーリーありきで、本来の闘争心を忘れてしまった試合内容などは、馬場さんとは直接の関係はないのでここでは問わないが、一つだけ。
最近の男女問わず、特に若い女子レスラーがそうなのだが、アントニオ猪木の「逆エビ固めをかけられて痛いなら、顔をマットに埋めずに、リングサイド5列目の客に痛いということを伝えろ」という言葉を、果たしてどれほどのレスラーが理解できるというのか。そんなに痛みを顔に出すのに恥じらいを感じるというなら、リングに上がるなと言いたい。プロレス技の痛みに恥じらいなんてあるのかと。痛みで心の奥底にある闘争心に火をつけてナンボだろと。
あれから10年。
プロレス界は進化したかと問われたら、必ずしもそうであるとは答えられまい。
テレビでは、新日のジュニアヘビーの試合で、実況アナウンサーがこんな台詞を叫んでいた。
「まるで25年前の、あのタイガーマスク対ダイナマイト・キッドの試合を見ているかのようだ!!」
このアナウンサーに、この台詞に対する思慮がどの程度あったのかは分からないが、この台詞を聞いて唖然としてしまった。
なにせ実況アナウンサーが、「25年前から試合内容は進化していませんよ」と認めてしまったようなものなのだから。結局今のプロレスは、レスラーもそうだけれど、25年前の試合を引き合いに出して例えなければならないほど、進化に乏しい何よりの裏付けになってしまっている。
事実、25年前のタイガーマスク対ダイナマイト・キッドの方が、今のプロレスより何千倍も面白い。
そうでなくても、今からおよそ15年、20年前、或いはそれ以前の昭和時代のプロレスの映像を見ていると、どうして当時の試合の方がより熱を入れて見てしまうのだろう?
技は正直今よりは華麗ではなく、内容も今よりもっと泥臭く、時代が遡れば遡るほど、大男の殴り合い、或いは女子同士の感情むき出しの殴り合いとしか例えられないのに、なぜ、その頃の試合の方が今より圧倒的に面白いのか。
この問いに答えられるプロレスラーが、果たして日本にどれほどいるというのか。
別においらは懐古主義ではない。
カネを払うからには、相応の内容を見せて貰いたいからである。
天国の馬場さんは、今のプロレスを、どのように見つめているのだろう…。
過ぎ去りし10年は、なんだか重いね…。
このたび、ブログを移転してアメーバで「鴎と黒鹿毛を愛して」というブログを開設いたしました。
また、ハンドルネームも「PORTER」に変えました。
今後ともよろしくお願いします。
今後ともどうぞよろしくお願い致します。
私、このたび「ぷよメイツblog」なるものを始めた者です。
さて、私もプロレスファンとして思うことがありまして筆(?)をとった次第です。
かなり前の話ですが、テレビ朝日の「アメトーーク」にて「昭和プロレス芸人特集」を放送した際
若い女性が圧倒的に多いスタジオの客席が最初は乗り気ではなかったのに初代タイガーマスクのVTRを
流した所、雨上がり決死隊を含めほぼ全員が食い入るように見たということがありました。
(やはり一番沸いたのはMSGでのタイガーvsキッドでしょうか)
興味を持たない一見さんの目を振り向かせることがどれ程難しいかというかということは
筆舌に尽くしがたいものがあります。これはプロレスに限らず野球(もちろんマリーンズ)にも
言えることでしょう。
しかし私は思います。マグニチュード岸和田の言葉を借りるのならば
「お前ら、見たらわかるやろ!」と。
…その一度が本当に難しいわけですが。
私としてはDRAGON GATEやDDTの飯伏幸太とケニー・オメガ、みちのくプロレスの義経や
アメリカTNAのXディビジョンなんかは一度見てみたら凄いとは思うのですがいかがでしょうか。
長文になってしまいました。
ちなみに私のポリシーは「ロッテファンはひねくれててナンボ」です。
それでは失礼いたします。
ご訪問&コメントありがとうございます。
今後とも愚にもつかぬ当ブログをどうぞよろしくお願い致しますm(_ _)m
仰るとおり、確かにドラゲーは単純に「凄い」と思います。
あれだけのアクロバティックな動きを見せられれば、「見れば分かる」のは確かにその通りですね。
ただ、これはあくまでごく個人的な意見なのですが、以前のエントリでも触れたことがあるのですが、ドラゲーはどうにも動きが速すぎて、バカな私の頭の中では理解できないんです(泣)。せめて丸藤、KENTAあたりで精一杯なんです。
「凄い」と思わせるのも難しいのですが、「凄くて面白い」と思わせるのは、もっと難しいことなんでしょうね。
最近のプロレスは「難しい」と思ってしまうクチなものですから…。
ブログを拝見させて頂きました。
あの団体のネタをあのネタで料理するとは、さすがですね(笑)。
1週間前ほどの1/23に私の名付けしてくれた母方の祖父が、
95歳で逝きました。
住んでいた旭川までお別れに行きました。
私のあの100人中、100人読めないであろう、
あの名前を付けて貰いました。
いろんな思いがあった祖父の死から…。
『馬場さん』の死はダブルパンチでした…。
オイラもサイン入りタオル有ります。
逸見政孝さんがガンで苦しんでいたころでした。
逸見さんが病床で闘っているからって、
トレードマークの葉巻をくわえず、ファンのサインに黙々と応じていて、泣けたな…。
だから、あの年4月の日本武道館のお別れ会、
リングに葉巻を供えました。
日本のプロレス界はあの頃1970~80年代は本当に楽しかったね。
馬場さん、猪木さんを越えられる逸材は現れるのかな…。
先ずは、テレビ局があのゴールデンタイムに放映しないと…。
でも、今でも馬場さんは泣けるねぇ…。
あの頃は、ファンもある程度そういった「からくり」があるのを理解していながらも、目の前にある戦いを心から楽しんでいた部分があったのですが、今となっては、本当の戦いを見たい人は格闘技にいっちゃいましたからねえ…。
いろいろとエピソードが出てくるということは、いい年の取り方をしているのかもしれませんね。
つい泣けてしまう時があるんですね。
生前の時は、さほど試合も見てて感じなかった事が表現出来ない感情に‥。
残念と言う言葉以上に、生きてさえいてくれてたらなぁってそんな気持ちです。常に猪木と比較されまた執拗な猪木の対戦要求、また馬場さん自身の体力的な衰えからくる引退云々‥それ以外にも幾多の試練や難題もありましたが、その全てを冷静に受け止めながら我が道(信ずる所)を最後までまっとうされた生き様はプロレスラ‐と言う以前に人間としても立派な素晴らしい生き方だったと思う。もはや理屈ではないんですよ。
素直にそう感じる。
長年に渡り計り知れぬマット界における実績.レスラ‐としての実力.さらに人間としての生き様‥カリスマ的であると同時に偉大なプロレスラ‐でした。
改めてご冥福をお祈りし申し上げます。
5年も前のエントリへのコメント、ありがとうございます。
時折日テレG+でやっている「プロレスクラシック」で馬場さんの試合を見ることがあるのですが、今でも色あせることはありませんねえ。
馬場さんが引退云々と言う話は、僕がプロレスを見始めた1981年ごろには、小学校の頃のクラスの友達もささやくほどでしたので、おそらくこの頃はいろいろ言われていたのでしょう、
それすらも受け切って、時には16文、時にはランニングネックブリーカードロップで蹴散らしたその姿に、「プロレスかくあるべき」たる意地を感じたのは、決して少なくないとおもいます。
あれから、もう16年も経つのですねえ…。