(『ブッダのことば』《Suttanipata-Khaggavisaana》「犀の角の経」35、68 中村元訳)より
あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況んや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。
最高の目的を達成するために努力策励し、こころが怯むことなく、行いに怠ることなく、堅固な活動をなし、体力と智力とを具え、犀の角のようにただ独り歩め。
(引用終)
日英米の仏教学者の多くが「犀の角」と訳しているようだし、仏教ファンはこの「独り歩む犀の角」のイメージが大好きなのだが…
〈Khaggavisaana〉は「犀の角」ではなく「犀」です。
というスマナサーラ長老の噛んで含めるような説法を聴いて、おれは納得した。
いったん納得すると「独り歩む犀の角」のイメージは滑稽だと気づいた。
訳者やファンの思い入れはわからないでもない気もするけど、「犀の角のように歩む」って表現はいかにも無理がある。
限りなく誤訳に近い「詩的」直訳ってことにしとこうか。
そんなことより…
《Suttanipata-Khaggavisaana》は
「我々、パーリ語で仏教を学ぶ人々は最後の最後に学んでみようかな~と挑戦する一番、難しいものです。怖くて触りたくもない経典です」
「私たちの頭で理解できる範囲の経典ではありません」
というスマナサーラ長老の警告を肝に銘じたい。
ちょっとした訳の思い違いより、こっちの思い違いのほうがはるかに深刻だ。
最高の目的とはなにを指すか、あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなくとは実際のところ、なにを指示しているか。
最初読んだ時、なんとなく気に入り「これは怖い」などと感じなかった。
意味内容を誤って把握していたのだ。
本を読んだくらいで命までとられまいと思うのは大間違いだ。
釈尊は蛇喩経で警告している。
蛇の尻尾を掴んだら噛まれて死ぬか、死ぬほどの苦痛に長く苛まれることになる。蛇を正しく掴まなかったからだ、
と。
(蛇喩経 片山一良訳)より
誤って把握されたそれらの法は、かれらに、長く不利となり、苦となります。それはなぜか。比丘たちよ、もろもろの法が誤って把握されているからです。 …
…
よく把握されたそれらの法は、かれらに、長く利益となり、楽となります。それはなぜか。比丘たちよ、もろもろの法がよく把握されているからです。
(引用終)
最後にブッダの明晰判明で真に革命的な教え。
外に見えるもの、聞こえるもの、匂うもの、味わうもの、触れるもの、考えるものは、
美しく、おいしく、喜ばしいものである。
これらはあらゆる形をとって(様々に変化し)心を混乱させる。
欲望の対象(色声香味触法)には恐ろしい災いがあることを見て、あらゆるものから離れるべきである。
(以上)
だれもかも
色声香味触法は、美しく、おいしく、喜ばしい
とのみ思うだけで
色声香味触法には、恐ろしい災いがある
という端的な事実に気づく人が、古今東西怖いほど極度に少ない。
(My Favorite Songs)