私たちは苦しみによって生かされています。
これはありのままの事実です。
だからといって
「わたしたちを生かしてくれてるから、苦しみはありがたい」
ではないのです。
こういうくだらないマゾヒストにならないでください。
苦しみはありがたいと言いたいなら、ブッダのように
「俺・俺のものは捏造だと気づかせてくれたから、苦しみはありがたい」
と正しく言ってください。言えるようになってください。
アルボムッレ・スマナサーラ長老「仏教の八不思議(パラーダ経)」より引用します。
……………………
お釈迦様が2550年以上も前に「大発見しました」と言って最初の説法で説いた教えは、四つの聖なる真理、つまり四聖諦でした。
四聖諦の第一番目は「生は苦である」という苦の真理です。
……………………
お釈迦様が発見された「四聖諦の苦」とは何でしょうか?
厳密に言いますと、私たちは「苦」があるから生きています。生命が生かされているエネルギーは「苦」なのです。たとえばお腹がすいたとき、もし「気持ちいい」と思ったら何も食べないでしょうし、食べなければ死んでしまいます。お腹がすいたら苦しい――だから食べるのです。「食べたい、食べたい! 」というすごいエネルギーが湧いてきて、食べざるをえない状態になります。このように「苦しみ」が「食べたい」というエネルギーを生じさせているのです。
そこで、何かを食べようとして、もしそれに味がなかったりすると、今度は「おもしろくない、いやだ、まずい……」などと不満を感じるでしょう。味がないものは、お腹がすいていてもあまり食べる気にはなりません。これもまた苦しみです。それで調理法や味付けをいろいろ変えて、苦しみをなんとか消そうとするのです。
立っていると苦しいから座り、座っていると苦しいから立ちます。息を吸ったら苦しいから吐き、吐いたら苦しいから吸います。
家にいる時なぜテレビを付けるかというと、退屈だからです。退屈は苦しみでしょう。部屋にいるとき、楽しくて楽しくてたまらなかったら、テレビは付けません。つまらないから、付けるのです。
では、なぜテレビを消すのでしょうか? 番組がおもしろくないか、つまらなくなったからです。ほら、苦しいでしょう。ですから、テレビのスイッチを入れるのも苦しみがあるからですし、消すのも苦しみがあるからなのです。
外出するときにもテレビを消しますが、これも同じ苦しみが原因なのです。付けっぱなしで出かけることは不安材料になります。おもしろい番組を見ているとしましょう。でも、外出する時間になります。そのとき、「遅刻したら大変!」というちょっとした恐怖感が起こるのです。番組自体はおもしろいのに、「遅刻する」という恐怖感が優先してしまい、テレビを消さなければならないのです。このように調べると、人のいかなる行動についても、それらは苦しみがやっているという事実が発見できるでしょう。
このように、私たちは苦しみによって生かされています。食べるのも、運動するのも、おしゃれをするのも、結婚するのも、人間関係を築こうと頑張るのも、なんでもかんでも苦しみがやらせているのです。その苦しみは天にあるのではなく、私たちの身体に具体的にあります。「楽しいからごはんを食べる」というのは間違いで、それはその人の観察能力が乏しいだけ。ちゃんと客観的に観察するなら、「空腹という苦しみがあるから食べる」ということが発見できるでしょう。
今も皆さんは手足を動かしたり、首を傾けたり、髪の毛を触ったり、いろいろ身体を動かしているでしょう。それは苦しいからです。なんとなく気持ちが落ち着かないか、気分が良くないか、しっかりしていないから、動くのです。どんな小さな動きも、苦しみがやらせているのです。
そこで、他宗教が「生命を生かしているのは絶対神だ」と証拠もない概念を語っているのにたいし、仏教は「苦」という誰でも具体的に立証できる事実を教えています。この事実を知るだけでも、私たちはどれほど楽になるでしょうか。どうか神様助けてくださいとお祈りすることはなくなりますし、お金があったら幸せになるからガツガツ儲けるぞといった、あの途轍もない欲望も苦しみも一発で消えて、いきなり心が穏やかになるのです。
ですから、お釈迦様の教えというのはこの上ない宝物です。唯一の宝物なのです。金銀財宝などは心を汚すもので、宝物ではありません。
お釈迦様が2550年以上も前に「大発見しました」と言って最初の説法で説いた教えは、四つの聖なる真理、つまり四聖諦でした。
四聖諦の第一番目は「生は苦である」という苦の真理です。
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お釈迦様が発見された「四聖諦の苦」とは何でしょうか?
厳密に言いますと、私たちは「苦」があるから生きています。生命が生かされているエネルギーは「苦」なのです。たとえばお腹がすいたとき、もし「気持ちいい」と思ったら何も食べないでしょうし、食べなければ死んでしまいます。お腹がすいたら苦しい――だから食べるのです。「食べたい、食べたい! 」というすごいエネルギーが湧いてきて、食べざるをえない状態になります。このように「苦しみ」が「食べたい」というエネルギーを生じさせているのです。
そこで、何かを食べようとして、もしそれに味がなかったりすると、今度は「おもしろくない、いやだ、まずい……」などと不満を感じるでしょう。味がないものは、お腹がすいていてもあまり食べる気にはなりません。これもまた苦しみです。それで調理法や味付けをいろいろ変えて、苦しみをなんとか消そうとするのです。
立っていると苦しいから座り、座っていると苦しいから立ちます。息を吸ったら苦しいから吐き、吐いたら苦しいから吸います。
家にいる時なぜテレビを付けるかというと、退屈だからです。退屈は苦しみでしょう。部屋にいるとき、楽しくて楽しくてたまらなかったら、テレビは付けません。つまらないから、付けるのです。
では、なぜテレビを消すのでしょうか? 番組がおもしろくないか、つまらなくなったからです。ほら、苦しいでしょう。ですから、テレビのスイッチを入れるのも苦しみがあるからですし、消すのも苦しみがあるからなのです。
外出するときにもテレビを消しますが、これも同じ苦しみが原因なのです。付けっぱなしで出かけることは不安材料になります。おもしろい番組を見ているとしましょう。でも、外出する時間になります。そのとき、「遅刻したら大変!」というちょっとした恐怖感が起こるのです。番組自体はおもしろいのに、「遅刻する」という恐怖感が優先してしまい、テレビを消さなければならないのです。このように調べると、人のいかなる行動についても、それらは苦しみがやっているという事実が発見できるでしょう。
このように、私たちは苦しみによって生かされています。食べるのも、運動するのも、おしゃれをするのも、結婚するのも、人間関係を築こうと頑張るのも、なんでもかんでも苦しみがやらせているのです。その苦しみは天にあるのではなく、私たちの身体に具体的にあります。「楽しいからごはんを食べる」というのは間違いで、それはその人の観察能力が乏しいだけ。ちゃんと客観的に観察するなら、「空腹という苦しみがあるから食べる」ということが発見できるでしょう。
今も皆さんは手足を動かしたり、首を傾けたり、髪の毛を触ったり、いろいろ身体を動かしているでしょう。それは苦しいからです。なんとなく気持ちが落ち着かないか、気分が良くないか、しっかりしていないから、動くのです。どんな小さな動きも、苦しみがやらせているのです。
そこで、他宗教が「生命を生かしているのは絶対神だ」と証拠もない概念を語っているのにたいし、仏教は「苦」という誰でも具体的に立証できる事実を教えています。この事実を知るだけでも、私たちはどれほど楽になるでしょうか。どうか神様助けてくださいとお祈りすることはなくなりますし、お金があったら幸せになるからガツガツ儲けるぞといった、あの途轍もない欲望も苦しみも一発で消えて、いきなり心が穏やかになるのです。
ですから、お釈迦様の教えというのはこの上ない宝物です。唯一の宝物なのです。金銀財宝などは心を汚すもので、宝物ではありません。
(引用終。強調は私です)
おれは苦聖諦が仏教の正門であり、世界に比類のない尊い宝物だとおもっているので、今まで繰り返し繰り返し記事にした。いささかクドイかなと心配しつつも。
理解が広まった気配は……一向にない。
まあ、それ最初からわかってはいた。無理もない。おれ自身が眼高手低でもがいてんだから…
(My Favorite Songs)
三橋美智也。
「怪傑ハリマオの歌」
「怪傑ハリマオの歌」
三橋美智也の澄んだ歌声は、忘れがたい。