哲学日記

自分の考えは臭い生ごみ、何の役にも立たない

思考妄想やめて生きることを解明 ヴィパッサナー瞑想の基礎 #shorts #スマナサーラ長老 #初期仏教 #jtba - YouTube


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生きるとはどういうことか

考えてそれに達するんじゃないんです。

 

 

スマナサーラ長老 根本仏教講義「生ごみより臭い妄想」

より引用させていただきます。

 

自分の考えというものは単なる臭い生ごみで、何の役にも立たないものなのです。思考も意見も見解も概念も知識も、どうということはありません。しかし私たちは、これらを生ごみだと思うどころか、逆に、宝物のように大事に抱え込んでいます。そしてそこから争いや対立など、あらゆる苦しみが生じているのです。

(引用終)

 

 

 

ヴィパッサナー冥想は「気づき」の実践だ。

これは世間の常識では実行できない。
まず思考はゴミと学ばなければ、なんのためにやるのかわからず、始める気さえ起こせない。

悟る前の人間の思考は、どんな立派そうにおもえてもすべて不浄なもので、なんの値打ちもないもの。

それを一言で表現すればゴミ。 

 

澤木興道老師の言葉より引用させていただきます)

立派なことを言う奴のことを「あれは粥飯しゅくはんの熱気だ」と言うことがある。栄養が足ってエラソウなことが言えるという意味じゃ。
(引用終)
※【粥飯】
粥は朝食、飯は昼食のこと。


粥飯の熱気と無縁の言動を完璧に成したのは、古今東西、釈尊唯一人だとおもう。
自分は神だとか、神の取次だとか言う人もいるが、人間のやることはピンキリ全て粥飯の熱気にすぎない。「思考はゴミ」も、そういう意味だとおもう。

 

サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。

ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること。

 
 
 
ところが、おれはこの事実に対する信念が全然足りない。
それで人生を空費してる。
歩きながらでも、車を運転しながらでもヴィパッサナー実践はできるが、ヴィパッサナー実践中の思考は無価値であるだけでなく有害だ。 
思考はゴミという確固たる信念がなければヴィパッサナー実践は徒労に帰す。
頭で理解し受け入れたつもりでも、骨身に染み付いたDNAレベルの古癖はそれを瞬時に打ち消してしまう。 
おれという人間は、歩いてる時も、車を運転してる時も、眠りに落ちつつあるときでさえも、気がつくと常になにかよそ事を考えてる。 
自分が生きている実感を得るために、常になにか思考することが必要だと強く思いこんでる。 自分の思考になんらかの価値があると盲目的に信じてる。 それは強迫神経症になって、日々を空費させ続けてる。
さあいよいよ死ぬというその時に起きる「ああ、しまった!」の悲惨な後悔を、おれは一度知ったはずなのに、未だにこのテイタラクから抜けられない。
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