哲学日記

証を覚前に獲る

道元禅師の言葉をもうひとつ。


知るべし、

行を迷中に立てて、

証を覚前(かくぜん)()ることを。

(永平初祖学道用心集「仏道は必ず行に依りて証入すべき事」)



 

 

行は迷いながら、それでもやり遂げるものである。

普通は、証を獲て、はじめて迷いは消えるが、それは迷中の行の力であろう。

実は、気づこうと気づくまいと、証は迷中の行としてはじめから現れている。


「迷中の行=証」である。

この事実に気づけば、「証を覚前に獲る」ことが可能になる。

ちなみに、この同じ事実が人格神宗教の文脈で発見されると、たとえば


安心しなさい。

あなたがすでに私を見出しているのでなかったら、あなたは私を探しはしない だろう。

(パスカル イエスの奥義)
 

と表現されることになるのだ、とおれはおもう。

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