哲学日記

ブッダは、あなた一人に語りかける。

 

ブッダは、あなた一人に語りかける。|スマナサーラ長老の初期仏教法話とQ&A(29 May 2022 刈谷市総合文化センター アイリス) - YouTube

 

 

0:21:20 

法話:ブッダはあなた一人に語りかけている

 

[感想]

 

スマナサーラ長老は以前の法話で

 

全世界を相手にして教えを説いても意味がありませんから、仏教は一人ひとり個人に向かって教えています。

 

と説かれてます。

 

から引用させていただきます。
私たちはあまりにも大きな勘違いをしています。世の中の理屈は、矛盾だらけなのです。 世界では昔から戦争が絶えず起こっていますし、多くの人たちはこのように考えているようです。「テロリストが爆弾を落としたらどうするのか。ほうっておけば我々が殺されてしまうのではないか。やっぱり殺される前に、相手を殺さなければならない」など、そういう気持ち悪い哲学ばかりが世の中にあります。殺しを、とにかく正当化しているのです。


 なぜ殺しを正当化するのかといいますと、それは「自分が生きるべきだ」という前提があるからです。しかし、どんな生命も、どんなに踏ん張っても、生き続けることはできません。誰でも最終的には必ず死ぬのです。
 このことを理解することが、真の智慧であり、真の理性です。生きることは当てになりません。死こそが確実なものなのです。「なんとしてでも生きるべきだ」と、
 
んなこと言っている場合ではないのです。
 
 もし、世界中のすべての人々が「自分は死ぬものである」ということを本当に理解したなら、世の中から罪や悪はすっかり消えてなくなるでしょう。だからといって全世界を相手にして教えを説いても意味がありませんから、仏教は一人ひとり個人に向かって教えています。「死ということを理解してみてください。そうすれば、あなたは悪い行為をすることがなくなるでしょうし、道から外れることもないでしょう。それで苦しみがなくなって、完全に守られますよ」と。


 これは、世の中にあるような偉ぶった思想ではありません。世界には「汝、生命を愛しなさい。誰かがあなたを殺そうとしても、あなたはその相手を殺してはならない。赦しなさい」などといった思想もありますが、これには少々傲慢な気持が含まれていますから、周りの人から見れば、なんかイヤな人だなあと思いたくもなります。

 そうではなく、お釈迦様がおっしゃったように、「生きているものは誰でも死にます。私も必ず死にますよ」と観察するなら、自分を殺そうとしている相手を殺す気にもなりませんし、傲慢になることもありません。見栄を張ることも、威張ることもなく、謙虚に、正しく生きていられるのです。



Idaṃ kho, bhikkhave, atthavasaṃ paṭicca ‘maraṇadhammomhi, maraṇaṃ anatīto’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā.



 お釈迦様は、人々が道から外れないようにと考えて、「私は死ぬものである。死を乗り越えていない」と観察してくださいと説かれました。
 ここで、お釈迦様のお考えがよくおわかりになると思います。途轍もない慈しみと深いあわれみをもって、私たちが間違った道に行かないように、正しい方向へと導いてくれているのです。道から外れないよう、そのお守りを教えてくれているのです。

[引用終。強調処理はわたしです]

 

 

 

 

んなこと言っている場合ではないのです。 

 この「気づき」このジャンプができない人には、話が見えないだろうな。


 真昼の煌煌たる太陽のような明々白の事実なのに、大多数の人々は、そのあまりの眩しさに目を本能的にそらせる。
死をあの世に引越すことだと共同幻想し、
生涯一瞬たりとも死の事実を直視しない。
 
 
人間が自分は死ぬ定めだと本当に認めれば、人間は自由になり世界は平和になる。

 

とブッダは明解に説いてる(ダンマパダ6

しかし、著名な知識人も含む大抵の人間は、自分が死ぬ定めだと認める恐怖から意気地なく逃げて「自分に死などありえない」という我有妄想に昔も今も取り憑かれてる。
だから自我の牢獄から自由になれず、世界中で殺し合いが止むことがない。
殺す者と殺される者が、同じひとつの愚かな妄想を共有して仲のいいこと。

これで、世界中の賢が、国連なんかで集まって、殺し合いだけ止めたいなんて言ってるんだけど、
 
 
 
 
 

    無理!

 

 

 

 (ブッダの真理のことばDh.6 中村 元 訳)

「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
――このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

(強調は私です)

 

 

0:36:31 参考:

バラモンよ、そして私は、無上の外科医たる等覚者である。

 

[感想]

 

 

 知っていますか? 人々は本当に価値あるものに価値がないと思い、価値がないものに価値があると思う。評価すべきものは評価せず、批判すべきものを賞賛する。意味あるものは無意味だと思い、無意味なものに意味があると思ってしがみつく。

 「私はそんなことはしていない」と思われるでしょうが、実はそうではありません。皆同じです。真理をありのままに知ることができるのは、悟りを開くときだけです。ありのままに物事を観て生活するのは、悟った方々です。悟りという認識革命を起こしていない限り、我々の認識はあべこべです。仏教用語で顛倒(vipallâsa)といいます。

 すべてのものは無常です。しかし我々は、すべてが変化しないもの(常)だと勘違いして、ものに執着したり、あらゆる計画を立てたり、期待、願望、切望したりします。期待がはずれたら悩み苦しみが生まれるのに、一向にめげない。それで苦しみが続くのです。体は不浄なものなのに、とてもきれいなものだと思って、限りなく苦労する。自分というものには実体がなく、あらゆる部品で一時的に組み立てられたものなのに、それも常に変わっていくのに、「自分という実体がある」と思い込んでいる。皆、死んでしまうのに、絶対認めない。死なないという前提で生きることは、やりきれないほど苦しいことなのに、ありのままの事実を認めない。

 このように認識があべこべだから、価値観もあべこべです。死にものぐるいで勉強して知識を得ても、金を儲けて財産を築いても、贅沢に溺れていても、死ぬときにはすべて捨てるのです。
生きているというプロセスは、持つ者にも持たざる者にも同じです。
持つ者には持つことで苦しみが生じ、持たざる者には期待で苦しみが生じます。
(引用終)
 
 
 
人間は全員煩悩中毒者だ。それも重症の。
人類は「俺・俺のもの」病に、何百万年も長患いしてる。
だから、いじめも戦争も決してなくならない。
 
スマナサーラ長老の素晴らしい法話から、
ちょっとずれるかもしれんが、
ぜひ言わせてほしいことがある。

 

ブッダはすべての人を救うことはせず

私がしなかったことは、しなかったとせよ

と教えた。

その理由についてだ。

 

 

 

 

 昔も今も
 
ひたすら生きんとする盲目意志

が、大多数の人々の崇めてやまない神だ。

不滅の魂や大我や唯一絶対神やらは
そのための道具にすぎない。

世界のすべての宗教もとっくにその道具に劣化変容し終わってる。

 
「生きんとする盲目意志」とは「けもの本能」のことで、
人間は大脳作用による理性の薄皮1枚でこの「けもの本能」をコーティングして、
見た目ピカピカの別物に見せてるにすぎない。

理性は、
盲目意志に誘惑され、説得され、
結局ほぼ常に屈服する。
 
この奴隷理性によって、
地獄に生まれても、
地獄に生まれて最高!
とおもうようにできてる。










 ほとんどの人は、五蘊の奴婢であり、
ただ日々を気楽に生きていければ満足だとする煩悩中毒者だ。


「生きんとする盲目の意志」
を全否定する無常・無我はもちろん、
死という、
見誤りようなき鮮鋭な事実さえも、
かれらは容認しない。

各々
自分は死んでも生き続ける
とおもってる。

 
 
真理を過重に押しつければ、
グレてファシズムに落ちてしまう。

最悪の結果をまねくだけだ。



だから、
ブッダはすべての人を救うことはせず

私がしなかったことは、しなかったとせよ

と教えたのだとおもう。

 

 

 

 

 

 
 
 
 

(My Favorite Songs)

★日本語訳★sos - Avicii ft. Aloe Blacc - YouTube

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