哲学日記

神議論の不毛な超越的結論


 数年前のある日、

キリスト教系の宣教者二人組で来訪(3回目)後ろにひかえてる年配の人は同じ町内に住んでるとのこと。より若いほうの人と玄関でしばし立ち話。

例によって、相手はタブレットの資料を見せながら、自分たちの終末の日がらみの話を信じさせようとし、おれが仏法の話で応じるので全くかみ合わない。前回渡された冊子「聖書は実際に何を教えていますか」の感想を訊かれ「ある立場から書かれてるんだなと。その意味では筋が通ってるが、共感はしない。恣意的解釈が多い。もとはといえば黙示録の曖昧な書き方が原因で、黙示録は100人読んで100通りの解釈になりそう」等々。

 

 

「死んだ家族に会いたくないか」と相手が訊いてきた。「死んだ人がどこかで生きてるって話、大嫌いなんですよ。あほらしくて聞いてられない」とおれがぶった切る。

相手が「どこかにその人が生きてるとは言わない。しかし神の記憶の中にいる」

おれが「それは言い方ですよ。そこにいるんですよ」

「仏教ではどう言いますか」

「死んだ者はもう手の届かないところにいったから、執着するなと言います」

「ブッダの教えを聞きたい」というので、質問に応じながらサティ、ドゥッカ等ブッダの教えを盛りだくさんにしゃべる。意外にすらすら言葉が出てくるので、気分がのってきて熱心に説明したが、おれが「たましい」は錯覚だと言ったとたん、相手のそれまでじわじわ上がってた拒否反応が突沸したのを感じて話を切り上げた。よくあることだが、しゃべった後の無駄骨感きつい。

 

かみ合わないまま話題が聖書に戻って、エバが善悪の知恵の実を食べた話になった。
「先に知恵の実を食べて賢くなったエバは、アダムに食べないほうが善いよと教えてあげられるはずなのに、食べるように唆した」

とおれ。
悪い天使(悪魔)に誘惑されたからだと相手が応える。

「神はいずれこの悪い天使を始末する。それならこの時さっさと始末しちゃえばよかった。
神は楽しんでるんじゃないか、この世界中の悲惨なドタバタドラマを」
とおれ。

神のわざは人間の考えよりはるかに先まで見据えた上の正しいものだという意味のことを相手が応え、これは神議論[注]のいつもの超越的結論なので、おれはこれ以上のやり取りは止める。

冊子「啓示の書」を渡される。「読みますし話も聞きますが、もう70過ぎで明日死んでもおかしくない歳なので、今からキリスト教に改宗はしないと思う」

相手は「でも、それはわかりませんから」と微笑んで応じ、帰っていった。

 

 


[注]
神議論かみぎろんです。神に関する議論。

神義論しんぎろんにあらず。…神義論でもべつにいいけど、一応これは神議論で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(My Favorite Songs) 

The Beatles - Live in Australia 1964 [Full Concert HD Remaster]


www.youtube.com

 

(過去記事増補編集再録)

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