われはすべてに打ち勝ち、すべてを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。
すべてを捨てて、愛欲は尽きたので、こころは解脱している。
みずからさとったのであって、誰を[師と]呼ぼうか。
(ブッダの真理のことば ダンマパダ353中村 元訳)
釈尊にできたことが、自分にできるか…
釈尊が同じ人間で、かつ釈尊が嘘つきでないなら、答えは当然ノーではない。
実際にやってみてやはりダメだったとなるとしても、可能性はあるだろう。
次に、これが最重要ポイントだが、
人間にやるやらないの選択の余地があるか
という問題だ。
おれはまったくないとおもう。
みんなあるに決まってるというが、
それは迷路をさまよう自由
にすぎない。
出口は一つしかないのだ。
人間には初めから、やるという一本道しか与えられていない。(理由を誰にも分かるように言葉だけで伝え難いが)これは、おれにとって明々白々な事実だ。
肝腎なことなので、みんなに分かってもらおうと努力はするけど、詰まるところ他の人が分からなくても、ほんとは気にならない。
この問題に関しては、世間的な頭の良悪は一切関係ないからね。おのおの首の上に例外なく専用の脳みそが載っている。あんたとおれ、条件は同じだよとおもっている。
ただ、いらんお世話かもしれんが、そのため説明をまだ本気でやれていないというおもいもある。
たとえ樹を切っても、もしも頑強な根を断たなければ、樹が再び成長するように、妄執(渇愛)の根源となる潜勢力をほろぼさないならば、この苦しみはくりかえし現われ出る。
(同338)
これに関して、釈尊は次のようにも言っている。
いかに欲の禍が甚しいものであることを知っても、欲以外の幸福に達しない間は、どうしてもこの欲につきまとわれる。これは余の経験であるが、余も亦、さとりを得るまでは、常に欲に追われていた。
(現代語仏教聖典 第14章1,2)
釈尊のことばは、釈尊自身が深く体験し完璧に知り抜いた末に発せられている。
鉄や木材や麻紐でつくられた枷を、思慮ある人々は堅固な縛とは呼ばない。
宝石や耳環・腕輪をやたらに欲しがること、妻や子にひかれること、──それが堅固な縛である、と思慮ある人々は呼ぶ。
それは低く垂れ、緩く見えるけれども、脱れ難い。
かれらはこれをさえも断ち切って、顧みること無く、欲楽をすてて、遍歴修行する。
(ブッダの真理のことば ダンマパダ345,346中村 元訳)
あれこれ考えて心が乱れ、愛欲がはげしくうずくのに、愛欲を淨らかだと見なす人には、愛執がますます増大する。
この人は実に束縛の絆を堅固たらしめる。
(同349)
あれこれの考えをしずめるのを楽しみ、つねに心にかけて、(身体などを)不浄であると観じて修する人は、実に悪魔の束縛の絆をとりのぞき、断ち切るであろう。
(同350)
当世「驚異の人体」とか賛美して、身体は不浄でないとみなす世俗的願望はピークに達している。
事実に反する。
自分を損なう質の悪い妄想でもある。
何の利益にもならない。
DVDを観る
「ウインドトーカーズ」
戦争映画は一切見ないという人の気持ちも分かる気がする。
たとえ戦争賛美と受け取られないよう細心の注意を払っても、
見る側の煩悩を考えると、
結局、戦争賛美映画になってしまう可能性があるからだ。
「聖なる嘘つき その名はジェイコフ」
これも戦争映画だが、個人的には、こっちの方がいいとおもう。
(My Favorite Songs)
「ちっちゃな時から」
懐かしい。今は浅川マキっていっても、知らない人のほうが多いだろうな。
この人の歌はみんなすばらしかった。