有名な禅語
放下著(捨ててしまえ)は、あなたが大切に抱きしめているものを捨てよという意味ではなく、実はただありのままをしっかり見よと言っているだけだ。
あなたは、ほんとになにも持ってない。
それに気づけよと。
ところで「放下著」の由来は?
以前記事にしました。
僧あり。趙州和尚に問う。
「一物不将来の時如何?」
(わたしはこだわりを一つも持っていない。
どうです?悟りの境地と認めますか?)
趙州曰く
「放下著!」
(捨ててしまえ!)
僧曰く
「一物不将来、箇の何をか放下せん?」
(すでに何も持っていない。
いったい何を捨てろというのか?)
趙州曰く
「恁麼ならば担取し去れ!」
(そんなに大事なら、背負って帰れ!)
このダメ押しの啖呵が秀逸だわ。
出来物の僧はここでハッと気づく。
以上を、日本の鉄眼禅師が解説して、
一物不将来と質問できるこの僧は、
すでに無念無心の高い境地に至っている。
しかし、(これで自分は悟ったぞ)と思って、趙州に問うている。
趙州はそれが病だと知って、このように答えたのだ。
この「放下著」を自分のものにできれば、初めて本当の悟りに至り、趙州と相まみえることができよう。
よくよく工夫して、この境地にまで至らなければならぬ。
…あやまって野狐の窟に入ってはいけない。
(鉄眼禅師仮名法語より該当部分抜書試訳)
また鉄眼和尚はこの質問した僧の心の状態を以下のように説明しています。非常に親切です。
「善悪の念もおこらず、無記の心にもならず、はれたる秋の空の如く、とぎたる鏡を台にのせたるが如く、心虚空にひとしくして、法界むねのうちにあるがごとくおぼえて、そのむねのすずしきこと、たとえていふべきやうもなくおぼゆる事あり。これははや坐禅を過半成就せるすがたなり。これを禅宗にては打成一片といひ、または一色辺といひ、大死底の人ともいひ、普賢の境界ともいふ。かようのことしばらくもあれば、初心の人ははやさとりて、釈迦、達摩にもひとしきかとおもへり。これ大なるあやまりなり。
これは、日の出前の薄暗い状態で、まだ太陽(真の悟り)は現れていない。ここで満足してしまうと暗い野狐の窟に入って出て来れなくなる。」
と鉄眼和尚は教えている。
目の前にある最後の深くて暗いクレバスを勇気出してジャンプで越えなければならない。
ここが、百尺竿頭進一歩。
放下著と百尺竿頭進一歩と莫妄想は、ただ見る角度を変えて、まったく同じことを描いたものだ。
FAQ
Question
「坐禅のことだけど、じっと座わってる必要なんてないんじゃないの。
普段の生活と別に修行があるわけじゃないでしょう」
Answer
「行住坐臥にかかわらずってね。座っとろうと立っとろうと関係ないと。しかし、それは悟った人の言うことであって、修行中の者がそんなこと言うとってはいかんのよ。
まず座って坐禅して。
行住坐臥にかかわない禅は、坐禅の先にしか現れないので」
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