哲学日記

仏道修行の正味の正味

 

 
プッタタート編訳「ブッダの言葉の宝庫」より
死に関して迂闊でない人
を要約して引用させていただきます。原文はリンクを参照してください。

 

 ある時、ブッダが比丘達に、大きな功徳があるマラナサティ(死隋念)を「どのように実践しているか」と訊ねました。

比丘A 「今日だけ、今晩だけの命かもしれないと思い修行に励みます」

比丘B 「昼の間しかない命かも知れないと思い修行に励みます」

比丘C 「托鉢して食べ終わるまでしか命がないかもしれないと思い修行に励みます」

比丘D 「ご飯を四、五口食べ終わるまでしか命がないかもしれないと思い修行に励みます」
……
比丘E 「あと一呼吸しか命がないかもしれないと思い修行に励みます」


ブッダは、比丘A、B、C、Dは「まだ不注意な人」「まだ漏の滅尽を遅らせるためにマラナサティをしている」と言い、比丘Eだけを「油断のない人」「本当に漏を滅すためにマラナサティをする人」と褒めました。
(要旨引用終)

 

大きな功徳があるマラナサティ(死について思うこと)の正しい実践とは

 

あと一呼吸しか命がないかもしれないと思い修行に励む

 
ことです。

 

 

これは、
無理にこう思えと
勧めてない。
 
微塵も誇張表現を含んでない。
 
命ははかないという事実を
そのまま言っているだけだ。
 
 

これについて、以前スマナサーラ長老は

(死随念は)命ははかないと、伝統的に念ずるだけなんです。

と教えてる。

蝋燭の灯り(命)は空気がないと燃えないが、シュッと空気が吹くと消えますよ。…

これ、科学的に客観的に因果法則観ているだけ。

(引用終)

 

 

動物本能のままグループ呆けし、事実を毛嫌いし続ければ自業自得果の不幸の中で生死するほかない。

まさにこれが無明と呼ばれる状態だ。

 

盲亀浮木の譬え」にある人間に生まれて、動物本能の木偶でくのままで生死すれば、一生悪業を積み続けたことになる。

そのように生まれてから死ぬまで

 

苦しみ作りに夢中の人

 

が、幸福になりたいといっても、どだい無理な話だ。

 
 
 
 
比丘E以外の態度
「今日だけ、今晩だけの命かもしれない」
「昼の間しかない命かも知れない」
「托鉢して食べ終わるまでの命かもしれない」
「ご飯を四、五口食べ終わるまでの命かもしれない」等
の隙間のある思いで修行に励んでも、全て注意不足であるため、いくら長くやっても真の結果は得られない。

 

 

 

 

 もう一度言う。
これは厳しいとか難しいとかいうことではなく、誇張でもなんでもなく、ただ事実は正確にこうだよと親切にブッダが教えてくれてる。
 
たとえば、カンポン・トーンブンヌムさんの気づきの実践は比丘Eのようで「死に関して迂闊でない人」だったので、はっきり結果を出すことができた。

比丘A、B、C、Dのように注意不足でいくら長くやっても何も結果は得られない。

死に気づく修行は、

頭燃を払う真剣さで行なわなければ、

のんびりだらだら怠けてるのとおなじだ。

 
やるならたとえ短くても、比丘Eのように、カンポンさんのように、少しも油断なくやる必要がある。


 現状、比丘Aの真似さえ難しい人が大多数なのは、苦聖諦の理解が足りない
からだ。だからまず、苦聖諦を学ぶ必要があるとおもう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(My Favorite Songs)
懐メロ 岡林信康
 
(過去記事統合編集再録)
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