仏弟子ソーナの努力はすさまじかった。
林中にあって、寝る間も惜しんで瞑想に励み、経行によって足の肉が破れ、ソーナの遊歩場は血にまみれ屠畜場のようになったと、記録されている。
(この経行とは、今日禅院で坐禅途中に行われる数分間の歩行の意味ではなく、「歩くヴィパッサナー実践」のことだろう。
遊歩場はソーナの足の出血で屠畜場のように血にまみれたというのだから、朝から晩まで四六時中歩くヴィパッサナーを続けていたかもしれない)
釈尊はソーナの意中を確かめてから、「琴糸のたとえ」を説いて、ソーナの度を越した修行を諌められた。
琴の糸は張りすぎず、緩みすぎず、緩急よろしきを得ているときに、たえなる響きを発する。
修行の努力も、昂ぶることなく、だらけることなく、中庸の努力を続け、道を修むべきである。
(現代語仏教聖典 釈尊編 9章2節「琴糸のたとえ」の要旨)
この話を自分の愚かな願望に合わせて無意識に曲解する人が非常に多い。
釈尊はたんにソーナのやりすぎを制止したのであって、けっして苦行を諫めたのではない。
なぜなら、
ソーナの骨身を惜しまぬ修行は、まったく苦行ではない
からだ。
「マハーシサヤドーと現代のヴィパッサナー瞑想法.pdf」
に次のように注意されている。
ある人は苦行という意味を釈尊の意向と反対に受け取り説法しています。彼らによると骨を惜しまず修行することを苦行といっています。それだと釈尊の意向と反対になってしまいます。釈尊は身体と命を惜しまずに定と智慧の修行を激しく努力すべきだと勧めています。…
…考えてみてください。八戒を守って いる、ある若い人は空腹でも正午過ぎ、夜に食べず に戒を守っているのは苦しくありませんか?ある沙 彌や若い比丘などが空腹でも夜食べずにいるのは苦 しくありませんか?苦しいのは明らかです。ですが 戒を満たす行為なので苦行とはいえません。 ある人たちは不殺生戒を守って我慢してい るのは苦しいことです。しかし、戒律を満たす行為 で苦行とはいえません。その様に苦しみに耐えて実 践することを釈尊が「現在苦しくとも将来良い結果 を与える行為である。」と讃えて大受法経(MN,46)に 説かれています。 …
…持戒、定、智慧を生じさせる実践ならば(anatthasamhita 無益ではなくatthasamhita 利益に関係する実践なので)避けるべき苦行ではない。実践すべき中道だとしっかりと覚えておいてください。持戒、定、智慧などが何も生じずにただ疲れるだけの行為は苦行と呼びます。
(以上Q&A17より引用終。強調は私です)
おれは、真っ先にソーナの一途な努力を見習いたい。「琴糸のたとえ」で諌められるほどになりたい。
琴糸はいったん張りすぎて、少し緩めるから中庸になる。
(My Favorite Songs)
「銀色の道」