日常生活で無常を観察 #shorts #スマナサーラ長老 #初期仏教 #jtba - YouTube
自分は掃除機かけてるわけじゃないやと。
自分は気づきの実践やってるんだと。
スマナサーラ長老は、サラッと言ってるけど、
人生のために気づきの実践があるんじゃなくて、気づきの実践のために人生があるんだという、発想の驚くべき逆回転がなされてるとおもう。
各一人一人、この独り決めができないと、修行はそもそも始まらない。
この逆回転こそ転法輪だとおもう。
ブッダが、一切皆苦から始まる四諦八正道を説いた初転法輪の中に、この逆回転の構造の原型がすでにある(初めてこの世に現れた)とおれはおもう。
この構造は今「人生のためのヴィパッサナー実践ではなく、ヴィパッサナー実践のための人生」と表現できる。
これを「ばかげている」と思ったら、永久に真実は分からないとおもう。
サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。
ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること。
いたづらにあかしくらして、やみなんこそかなしけれ。…
昨日もいたづらにくれぬ、今日もまたむなしくあけぬ。…
今いくたびかくらし、いくたびかあかさんとする。…
妻子眷属は家にあれどもともなはず、七珍萬寶はくらにみてれども益もなし。
ただ身にしたがふものは後悔のなみだなり。…
なんぢ仏法流布の世に生れて、なんぞ修行せずしていたづらにかえりきたるや…
(拾遺黒谷語燈録中 登山状より)