天理教の神様は、
「他人というはさらに無いぞや」と仰られます。
神様からすれば僕達はみんな可愛い我が子であり、兄弟なんですね。
その兄弟が助け合って暮らせるように神様は人間にある工夫をされました。
それは「自分自身の正体を見えにくくする」というものです。
人がちょっと太ったとか、服が似合わないとか、この人にはこんな才能があるとかは良く分かるのに、
自分の事になると、自分には果たしてどんな才能があるのか、
どんな姿で周りに映ってるのか、どんな所を認められてるのか、
分かりにくいようになってるんですね。
それで自分の事がわからないから、周りの人を見て学ぼうとする、
周りの人で素晴らしい人がいれば、その素敵な部分を真似してみたり、
またこんな言葉を使ったら人に嫌な思いをさせてしまうな、と反面教師にしたり、
周りの人の良いところ悪いところを見ながら自分の人格を磨いていくようになってるんですね。
そして必ず自分の人生の中で出会う人は自分と縁がある人であり、
自分の正体を写す鏡の役割を担ってくれてるんですね。
なので、仕事場などにどれだけ嫌な人がいたとしても、
この人の嫌な部分は自分がその一部分のかけらを持ってるから写してもらってるだけだと思って、
自分自身を見つめ直しさらにはその嫌な相手を許せたり責める心を変えていけたなら、
一つステージをクリアできたみたいに、その人の今までの嫌な部分が全く腹が立たなくなったり、
別人のようにその人自体がいい人に不思議なくらい変わってしまうという現象が起こるんですね。
もし、仕事場や学校で嫌な相手がいれば、
「過去に自分もその人と同じような事を人にしていないか」
「自分にもそういう嫌な部分があるのではないか」
と思いながら、人を変えようとせず、自分の中に寛容さを持つ努力をしていくところに、
神様の深い思惑があると信じて行動していくことが大切なんですね。
これからは周りの人を見ながら、人は鏡であり、他人は自分自身なんだと思って過ごし、
新しい景色を楽しみながらお互い過ごしていけたらなと思います😊
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