今から8年位前に長髪にして一度パーマを掛けて居ましたが。あの頃は認知症の母と一緒に暮らして居た為、母も笹塚の「カズ」と云う美容院で一緒にやって貰って居たのですが。いやぁ、、認知症だから美容師に色々とメチャクチャな話をして居て、困って仕舞いました。笹塚の前は新宿の京王デパートの中にある美容院でやはり母を連れて行ってやって貰って居ましたが、ある時、私に、男の美容師が付いて、やって貰って居たら、「最近、インフルエンザで人が来るでしょう。」とか、、何を云って居るのか良く解らないので「そうですか?」と云ったら、「お医者さんは忙しいのではないですか?」と云われて。「私は医者では無いですよ?」と云ったら、「だってお母さんが、お客さんが来る度に息子は医者だと云って居ましたよ!?」と云うので、「それは弟の方ですよ!」と云ったら、その男の美容師が、女の美容師を怒鳴り付けて居て。その日は料金が半額になって、要するに「医者だってよ!ふざけやがって!!」と云う事で、料金を倍に釣り上げて、吹っ掛けて居た見たいでして.....。
それで母が終わって帰りに、女の美容師と二人で送り出しに来て、私に「これも美容師としての仕事の一環ですから」とか云って居て。どうやら、母にも皮肉を云ったらしい。それで次に行って見たら、受付がその男の美容師はクビになりましたとか、云って居た。それから、もうその美容室は行くのを辞めて、どうしようかと思って居ましたが、笹塚の「カズ」と云う美容院を見つけてそこに行く様にしたのだけれども、料金がそれまでの半額でした。しかし、そこも母がどうしようもない事を言い出したので行か無くなって、それから母は施設送りになり、私はアパマンの近くの美容室でやって貰って居ましたが。「カズ」よりも値段が安いし、ほぼ男性の客しか行かない美容室だから。独りになって此処4年程、そこの店に通って居ましたが。そこも嫌がらせを言う様になって来たので。今は越した事もあり越して来た側の美容室に行って居ますよ。前の実家の側には床屋は近くにありましたが、前に行ったら、ジジイの理髪師が、「お客さん、あんた自由業だろう。髪長くしていて、サラリーマンじゃないだろう?」「いけないですか?」と云ったら「あんた、会社勤めした事あるんかい!」「ああ、会社勤めは27年程してますが?」そう云ったら今度は、「あんた高校はどこ出たんだい。」「一応大卒ですが。」と云ったら要約聞いて来なくなった。まあ、美容師の方が良いですね。余計な事は聞きませんから。
美容院に行くまでは、近所の床屋やら、隣町の床屋やらに通って居ましたが、床屋は偏屈が多くてダメですね。私は若い頃から髪を長髪にして居るので、まあ、床屋は髪を切るのが仕事だから、でもね、、バリカンで剃る訳には行かないし、何か最近の若者のヘアスタイルはわざと部分的に剃りを入れてる様だけど。私は往年のミュージシャンやら芸術家がやって居た、長髪のスタイルなので、まあ、良いでは無いですか。歳など関係ないですよ。最近の若い人たちは(あくまで20代から30代前半と考えて居ますが)音楽とか芸術を良く知って居る人はそうではないのですが。例えばロックをやって居るのは若者だけだと思い込んで居る。まあ、普通の人も音楽をやって居るのは若者という認識が高い。今は、50代、60代でもロックをやって居ますよ。私は小学校3年生からロックを聴き始めて、それ以来ずっと聴いて居ます。反対に若者が今の流行りの音楽しか聴いて居なくて、本当に良かった頃のロックを知りません。今の流行りのロックはポップスですよね。ヒップホップとか言って居るけど。何か違いますね。要するにロックの要になっているブルースを聴いて居ないので、フォークに成っている。大音響でギターを弾いても、何だか違いますね。ブルースとは要になるもので、何もブルースロックをやれと言って居るのではないけど。何とも、言い様がないです。まあ、ジジイの戯言だと思って下さい。しかし、私はラップとかも聴きますよ。ロック談議は此れ位で。。
私が好きで応援している青木志貴ちゃん。。。。彼女は声優で、モデルで、舞台俳優で、YouTuberです。。。
強い女の顔面作り。
〜〜「懐かし洋画館」〜〜
さて映画です。今回はサム・ペキンパーの「ガルシアの首」です。古いですが、バイオレンス映画の金字塔です。バイオレンスの巨匠サム・ペキンパーが生涯愛したメキシコを舞台に血と暴力とそして熱い男の友情を描いたバイオレンス・アクション映画の大傑作です。主演はペキンパー映画の常連ウォレン・オーツ。音楽もペキンパーとの名コンビのジェリー・フィールディング。
ストーリーはメキシコの大地主の娘を妊娠させた男、プレイボーイのガルシアを殺すため100万ドルの賞金が出され、ガルシアの首をめぐって、殺し屋たちがメキシコに集まり、ガルシアの消息を探しているなか、ひょんなことからこの件に関わることになった安酒場の歌い手のベニー(オーツ)が人生最後のチャンスとばかり、殺し屋たちを出し抜いて、ガルシアの首を手に入れるべく、血みどろの殺し合いに巻き込まれて行く。
ペキンパーと言えば、そのバイオレンス描写と共に男たちの友情を描く事では右に出るものはなく、本作では主人公のベニーと死んで生首となってバスケットケースに入れられたガルシアとの友情(当然相手は死人なので、あくまでベニーの独り言なのだが)がメインで、車を走らせ、助手席に乗せたガルシアに話し掛けて居るうちに次第にガルシアと言う男に共感を抱いて行くと言う奇妙な展開は他の映画に見られないような一見アブノーマルな表現だが、それを真正面から熱い男の友情として描いて居るペキンパーの手腕は見事と言うほかなく、このペキンパーの意図が理解出来なければ、最後のベニーの破滅的行動も理解出来ず、この事がこの映画の評価の別れ処だろう。
映画の原題は「アルフレッド・ガルシアの首を持って来い」と言うものである。女誑しの首を巡って血みどろの争いが繰り広げられると言う、見るからに一般受けしない題材のため、本国アメリカでは興行的に惨敗した。だがその一方で、監督であるサム・ペキンパー自ら「俺が作りあげた映画」と豪語するほど監督の嗜好が色濃く現れた作品でもあり、ペキンパーの代表作に推す声も少なくない。
ペキンパーの十八番とも言えるハイスピードカメラで撮影されたスローモーションや、激しい銃撃戦などの暴力描写が作中でふんだんに用いられて居る。この映画は、『戦争のはらわた』と並んでペキンパー自身が最後まで編集権を握る事が出来た数少ない作品の一つである。ペキンパーは巧みな編集によってキレのよい銃撃戦を演出して居る。ペキンパーが自分のやりたいように作ったこの映画は、もっともペキンパーらしい作品であるとも評される。下は予告編です。
Trailer: Bring Me the Head of Alfredo Garcia - 1974
1980年代に「ゴリラ」というアーノルド・シュワルツネッガー主演、監督ジョン・アービンのバイオレンス・アクション映画だと云う触れ込みで、公開された映画を観に行ったのですが。何だかな、全然バイオレンス映画の事を解って作って居ないじゃないかと・・・・。お気軽なマッチョな男がローリング・ストーンズの「サテスファクション」を聴きながら悪党を皆殺しにするだけの映画、「ガルシアの首」の男たちの友情も、男の哀愁も虐げられた女性も、子供の描写も無し。スーパーヒーローが悪人をただ殺すだけの映画。何時からアメリカ映画がダメになって仕舞ったのかと、御都合主義で人を殺すだけの映画にうんざりした事がありました。私は石井 隆監督が日本のサム・ペキンパーじゃないかと思って居ますが。やはり映画は人間の業を描いてなければいけないと思って居ます。
1980年代の傾向として、スーパーヒーローが悪人をただ殺すだけの映画が世の中に蔓延り、その結果、それに影響を受けた犯罪が起こり。良識のあるアクション映画オタクは怒りました。この傾向は最近でも見られます。ハリウッド映画はダメになりましたね。幸いにも香港からジョン・ウーと云うバイオレンス・ノワールを作らせたら最高の映画を作る監督も出てきましたが、ハリウッドに取る込む事で、才能を台無しにして仕舞いました。アメリカ映画として作らされた彼の映画には幻滅しました。最近の映画は特にハリウッド映画は見ない事にして居ます。人間の業をきちんと描いて無い映画に興味はありません。サム・ペキンパーは良かった。もう、死んで仕舞いましたが。彼の作った映画は燦然と映画史にその足跡を刻んで居ます。どうか、このblogで「ガルシアの首」の事を知ったら映画を観て下さい。男意気に泣けると思いますから。よろしく。。。
下は「ガルシアの首」のDVDです。
June Yamagishi & Shinji Shiotsugu
GUITAR STORIES-情熱のスーパーギタリスト列伝- #2鮎川誠 編 20150601
ブレイクダウン/上田正樹とサウス・トゥ・サウス
塩次伸二 妹尾隆一郎 永井ホトケ隆 2008.1.18 京都Mojo West
ブルースパラダイス 永井ホトケ隆 堺ブルースフェス2018アンコール
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今日の夕食。ラーメンライスに餃子です。。。
ーひとりぼっちー
ひとりぼっちって何。
可愛い三つの女の子が言う。
そっとその子を抱き上げて
きっと僕みたいさ
それでもまた聞いた
ひとりぼっちって何
わかることなら教えてあげたい
あの山のそのまた向こうの山に
ひとりぼっちは立って居る。
春も夏も秋も冬も
風に吹かれて立って居る。
四季の風に乗って
時々聞こえる
聞かせてあげよう
ひとりぼっちのその詩を。
erica-「ひとりぼっちの涙」リリック(ハーフver.)
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人は人との繋がりで生きて居る。人は一人では生きられない。気が付いて居なくても生きて居ると言う事は誰かに支えて貰って居る事だ。私は人との繋がりを大切にしたいです。昨日、ポストにアフリカで飢えに苦しむ子供達への寄付を集う封筒が入って居た。それを見て涙が溢れた。「ごめんね、おじさんはお金が無いんだよ。お金持ちなら幾らでも寄付できるけど・・・。」無記名で1千円ほどを封筒に入れて送った。
働いて居たある年の冬、道路工事の警備員を見かけた。恐らく季節労働者であろう。黙々と仕事をして居た。それを見たゆきかずが言った。「大の男があんな仕事をするなんて、ああ、男のする仕事じゃねえよなぁ〜〜警備員の交通整理なんてよ!男の恥だな!!」私は激怒した。農家の人たちが冬場、畑仕事が出来ないので東京に出稼ぎに来て居るのだ。それをなんだ!!貴様はどれだけ立派な人間だ。私はゆきかずを睨んだ。ゆきかずはバカだ。当時ゆきかずは40代。私は30代だった。ゆきかずはバー通いが好きだ。銀座のバーまで飲みに行く。そしてカラオケで歌を歌うのだ。何時も好きな、ド演歌を歌う。バーのマダムに「ゆきかずさん、素敵!!渋い声だわ〜」と言われ「そうかい。そんなにいいですか?」「ええ、その声が翻ってカスれる処がいいわ〜」と言われたと私に自慢する。私は内心、バカにしながらもその話を聞いて居た。私は面と向かってはバカにはしない。話は変わるが毎回主治医が私の着るものを褒めるのだが、前に、冬場にチェック柄のコートを着て行ったら。「いいね。英国紳士みたいだね」と言われて。英国のトラッド・ファッションを意識してそのコートを買ったので、嬉しくなり、訪問看護師についそう言われたと言ったら。
「他の服着て行ってもまた言われるよ」と言われてげんなりした事がある。その子はお世辞が言えないのだ。思いやりが無い。よく若い頃のバンドのテープを掛けると、ある訪問看護師の女の子が「〇〇さん、若い頃どれだけ長髪にしていたの?腰まで?」と聞いた事がある。私は「そんな長髪にはして居なかったよ。肩までだよ。」と言うと「な〜〜んだ。腰まででは無いのか」と言うのだ。私は内心。「この子はなぁ...。」とは思うが、それで怒る気は無い。私の歳でそんな事でいちいち感に触って居たら、その方がおかしい。私は余り言わないが。人はすぐに自分の感情を露わにする。大抵の人が嬉しく成った時。それを言葉に出して言うと他人は「反感」を持ってその言葉を遮る。そして罵倒する。以前、姪っ子のCDを知り合いに上げたら、「最近は上手くも無いのに、誰でもCD出せていいわよねぇ!!」と言われたり露骨に嫌な顔をされた。それ以来、私はもう人を信用しては居ない。勝手、私が付き合って居た女の子はそんな事はなかった。それは人間が出来て居たからだ。彼女は20歳そこそこで30歳程の配慮が出来る子だった。私はそこに惚れて居た。最近の若いのはと言いたそうだと思うだろうけど・・・そんな事も言いたくは無い。まあ、此間だけども、年配の訪問看護師にバンドでのテープを聴かせたら、「キャー、素敵」と言われた事がある。この場合配慮が行き過ぎて居る(笑)。丸で私が丸バカの様では無いか?私は最近に成ってよく話す様に成った。前は黙って居た。訪看たちはとっつき悪かった様だった。女性は感情の生き物だ。面白く無いと露骨に面白く無い顔をする。
ザ・エン歌
私は高校生の時、大学生かと聞かれ、大学で30歳ぐらいかと聞かれた。大人びて見えたのだろう。よく高校の頃、渋谷などの盛り場を彷徨くと、「旦那さん、いい子居るよ。ロンドンだよ!!」とキャバレーの連れ込みに呼び止められた。新宿では売春婦に声を掛けられた。私はどれにも引っかからなかった。しかし相手は言って来るのだが、よく私を見ると、「何だか、中年に見えたけど、まだ若いのね」と言って去って行った。中学の頃、不良と話をして居たら。そいつの仲間がやって来て。私に敬語で「なんかこいつが言ったんですか?」と聞いて来た事があった。私が敵意を持って居ない事が解って、その不良がこいつは同級生だと言うと「ああ、びっくりした大学生から喧嘩売られて居るのかと思ったよ」と言って居た。それほど落ちついて居たのです。それが中学の担任の体育の教師に、悪く取られた。「なんだてめえは、とっちゃん坊やか。ええ!!」と目を付けられて。体育の授業で、剣道に成って、先生と組むと、訳もなく頭を叩かれ、そしてつきを喉ぼとけに入れられた。要するに気に喰わなかったのだ。私は教師は嫌いだ、特に体育の教師は大嫌いだ。彼らは根性が腐って居る。私はいいカモに見えたのだろう。高校の時の担任も体育の教師だったが、私に裏口入学を持ち掛けて来た。前に書いたので省くが。私の高校は甲子園に出た。野球部のコーチであった担任の体育の教師はマスコミに追われた。しかしその裏で私に日大の藝術学部への裏口入学を斡旋しようとしたのだ。
私は断ったが。日大は裏口入学が多くて評判の大学だ。大抵ブローカーは教師だ。姉が大学に進学する時も有坂というブローカーが姉が入学試験の成績をちゃんと取って居たのに。成績がギリギリの線だから300万よこせと言って来たが。母が嘘だと見破った。そして証拠を突き付けるとその教師はタジタジになって謝った。大学入試にまつわるブローカーは沢山居る。殆どが教師だ。私は大学受験の時に予備校に通った。すると予備校で教えて居る大学の助教授が「この中で、日大の入試試験の回答が欲しいものは、職員室まで来なさい。私は来年の入試試験の回答を用意出来るから・・・」と言うのだ。大っぴらに言って居た。私はそれを聞いて、予備校に行くのを辞めた。そして自分で参考書を買い込んで、勉強をして大学を受けた。大学は受かったが。しんどかった。
大学の入学式に行くと。法律の助教授が新入生に激励の言葉を掛けて居た。その助教授は私の恩師と成った。私がストーカーに困らせられて居た時も、陰日向になりずっと私を見て居てくれた。私が大学内の廊下でその助教授とすれ違うとその助教授の方から「こんにちは」と挨拶をしてくれた。反対に職員は無礼な奴が居た。私が行くと「ばかやろー」と言うのだ。気に喰わないと言うのだ。私は大学時代、長髪にしてレイバンのサングラスを掛けて居たのだが、それが気に食わなかったのだろう。若い職員だった。ある人に聞いたが夜間高校を出て大学の職員をして居ると言って居たそうだ。歳がほぼ同じなのだ。その職員は、私の成績表を違った生徒に渡し、私にその生徒の成績表を渡すのだ。私は悪いがその生徒の可が並んだ成績表をすぐにその生徒に渡し、私の成績表を返して貰うと言う事が続いてあった。
その学生は自分の成績に優があるので不思議そうな顔をして居たが、それを見てその学生課の職員は、私を蔑んで見て居たので。私は或る日。その職員に「何時も成績表が間違って居ますよ。」と言って、取り替えて見せたら。ビックリして、「長髪にして遊んで居るのに勉強だけはして居るのかい!!」と皮肉を言う。私は又かと思い。苦い笑みを浮かべた。。。大学時代は殆どバンド活動をして居た。しかし成績は取って居た。私が金融論の試験で、なかなか勉強した事を思い出せなくて、苦労したが、思い出して25分ぐらいで答案用紙に書き込んで試験官の教授の処へ持って行くと、「よし!!立派な答案です!!」と言ってくれた。教授は見て居るのだ。私がきちんと講義を受けて勉強して居るのを。私は大学では友人は余り作らなかった。ある時に3人の学生が私に声を掛けて来た。私は見るからに遊び人風な学生を見てウンザリした。しかし彼らは私に声を掛けて来た。「お前よう。髪長いじゃん。」「ああ、長くして居るからな」「何で!!」「バンドやって居るから・・・」「へえ〜〜。」
一人は極真空手をやって居ると言う。そいつらを見て、中学のあの3人トリオを思い出して、(解らない人、過去blogの記事をよろしく)席を変えたりして居たが、彼らはいつも3人組で私の席の近くに座る。そして講義中、一人の男が「昨日なんか女の乳首がさあ〜乳頭が立っちゃってさあ〜」とエロ話を始める。また中学の再来だ。私は極力避けた。そうしたら、ある学生が隣に座り、「あんた一人?。私は宗教団体の会員です。私は友達を作りにこの大学に入学したのです。」と言うのだ。そして「あなたは、まだ我が宗教団体の偉大さを知らない。私の友達に成って下さい」と言っては毎日私の隣に座り、如何に創立者は偉大か。我が宗教団体は如何に素晴らしいか」と言う。私は「悪いけど、俺は勉強しに大学に来て居るので。宗教の話なら他でやってくれ!!」と言うのだが講義中、話して、煩くて講義に集中出来ない。そして喫茶店に入ろうと言って一緒に入っては、「私は高校時代にグレて居てバイク事故を起こして、足を骨折したのです。そんな時に我が宗教団体員が私をおぶってくれたのです。私は号泣しました。それ以来その宗教団体は私の命になったのです」と話し出したら止まらない。
WOOD 金子マリ、ジャニス・ジョプリンを歌う 1
私は学生課の相談室に行って相談した。そうしたら学生課の職員が「君。サングラスを掛けて居るから寄って来るんじゃないの?髪も長いし、相談されてもねぇ・・・他の友達と一緒に居ればいいじゃないの」と言う。「私は何だ〜!!。」と思ったが所詮、職員なのだと思い。授業を受けて居ると今度はあの3人組の一人の極真空手の道場に行って居る奴が来て、私が講義の内容を書いて居るノートをさっと取り上げると持って行って仕舞い返さない。私は苦笑して、「返せよ」と言うと「俺は兄弟子から可愛がられて居るんだ。」と言って、「俺のこの空手で毎日稽古をして鍛えて居る手を見りゃあ、大抵のやつは震え上がるぜ!!」と言う。また大概のバカだ。キリが無い。私は「とにかくノートを返せ」と言うとそいつは「俺はリック・ウエイクマンの「アーサー王と3人の妻たち」のレコードを売店で買って来たぜ!!」と言う。私は呆れて「いいから、ノートを返せ」と言うと「フン!!チビのくせして一丁前に文句つけてるんじゃねえよ」と言う。私はそのノートはくれてやり、別のノートに書き始めた。しかしそれも取られたので、私は考えた。そして、自分しか解らない速記で書き込んだ。しかし、それもそいつは持って行った。
しかし、私はまた別のノートに私しか解らない速記で記入して、ブルース喫茶で「別のノートに普通の文に書き換えた」マスターが「一体何書いてるの?」とノートを見て、「なんだこっちのノート、アラビア語なのかい?」と聞いてきたので「オレ流の〇〇速記です」と言ったら。変な顔をして居たけど。とにかく、それで通常の文のノートを隠して、何時も通り講義のノートは速記で書いて居た。また、万が一の事を思って。ウォークマンに講義の内容を録音しても居た。準備は整って居た。相変わらず極真空手の男はノートを持って行ったが。試験が迫ったある日、「〇〇!!ノート返す。なんて書いてあるのか解らないよ。なんて書いてあるのか教えてくれ !!」と言って来た。俺は言った「今までノートを取って行って読んでなかったのか?」私は、バカはどうしようも無いと思った。無論なんて書いて居るかとは教えなかった。そいつは試験はダメだった。そして留年をした。そして、大学に着いて行けずに退学した。しかし宗教団体の会員の男はしつこく側に来て、演説を打って来る。私は哲学の教授に話しを聞いて貰う事にした。すると他の3人の片割れが、学生課に行く私を見て、哲学の教授と話して居るのを聞いて、その噂が広がり、3人組の残党は私の前から姿を消した。
Taj Mahal & Bonnie Raitt on the Today Show!
処がこの哲学の教授。とんでも無い事を言い始めた「話は解った。君は偉い。わが大学の闘士だ。大学改革の先頭に是非立ってくれないか」と言うのだ。私は唖然とした。それ以来今度は、その教授が電話番号を教えろと言って来て、自宅に電話が掛かって来る様になった。私は、話を断った。その当時バンドは、ギターのバンドの方はメンバー間のイザコザがあって。張りが無い演奏に成って居た。私は大学2年に成って居た。第2外国語はインドネシア語を専攻して居たが教室で授業を受けて居ると、小柄だが可愛い子に目が行った。何時も、柔道部の男子学生が側に付いて居て。その子も煩わしそうだった。私はある日。授業が終わった後に声を掛けて見た。初め、その子は大きな目をクルリと回して私を見ると、軽く会釈をした。私はその子が好きになった。
彼女は私に「この人。しつこいんだけども・・・」と小声で言うので、私は咄嗟に、「この子は高校時代の同級生だ。」と嘘を付いた。その柔道部の学生は大きな体を向けて私を怪訝そうに見たが。その女の子が「そうよ。私の元彼なのよ。」と言ったら。そいつは、何故だか、「あんた知ってるよ。ボトムラインとか言うバンドでギター弾いてるんだろう?」と言って来た。「なんだ知って居るのか?」と聞くとその子に「音楽好きなんだ!!」と言って居る。しかしその日以来、側には座るがしつこく話はしなく成って行った。私は彼女と付き合い始めた。彼女は明るかった。そしてバンドの演奏もライブハウスまで見に来てくれた、と言っても私が毎回連れて行ったのだが。彼女はジミヘンとジャニスが好きだった。あとデビット・ボウイとかエドガー・ウインターと何時も組んで居た。リック・デリンジャーとか、女性のスライド・ギター奏者、ボニー・レイットとか、ライ・クーダと結構渋めが好きだった。ブルースは良く解らなかったが。私が黒人のブルースのレコードを貸して挙げた。よく二人で下北沢に行った。芽瑠璃堂でブルースのレコードを買った。私が下北沢で彼女とレコードを持って一緒に歩いて居ると同じくレコードを持ったカップルとすれ違った。すれ違うと、相手が「流石に下北沢だよ、この人達もブルースのレコード持って歩いて居る」と言って居た。そして「あんたもブルース好きなのか?」と聞いて来るのだ。そんな時代だった。話はまだ続くが今回はこの辺で止めときます。
Janis Joplin - Summertime
RICK DERRINGER / EDGAR WINTER / Rock & Roll Hoochie Koo / 1973
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私にしつこく付き纏って居た学生には殺してやると言ってやった。「明日ナイフを持って。お前の前に立ってやるぶち殺すぞ!!」と言った。そしたらようやく謝り出したが。「私はゆるさない」と言ってそいつを連れて法律の助教授のところに連れて行って、そいつがやって来た事を全て述べた。助教授は黙っては聞いて居なかった。凄く怒って居た。そして私は人事課に行ってそいつの家の電話番号を聞いた。そいつは青くなって「すみません、すみません💦」と謝ったが私は電話を掛けて。そいつの親御さんにそいつが何して居たのかを言った。丁度、父親が出て来て私に平謝りしたが。私は許す気はないと言って電話を叩き切った。その後そいつも大学を辞めて行った。
今回は此処までです。今度更新出来るのは何時になるか解りません。。。更新出来たら、またお逢いしましょうね、、