今日撮った写真、、太って仕舞った、、豚だ、豚だ、お前は豚になるのだ!!
(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾
ブルースソロ。(短い)
今日の夕食
いい加減に本読まないとなぁ〜〜〜。読んで居る暇が無い。毎日寝て仕舞うからね。この苦しさは誰に言っても解らないでしょうね?((((;゚Д゚)))))))、ああ、また眠たくなって来た。また寝ます・・・・。今起きました。1時間半は寝て居ました。しかしこのblog書き換えて居る人!!悪質なんだよなぁ、、本当に実名書き込んでやろうか。いい加減にしろよなぁ、例えば「言う」と書いてあるのにひらがなの「いう」になって居たり。「居る」と書いてあるのが「いる」となって居たり。誰も信用ならないですね。。。例えば私のblogに足跡つけて居てもそう言う人でもこのblogを改竄して居るんです。処で、私は、哲学書を読むと言っても統計立てて読んで居無いし、、いまだにマルティン・ハイテッガーやら、カント、吉本隆明。丸山圭三郎。私に取っては哲学である、、寺山修司。最近では洋服に興味が出て来たので、山本耀司さんなどでしょうか?よく読んで居るのは。あと漫画です......。ああ、あとマルクス・ガブリエルでしょうか・・・・・・。そんなものですよ。。。
まあ、今月の終わり頃の月曜が病院ですので、、暫く休んでから、、また、更新は考えて見ます。何時も、読んで頂いて有難う御座います。もし時間が出来た時になど、宜かったら。此処2週間ぐらいで更新した記事をまた読んで見て下さると嬉しいです。動画とか。音楽も聞いて貰えると嬉しいです。
ブルースバラード SD 480p
本の紹介です、、
20年周期で訪れるヒップの正体とは?
あの頃、多くの若者たちが熱狂したニューヨークの52番街は、いまや観光地でしかない。モッズの聖地カーナビー・ストリートも、パンクスが集ったキングス・ストリートも、いまやそうした若者を見かける事は出来ない。音楽とファッションが深く結びついたムーブメントは、強烈であるがゆえに時代の徒花として記憶される。当時その場所に居た者だけが知り得た共通感覚こそが、ヒップの正体であり、すべてのムーブメントの原動力ともなって居たのだ。
インターネットによって情報が氾濫し、何を見るべきか、何を聞くべきかが個人に委ねられ、細分化して居る現在。ヒップという感覚を持ち得る音楽が、今どこで鳴って居るのだろう? そしてヒップを体現して居るファッションをどこで見ることが出来るのだろう? アメリカ人が自らを振り返ることが当たり前となった2000年代以降、突出したムーブメントは登場して居ない。
今の自分が気付いて無いだけで、もしかしたら今どこかで新しいヒップが生まれて居るのかも知れない。しかし、それはインターネットで見つける事が出来るだろうか?。しかし、そして私は最近になってモードの復活を知った。私が今ヒップを感じて居るのは「ヨウジ・ヤマモト 」だ。私の写真を見れば解る様に、私は「ヨウジ・ヤマモト」の影響を凄く受けて居る。彼の作る服は物凄く、カッコイイ。1980年代に山本耀司の。日本に於けるファッション・ショーのドキュメント番組を見てから、このデザイナーに関心を持って居ました。
「たかが服、されど服 ――ヨウジヤマモト論」
この本は、哲学者の著者がヨウジヤマモトを論じた本です。鷲田さんの膨大な知識・様々な引用を駆使した話の展開に追いつくのは大変でしたが、緩やかなリズムを楽しむ事が出来ました。1981-82年から2002-2003年までのコレクションの写真も沢山あり、本のデザインも美しくていいですね。
本書は、2002年にイタリアの出版社CARLA SOZZANI EDITORE srl から刊行された山本耀司の作品集『TALKING TO MYSELF BY YOHJI YAMAMOTO』のために書き下ろされた著者の文章に、若干の加筆・修正を施したものです。(巻末より)
上記の様に、このハードカバーは、1981AW-2002AWまでのコレクション写真118点がほぼ時系列順に登場し、その合間合間に問いかけと応答のように著者のモノローグが差し挟まれている。挿絵付き詩集の感覚でリズミカルにするすると読める。そして味わい深い。
モード界への、身体への、性へのアプローチ。しかし各論ではなく、ゆるやかに重なり合う。かような文章とグラフィティの一体感を損なわぬように、また論稿自体は『モードの迷宮('89)』『悲鳴をあげる身体('98)』等で既出のものも含まれて居る為、とりわけ印象的なテクストの引用程度に留めたい。
<今>と言う瞬間を、山本はしばしば刹那と表現するが、そう言う意味気分で、壊れゆくもの、消えゆくものとして、今にふれて居るのだろう。言ってみれば、山本は後ろ向きに未来の方を向いて居る。(p27)
いたる処に道が見える以上、破壊的性格自体は、つねに岐路に立って居る如何なる瞬間と言えども、つぎの瞬間がどうなるか解らないのだ。破壊的性格は、既成のものを瓦礫にかえて仕舞う。しかし、それは瓦礫そのものの為ではない。その瓦礫の中をぬう未知の為なのである。(p45, W・ベンヤミン「破壊的性格」高原宏平訳より)
そんな山本が、最初に取り掛かったのは、からだの線を強調して女らしさを見せるのではなく、男性用テーラードの構成を解体して、ぶかぶかの形もはっきりしないシルエットと「性の制服」としては非常識とも言えるカッティングで、女性的なるもののかたちを表現する事であった。人がたまたま手にしたもの(この場合なら性)、それを防具として生きると言うのは、人の「プライド」に反する。なんの格闘もなしに、偶然に手にしたもので自らを売りに出すと言うのは貧しさの極みである。女性的なモノへのこの想いに、山本はきっとデザイナーとしての自分を重ねて居たのだろう。東京に生まれた事は自分の功績でも何でも無い……。山本はパリ・デビューに際しても、「ジャポネ」を売りに出す事だけは仕舞いと思った。(p67)
過ぎて行くもの、通りすぎて行くものに対する追いすがる様な想い、しかし追い着く事を予め自分に禁ずる意地。山本は、横から、あるいは斜め後ろから見た女性の背中に魅きつけられると言って居た。背中と言う、女性の支柱の凛とした美しさへの憧れと畏怖、それが山本の女性服を織りなして居る。(p91)
私は此処の間、ヨウジヤマモトの服を意識した格好をして居る。それの着方を少し変えるだけで<現在>(ici-maintenant)の服になる。それは、私を「私よりももっと古い私の存在」(メルロ=ポンティ)にふれさせる。そしてその服を着るとふっとどこかを徘徊したくなる。山本耀司の思想は、つまる処、いかがわしい服、すれすれの服とは、私を「私が生まれたよりももっと遠い所、そこではまだ可能が可能のままであった所」(九鬼周造)にまで連れて行って来れる、<自由>の事なのだ。私は今、「ヨウジヤマモト 」同様に、黒いシャツとズボンそして黒いロングベストに身を包んで居る。
ごめんしゃい〜〜。
とてもかわいくニャーニャー鳴いている子猫
昨日は、新型コロナ・ウイルスの3回目の接種を打ちに行って来た。何か噂に依ると熱が出る場合があると言うので、私は解熱剤とか一切持っては居ないし、体温計も持っては居なかったので、掛かり付けの薬剤所で今月の初めに病院に罹った時に両方とも購入したのだが、何故か解熱剤は外国製のものを買わされた。多分コロナの下熱には合うのだろう。この間の様に、椅子に座る様に案内されて体温を測られて待って居たら、また隣に高校生の女の子が座って来た。此間と同じだ、、まさか此間の女の子とは違う子だとは思うが最近の女の子は発育がいい。まあ、私は、身長が170センチ未満だけども。その子は170センチはあるのですよね。最近の女子高生は背が高い。まあねぇ、私が身長が低すぎるのだろうけどね、大体が日本人の平均の男性の身長は175センチですよ。だから私は5センチ以上も低いのですよね。道歩いて居て、皆んな、男は最低でも175センチ。ちょっと高いと178センチから180センチはありますよ、最近はね・・・・・。私の姪などは173センチですから。前に話したと思うけど、結婚式で旦那が矢張り身長が低くて私が以前履いて居た踵が6センチぐらいあるブーツはどこで買えるのかと聞かれたので、結婚式なんだからブーツよりシークレットシューズの6センチぐらいのものがいいと思って、銀座のトールシューズと言う靴屋を教えたが....。
昨日か、GACKTが言って居たが。彼が若い頃に13センチのブーツを履いて居たそうだ。友達は16センチだったそうだ。そうしたら遠くから女の子が「ねえ彼氏〜〜!!」と後を追いかけて来たのでファンかな?と思って居たら段々と近くに寄って来たら、なんかデカイ!!傍に来たら其の子らはサンダル履いて居るのに身長が自分らと同じ190センチあるのだそうだ。GACKTの身長は179センチだと言う。そこに13センチのブーツ履いて居たから、まあ、昔のロンドンブーツでしょうね、、だから、192センチはあったらしい。彼は「随分とデカイ女の子だなぁ〜」と思って話して見たら。なんかバスケの選手相手のクラブのホステスだそうで、GACKTたちは「身長が190センチはあってハンサムでカッコイイと思って追いかけて来たのよ」と言われたらしい。だけどもGACKTたちは「冗談でしょ?あんなに背が高い女の子となんか付き会えるか」と思ったそうですね。
それで、注射を打つ段になって、腕を半袖を捲ったら、絆創膏が貼ってあると言われた「えっ"」と言ったら、先月に打った場所に貼ってあった絆創膏がまだ付いて居ると言うのだ。私は「だって?あれから体洗いましたよ?」と言ったら。多分絆創膏の吸引力が強くて剥がれなかったのだろうと言われた。そして先生共々笑って居た。私は「おかしいなあ、ちゃんと洗って居たのになぁ」と言ったが、医者はそこの同じ部分には打てないので、其の真下に打つと言って打ってはくれたが、場所が違うのか結構痛みがあった。行きと帰りは又、タクシーに乗った。片道1千6百円ぐらいだ。昨日は、障害者手帳を提示して障害者料金にして貰った。と言っても1割しか安くはならないけどね。まあ、タダで1割落ちては居ないから、大いに助かりました。雨が激しかったのでタクシーでよかった。歩いても行けなくは無いけど何遍も言う様だけども場所が込み入った処にあるので、行き難いのですよ。ちょうど障害者の自立支援の期間が後2ヶ月ぐらいで切れるので更新書類を貰いたかったが。日曜なので保健センターと言えどもやっては居ない。だから又郵送をして貰おうと思って居ます。精神障害者だからと言っても手続きは踏まないと行けないですからね...。
私が応援して居る青木志貴ちゃんです。彼女は声優で、モデルで、舞台俳優で、歌手で、自分のアパレル・ブランドのデザイナー兼オーナーで、コラムニストで、ゲーマーでYouTuberです。皆さんも応援頼みますね、、*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*
オレンジがダメだったからピンクメイクに挑戦した。
今回は休養中でしたが書いて見ました。今回は文が殆んどですので。よかったら付き合ってやって下さいね。間に動画は入りません。森鴎外の「山椒大夫」の小説の朗読も載せて居ます。よろしくね。。。。。
人は、特に女性の男性の服の好みには閉口する。何故なら、ヨウジヤマモト ・ファッションを着て居るとなんか気取って居て嫌だと言い。バッチ・デニムシャツとロックのミュージシャンのTシャツ。そしてブロークン・デニムのジーパンを履くと。変な格好だと言い。最近暑いのでアメカジのアメリカ空軍のシャツを上着にして中にブルースマンのプリントシャツとスラックスで居たら。今の格好が一番カッコイイと言うのです。なんだろ。様するに若い格好がいいと言って居るのだ???。お袋もそうだった。私に服を買って来てくれるのはイイが、要するに女性が男に求める格好なのだ。私は確かに歳にしたら若作りをして居る、此間だ買った秋口に着る薄手のデザインコートはヨウジ・ヤマモトのものだ。しかも若者向け用に発売されたものですよ。しかしそれが気に入ったし、カッコイイしね。着て見てもエレガントで大人っぽいんですよ。
大体の女性が、服を恋人やら子供に選ぶ時は、大抵が如何にも子供っぽい服を選ぶ。物凄く語弊がある言い方なので反論もあるかと思うがあえて言わせて貰います。何故。イイ年をした。私から見たら30歳から40歳にもなる女性が、ジャニーズにハマって見て居るのでしょうか?。要するにあえて言わせて貰うなら女性の幼児化ですよね。ある女性がこう言った。「男は若ければ若いほどイイ。」前に亀梨くんの代表作「妖怪人間ベムTVシリーズ」を見せたら髪が長いので歳取って見えると言うので。「手紙」と言う最近のシリアスなドラマを見せたら。「こっちの方がいい。髪短くて若く見えるわ!!」と言うのだ。私は此方の方が見て居て歳を取って居ると思うのだが????。
男でもそう言う輩が居る。女の子なら若ければ若いほどイイと言うのだ。
弟が生きて居た頃、40歳も後半になろうとして居た私に嫁と一緒になって。若い子を見つけて早く結婚しろと言った事があった。「若ければ若いほどいい」と言うのだ。私は「障害持ちの40代後半の男がどうやって20代の子と結婚出来るんだ。馬鹿も休み休み言え!!俺をヒモにするきか!!」と怒って怒鳴った事がある。そうしたら弟は「ヒモでもいいじゃない〜〜!!」と言うのだ。ある女の子が言って居た。「16歳と言えば一番若くて油が乗り切った男盛りよねぇ」16歳はまだ子供だろう!?何故なら「肌がつるんとして可愛くて・・・・」と言うのだ。(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾、まあ、私はジャニーズは知って居るのは元SMAPだけだ。嵐もその他の子たちも皆、誰も知らないから名前を言われても顔と一致しない。こう書くと常々私が言って来た事と相反するでは無いかと言われそうですね。しかしそれには及ばない。
私はあくまで1970年代をノスタルジックに追いかけてモードやらトラッドの服装をして居るのだから。何も20代の若者になりたくて、格好が羨ましくてして居るのではありません。私が知って居る女性はGACKT君が好きだ。私は彼女に原田芳雄の若い頃の写真やらブルースを歌って居るCDを聞かせたが、一言。。。「だってこの人は男の人に好かれる人でしょ...。」私はGACKT君も充分に男だと思うが、、大体が女性は異性の女性化をまたは男装の麗人を好む傾向があると思います。「ベルサイユのばら」だとか。最近までホストだったローランド君の人気とかね。長髪と言うものは昔は男の特権だったんですよね。まあ、大体が長髪にすると確かに女性受けはイイとは思う。
男だけじゃなく女性も童顔男子が好きな人多くない?」
「女性だって若いジャニーズの男の子が好きな人だって沢山居る」男性だけではなく女性も童顔の男性を好んで居ると言う声もあがって居る。
また、日本人は幼いものを愛でたくなる性格をして居るのか、「ペットで言えば子犬子猫の方が人気だし、日本だと小さければ小さいほど価値が上がる」と幼さがステータスになると言う人も居る。結論は出ないが、考察すると意外な理由が見つかりそうだ。
いったい女性は、何歳くらいから年下の男性に魅力に気づき始めるのでしょうか。ちょっと調べて見ました
年下男性の魅力ってどんなときに感じるのでしょうか。年下好きを公言する女子たちがその魅力について語って居た。
(1)変な期待をしないから、がっかりしない
「年上の男性なら、なんで映画の予約出来てないの?ってイライラしちゃうことがあったけど、年下ならなんだか許せる」(29歳・会社員)
「デートに連れて行かれたお店が微妙でも、まだ慣れてないのね、と大人の対応が出来る。逆に年上だとムカつくかも」(31歳・IT関連)
「年下なら、デートでしくじっても、まぁしょうがないってなるし、ちょっと嬉しい事をしてくれたら好感度が爆上がりする」(25歳・会社員)
「そもそもあまり期待してないので、幻滅する事がない」(30歳・公務員)
男性からしたら、ちょっとがっかりする内容かも知れませんが、そもそも過度な期待をして居無いので、がっかりする心配もなし。映画館にデートへ行く事が決まって居るのに、チケットを予約して居無い…。金曜の夜に有名店へ行こうって前々から約束して居たのに、お店の予約を忘れて居る…。
年上の男性ならイラッとして仕舞う事でも、年下男性なら「まぁ、デート経験もそんなにないかも知れないし、しょうがないか」と納得出来る見たいです。
(2)自分も若返るような気持ちになる
「若者言葉や流行を教えて貰うと自分まで若くなって居る気持ちになる」(26歳・アパレル)
「若い人と触れ合って居るだけで、見た目もなんだか若くなった気が…する」(29歳・フリーランス)
「彼氏が若いと、自分も若く居られる錯覚になります」(30歳・専門職)
相手の歳が若いと、自分も同じ年齢のような錯覚になりますよね。若い子の流行りや、話題に触れるとちょっと若返った気分になるのは分かる気がします。
しかしこれは錯覚なのですよね。若者と話して居ると錯覚を起こして自分も若く思えて来る事がありますが。ただ若い人の話が自分が知らない事だったりして。また、今時の流行りとかトレンドとかの話で、一見自分が若返った風な感覚を起こすのです。要するに擬似錯覚なんですよ。私はよく若いと言われます。そして時には酷い時など40代後半に間違わられた事もあります。扇風機を購入した時です。「若いもんはすぐ保証書無くすけど。ちゃんと持ってろよ!!」と50代の男から言われました。此間はベネッセの宅配の50歳の親父から、「あんた。まだ若いけど好きで音楽やってるのそれとも違うの何なの?何、カッコ付けてるの???」と言われました。私は冷静に「ミュージシャンですよ」と言いました。何故こう言った事を言うのかは分かりますよ。私の髪が長いからです。私は40代の頃の様に髪をまた伸ばしてパーマを掛けて居るだけですが。それがどうにも許せないのですよね。「格好付けやがってよ!!。」と言う事でしょう。
だから、もう私は自分の実年齢を言う事にしました。会う人事に言います「私は62歳だから、、」すると皆「嘘でしょ。40代かと思って居た!!。」と言う人やら「いや俺は50代だと思って居たけどそうだったの?」と色々です。此間ヨウジヤマモのドキュメンタリーを見て居たら。訪問看護師が。「kiyasumeさんの最終目標、彼なの?。もしかして?」と言うので「そうだよ。あと10年生きられたら彼見たくなりたいね」と言った。私は昔は老け顔だったんですよ。中学の時に不良に話されて嫌々ながら話をして居たら。
そいつの仲間がやって来て「すみません。こいつ何かやったんでしょうか?」と聞いてくるので『あっ〜??」となって居たら。その不良が「こいつは此の間。俺のビートルズのメンバーの写真を買ってくれたダチこうだ!!」と言ったら「なんだ。俺はまた大学生に脅されて居るのかと思ったぜ....。」と言う。弟の嫁さんに弟が私の若い頃の写真を見せたら「えっ” この人誰。親戚の人?」。ヘルパーのおばさんが言いました。「あんたの10年後はどんな格好して居るのかねぇ」私は言いましたよ「あまり変わらないはずですよ」
日本における男女の社会地位差異はいつに遡れるのだろうか 、その長い歴史を此処で考えて見ようと思います。奈良・平安時代には、女性の家族内の地位は男性より高かった。当時の日本社会は母系制社会であるため、子供の養育といい、結婚といい、女性は大きな発言権を持って居た。 若い女性が結婚を決める時にも、自分の意思だけではなく、母親の了承も得ざるを得ないが、その一方父親はその決定権を持つ事すらなかったようだ。その上、結婚した後、男性の方が女性の家に通う事になったので、家庭の中心にあるのは女性と言う事が明らかだ。おまけに、女性は家の名目と財産の全てを受け継ぐ権利があったらしい。 面白い事に、古代の家庭観念は至って薄らいだものと考えられるのだろう。男性は同時に複数の女性と結婚する事が出来るが、昼間に女性も男性もそれぞれの家で農業やその他の仕事をして居たため、一つ屋根の下に暮らせるのが夜僅かな数時間だけだった。
その生活の独立性と当時の農業社会を基にして、女性の家庭内の地位は決して夫より劣らなかった。 さらに、古代において巫女は神の声を聞く事が出来ると思われて居たため、女性の宗教的な地位も随分高かったらしい。しかし、社会的地位について、女性はやはり男性に敵わなかった。大臣や朝廷の役職を務めて居たのは全て男性だったし、社会的地位も父親から 息子へと受け継がる形になった様だ。これにより、古代から女性の社会進出は男性より少なかったのだろう。続く鎌倉時代から室町時代までの女性は、依然と宗教的に神に近い神格を持って居ると思われて居たが、武士と言う戦闘集団の成立により、女性が男性の家に入ると言う結婚形式が成立した。従って、家を守り、領地を管理し、使用人をまとめる事などは妻の役割 となった。要するに、男性ではなく女性の方が結婚相手の家に入る事で、家庭内における女性の力が弱まった。
けれどそれと同時に、女性の社会進出が増えたらしい。この時期には武士の鎌倉幕府でも、朝廷の貴族の間でも、女性が政治の実権を握る姿が見られる様になった。加えて、商売での女性の役割も重要だったらしい。例としては、中国から輸入した蚕を育て、絹糸をとり、絹織物を作り、そして街の市場へ持って行き、売って儲ける事は、女性だけの仕事であり、また権利でもあった。社会の中で活躍する女性の姿は、いろんな絵などにも描き残されて居るようだ。男に対しても女に対しても、この時期はまさしく古代から現代への架け橋だった。その後訪れたのは、「男尊女卑の風が強い」と言われる江戸時代だった。
江戸時代と言えば、「吉原|遊女」、「三下り半」、「女性が虐げられて居る」などの印象が強い。大河ドラマによく出る「三下り半」とい言う3行半に書く離縁状、女性はそのたった一枚の紙切れで簡単に離縁されると言う 。おまけに、この「三下り半」は離婚届けであって女性への再婚許可でもあった。「貞女二夫に見えず」と言う貞操観念が強まった江戸時代には、夫から差し出した「三下り半」がないと女性は自らの意志に関わらず、離婚を申し出る事すら出来なかった。極端な場合は、戦争未亡人が再婚する事も出来ず、子供を抱えて辛抱すると言う話もあった。以上の家制度から見ると、女性が与えられた選択肢は極めて限られて居た上に、家庭内の地位も低かったらしい。
また、「ウーマンリブ」と言う運動もあった。1960年代後半から1970年代にかけて、主として欧米や日本などの先進国において起こった女性解放運動である。要するに女性は男のおもちゃでも、飯炊き女でも無い。一人の人間だ。と主張した。覚えて居る方も多いかとも思う。
今はどうだ。確かに女性の進出は目まぐるしく。哲学者でも女性の事についてジェンダーですね......。考えて居る哲学者のスラヴォイ・ジジャクと言う人が居ます。彼は、ハイテッガーやら彼の愛人でも 、 有名な哲学者のハンナ・アーレントやら。ジャック・ラカンと共に偉大な哲学者です。以下は、彼が日本について語って居るインタビューです。
――あなたは日本に行った事がありますね.日本のテクノロジカルな文化について何か意見をお持ちですか?
スラヴォイ・ジジェク(以下SZ)――最初に言っておきますが,わたしは日本について自分自身の積極的な意見を持っているわけではありません.全ての西欧知識人と同じように,わたしには神話としての参照系(the myths of reference)しかない.まず古くて右翼的なイメージ,死に立ち向かうサムライのコード,絶対的で倫理的な日本のイメージがあります.また,すでにエイゼンシュテイン以来のものである左翼的なイメージもある.つまりは記号論的な日本,空虚な記号,西欧の現前の形而上学の不在と言ったものです.これも前者におとらず空想的な日本です.エイゼンシュテインが彼の「アトラクションのモンタージュ」のために日本のイデオグラムを使っていることをわれわれは知って居ます.
そして例外としてベルトルト・ブレヒトが居ます.彼は日本の犠牲や権威といった要素を取り上げて,それを左翼的なコンテクストの中に入れて居ます.ここ西欧ではブレヒトはファナティックな東洋の精神性を紹介した者とみなされました.ただし今ではズーアカンプ社から彼の『イエスマン』や『教育断片』の詳細な校訂版が出て居ます.そのおかげで,西欧の批評家たちが日本にまだ残っている帝国主義的で犠牲的な献身を尊ぶ精神的要素だと思っていた一切は,実はブレヒトによって編集されたものであることがわかりました.批評家たちが日本人と思って居たものはブレヒトだったのです。
さらに資本主義的な日本,これは全く別の段階に属します.此処には何かをどこかから取って来て,しかもそれをよりよく発展させる「オリジナルなき日本」と言う神話があります.かつての金持ちのためのフィリップス,貧乏人のためのソニーといった具合にね.もちろん20年を経てこの関係は逆転しました.こうして今,コジェーヴ的な日本があります.コジェーヴにとって,最初に歴史の終わりはロシアとアメリカのことであり,フランス革命の具現化のことでした.しかし彼は何かが抜けて居ることに気づいたのです.彼は日本と言う,ちょっとした余剰のなかに答えを見いだしました.もしもアメリカでのように,何もかもが予定どおりに運んでしまえば,そこでは自分を殺すしかない.でもスノビズム,つまり洗練された仕方でお茶を飲むと言ったことのなかに,人間が生きることがまだ意味を持って居ることが見つかったのです
けれどもまた別の日本,精神分析的な日本もあげることができる.多元文化主義的なアプローチが採られるときには何時でも,その基準はたいていは日本であり,特にそのノーと言う,「否認(Verneinung)」の仕方に向けられます.日本には30通りものノーの言い方がある.奥さんにある言い方でノーと言い,別の言い方で子供にもノーと言うことができます.ただ一つの否定と言うものはない.
ラカン派の小さな冊子に『日本的なもの(La chose Japonaise)』と言うのがあります.日本人は他の国の言語を借用しながら,さまざまなあいまいさ=両義性を洗練させて居ます.ラカンは日本人には無意識が無いと言わなかったでしょうか? 西欧においては日本はこのあいまいな(両義的な)他者なのです.それは魅了すると同時に拒絶する.日本におけるこの心理学的なクリシェ(紋切型)を忘れないようにしましょう.つまり日本人が笑って居るとき,それが心からなのか,われわれをあざ笑って居るのかはわからない,これが浸透しがたい「他者」という日本についての見方です.
このあいまいな礼儀正しさ,これによって,一体,日本人は何を望んで居るのでしょうか?
こう言うとき,ヨーロッパ人は,アメリカ人がユダヤ人を見るときの「代理」として日本人を見て居るのです.「日本政府は2,3の巨大企業の策謀でもって,ことを進めている」と.例えばこのような一切の憂鬱と空想がのっかったパレットが,われわれにとっての日本なのです.でも驚いたことに,一方では完全に西欧的と思われる著者,たとえばジェルジ・ルカーチのような人が日本では広く読まれて居ます.
そして,われわれ西欧のリベラル民主主義の堕落したやり口を批判する連中から愛されて居る日本をあげることができる.彼らはある種の権威でかためられた伝統的な構造を温存しつつ,資本主義のダイナミズムをひとまとめにできるモデルを探して居る.此処でもやり方は二重になって居る.この空想が面白いのは,連中が何時もあいまい(両義的)だと言う事です.だからそれはすぐに否定形にだってなる.つまり日本人は実際には一つの巨大な陰謀と権威を保った侭で,資本主義のゲームに参加しようとして居る,と.あるいは逆に積極的な言い方をするなら,此処には道徳的な価値と共存する資本主義がある,と言えるわけです。
日本のレストランや地下鉄の駅で気分がいいのは英語が使われて居ないからです.この点で日本人が自己卑下したり,嫌悪したり満足したりすることはない.日本のレストランや駅で英語を使わずにその利用の仕方を見つけるのは,それを使う外国人にまかされている.たとえば,わたしはあの自動販売機をいじるのがめちゃくちゃ好きですよ. スティーヴン・キングの小説をもとにした映画『シャイニング』を見たことがありますか? そこには最悪のアメリカがある.3人の人間,一つの家族が大きなホテルに居るが,そのスペースは彼らにはあまりに狭すぎて,彼らは殺し合いを始めてしまう.日本ではたとえとても混み合って居て身体的には窮屈にされても,それほどプレッシャーは感じない.これは他人に対して知らないふりをしている技術があるからですね.ニューヨークの地下鉄だったら,その半分の混みぐあいでも他者の絶対的な近接という恐ろしい体験をすることになるでしょう。
わたしが東京で出席したフーコーについての会議で面白かったのは,日本人が,自分たちをどうとらえるかと言う問題にフーコーを応用することを求められて居た点です.けれども,日本側の積極的な発言はほとんどフローベールに関わるものでした.彼らは 日本人に仕掛けられた,このからかい半分の人類学的ゲームを受け容れなかった.しかし,彼らはわれわれ自身のゲームでわれわれを打ち負かそうとしたのです.われわれの方がずっとフローベールについて知って居ると言うのにね.
さてヨーロッパにおけるネーションはどれもこうしたファナティズム(自分たちが一番フローベールのことを知って居ると思い込むような),つまり自分だけを真の,根源的な民族(ネーション)とみなす考えを持って居ます.たとえば,セルビア人の神話は彼らが世界で最初の民族であると言うものです.クロアチア人は自らを原アーリア人種と考えて居ます.スロヴェニア人は実際にはスラヴ系ではなく,エトルリア系の起源を持つと称して居ます.それとは逆に,自らを一次的なものではなく,二次的なものであると言う事実を認める様なネーションを見出すのはよいことです.日本人がよそから言語を借りてきたやり方を見てみれば,こうした態度自体が日本人のアイデンティティの一部をなして居ると言えるでしょう.
最近わたしは黒澤明について書かれた本を読みました.そこでは『羅生門』は50年代の初めには東洋的なスピリットの偉大な発見として観られたのだと言われて居ます.しかし,日本ではそれはあまりに西欧的なものとして受け取られて居ます.わたしが一番好きな日本映画は溝口健二の『山椒太夫』です.それはこの映画が失われた母の問題,息子に到達する母の声の問題についての,よくできたラカン的読解を提示して居るからです.アメリカではヒッチコックの『サイコ』の様に狂気が現われる同じ場面で,日本では普通の家族が出てくる。いまやバルカンは,日本がさまざまな空想の投影場所であるように,西欧が自分自身の空想を投影する場所になって居ます.繰り返しますが,これは大変に矛盾したことでもある.『ライジング・サン』という映画もこの種の両義性をかかえて居る.
つまり,日本にはハリウッドを取り込み,買収しようとする計画があると言うのですからね.その見方はこう言うものでしょう,日本人はわれわれのファクトリーも土地も欲しがっては居ない,彼らはわれわれの夢を望んで居る,と.この裏には,メディアや制度を握ることで思考をコントロール出来ると言う考え方があります.それはハードウェアから映画館まで,チェーン全体を買い占めると言った古びたマルキスト風の考え方です.日本が興味深いのは,何らかの進化論的な段階を経なくてはならないと言った,俗流でニセのマルクス主義の進歩主義的観念に対抗できる論理がある点です.と言うのは,(文脈に関係なく複数の段階に属するものをぶつける)直接的なショートサーキットを作ることが出来ることを日本は証明して居るからです。古いヒエラルキーにもとづく上部構造の要素を持った侭で,それを思う侭に資本主義の最も効率的な形にとてもうまく結びつけて居る.これは人間中心主義でないと言う意味ではよい経験です.よき資本主義のためにはプロテスタントの倫理が必要だと言う西欧の社会主義者たちにとって,これは一つのミステリーです.
わたしが日本に見るもの,それは多分わたし自身の神話なのでしょうが,あらゆるものの裏にある,礼儀やスノビズムなどに関するこう言った観念なのです.日本人は表層的かつ必然的で無い様に見える何かが,もっと深層では構造的な機能を持って居る事を自覚して居る.西欧流のアプローチだとこうなるはずです,「誰がそれを必要として居るか?」と.しかし全く馬鹿気たことでも,より深いレヴェルではわれわれが自覚して居ない安定化の機能をはたして居る.誰もがイギリスの君主制を笑うけれど,外から見て居る人間にはこれからもそれがどんなものか本当にはわからない。 アメリカの社会学者のあいだで一般的なものに,「罪の文化」対「恥の文化」と言う別の考え方があります.ユダヤ人と彼らの内的な罪と,ギリシア人と彼らの恥の文化と言うのもそうです.そして今日ありがちなクリシェは,日本は究極の「恥の文化」であると言うものです....。
アメリカでわたしの嫌いなものにアクターズ・スタジオの論理があります。それによれば,自己表現にはあたかも何かよいことがあるかのように言われて居る。たとえ他人を怒鳴ったりけちらしたりしても,自分自身を表現し解放するためには全てを抑圧せず,解放しなさいと言うわけです.これは仮面の裏側に何か真実があるとする馬鹿気た考えです.日本では,たとえ何かがうわべだけの事であっても礼儀は単に偽りでない,この事がただの神話でないことをわたしは望みます.「こんにちは,ごきげんいかがですか?」と言う事と,ニューヨークのタクシー運転手の罵りの間には違いがあります.表層=うわべこそが大事なのです。
もしこの表層をぐらつかせれば,ひとは自分が思う以上に多くを失う事になるでしょう.儀礼的なもので遊ぶべきではない.仮面は決して単純に仮面にすぎないのではない.おそらく,こう言うわけでブレヒトは日本に接近する様になった。仮面を剥いで本当の顔を示すと言う西欧の典型的な身振りのなかに本当に解放的なものは何もない,とするこの考え方を彼も好んだのです.ひとが発見するものは,自己が絶対的に嫌って居る何かなのだ。この見かけを保持しよう,これがわたし自身の日本に対する空想なのです.
如何だったでしょうか?ちなみに此処で出て来た。エイゼンシュタインとはロシアの映画監督の事です。彼が撮ったモンタージ論の映画である「戦艦ポチョムキン」は有名ですよね。
モンタージュと言う映像文法の基礎を確立させ、映像表現を飛躍的に向上させる事になったセルゲイ・エイゼンシュタイン監督の映画史上に残るサイレント映画の大傑作です。1905年の夏、黒海沖の巡洋艦ポチョムキン号で、ウジの沸いたスープに怒った水兵たちが反乱を起こし、オデッサの港へ寄港するが、やがて軍隊が押し寄せてきて大虐殺が繰り広げられて行く。乳母車が階段を転げ落ちて行く、いわゆる「オデッサの大虐殺」とも称されるシーンをはじめとして、現在も多くの映画人に影響を与えており、『アンタッチャブル』の様に見事なオマージュを捧げた作品もある。なお、1925年製作作品にもかかわらず、その反体制的内容故か日本での公開は遅れに遅れ、ようやく日の目をみて初公開されたのは1967年でした。
まあ、話がだいぶズレて来ましたが、、要するに中島らもが言う処の「フーテンには何もないがヒッピーには思想があった」と言う事でしょうか。平たく言うと。フーテンは1967年ごろから1972年頃まで存在して居て長髪にジーパンスタイルで”あんぱん”を吸って居た単なるイカれた連中でした。("あんぱん"とは,。シンナーをビニール袋に入れて吸う事)。。。。。
ヒッピーとは、1960年代後半にアメリカ合衆国に登場した、既成社会の伝統、制度など、それ以前の保守的な男性優位の価値観を否定するカウンターカルチャー の一翼を担った人々、およびそのムーブメント。ヒッピーは1950年代のビートニクスの思想を継承した。またサマー・オブ・ラブ、ベトナム反戦運動や、公民権運動、カウンター・カルチャーとしてのロック、野外フェス、性解放、フリーセックス、大麻等のドラッグ解禁、男女平等、各種差別の廃止、のちのヴィーガニズムへとつながる有機野菜の促進などを主張し、主流とは異なったオルタナティブな社会の実現を目指した。
なぜフーテンとヒッピーの事を言ったのかと言うと。女性はきちんと理解して居無いからです。私は勉強も出来ないし知識も余り無い。だから大それた事は言いたくはないが。最近の女性たちは危機感が無い。今日もテレビを見て居たら。ストーカー男に何遍も来られて、警察に保護を頼んで5回も警察署に行ったのだそうだが。警察は保護をせずストーカーに殺されたと言う女の子が居た。今の人はアメリカが黒人差別をして居た1950年代60年代を知らないでしょう?公民権運動「キング牧師」と言う人が黒人と白人の和解を唱えて、差別はやめてくれと訴えて居た時期があったのですよ。昔は黒人は学校も食堂も、そしてバスすら。カラーと呼ばれる黒人専用のバスにしか乗れませんでした。黒人たちが自由を勝ち取ったのはつい最近の事なんですよ。知って居ましたか?アメリカは暗殺の歴史の国です。
リンカーンもケネディーも殺されました。そしてこのキング牧師も殺されたのです。最近、解った事はあの天才的なロックギタリスト。ジミ・ヘンドリックスもヘロイン中毒で死んだのではなくて。黒人の指導者になり得るとの事で暗殺されたらしいですね。私は今日来た看護師に食べ物屋やら公衆便所。デパートなどのトイレは盗撮用のカメラが仕掛けられて居る可能性が凄く高いし、スカートを履いたら十分に気を付けろと言いましたよ。彼女らは、いや一般の女性たちは、今、時代の変革の中でどう言う位置に自分らが居るのかが解って居ません、一様は、何気なく暮らせて居ますよ。でもこの間の東京医大の医学部の入試でどうでしたか?職場の残業を男の社員から押し付けられてどうですか?「ら」抜き言葉は定着して仕舞いました。
「食べれる食べれる」と皆んな言って居ます。私が好きな哲学者に言語哲学者の丸山圭三郎と言う人が居ます。私は一時期ソシュールに興味があって。彼が翻訳したソシュールの講義ノートを所有して居ます。確かソシュールの弟子(学生)が本としてまとめたものの翻訳本ですが。購入して持って居ます。丸山圭三郎は好きな哲学者です。彼は言葉の変遷変容は理解して居たし。1980年代「寒い夏」という言葉が出て来て。彼は喜んで居た事がありました。でもね、、最近の「超可愛い!!超カッケ〜!!」は如何なものかと思いますよ。そしてジャニーズ観て。「めちゃ〜かっこいい」でしょうか?言葉は特に流行り言葉は仕方がありませんね。それは分かります。今は育児も旦那と交代ですよね。勝手こんな事を言って居た女性が居ました。
「出産の時こそ旦那を恨んだ事は無いわよ!!」「・・・・・・」
私は男だから女性は好きですし。可愛いとも思います、どんな歳の方でも。可愛いと言うのは見目形ではありません。女性は儚く。そして強い様で居て脆く。男性が守ってやらないと行けない存在なんだと思って居ますよ。しかし、最近は・・・・。言葉を失う事が多いですね。是からは知識を身につけて居ないとやって行け無い時代が来ます。私なんかパソコンを操るのにヒーヒー言って居ますよ。機械音痴なものでして、、頑張りましょうよ。皆んなして。
ジジャクが好きだと言った、「山椒大夫」です。森鴎外の小説の朗読ですお聴き下さい。。。。
【朗読】森鴎外『山椒大夫』
「ジャズメンたちのお洒落を学ぼう」
Ascenseur pour l'échafaud / 死刑台のエレベータ
じつは「往年のジャズマンのスーツ」に迫ろうとすればするほど、ステレオタイプ化したクールなイメージと、ジャズマンたちの実像との間に、ギャップが生じて仕舞う。レコードジャケットと共に記録された彼らのスーツスタイルを追って、写真集や動画を探して見ると、意外なほどルーズな着こなしである事もしばしば。さらに、あれほどカッコイイと思っていたジャズマンのスーツが、当時どこにでも売って居た既製品であることが殆んどで、特別な仕立てや風変わりなディテールは殆んど見受けられないのだ。
語り継がれてきたジャズの名盤や名演、これらに付随するレコードジャケットやモノクロ写真の数々。半世紀以上を経た。今なお魅力的なのは、そこに何らかの深い意味を汲み取ろうとして仕舞う、こちらの思い込みであるのかも知れない。クールな瞬間をだけを切り取ったモノクロ写真の裏には、ドロドロとした愛憎劇や幾多の苦悩があったはずだが、こうした生々しい部分はトリミングされて居る。
ジャズとはヒップを感じ、それを体現すること
「ジャズは都会の音楽、都会でしか生まれ得ない音楽です。チャーリー・パーカーを頂点とする、ニューヨークの52番街に集まったジャズマンたち。本当にごく限られた一部の人間だけで共有された感覚、それがジャズにおけるヒップでした。だからジャズマンにとっては、音楽もファッションも身のこなしも、“ヒップかヒップじゃないか”が最も大切なこと。たまたま、その時代のヒップがレコードジャケットとなって発信され、世界に衝撃を与えたと言う事です。現在の日本のファッション雑誌で語られて居る様なダンディとかクールと言う言葉とヒップは違うのです」
その例として山本氏が説明したのは、米雑誌『エスクワイア』が60年代に特集した「ヒップとは何か?」と言う記事だった。そこでは、ザ・ビートルズのジョンとポールはどちらがヒップか? といった設問がなされ、ジョンの方がヒップであるとして居る。明快かつ論理的な思考がそこにある訳ではなく、非常に感覚的なものでしかない。ヒップと感じることができる周波数の様なものがあり、そこにチューニング出来るかどうか?なのだと。
Charlie Parker- Confirmation
いたって普通のスーツを着て居たに過ぎない
「ブルックス・ブラザーズのスーツやジャケットは、多くのジャズマンが愛用していましたが、着る人によって全く違うスーツに見えるのです。ブルックスは当時の国民服みたいなもので、どんな男性のワードローブにもあった。ブルックスのスーツを着てネクタイを締めるのは、男の習慣ですらあった訳です。でも、ごく当たり前のスーツであっても、ヒップなジャズマンが着ればかっこよく見えてしまう。オーセンティックな服であればあるほど、着る人のパーソナリティが滲み出てくるから」
「チャーリー・パーカーを追いかけてニューヨークまで来た、駆け出しのマイルスは、いよいよバードに演奏を見てもらう機会を手にしました。そこで、当時の兄貴分であったデクスター・ゴードンに自分のスーツ姿を見てもらうのです。そうするとデックスに、こう言われたんです。『そんなスクウェアな(生真面目でつまらない)格好で、バードに会いにいくのか? 一緒に歩くのも恥ずかしいから、このテーラーに行ってスーツを仕立ててこい』と。せっかくブルックスのスーツでめかしこんだつもりのマイルスでしたが、デックスの教え通り、そのテーラーでスーツを作ってもらったんです。若い頃のマイルスは、しばらくずっとそのオーダースーツを愛用していたようですね」
ドレープスーツからアイビースーツへの変化
チャーリー・パーカーが活躍していた40年代は、ドレープスーツ(その名の通り、たっぷりと生地を使う事で、流れるように優雅なシワが入るスーツ)が主流。特にファッショナブルと言う訳ではないドレープスーツであっても、あのバードが着て居たと言うだけで、多くのファンが彼の真似をした。汗だくになって、ヨレヨレになったスーツですら、バードが着て居ればヒップだった。バードの晩年である50年代は、ゆったりとしたドレープスーツとコンパクトなアイビースーツが混在する様になる。1958年、アート・ケインがハーレムで撮影した一枚の写真が、ビバップからハードバップへと移り変わる、まさにその転換期を映し出して居る。
Miles Davis - 'Round Midnight (Audio)
「当時ヒップとされたスーツスタイルは、チャーリー・パーカーをスタイルアイコンとしたストリートファッションでもあったわけですね。彼の死後、グリニッジ・ヴィレッジを中心に、アイビースタイルが定着して行きます。3つボタンの上2つ掛けの、コンパクトなスーツが多くなって来るのもこの時期です。当時のマイルスは稼いだギャラのほとんどをスーツに使ってしまうほど、身なりに気を使っていました。ローマのカラチェニという高級テーラーで仕立てて居たのは有名ですよね」
「ニューヨークがメンズファッションの最先端で、ジャズマンたちが着こなすナチュラルショルダーのアイビースーツが、世界中の若者たちの憧れとなったのです。身体のラインに沿って仕立てられたマイルスのスーツは、彼の音楽同様、非常にコンテンポラリーに見える。彼はトラッドではなく、やっぱりモードなんです。後になって写真を見てみると、意外なほど同じスーツを着ている。気に入ったものがあると、そればかり着て居ると言うのもマイルス流ですね」
Miles Davis - My Funny Valentine 1964 Milan, Italy
若い頃は分不相応なスーツを着て、ヒップを体現していたマイルス。70年代以降はタンクトップにフレアジーンズ、派手なレザージャケットにギラギラとした大型のサングラスと、時代の流れを俊敏に嗅ぎ分けて、音楽性もファッションも変わり続けてきた。中年になると若作りするかのように、自己イメージを絶えず更新し続け、セルフプロデュースして来た。
時代とともに自らを変容させた稀代のスター
ジャズに限らず、すべての音楽ジャンルにおいて、黎明期・成長期・円熟期・衰退期と言うものがある。特に若者文化としての音楽と言う事であれば、約20年のサイクルを経て、新しいジャンルへと引き継がれてい行った。ジャズからロック、ロックからパンク、パンクからオルタナティブやヒップホップへ。
そうしたサイクルに埋もれる事なく、約半世紀にも渡り第一線で活躍して来たマイルスは非常に稀有な存在であり、ロックにおけるデイビッド・ボウイにも通じるのかも知れない。どちらもオンリーワンであり、彼らは決して後ろを振り返らず、その先へ進もうとした。ボウイの遺作となった『ブラック・スター』が、ふんだんにジャズのエッセンスを用いた事は偶然ではなかろう。山本氏のインタビュー記事は、ジャズからモッズ、そしてパンクや渋谷系へと話が脱線して言ったが、そんな中で印象に残る本に書いてある言葉を記しておきたい。
「ご存知の通り、マイルスは時代の変化を敏感に感じ取って、変わり続けてきました。アメリカン・カルチャーは常に進化を求め、前ばかり見て来たけれど、レニー・クラヴィッツがはじめて古き良き時代を振り返ったのだと思います。此れまでアメリカ人自身が封印していた60~70年代(ベトナム戦争以前)が、90年代に復活したんだと…。ファッションデザイナーで言えば、トム・フォードも同じかも知れませんね」
PAROLES, PAROLES - Những Lời Mê Hoặc
今回は此処までです。今回は続けて更新しましたが。それは私が言いたい事があったからです。また、暫くは更新が出来ません。此処の処。更新したblog記事を読んで頂きたく思って降ります。幼稚な拙い文で、ご迷惑とは思いますが.......。この記事は昨年に書いたものですが、ハッキングされて改竄されて居ましたので書き換えました。そしてコメントをなんでもいいので書いて下さいね。体調が悪い為。此れで暫く本当に更新は控えようと思います、此処まで読んでくれてありがとう、、