TV 番組 京都ブルース 2005.6.25
映像へのこだわり50年 「テレビを変えた日立の技術」 - 日立
Yohji Yamamoto x MJFJ 2016 Vol.2 ジャズとファッション
ー最初にー
丸山圭三郎と言う、哲学者をご存知でしょうか?
1980年代から1993年に亡くなるまで、世界的に第一級と認められるソシュール研究でその名を轟かせました。,独自の言語論・人間論・文化論を作り上げ,華々しい足跡を残しました。
圧倒的な明快さを誇る数々の著作で展開された「丸山言語哲学」は、現在のこの混沌とした時代にこそ、必要とされる哲学だと思います。
この彼の言語哲学とは、フランスの現代言語学の原点にして構造主義のバイブルとなったソシュールの『一般言語学講義』と言う著作があるのですが,ソシュール晩年の講義に出席して居た学生の聴講ノートを基に二人の弟子によって刊行されたもので、、
丸山氏は、このソシュールの言語学をさらに発展させ、彼独自の哲学に昇華させました......。その論理の一つを言いますと、物の名前があるからそのモノは存在すると言う考え方です。。
「犬」と言う言葉がなければ、「犬」は存在しません。ワンワン吠える生き物は「犬」と言う言葉(記号)があるから「犬」になります。「犬」という言葉がなければ「狐」や「猫」と同じでしょう。
シニファン(概念を表す言葉)。
シニフィエ(言葉によって表せられる概念)。
と言う事です。
フランスでは蝶も蛾も同じパピヨンですよ。
何故なら、この2種類の生き物を別々に表す言葉が無いからです。
それだけ言葉と言うモノは大切なんです。
丸山氏は「身分け構造」と「言分け構造」の理論から跳躍するために精神分析の知を導入し,言語論に立脚する独自の「無意識」理論を展開しました。.「無意識はランガージュの産物でありながら,ランガージュ以前であって構造化されて居ない」と言う逆説的な無意識像を提示し,その構造を説明するために「欲動」の概念を導入した彼は,欲動を「コードなき差異」として追求して行く事になります。
長文で失礼致しました。
今の世の中は「ら」を抜く。ら抜き言葉やら、言葉が乱れて居ます。
最近は、便利なので私も使って居ますが、、スマホで音楽をストリーミングして聴くと言う事が主流です。
私の様にラジカセやらステレオとかカセットデッキを繋げて聴いたり。ステレオでレコードを聴いたりする者はもはや少数派ですよ。
私はブルースが好きですが、最近のミレニアルの世代に「BLUES」と言う音楽の概念がそもそもありません。音楽が解らないんですよ。シャンソンなどはもはや死語です・・・・。
一般の皆さんはロックとかよくは知らないと思いますが。今の若者の言う「ロック」はヒップホップです。そしてラップとJ-ポップ。K-ポップ、そして、ノイズやらガーレジと呼ばれる音楽しか彼らの殆んどは知りませんよ。例えばルンバとか言ったって、そんなもの全然知りません。昔は色々な音楽の種類がありましたラグタイムとか・・・・・。もはや死語です。
私は最近になってロックギタリストのAKIさんと言う人と懇意になりました。彼は自作の曲も書きます。そして今、彼が演奏したブルースギターの音源を送って貰って、それに私のブルースハープのアドリブを入れる事になって居ます。要するにコラボです。
しかし、今、私は調子が悪く録音が出来ません。
私は、よく散歩をしますが、、コロナがまだ収まって居ずに感染者も多く居ると言う事は重々承知して降ります。ですが、、、散歩は私に取っての治療の一環で、散歩に出た時ぐらい、近所の空いて居る喫茶店やら蕎麦屋、古本屋に寄りたいのですよ。何時も一人ですから、、しかしこの状況下では最早行くのを流石に辞めて居ます。
私のblogを読んで居てくれて居るから解ると思いますが、此間、私は恥ずかしい話ですが尿道から血が出ました。内科の検査でも血尿が混ざって居るそうです。これらは飲んでいる薬の後遺症なんですよ。そして幻聴が聞こえ。色々と障害が出て来て、危険な状態に陥りそうに成りました。そして薬がまた数錠増えました。まあ、当分はこの状態で行くと思います。ただ主治医が私に言いましたが。「〇〇さんは自分で自分の病状が分かって居るから、、幻聴が聞こえても冷静に処理して居る。結構凄い事ですよ、」?と言われたけど・・・・・・。
人間、何時死ぬか分かりません。以前私は鬱が酷くなり、包丁で喉を刺して死のうとしましたが。ある本によって、死ぬのを思い留めました。。歯止めが掛かったと言うのでしょうか、私は今、自分の一生は何だったのかと考えて居ます。考えてもこれが、私の一生だったのですが。ならばそのもう短い一生を受け入れなければ成らない。私はあと1ヶ月足らずで生活保護の身です。もし通らなかったらその時こそ本当に死ぬしかありません。生きられないと言う事は死ぬしか無いんですよ最後は。ただ、此れからは日々を大切に生きて行こうと思って居ますよ。死ぬ時に。私の人生、此れは此れなりに良かったんだと思って死にたいですから。
今回書いた、言語哲学の事も参考程度に知って於いて下さいね。もし皆さん知って居たら大変失礼を致しました。
以上、長文に成りましたが。是似て、、( ◠‿◠ )
ーーkiyasumeーー
皆さん、歳取って居ても若者のファッションを真似ましょう。自分から老け込む必要は無いですよ。ジジ臭い格好やらババ臭い格好は辞めましょう。60歳、70歳はまだまだ若いですよ。充分にイケますからね。
今回はネット閲覧中に見つけた話です。皆さんは如何に平穏なのかと言う事を考えて下さいね。そのために引用します。個人名やらは出しませんし。私が読んだサイトにも載っては居ませんでした。本来なら許可を取った方がいいかとも思いましたが。その文は医師ならではの話であり、、此処にその医師に敬意を払って上げる事としました。それではお読み下さい。重い話ですが、、
診察室で彼女はこうつぶやきました・・目には一杯の涙を浮かべて・・
彼女が幼い頃から彼女の父親はいつもお酒を飲んでいました。飲んで・・暴れて・・・殴って・・寝る。そしてまた目が覚めると・・また飲んで・・・。
当然仕事はしておらず、父親の両親の仕送りと母親がパートで稼いだ少しのお金で必死に生活していたんです。でも大半は父親のアルコール代に消えていきましたから、借金ばかりが増えていったんです。
そういう訳で彼女は幼い頃から貧乏でした。いつも同じ汚い服を着させられ、欲しいものも買ってもらえず、ろくな食事も与えられず・・・給食費を滞納して同級生からからかわれる事もあったそうです。
でも、朝から晩まで必死に働いている母親を見ていると、どうしても文句が言えなかったんですね。
そして彼女が8歳の時に衝撃的な事件が起こります。
ある夜、母親と寝ている時に、酔った父親が、いきなり部屋に入ってきて、突然母親の頭部を蹴飛ばし、踏みつけました。大声を上げて、何度も・・何度も・・血だらけになって、意識がなくなるまで・・・彼女はその光景を目の前にして、何も出来ず、部屋の隅で泣きながら、ただ震えていたといいます。
母親は軽い脳震盪ですみましたが、次の日から彼女は父親が怖くてしょうがなくなりました。とにかく父親を怒らせてはいけない・・家が貧しいことにも決して文句を言わず、欲しいものも欲しがらない・・
父親にいくら殴られても決して泣かない。
学校でどんないじめにも耐え、自分がどんなに惨めでも、
下を向かないように生きていこう・・・
母親と姉を守りながら、必死に感情を押し殺し、
我慢しながら精一杯頑張ろう・・
幼いながらに、彼女は心にそう誓ったんです。
そう言う訳で、頑張り屋となった彼女は中学校を非常に優秀な成績で卒業、奨学金とアルバイトで高校にも進学しました。とにかくお金を稼げるようになって、大学に進学し、早く家を出たい・・・
そのことだけを考え、遊びにも行かず、恋人も作らず、ひたすらにアルバイトをしていたんです。
それから、奨学金とアルバイトで大学に進学し、卒業後はIT関係の会社に就職、そして逃げるように念願の一人暮らしを始めたんです。仕事面でも非常に真面目で優秀でしたので、すぐに昇進し、20歳台前半でも月に30万円も稼げるようになったんですね。
しかし・・彼女が家を出てからすぐに、父親は体調を崩してしまいました。病名は肝硬変・・原因はアルコール・・まあ、自業自得ですよね。
病気になっても飲酒は止まらず、入退院を繰り返すようになり、母親は何度も病院に足を運ばなくてはいけなくなったんです。そのためパートの仕事が出来ず、これ以上借金も出来なくなり・・・・結局・・・娘達に泣きつきました。
彼女の姉はもう嫁いで子供もいたのですが、夫の稼ぎが良くないため援助出来ないと・・・それを聞いた彼女は、今までずっと苦労している母親を不憫に思い、自分が助けるしかないと・・・
そして、なんと月に18万円ものお金を父親の入院費、母親の生活費のために、実家に送ることにしたんです。
30万円の給料の半分以上を親に送り、残った12万円で残りは家の家賃と生活費です。それゆえ彼女の生活は非常に切り詰めたものになりました。一生懸命に働いているのに、自分の好きな服は買えず、化粧品も一番安いもの・・・友達からの飲み会の誘いも断り、彼氏も作らずに、極力無駄なお金は使わない。頼まれた残業は一手に引き受け、朝早くに出勤し、いつも帰りは終電でした。
仕事に依存、没頭することで、
必死に自分を保っていたんですね。
そんな生活が2年くらい続いてから、ついに父親は危篤状態になりました。結局アルコールを止めることが出来ずに、肝臓、腎臓、心臓と次々と悪くなり、最後には透析を回して寝たきりの状態になっていったんです。父の状態が悪くなるたびに、母親から泣きながら電話が来るようになりました。母親を励ましつつ、両親の為にさらに必死に働き、彼女の体力は徐々に限界が近づき、精神的にも情緒不安定になっていきました。
慢性的な疲労感が取れず、仕事の前に急に気持ち悪くなったり、過呼吸発作を起こし、情緒不安定から過食やリストカットも繰り返すようになりました。
このままでは仕事が出来なくなると危機感を感じ、精神科を転々するんですけど、どこの病院に行っても、「うつ病」と言われ薬を出されるだけ・・・
一向に良くならず、最後に私の所に来たんです。
「母の人生を考えると、本当に馬鹿みたいだと思います。早く父親が死んでくれれば母も楽になるのに・・・」
彼女は涙ながらに訴えていました。未だに8歳の夜のことを思い出し、夜怖くて眠れなくなるといいます。会社で怒鳴り声を聞いたり、テレビドラマで暴力的なシーンを見るだけで、体が震えてきてしまうんです。
彼女の話を一時間程聞いてから、診断としては「適応障害」ですが、
ベースの性格を考えると「アダルトチルドレン」
いわゆる「サバイバー」・・過酷なストレス環境での生還者、
そして典型的な「PTSD」・・・原因は「親の呪縛」です。
身体的にも疲れ切っており、精神的にかなり不安定でしたので、ストレスから遠ざける意味でも親と連絡を絶ち、仕送りも減らして止めるように勧めたのですが・・・(両親には生活保護の申請を勧めました)
お金を送ることで、いつか父親は自分に謝ってくれる・・
母親が誉めてくれる、自分を抱きしめてくれる・・
母親だけでも見捨てることは絶対に出来ない。
だから絶対にお金を送りたいと・・・・・。
涙をこらえ、歯を食いしばりながら
そう呟いた彼女の顔はまるで幼い少女でした。
今まで、この子は、どんだけ我慢して・・・
どんだけ頑張ってきたんだろう・・・
決して報われない幻想の為に・・・
両親はどこまで・・
この子を食い物にするんだろう?
今までの経過を長時間聞き入り、彼女の過酷な運命を考えると、
私も思わず泣きそうになるのと同時に、
彼女の両親に対する物凄い憤りを感じました。
診察机の下で手を強く握りしめ、
震わせた拳を彼女に隠すのに必死でしたよ。
彼女のように親を恨んでいても、
最後には面倒をみてしまう人・・
非常に多いです。
私は同じような過去を持ち、20歳代前半で自分の体を売り、月に70万円もの大金を両親に送っていた患者さんも診たことがあります。その彼女の両親も何の躊躇もなく、その金額を受け取っていると聞き、ゾッとしたのを覚えています。彼女達はお金を送ることで親から見離されて居ない、親は自分を頼りにしてくれると言う安心を買い、何時か親が自分に謝る・・生まれ変わってくれるだろうと言う幻想に支配されて居るんです。切ない話ですが・・・・。
アルコール依存症の家族からなるAC(いわゆるACOA)の場合、問題があるのは父親ではなく、むしろ母親の方なんです。
アルコールに溺れる夫を捨てられずに、子供に責任転嫁し、死ぬまで夫のアルコールに付き合い、自分の人生も破滅させてしまう・・・さらに自分の身代わりを子供に押し付ける・・・。
もし娘を本当に愛しているなら・・・夫や自分のことで娘の人生を犠牲にするなんて考えられません。
母親は娘達の為に、夫を捨てなければならなかったんだと思います。もし捨てることが出来なくても、
「私達のことは、放って置いていいから、
あなたは、あなたの人生を生きなさい」
その一言を母親が彼女に言うことが出来たら、彼女の人生は変わっていたかもしれません・・・・。
でも彼女の母親も恐らく彼女と同じAC・・・もの凄い苦労をしてきたんでしょう。そして父親にも、お酒に溺れなければいけない理由があったのかも・・・。仮にそうだとしても、何とかして彼女の代でこの最悪のAC連鎖を断ち切らないといけません・・
彼女には以下のことを伝え、必ず良くなることと、今後も外来に来ることを約束しました。
「あなたの親は絶対に変わらない・・」
「あなたが必死に追い求めているのは幻想です・・・・」
「変えるのは親じゃなくてあなた自身・・・」
「親の為に生きるのではなく、自分の為に生きること・・・」
「そして自分を許し、自分を好きになって褒めてあげること。」
「父親が死んでもその呪縛は決して外れない・・・」
「あなたが変わろうと思わない限り・・・」
P.S.彼女は私の所に2年くらい通い、自分で過去の自分と向き合う作業(グリーフワーク)を行い、非常に良くなりました。何とか親の呪縛も断ち切り、今は結婚して一人子供を出産し、幸せに暮らしております。
逃亡中、奴隷たちは通常、昼間は隠れ家にかくまって貰い、夜中に次の「停車駅」へと旅をしました。ただし、毎晩、泊まる所があった訳ではなく、森や沼地に隠れなければならない事もあった。こうして黒人たちは南部から北部に逃れたのでした。日本の、部落民たちは、自分が被差別の出身がばれない様に、車には乗らず移動は鉄道で、そして自分らの集落がある家がある駅では決して降りないのだそうです、一駅手前か後の駅に降りて歩いて家まで帰ると本には書いてあった。部落民とは江戸時代に士、農、工、商、エタ、非人と言うヒエラルキーの中での最下層の人たちの事です。すなわちエタ、の史料では、すでに鎌倉時代中期の文献に差別の原型が記述されて居ます。その後、16世紀末に豊臣秀吉は、農民が田畑から離れることを禁じる為に、武士と町民・農民とを分けた身分制度を作りました。この身分制度をさらに進めるため、徳川幕府は歴史的、社会的な経緯で差別されて居た一部の人々を、著しく低い身分として固定し、職業や住む処を制限しました。
こうして被差別の形成が進み、その多くが生活や暮らしが低いレベルに置かれて行ったと言われて居ます。この差別されて居た一部の人々は、占術など神秘的な技能を持つ職人や芸人、そして、生き物の死にかかわる職業に携わって居ました。そして、科学が未発達であった当時、多くの人が抱いて居た「ケガレ意識」の対象として見られて来ました。神秘的であるが故に、畏怖の念から「ケガレ意識」の目で見られてしまったのでしょうか。観阿弥(かんあみ)や世阿弥(ぜあみ)が完成させた能をはじめ、歌舞伎や人形浄瑠璃などの芸能、寺社の庭師、武具や馬具、太鼓などの革製品の生産、竹細工に至るまで、現在日本の伝統文化と言われるものの多くは、当時の被差別民衆が担って来たものです。
1871年(明治4年)の解放令によって、こうした差別の身分制度は廃止されました。 しかし、被差別が長年置かれて来た厳しい状況は改善されずに形式的なものであったため、周囲からの偏見や差別は其の儘放置されました。明治以降の資本主義化による制度や産業の変革により、部落民が担ってきた皮革産業などの特権は資本家に奪われ、被差別の生活や実態はより厳しいものになって行きました。1922年(大正11年)の全国の結成は、被差別の人達が不当な差別を自らの運動によって解消しようと立ち上がった出来事でした。現在、行政、企業、宗教団体、民間団体等、多くの人や団体が差別問題の解消に取り組んでいます。しかし、今日に至っても、同和問題は結婚や就職など日々の暮らしの中で差別事件として、早急に解決が必要な現実の社会問題となって現れて居ます。(注)権力の関与の程度や成立の時期は現在も研究者の間で議論が進められて居ます。
学校で一番の問題児はわがまま育ちで嘘つきなメアリーだ。彼女は金持ちの権力者であるティルフォード夫人(フェイ・ベインター)の孫で、自分のわがままが通らない学校を嫌って居た。カレンとマーサを悩まして居る人物はもう1人おり、それはマーサの伯母で学校を手伝っているモーター(ミリアム・ホプキンズ)だった。モーターは元女優だが今はすっかり落ちぶれており、金銭的にマーサへ依存して居た。
また嘘をついたメアリーはカレンに怒られ仮病を使う。ジョーが往診に来て居る間、マーサとモーターは口論になる。モーターは、マーサがジョーに嫉妬してイラついて居る、マーサのカレンへの執着は異常だと彼女を侮辱する。その喧嘩を生徒が盗み聞きして居た。メアリーはロザリーがヘレンのブレスレットを盗んだ事実を掴み、彼女からお金を脅し取る。そのお金で勝手に家へ帰り、ティルフォード夫人に怒られる。どうしても学校が嫌なメアリーは、モーターの“異常だ”と言う発言を勝手に膨らませ、カレンとマーサが同性愛者であるかの様な話をでっち上げる。それを聞いたティルフォード夫人は驚き、すぐに他の父兄にもその事を知らせる。
学校では理由も解らないまま父兄が次々と生徒を連れ帰ってしまい、カレンとマーサは混乱する。要約、事情を聞き出した2人は、ティルフォード夫人の屋敷へ抗議に行く。カレンとマーサが屋敷へ行くと、ジョーも居た。夫人の甥であるジョーはカレンとの結婚を辞める様に説得されて居たのだ。3人はこの話が事実無根である事を訴える。しかし夫人はそれを認めない。そしてついにメアリーが呼ばれる。“2人が変な事をして居るのを見た”とメアリーは嘘をつき続けるが、その嘘はすぐにバレる。しかし“実は見たのはロザリーだ”とさらに彼女は嘘を重ねる。ロザリーもメアリーの陰湿な脅しに屈して“メアリーの言う事は本当だ”と嘘をついてしまう。
カレンとマーサの噂は町中に広がり、さらに裁判をした事で新聞にまで書かれてしまう。裁判は重要な証人であるモーターが証言を断った事で敗訴し、2人は家から出られない日々を送って居た。そこへ金に困ったモーターが図々しく帰って来る。マーサは伯母の無神経さに追いつめられる。カレンの事で病院を辞職したジョーは、3人でどこか遠くへ行ってやり直そうと言いに来る。マーサはこの申し出を前向きに考え様とするが、カレンはジョーの変化に気づいて居た。どこかで自分たちを疑って居るジョーを信頼出来なくなって居たカレンは、彼と別れる。それを聞いたマーサは激しく動揺し、自分がカレンの事を愛して居るのだと打ち明ける。マーサは17歳の時からカレンに恋愛感情を抱き、そんな自分を責め続けて来た。
そこへティルフォード夫人がやって来る。子供たちの嘘がついに判明したのだ。謝罪をしたいと言う夫人を、2人は冷たく追い返す。カレンはマーサを励まし、1人で散歩に出る。しかしモーターがマーサを探す声を聞いて急いで家に戻る。マーサは自室で首を吊って自殺して居た。マーサの葬儀の日。多くの人が遠巻きにカレンを見つめる中、彼女はマーサに別れを告げる。そして誰にも声を描ける事なく、1人でその地から去っていく。
「噂の二人」The Children's Hour
まだ観た事が無い人が居たら。是非、観て見て下さい。今の時代みたいに同性愛者の人権もクソも無かった1960年代初頭の映画です。私が、今回、言いたかった事は差別についてです。誰だって差別をされるのは嫌な筈です。しかし心ない人、いや誰でもが差別をして居ます。此間テレビを見て居たら女子プロレスラーの木村花ちゃんの事がニュースで流れて居たが、どういう話かと言うのは皆さん知って居るかとは思いますが。テラスハウスと言う番組の事で番組内での出演者とのやりとりをめぐり、SNS上では木村さんを誹謗(ひぼう)中傷するコメントが集まって居た。 同番組は共同生活する男女6人の人間関係に密着するもの。同日の番組では、大切な試合用のコスチュームを間違って洗濯し、縮ませた男性出演者に木村さんが激怒。その男性がかぶっていた帽子をはね飛ばすなどした。直後から非難の声が相次ぎ、中には「ヒステリックゴリラ」などエスカレートした内容も。その後、自身のSNSでは「もう人間なんかやりたくない」などと書き込んで居た。
自殺を図ったとみられる23日未明には「おまえが早くいなくなればみんな幸せなのにな。まじで早く消えてくれよ」と言う中傷に「いいね!」を返した。さらにリストカットされた手首の写真とともに「毎日100件近くの率直な意見。傷ついたのは否定できなかったから」「愛されたかった人生でした」などとSNSに投稿。続けて「ばいばい。」と、死をほのめかすような言葉を書き込んで居た。
木村さんは悪役レスラーと言う事もあり突っ張った言動を取る事もあったが、関係者によると「内面は自己評価の極めて低いタイプで、自分のマイナス点ばかりに目を向ける。感受性が強くすぐに泣いてしまう」と言う性格。「テラスハウス」について「自分で自分を“キモい”と思いながら見て居る」と話して居たと言う。
関係者は「中傷に正面から向き合ってしまい、押しつぶされてしまったのでは」と無念そうに語った。木村さんのものと見られるインスタグラムのアカウントには23日未明、目を閉じた自身の写真とともに、「愛してる、楽しく長生きしてね。ごめんね」と言うコメントが投稿されて居た。
スターダムは「突然の事でファンの皆様、関係者の皆様には深いご心配と、哀(かな)しみとなり、大変申し訳ございません。詳細につきましては、いまだ把握出来ていない部分もあり、引き続き関係者間の調査に協力してまいります」とのコメントをホームページ上に掲載した。フジテレビは23日、「木村花さんの突然の訃報(ふほう)に接し、言葉を失っております。ご親族の皆様へ謹んでお悔やみ申しあげると共に、ご冥福を心よりお祈り申し上げます」とするコメントを出した。そして昨日。インスタグラムやらSNSで、嫌がらせの誹謗中傷を書いて居た大学生が起訴された。本人は謝罪したそうだが、、こう言うバカが如何に多いか。私が大学に通って居た頃も大学生の大半は皆、バカだった。人をおちょくり、テストはカンニングで済まし。レポートは人のレポートを写して提出して居た、大学生が如何に多かったか。
最近のレポートやら宿題は少し前ならフロッピー。今ならDVDで提出だから、殆んどの文を自分では書いて居ないと教授たちが嘆いて居た。そしてこう言って居た教授も居た。コピぺでもいい。なぜなら文を読むからだ。最近の学生はそれすらしないと......。その大学生は木村花ちゃんを自分が殺した事に付いてはどう思って居るのだろうか。もう、その大学生の兄弟も親も親戚も世間から非難の目を向けられて一生を過ごすのだ。そして自分は「ごめんなさい」で済ませるつもりか?司法は黙っては居ないぞ。人を間接的にも殺したんだ本来なら死刑だが。情状酌量の余地もあると見做されるのだろう。数年は刑務所行きだな。私のblogも今だに書き換えられて居る。しかし誰がやって居るのかは見当も付き掛けて居るのですよ。やって居ればいい。私はもうどうなっても知らないです。散々辞めてくれと言って来た。改めて木村花ちゃんのご冥福を御祈り致します。
- 木村花さん(20年1月4日撮影)
ーコンサートの思い出ー
私は残念ながら此処20年近くもコンサートやら、ライブハウスには行って居ない。最近のライブハウスは、音楽以外の、例えば小説家やら漫画家、映画監督のトークショウなども開かれて居る様だ。私は13年ほど前に入院した時に知り合った人と行こうかとも思って居たが、彼は有名大学院を出て居て、頭はいいのだが、ライブハウスと言うと露骨に嫌な顔をするのだ。そして言うのだった「〇〇さん、私をライブ・ハウスなんて訳の解らない処に連れて行かないで下さい」と。
当時、私は49歳頃。彼はまだ30歳の若さだ。私は勉強だけで来た人は何て詰まらないんだと思う。お勉強だけの世界で、外界の事は殆んど何も知らないのだ。いや、彼は美術館巡りはして居る。入院中も外出の許可を取り、国立新美術館に行って「クリムト」を見て居る。ただ、どうしても。お勉強なのだ。まぁ、私とは違った次元に居るのだろう。
私は前に偶に美術館などに見に行くと言う事はあったが。本当に偶にだ。今日、訪問看護婦が来たので、「自分のアパートの近所の駅前の不動産屋に、6畳間と4畳半に3,5畳のお勝手が付いて、トイレ、風呂別でベランダは無いが洗濯機は玄関の横に設置できる物件で、4万円の格安の物件があるが、もう3ヶ月にも成るのに、借りてが居ない」と言って、「前に若いヘルパーがスマホでアプリを立ち上げて孤独死の物件じゃないかと言って、私のアパートの近所を表示させたら、なるほど13件も孤独死の物件があった」と言ったら、黙って居るので、私も最後は「孤独死だから」と言ったら「そうね」と言って頷いて居たが。まあねぇ、、確かに孤独死だろうねぇ。私は死んでも誰も解らないでしょうね。まあ、それだけ一人暮らしの老人が多いと言う事だろう。
さて、話がずれたので元に戻すが、私は20代の頃は今まで書いた様にライブハウスにも自分は出て居たし。コンサートにも出場した。そして海外のミュージシャンのコンサートは結構観に行って居た。しかし私は例えばエリック・クラプトンなどのロック・ミュージシャンのコンサートには行かなかった。エリック・クラプトンが日本で華々しくコンサートを開いて居る時に、私はその陰でのコンサート。例えば黒人のブルースマンたちのコンサートを観に行って居た。
吉祥寺にあるライブハウス「次郎吉」などで「ミッキー・ベイカー」などのアグレッシブなギタリストでシンガーのブルースマンなどを聴きに行って居たのです。「オーティス・ラッシュ」も日比谷野音で見て居る。日本人のロック・ミュージシャンの日比谷野音でのコンサートの時には、何故か外国人の女の子たちが素足でやって来て、見て居た。当時はヒッピー・ムーブメントの無残りでそう言う子たちが居た。その時に日本が誇るブルースバンド「憂歌団」が出たのだが。
その外人の女の子たちは、彼らがベースとドラム以外は生ギターのカルテットだと蔑んで大笑いをして馬鹿にして居たが、演奏が始り彼らのブルースを聞くと反対に「オーマイ・ガット!!」と言い手拍子を仕出した。そして隣で聞いて居る私に「あの連中は何時から居るんだ。日本人のブルースは素晴らしい!!」と感激して言って居た。私はなんか嬉しく成ったものだ。ただ先に行った「次郎吉」でのミッキー・べイカーの演奏の時に、私がカセット・ウォークマンで録音して居たのがミッキーベイカーに見つかって仕舞った。
彼は怒って1時間半あったライブを1時間で終えてしまった。私のせいなのです。でも彼をサポートして居た。ピアニストのチャールズ清水は、私の方を見て片目でウインクして、「皆さん、今日はミッキーさんは調子が悪いそうなので、此処までです」と上手くその場を仕切ってくれて居た。BBキングとアルバートキングのジョイント・コンサートでは会場入りして、ステージに上がる前の処を友人と二人で写真を撮ったのだが彼ら二人は女の子と手を繋いでやって来て、ポーズを取ってくれたのだった。
そのコンサートの模様は録音して居て今もカセット・テープは持って居る。中野サンプラザでのコンサートの模様だ。コンサートが終わって、楽屋に行った私と友人のギタリストはBBキングに「ブルース・ギターがどうやったら、巧く弾けるかコツを教えて下さい」と言ったら。BBキングは側にあった紙に耳を描いて、「良くブルースを聞く事だよ、そして感じろ。フイーリングを掴め」と言って居た。そのコンサートには最前列には日本のロック、ブルースのギタリストたちがほぼ全員居たのではないかと思う程、皆んな観に来て居た。丁度、そのうちの一人が私の方を振り返って見たのだが。なんと「クリエイション」の竹田和夫だった。その隣は「テン・パン・アレイ」の鈴木茂だった。そして、ブルース・ギタリスト、ウエスト・ロード・ブルースバンドの塩次伸二も居た。
その他。今はなきジャズ・クラブのピットインでの「フイリップ・ウォーカーとブルースハープのジョージ”ハーモニカ”スミス」などやら、ジャンプ・ブルース・ギタリストの「ゲイトマウス・ブラウン」テキサス・コールドギターの第1人者「アルバート・コリンズ」などを見た。また忘れられないのは。中野サンプラザで見た。フィリップ・ウォーカーとハーモニカ・フランクとのジョイントコンサートでの事。私はその頃左腕を捻挫して居て包帯を左手に巻いて見に行ったのだが、何と、音楽評論家の中村とうよう氏が私の席の隣で、氏は自分の隣が私だと知ると立ち上がって会釈をして、私を座らせたのだった。紳士なのだ。
そしてコンサートの途中でハーモニカ・フランクがブルースハープのkeyが暗くて良く解らないと、「灯りをつけろ!!何やってるんだ、暗くて見えないだろう!!」と叫んだ。その時に照明係がその声に気づかされて。照明を「ハーモニカ・フランク」に当てたのだった。私は中村とうよう氏が好きだったので、流石だと思って見て居た。以上が私の思い出のコンサートだ。他にも話はあるが今回はこの辺にして置きます...。
McHouston (Mickey) Baker with Coleman Hawkins Quintet South Of France Blues.mp4
Lay You Down
Clarence Gatemouth Brown-Okie Dokie Stomp
B.B. King - Sweet Little Angel (Live)
Creation - Tobacco Road 1975 タバコロード/クリエイション
『鈴木茂 GET BACK SESSIONS Special "BAND WAGON" LIVE』ライブDigest
憂歌団 パチンコ
私が好きな青木志貴ちゃんです。。。彼女は声優で、モデルで、舞台俳優で、歌手で、アパレル・ブランドのデザイナー兼、オーナーで、コラムニストで、ゲーマーでユーチューバーです。皆さんも応援お願い致しますね、、、
みちしるべ - Violet Evergarden {tradução}
若い頃、好きだった風吹ジュン。一度、明大前の肉屋で小型犬(名前が分からない)を連れて肉を買って居て。たまたまカツを買いに行って居た、隣に居た私に微笑んで「此処の焼き豚美味しいよ」と挨拶代わりに教えてくれたのを思い出します。
調子が悪くて読めて居ない書籍たち。読まないとなぁ〜〜〜!!
今回は此処までです。過去記事からの再編集版でしたが。今、また読んで貰いたく再び掲載しました。また読んで下さって有難う御座いました。それではまた更新出来たら。お逢いしましょう。。。