'Bridge Over Troubled Water' - Simon & Garfunkel 【lyrics & 和訳】サイモンとガーファンクル「明日に架ける橋」1970年
或日、私が食事をして居たら、バカ親父が突然、私のおかずの魚を寄越せと言って、箸で引ったくってバリバリ食べ始めた。そうしたら「おめぇのおかずを全部俺に寄越せ〜!」と私の食べていた皿事引ったくって抱え込んで食べ始めた。私はその浅ましさに、吃驚し、そして食欲が無くなった。そうするとあのバカ親父は「食べないなら。おめえの飯も俺に食わせろ!」と言って、茶碗を私からもぎり取ってガツガツ食べ始めた。一体なんだと思った。母は「まあ、食い物の恨みは凄い事になるわよ」と言って笑って居る。明らからにバカ親父の様子が変なのだ。普通は人が食べて居る食事を寄越せと言って喰うまい???それからこんな事もあった。私が部屋で本を読んで居たら、突然部屋に入って来て、「おめぇはな、腕にこんな筋肉を付けてな、腹は腹筋で割れ、そして脚は競輪選手見たいになれ!!」「何言ってるんだ50歳廻った息子に対して!!いい加減にしやがれバカヤロー」と言うとこう言うのだ。「ランボー見たいな体におめえはなれ!!俺はそう言う風になって貰いたいんだ!!」私は激怒して言った「い、い、か、げ、ん、に、し、や、が、れ!!この大馬鹿野郎!!」思うに親父は頭がおかしかったのだろうとは思う。認知症になると男の場合は見境が付かなくなる。しかし何故、、周りが気が付かなかったのかだ。この事は何遍も書いて来たが、あのバカ親父がフランス料理のフルコースで、突然料理に顔を突っ伏して意識が無くなった時に、私は親父の挙動不審な様子を見て居て、すぐに救急車を呼んだのに、お袋は、「お前はお父さんが突っ伏すまで見て居たじゃ無いか薄情だ」などと言う、あの日は、バカ親父は散々私の事を色々と蔑んで言って居たのだ、それなのに、私が気づいて一早く救急車を呼んだのだろうに、、私が統合失調症なのは、バカ親父のせいだろうに。あの人がおかしかったから、私も脳の障害が出て来たのですよね、、、
此処でバカ親父の事をもう一回記載して置きます。。。
正月に、弟がプリンスホテルで食事会を模様した時だ。あのバカ親父は当時、私はカカトが6センチあるブーツを履いて居たのだが。親父は車の運転は止められて居て。以前に車を運転するなと医者から止められて居たのに「おりゃ〜〜。大丈夫だ。運転するんだ!!」と言って。母が居ない私と二人っきりの時に私が怒って止めたのに、車に乗って行った。そして運転をして車のケツを振って帰って来たから。私が怒って家中のガラスのコップを叩き割ったら、それ踏んでバカ親父が怪我したと帰って来た母が言って居たが。私は怒り心頭だった。もし事故でも起こしたらどうなるのだ。この時も皆んなして電車で行ったのだが。あのバカ親父は背が自分よりも私が大きく見えると言って「このバカヤロー。ブーツ脱いで来い」と怒鳴りまくった。私は「イイ加減にしろバカヤロ〜〜!!」と怒鳴った。そして駅に着くと「ブーツを脱いで見せろ!!」と言うのだ。私は黙って居た、そうしたら「こいつはなぁ、チビなんだ!!」と周りに聞こえる様に言う。私はこんなバカヤローは居ないと思って居た。そしてホテルに着いて姉さんたちがまだ来て居ないので。ラウンジで待って居たら。あのバカ親父はおどおどして居て、「俺が見に行って来る」と居なくなったが。すぐに帰って来て「遅いな〜〜!」と言って居たら。姉さんたちが要約やって来た。そして食事会が始まった、フランス料理のフルコースだ、弟が家族のために奮発してくれたのだ。私は弟に「お前、無理したんじゃないか、これ8万円ぐらいのコースだろう」と言うと。彼奴は微笑んで居た、しかしその直後。あのバカ親父は私の名を呼んで「喰え喰え喰え!!」と言いながら自分はフランス料理にむしゃぶりついた。私は嫌な光景だなと思って前菜を食べ出したら。いきなりバカ親父は顔を料理に突っ伏して気を失って仕舞った。私は冷静にその一部始終を見ていた。そして、私は大きな声でホテルの従業員に救急車を頼んでくれと言った。
そしてコーヒーを注文して飲んで居たら救急搬送の人たちが怪訝そうな顔をして、部屋に入って来たので。私が状況を説明しようとしたら「うるさい!黙れ!」と救急隊員の人から罵声を浴びせられた。そうしたら。あのバカ親父はひょっこり起き上がって、「なんだ皆んな、どうしたんだ、おりゃ寝てたんだ!!」と言った。救急隊員たちは怒りまくった。それはそうだろう元旦にフランス料理のフルコースを食べて居て、気を失ったバカを見て居るのだ。そうしたら、弟は下を向いて複雑な顔をして黙って居たが。私が言った「弟は医者ですよ。私の隣に座っている兄貴も医者です」そう言ったら。要約、「なんだお医者さんの一家でしたか?」と言って低姿勢になった。「先生・・・。」と救急隊員の人が私に話し掛けるので「俺は違うだろ!!」と怒鳴った。そうしたらあのバカ親父は「なんだ、なんだ?。おりゃ、寝て居ただけだぞ???」と言う。私はこんなバカヤローは親でもなんでも無いとは思ったが。気落ちして居る弟と姉さんたちが何も言えないので。母と2人で「気は戻ったけれども、一応病院まで搬送して下さい」と頼み込んだ。そして弟が乗り込んで搬送先の病院まで行った。あのバカのおかげで8万円の料理が全て台無しになった。皆んなして部屋を出ると会計はもう弟が前もってしてあったので家に帰って来た。2時間ぐらいしてから弟がタクシーであのバカを連れて帰って来た。医者の家系だと言ったら下にも置かれなかったそうだが。そうしたらあのバカ親父は腹が減ったと言うのだ、仕方が無いんで出前でラーメンを取った。帰って来てもあのバカ親父はまだ言っていた。「なんだ。おりゃ〜〜、眠っていただけなのに!!」おそらくは脳梗塞を起こし掛けたのだろうとは誰でも想像が付く。認知症は困る、、
ブラック・ナイト ディープ・パープル
それから親父のパチンコ狂いの日々が始まった。毎日会社が終わるとパチンコ屋に行くのだ。そして、店が閉店になるまで7時間居るのだ。初めは私に「おいATM で通帳から金下ろすのはどうしたら出来るんだ?」と聞いて来たが私は一切教えなかった。だからあのバカ親父は自分では金を下ろせないから、母から小遣いを貰って居たはずだ。そして金が無くなるとパチンコ屋で、隣の人が打って居るのを被り付きで見て居て。仕舞いには「このクソジジイ。球でも欲しいのか!!。何時も何時も隣に来て見て居やがって。乞食野郎!!そんなに欲しければくれてやる!!」と言って数10発玉を叩きつけられる様に貰うと、それをありがたがって使ってまた遊び。そして、それもなくなると床を張って。落ちている球を拾い、それでやって入ったと帰って来て私に得意げに言うのだ。そして帰って来ると会社のジャンバーを着込んで居るからタバコのヤニの匂いが凄まじい。私は怒って言った「あんたさ、このヤニの匂い何んだ。この大バカヤロー。肺癌に罹って死にてえのか。」そう怒鳴ると「おめえは何を言っているんだ。」と言うのですよ。だから私がまた「癌になりたいのかと言っているんだ!!」と言うと「ああ、俺はなぁ、親父が72歳で死んでるんだ。だから俺も生きても72歳だ!!」と言う。
そして私が当時は、放送大学の芸術論と心理学をテレビで観て居たが。すると。決まって観させない算段をワザとする。私の前でわざと夕刊を広げるのだ。そして言う「人間はなぁ、勉強は学生時代だけすれば良いんだ!あとは遊んで暮らすんだ!!」そして勝手に人が見て居るのにスポーツ・ニュースにチャンネルを変えるのです。時間はもう12時を廻って居る。そして当時は松井選手が評判で人気があったが。夜中になんか寝ていたら、何処かからスポーツ中継の放送が聞こえて来る。時間を見ると夜中の3時だ。私は父と母の寝室に行って見ると母は寝ているがバカ親父は居ないのです。そして音が聞こえる方を辿って行くと。弟の留守にして居る部屋で、BS放送のアメリカでの松井の大リーグの登板を見て居る。そして松井が出て来るとこう言うのだ「ゴッジラが吠えるぞ〜!!」私は呆れて言った。「おい、親父!!ビデオに録画して置いて早朝見ればイイだろう!!」するとこう言うのだ。「バカヤローだな、てめえは、野球はな、その時見るものだ。」私はもうこんなバカは。どうなっても知らないと思って部屋に入り、鍵をかけて寝て居た。
それから数日経って。私は小さめの丸いメガネを購入して、それを掛けて会社に出勤した。周りの社員たちは「そのメガネ洒落て居ますね。ジョン・レノン見たいですね!!」と言ってくれたが。いきなりバカ親父がやって来て「なんだ?このちっこいメガネは。大体がお前は目つきがおかしいんだサングラスを掛けてろと言っているだろう!!」と。丸いメガネを手で払って叩き落とした。私は身体中から怒りが汲み上げて来た「この腐れ外道が!!」と言って親父をぶん殴って居た。そうしたら親父は言った。「大体がお情けで会社に入れて貰って於いて!。何だその態度は今日かぎり首だ!!出て失せろ!!お前何かいなくなれ、バカヤロー!!」私は前の日にギターを道路に叩きつけて壊していたから。もう辞め時だと思って居た。そして正式に会社には行かなくなった。母は認知症になり掛かって来て居た。大体が統合失調症だと親に言って、本も買って来て読んでくれと言って居るのに。母も親父も読みはしなかった。そして倒れる様な薬を処方されて飲んで居るのに。会社で肉体労働をさせた。障害者年金だって貰えたはずなのに手続きもしなかった。障害者年金は10万は貰えたのだ。年金と合わせれば18万位にはなる。いやそれを少し超える額か?私は働いて居て一時期は無理が祟って34kgも体重が減った事もあった、身内でさえ冷たいのだ。他人が誰が私を気遣ってくれる人が居るのだ。そして、家に居ながら暮らして居たら。姉さんから電話が掛かって来た。
姪が結婚するとかで。その結婚式はハワイで行うとの事だった。処が問題があると言う。新郎の背が低いのだ、姪は身長が170センチはある。だからハイヒールを履くと176センチくらいにはなる。だから私がたまに履く。6センチのブーツがどこで売って居るのか聞きたいと言うのだ。私は「だって男用のヒールのブーツだよ?」と言ったが「バカヤロー!!さっさと教えろ!!」と言うのですよ。私はそれよりもシークレット・シューズの方が良いのではないかと思い。ネットで調べて居ると「このクソバカヤロ〜〜。さっさとしやがれ!!」と怒鳴る。私が姪の旦那の身長を聞いても言わない。何センチぐらいだと聞いても言わないので。多分165センチぐらいだろうと思ったから5センチと7センチのシークレットシューズを紹介したら。「どこに行けば買えるか、ちゃんと教えろバカヤロ〜〜!!」と言われてマジギレしたくなったが。「銀座に「トールシューズ」と言うシークレット・シューズ専門店があるから。行ってみれば試着できると思うよ。それからネットからも購入する事が出来る見たいだね」と言ったら「ネットのアドレス教えろ!」と言う。私はそんな事ぐらい自分で調べる事が出来るだろうとは思ったが。アドレスを教えたら電話は黙って切れた。その後。姪は結婚したが一度も母と私の処に挨拶には来なかった。姪の旦那の姉さんは世界に名だたるバイオリストで。旦那は東大卒で資産家らしいが、どうやら礼儀を知らない連中らしい。
そうこうして居たら、言った通り。バカ親父が肺癌に罹った。自業自得だ。そして入院をした。母はカードで見られるテレビ付きの個室の病室を当てがったが。あのバカ親父はカードを1日5枚は使って居た様だ。毎日数時間テレビを見て居たのだ。ある日。バカ親父はオムツをして居るのにトイレに行きたくなったと言い。身体中にさしてある管を抜いて自分でトイレに行こうとしたらしい。後から主治医と看護師から言われた「あんたの父親が何したか病室に行って聞いて見ろ!!」その当時はバカ親父は2人部屋になって居た。病室に行くともう一人の入院患者が言って居た。「下の始末なんざ、看護婦がするのになぁ、、あの人はオムツも外して廊下でうんちと小便垂れ流して糞尿まみれになったんだよなぁ」私はかわいそうだなどとは、とても思えなかった。どこまでバカなんだと思っただけだ。そして親父は肺癌と骨癌に罹り、病院から電話が掛かって来て。私と姉夫婦と弟が病院に呼ばれた。母はすでに認知症に罹って居て調子が悪くて寝て居た。そして担当医が言うのだ「もう手遅れ状態ですね、骨癌にも罹っているし肺炎にも罹っています。注射をしようと思うのだけども、すると死ぬ確率が高い。私はねぇ、患者から訴えられたくないんだ!!」そう言われ最後は安楽死を主治医から強要された....。弟は「あの医者、訴えてやる!!」と怒ったが、私が「辞めて於と言った。お前も医者なんだから泥試合になるぞ」と言った。あんな手の掛かる末期癌の患者は早く始末すると言う事だ。医者は患者を治すとでも皆さん思っていますか。大抵の医者は患者は特に重症患者は見殺しにするものなのですよ。
さあ、、バカ親父とも最後だ。私はなんかスッキリした気がしていた。ただ癌の末期患者が収容される部屋に入って。口を開けて目を閉じて身体にチューブが刺さっていて。一見意識がないであろう。。横たわって居る親父の手を握り。「親父、、意識がない様に見えるけど、意識あるんだろう。あったら俺の手を握り返してみな」そう言うと。あのバカ親父は必死になって渾身の力で私の手を握り返して来た。そんな様子を見ていて弟が言った。「兄貴、金なら今1千万貯めた金がある。金なんてまた貯めれば良い。親父をもっと設備の整った良い病院に移して末期治療をさせる」と言ったが私が言った。「この人の運命が此れなんだよ。金はお前たちには子供がいるんだから大切に取って置きな。親父はもうダメなんだよ。散々周りに迷惑を掛けてくれて、、もう最後だな.....。」そう言って居たら母が病院に到着した。するとバカ親父は目を開けてこう言った。「鳥が居る。お母さんこの下は鳥屋なのかい?」そして「ショールが舞って居る綺麗だなぁ、あれお母さんのかい。」幻覚を見て居るのです。母も私も黙って居た。さて、これから、安楽死になるのだ。自業自得です。暫くして看護師が来て注射をした。そうしたら親父はかすれた声で何かを言ったが何を言ったかは聞き取れなかった。そして死んだ。。。
弟の嫁は泣いてくれたし弟も泣きそうになったが。私が泣かなかったから我慢した見たいだ。母はすでに認知症の毛が出始めて居た。母も最後は立ち会ったが私があえて母を親父から遠ざけて居たから。母は側で見ては居たが、よく臨終の際は解らなかったらしい。その後。母から私は言われた「お前のせいでお父さんと最後のお別れが出来なかったよ!!」そして母は重度の認知症になって行った......。この様に特に男の認知症は始末に負えませんね。しかし私もこの親の子だ。自分が父親見たくはならない様に気を付けたいです。私の場合は両親とも認知症だし。私は統合失調症の病気持ちです。私は一見、健常人とは変わらなく見える。確かに此の間来た、訪問看護師の女性はkiyasumeさんは頭がしっかりして居るし。分別もある(おかしい事やおかしな身振りをしないと言う事)とは言ってくれては居るが。最近自分でおかしいと思う事がありますよ。病気のせいですね。だから治療に専念する為にblogを今回で閉じるのです。此処まで読んでくれて有難う御座いました。。。
最近、一人幽霊に出くわす。此間は駅前の書店に居た。「お前さあ、こんな本は読まないだろう。そうだろう、だから聞いてんだよ」とあたかも相手が居るか如く一人で勝手に喋って居る。見れば年の処、30歳ぐらいの中年の男だ。見た目は少し小太りな中年に成り掛けの青年か?と言う様な出で立ちだ。頭がおかしいのかと思うが、ごく普通に話している。多分、彼の耳には相手の声が聞こえて居るのだろう。以前にも居た。電車に乗って居た時だ、矢張り30歳ぐらいの男だった。彼も小太りだった「本当によう〜。俺、困っちゃったぜ。もう、お前と来たらよう・・・」とか一人で話して居た、病院にも一人居た。彼は痩せぎすの23歳ぐらいの青年だった。「俺さあ、あれほど皆んなが居る前では喋ってはダメだと言って居たろう?なんでおとなしく黙って居ないんだよ・・・」と言って居た。此間は、本屋で本を2冊買って、お金が端数4円と言われたので、「ちょっと待って下さい・・・」と探すが、こんな時に限って小銭が無い。なので「すみません4円あるかと思ったら無かったです」と3千8百円を渡すと。「ブックカバーをお付けしますか?」と聞かれた。「いや、いいです.....。」と言い。お釣りを貰って、会計から離れると、「今の人はおかしくなかったわよ?」と女の子の店員が若いイケメンの青年の店員に話し掛けて居たら、彼は大きく頷いて居た。私は「ちょっと、俺もおかしく見えて居るのかよ?」と思い、店の中にある鏡の前に立って自分の姿を映してみた。確かに、私は若作りだ。今時こんな格好をしている初老の男は居まい。でも、そんなにおかしくは見えまいとは思う。
しかしこの間、J:COMの営業が来て一緒に家の近辺を歩いて居たら。前から来た50歳ぐらいの奥さんがジーと私を見て居た。私は目が合わない様にしたが、しばらく自転車を押しながら見て居た。確かに、歳取ってから長髪にして居る人はあまり居ない。と言うか。ロン毛の若者も余り見ないご時世だ。最近は増えては来たが。私は1970年代風ファッションをして居るだけなのだが、矢張り目立つのだろうと思う。ヘルパーのオバハンが「何時もちゃんとした格好をして居るけど、堅っ苦しくないの?」と此の間聞いて来た。私は少しびっくりして「なんで?」と聞いたら、「だって何時も白いワイシャツか黒いワイシャツを着ているじゃない?」と言う。「そうですね・・・」と言ったら、「それ汚れたらどうするの?」と言う。私がその時は洗濯しますよと言うと。「替えはTシャツ着ないの?」と聞いてくるので「Tシャツは、最近、殆んど着ないですね」と言ったら「へぇ〜〜。」と言うので、「替えのワイシャツはありますので、、」と言ったら。「いちいち洗うんだ〜」と言って不満そうにして居た。私は映画監督の小津安次郎がいつも同じ格好で居て、不思議に思った女優が小津監督の家に行った時、監督が席を外した隙にタンスを開けたら。同じ服が沢山ハンガーにぶら下がって居たと驚いたと言って居た話を知って居る。お洒落とはそう言った物だと思う。人間こだわりを持たないと行けない。今は、ファスト・ファッションの時代だ、みんな脱個性派の格好をして居る。それは言い方を変えれば世の中、世間に溶け込む方法でもある。1990年代に入ってから個性的な格好をして居る人はメッキリ少なく成った。私はその頃40代だった、そしてミリタリージャケットを羽織り生活をして居た。今やミリタリージャケットを着て居る人は少ない。ああ、此の間、歯医者で同じ60代の親父が来て居たっけ....私は原田芳雄さんを真似ただけだが・・・。1990年代から2000年代に掛けてはミリタリーファッションが流行ったものだ。
しかし今は何来てもいい時代だと思う。私が、50代の頃、矢張り髪を長髪にして帽子をかぶり、長めのコートを羽織って、冬場、認知症の母を連れて歩いて居たら、若者から「あの人、目立つ格好を仕手居るよな・・・」と声が聞こえて来た事があった。見るとその若者二人は安手のパーカーにマフラーを仕手居たが。最近の若者は虚栄心が強い。ちょっとカッコイイなと思う若者を見ると人の目を気にして男も女もスノッブな感覚で歩き始める。原宿のある人気ナンバーワンのカリスマ美容師の元には日本全国から若者がやって来る。皆んな彼による。カッコイイ髪型を求めてだ。しかしその美容師は注意深くその若者を見て、例えば前髪を長くして目を隠している若者には、「眼が大きいのだから、前髪を切ろうと思うのだけども、どう?」と聞く。若者はその美容師の言う事は意味があるのを知っているから任すのだ。そうすると俄然カッコイイ髪型にしてくれる。思えば若者はいい。美容師でもスタイリストなカッコイイ髪型に仕手呉れる美容師が居る。それに比べたら、年寄りには、そんな美容師は居ないし、大体が髪は短めにするのが決まり見たいな風潮がある。私はよく年配の方から「ご職業は、物書きですか?藝術家ですか?」と聞かれることが多い。そんな時は何時も「ミュージシャンです」と答えて居る。。。私は50代の頃の自分に戻しただけなのだ。それは20代の頃やら30代の頃に戻したいが、寄る年波には勝てない。此間、美容院でパーマを掛けて貰って居たら、57歳ぐらいのハゲ掛かって居る親父が髪のカットと染めに来た。私は此の男は何で床屋に行かないんだと思って横目で見て居たら、その男は真ん中が禿げて居るのに、周りの毛を短く刈って貰って居る。
そいつにこう言われた「あの人、女?何で髪の毛あんなに長くして居るの?俺は女かと思ったよ。フン!!」。私は自分よりも若いその男を反対に軽蔑の目で見てやった。「あんた歳幾つだ?長髪の歴史も知らんのか?バカはどうしようも無い。」と思った。美容師は私の手前何も言えなくて困って居た。私の住んでいる街にはカット屋が2店舗もある。髪を短くするのなら、そう言う処に行けばいいだろうに。そこだってサービスは良いはずだ。要するに単なる僻み以外の何者でも無いだろう。昔は1970年代から1990年代までは男も長髪の人が可也居たモノだ。何を見て一体何の教養を身につけて生きて来たのだ。最近もまた若者を中心として30代から40代の人が長髪にして居る。大体が人の勝手だ......。そして髪の毛だが、、此間でパーマを掛けるのはもう辞めた。思えば5年間はパーマで楽しんだ、パーマを辞めた後は染色で楽しもうと思う。私も生きても後13年程の歳になった。後7、8年は若作で居たい。パーマが取れたら茶髪にして部分的に金髪にしようと思う、そう私が行きつけの美容師さんが此間提案してくれた。いいでは無いか。生きて居るうちだけだ。おしゃれで楽しめるのは。私はいい加減に自由になりたいのですよ。しかし太って居るのは薬のせいとて如何にかしなければ成るまい。問題は痩せる事だ。更なる減量を始め様と思う。
「美」を創る仕事〜美容師としての四半世紀〜
窪塚洋介×高木琢也 (OCEAN TOKYO) “We Are Kodonas”(前編)
「二人の女性」
私の家の側にヤクザの子供が住んで居ました。その息子はヤクザの家だからなのか、親同様に可也なワルでした。私が小学校2年の時にその子は1年でした。親は胸がとても大きい売春婦でした。新宿の歌舞伎町には1968年当時、売春をする小屋がありました。夜になるとミニスカートを履いた女性たちが厚化粧でその小屋の前で客引きをして居ました。当時、街の至る所で女の子の裸の写真に幾らだとか電話番号が書かれたものが貼られて居ました。新宿3丁目にはゲイバーが結構ありました。歌舞伎町などは夜は様変わりするので危なくて、一般の人は立ち寄らない所でした。そのヤクザの息子の母親はその小屋に居ました。ある日幼かった私は、その子の家の近くにある駄菓子屋に丁度買って貰ったばかりの「宇宙大怪獣ギララ」と言うプラモデルの人形を見せに行きました。その駄菓子屋のおばさんとはよく知った仲だからです。おばさんも昔廓に居た人でした。子供好きで、私の事を「坊や」と呼んで。何時も優しくしてくれました。或る日、そのおばさんが私を京王線に載せて高尾山まで連れて行きました。高尾山に住んで居る知り合いの家に行ったのです。そのおばさんの知り合いの家には同い年ぐらいのおかっぱ頭の女の子が居ました。遊びに行くとその女の子が山に行こうと言いました。私は黙って着いて行くと沢まで連れて行き流れ出る湧水を手で掬い飲むと、私に「おいしいよ」と言いました。私は「飲めるの?」と言って飲んで見ました。夏なのに冷たく澄んだ湧水でした。私は暫くその子の家におばさんに連れられて通いました。私は当時、「宇宙大怪獣ギララ」のプラモデルを買って貰ったのが嬉しくて、何時もおばさんの家に見せに行って居ました。何故ならおばさんの弟は工房で怪獣の映画撮影用の着ぐるみを作って居たからです。
おばさんの駄菓子屋にその弟さんはよく顔を見せに来ました。おばさんの弟は私を見つけると「おお。坊主。大映の怪獣かい。いいねぇ」と言いました。私はそのおばさんの弟さんに褒めて貰うのが嬉しかったから駄菓子屋にはよく行きました。そんな或る日、私が何時もの様にプラモデルを持っておばさんの家に行こうとすると、ヤクザの息子が家から出て来て言いました。「それ、見せろ」私はプラモデルを抱いて言いました「嫌だ....。」するとその子は私からプラモデルを奪い取ると地面に叩きつけ足で無茶苦茶に踏んでバラバラに壊してしまいました。そして「へへ。ざまみろ」と言いました。私は泣き泣き壊れたプラモデルを拾うとそれを持って家に帰りました。そのヤクザの息子とは小学校が一緒でした。或る日、そのヤクザの息子は砂場で一人遊んで居ました。すると私のクラスの一人の同級生が石をその子に向けて投げ付けました。そして言いました『ヤクザの子供!!」そいつは石が当たっても薄ら笑いを浮かべて居ました。すると校庭にいた他の生徒たちも次々石を拾いその子に投げ付けだしました。或る子が投げた石は大きく、その子の額に当たりました。額が切れて血が滴り落ちましたが、その子は口に入った血をベロで拭うとまた不敵な笑みを浮かべてにやにや笑って居ます。終いにはその不敵に頭から血を流しながら笑うヤクザの息子に、皆んな、寒気を感じて石を投げるのを辞めました。その時に、気がついたのですが。高尾山であった女の子が離れた処に立って居てその様子を見て居たのでした。そして言いました「酷い・・・」私はその子に気が付いて「あれ、君、どうしてこの学校に居るの?」と聞きました。その女の子は言いました。「お父さんの忘れ物を学校まで届けに来たの。母さんが今渡している。」「お父さんって・・・」と言うと「この学校の先生なの」私はびっくりしてその子を見ました。「じゃあ、、僕がこの小学校に居ると知って居たの?」するとその女の子は下を向いて「うん」と小さな声で言いました。私は驚いてその子を見つめました。
そのヤクザの子は小学校6年生になると、子供の癖にヤクザ者の様に歩き始めました。私の近所にはあんみつ屋があったのですが、そこの子も同級生でした。しかしある日嫌な事件が起こりました。なんとそのヤクザの息子が、そのあんみつ屋の子供を、或る共同マンションの屋上に呼び出し、お金をせびって。その子が拒否すると、何と、ヤクザの息子はその子に屋上の柵を越えさせ。そして、ど突いて突き落としました。その時、駄菓子屋のおばさんは丁度自分の部屋から外の景色を見て、そのマンションを見て居ました。そして子供が下まで真っ逆さまに落ちて行くのを見ました。おばさんは大変だと、警察に電話を掛けました。私は、高尾山で知り合った女の子と親しくなって居ました。その日はその子がおばさんの家に来たと言い。一緒に駄菓子屋に行ったのですが、店は休店でした。それで、帰ろうとしたら、おばさんがドアを開けて息急き切って家から出て来て言いました。「恵子の子供があんみつ屋の子供を殺した!!」私は「恵子の子供って誰の事?」と思って居ましたが、ほどなく、パトカーが3台来て、ヤクザの息子の家に警官が入りました。ヤクザの息子の母親は、その時はスッピンで出て来て、一見平気そうな顔をして居ましたが。その息子は婦人警官に付き添われて出て来ると。驚いて見て居る私たちを見ながら不敵に笑ってパトカーに乗り、その場を後にしました。その子の母親は少しその様子を黙って見て居ましたが、すぐに残った派出所の警官に何か話されて居ました。母親は、私たちを見ると、少し嫌な顔をして警官に付き添われて残って居た警官と一言二言会話を交わすと、矢張りパトカーに乗せられてその場を去りました。私は、ふと、おばさんを見ました。すると何故かおばさんは泣いて居ました。家に帰って事の顛末を話すと母が「あの二人は知り合いだったからねぇ、」と言いました。私は訳が分からず母に「どう言う事?」と聞き返しました。母は「子供の知る事ではありません」とだけ言って夕食の準備をし出しました。その後、高尾山で知り合った女の子の父親の先生は学校が変わる事になって、女の子たちも引っ越して仕舞いました。おばさんは駄菓子屋を辞めて、弟夫婦と一緒に住むと言って、矢張り居なくなりました。私はその後、高尾山に行って沢で湧き水をまた飲んで見ました、湧き水は相変わらず美味しかったです。。。(終)
非情のライセンス 昭和ブルース
「長屋」
昭和36年頃、私の実家は、長屋だった。その長屋には2軒の家の間取りが繋がってあり、長屋の半分は人に貸して居た。当時は家の脇にどぶが流れ、そこにはどぶ板がしてあった。日本は高度成長期を向かえ、皆んなが一丸となって時代を開こうと暮らして居た。隣の貸した長屋には子連れの男が暮らして居た。庭の真ん中にロープが一本貼ってあって、隣の住居人とはそれで区切られて居た。私は当時3歳ぐらいだった。幾らロープで区切られて居るとは言え、隣の様子はよく解る。私はいつの間にかロープ越しまで三輪車に乗って行ってしまって居た。するとその隣の住人の男は、「このロープの近くまで来るんじゃねえ、くそガキが!!」と言って、私を三輪車ごとひっくり返した。私は毎回泣いて居た。その男の息子は小学校3年生ぐらいだった。しかしその割には幼く見えた。知恵遅れだったのだ。そして庭には池があったが、その子は池の中から金魚を手で捕まえると石で金魚の腹を裂いて殺して喜んで居た。ある日、若かった母は家賃を貰いに隣の男の部屋まで行ったのだが。家賃を払わずその男は「うるせーババア!!」と言って足で母の胸を蹴ってどついた、母は堪らず、すっ飛んで頭を柱にぶつけると頭から血が流れた。それを見て居た近所のおばさんが大変だと近所にある派出所まで息急き切って駆け込んだ。警官が見にきたのだが警官の一人はその男に手錠を掛けると暴行傷害罪だと言い。もう一人の警官が倒れて居た母を起こし「大丈夫ですか、奥さん。」と言い。警官を呼びに行ったおばさんがタオルと絆創膏を持って来て、アルコールで傷口を拭くと絆創膏を貼り、そしてタオルで頭を巻いた。
警官は無線でパトカーを呼び、男は警官に促されてパトカーに乗ったが、なぜか母の容態を見て居た警官が、「奥さんもどうぞ」と言って2台目のパトカーに乗せて警察署まで連れて行った。私は其の模様を見て居たが不思議と怖くは無かった。まだ本当に幼い子供だったのだ、暫くして母は一人でタクシーで帰って来た。そして其の様子を見届けたおばさんが帰ると、私と姉に向かって母は怒って言い始めた。何でも警察で事情聴取を受けた際に警官に「足で鳩尾を蹴られた」と言ったら、警官は「奥さん。足で蹴られても大した事にはならんのですよ。これで殴られたなら殺人未遂になりますがねぇ....。」と言って拳を突き上げたそうだ。母は怒りながら食事の支度をし出した。冬だったのでその日の夕飯はおでんだった。父からは電話が掛かって来て、大丈夫か聞いて居た様だった。すると隣から子供の「お腹空いたよ〜」と言う泣き声が聞こえて来た。母は怒りながらもお皿におでんの竹輪部と蒟蒻、大根にツクネを装いお茶碗にご飯を装うとそれをお盆に乗せて隣の部屋まで行って置いて来たのだった。それから10日は経ったであろうか、その男がやつれた顔で帰って来た。どうやら留置所に入れられて居たらしい。帰って来ると、大人しくなり、母に謝りに来た。母はお金が払えないと言う男に「それでは出て行って下さい」と言って居た。男はそれから3日ぐらいしてから知恵遅れの子供を連れて背中に風呂敷を背負い出て行った。私はその中年男が侘しく子供の手を引いて長屋から出て行く様子をただ黙って見て居た。(終)
A day in Tokyo, Japan, in 1963 東京
ニッポン高度成長物語
「キャバレー」
それから、数年経った。私の実家は最初の2階建ての家になって居た。私はその頃には小学校2年生になろうとして居た。この家は会社で建てた家だった。昭和40年ぐらいはまだ近所の飲み屋街が残って居た。私の家の前には旧環七の青バス通りという道路が通って居た。隣は飲み屋だった。飲み屋と言っても居酒屋ではなく、小さいながらもホステスが数名いるキャバレーだった。私は姉と一緒の部屋に居た。よく朝方早く起きる事があった。なぜなら清掃婦のおばちゃんたちが大勢大きな声で、話しながら歩いて前の青バス通りを通るからだ。その声で目が覚めるのだ。隣のキャバレーではよく飲んだ客が私の家の玄関に立ちションをして行った。母は毎回怒って居た、何故なら酔った客は、玄関先に置いてある牛乳に向けて小便をするからだ、母が客が立ちションをするのは、店にトイレが無いからだと隣のキャバレーのママさんに苦情を言って居た。私は部屋の窓から下を覗き込んで通りを見るのが好きだった。学校に行く前の3時間ぐらい前に目が覚めてしまい外を見る事がよくあったのだ。その頃の私のあだ名は”裕次郎”だった。そうあの国民的大スター、石原裕次郎に子供の頃はそっくりだったのだ。
そしてカメラが好きで、父から買って貰った3千円のカメラを持って街中を写して廻って居たのだった。よく歩いて居る人から、「坊主、裕次郎に似てるな〜」と言われる事がよく在った。隣の若いホステスはそんな私をからかった「裕さん、大人になったら私と結婚する〜〜。」「裕ちゃんはまだお母さんがいいんだものねぇ〜〜。」その日は学校が旗日で休みだった。私は何時もの様に通りを眺めて居たのだが、その日午後遅く夕方になってガチャンと言う大きな音が外から聞こえて来た。私は窓を開けると外を見てみた。すると隣のキャバレーのステンドガラスが割れて其の前に包丁を持った男が突っ立って居た。ドアが開いて、キャバレーのママさんがその男に注意しながら走って交番に駆け込んだ。すると警官が4人程、警棒を持って出て来て、男を取り囲んだ。男は何か怒声で叫ぶと一人の警官に切りつけた。警官は腕を切られて血が滴り落ちた。するとその警官が言った。「おい、お前、これで警官傷害罪だからな!!」そう言うと他の3人の警官が其の男を一斉に取り囲み、棍棒で物凄い勢いで殴りつけた。男はなおも暴れて居たが腕を切られた警官が男が手に持って居た包丁を叩き落とし、そして男は4人の警官にめちゃくちゃに棍棒で殴られ。其の男も額から少し血を流して居た様だった。警官はなおも殴り続け、棍棒で殴るのをやめてゲンコツで其の男をぶん殴って居た。暫くすると男はぐったりして大人しくなった。そうこう仕手居ると、パトカーがサイレンを鳴らして現場に到着して男を引っ立てて乗せて居なくなった。残った交番の警官がキャバレーのママさんに事情を聞いて居た。聞く処によると隣のキャバレーのホステスに一方的に惚れた男が、袖にされたと因縁を付けたらしかった。私は何故か警察と縁があるみたいだ。私はその事件のあった後も窓から外を見るのが好きだった・・・そしてその実家にはその後30数年間住んで居た(終)
此間病院で食べた、海老天丼。。。
「漫画家・松本零士について、、」
- 本名、松本 晟(まつもと あきら)。福岡県久留米市生まれ、東京都練馬区在住
- 血液型はB型
- 旭日小綬章、紫綬褒章、フランス芸術文化勲章シュバリエ受章
- 称号は練馬区名誉区民
宝塚大学教授、京都産業大学客員教授、デジタルハリウッド大学特任教授を歴任。漫画家の牧美也子と24歳で結婚。 早稲田大学大学院教授で元三菱重工業長崎研究所主管の松本將は実弟。 代表作に『銀河鉄道999』など。SF漫画作家として知られるが、少女漫画、戦争もの、動物ものなど様々なジャンルの漫画を描いている。 アニメ製作にも積極的に関わり、1970年代半ばから1980年代にかけては松本アニメブームを巻き起こした。
Leiji Matsumoto Official Site
経歴
1938年1月25日福岡県久留米市で生まれる。
幼少期(5歳の頃)の頃映画館でみた「クモとチューリップ」という映画に大変影響をうけ、それから映画、漫画にのめりこむことになる。子供のころはよく少女小説なども読み漁り、兄弟に見られるのがはずかしいので布団をかぶってこっそりと読んでいた。当時から機械、メカが好きであった。その頃からから自分で物語を創ることにも興味が広がっていった。戦後のアメリカ軍の将校が持ってくる漫画「スーパーマン」「ミッキーマウス」などを買いあさって何度も何度も読み返していた。この頃から日本の漫画とアメリカの漫画の書き方の違い、表現の違いを学んだ。メカ好きは、パイロットであった父の影響が大きく影響しており、父が所有していたサイドカーを乗りまわしたり、拳銃で遊んでこっぴどく叱られたエピソードなどがある。
何事にも興味旺盛で、アマゾン川、ナイル川で泳いだり、ロシアの宇宙飛行士のシュミレーターに乗ったり、マチュピチュを登ったりと破天荒な一面を持っている。それらの経験が自身の作品の血肉になっていると語っている。漫画に出てくるストーリーや人物像はほとんどが自身が経験、体験したことが基になっている。
父親である松本強は、陸軍士官学校を卒業後、テストパイロット、航空部隊の教官を務め終戦時には陸軍少佐にまで上った帝国陸軍の軍人。第二次世界大戦中、その父がテストパイロットをやっていた関係で、4歳から6歳まで兵庫県明石市の川崎航空機の社宅に住み、その後は母親の実家がある愛媛県喜多郡新谷村(現在の大洲市新谷町)に疎開していた。このときアメリカ軍の戦闘機や、松山市へ空襲に向かうB-29などの軍用機を多数目撃、この体験が後の作品に影響を与えたという。
大戦後半、父親は第32教育飛行隊(1944年2月編成)の隊長として、特別操縦見習士官や少年飛行兵出身の新参パイロットの教育を行っていたが、課程を終え実戦部隊に転出した部下には後に特別攻撃隊の隊員として特攻していった者も少なくなかった。末期には二式複座戦闘機に搭乗し、終戦の日まで連合軍と戦っていたという。戦後、多くの元軍人パイロットが自衛隊入りしたのに対し、「敵の戦闘機には乗れない」と断固拒否。実家がある大平村での炭焼きや、小倉で野菜の行商をしながら線路脇のバラックに住み、その境遇を自ら進んで赤貧へと落としたが、家族で父に反対する者はおらず零士少年も「俺の父親は最高だ、父親と一緒にいられれば俺は満足」と行商の大八車を押したという。この「本当のサムライとしての父のイメージ」は、後にハーロックや沖田十三のモデルとして、松本作品に生かされていった。また松本自身、進駐軍兵士がばら撒くキャンディーなどを「食べたくて仕方なかったが全部下駄で踏みつけて潰した」という。
しかし、兵士が持ってくる「漫画」は買いあさり何度も何度も読み返した。そのときから日本の漫画とアメリカの漫画の違いに気づき「こんなにも違うものか」と痛切に感じたという。
終戦後、小学校三年から福岡県小倉市(現・北九州市)に移る。小学生のときからの漫画少年で、高井研一郎氏らと同人グループ「九州漫画研究会」を結成し、同人誌「九州漫画展」を主宰。 自身が漫画家を志した理由は彼が小学二・三年の頃にあった学級文庫である。それは手塚治虫氏の漫画『新宝島』『キングコング』『火星博士』『月世界紳士』であった。
未発表であるが、小学生時代に自ら初めて書いた長編漫画「透明人間」「探検王」「巨星」「ドラゴンタイガー」。(手書き原稿が老朽化したため、保存用に製本したもの)小学生時代は手塚治虫氏にあこがれて一生懸命作品を「まね」をしながら書いたという。
1954年、福岡県立小倉南高等学校のときの投稿作「蜜蜂の冒険」が『漫画少年』に掲載されデビュー。そのときから中央でも既に知られる存在で、手塚治虫氏が出奔先の九州で原稿を描くときに高井氏、松本ら九州漫画研究会にアシスタントを頼んだというエピソードもある。高校卒業後の1957年、毎日新聞西部本社版で連載をするはずだったが急に担当者が代わりその話は反故にされたものの、月刊少女雑誌『少女』の連載が決定して出版社から「どうしても東京にでてきなさい」との要請で急遽上京。不安なことばかりだったが「もう二度と家にはもどらん」と覚悟をきめて画材道具だけを持って本郷3丁目の山越館に下宿をすることになる。
上京した当時は『少女』と『少女クラブ』に不定期で描いていたが本当は少年漫画を描きたくて仕方なかった。その当時は、少年漫画が桜花していた時代で描きたくても新人には「少女漫画」しか描かせてもらえなかった時代だという。
人物像
お酒は飲めるが、飲まれるのは嫌いというように「酒乱」を見るのは大若い頃は少し飲むと頭が痛くなりあまり飲まなかったが在るとき、一晩で大量の酒を飲む機会があり、二日酔いもなかったことで自分は酒が飲めることに気づく。それ以来お酒は飲むが飲まれないように今は勧められれば飲む程度。
サイン会やイベント、講演等多方面に積極的に参加。人との触れ合いとファンの方々の熱い思いを感じるイベントには積極的に参加している。
現在も、「零時社」の由来通り、夜中まで仕事をしており、スタッフとの打ち合わせも夜の8時、9時からというのは当たり前という精力的な仕事の仕方をしている。但し、前日遅くまで仕事をしている為、翌日の仕事は午後からスタートとなることが多い。
宇宙への憧れが強く、「片道でもいいから俺を宇宙に行かせてくれ」などの言葉がある。また、民間宇宙飛行の第一号になるという夢を持っていたが夢はかなっていない。
日本人初の「宇宙へ行った宇宙飛行士」となった秋山豊寛氏は松本作品『ワダチ』の解説を執筆している。
漫画古書のコレクター。特に手塚治虫氏の初期の希少な漫画本を多くの資料と共に保管し、手塚治虫氏本人も自作を探す必要があるときはまず松本氏に問い合わせていた。
2002年にはSF作家小松左京氏がモリミノル名義で描いた赤本漫画の復刻に関わり、2005年の阪本牙城『タンクタンクロー』の復刻の際には原本の提供を行なった。
その他にも漫画本の復刻の際に原本を提供することが多い。『漫画大博物館』という漫画の古書を図版で紹介するビジュアル百科事典も出版している。古式銃のコレクター。
古式銃のコレクターでもあり、法的規制の厳しい日本において100丁以上の私有コレクションは稀である。
ブライトリング等の航空腕時計が好きである。
上京後文京区本郷3丁目の山越館へ下宿していたが、その後練馬区大泉に居住を移している。
2008年には練馬名誉区民に選定され、区の活動にも積極的に協力・参加している。
同区で交付される戸籍や住民票などには「銀河鉄道999」のキャラクターが印刷されている(2013年まで)。2012年には原動機付自転車のナンバープレートにメーテルのイラストが採用された。区内を走行するシャトルバス、在住している大泉学園を通っている西武鉄道の車両のラッピングにも作品がプリントされている。
自作品のパチンコ化にも精力的に取り組んでおり、大手パチンコメーカー三共とのコラボレーション “SANKYO×松本零士” としてCRフィーバー大ヤマト、CRフィーバー銀河鉄道物語、CRフィーバーキャプテンハーロックの3シリーズのパチンコ機が登場している。
ペンネーム
デビューから1968年までは本名のひらがな表記である松本 あきらのペンネームを使用。
松本零士名義は1965年から松本あきら名義と並行して使い始め、1968年に松本零士にペンネームを一本化した。
ペンネームの由来は、“零歳児の感性をいつまでも忘れずに”というモットー、夜半―午前零時を過ぎないとアイデアが浮かばない事が度々あった事、“毎日夜零時まで働く士(サムライ)”から。
2008年5月に北九州で行われた『毎日フォーラム』では“零士の零は無限大の「れい」、士は「さむらい」、また本名である「あきら」とも読む”と語った。
零士をローマ字で表記する場合、Reijiとはせず、Leijiとする。RでなくLを使っているのは、少年時代に愛読していた山川惣治の絵物語『少年王者』に登場する悪役ライオン「ライオンL」が強くて逞しかったことから。
作品に対する思い
「実体験なくしてリアリティは生まれない」を信念に作品を描く。
決して仕事は安定はしていなかった。連載も出版社の都合や人気が出る出ないで途中での連載中止も幾度かあった。その度に自身との葛藤があったと語っている。そんな中、ヤマトの連載がきまり原稿描きに没頭して描きあげた後「この作品に人気が出なければ途中で連載を中止する」といわれ、原稿を描きあげた後、(TVでのヤマト放映1974年10月6日から1975年3月30日全26話放映)アフリカに旅にでた。その旅先で星空をみて「自分の生まれる前からこれはここにあった、死んだ後もこれはここにあるんだ」どんな壁にぶつかっても小さなことにくよくよするな!と悟りを開いたと語っている。
日本に戻り、アフリカの旅で見た世界と日本とのギャップ、それは自身に更なる勇気を与えてくれた。
「自分は今までいかに微々たる小さなことに縛られていたかと気づき、自分がやりたいことをやろう、自分ができるやれるだけのことをやろう。」と心に誓う。
マチュピチュの頂上に登ったとき、世の中が全部金色に見えたという。石ころも何もかもが金色に見えた。これは、人の体質によるものらしいが、低酸素症状の一つだといわれている。つまりこのあたりの遺跡には「エルドラード」「黄金郷」という伝説が在るといわれているがこの伝説の基になったものは自分と同じ体質の人の体験だったのかもしれない・・・。
要は自身が実際に体験してみて感じたことと仮説との融合が自身の描く漫画のリアリティにつながっていると語っている。
いま、一番危機感を持っているのは地球の温暖化現象。今はもう人間同士が争っている場合ではない。
だから地球に穴なんか掘ってはいけない。こんな地球が揺さぶられているのは核実験のせいである。
世界中が行っている核実験のせいでプレートを揺さぶり、地震が起こりその連鎖するコースも今の化学なら予測がつく。だから人間は地球に穴などあけず月や火星、冥王星の方まで行ってでもそこから資源を獲得していかないといけない。これからは、宇宙から資源を獲得して地球を守らなければいけない。地下からメタンや様々なものを掘り起こしてしまうと地圧がさがり、気圧があがる。金星の気圧は100気圧といわれている。
地球も100年もたったら1年に1気圧ずつ上がっていく可能性も在る。そうなってしまったらあと200年で地球が終わってしまう可能性だってある。地球はいまやそういう状態になっているんだ。
そうなれば、本当に宇宙から資源を集めてくる「宇宙船」が必要となる。推測であるかもしれないがそういった地球の現象と背景から宇宙に対する仮説ストーリーを基に宇宙船を描き、人物を創造し物語をつくり、未来に示唆するメッセージを作品として作り上げている。
それが松本零士作品からの人類と地球に対するメッセージである。
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