今回は、皆さんにお知らせがあります。これまで長きに渡り、親しみられて来たこのblogですが、今回を持ちまして活動を永遠に停止します。書く事が無くなったと言う事と、私の体の不調からそう決断致しました。当分は身体の休養に充てます。このblogをやり始めてから思えば色々な事がありました。ハッカーに改竄されたり。いまだに続いて居ますが、、争いに巻き込まれたり。ただ何時も皆様からの温かい励ましや声援があって今までやって来れました。感謝してもしたりません。ですが私はこのblogはもう辞めようと思います。しかし暫くしたら?、何時の日にか別の形でまた皆様の元に現れるかと思います。その時は、また相手をしてやって下さいね。ちなみにこのblogは残しますのでアーカイブとして記事はお読み下さいね。それでは、さようなら。。。。長い間有難う御座いました。。。。(๑>◡<๑)
此間、92歳の母親を在宅医療で医師に診て貰って居た。66歳の男が散弾銃で医師と作業療法士など3人に3発発砲して、医師を殺し作業療法士は重傷を負いながらも外に逃げて助かったと言って居た。何なんだかなぁ、、医師たちは弔問に来て居たと言う。それなのに母親は心臓マーサージをすれば生き返ると言い張ったらしい。勿論死んで居るのだから。どう仕様も無い。その医師はその界隈でも親切丁寧に患者の面倒を見てくれて居たと言う。それなのに自分の母親が粗末に扱われて居たとか、何言ってるんだか。老害だろ、、何でそうなるんだ。その男は母親に死なれてもうどうしたらいいか、解らなくなって自暴自棄になったとか言って居た。66歳にもなって、母親の死が受け入れられなかった馬鹿者だ。金が無かった訳では無いだろうに。母親は92歳だったそうだ、、ちなみに私の母親は今、87歳ぐらいになる。私の父はおそらく老年になって痴呆になったのだろう。馬鹿な事しか言わなかったししなかった。母は、アルツハイマー型の認知症だ。しかも年々具合は悪くなる一方だ。そして私は、統合失調症だから。亡くなった弟以外の姉弟、姉からは物凄い勢いで、嫌われて居る。この間。私のblogを興味本位で見て居たgooの会員が居た。人に取ったら、さぞかし私のblog記事は面白いだろうね。
人は絶望すると他人を傷つける。皆んな生きて来た感謝を忘れて居る。私とて人を憎み、人を恨む事もある。しかし、それが自分の運命なんだと何時も何遍も言い聞かせて居る。それでも止まらなくなる事もあった。私は21歳から47歳まで、親父の会社で働いて、従兄弟らに散々嫌がらせをされた。一時は、余りの嫌がらせの為に怒りが収まらなくなり。包丁を鞄に入れて会社に行った事もある。その時はカバンを開けて、包丁を見せて居たせいか、従兄弟は何故か近寄っては来なかった。人は追い詰められるととんでも無い行動に出る。私はただでさえ統合失調症と言う病を持って居る。皆さんはこの病がどんなものか知らない。単なる頭がおかしい病気だと思って居る。はっきり言って人の言葉が突き刺さって聞こえてくるのですよ。ただでさえね。こう言うblogの文字でもそう。だから気が立って来るし、人から揶揄われたり、嫌味を一言でも言われたら、相手が許せなくなります。私は外見から話し方から少しトロく見られる。今までも、そのせいで散々馬鹿にされて来た。人は残酷だ。少しでも人と劣る様な人間は容赦はしない。
私の事はblogの写真でしか皆さんは知らない。私が日々体調が悪く、精神状態が悪いので。人間関係でどんなに悲しんで、自暴自棄になって居るのかを知らない。もっとも知った処で、どうにも出来ないと思う。人は無力だ。でもそれだから・・・、いやただ、見て居るだけしか出来無いと思う。私の弟は外科医だった。嫁さんを貰って、子供が双子が産まれそれから女の子が生まれた。3人の子持ちだった。私はその子らを自分の子供の様に思って可愛がって接して来た。しかし弟と嫁は離婚をした。何故なら、嫁さんは看護師で、弟とはすれ違いの生活だったからだ。私に嫁は居ない。結婚は障害の病のせいで出来なかった。でも此間、私もいい加減に寂しくなった。だから、ある、サークルに入って見た。私は60代だ、だから50代ぐらいの女性のお茶飲み友達でも欲しいと思ったのだ。しかし、自分の紹介欄を書く段になって、よもや統合失調症だと本当の事は書けない。だから、心の病と一言だけ書いた。結果。断りの通知が来ました。丁寧な文ですが。私には何も無いのですよ。
私を診てくれて居る訪問看護師さんは居る。しかし、あくまで仕事で私のことは患者としか診ては居ない。ヘルパーさんも来るが、私がケアマネージャにキチンと掃除をしてくれない時がたまにあると言ったら。あくまでヘルパーさんで家政婦では無いからねと言われた。私のことは皆そうだ。人より劣った人間としての認識でしか無い。この間は検査だった。肝臓が悪いと言われた。心臓も少し悪いそうだ。私は今、体の不調に加えて、精神状態も最悪だ。今このblogを書きながら、病院モノのお産のドラマの話を聞いて居る。赤ん坊が生まれて来るのは大変な事だ。ましてや成長するのは奇跡的な事だ。しかし障害を生まれながらにして持った赤ちゃんが生き様と頑張って居る。私は今、台詞を聴きながら、涙ぐんで居る。医師はそれぞれに最大限の努力をして居る、、だから此間の66歳の身勝手な男は許せないのだ。在宅医療の医師に感謝こそあれ、敵意を持つとは何事だ!!。親はいずれは死ぬものだろう。最近は人の繋がりを求める。特に中年男性が多いと思う。前に「55歳の純情」と言うドキュメンタリー番組があった。彼は21歳の地下アイドルが好きになった男性だった。彼はその歳まで恋人も居なかった。ただ、21歳の地下アイドルを応援したくなったのだった。
彼は必死になってその子を応援した。時にはペンライトを振りながら、そして。時には紙テープを投げて応援して居た。彼女も彼の事を疎かにはしなかった。でも別れは突然やって来た。彼女が参加して居たユニット・グループが突然解散したのだ。それでも彼女はTwitterのアドレスを彼に教えた。それ以来、彼は彼女の前には現れなくなった。Twitterで彼女の近況を知る以外すべはない。別れは突然やって来る。私の、最後の希望は青木志貴ちゃんだ。彼女はもう32歳になった。今年で・・・・・。しかし私は彼女を応援して居る。彼女は可愛い女性だ。歳の割に可愛いのですよ。それは彼女の持って生まれた性格だ。ただ可愛いのなら猫と一緒だ。しかし彼女は、優しいのですよね。あるYouTubeの動画で年越し蕎麦を食べながら、新年まで皆んなと過ごすと言う番組があった。その時にファンの皆んなが彼女にお年玉を寄付し出したのだ。普通ならどうだろうか、嬉しいと言ってはしゃぐのでは無いだろうか?
しかし彼女は違った。何と「皆んなに悪いから、いいよ、いいよ、わ~~!。そんなに寄越さなくてもいいからね」と言い出したのだ。そう言えるのが彼女の優しさだ。決して驕らず。そして控えめなんですよね。彼女は、自分の事を精神的には男だと言って居ますが、彼女は女だ。賢く優しい女性だ。私は彼女を見て居るだけで、それで満足です。でも此間、彼女が所属して居る三木プロダクションにメールを入れて見た。何故なら、私は彼女の写真をblogに貼り付けて居るからです。私は正式に了承を得たかったのです。しかし勿論何の返事も来なかった。当たり前ですね。でも私にやめてくれとも言わなかった。ちょっとグレーゾンだが、それで、いいとします。私は彼女を直に見たいとは思わないし。彼女と彼女の若いファンたちの輪の中に入ろうとも思わない。私は彼女のYouTubeの映像だけを、見て居るだけで満足なんですよ。私は彼女の事を娘の様に思って居るのだから。私を見て居て、誰でもが嫌だろうと思いますよ。でも精神病は苦しいものですよ。特に私は死んだ弟と姉から阻害されて来た。親に言われて無理をして、会社に行っても嫌がらせしかされなかった。弟も死んだ。姉は私に母の居場所を教えない。私が何をしたと怒りたくなるが。もういいのですよ。さてと私はあと何年生きられるだろうか?少しは元気を出すかな、6月には生活保護を申請するのだから。果たして生活保護は通るのだろうか。この先、私にはどんな運命が待ち構えて居るのだろうか。。。
志貴ちゃんと飼い猫、ユンちゃんとドラゴンちゃん、、、
今日の昼食です。。。
私が作った豚肉の生姜焼きです、、、
今日の夕食。。。広東麺と餃子、、、
テレビでNHKのドキュメンタリーを見た。その番組はNHKでディレククターをやって居る女の子が撮ったものだが。その中で彼女は新宿歌舞伎町で働く自分のお母さんを自分のスマホで撮って居るのだが、まだ若いせいか、お母さんから「新宿に深入りするな。お前は真っ当な道を行け」と言われても「私らは叩き上げの人生だから」と言われても、そちらがカッコ良いと思って居るらしい。自分は一流大学を出て、NHK に入社したのにだ。番組の中では日雇い労働者の人が作った劇団とか出て来るのだが、その子は彼らにシンパシー何処か、憧れの念を抱いて、それに比べて自分はと落ち込む。見ていて歯がゆく思った。その子に言いたかった。「あなたが抱いて居る感情は、怖いもの見たさなんだよ」と。実際、世の中の底辺に身を置いてみれば解る事だ。それは単なる憧れなのだと。芸術とは混沌とした生活の中から、その矛盾として秩序立って形成される。そしてその混沌とは、狂おいしいまでの絶望と寂しさの末に現れる事象なのだ。
到底普通の人には理解しがたい衝動と欲求の果てに自分を置いて初めて実感できる欲動。その欲動に身を任せたい為に人は危険な賭けに出る。そして事象の発見を探そうとする。発見とは自分と世界の関係についての新たな情報を得ることだ。世界に関する情報を得るためには、「運動器官によって世界に働きかけ、感覚器官を通じて情報を受け取る」と言う世界との関係を持続することが必要だ。その「働きかけ」の積み重ねが生み出すものが芸術作品だと思われる。つまり、自分と世界との関係についての情報を探すのが芸術と言う行為であり、その結果として生まれるものが作品である訳だ。芸術は人間と外界の情報交換であり、情報媒体が作品であるとも言える。情報媒体としての芸術作品の価値は、その作品から引き出すことの出来る情報量で決まる。作品が単に量的に膨大なものであれば、そこに込められる情報量は多くてあたりまえだ。また量的な情報量は一目で分かる。そこで、「一目で分かる情報量の割に、多くの情報が引き出せるもの」が情報媒体としての価値が高い、と考えることが出来る。つまり芸術の価値を美とすると、
美 = 暗黙的情報量 / 明示的情報量
と表せることになり。暗黙の情報とは「明確に表現されては居ないが深く吟味すれば分かる様な」情報のことで、意識される情報とは「明確に現われて居る」情報の事だ。つまり、「ひとつひとつの形、音、動き、などの要素にどれだけ多くの意味が込められて居るか」が問題なわけだ。この式から、美しいものを言葉で表現しにくい理由が解る。美しいものは暗黙の情報量の比率が高く、暗黙とは言葉で表現出来ない事だからだ。また、美を感じ取るのは直観あるいは無意識であると言う事も分かる。さらに、美しいものは飽きないと言う事も説明できる。飽きると言うのは「もう発見がない」と言う事だが、美しいものは暗黙の情報が多いので発見が尽きない。この定義は美術や音楽などの芸術ばかりでなく、スポーツや学問から日常生活に至る我々の全ての活動に当て嵌める事が出来る。何故なら、我々の活動とは要するに脳の情報処理だからだ。我々が世界に対して情報を探求するつもりで働きかければ、どんなものごとでも芸術と同じような行為になると考えられる。この場合の美しいものと言う定義は文字通り見目、形が美しいと言うのではない。
はっきり言って混沌とした塊、見た目が悪いものでも、その人が芸術的に美しいと感じたらならばそれには美があると言う事だ、或いはその物体、事象の中にある説明しがたい衝動にかられると言う事だ。秩序立って形成された美だけが美ではないもっと思考の深淵深く洞察されるある衝動こそが美なのだ。そしてその美を探求し、実践できるものが芸術家だと言える。そして芸術とは深層心理への探求。芸術理論としての一貫性を作る中で構造的にドグマとパラドックスを生み出させる。一般人が考えようもない事象。出来事が芸術的欲動なのだ。そしてその後NHKのディレクターの女の子は自分に内包している預かり知らない処の欲動に無意識に形成される妄想に突き動かされようとして居るのだ。私にはこの女の子の気持ちが手に取る様に解った。勝手、私も17歳の頃に抱いた欲動だ。「しかし彼女には今の地位がある生活があるでは無いか?」と私は訝しく思ったのだ。捨てられる感情と道徳を排してのみ、芸術は完結出来るからだ。私はこの番組を見て、そのNHKのプロデューサーの女の子は憧れで持って歌舞伎町にうごめく芸術家たちを見ているのだと思った。その自身の欲動が完結されるまで・・・。
ラスト トーキョー 2 新宿 歌舞伎町2020-2021
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最近読んでる漫画と本。。。
そして老いぼれて居る私です・・・。
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=ハードロックの定義=
初期の標準的なスタイルはブルースやブギーを基調としたラウドなサウンドのロック形態を取った。歪んだ音のエレキ・ギターを強調したサウンド形態も特徴である。1960年代後半に誕生した。
初期はサイケデリック・ロックやブルース・ロックの混合物としてスタートし、1970年代前半にはハードロックの呼称が定着し、全盛期を迎えた。
ハードロックとヘヴィ・メタルの微妙な相違点を定義づけるのは難しい。ただ例をあげると、グランド・ファンク・レイルロードは黒人音楽の強い影響を受けており、ハードロックではあるが、ヘヴィ・メタルとは呼ばれない。またディープ・パープルも、70年代にはハードロックと呼ばれ、ヘヴィ・メタルという言い方はあまりされなかった。また、ヘヴィ・メタルと言う名称も比較的早くから存在しており、「レッド・ツェッペリン」、「ブラック・サバス」などが、典型的なスタイルとされる。
ハードロックなどロック分野だけに留まらず、ポピュラー音楽の発展はブルースとの関連抜きに語る事は難しい。ブルースは、もともとは奴隷状態下に置かれたアメリカの黒人の労働歌やワークソングを唄ったものに起源があり、これ故「簡素で分かりやすい形式」(I→IV →Vを基本形とする単純なドミナント)であり、またその境遇故に唄われる内容は少なからず、プロテストな色彩であった。ジャズもブルース起源である。ただジャズはインストルメンタルの楽曲が多いため、ビリー・ホリディやマックス・ローチらを除けば、辛辣、痛烈な批判を暗喩にしたり(奴隷であった彼らは、白人への不満を直接的に口にできなかった)、直接的に伝えることが難しかった。また、アメリカに於いては黒人人口も多く、ロックン・ロールやロカビリーなどの、カントリーに黒人音楽のブルースやR&Bを混合した音楽が発達した。1950年代は、アメリカのロックンロール、ロカビリーが、世界のかなりの数の若者の心をとらえていた時代である。
イギリスではスキッフル・ブームの後、より直接的な感情の発露の手段として、ブルースが若者の心をとらえたことから、ブルースを基調とする音楽を演奏する者が次々現れた。60年代には、イギリスではちょっとした「ブルース、ブルース・ロック・ブーム」になった。これが、イギリスにおけるハードロックの原点である。アメリカでも、原点であるブルースに回帰する流れの中に、60年代後半のキャンド・ヒートやポール・バターフィールドなど多くのバンドがいた。
ロックはブルースから簡素でわかりやすい形式、プロテスト的な歌詞」を受け継いでいるが、黒人文化には直接的に影響を受けていない白人が再解釈したものである。白人の音楽は、「跳ねるリズム感覚」(俗に「黒っぽさ」とも言われる)は希薄だった。リズムが跳ねた感じになるのは、「”裏拍”にアクセント」が置かれているからである。クラシック音楽は、ロックと同様「表拍にアクセントがある」のを基本としており、欧米の白人文化圏は、そもそもクラッシック音楽文化圏なので、ロックも跳ねるサウンドを奏でることが難しかった。
70年代になると、ブルース色はロック性へと昇華(基本的には同じもの)、70年代ハード・ロック黄金時代が到来。
Deep Purple - Wasted Sunsets
SYMPATHY -RARE BIRD 1969
Ningen Isu / Heartless Scat(人間椅子 / 無情のスキャット)
Judas Priest - The Hellion / Electric Eye (Live from Battle Cry)
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「アメリカ南部で「デルタ地方」といえばミシシッピー州北西部にある、二本の河川の氾濫によってできた広大な沃野をいう。河口のデルタと区別して「内陸デルタ」といったりもする。ミシシッピーデルタの北端はテネシー州のメンフィスで、南端はミシシッピー州のヴィックスバーグである。デルタの広さは東京都の面積の10倍近い。木の葉形の平らな大地だ。ミシシッピー川が西の境で、東の境はヤズー川およびシルトのローム層の台地である。地形的にもっとも東西に膨らんだところの直線距離で130キロほどある。20世紀のアメリカ音楽のルーツをたどると、この果てしなく続く空と、まっ平らな大地に行き着く。」
(2)テキサス・ブルース
ミシシッピー・デルタに匹敵するブルースの故郷としてテキサスがあります。この地域のブルースマンにはギターの名手が多くリズミカル&ダイナミックなブルースが生まれる土地柄だったといえます。
初期のブルースマンとしては、ブラインド・レモン・ジェファーソンがいます。彼と一時期行動をともにしていた直系のブルースマン、レッドベリーは、波瀾万丈の人生の後、ニューヨークに移り住み、数多くのフォーク・ミュージシャンたちにブルースの何たるかを伝える役目を果たすことになります。ボーカリストとして活躍したテキサス・アレクサンダーも、その名のとおりテキサス出身で、彼はギタリストとしてロニー・ジョンソンを従えていました。
(3)アパラチア山脈周辺のブルース
アメリカ建国の歴史において、最も古い歴史をもつ土地、バージニア州。スコットランド系アイルランド人の移民が多かったアパラチア山脈周辺のこの地域には、バラッドの文化がどこよりも強く残されていました。そのため、この地にやってきた黒人たちの音楽にも強い影響を与えることになります。こうして、バラッド色、弾き語り的要素の強いブルースがこの地では育つことになります。ジョシュ・ホワイトらのブルース・ミュージシャンは、すぐ北にあるニューヨークへと渡り、そこでフォーク系の白人ミュージシャンたちに大きな影響を与えることになります。ニューヨークのフォークに最も大きな影響を与えたのはこの地域のブルースかもしれません。
<ブルースの特徴>
こうして生まれたブルースについて、黒人音楽研究家のリロイ・ジョーンズは、3つの特徴をあげています。(「ブルース・ピープル」音楽之友社より)
これは、オリジナルの歌詞で黒人霊歌を作りながら英語をマスターしていった黒人たちが韻を踏むテクニックまでも自分のものにしたことで、初めて可能になったことです。それは、彼らが初めてすべての黒人たちにとって共通な言語を獲得したということの証明でもありました。さらにここから、現在のラップ・ミュージックに至る黒人たち独自の音楽・言語スタイルが生まれることにもなるのです。
それまでの黒人音楽は教会か労働の現場において集団で歌うものでした。当然、そこで歌われるのは「神への讃美」か「労働のためのかけ声」でしたが、一人で歌う歌にはそれとは別の対象「個人」もしくは「自分」が登場するようになったのです。そして、集団ではけっして歌うことのなかった自分自身の本音や隠された欲望など、「心」の内側を歌うことができるようになったのです。こうして、「恋」「セックス」「金」「悪魔」「不倫」「殺人」などについて歌う歌、「ブルース」が誕生することになるのです。(もちろん、ブルースでも「神」について歌われる曲はいっぱいありますが)こうした、ブルースの主なテーマは、その後ポピュラー音楽の歌詞にとって大きなインスピレーションの源となり続けることになります。
それまでの黒人たちの歌は、どれもアカペラで歌われていました。しかし、ギターという自分でも作ることが可能な単純な構造の楽器の普及と自由な時間を利用することで弾き語り形式の演奏が可能になったのです。
<ブルースを生んだ時代背景>
こうして初めて、黒人たちは自分たちの心の奥に潜む欲望や悲しみを、自分たち自身の言葉で表現することができるようになったのですが、それにはもうひとつ重要な時代背景の影響がありました。それは奴隷解放が行われ、黒人たちに自由が与えられるようになった19世紀半ば以降、その反動として南部では黒人へのリンチが激増、さらには州ごとに黒人を差別する州法が次々に成立。レストランや劇場だけでなく水飲み場までもが分離されるようになり、奴隷制以前よりも厳しい差別の状況が生み出されていたのです。その影響がそれまで神への歌しかなかった黒人たちに新たな悲しみのはけ口を必要とさせたのかもしれません
「ブルースとは、心の状態であるとともに、その状態に声で表現を与える音楽である。ブルースは捨てられたもののすすり泣きであり、自立の叫びであり、はりきり屋の情熱であり、欲求不満に悩むものの怒りであり、運命論者の哄笑である」
ポール・オリバー著「ブルースの歴史」より
「アメリカにいるアメリカ人が自分たちはアメリカを離れることなどないと気づいた瞬間からブルースは始まった」
リロイ・ジョーンズ著「ブルース・ピープル」より
Melvin Taylor- Blue jeans blues
Wolf Hoffmann - Blues For Elise
Chris Rea - Santo Spirito Blues
Alvin Lee – The Bluest Blues
Jimmy Page "Prison Blues"
Stan Webb's Chicken Shack - Poor Boy (Long version, HQ)
Chicken Shack featuring Stan Webb 'The Thrill Has Gone' 2004
Chicken Shack featuring Stan Webb 'You Are The Sweetest Little Thing / Hurt' 2004