去年の暮れに掃除をしていて、『ガロ』と『コム』をもうそろそろ捨てようかと考えた。まだ数冊は持っているのです。『ガロ』は白土三平が載っている号のは余り所有していませんが、1970年代前半から1990年代の廃刊間際まで、不定期だが買っていた。『コム』は1970年代の中頃から矢張り不定期ながら買っていました。今までに何回か捨てようかと思ったのだけども、捨てられなくて、其の儘、仕舞い込んで居たのです。
日本初の青年漫画雑誌『月刊漫画ガロ』は、それまで貸本漫画の出版などで知られていた編集者の長井勝一と漫画家の白土三平により1964に創刊された。誌名は白土三平の漫画「やませ」に登場する忍者「大摩のガロ」から取っているほか我々の路すなわち「我路」という意味合いもあり、またアメリカのマフィアの名前(ジョーイ・ギャロ)も念頭にあった。誌名の複数の候補からガロを選んだのは長井の甥である。題材・内容とスケールから連載する場所がなかった白土の漫画『カムイ伝』の連載の場とすることが創刊の最大の目的だった。同時に、活躍の場を失いつつあった貸本漫画家への媒体提供と、新人発掘のためという側面もあった。
長井勝一は後年「執筆者が7人以上いないと雑誌と認めてもらえなかった」と創刊時を振り返っており、水木しげるや白土三平が複数の名義を使い執筆者を水増ししての創刊だった。当初は白土三平の赤目プロの援助を受けて刊行された。雑誌のロゴも白土が発案し、レイアウトのほとんどを白土が構成した。表紙のレイアウトは週刊誌『朝日ジャーナル』を意識した。『ガロ』に触発された手塚治虫は虫プロ商事より『COM』を創刊、『カムイ伝』に対抗した『火の鳥』を連載する。ともに全共闘時代の大学生に強く支持されていった。
1960年代の『ガロ』は、白土三平の『カムイ伝』と水木しげるの『鬼太郎夜話』の2本柱でおよそ100ページを占め、残るページをつげ義春、滝田ゆう、つりたくにこ、永島慎二などがレギュラーとして作品を発表していた。永島慎二は『COM』にも連載を持っていたが、『COM』の編集長の手塚治虫から、なんで『ガロ』の連載を辞めないのかと訊かれ、「永井さんには売れない時に面倒を見て貰っていたから」と答えている。新人発掘にも力を入れていた当時の青林堂には、毎日のように作品が郵送で届き、多いときには2日、最低でも3日に一人は作品を小脇に抱えた若者が訪れた。
『ガロ』は商業性よりも作品を重視しオリジナリティを第一とした為、編集者の干渉が比較的少なく、作家側にすれば自由に作品を発表できた。また、新人発掘の場として独創的な作品を積極的に掲載した。こうした事はそれまで漫画という表現を選択する事のなかったアーティストたちにも門戸を開放する結果となり、ユニークな新人が続々と輩出されるようになった。発刊3年後の1967年には、主に『カムイ伝』を目当てにした小学館による買収および、当時の同社の中学生以上の男性向け雑誌『ボーイズライフ』との統合話が持ち上がったが、破談に終わる。現在は廃刊。
下は所有している、『ガロ』と『コム』から一部の写真です。
1990年代、初代編集長、長井勝一氏を偲んで集まった著名人。
部屋を掃除していたら、高校生の頃、私が描いたマンガが出て来ました。。。
goo blogにはイラストやら絵が上手い人が大勢いらっしゃるので、恥ずかしいのですが....
まあ、幼き日に描いた物だから、下手ですが、挙げておきます、( ´Д`)y━・~~
さて、所有しているbluesharpですが、今回で最後になります。メロディー・メイカーとハーモニック・マイナーです。
今日は、久々に散歩に出かけた。銀行に行くのを兼ねて隣町まで足を運んで見たのだが、、今日は風が強い。外に出て暫く歩いたが、途端に髪の毛が逆立ってしまった。こんな事なら、帽子をかぶってくれば良かったと後悔した。つい3日ほど前に、メンズ・ヘア・サロン(勝手にそう呼んでいる)で、また、パーマを掛けて来たので帽子は遠慮していたのですが。風が強すぎたのです。それから、私は小柄なものだから、歩いていて、すれ違う男性たちを見ていると、最近の若者は身長が最低でも176センチはある。ちょっとすると180センチ位の人はざらに居る。最近は女の人でも170センチある人はざらに居ますよね。私が小柄なせいか、皆さん逞しく見える。どうやら、私が背が高くならなかったのは、お袋のせいか、嫌、お袋の家系のせいだろう。母方の祖父は身長が低くて165センチしかなかったそうだから。私は母方の祖父を知らない。母が16歳の頃に他界しているので。東大出の医者で、訊く処に寄ると可也な名医だったらしい。また、地主でもあった。しかし母に言わせると戦後の農地改革で所有していた土地を殆ど取り上げられてしまったらしい。母は長女だから、祖父母が亡くなった17歳の時に「誰か男を見つけて養子にして結婚でもすれば、土地は手放さなくても良いでしょ〜」とか言われたらしい。逸の時代も役所は横暴だ。処で、1970年代はマキシにロンドン・ブーツが流行っていた。流石に18センチはあろうかと言う、ブーツは私は履かなかったが、高校時代の友人たちは結構履いていた。ロンドン・ブーツと言えば、新日本プロレスで外タレ・レスラーだった、ハルク・ホーガンがデビュー仕立ての頃、身長が192センチもあるのに18センチのロンドン・ブーツを履いていて、なんだあれはと思ったものだが。彼は猪木に見出されて、新日本でプロレスの修行に来た当初、ロック・バンドでギターも演奏していたそうで、それでかと理由を聞いて納得したのだった。
本当に音楽をやっているミュージシャンの卵はこぞって履いていた。最近では、若い女の子の間で厚底ブーツとか言うのも、数年前に流行っていたっけ。あれは、何だったのだろうか?ヘタな男性より背が高くなっていたのですが....今では持っている女の子は厚底を削って普通のブーツにしたらしい(〜〜;そういえば、この間、スーパーに行ったら食料品売り場の処で、身長187センチはあろうかと言う30代の男が奥さん?を連れて買い物をしていたので、いや〜デカいなと思い足元をふと見たら、何とロンドン・ブーツを履いていた。今でもロンドン・ブーツは売っていますよ。1万数千円で買えます。
マキシと言えば、10年程前にマキシではないが、よく似たロング・コートを買って持っている。私は、1970年代のファッションが好きで、影響を受けている。だから今だに長髪です。もう歳ですけど・・・1980年代になるとテクノカットだとか剃り上げる髪型が流行っていたが、あれには付いて行けなかった。最近の若者のヘアスタイルは結構モダンだ。部分的に長髪で横側などにソリを入れている。まあ、サラリーマンはやらない髪型だけども。良いではないか、若いんだから。私は70歳になっても長髪を貫き等している、ヨウジ・ヤマモトだとかレオン・ラッセルとか良いセンスだと思う。まあ、あそこまで長くはしないが。もう、会社づとめもしていないし、良いではないですか、残りの人生、好きな格好をしたい。ただ、美容室でパーマをかけると必ず美容師さんが髪の毛をバックに撫で付けるがあれは止めてほしい。「だって、前髪垂らすと可愛くなってしまいますよ」前に今の美容師ではなく。他の美容室の美容師から言われたけど。なんだか違和感があるので嫌だ。自然体が良いのです。身長と言う事で思い出したが、死んだ親父が、医者だった弟が正月にホテルで食事会をしようと予約を入れてくれたのだが、親父は医者からきつく運転をするなと言われていたし、私も持病があり車は運転出来ない。誰も車の運転が出来ない為、電車でホテルまで行く事になったのだが、親父が私を見て怒る。理不尽にも自分が歳で背が縮んだから私を見て「俺より背が高くなるな!バカヤロー!!」と怒る。理不尽な怒りで人を怒鳴り付けていた。ホテルに着いて、食事のオードブルが出て来ると、真先にガッツキ、あろうことか、食べている途中でなんと意識がなくなりテーブルに突っ伏して仕舞った。姉夫婦も来て居て、義理の兄貴も医者だった為、脳溢血の疑いもあると、救急車を呼んだのだが、救急隊員が駆けつけて運び出そうとしたら、突然、気がついて「オリャ〜寝てたんだ」と言って居る。弟は俯いて黙って居るので、私が「どうなったのか、状況を説明しますよ」と言ったら、緊急隊員の一人がキレた。「あんたは黙って居て下さい!!」それでお袋が「本人は、ああ、言っていますが、一応病院に運んで下さい」と言ったら、「何してるんだ、、皆んな、オリャ〜寝ていただけだぞ」と言う。だから私が「そこに立っている弟と横にいる兄貴は医者ですよ」と言ったら、緊急隊員がビックリして「お医者さんでしたか!!」と要約納得してくれて、嫌がる親父を救急車に乗せ病院まで搬送した。その時は診察の結果は何ともなかったが...親父はそれからパチンコ屋の受動喫煙で肺がんに罹り骨癌に転移して亡くなった。そんな事を思い出した。。。
今回も、bluesharp奏者の映像を挙げて置きます。まあ、観て下さい。。。
American Folk Blues Festival 1982 feat. Billy Branch
"La Bruja" son jarocho with Chicago Blues featuring Billy Branch
Harmonicon White Mountain Boogie and Blues Festival 2015
Charlie Musselwhite w/ Richard Bargel
Buddy Green - Amazing Harmonica Solo - Bach
Jason Ricci, Spring Harp Fest
一昨日と、今日は訪問看護婦が来た。一昨日は来た人が私のblogを教えてくれと言うので、「Googleでkiyasume blogと入れれば出てくるので、見れますよ。」と言ったら、解ったと言って帰って行った。次の日、昼寝をしていると携帯が2度に渡って鳴ったので、しぶしぶ出てみるが、出てみると切れているので、履歴を見て掛けてみたら、訪問看護婦さんで「事業所の1月の計画書そちらにないですか?」と言うので「計画書??」「そんな物は昨日来た時に置いて行きませんでしたよ? 」と言ったら、「今日これから伺っても良いですか?」と言うので、「別に構いませんよ」と言ったらそれから20分位したらやって来て。「ファイルに入った書類ですけど、無いですか?」と言うので「別に何も無いですよ?」と言ったら部屋を見て廻って、「おかしいですね、、無いですね。」と言っているので「どうしたのですか?」と訊くと「どこ探しても、書類がないから・・・」と言っていたが「解りました、突然すみませんでした。」と帰って行った。そして、それから40分位してから、電話がまた掛かってきて、「すみませんでした。同僚のOOが持っていました。御心配をおかけして申し訳ありませんでした。」と言うので「見つかって良かったですね」と言って電話を切った。
そして、今日、別の訪問看護婦さんが来た。話は何時もの通りで、薬をお薬カレンダーに入れて行ったのですが、、私が押井守監督の「イノセンス」を貸そうかと言ったら、「見ている暇がない」と言うので、「このDVDは正規盤のコピーだから貸しますよ?返すのは何時でも良いですよ」と言ったら、「子供が居るからいいです、他の看護婦に言って下さい。」と言う「・・・・」何だか、、無理やりと言う訳ではないけど女性は男からものを気安く貸りたり、上げると言われると困るものなのかと...私は純粋に押井監督のアニメは特に「イノセンス」はカンヌ映画祭で大評判で評価が高い作品なので良かれと思っての事だったが・・・まあ、年配の訪問看護婦さんに新海誠監督の「言の葉の庭」を教えたら、YouTubeで観たらしく。「良かった。良い作品だった。」と喜んでいたから、良いかなと思ったが。確かに私は良く映画やら音楽の押し売りをするから。だって、良い作品は一人でも多くの人に解って貰いたいではないですか。今は来ていない、ヘルパーさんにも、(彼女がハーモニカに興味があったので)ブルースハープの教則本を貸そうかと言ったら、「私は旦那と子供がいて暇が無いから。」と言っていたけど。まあねぇ・・・女の人には余り気安くものを貸すとか上げるだとか言うのは良く無いのでしょうか。
言の葉の庭。新海誠
さて映画です。今回は「ワイルド・バンチ」です。
『ワイルドバンチ』(原題: The Wild Bunch) は、1969製作のアメリカ映画です。サム・ペキンパー監督による西部劇です。時代の波に取り残された無法者たちの滅びの美学を描いた作品であり、西部劇に引導を渡した「最後の西部劇」と呼ばれている。ペキンパーの最高傑作として高く評価されている。定義にもよるが「アメリカン・ニューシネマ」の一つとされる。
1913年、テキサス州国境の町サン・ラファエル。パイク・ビショップ率いる強盗団の“ワイルドバンチ”は、騎兵隊を装い鉄道事務所の銀貨強奪を図る。しかし、牢獄からの釈放を条件に鉄道会社に雇われたかつての旧友デケ・ソーントンに指揮された賞金稼ぎたちに待ち伏せされ、銀貨強奪には失敗し、パイクたちはメキシコへ逃走する。賞金稼ぎたちとの銃撃戦で生き残ったのは、パイクの他にダッチ・エングストローム、ライルとテクターのゴーチ兄弟、エンジェルの4人だけだった。仲間のサイクスと合流したパイクたちは、国境を越えてエンジェルの故郷の村に辿り着くが、村が政府軍のマパッチ将軍に脅かされていることを知る。さらにエンジェルは、恋人テレサがマパッチに連れて行かれたことを知って嘆く。
ソーントンと賞金稼ぎたちの執拗な追跡を受けて、逃げる場所のなくなったパイクたち一団は、マパッチ将軍のメキシコ政府軍が本拠地とするアグアベルデに逃げ込む。そこでエンジェルは、テレサがマパッチの膝の上に乗っているのを見て逆上し、彼女を射殺してしまう。エンジェルは暗殺を企てたとして政府軍に捕らえられるが、マパッチを狙ったのではないと解りすぐに釈放される。エンジェルを引き取ったパイクは、1万ドルの報酬でアメリカの軍用列車から武器を奪うようマパッチから依頼される。
列車強盗を成功させ、約束通り武器を政府軍に引き渡そうとするパイクたち。マパッチ将軍の裏切りを予測していたパイクは、武器を小分けにすることで身の安全を図る。マパッチは渋々報酬を支払ったが、ダッチとエンジェルが交渉に向かった時に問題が起きる。マパッチを憎むエンジェルが武器の一部を反政府ゲリラに渡したことが政府軍に漏れていたのだ。それを知ったマパッチは、エンジェルを捕まえ残酷なリンチを始める。
仲間を見捨てることが出来なかったパイクは、エンジェルを助けるために4人で200人を越すメキシコ政府軍の砦に乗り込み、エンジェルを解放するように要求する。マパッチはエンジェルを解放すると見せかけて、パイクたちの目の前で殺害し、それを見たパイクはマパッチを射殺する。メキシコ政府軍は呆気にとられ呆然とするが、マパッチの相談役であるドイツ軍のモール参謀が拳銃を取り出そうとしたのをきっかけに銃撃戦が始まる。パイクたちは全員射殺されるが、同様にメキシコ政府軍を壊滅させた。
砦に到着した賞金稼ぎたちはパイクたちの死体と、メキシコ政府軍の死体から戦利品を手に入れるが、ソーントンはパイクの死にショックを受ける。賞金稼ぎたちと別れたソーントンは砦の城門で座り込んでいたが、そこにパイクたちと別れていたサイクスがメキシコ革命派のメンバーと共に現れる。サイクスはソーントンを仲間に誘い、ソーントンは誘いを受け入れて彼らと共に荒野へと去って行くのだった。
The Wild Bunch (9/10) Movie CLIP - Battle of Bloody Porch (1969) HD
スローモーションによる強烈なバイオレンスをアーサー・ペン監督の『俺たちに明日はない』に先を越されてしまった悔しさからか『ワイルドバンチ』の撮影現場で「俺たちで『俺たちに明日はない』を葬り去るってやる!!」とペキンパーが何百もの弾着を仕掛けながらそう言っていたと衣装係のゴードン・ドーソンは回想している。また『俺たちに明日はない』のラストのバイオレンス・シーンもペキンパーと同じくアーサー・ペンが尊敬している黒澤の『七人の侍』と『椿三十郎』を手本にしたものである。冒頭の銃撃戦のシークエンスの中に写っている子供たちの一人はペキンパー自身の子供である。当初は『ワイルドバンチ』の主演はペキンパーの飲み友達であったリー・マービンが予定されていたそうです。
この映画は1970年代にテレビの深夜放送の「名作劇場」で観ました。当時はマカロニ・ウエスタンが全盛で、本場ハリウッドの西部劇は人気がなかったのですが、この映画は、アメリカでもバイオレンス・シーンに使う血糊の描写が、解禁になったばかりで、B級西部劇のドル箱スターだったランドルフ・スコットとジョエリル・マクリーを主演に据えて、時代に取り残された老ガンマンの悲哀を描いた、名作「昼下がりの決闘」をやはり深夜放送で観ていて、サム・ペキンパーという監督の存在は知っていたので、大いに期待して観ていたのですが、いや〜素晴らしい映画でした。当時、マカロニ・ウエスタンで育った自分にも、それまでの西部劇とは違ったバイオレンス満載でいて男の哀愁が漂う演出には圧倒されました。ウィリアム・ホールデン、アーグネスト・ボーグナイン、ウォーレン・オーツ、ベン・ジョンソンと豪華な主演陣。オートマチックの拳銃もこの時代にはあったのでしょうか、まあ、マカロニ・ウエスタンの作品でもセルジオ・コルブッチの名作「殺しが静かにやって来る」で軍用自動小銃のモーゼルが出てきましたが。しかしこのオートマチック、あの大銃撃戦の最中、一度もガンベルトから抜きません。ウイリアム・ホールデンの、時代からはぐれてしまった男の哀愁が垣間見られるのです。ラストの火を噴くマシンガンの破壊力を延々見せるのも死んでいく者たちの鎮魂歌を表しています。メキシコ軍を相手に4人で敵陣に入り凄まじい銃撃戦を繰り広げるのはバイオレンスシーン史上に残る一大叙事詩。まさに死のバレエと呼ばれるペキンパー監督独特のスロモーション撮影が見事に演出されています。4人揃って勝てる筈がないメキシコ政府軍に殴り込みを掛ける道すがら、メキシコの有名な歌が掛かります。此処でその歌詞の内容は言いません。ぜひ作品をご覧になって聴いて下さい。