昨年に書いたblog記事です。もう一度読んで貰いたい為に再び、其の儘挙げます。もう一度読んで見て下さいね。それからこの記事には、グループ・サウンズの曲やら、偉大なブルース・ギタリストでシンガーの「BBKing」の紹介やら。アントニオ猪木が引退試合の時に詠んだ詩を書いて居ます。皆さんもう詠んだ方も。まだの方も読んで見て下さいね。それではどうぞ...........。
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ーーー幸福な人間とは、自分の人生の終わりを
始めに繋ぐ事の出来る人の事である。ーーー
「ゲーテ」
熱狂! グループサウンズの時代
懐かしのグループサウンズです。聴いた事が無い人も聴いて見て下さいね♪
青い鳥/ザ・タイガース (1968)
ザ・タイガース 花の首飾り
ザ・タイガース モナリザの微笑み
エメラルドの伝説
ザ・テンプターズ - おかあさん
「人間、捻くれる奴は、何を遣ってもどんな環境に居ても捻くれる。人間は追い詰められた時に真価を発揮する物だ......。」アントニオ猪木の言葉です。私の父親の会社に、小学校もまともに行って居ない人間が居た。私は今から40年前、もう、抗精神薬を飲んで居た。そして後遺症があるので、利尿剤も飲まされて居た。だからオシッコが近かったのだ。でも、何故か出て来るまで時間が掛かった。そして残尿感が凄かった。だから働いて居て、トイレが一番の問題だった。私は会社の社員で、小学校中退の橋本と言う男の車に乗せられた。そしてその男に、いい様に嫌がらせをされたのだ。何故ならゆきかず寄りの人間だったからだ。私がトイレに行きたいと言うと、大抵その男もトイレに来た。そして私が男子用トイレでズボンのジーパーを開けて立つと、橋本は私のすぐ後ろにピタリと寄って立った。私は唯でさえ、オシッコが出にくい。だから、私は暫く、りきんで居る。すると後ろから橋本が言うのだ。「何してんの。さっさとションベンすれば良いだろ」私は言った。「後ろに立たないでよ」するとこう言う「ケッ!へぇ〜。そんなに高級な生まれをして居るの」私は尿が出て来ない。だから立って居ると橋本が言う。「〇〇ちゃん、ションベンなんか出ないんだろ!!」私は仕方が無いんで、オシッコをするのを止めるのだ。そして車に乗り込む。それでトイレを我慢する、そう言う事が1回や2回では無い。私は強力な精神安定剤を飲まされて居る。だから頭が回らないのだ。だから橋本と車に乗ると。膀胱がパンパンに腫れて激痛が走る様になる。大体時間にして6時間はトイレで出て来ないのです。そして私は付いに我慢が出来なくなって、隠れて立ちションをやる事に成って行った。ある時など我慢に我慢を重ねて電柱の影で立ちションをしたら、鈍い痛みと共に血が混ざって出て来た事があった。
橋本は会社に帰ってから、ゆきかずに私は嘘つきだと話す。ションベンがしたいと言っても、ションべんなんか出無いと言うのだ。するとゆきかずがやって来て。私に「嘘をつくな!!」と言う。私の敵は彼らだけでは無い。肝心のバカ父親も「橋本から聞いた。お前はションベンなど出無いんだろ!!」と言うのだ。ある時に私は親父の車に家族と一緒に乗った。しかし矢張りトイレが近い利尿剤のせいだ。だから親父に言ったのだ。「トイレをどこか探してくれ」と。すると、親父は言う。「立ちションをしろ!!」....。私は怒って言った、「最近は立ちションでも見つかると、軽犯罪法で罰金になるんだよ!!」そしてファースト・フード店かガソリン・スタンドで用を足す事に成る。しかし出ないのだ。どんなにりきんでも出ない。すると親父が言う「おりゃ、橋本から聞いて居るんだ!!ションベンなどは出はしねえんだ!!」当時私は東京医大の精神科に罹って居た。だから新宿方面に行った時に診察日では無いが、病院に駆け込んだ。親父は車で待って居た。そして、私が、先生に尿が出にくいから、出る様に薬をくれ、と言うと、また利尿剤が処方される。私は殆困って仕舞った。そして車に戻ると親父がこう言った「いやぁ〜おめえが精神科なぞに罹って居るから、此処で待って居たら親戚の達郎が車を側に停めて病院に入って行った。おりゃぁ、顔を手で覆ったぞ〜〜。」
ある時に、矢張り、橋本の車に乗せられて、得意先回りをした時だ。私は何時もの通り嫌がらせをして来るので、また電柱の影でオシッコをして居た。すると、どこかのおばさんが自転車で通りかかった、そして「フン!!良くもまぁ〜。どう言う奴だ!!」と私を睨みつけて側の自宅に入って行った。私は嫌なババアだなと思ったが、やっとの事でオシッコをして、配達に来た家に置きにバイオレットを2体担いだ。ちなみに一体は25kgあった。 肩には50kg がのし掛かる。その粉糖を留守にして居る客の家のドアの前に置いたら。その隣のさっきのババアが出て来てこう言った。「あんた!!何して居るの!!そんな粉糖を置いて、警察に言うわよ!!」私は製菓材料の会社の社員だと言った、すると、またこう言う。「何が社員なものか、髪の毛を浮浪児見たいに長く伸ばして!!良い加減な事を言うんじゃ無いよ!!」そうしたら橋本がやって来て言う。「おい、ちゃんと仕事をしろ。やあ、かあちゃん、こいつは、おらさの連れです」「あんたは連れに立ちションさせてるの!!」私は頭に来たから、其の儘そこを離れ、「どこに行くんだ・・・」と言う橋本の車には乗らずに黙ってその場を後にした。そして通りに出てから電車に乗り込み。新宿に出た。そしてジャズ喫茶「サムライ」に行って夜遅くまでバーボンを飲んだ。午前2時に成り店は閉まって仕舞うので公園に行った...。そして1夜を過ごした。家には帰ら無かった。
そして翌朝に成って家に帰ってから、大切にして居た愛用のエレキギターESー335を手に取った。そして暫く見て居た。思い出が蘇って来る....。思えば8年間良くこのギターで演奏した物だ。私はギターにキスをして「今まで有難う」と言って、ギターと電池で鳴る小型のMarshallのアンプ。MPー2Rを持ちだし、玄関先に出て、ブルースを弾いた。涙が出て来た。会社の事務員の女の子がそれに気づいて側まで来て聴いて居た....。私はそれから自宅の側の道路に行った。そして目を瞑って大上段に降り被りギターを振り上げた。それから道路に何遍も叩きつけた。ギターのネックがぼっきり折れたが、同時に私の手もザックリ切れて血が滴り落ちた。私は血を滴らせながら、憮然と立って居た。それを観て居た橋本とゆきかずと親父は吃驚して私を観て居た。私は家に入ると自分で包帯とガーゼと軟膏を取り出して血を拭い。軟膏を塗って包帯を腕に巻いた、すると親父が家に入って来て。私の名前を呼んで狼狽て居た。母は黙って見て居た。壊れたギターは翌日の朝、ゴミ捨て場に捨てられた。そうしたら、馬鹿な橋本と会社の社員たちが言った。「おいエレキギターが捨ててあるぞ。拾って帰ろうかな!」「いや、あれ壊れて居るぞ...。」それから暫くの間、私はもう車には乗らなかった。そして外回りは辞めて倉庫番と成った。誰も文句は言わなかった....。ギターに付いては日頃思っては居た。もうバンド活動は出来ないのだ。ギターがあったら、未練が残る。私は何もかも諦めたかったのだ。暫く経って、私は会社を辞めた。その後、橋本は得体の知れない奇病に罹った。筋萎縮性側索硬化症(ALS)だと言う、筋肉が固まって小さく成り痙攣を起こし。もの凄い激痛に襲われるのだ。橋本は言った「おらさは何か悪い事をしたんだろうか・・・。」ゆきかずの胃には穴が空いて悶え苦しんで治療した。親父は肺癌に罹りそれから骨ガンに罹って仕舞った。そして死んで行った。橋本は唸りながら死んで行った。死ぬ間際に野獣の咆哮見たく声を挙げたと言う。私は捻くれはしなかったが、周りは皆んなおかしく成って行ったのです。私は思って居る。どんな試練がこの先に待ち受けて居るかは分からない。今はたった一人暮らしだ。この先。此の儘、好きなブルースとジャズとロックをブルースハープで演奏して。映画を見て音楽を聴いて本が読めればそれで良い。私にはもう身内と呼べる者は誰も居ないのだから、それだけが生きて居る証なのです。あと生きても10年ぐらいだろう。此の儘、此の儘で良いのだ。人は傷が深い程他人に優しくなれると言う。私はこれからも人の役に立つ人間に成りたいと思う。
「‘キング・オブ・ブルース’ B.B.キング」と言うシンガーでありギタリストを此処で知って下さい。。。。
シンプルに‘B,B,’と略され世界中の何百万人ものブルース・ファン達に知られて居る男は、2015年5月14日、89歳でこの世を去った。糖尿病の合併症で病気で入院した事を含む、一連の健康状態の悪化が続いた末での他界であった。それにも関わらず、2013年の時点でさえも彼は‘ルシール’と自身が名づけたギターを抱え、大好きだったコンサートを年間100本もこなして居た。数多くのライヴで演奏し、アルバムをリリースし続ける事で、彼は自分が愛する音楽を世間に紹介し、ブルースが人々に悲しみ同様に、幸せな気持ちも与えてくれる事を気づかせてくれたのだ。
本名ライリー・B.キングは、アルフレッド・キングとノーラ・エラ・キングの息子として1925年にミシシッピ・デルタ地帯のディープな中心地、インディアノーラで誕生した(*注:生まれはイタ・ベーネのコットン農園)。ファースト・ネームの「ライリー」は、両親が住み込みで働いて居た農園所有者のアイルランド人のラスト・ネームに由来する。「農園のオーナーはジム・オライリーと言う名前だった。「うちの親父とミスター・オライリーは凄くいい友人同士で、彼にちなんで私の名前をつけたが、頭の“O”を外したらしい。自分の名前の由来を理解できる年齢になったある日、親父に「ミスター・オライリーにちなんで名付けたのに何故’O’を外したの?」と聞いたら、「お前はどう見てもアイルランド人には見えないだろ!」って言われたよ」。
B.B.キング曰く「いかなる時でも、農園で生まれた者には選択肢が存在しなかった。農園第一で、それは常に最優先」であった。だが、間もなくしてライリー・B.キングの名前はビール・ストリート・ブルース・ボーイとして認知される事で変わって行った。この小作人の息子は1946年(*注:1947年の説もあり)にメンフィスに移り住み、従兄弟のブッカ・ホワイトと暮らして居たが、程なくしてトラクター運転手として働く為にインディアノーラへ舞い戻った。
「私が得ていた基本的なトラクター運転手の基本給の週給22.5ドルは、あの辺りで働いていた他の人達と比べて高額だったよ」- B.B.キング
サニー・ボーイ・ウィリアムソンのラジオ番組に刺激を受けた若き日のライリーは、その後1948年にメンフィスへ戻る。「サニー・ボーイのオーディションを受ける事になり、アイヴォリー・ジョー・ハンターの‘Blues of Sunrise’を歌ったんだ。当時サニー・ボーイはウェスト・メンフィスにあったシックスティーンス・ストリート・グリルという小さな店で演奏して居て、サニーは雇い主のミス・アニーという女性にこう言ったんだ「今夜、奴を俺の代わりとして店へ送るから」って。それから私の仕事は賭け事をしない若者達の為に演奏する事になったんだ。シックスティーンス・ストリート・グリルの店内後方にはギャンブル出来る場所があって、もし男性客が賭け事をしないガールフレンドや奥さんを連れて来た場合、その女性達が踊れる様な音楽を演奏し、楽しんでもらうのが私の仕事だった。お客さんが私の演奏を楽しんでくれた様子だったので、ミス・アニーから「あなたもサニー・ボーイ見たいにラジオ局の仕事を持ったら、部屋と食事込みで週6日勤務、一晩12.5ドル支払うわよ」と言われたんだ。その時は信じられなかったね」。
彼は地元のラジオ局WDIAで働き始めた。「ラジオのディスク・ジョッキー時代、私はビール・ストリートから来た男だからか‘ブルース・ボーイ’と呼ばれて居た。後に、皆が私宛に‘ブルース・ボーイ’と書く際に’B.B.’と略す様になったんだ」。そして、メンフィスでの人気のお陰で、1949年にB.B.はブレット・レコードでレコーディングのチャンスを得る事になった。最初に出したシングル盤の売上はさほどでは無かったものの、1950年9月にサム・フィリップスは彼のレーベル、メンフィス・レコーディング・サーヴィスのスタジオへB.B.を送った。そして、タレント発掘の為にメンフィスを訪問中だったバヒリ兄弟がB.B.を見つけて、彼らのRPMレーベルと契約する事になり、B.B.はサム・フィリップスと録音したシングル盤をリリースする事になった。これらのレコードはヒットしなかった為、ビハール兄弟の一番下の弟であるジョー・ビハールは、1951年1月8日にメンフィスへ行き、YMCAの部屋を借りてB.B.キングのレコーディングを行った。ジョーはその次のメンフィス訪問中にB.B.キングによるローウェル・フルソン「Three O’clock Blues」のカヴァーを録音。同曲は1951年12月29日に全米チャート入りし、1952年初頭には最終的に5週間1位を獲得した。これはオーヴァーナイト・センセーション(一晩で一躍有名になる様な突然の成功)ではなかったが、現代ブルース史に於ける最も成功した、長いキャリアの始まりであった。
「我々は、白人向けには演奏しない。将来どうなるかは自分でもわからないし、「白人のために演奏はしない」って言ってる訳じゃないよ。レコードは不思議なもんでね。有色人種層向けにマーケティングしても、突然白人達が気に入って呉れると、自分のコンサートにドーン!と白人客が集まる様になるんだ」- 1950年代のB.B.キング
成功を収め始めた当初、B.B.キングは自身が大スターだったメンフィスに暮らして居たが、彼が思って居た程、常に大スターだった訳では無い。「我々がメンフィスのオーディトリアムへ行った時、エルヴィス(・プレスリー)がボビー・ブランド、リトル・ミルトン、リトル・ジュニア・パーカー、ハウリン・ウルフ、そして私の演奏を観て居た。全員ステージ経験者だった。ステージを沸かすボビー・ブランドは観客を躍らせる事が出来、リトル・ミルトンと私は何時もと同じく自分達がやるべき事をやって居たけど、ボビー・ブランド見たいに観客をすぐに躍らせる事が出来なかった。我々はそのままステージ上に残って居たら、次のハウリン・ウルフの登場で皆がクレイジーなほど大騒ぎし始めたんだ。リトル・ミルトンは「‘こりゃ、凄い事になってるな’」と言った。そこで、ジュニア・パーカーが「‘さぁ、行こうぜ’」と声を掛けると、ウルフは“Spoonful”を演奏し始めた。我々も着いて行くと、今度はウルフが跪き、床を這い回ったんだ。とにかく観客がもう大騒ぎで、その時やっと一体何が起きて居たのか、解ったよ。奴のズボンの尻の部分がヤブれてたんだ!ケツ丸見えでね!」
ある夜、B.B.キングがアーカンソー州トゥイストのクラブに出演した際に客同士の喧嘩が原因でストーブが倒れ、木造の建物が火事になった。バンドとオーディエンスが慌てて外に避難した後、キングは30ドルもする自分のギターを会場に置き忘れた事に気づいた。彼は燃え上がるクラブ内へと急いで戻り、命がけで何とか自分のギターを取り戻す事が出来た。その後、喧嘩の原因は、”ルシール”と言う女性を巡った争いだった事が判明し、B.B.キングは自分のギターにその名前を付けた。その結果、ギブソン社のカスタムメイドのギターの約20本には全て‘ルシール’と言う名が付いて居る。
RPM時代のB.B.キングはヒット曲を次々と量産し、その後1958年ケントに移籍するまでの間にR&Bチャート1位を3度も獲得した。そして、60年代の大半はケントに在籍、その後R&B チャート首位には二度と輝かなかったものの、沢山のヒット曲を放った。彼の甘美でゴスペル色を帯びた歌声は卓越したシングル・ストリング・ピッキングと相まって、たまらなく魅力的な組み合わせだった。それは、キングをR&Bチャートにおける史上最高の成功したアーティストの1人へと押し上げた。
「我々は自分達の兄弟をしっかり見守る者である事を、皆に伝えようと努めて居る。つまり、肌の色が赤、白、黒、茶色、黄色であろうと、富める者でも貧しい者でも、誰にでもブルースはあるから」- B.B.キング
1960年後半までに、B.B.キングは彼の仲間であるブルース・ギタリスト達と同様に若い白人のロック・アーティスト勢から見出され、それによって彼のキャリアは大きく後押しされた。1970年に「The Thrill is Gone」はR&Bチャート3位となり、更にジャンルを超えて全米シングル・チャートでは15位まで上昇し、B.B.最大のヒット曲となった。1969年にはB.B.はその後何度も訪問する事になるヨーロッパへ初めて渡った。欧州のオーディエンスはレジェンドであるB.B.キングがエリック・クラプトンやピーター・グリーン達へ音楽的影響を与えた事を熟知して居た為、彼を受け入れる態勢が整って居たのだ。B.B.キングによる1964年録音のアルバム『Live at the Regal』は、大西洋の両側に住むミュージシャンとファン達に長年崇められて来た作品である。
B.B. King - How Blue Can You Get Live at the regal
R.I.P. | BB King - Sweet Little Angel (Live at the Regal)
【和訳】How Blue Can You Get
僕は落ち込んで居るんだ、ねえ
僕らが会った日からずっと
だから落ち込んで居るんだよ、ねえ
僕らが会った日からずっと
僕らの愛はブルー以外の何でも無かった、なあ
ねえ、君はどれだけブルーに出来るの...。
僕といる時、君は悪魔だよ、ねえ
そして離れて居る時は、嫉妬深い
だからさ、僕と居る時、君は悪魔だよ、ねえ
そして離れて居る時は、嫉妬深い
どれだけ君はブルーになれる、ねえ
答えは僕の心の中、すぐ此処にあるよ
新しいフォードをあげたね
でも君は、キャデラックが欲しいの、って言った
僕は10ドルのディナーをご馳走した
そして君は言った、おやつありがと、って
君にうちのペントハウスに住ませてあげたけど
君は、そんなのただの掘っ立て小屋だと言った
7人の子供も与えたけど
いまじゃ、みな返したがって居る
僕は落ち込んで居るんだ、ねえ
僕らが会った日からずっと
僕らの愛はブルー以外の何でも無かった、なあ
ねえ、君はどれだけブルーに出来るの...。
【和訳】Every Day I Have the Blues
毎日、毎日、憂鬱だ
ああ、毎日、毎日憂鬱だよ
僕が心配して居るのを見てる時、そう、君の事だよ、負けたくないんだ
誰も愛してくれない、誰も気に掛けて居ない様な気がする
誰も愛してくれない、誰も気に掛けて居無い様な気がする
まあ、心配事や面倒事でさ、愛しい人よ
ねえ、僕だって結構やったんだよ
毎日、毎日、憂鬱だ
ああ、毎日、毎日憂鬱だよ
僕が心配して居るのを見てる時、そう、君の事だよ、負けたく無いんだ
誰も愛してくれない、誰も気に掛けては居ない様な気がする
誰も愛してくれない、誰も気に掛けては居ない様な気がする
まあ、心配事や面倒事でさ、愛しい人よ
ねえ、僕だって結構やったんだよ
「そうだな。B.B.キングはまるでヒーローだった。バンドはどうかって? あのバンドが『Live at The Regal』でスウィングするのを聴いて見ろよ。まるで道路をならす蒸気ローラーのような威力だから」― ミック・フリートウッド(フリートウッド・マック)
B.B.キングの成功の大部分は、彼のコンサートに起因するであろう。彼は常に「最も働き者なライヴ・パフォーマー」の1人であり、ライヴ活動が少ない年でさえ年間250~300本もの公演を行って居た。また、彼はバンドを結束させる才覚を持って居た、それは彼のバンド・リーダーとしての腕前の印だが、おそらく彼のボスとしての寛大で思いやりのある気質が恐らく大いに関係して居るに違いない。
「うちのバンド仲間は素晴らしいミュージシャンと言うだけじゃなく、お互いに忠実なんだ。だから、皆で集まると楽しい時を過ごせるね。全員私と長年一緒にやってきた仲間で、ドラマーのサニー・フリーマンは約18年一緒に演奏したし、現在のシニア・トランぺッターは21年間も一緒。1人を除き、全員が10年以上も私と一緒にプレイしてきた仲間達なんだ」- B.B.キング(2000年)
1969年にB.B.はザ・ローリング・ストーンズとアメリカ・ツアーを行い、多くの人々に取っては初めて史上最高のアーティストの1人であるB.B.キングの生演奏を観覧する事になった。ビル・ワイマンはこう語る。「当時はよくステージ脇でB.B.キングの演奏を聴いたよ。彼の12人編成バンドは卓越したミュージシャン揃いだった。彼の演奏で何時も驚かされたのは、叩きつける様な激しい演奏の後にテンポを下げて囁く様に歌い始める処だった。そうすると、会場は静まり返り、飾りピンが床に落ちた音でさえ聞こえて仕舞う程だった。そこで突然、B.B.は大きなクライマックスへと盛り上げて行くんだ。彼の演奏で好きなのは、そう言った音楽の幅広さだね」。
まともな仕事を見つけるのが難しかった1970年代、B.B.キングは常に第一線、もしくはその周辺に居た。彼はテレビ出演さえも果たし、それは当時他のブルース系アーティスト勢ではほぼ誰も実現して居ない事であった。そして、他のギタリスト達と共演した彼の評判の良さは、B.B.キングにブルース界の長老政治家の様な地位を与えた。ブルースの意味を雄弁に説明する事で、彼はブルースが下火になり掛けた時に盛り上げる手助けをした。中にはブルースにしてはポップすぎると言う批判もあったが、それはB.B.キングの成功の一片も達成出来ない者達からの負け惜しみだった。
ロックの殿堂入りした翌年の1988年、B.B.キングはU2のアルバム『Rattle&Hum』に参加。収録曲「When Love Comes to Town」での彼の演奏は、63歳でもまだ輝きを失って居ない事を証明した。外部アーティストとの共演はこれが初めてでは無く、70年代にはジャズ・グループのザ・クルセイダーズと共演しており、その他これまでB.B.キングが共演したアーティストには盲目のシンガーのダイアン・シューアやアレクシス・コーナー、スティーヴ・ウィンウッド、ボビー・ブランド等が居る。2001年にB.B.キングは長年の友人、エリック・クラプトンと録音したアルバム『Riding With The King』でグラミー賞を受賞。同アルバムでは「Three O’Clock Blues」の再レコーディングを含め「Worried Life Blues」や「Key To The Highway」等カヴァーを収録した。
B.B. King - Key to the Highway
Three O'Clock Blues
BB King & Bobby Blue Bland - The thrill is gone - 1977
BB King - 01 Every Day I Have The Blues [Live At Nick's 1983] HD
B.B. King - Sweet Sixteen
同じ時代の他のアーティストと同様に、B.B.キングはルイ・ジョーダンからインスピレーションを受け、黒人のミュージシャンでも偉業を成し遂げる事が出来ると信じて居た。よって、彼はこの伝説のバンド・リーダーの楽曲を録音したいと長年希望して居た。1999年にB.B.キングはそのカヴァー・アルバムを発表し、ルイ・ジョーダンへの恩義を示すと共に、「ジュークボックス王」による一連のヒット曲をカヴァーして祝福した。同カヴァー・アルバムのタイトルはB.B.キングに相応しく、何十年にも渡りB.B.キングが自身のライヴのオープニング曲として使用してきたルイ・ジョーダンの楽曲名から『Let the Good Times Roll』と名付けられた。
B.B.キングの偉大な才能は現代の音楽ジャンルの激しい変動を切り抜けて、面白いアルバムを出し続けた。B.B.は底辺にあったブルースを米国音楽のメインストリームへと押し上げた。子供時代に聴いた音楽を驚くほど多種多様な他の音楽スタイルと混ぜ合わせ、広範囲に渡るミュージシャン達と演奏する事でデジタル時代にもブルースを紹介し続けたのだ。
B.B. King, Eric Clapton, Buddy Guy, Albert Collins & Jeff Beck Apollo Theater, NY 06 15 93
BB King RIP with Gary Moore RIP - The Thrill Is Gone - Hi Quality
BB KING Best Solo Guitar King of Blues
JEFF BECK with B.B. KING - Key To The Highway
B.B.キングは、他のアーティスト勢を上回り、議論の余地なく「キング・オブ・ブルース」であったが、その「キング」の亡き今、私達はもう二度と彼のようなアーティストを目にする事は無いだろう。
私はBBkingに憧れた。髪型こそは1970年代のロック・ミュージシャンの真似をしたが、ギターはBBkingをコピーしたのです。今となっては懐かしい思い出だ。皆さんBBkingを聴きましょうよ.....。
アントニオ猪木 名言 道
石川県白山市にある明達寺と言う真宗大谷派の寺院のご住職で、清沢哲夫と言う方(故人)がおられます。清沢哲夫氏は、仏教の近代化に大きく貢献された清沢満之(きよざわ まんし)先生(大谷大学初代学長)の孫として生まれ、清沢満之先生の弟子にあたる暁烏敏(あけがらす はや)先生のお寺(明達寺)を継がれた方です。この清沢哲夫氏の著書『無常断章』に次のような詩が掲載されて居ます。
「道」
此の道を行けば どうなるのかと 危ぶむなかれ
危ぶめば 道はなし
ふみ出せば その一足が 道となる その一足が 道である
わからなくても 歩いて行け 行けば わかるよ
(昭和二十六年十月『同帰』所載)
皆さんこの詩を聞かれた事はあるでしょうか。「聞いた事がある様な気がする」と言う方も結構おられるのでは無いでしょうか。実は、プロレスラーのスーパーヒーロー。アントニオ猪木さんが引退式の時に詠まれたのがこの詩です。この詩を初めて聞いた時、すごく力強い詩だなと言う印象を持つ一方、何か自信がなく、日々を不安に思いながら生きて居る自分に対して、温かく包みこみ、励ましてくれる様な印象を持った事を覚えて居ます。「道」と言う詩に込められた思いを、蓮如聖人御一代記聞書から考えて見たいと思います。
御一代記の155項に「仏法には明日といふことはあるまじきよしの仰せに候ふ」と言う一文があります。これは言い換えると「仏法は今にて候」と言う事でしょうか。この「今」とは哲学的には、今は終わる時に解り、終わると言う事は今が解る事でもあると捉えます。すなわち「仏法は今にて候」とは、「終わって見ないと今が正しいかどうかなんて解らないのだから、今この瞬間を如何に大切にするかが大事なのですよ」と言う教えだと言えると思います。また、御一代記は次の様に続きます。「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきく人は ながく不退にかなふなり」。すなわち「私たちの心を奪い、心を乱す色々な誘惑や困難がある人生の中で、自ら仏法を求めて仏に出遇う人にこそ、金剛の信心が与えられるのである」と説いて居ます。
この様に考えると、「道」という詩には、「人生は、悩み迷い、困難の連続であるが、それはあなただけの事ではありません。結果なんて誰にも解りません。終わって見て始めて良かった、失敗したと解るのです。だからこそ、その生を生きる「今」を受け入れ、自らを大切にし、しっかりと今を生きて行きましょう」と言う願いが込められて居るのでしょう....。
神保町、のぞくだけでも楽しい♪個性的な古本屋さん。
「magnif(マグニフ)」
靖国通りの角地に佇む大正7年創業の老舗「矢口書店」は、風情ある雰囲気も魅力です。石造りの建物に見えますが木造の3階建て、昭和3年に建てられました。
映画・演劇・演芸・戯曲・シナリオ専門店で、難しそうな本を扱って居る様に見えますが、アイドル本やマンガなどもあり気軽に立ち寄れます。
整然と並べられた古本は、価格設定が分かり易いのも良いですね。
03-3261-5708
10:00~18:30(金・土曜日のみ10:00-19:00)
休日 年末年始
「古賀書店」
入口付近には、ジャズやタンゴ、シャンソンやケルト音楽など世界中の本が並びます。店の奥は、クラシック関連の本で埋められ、バッハやモーツァルトなど大作曲家の音楽理論・伝記・エッセーから、音楽史などが揃います。音楽之友社の『音楽美の探求』、全音楽譜出版社の『音楽史』の様な入手が難しい書籍の扱いもあります。
千代田区神田神保町2-5
TEL:03-3261-1239
・・・・
営業時間/休日
10:30~18:00/日、祝
「神保町を代表するレトロ喫茶「さばうる」」
1955年に開店した「さぼうる」は、神保町のレトロ喫茶を語るときに外せない人気店。ノスタルジックな雰囲気や美味しいコーヒーを求めて、連日多くのお客さんが訪れます。お隣には食事系メニューが中心の姉妹店「さぼうる2」もありますよ。
落ち着いた雰囲気の店内は、開店当時に流行していた山小屋風のインテリア。壁には訪れたお客さんの落書きもあり、昔から愛されている喫茶店の歴史を感じさせます。
モーニングとコーヒーの組み合わせも◎
朝9時半の開店を待って訪れるなら、リーズナブルなモーニングサービス・セットがおすすめです。バターロール・サラダ・ゆで卵のセットに美味しいコーヒーを組み合わせれば、レトロ喫茶らしい朝ごはんに。ゆったりした一日を迎えられそうですね。
また、生のイチゴを贅沢に使った「いちごジュース」も常連さんに人気のメニューです。氷屋さんから仕入れた氷を使うため、ジュースの味が薄まりにくいのだそう。最後まで美味しいイチゴの甘みを是非味わって見て下さい。
ファッション系の古い雑誌を扱う専門店。
“magazine”から派生した造語「magnif」を、“雑誌の古本屋”と言う事で、店名に。
古い雑誌は、広告も含め “時代” が詰め込まれて居るので、懐かしさだけでなく、新鮮で刺激的!なかでも魅力的なファッション雑誌を中心にセレクトし、書籍、写真集等もあわせて販売。コレクション・研究資料・読み物として、雑誌たちの魅力に出会えます。