昨日は寒いのでこの格好で病院にいって来ました。
今は、今日は朝5時半から起きているので、洗濯物を今2回目洗っているところです・・・・。
出かける頃には終わるかと思います。昨日靴が来たらしいんだけどもねぇ、僕はiPod聞いて居たからイヤフォンで、判らなかった見たいで、ドライバーが預かっているそうなので再配達を掛けました。
さっきさあ、またDVDを全部ラックから出して、入れ替えた訳、そしたら、無いと思っていた「女立喰師列伝、けつねコロッケのお銀 パレスチナ死闘編」が出て来ました。でも何遍探しても、マカロニ・ウエスタンBOX2個と「北斗の拳/ケンシロウ伝」が無いんだよ?買ったのがね???でもね「ケンシロウ伝」なら、BS放送で放映したものとCS放送で放映したものと2枚Blu-rayに録画して持って居るから良いんだけどさ...。「マカロニ・ウエスタンBOX」はもう今や廃盤扱いだから。多分売るつもりで持って行ったんだろうね、、それから「ケンシロウ伝」は欲しかったからでしょうね。盗まれたのはそれだけかな?????
CD ラジカセは持って来るのは夕方の4時ぐらいだから。今日来ると思って居たDVDは郵便受けに投函でしょうし、Yシャツとズボンは昨日、置き配で来て居たしね。まあ、今日は大丈夫でしょうね・・・・・・・。
なんかね最近意識が飛び掛けるんですよね。13日に精神科だから、急に意識が無くなりかけると言わなければね。今日も内科医に言ったんだけどさ、危ない危ない????まだ飛びかけた、少し休んで横に成ってから、八幡山にある美容院に行きます。o(`ω´ )
美容院に行って来ました。。。。今日は実は11時15分に訪問看護師の女の子が2人来たのですよ。今日主任の女の子が連れて来た子の名前がマキちゃんと言う。だから私はマキと言う名のシンガーが2人居るよねと言った。そしたら「そうなんですか?」と吃驚しているので、「そうか君は歳幾つと聞いたら」まだ28歳だと言う「ならば知らないよね」と言って説明をした。2人のマキとは言うまでもない浅川マキとカルメン・マキだ。1965年当時二人は寺山修司の「天井桟敷」と言う劇団に居たんですよね。処でカルメン・マキを知る人は多いい。彼女は16歳ぐらいの時には文学少女だった。よく紀伊国屋書店の前の歩道でヘッセなどを読んでいたと言う。新宿に屯して居たまあ一見フーテンの様な女の子だった。時代は1966年頃は新宿が文化の発祥時だった、そして唐十郎の「赤テント」やら寺山修司の「天井桟敷」と言う劇団が人気があった。漫画は誰が何と言おうと「ガロ」が全共闘をはじめ大学生に読まれて居た。要するにオルタナティブなものに人気があったのだ。カルメン・マキと浅川マキは寺山修司を頼って「天井桟敷」に劇団員として入って始めは演劇をして居たが。しかし寺山修司は優れた作曲家で作詞家でもあったので。この2人に歌手になる事を勧めた。そして2人はシンガーとなった。浅川マキはそのうちにアングラの帝王と言われる存在になって言った。一方のカルメン・マキだが彼女は、寺山の作詞した「時には母のない子のように」が大ヒットを飛ばし毎日テレビに出っ放しになった。
しかし人気の陰で彼女は悩んでいた。時代はロックの時代に入って居たのだ。彼女はロックが歌いたかった。しかしそれは所属事務所が許さなかった。1969年に人気絶頂だった彼女をいつまでも異色のアイドルとしたかったのだ。彼女は猛反発をした。そして紅白に出る事になった時に、なんと彼女は自慢のロングヘアーをバリカンで剃り上げてしまったのだ。慌てた芸能事務所は急遽カツラを彼女に被せて出させた。しかし、彼女は出たのは出たのだけども裸足だった。そして彼女はアイドル歌手を辞めた。それからが荊棘の道だった、バンドを点々とした。まずは当時ブルース・ハードロックで売って居たブルース・ギタリスト武田和夫率いる「ブルース・クリエイション」と言うバンドで歌わせて貰って居たのだが。1972年に春日博文(かすが ひろふみ g)、鳴瀬喜博(なるせ よしひろ b)、樋口晶之(ひぐち まさゆき d)とカルメン・マキ & OZを結成。この当時はレコード会社がロックバンドのレコードを出そうと躍起になって居た頃だ。すぐにマキのもとにレコードを出さないかと連絡があったが。彼女たちは自分らの実力がまだついて居ないと?1975年までレコーディングはしないで、ビヤホールなどで演奏をして居た。そのためにロックなんか不良の聴く音楽だと言う親父たちが、ビール瓶を彼女にぶつけたりしたらしい。当時はまだライブハウスと言うものは無かったのですよ余りね。しかし、要約出した。75年にリリースしたアルバム『カルメン・マキ & OZ』が、ロック・アルバムとして高い評価を受けまた。その後、メンバーチェンジを経て、77年に解散したが、最近になってまた活動を再開している。もう彼女も70歳を超えました。一方の浅川マキだが彼女の方は、1969年にメジャーデビューし、ジャズやブルースを下地にして、誰にも歌えない魂の歌を歌い続けた孤高の女性シンガーだった。
浅川マキさんを始め、数多くのアーティストを世に送り出した寺本幸司プロデューサー。まだプロデューサーと言う言葉がない時代から活躍されている草分け、先駆け、そして、プロダクション経営者、小説も絵もお書きになっている人物がこう言う。「1968年の12月13、14、15日に3夜連続公演を新宿のアンダーグラウンドシアター・さそり座で寺山修司構成・演出でやったんですね。それが、浅川マキの事実上のデビューで。大変な騒ぎのコンサートになったんですけど。その時、寺山さんが台本に12曲書いてらして。「かもめ」とかの名曲をです。そこから寺山さんと関係が生まれて、浅川マキの1枚目のアルバム「浅川マキの世界」は僕がプロデュースしたんですけど、半分以上は寺山さんの曲で。そこにその時に録音した曲も入っているんですよ。そうやって始まって、この『裏窓』って言うアルバムで方向性が変わる。浅川マキ自身も、自分が作った楽曲で自分の世界を作り始めて。寺山さんが作った世界からどんどん脱却してゆくって言う場面の最後のアルバムなんですね。それで『裏窓』を作った時に、一番最後にできたのがこの「こんな風に過ぎて行くのなら」という曲です。レコーディング入る前に全部の詞は完成したんですけど、最後の「きっと今夜は世界中が雨だろう」という箇所がその言葉じゃなかった。その時に外が雨でスタジオの中まで聞こえるんじゃないかというくらい激しく降っていたので、「マキさ、世界中に雨降らそうよ」って僕が言って「それ、いいわ」ってなってできた楽曲なので、僕としては思い入れのある曲。なおかつ寺山さんから脱却して、極端に言えばこれから一人で歩いてくんだよって言う思いを込めた歌としてよくできていると思います。」あの独特の声と歌い方が中毒になるとファンが詰めかけた。1977年の京大西部講堂でのコンサートは有名です。まずは1970年に発売した「浅川マキの世界」を聴いて観て下さい。
浅川マキの世界/ MAKI 1970 FIRST. "夜が明けたら-ふしあわせという名の猫-淋しさには名前がない-ちっちゃな時から-赤い橋-かもめ-時には母のない子のように-雪が降る" & more
浅川マキ/ ライブ夜 1977 京大西部講堂. 町-あなたなしで-さみしさには名前がない-港の彼岸花-オールドレインコート-あたしのブギウギ-あなたに-港町-裏窓-難破ブルース-にぎわい
余人には到底真似ができないだろう、個性的な文章に出会うことがある。
「『お客さん、此処へ連れて来たの、良かったのかな』
突然の男の言葉は思いがけなかった。わたしはとっさに息を殺す。物音ひとつしない闇のなかから響いてきた声、それは時間が経つ程に、耳許で鳴ったと思えてくる。ふたりだけだと自覚させる。いま、わたしの目には、港の灯りは映ってはいない。夜の匂いは、山の中腹であるらしいこの界隈だけを覆っている」(「灯ともし頃」)
浅川マキがキャバレーまわりで糊口をしのいでいたかけだし時代を回想した一文だが、ところは函館。文中から、北の国の夜気が漂ってくる。女の吐息がそれに入り混じる。エッセイであって、これは歌だ、ブルースだ。読み手は、意味を探る前に酔わされてしまう。
浅川マキが根っからの歌うたいであることが、そこからかぎとれる。
浅川マキのパフォーマンスの特徴を一言で表すとしたら、それは「磁力」と言う事になるだろう。エッセイ「灯ともし頃」もそうだし、歌や舞台でのパフォーマンスはもちろんそうだ。声に、言葉に、しぐさに何か感じるものがあったら、その一瞬からたちまち彼女の世界に引き込まれる。
それでは、その磁力はどこから発するのかと言えば、それはやはり人が本質的に持っている孤独、内面深くにある根源的な淋しさと言う事になるだろう。歌について言えば、彼女は芝居がかった大げさな表現はしない。本人がビリー・ホリデイを語った言葉そのままに。「歌い方にハッタリとかね、そういうのがぜんぜんないのよ。彼女の歌っていうのはあんまりおさえつけてくるって言う歌い方じゃないけど、聴けば聴くほど麻薬みたいにこっちがのめり込んじゃうわけよね」(西井一夫「浅川マキ/1970」)
浅川マキは、いまは白山市に統合された石川県石川郡美川町の出身である。白山から流れ出る手取川が海に流れ込む河口にある小さな漁師町で、鈍行だけが停車する北陸本線の駅がある。多感な少女の心に都会に出る憧れを育てるには、格好の舞台装置だ。母親は県内では知られた俳人だそうで、その影響あって、少女の頃から言葉による表現への強い関心があったという。
そんな表現への意欲が「夜が明けたら」に始まる自作の歌につながっていくわけだが、器用な人ではなかった。アカデミックな音楽教育はほとんど受けていないから、曲作りは自分の内面からメロディをつむぎ出すことになる。詞にしても同様で、小器用にさらっと歌らしい言葉を組み立てていくようにはいかず、石に刻んでいく様な作業になる。それに加えて、物事をいい加減にやり過ごすことはしないのが生来の気質だった。だから、寡作だった、饒舌ではなかった。「引越し」という歌ができあがるまでのことを、本人が語っているのを聞いたことがある。
六本木時代ではないかと思うが、同じアパートに住む小学生の男の子と仲良しになった。男の子はいわゆる鍵っ子で、おまけに土地柄もあって友達がいなかった。それで、彼女のアパートへ頻繁に遊びに来るようになった。親代わりと言うより、対等に友達としてつきあう感じだったという。
それなのに、事情あって、彼女はいまのアパートから引っ越しせざるを得なくなった。それを聞けば、男の子は淋しがるだろう。だから、言えない。口を閉ざしたままにすることにし、押し通した。
ところが、引っ越しの当日、助手席に乗り込んだトラックが発車しようとしたとき、ふとミラーを見ると、道ばたに男の子の姿があった。じっと立ち尽くしていた。その姿が目に焼きつく。
この体験は歌にしよう、と思った。だが、簡単ではなかった。思いがあふれ、そのためにかえって詩作が進まない。書いては反故を繰り返しつつ、続けるしかなかった。やっとできあがったのは、2年後だった。
……そういう話だったが、完成した歌は、自分が経験したことを散文的に語るのではなく、言葉を削りに削り、シンプルな言葉の連なりに思いをぎゅっと凝縮したものになっている。この稀代の歌びとの凄さがそこにある。
今日この部屋に 西日が当たりました
近いうちに この部屋出て行く
今夜も窓の外 靴の音かと耳を澄ますと
あれは遠い日のロマンス
私はもうじき このアパート出て行く
今日この部屋に 西日が当たりました
近いうちに この部屋出て行く
せめて前の家の あの少年にだけは
気づかれぬように
私はもうじき このアパート出て行く
(「引越し」浅川マキ:詞)
浅川マキは「心の旅」の人である。地方の小さな町に生まれ育ち、そこを出て東京に流れ着き、ひとまずそこで暮らした。だが、それは「定着」ではなかった。「どこかへ」と言う浮遊願望が、いつもこの人を内面でけしかけていた。「町」は、いつまでもとどまるところではなかった。いつか出てゆくために町はあった。
不思議な橋が この町にある
渡った人は 帰らない
(「赤い橋」北山修:詞)
2010年1月17日、浅川マキは不意に橋を渡った。早過ぎた。それでも、公演のための旅先でのことだったのは、故郷を出奔してのち、旅から旅をめぐったこの人らしい最期だったと言うべきだろうか。
今日は美容室に行ってパーマを掛けて来た。来月は染めに行かないと行けない。髪が白髪が目立って来ているからだ。今日はパーマ代にヘッドスパとシャンプー代で1万1千円も掛かってしまった。
帰って来て部屋を片付けて居たら、待望の大型CDラジカセ(BOOM・BOX)が配達されて来た。見るからにデカいのです。
これで完璧になった私のオーディオセットです。レコード。CD 。カセットテープ。SDカード。その他、録音できる媒体ならなんでも有りです。私の持っている機器は皆、Bluetooth機能がついているのでストリーミングも含めて。ジャンルや曲。音楽によって聴き分けられます。
音は抜群にいいですね。重低音が出ます。XBASS回路のスイッチを押せば....。押さなくても高音と低音の音質ボリュウムが付いているので、それだけでも可成りな高音質ですよ。高音域と低音域の増量が出来ます。いやあ、思い切って購入して良かったです。Bluetoothも装備しているのでスマホからのストリーミングも聞けますよ。そして今日は昨日届いた靴を履いて八幡山の美容室まで行って来たのです。
購入した靴です。前のブーツが皮が剥がれてしまったので、思い切って購入しました。
カルメン・マキについて詳しい話を書いてあるので読んで見て下さいね・・・・・・。記事の後にライヴ音源が載せてありますので宜しく。
カルメン・マキ(旧本名:Maki Annette Lovelace、1951年5月18日 - )は、歌手、ロックミュージシャンである。本名:伊藤牧。日本国籍を取得するまでの本名はMAKI ANNETTE LOVELACEであったが、現在の本名は非公表。
来歴
誕生〜歌謡曲時代
アメリカ人の父と日本人の母との間に神奈川県鎌倉市で生まれる。父方の祖父はアイルランド人、祖母はユダヤ系ポーランド人。生まれて間もなく、父が帰国。母は肺結核を患っていたため、マキとともに日本に残った。母方の祖父母がいる東京都大田区で育つ。
1968年、香蘭女学校高等学校を2年次で中退。イラストレーターか役者になろうかと考えていた時期に、アングラ演劇の寺山修司が主宰していたの劇団「天井桟敷」の舞台『青ひげ』にたまたま友人に連れられていった。その舞台に感銘を受けた彼女は即入団を決意。同じ年の8月に新宿厚生年金会館での「書を捨てよ町へ出よう」が初舞台。この時、CBSソニー関係者の目に止まり、歌手契約。芸名の「カルメン・マキ」は舞台の練習中にたまたま思いついたもの。アングラ劇団から歌手が出るのは初めてのケースだった。
翌1969年に「時には母のない子のように」(作詞:寺山修司、作曲:田中未知)でデビュー。17歳とは思えない妖艶な雰囲気、歌唱力、哀愁のある歌いっぷりが話題を呼んだ。重い旋律が時代の雰囲気と合致して、累計100万枚を超える大ヒットを記録した。この曲で第20回NHK紅白歌合戦に出場した。ステージには裸足にジーンズ姿で登場し、非難を浴びた。司会者に「ジーパンもステージ衣装になる時代が来ました」と紹介された。当時の曲は、作曲は武満徹やクニ河内が、作詞は前述の寺山修司や谷川俊太郎が、手がけた。
これ以降も個性派歌手として活動し、6枚のシングルと3枚のアルバムをリリースする。前述の「時には母のない子のように」の他にも「山羊にひかれて」や「私が死んでも」「戦争は知らない」と言ったヒット曲を出した。
1970年、写真集『篠山紀信集 NUDE』(篠山紀信)でヌードを披露。
ロックへの転向
彼女のキャリアを語る上で欠かせないのはロックへの転向である。そもそものきっかけは、「時には母のない子のように」のレコード大賞受賞でCBSソニー社長から「ご褒美」としてレコードプレイヤーとLP盤数枚をプレゼントされた時のことである。
そのLP盤の中にジャニス・ジョプリンがあった。それを聴いたマキは衝撃を受け、1970年に突然のロック転向を表明する。直後近田春夫(のちにハルヲフォンを結成)、立川直樹らと「カルメン・マキ&タイムマシーン」と言うバンドを結成するが、すぐに解散。その後さまざまなバンドがバッキングについたが、最終的には当時の実力派バンドであった、ギタリスト竹田和夫率いるブルース・クリエイション(第2期)に落ち着き、1971年にコラボレーション・アルバムである『カルメン・マキ&ブルース・クリエイション』を発表。それまで黒人霊歌を基にしたフォークなどを歌うシンガーから、女性ロッカーへとイメージ・チェンジをした。
OZ結成〜解散まで
1972年には当時18歳であったギタリストの春日博文らとともに「カルメン・マキ&OZ」を結成。メンバーは、春日博文(ギター)、鳴瀬喜博(ベース、後にカシオペア加入)、樋口晶之(ドラムス、のちに竜童組)。
地道な活動が実を結び、1974年にポリドールからシングル「午前一時のスケッチ」でデビュー。翌1975年1月にはファーストアルバム『カルメン・マキ&OZ』をリリース。10万枚以上を売る。当時のロックアルバムとしては大ヒットとなった。このアルバムに収録されている約12分にも及ぶ大作「私は風」は、のちにさまざまな歌手、ミュージシャンにカバーされ、その中でも特に中森明菜のものが有名である。なお、この録音前後にマキと春日以外のメンバーが総入れ替えとなっている。ドラムは西哲也、古田宣司の1stアルバム参加を経て、内藤正美が1975年末まで在籍。ベースは千代谷晃を経て、1stアルバム録音の後から、後期OZの音に決定的影響を与えた川上茂幸に替わった。
1975年5月、ジェフ・ベック・グループ、グランド・ファンク・レイルロードの来日公演の前座を務める。
1976年にアメリカ合衆国のロサンゼルスでセカンド『閉ざされた町』を4か月かけて制作。ファーストに引き続き「閉ざされた町」や「火の鳥」といった大作路線を継承しながらも風格を漂わせたものに仕上がっている。「閉ざされた町」でドラムを担当したのは久藤賀一。
翌1977年の10月18日新宿厚生年金会館でのステージを最後に解散。その年の12月にはサードアルバム『III』を発表。前2作とは打って変わってポップな楽曲が並んだ。 また解散の翌年8月にはシングル盤として「私は風」、そして10月の解散ステージと同年5月の日比谷野外音楽堂のライブ音源を収録した『ライヴ』がリリースされている。『III』『ライヴ』録音時のメンバーはマキ、春日、川上、武田治 (Dr)、川崎雅文(川崎真弘)(Kb) であった。
OZ以降〜活動休止まで
OZ解散後、1979年に数回の渡米を経て、ドラマーで当時ロッド・スチュアート・バンドの一員でもあったカーマイン・アピス(元ヴァニラ・ファッジ→カクタス→BB&A)のプロデュースの下でソロ『NIGHT STALKER』を発表。
その後にはOZの初代ベーシストであった鳴瀬喜博や松本孝弘(のちにB'zを結成)などがいたセッションバンド、「うるさくてゴメンねBAND」に参加。ライブ活動を中心とする。1987年にはライブ盤『うるさくてゴメンねLIVE』を発表。その後出産、育児に専念するために一時的に音楽活動の休止を宣言した。
復帰〜現在
1993年に日本国籍を取得し、音楽活動を再開。同年、寺山修司歿後十年の企画として『時には母のない子のように』(新録音)を発表し、久保田麻琴プロデュースによる子守唄のアルバム『MOON SONGS』を発表。そして翌1994年には「MOSES」を結成。1995年に『VOICES OF MOSES』を発表。1996年にはOZ時代の盟友、春日博文のプロデュースによる「UNISON」を発表。また、この時のセッションメンバーをもとに「UNISON UNIT」を結成し、ライブを中心として活動。この頃に現在もライブ、アルバム制作で組んでいるギタリスト、鬼怒無月と出会っている。
1997年12月29日、「カルメン・マキ&OZ」の一夜限りの再結成を行う(於:京都大学西部講堂)。
2018年10月、「カルメン・マキ&OZ」名義のライブを約21年ぶり(単独公演では41年ぶり)に開催。そしてファンから多くの要望を受け、翌2019年11月より開催するデビュー45周年記念再結成ツアーを発表。