彼女に買ってやった。DVDが届いたと言う知らせが来た。
今Amazonでは大和屋笠(映画監督・脚本家、アニメではルパン3世の脚本を手掛けて居た。)彼が生誕80周年だと言うことで勝手の不条理ノワールを特集を組んで売って居たんですよ。でも「荒野のダッチワイフ」はプレミア価格がついて居て8千円もして居たので、僕は、ダビングした画質が悪いけどビデオの画像をDVDに録画して持って居たのでそれでよしとして、、
そう言えば彼女が見たいと言って居たなぁと思い出してBlu-rayに他の映画と共にダビングしてあげたのです。大和屋笠はDVDBOXをなぜ売らないのかと言われ続けて居ますけどね、今彼の作品で手に入るのは「毛の生えた拳銃」と後「裏切りの季節」があります。この「裏切りの季節は」あの若松孝二監督がぶっ飛んだ映画だそうです。今、僕の、自分が欲しくてレンタル落ちの1,780円の物を購入しました。
『荒野のダッチワイフ』(1967年) オープニングタイトル
毛の生えた拳銃 (full album) - Seiichi Nakamura and Takeo Moriyama
ジヤックス 裏切りの季節-ヤング720
此間は夏に着る服装で。何かいつもの黒以外にないかと思って居て、そうだ僕は黒いロングではないけど薄いベストを3枚所有しているのだから、それには白いワイシャツが居るなと思い中国製の白いYシャツと黒いYシャツの半袖のものを購入したんですよね2枚ずつ、、黒いYシャツの方は若者向けに売って居た薄い生地で出来ている、ロングベストを持っているのでTPOに分けて着こなそうかと思っています。あとは灰色の感動パンツに白いワイシャツそれに今から18年前に購入して居たブラウンのベスト。があるのでTPOに合わせて特快引っ換え来て見ようと思っています。
今日はズボンが2枚しか持って居ないので黒い感動パンツのスラックス2本とユニクロの安い白い半袖のYシャツを2枚買い込みました。それで5800円かかりました。その前に買い込んだYシャツ4まいは11,000円掛かりました。なぜか黒いズボンはあと2枚あったはずなのに無いんですよ。引っ越して来たら探しても。
そして、部屋に置いてある引越し用の段ボールをよく片付けるので探して見たら。原田芳雄さんのレコードを入れた、26年前に購入した。HDDウオークマンとipodが出て来た。ipodの方はブルースハープのCDが20数枚は収録されて居ますよ。前に入院した時にまだスマホの時代ではなかったので、
両方に詰めるだけ録音して居たのですよね。いいものが出て来たと喜んでいますよ・・・・・・・・・。
そして、へそくりから4万6千400円出してORIONの待望のCDラジカセを購入しました。あのラジカセは高性能ですよ。高音域と低音域が独立のボリュームが付いているし。XーBASS回路と言う重低音再生装置までついている優れものです。アンプ部もよく出来て居て最大出力が20W出ますからね。スピーカーはダイナミックレンジの13センチのフルレンジ・スピーカーと3センチのスコーカー付きのスピーカがついているんですからね。音がいいですよね・・・。
Bluetooth機能もついていて。SDカードにも録音できるしね。荷物は全て、9日に届くのですよね。でも僕は11時から医者なんですよね。まあ、内科だけですから終わったら薬貰って来て。すぐにアパートに帰って来ようと思って居ます。ああ、靴も買ったしね。また請求が6万幾らか来るなぁ、、
暫くは音楽三昧ですね・・・・・・・・・。
今は夜中の2時半過ぎですがイヤフォンで聞いているので。原田芳雄さんのブルースと歌を聴きながらこの文章書いて居ますよ。
あと靴ですね、購入したのはね。。。
彼女は明日にでも「毛の生えた拳銃」見るのかな????それから、明日には、シェリーの元にはそれ以外に僕から「ざわざわ下北沢」とか映画を何作か録画したBlu-rayが届きますから.... 。(((o(*゚▽゚*)o)))♡
僕は彼女には定期的に、映画とかドキュメンタリーあと音楽番組を録画したBlu-rayをあげているのですよね。彼女と僕の趣味は殆んど似通っているから、彼女も貰ってくれて見てくれるけども、中には酷い礼儀知らずもいて。「こんな古い映画なんか見ないですよ捨てました」と言う男もいた。今時の30代ですよ。捨てたとはどう言うことだ!!
あげた人に向かってそう言うことを言うのか?それから人によっては妬み僻みの口の人もいるのですよね。前に訪問看護師の女性に「ブラックジャック」のアニメをあげたのだ。そしたら礼は言わずにそれから暫く経ってこう言われた「ブラックジャック!youtubeで見たわ良かったわ〜〜!!」私は咄嗟に「此間、Blu-rayに録画してあげたじゃ無いですか」と言ったら「まあね、貰ったけど!!それがどうだってんのよ?YouTubeで見たから良いのよ!!」私は怒りが込み上げて来てこのバカ豚ババアをぶん殴ってやろうかと思いましたよ。要するに自分が知らない見て居ない映画を貰って嬉しいとは思わないのだ、嬉しさよりも憎しみ。妬み嫉みが出てしまうのだ。「私は持って居ないものを持っている。そして恩着せがましく私にくれるんだわ憎たらしいわよねぇ〜〜!!」と言った所でしょうね。それ以来私は、親切心で人に物をやるのを一切辞める事にしたシェリーだけにあげれば良いのですよね。彼女は映画通で私と話がよく合うし。自分が知らない道の映画も見て理解してくれるだけの頭を持っている女の子ですから上げ甲斐があるのですよね。だから彼女にはいろんな映画をあげたく思うのですよ。
昨日の夕飯つけうどんです。
大和屋 竺(やまとや あつし、1937年6月19日 - 1993年1月16日)は、日本の脚本家、映画監督、俳優。アニメーション脚本家、中央競馬馬主の大和屋暁は息子。
やまとや あつし 大和屋 竺 |
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『映画評論』1967年2月号より
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生年月日 | 1937年6月19日 |
没年月日 | 1993年1月16日(55歳没) |
出生地 | 日本・北海道三笠市 |
職業 | |
ジャンル | |
活動期間 | 1965年 - 1992年 |
経歴
1937年6月19日、北海道三笠市幌内町に生まれる。父は炭鉱労働者、母は没落旧家の出身だった[1]。
1953年、父の停年退職に伴い、一家で上京。葛飾区青砥に住む[1]。
1958年、2年間の浪人生活を経て早稲田大学第一文学部に入学(専攻は日本史)。在学中は田中陽造らと「稲門シナリオ研究会」に所属し、田中の脚本で16ミリ映画『一・〇五二』を監督した[注 1]。
1962年、早稲田大学卒業。日活株式会社助監督部(第8期)に入社。同期に岡田裕、曽根義忠(中生)、山口清一郎らがいた。主に斎藤武市の助監督を務め、牛原陽一、中平康、野口博志、滝沢英輔らにもついた[1]。
1964年、日活助監督グループの一員として若松孝二の元に出入りするようになる[1]。
1965年、若松孝二監督『情事の履歴書』の脚本を曽根義忠、榛谷泰明と共同で執筆。ペンネームは3人の名前を組み合わせた「大谷義明」。また、この年、日活を休職してボルネオ、シンガポールを放浪。しかし、現地で金が尽き、若松孝二に送金を仰いで11月に帰国。この借金返済のために監督することになったのが第1回監督作品である『裏切りの季節』である。プロデュースは若松孝二、公開は1966年5月[1]。
1966年6月、日活を退社、本格的に若松プロに参加。また、この年、足立正生、沖島勲も若松プロに参加している。一方、曽根義忠に誘われて鈴木清順を中心とする脚本家グループ「具流八郎」に参加。メンバーは鈴木清順、木村威夫、田中陽造、曽根義忠、岡田裕、山口清一郎、榛谷泰明に大和屋竺を加えた8人だったとされる[注 2]。
1967年6月、この「具流八郎」名義のシナリオとしては唯一の映画化作品となった『殺しの烙印』が公開される。大和屋竺は「具流八郎」の中心メンバーとして前半部分を担当するとともに俳優としても出演(演じたのはナンバー4の殺し屋である「スタイリストの高」)。また主題歌の「殺しのブルース」(作詞:具流八郎、作曲:楠井景久)も唄った。完成した作品は批評家や若い映画ファンに熱狂的に支持されたが、当時の日活社長・堀久作は完成した作品を観て激怒。翌年の年頭社長訓示において、本作品を「わからない映画を作ってもらっては困る」と名指しで非難し、同年4月には、鈴木に対し電話で一方的に専属契約の打ち切りを通告した。日活を追われた鈴木清順は、以後、1977年の『悲愁物語』まで丸10年、不遇の時代を過ごすことになる。なお、鈴木清順解雇の知らせを受けた大和屋竺は「今までの生涯でただ一度大声を出して泣いた」という[1]。10月、第2回監督作品『荒野のダッチワイフ』が公開される。プロデュースは国映の矢元照雄。製作費は240万円だった。
1968年、再び若松プロで『毛の生えた拳銃』を監督。脚本の「大山村人」は大和屋竺の変名(他にも「大山敦」「日野洸」「出口出」「宗豊」などの変名が知られている)。なお、この映画を見た東京ムービーの大隅正秋がTVアニメ『ルパン三世』の脚本を依頼。以来、大和屋竺は同シリーズに脚本・監修として関わることになる。
1973年、内藤誠監督の依頼で『番格ロック』の脚本を山本英明と共同執筆[3]。また荒戸源次郎のプロデュースで5年ぶりとなる新作『愛欲の罠』(原題は『朝日のようにさわやかに』。『愛欲の罠』は日活で配給される際に付けられたタイトル[3])を監督。これが天象儀館の第1回映画作品となる。
1974年、内藤誠の紹介で東映教育映画部製作の『発見への出発(たびたち)』を監督。助監督は柳町光男だった。また荒戸源次郎製作、平岡正明脚本で『朝日のようにさわやかに 食用美人篇』の企画が持ち上がるが実現しなかった[1]。
1977年、鈴木清順の10年ぶりの新作となる『悲愁物語』の脚本を書く。なお、本作で主役を務めた原田芳雄と大和屋竺はかねてより親交があり、この時も大和屋竺が具流八郎名義で書いた「ゴーストタウンの赤い獅子」を『映画評論』で読んだ原田芳雄が「なんとか映画化したいと思って、大和屋さんのところに相談しに行った。清順さんは『殺しの烙印』から10年近くたってたから、そろそろどうかなって」。ところが、既に次回作が決まっており、それが『悲愁物語』だったという[4]。もしこの時、『悲愁物語』の企画が立ち上がっていなければ、鈴木清順の10年ぶりの新作は「ゴーストタウンの赤い獅子」だった可能性もある。
1984年、テレビ東京で『20才のストリッパー美加マドカ 裸の履歴書』を監督。放映日は1984年5月18日。
1990年8月、大和屋竺が関った劇場用一般映画としては最後の作品となった『オーロラの下で』が公開される。戸川幸夫の原作『オーロラの下で』を舞台をアラスカからロシア革命前後のシベリアに移すなど、大幅に改変した。
1993年1月16日、食道がんのため死去。55歳没[1]。3月、日本映画プロフェッショナル大賞特別賞を受賞。授賞理由は「映画の極北で輝き続けた異端の巨星を悼んで」[5]。
1994年、荒井晴彦、竹内銃一郎、福間健二編『悪魔に委ねよ 大和屋竺映画論集』(ワイズ出版)、高橋洋、塩田明彦、井川耕一郎編『荒野のダッチワイフ 大和屋竺ダイナマイト傑作選』(フィルムアート社)が刊行される。
フィルモグラフィー
映画
- 情事の履歴書(1965年) - 脚本(大谷義明名義)
- 裏切りの季節(1966年) - 監督・脚本(大谷義明名義)
- 情欲の黒水仙(1967年) - 脚本(大谷義明名義)
- 避妊革命(1967年) - 出演
- 密通(1967年) - 脚本(大谷義明名義)
- 殺しの烙印(1967年) - 脚本(具流八郎名義)・出演・主題歌(「殺しのブルース」)
- 荒野のダッチワイフ(1967年) - 監督・脚本
- 網の中の暴行(1967年) - 脚本(大谷義明名義)
- 犯して!犯して!大合戦(1967年) - 脚本(大山敦名義)
- 蒼いフィルム 品さだめ(1968年)- 脚本(大山村人名義)
- 毛の生えた拳銃(1968年) - 監督・脚本(大山村人名義)
- 金瓶梅(1968年) - 脚本
- 寝強犯(1969年) - 脚本(日野洸名義)
- 処女ゲバゲバ(1969年) - 脚本(出口出名義)・出演
- 男殺し女殺し 裸の銃弾(1969年) - 脚本(出口出名義)
- 引き裂かれたブルーフィルム(1969年) - 脚本(日野洸名義)
- おんな地獄唄 尺八弁天(1970年) - 脚本(日野洸名義)
- 花弁のもだえ(1970年) - 脚本(宗豊名義)
- 濡れ牡丹 五悪人暴行篇(1970年) - 脚本(日野洸名義)・出演
- 叛女 夢幻地獄(1970年) - 出演
- 野良猫ロック セックスハンター(1970年) - 共同脚本(大和屋竺、藤井鷹史)
- ネオン警察 ジャックの刺青(1970年) - 共同脚本(大和屋竺、曽根義忠)
- ㊙湯の町 夜のひとで(1970年) - 脚本(日野洸名義)
- 八月の濡れた砂(1971年) - 共同脚本(藤田敏八、峯尾基三、大和屋竺)
- らしゃめんお万 彼岸花は散った(1972年) - 脚本・出演
- 八月はエロスの匂い (1972年) - 共同脚本(藤田敏八、大和屋竺)
- セックス・ハンター 濡れた標的(1972年) - 脚本
- 戦国ロック 疾風の女たち(1972年) - 共同脚本(大和屋竺、藤井鷹史)
- ラブ・シンフォニー(1972年) - 監督※重延浩、永井圭輔、大和屋竺の3人によるオムニバス映画。
- エロスは甘き香り(1973年) - 脚本
- 戦争を知らない子供たち(1973年) - 共同脚本(大和屋竺、藤田敏八、古俣則男、松本正志)
- 王国(1973年) - 出演
- 昭和おんなみち 裸性門(1973年) - 脚本
- 番格ロック(1973年) - 共同脚本(山本英明、大和屋竺)
- 愛欲の罠(1973年) - 監督・出演
- 発見への出発(1974年) - 監督※教育映画
- 大人のオモチャ ダッチワイフ・レポート(1975年) - 脚本
- 発禁 肉蒲団(1975年) - 脚本
- 裸足のブルージン(1975年) - 共同脚本(大和屋竺、長野洋、藤田敏八)
- 中学時代 受験にゆらぐ心(1976年) - 出演(ドラキュラという渾名の社会科教師役)※教育映画
- 国際線スチュワーデス 官能飛行(1976年) - 脚本
- 蛇と女奴隷(1976年) - 共同脚本(大和屋竺、佐藤日出夫、向井寛)
- 不連続殺人事件(1977年) - 共同脚本(大和屋竺、田中陽造、曽根中生、荒井晴彦)
- 青年の樹(1977年) - 脚本
- 悲愁物語(1977年) - 脚本
- 星空のマリオネット(1978年) - 共同脚本(大和屋竺、橋浦方人)
- 堕靡泥の星 美少女狩り(1979年) - 脚本
- マタギ(1982年) - 共同脚本(大和屋竺、後藤俊夫)
- カポネ大いに泣く(1985年) - 共同脚本(大和屋竺、木村威夫、鈴木岬一)
- 餓鬼魂(1985年) - 脚本※オリジナルビデオ作品
- 傷だらけの勲章(1986年) - 脚本
- チェッカーズ SONG FOR U.S.A.(1986年) - 出演
- ドグラ・マグラ(1988年) - 共同脚本(松本俊夫、大和屋竺)・出演
- オーロラの下で(1990年) - 共同脚本(大和屋竺、イジョフ・ヴァレンティン・イワノヴィッチ)
- にぎやかな家族(1991年) - 脚本※教育映画
著書
- 悪魔に委ねよ 大和屋竺映画論集(ワイズ出版、1994年)
- 荒野のダッチワイフ 大和屋竺ダイナマイト傑作選(フィルムアート社、1994年)
かつてサミュエル・フラーが「映画は戦場だ」と映画を撮ること自体が戦争のようなものだという言葉を残した。日本でも大和屋のように、そういう体験をした強者が日本のエンターテインメント界を支え続けたのだろう。この本は、それを実感できる本の一つだ。
大和屋の数十年に渡る批評を集めたもので一見分厚いが、面白すぎて厚さを感じなかった。とにかくこの男の凄まじいエネルギーと“熱”が伝わって来る!!
冒頭は「裏切りの季節」や「殺しの烙印」といった大和屋が監督したり関わったスチール写真、絵コンテ、直筆原稿の一部。
幼少時に体験した朝鮮人労働者への差別、戦時下の混乱による一触即発間近の緊張、戦後に味わった戦場さながらの撮影現場。学生時代に「鬼軍曹ザック」の看板を描いた想い出。作品についても戦場の臨場感について語っていた。作品の反共精神については否定的だった大和屋だが、あの時期のフラー作品における反共精神はむしろ褒め言葉というのが。
大和屋竺が55才で亡くなりほどなく編まれた映画論集。しかし大和屋は評論家ではない。脚本家であり、監督で、たまに役者にもなった。ルパン三世の脚本も書いているし、探偵物語も一話担当している。亡くなったのでみなみ会館で特集上映があって、監督作品や脚本作品、出演作をいくつか観た。文章も、映画のように、脚本のように、書かれているんだろうと思った。テクニックはどうだか知らないが、物の見方のクセ、必要な要素になにをもってくるか、組み立てる、感情が流れる。そういうやり口が、である。
今回は此処までです。また次回、会いましょう、、*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*