1928年、パリのある画廊で開催された「エコール・ド・パリ展」が語源だといわれています。印象派のようにグループ展を開いたり、キュビスムのようにある芸術理論を掲げて制作したわけではなく、「パリ派」とはいっても、一般に言う「流派」「画派」ではありません。ピカソとマティスは、パリ派の双子のリーダーと形容されました。キース・ヴァン・ドンゲン、マリー・ローランサン、モーリス・ユトリロ、アメデオ・モディリアーニ、レオナール・フジタ、マルク・シャガール等がいます。
「モーリス・ユトリロ」1883年~1955年1
ユトリロは、エコール・ド・パリの画家のなかでは珍しく生粋のフランス人でした。彼の作品のほとんどは風景画、それも、小路、教会、運河などの身近なパリの風景を描きました。ありふれた街の風景を描きながら、その画面は不思議な詩情と静謐さに満ちています。特に、壁などの色に用いられた独特の白が印象的です。第二次世界大戦後まで余命を保ちますが、作品は、後に「白の時代」といわれています。
「モーリス・ユトリロ」
「風景は不思議な詩情静謐さ 独特の白印象的も」
「モンマルトルのノルヴァン通り」1910年
参照
https://www.artpedia.asia/maurice-utrillo/
「キース・ヴァン・ドンゲン」1877年 – 1968年オランダ2
ロッテルダムの美術アカデミーで学んでいたヴァン・ドンゲンは、20歳の頃に初めてパリに滞在、2年後にモンマルトルに移住して、アトリエを構えました。オランダ時代から力強い筆致の作品を描いていたヴァン・ドンゲンは、すぐに新印象派に関心を抱き、やがて濃密で表情豊かな色彩でフォーヴィスム(野獣派)の画家たちの一員となります。華麗でありながら内的な表情を感じさせる色使い、画面に現れる女性の身体の優美さや官能性、それらはやがてヴァン・ドンゲンの代名詞となりました。
「キース・ヴァン・ドンゲン」
「華麗かつ退廃的なパリ美人 優美さの中官能性も」
「楽しみ」1914年
ヴァン・ドンゲンが多く描いたのは、ファッショナブルでモダンな女性たちです。シンプルだが繊細に対象の内面を表現していく描線、乳白色の肌を引き立たせるビビッドな色遣い。パリという大都会で生きる女性たちの心の内側を照らし出すような、猥雑な街の空気を映し出すような、独特の雰囲気を醸し出しています。
参照
https://artexhibition.jp/topics/news/20220713-AEJ890415/
「マリー・ローランサン」1883年~1956年3
セクション・ドールやピカソ、ブラックと関わりのあるキュビストとしてパリ前衛芸術シーンの重要な画家として評価されています。ソニア・ドローネーやマリー・ボロビーフ、フランシスカ・クラウゼンと並んで女性キュビストの一人として知られます。初期作風は、特にジョルジュ・ブラックやパブロ・ピカソが大きな影響を受けています。独特な抽象絵画をともなった女性ポートレイトや女性グループの注文絵画を描き、エコール・ド・パリの女流画家として活躍。死ぬまでフェミニンをテーマにした作品制作を探求しました。そのパステルカラー調とおだやかな作風から、日本人受けする前衛芸術家の一人です。いわさきちひろの絵と似ていますが、いわさきの画家としての活動の原点が彼女でとされています。
「マリー・ローランサン」
「フェミニンをテーマに描く女流画家 パステルカラーのおだやかな作風」
「キス」1927年
参照
https://www.artpedia.asia/marie-laurencin/
「アメデオ・モディリアーニ」1884年~1920年4
1906年にパリに移動し、パブロ・ピカソといった当時のパリの前衛美術家たちと出会い、活動を始める。モディリアーニのスタイルはカテゴライズするのが難しく、一般的に表現主義か独自のスタイルとみなされている。日本ではマルク・シャガールや藤田嗣治らと同じく、パリ滞在の外国人作家として「エコール・ド・パリ」に分類されて紹介されることが多い。貧困のうちに35歳という若さで死去。モディリアーニは生存中は受けいれられず、死後に評価が高まり、現在のアート・ワールドにおいて、パブロ・ピカソと並んで最も高額なモダニズム作家の1人となっている。2015年11月9日、1917年作の「赤いヌード」はクリスティーズ・ニューヨークで1億7000万ドルで落札された。
「アメデオ・モディリアーニ」
「独自性引き伸ばされた顔や体 不遇な画家は死後に評価も」
「赤い肩掛けを着たジャンヌ・エビュテンヌ」1917年
参照
https://www.artpedia.asia/amedeo-modigliani/
「レオナール・フジタ」1886年~1968年5
藤田はパリのモンパルナスに住み、そこに集まった若手芸術家たちと交流し、刺激受ける中で自分独自の作品を模索していきました。はじめはパリの風景や、ピカソらのキュビズム絵画に影響を受けた作品、アンリ・ルソーの素朴で新鮮な画風に影響を受けた作品を描いていました。そして1920年ごろに、「乳白色の下地」の技法と、日本画で用いる面相筆や真書と呼ばれる、書道で用いる筆を使った細い輪郭線で裸婦を描くスタイルを確立しました。これが絶賛され、「乳白色の下地」を使って描く裸婦像は藤田の代名詞に。この乳白色の下地の特性を生かせるように、その作品のほとんどを藤田はキャンバスから手作りしていて、支持体には目の細かい麻布を使っていました。細く、長い輪郭線を引くためには下地が重要な役目を果たしていたからです。
「レオナール・フジタ」
「裸婦像は乳白色の肌と呼ばれ 細く流れる線描の技術」
「カフェにて」1949年
参照
https://omochi-art.com/wp/leonard-tsugouharu-foujita/
コメント一覧
最新の画像もっと見る
最近の「写真と短歌で綴る「世界文化紀行」」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事