
~井草幼稚園は一時、「都立」だった~
今年は戦後70年で、テレビでも特集番組が多く流れました。
戦争末期、園の庭には鉄棒、ジャングルジム、ブランコなどの鉄製遊具がまったくありませんでした。使える金属類は兵器製造のため国に供出したのです(現在ある園庭遊具はすべて戦後のものです)。
戦況が悪化した昭和19~20年の2カ年は、疎開措置として、東京都では幼稚園休止指令が出て、幼稚園は強制休園となりました。
当時、その最後の保育記録にはこうあります。
「過去12年の歴史をもつこの幼稚園は、戦時非常措置により、当分休止することになる。恐らくは、今後今までのような幼稚園は再現しないと思う。5月31日をもって東京には幼稚園がなくなったのだから…」《昭和19年》 (旧かな,漢字は改めてあります)
しかし、当園は、疎開できない幼児をあずかるため東京都から委嘱を受け、「都立井草戦時託児所」として開かれました(都内の限られた一部の幼稚園だけで杉並では3園のみでした)。
この都立戦時託児所の全体については、当時の資料も少なく、その実態はこれまで全く解明されていませんでしたが、淑徳大学短大部の矢治先生が初めて研究に着手し、昨年(平成26年)9月11日調査のため当園に来られ、理事長から話を聴き取り、資料をご覧になりました。
この夏、先生から出来上がった紀要論文が届けられました。
一本分がすべて井草幼稚園についてで、看板や保育日誌などが写真入りで書かれてあり、創立者・鈴木積善のこと、戦時下の保育の経緯、戦時託児所への転換、物品配給のことなどの長い経緯が調べられていました。
特に、幼稚園としては休園しても、疎開する家庭はほとんどなく、85人の子どもが戦時託児所に登園してきたこと。しかし、「戦時託児所」は幼稚園とは異なり、母親が就労していることが都の基準で決められていたので、受け入れを断った事例があること、基準にしたがい日曜日も保育を行い、朝7時半~夕方まで時間を延長したこと、保育料免除や半分減免といった困窮家庭の子どもをも受け入れたこと…など、私共も今まで気づいていなかったことが記載されています。
当紀要論文はネット上で公開されています。どうぞご覧になってみて下さい↓。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110009896066