板垣信方
第一章 信玄の傳役
1、天文六年一月一日(一五三七年二月十三日)
「痴れ者奴が。国主の儂に諫言するとはいい胆力だな。大膳大夫(武田晴信)よ。其方が斯様な官位を貰えたのはだれのおかげぞ。返答してみよ」
「父上(武田信虎)。あんまりです。城を奪ってとどまるのは上作とも思えぬからです。あまりにもむごい仕打ちです。恩賞を下さロりませ」
「城を捨てて恩賞だと。ますます気に食わぬ。廃嫡されたたいか。大膳大夫?」
「御屋形様。もうおやめください。駿河守(板垣信方)の不手際にござります。申し訳ございません。平にご容赦ください。まげて願います」
甲斐の府中の躑躅ヶ崎館の武田信虎の部屋ではではお互いの怒号がこだまする。信虎は敢えて何もない一室に息子の武田晴信と傳役の板垣信方を呼び寄せた。
(拙者が思うにやはり御屋形様は若殿に難癖をつけたか。ならば拙者も一計を案じるか)
激怒しているのは武田家の当主たる武田信虎。背丈は六尺に届く。齢四十三。官位は右京大夫。美男だが顔に傷がいくつもある歴戦の猛者。逆らう輩は容赦しない。黄色の素襖の小袖と袴を纏って腰の太刀に手を懸けている。
叱責されているのは嫡子の武田晴信。赤の堂丸を纏って必死に信虎に戦の手柄を主張している。官位は大膳大夫。背丈は六尺二寸。齢十六。信虎に気性は似ているが優しさを持ち合わせている。信虎の息子だけあって美男。
知略と武勇では信虎に勝る。しかし晴信の主張を信虎は聞く耳を持たない。止めているのは板垣信虎。黒の堂丸を纏い主張を止めない晴信を制止している。
齢五十。武勇と知略は誰にも負けない。優しさを持ち合わせているので信虎が晴信の傳役に抜擢した。
(御屋形と若殿の喧嘩には付き合いきれぬ。お互いが譲らぬ。顔を合わせれば喧嘩ばかり。身が持たぬ)
信方は「若殿。ごめん」と力いっぱい晴信の頭を抑えつけた。
晴信は「何をする。駿河守」と不意打ちを食らって倒れこんだ。
信方は「若殿。御屋形様に謝りなされ」と器用に暴れる晴信の口を手で塞いで無理に晴信の頭を地につけた。
晴信は悔しさのあまり号泣し始めた。流石の信虎も我が子の涙を見せられては戸惑いが出た。
「御屋形様。若殿は泣いております。反省したと見受けますがいかがでしょうか?駿河守も一緒に泣きまする。拙者も泣きまする。不手際をお許しください」
晴信はまだ泣くのを止めない。信虎も動きが止まった。
「下がれ。晴信。今日は許してやるが次はないと思え。男の子が泣いて許してもらうとは卑怯千万」
晴信は泣くのを止めない。信方は「ごめん」と再び叫んで晴信を担ぎ出した。
信虎の部屋を出たときに晴信の泣き声がやんだ。
(やれやれ困った親子よ。両雄並び立たずとは斯様な例か。しかし若殿が不憫よ。なんとかしてやりたいのう)