国会議事堂前〜永田町

なにから、何を書いたら良いのか…。東日本大地震

震災から3ヶ月くらいの間、休日、有給休暇を使い、知人友人の多い陸前高田市、大船渡市に物資輸送のボランティアをしていた。
友人はお寺の避難所にいた。
一関の友人宅に民間の善意で集まった物資と私物を私のハイエースに詰め込めるだけ詰め込んで、暗くなると道が危ないので明るい間往復した。

避難所のお寺に身を寄せていた友人には会えたが、

ブルーシートを張り巡らせドラム缶風呂をみんなの為に設置、沸かす男性、

何も考えられず、焚き火にボーっあたる男性、

1人で3時間歩き、人が集まっていたから来たという若者、

書き出すとキリがなく、涙が出てくる。

一緒に焚き火にあたり、語る人の話をただただ聞くだけの自分。

あの人たちは今どうしているのだろうか?

なんとか乗り切っていてくれたら、それだけを祈るばかり。


読まれた方、まとまらない文章読んで頂いて感謝申し上げます。

この震災のちっぽけな私のボランティア経験談だけでも、大量な話したいこつがあり、何から話して良いか、まとまらない。

ただ、書かずにもいられない。

コメント一覧

Unknown
先程テレビで、焦らず少しずつ前に、と話していましたが、私個人的には、
「今現在前に進まなくてもいいから、震災前の生活に戻して!」
と国に言いたいのです。

どのくらい過ぎたころでしょうか、陸前高田市の港町の住宅の基礎だけが残るお屋敷の庭だったと思われる所に、住われていた方が植えたであろう、黄色い水仙の花を皆で見たのが強烈に記憶に残っています。
Unknown
いま、コメント読んで全身がゾワゾワしております。そうでしたか。陸前高田市は…言葉になりません。確かに雪が舞っておりました。米、飲料、豆炭、灯油、ガソリンを許す限り車に積んで、通常では通行止めとなるであろうデコボコな東北自動車道を走って行きました。一ノ関では、震災後1ヶ月あたりから民間の救援物資(日用品、衣服)が届いたので、それを積み込み、フロントに(救援物資運搬と手書きの札を置き)知り合いなど居なくても人の集まって居る避難場所に配ってました。
震災後1〜2週間は、米パン、豆炭、灯油、発電機のガソリンが不足してました。
jikan314
有難うございました。
兄は一ノ関に単身赴任で、義姉と姪は陸前高田にいたので、生き残ってボランティアの皆様の支援を受けたと思います。
寒さで震えていた義姉たちを助けてくれたと、今も感謝の念でいっぱいです。
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