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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森170号

2008-06-07 | 101号~200号
       ■こならの森170号■2002.6発行
表紙 「ナスの花 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森7月号■

結婚しました。…………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン……5
特集「最新ブライダル事情」 …………6
ドライブガイド「小鹿野」 …………10
JCジャーナル…………………………14
風の独り言………………………………16
書評/絵本紹介…………………………17
新釈・現代国語辞典……………………18
新・エッセイ 三鴨の窓辺から………19
各市文化会館情報………………………20
インフォメーション……………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】

秩父ミューズパーク

■アミューズメント
 秩父(ア)ミューズパークという名前なので、アミューズメント(娯楽)から、遊戯施設とばっかり思っていたが、ミューズには、ミュージアム(博物館)の意味もあるというのだ。それにしても地形を活かした造りは東松山の森林公園ではないにしろおもしろいものだ。
 ローラー滑り台の近くで、同じような鳥の鳴き声が規則的に聞こえてきたような気がする、本物が規則的な大サービスを連続しておこなっているのか、まったく本物に近い機械音なのか判別できなかった。
 やはりここは、朝から晩まで一日ゆっくりという日程で腰を落ち着けてのんびり散策と、自転車による周回を楽しむのがベストなのかも知れない。秩父方面での、一泊というのは佐野地区の環境ではあまり有効でもないが。
 4時間500円のレンタサイクルを借りて、あたりを散策する。なだらかな勾配のサイクリングロードは、見かけの勾配差に比べて穏やかなペダリング。あっという間に周回できるから不思議だ。飽きさせない回りの景観も一役かっているに違いない。とにかく広い、それがもっともらしい回答かもしれない。2、3時間の滞在だけを考えたら本当に楽しめないだろう。ミュージアムというくらいなのだから、もっと博物館的な施設が欲しいところだが、それも無理からぬところか。
 古代ローマを思わせるレリーフが所狭しと点在する。又、前衛的な卵形のモチーフのスタジアムが目を見張る。博物館的造りの建物など「気分は最高」。実際にもっと滞在したいと思わせるほど奥は深い内容だ。一日がかりの日程になることは必至だ。神殿を思わせる施設では、昼食もOK。
広大な施設をうまく利用するには巡回バスや自力による自転車が有効だろう。広い空間に、お弁当を広げられる場所がたくさんあり、ファミリーでくつろげる場が豊富な点が高得点の理由。もちろん、入園無料。


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こならの森169号

2008-06-06 | 101号~200号
       ■こならの森169号■2002.5発行
表紙 「 道の駅田沼」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森6月号■



結婚しました。…………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン……5
特集「道の駅」 …………………………6
JCジャーナル…………………………14
風の独り言………………………………16
書評/絵本紹介…………………………17
新釈・現代国語辞典……………………18
新・エッセイ 三鴨の窓辺から………19
各市文化会館情報………………………20
インフォメーション……………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】

県内の「道の駅」を行く

 これからの行楽シーズンに何かと便利なのが道の駅、ネーミングからしてユニークなものだ。その形態は、多方面にわたる。「Pキャン」なる言葉ができるほど(道の駅のパーキングなどを使って車中泊キャンプが可能なのだ。一晩中車の出入りがあって眠っていられないという難もあるそうだが………)。
 そればかりか、地域の情報や物産、知る人ぞ知る本物の名物、手打ちソバなど、本当にその土地でしかお目にかかれない、名物・名産品にお目にかかれるのだ。この辺も、市場というかごったにというか、地域密着というかよく訳が分からないが、親しみがもてるゆえんでもある。そういうことで急速に増殖中なのがこの施設である。道の駅を巡るスタンプラリーなど、イベントも盛りだくさんだ。そういうわけでこならの森も遅らせながら、この道の駅を特集してみたい。
 また、各駅では趣向をこらしたイベントを各自企画しており、それを楽しみに訪れるだけでも、おもしろさを味わえるのかも知れない。
 また、なぜ今まで無かったのだろうかと思うほど便利で、有効だし、使いかってが広がる施設でもある。

 道の駅と言っても最初は、あまり意識していなかったのだが、偶然に立ち寄った道の駅が、とても素晴らしかった事もあって興味がわいた。特にトイレが素晴らしかったのが、道の駅「みわ」だった。トイレの壁面一杯に星座が書いてあるのだ、なんでも、星がよく見える場所ということで有名なのだとか、元TBSアナウンサーで、宇宙飛行士の秋山さんの、写真も展示してあった。これは、まさしくイベントホールに他ならないと思えた。
 全くこった作りであるのだ、やればできる、やる気さえあらば何でもできるという、ことを実践してくれたものだとも言えないことはない。ただ地域の細かな情報が乏しいので何とも言えな所ではあるのだが………。
 各、道の駅毎にデザインであるとか、装飾などが違っていて趣向をこらし地域性が出るなど、特色は様々だ。しかし「駅」とはいえ内情は、たんなるドライブインだったり、停留場であったり、本来の意味での駅とはちとかけ離れているとも言えなくはない。ドラマがないのだ、つまり物語性に欠けてしまっている。それは駅にレトロな感覚しか、持ち合わせていないからか。しかしその反面、ぽっぽやなどの映画や、小説が、隆盛する事を考えると、駅に人々が抱く感覚はまんざらもないと思えるのである。

■道の駅、たぬま
 現在の田沼は、歴史的に見てもその昔「佐野」であったと言われるほどで、この地区(今の安佐)の中心であり、へそであってもなんらの損傷もないと思う。そればかりか、日本の中心であるということを考えると、いろいろな意味で考え方が変わってくる。これは、やがで全国の中心として発展していくのではないかとか、文字通り、へそになるのではないか。
 首都機能移転などをかんがえると、へそ(中心)がこの地区を軸にして発展していくのではないかという予想をしても、必ずしも大げさでなくなっている。
 そうした、どまんなかたぬまを出発点として、近辺の道の駅を紹介してみたい。
 ガイドブックを見ても、どこも訪れたい、入ってみたくなる施設ばかり。

■道の駅さかい
 しゃれた外観、利根川の水運で栄えた頃の蔵をイメージした外観が印象的だ。簡単な軽食がとれる食堂もある。ちょっとした庭園が趣を出している。他は、一般の道の駅とかわらない。

■童謡の里おおとね
 施設は、食堂、物産展示直売所、加工品研究所、別棟に休憩所などがある。
 入り口にすっと立つ銅像は、下總皖一。「たなばたさま」、「かくれんぼ」などの童謡で有名な音楽家。
 また、同所は農産物直売所の役名も果たしている。野菊まんじゅうや小松菜まんじゅうがおいしそう。

■東山道伊王野
 訪れたときは、手打ちソバのコーナーが行楽シーズン中ということもあって大行列。手作りの物産品など、おみやげものがたくさんある。またシンボルともいえる巨大な水車の水しぶきが、きた人の目を楽しませてくれる。観光地にあるだけあって、施設そのものは充実している。ちょっとしたイベント会場のごときである。


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こならの森168号

2008-06-05 | 101号~200号

       ■こならの森168号■2002.4発行
表紙 「行田市他 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森5月号■



結婚しました。…………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン……5
特集「GW情報」 ………………………6
JCジャーナル…………………………16
風の独り言………………………………18
書評/絵本紹介…………………………19
新釈・現代国語辞典……………………20
イベント情報……………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
各市文化会館情報………………………24
INFORMATIONその他の情報…………26
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30
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【本文抜粋記事】

風の独り言 

日本百名山「筑波山」

 本年「山と渓谷」の3月号に「日本百名山のうち2度と登りたくない山ベスト」という特集があり、そのNO1が筑波山であった。はなはだ不本意な評価ではあるが純粋な登山をするという観点からすれば標高876mの低山である筑波山であればしかたのないことかもしれない。しかし、深田久弥がこの山を百名山に選んだ理由は歴史の古さだと言っている。万葉の昔より「雪の富士、紫の筑波」と詩歌に詠われている。特に「つきうばねのみねよりおつるみなの川、恋そつもりてふちとなりぬる」という百人一首は人によく知られる。又、信仰の山としての歴史もあり、関東平野のどこからでも良く望むことができる双耳峰の筑波山は名山にふさわしい風格がある。やはり1度は登るべき山だと思う。
 さて、佐野を出発したのが6時丁度。筑波山神社の駐車場に着いたのが7時30分。近い山は移動の疲れが出ず助かる。小雨の空模様。筑波山神社は大層立派な社殿を持つ。神域へ立入る許しと登山の安全を祈願して上り始める。休憩箇所2ヶ所あり、初めが「ツクバネ」、中間地点が「男女川」と看板あり、「男女川」は「みなのがわ」と呼ぶ。先の万葉集の歌がやっと理解できた。やはり大変情感あふれる恋の歌であった。ケーブルカーのトンネルの上を歩く頃から雨が雪にかわった。ケーブル山頂駅には9時30分着。左手の男体山に向かう。男体山頂には祠と旧測候所がある。この測候所には「強力伝」や「アラスカ物語」の著者であり、富士山頂測候所の生みの親である新田次郎が一時赴任した所と聞く。レンガ造りの明治の洋館で、今後、厳重な保存となにがしかの再利用を望まれる。次に、女体山の登る。こちらが最高峰、女性上位の山である。山頂は早、雪の世界、大粒のぼたん雪がどさどさと降り出している。帰路はつつじヶ丘方面に下る。途中に大仏岩や北斗岩、母の体内くぐりといった奇岩がつづき、弁慶七戻岩(中間点)に着く。ここで純白の雪景色を楽しみながら昼食。樹林の中を緩やかに下り神社に到着。12時30分。
青木屋というホテルで風呂を使わせてもらう。天然温泉が湧き出したそうで、「双神の湯」(ふたがみのゆ)というそうだ。熱めの湯で展望が良く気持の良い温泉であった。佐野到着、17時20分。
 総評して、近く、登りやすく、ながめ良く、お湯良く、大変良い山でした。


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こならの森167号

2008-06-04 | 101号~200号
       ■こならの森167号■2002.3発行
表紙 「三毳山と家並み 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森4月号■


結婚しました。…………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン……5
特集「こならの森編集手帳」 …………6
JCジャーナル…………………………16
風の独り言………………………………18
書評/絵本紹介…………………………19
新釈・現代国語辞典……………………20
イベント情報……………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
各市文化会館情報………………………24
INFORMATIONその他の情報…………26
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30

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【本文抜粋記事】
こならの森編集手帳

こならの森、第3世代。

 創刊当時が第1世代(1988年5月~手書き原稿&ワープロ、写植、版下)。そして十年たった1999年のパソコン・デジタル化が第2世代。次に来る、ホームページでの全世界公開が第3世代だろう。あまりにも大げさだったかな。
 あちこちからホームページはまだ、という苦情めいた話を聞く。(最近では女房にまでいわれる始末)。実は昨年の暮れにHP作成ソフトも購入しているのだ。そこで、15年目に向けてホームページ化宣言をしてしまおうというのが今回の企画の不純な動機。
       ★

 編集手帳とは書いたが私はB5のノートを愛用している。最近なった気がついたことだが、ノートよりも、メモ帳のほうが筆記しやすいということだ。業界では常識的なことなのかもしれないし、遅すぎた発見なのかもしれないが………。
 項目ごとに、ぺらぺらとめくって書いていく方が、頭の整理がしやすいような気がする。ただ、文章全体の把握は困難となる、インタビューなどでは不利な面もあるか。

読み出せない
 ファイルが続出。

 今まで発行してきた全てのこならの森がインターネット上でよみがえる。それも安佐地区だけでなく世界へ向かって。しかも、フルカラーなのだ。
 だが、当時はそんなことは想像もつかない事だったし、バックアップなどという考えすらない。出来上がった本が全てで、フロッピーに残したものが、いわばバックアップだった。
 入力した文章なんてあればいいんだろう。とりあえず残しておくか、くらいにしか考えていなかった。フロッピーは万能で屈強、なんたってケースに入っているんだから。
…まさか読み出せなくなることがあるなんて思いも寄らない。それに懲りたのか、今ではHD、MO、CDと3つバックアップを取るようにしている。(めんどッチーけど)。
 ほとんどお払い箱状態だったワープロが大活躍。ところが、フロッピーを差し込むと「このフロッピーは初期化されていませんから、呼び出せません。初期化しますか?」という表示。何度やっても同じ答え。そこで裏技でもないけれど、あきらめずにワープロさんの機嫌がいい日にもう一度そーっと、挿入してみると、10回に1回くらいは、ご機嫌を直してくれ表示がでることもある。

 それから当時は便利だった簡易DTP機能が今になって仇となってしまった。
 フロッピーの中には、日付や項目をつけて分類した文字だけのものと、それを流し込んで編集したファイルの二つが残っているが、校正をするのはDTP機能を使って紙面構成をした後、プリントアウトしたものだ。つまり、校正された正規の原稿は、その機種でしか読み出せない。生テキストは未校正のままなのだ。
しかたなく校正されたDTP機能上の文章をテキスト化することに。しかし、これが大変な作業。直接テキストだけを別のフロッピーに、コピー出来ないのだ。
たくさんの枠の中に細かく入れられた文章を一つひとつ枠を壊して、全体の文章にまとめていく。初めっから打った方が早くないか(ナイナイ)。
 そしてもっとやっかいなのは、初期のワープロは、フロッピーが2DDしか使えないことだ。そして真空管で動いているんじゃないかとさえ思うほど動作が遅い。
 MOの時代に、フロッピー。それも2DDときたから大変だ。お店に行っても2DDなんて今の時代売っていない。手元にある数枚のフロッピーが貴重品となってしまった。
 それから、メーカーの違うワープロで文章を作っていた時もあった。これは、DOSに変換してあったので助かったが、特殊な方法で、文字を割り付けしているために、またワープロに戻って、元に戻すという気の遠くなる作業の連続。文書量は全体の5分の1程度なのに、時間は2倍もかかってしまった。
 これは本来やら無くても良いことではないのか。でも、デジタル化は必須だし……。地味な作業の連続に、不安が頭をよぎる。
 オイオイ、本当にホームページが出来るのかよ。
 
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こならの森166号

2008-06-03 | 101号~200号
       ■こならの森166号■2002.2発行
表紙 「 春日森天満宮の梅」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森3月号■

■166号→


結婚しました。…………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン……5
特集「一番近い千葉県」 ………………6
JCのコーナー…………………………16
新釈・現代国語辞典……………………18
風の独り言………………………………19
やぶいしゃのひとりごと………………20
書評/絵本紹介…………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
各市文化会館情報………………………24
INFORMATIONその他の情報…………26
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30

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【本文抜粋記事】
一番近い千葉県へ?

■一番近い千葉

 佐野市から古河市に向かうと一度に関東の過半数の県を走破することができる。これは知られていることではあるが、(もちろん知っている方も多いかとは思うが………)こならの森ではそれだけではすまない。もう少し付け加えるだけで、千葉県まで(ゲット)、走破できるのだ。
 地図で見ると、千葉県の一部は栃木や茨城、埼玉に突き刺すように、また入り込むようになっている。知ってはいたが、こんなにも(あのディズニーランドのある)千葉が近いとは………
 その一番近い千葉にあたる町が関宿町だ。

■田中正造と
 関宿町の関係

 どことなく町の印象も昭和30年代を彷彿させるような感じがする。時間がずれ込んだような印象だ。振興の都市ではないのかもしれない。どことなく懐かしい。関東平野の水運で栄えた一時代の前の町並み。そして水運のなかで育ち、発展した地方都市の成熟と衰退を体験できると思う。
 さらに、ここ関宿町は、私たちの街と全く関係がないわけではない。田中正造の足尾鉱毒事件の影響もある場所である。鉱毒が江戸に流れ込まないように利根川の流れを変えた地点である。
 「雨は水となり山よりながれ出て、里より海に行くものなり、もし途中低きところあれは、溜りて、充ちてはまた海に行くなり。いま渡良瀬川を見る。途中低きところなく、流水早く海に行かんとす。これを途中に喰い止めたるを関宿の妨害工事という」。(「流水」と題する明治四十二年の日記より)
 ――関宿の流水妨害工事は、鉱毒水が東京に流入して、東京市民の問題となるのをふせぐため、江戸川への川口を極度にせばめ、さらに川底にも流水を防げる工事をした。更に利根川から渡良瀬川への逆流口をひろげた。関宿を開放すれは遊水池は必要がなくなるというのが正造の治水論の要であった。
 田中正造は、河川踏査と河川沿革の歴史的研究を通じて、各河川いたるところに、水理に反する施策のあとを発見した。政治がもちこんだ歪みである。そのもっとも顕著なものとして、封建体制下で徳川幕府が軍事上、および関東開発の内政的要請に導かれて、大土木事業をおこして、数個の河川を合せて板東太郎とよばれる大利根川をつくった事例がある。明治国家においても産業偏頗の政策が、治水にもちこんだ歪みがある。関宿その他の流水彷害工事が、その一事例で、鉱毒のためにせる治水といってよい。この種の歪みを取りのぞいて、河川の、ひいては天地の本来の心算にもどすことが田中正造の治水原則であった。――
 (以上、田中正造の生涯 林 竹二著より転載) 

 詳しい地図を見ていただければ分かると思うが、幾分地形的に無理があり、大雨があるとどうしても旧江戸川方面に水が流れ込むという。

(略)

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こならの森165号

2008-06-02 | 101号~200号
       ■こならの森165号■2002.1発行
表紙 「 城山に天守閣」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森2月号■

結婚しました。…………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン……5
JC理事長所信を語る!! ………………6
特集 出現・城山城 …………………10
風の独り言………………………………19
やぶいしゃのひとりごと………………20
書評/絵本紹介…………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
各市文化会館情報………………………24
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30

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【本文抜粋記事】

築城400年記念
城山に天守閣が出現

 こならの森の何回か前の号で、電柱を消したらという企画をおこなったが、いろいろな方面から反響があった。だからというわけではないが、前回消したのならば今回は付け加えてみよう、というわけで、「城山に天守閣が出現」と題した文字通り(取って付けた?)企画の始まり始まり。

 実際には、その昔に天守閣再建の案があったという事だ。もちろん現実にはいたっていない。仮に再現してみるとしたらどんなものなのかと、郷土史家の京谷博次さんにアドバイスをもらった。その時偶然にも2002年は、築城400年にあたると聞いたので、企画そのものが本格化したのである。
 そして再建するとすれば、どこを参考にしたらいいのか伺ったところ、紹介されたのが、関宿城(実際には、城の形をした博物館)であった。早速、取材に向かった。(表紙の含めた合成写真は、それを元にしたものです。)

 なんといっても佐野駅と、その奥に控える城山は、佐野のシンボル的存在。観光的な価値はいかほどのものか、察しえませんが、そこに天守閣を再現できたのなら小京都佐野、城下町佐野はよりいっそう明確に出来ることでしょう。



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こならの森164号

2008-06-01 | 101号~200号
       ■こならの森164号■2001.12発行
表紙 「 唐沢山の紅葉」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森1月号■

結婚しました。…………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン……5
JC新旧理事長対談……………………6
特集・中心市街地活性化 ……………10
風の独り言………………………………19
やぶいしゃのひとりごと………………20
書評/絵本紹介…………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
各市文化会館情報………………………24
サッカー情報……………………………26
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30

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【本文抜粋記事】
《佐野商工会議所まちづくり研究会・ダイジェスト》
中心市街地活性化

再生なるか! 中心街

■商工会議所専務理事
 中心市街地の衰退は、全国的な傾向であり、佐野だけのことではありませんで、なかなか思うようにいかない。ですから会議所の中でも大きな課題と考えております。やはりみなさまのお知恵を拝借したいと思います。この研究会では広く意見を出していただきたいと思っています。

●佐野市中心市街地活性 化基本計画の趣旨説明

 モータリゼーションの進展で、商環境を取り巻く状況が変化してきた。高齢化のなかで、中心部は空洞化している。
 車社会ということで、東と西に産業道路が出来ました。これはダンプ街道であり、中心市街地から車を排除するという形の施策が逆に郊外へ新店舗の出店を促すことになってしまうという結果となった。
 実際には市の中心市街地には、市役所、郵便局、銀行、お医者さんなども残っていますから暮らしやすい場所を提供できる。

●中心市街地の課題
 市街地の現状ということですが、佐野市の人口はこの十年間で4%増、ところが中心市街地の人口は20%減っている。世帯数でも18%増加しているのに対して、9%も減少している。
 人口は微増ですが、世帯数は増えているということで、核家族化が進んでいるといえる。
 佐野市の商業環境ですが、全体の年間販売数が増えているのに対して、中心市街地は減っている。この大きな減収の理由の中には、平成8年の十字屋の撤退ということも大きな要因となっている。
 観光につきまして佐野市は、日光、宇都宮に次ぎ3位となっています。これは、佐野厄よけ大師による。それから昭和63年くらいから佐野ラーメン会というものが作られました。これが全国版となり、その集客があった。
 区画整理事業内の駐車場は現在月極が多く、中心市内に来たお客さんのための駐車場はなかなかありません。そこで商店街の方のご要望であります大型バスの駐車場などの整備も進めています。
 整備区域は、北は堀米の妙顕寺前の通り、東は妙顕寺から南へ延びる道路。南は佐野市駅、西は佐野高校東側から秋山川へのびる区間です。
 基本的な考えは、区域内の歩行による回遊性、それからアクセス性の向上を考慮した商業地域化。基本的には、佐野駅、それから厄よけ大師、佐野市駅、城山公園といった南北にまたがる165ヘクタールをみている。その中の空き店舗は、8、3%、他市でも10%前後です。
 観光資源をいかした町づくりということでは北の中華街など、回遊性を持たせたものにする。そういうなかで高砂町の駐車場も利用し厄よけ大師の参拝者を中心市街地へ呼び寄せる。方向性としては回遊性の参考になるマップの作成に力を入れています。
 参拝者は物産会館や近所をのぞいてそのままお帰りになってしまう。そこでラーメン祭りを行い、来た方の回遊性を持たせようと、抽選券を渡して、「市役所でラーメンが食べられますよ」、ということもやっております。
 車社会ということでは、駐車場という問題があると思います。施策につきましては、これにこだわることなくご意見を拝聴しながら中心市街地の活性化ということを進めていこうと思います。


■司会
 本日のこの会の、印象を申し上げますとだいたいこうした会合では地元の中小商店が集まりますが、そういうことでいいますと、非常に多彩なメンバーである。
 その中でも中心部の商店街の再生ということが課題になっている。中心地と郊外ということをいうわけですがこれは別物ではない。双方に関連している。  
 雰囲気的にはもっとリラックスしてやっていきたいのですが、今日は最初ということですので私の方から話をします。
 中心市街地の機能ということでは、インターネットも商店街としては使いこなしていかなければいけない時代が間近に来ていると思えます。
 それから佐野市の東側に新都市が出来る。新都市も中心市街地の整備区域も同じ規模の面積がある。そういう新しい都市が出来る。位置関係をみますと新都市から中心部は約三キロです。私は宇都宮からきますので、私もけっこう離れているなと思ったのですが、宇都宮駅からオリオン通りまで2、5キロある。ですからそのことを商業者だったら不利と受け止めるか、チャンスと受け止めるかなのです。
 買い回り品、ファッションとかいうものは宇都宮といえどもよそへ流れている。どこかというと、おおむね東京です。宇都宮の専門的な店でも充分に注文に答えられない。これはどこの都市でもある。
 佐野市の日常品の多くは、佐野市内ですが、外部でどこへ流動するかというと買い回りファッション品も含めて圧倒的に足利です。そして東京へ行く。東武電車に乗れば、宇都宮より近い存在です。
 佐野の人口が八万四千人、そして新都市の計画人口が、三千三百人。非常に大きなマーケットがすぐ間近に出来る。
 人口の伸び率の場合に、だいたい年間で1%のびると、その地域なり都市は成長しているといわれる。1万人の人口で100人増えるとある程度の拡張を持った地域であるといえる。
 プラスだけでもマイナスだけでもない。

●佐野新都市計画について

■地域振興整備公団

 佐野市新都市計画でありますが、町谷地区は産業並びに物流地区。西浦・黒袴地区は工業地区です。一番大きいものが高萩・越名地区で100ヘクタールくらいあります。ここだけ土地区画整理事業としておこなっている。アクセスもよくて便利なところである。その中心に犬伏新町・馬門線という南北道路が平成14度末に開通する予定です。この沿道には新都市コアと名前がついています、商業集積地が平成15年度の5月に開業できるよう工事を進めています。
 佐野市の都市構造が目に見えて変わってくる。これを危機とみるかチャンスとみるか。目前に迫ってきました、こうしたプログラムを、みなさまの頭の中でイメージして、それを町中でどうしていこうかという参考にしていただきたいと思っています。

■Iさん
 質問です。
 便利さは町中の機能ではなくなってきている。そして町中特有の機能では無いという気がします。サービスとか便利さ以外の機能がもしかしたらあるかもしれない。それを活かすことが、活性化につながるのではないか。
 インフラでさえもモータリゼーションの中、衰えてきている。居住性でも、町中に店舗を持っている人も、郊外に家を持っていて、中心市街地の機能を失いつつある。インターネットもこれは逆に普及すればするほど、町中である必要はなくなる。ですからインターネットこそ町中にとっては、大変な驚異になってくるのではないか。

■Kさん
 先ほど新都市についてお話があったのですが、確かにまちなかの人を集めてその中で中心部か郊外型かといっていて、同じお金を町中でぐるぐる回している。
 交通の要衝という地理的条件で言えば、広く集めることによって、新都市の中に来た人を中心市街へ呼び込める。ということから判断しまして、アーケードとか、アウトレットモールといったものを是非とも作っていただきたい。その辺についてはどうお考えですか。

■地域振興整備公団
 いろいろ、この時点では申し上げられないのですが、可能性としてはあると思います。それを実現していくためには、もちろん行政のサイドでも、公団でも、地元でもクリアーしていかなければいけない課題があります。かつ、それが砂上の楼閣という、非常にどうなるかわからない、という部分も含んでいます。
 ただ実際アウトレットというと、かなりの集客率がある。公団としてももしそいうものが入れるのであれば、前向きに検討していきたい。

■Kさん
 入るかどうかわからないということよりも、どういったら入れるのだ、どうやったら呼べるのだということはどうですか。

■地域振興整備公団
 内部的にはやっています。公団は土地区画整理事業ということでやっていますので、皆さんに公平な形で物を申し上げられるタイミングでは申し上げたいし、その前の全段で、こうなるというという話を一部の人たちにしていくわけにはいきません。
 それが一番のキーポイントだと思います。

■Kさん
 ほかからも来なければいけないと思います。どう考えたって佐野が伸びるのはそれしかない。

■Aさん
 私は日常生活品の買い物はしないのですが。そこにすんでいる人が毎日、便利に過ごせる街というのが一番かなと思います。近所に買い物が出来る場所があるというのが魅力的だなと思っています。
 そこで中心市街地に人が住んでいないということが一番のネックかなと思います。20、30年前でしたら、私のところの大町でも三倍くらいの人口があり、近所の人を相手にしていれば別に努力しなくてもお店に人がきた。そういう中で、一生懸命、中心市街をどうしようか。観光客を呼ぼうかと考えても、固定した売り上げを確保できないという状況の中で、そういってもどうか。
 基本的なベースの部分が保証されていないということが、今の小売店の状況かと思います。

■Iさん
 町中に住まなくなってしまった理由は。

■Aさん
 一つはね、通り沿いに住んでいる人は子供が喘息とか、住環境が良くない。そういうことです。

■Kさん
 それとみんながマイホームを持ちたくなるから、郊外へ出ていく。

■Aさん
 先ほどのアウトレットだって2、3年で調子が悪くなって撤退すると町が機能しなくなる。

■Kさん
 しかし、そういう、土台がなくてはいけない。

■Aさん
 ですから中心市街の人口構造をどう考えているのか、そのデータが必要です。

■Kさん
 確かに荒井さんがいうように人口が増えればそれだけで商店街はかなりうるおう。

■Cさん
 数十年前に東京から、(佐野の)工業団地が立ち上がるというので佐野へ来たが、日が暮れるかどうかのうちにシャッターが降りて買い物ができない。こういう町の印象だった。そこで、私はこの町は滅びると思った。いわゆるカンフル剤とか特効薬はないんです。消費者の立場でいわせてもらえば、魅力ある店員さん、経営者、店舗………残念ながら佐野にはそれが少ない。そういう意味で、根本からどうして町が衰退していったのかということを、根っこから議論すれば明るい方向は見えてくると思います。

■Kさん
 魅力ある商店とはなにかということです。それがあればどこでも繁栄しているわけです。宇都宮でさえ東京へ行ってしまっている。言葉だけではだめなんです。

■Yさん
 私が、中心市街を考えると、区画整理をすれば商売がうまくできるということで、研究をしてきたが商店街は出来なかった。そして力がある人は外へ出ていって、衰退するのに拍車がかかった。基盤は出来たが商店の主な元気のいい力のある人は郊外へ行って、今でも栄えている。で、残った力のない商店だけになった。たとえば、役所の南側へ集合して店舗をつくろうとあつまったひとがいたんです。ところが、正夢になって土地を放棄して役所に売ってしまった。
 幸か不幸か中心市街地が空っぽになって月極の駐車場が多くなった。人口が増えると言うこともあるが、魅力のある商店街にしないといけない。
 例えば、千葉の団地、一挙に1万5千人という団地を造って、その時に用意した商店街はめちゃくちゃはやって、盛った。しかしそういうところがみんな駄目になった。人がいっぱいてもそれに甘んじた商売をしていた。
 デパートの地下で食料品を買って住まいまで持っていく独身者が多い。そういうふうになってくる。だから連帯感をもって業種に関わらず仲良くやっていくしかない。あそこの商店は何となく気持ちがいいね、というような商店街を作れないかなと前々から思っているんです。
 区画整理のときも同じ話をしたんです。同じ業種でも、自分のところにたまたま商品が無かったならば同業者に紹介が出来るような商店街にならないかと。
 私は銀座に靴を買いに行ったことがあるのですが、指定された商品がないとすると次から次へと紹介するんです。「うちはこういうものは強いが、こういうものはない。あちらの商店で聞いてみてください」。結局無かったのですが、十店舗以上回りました。
 同じ業種でも紹介する。そういう商品を借りたり貸したりすることがずいぶんある。そのお客さんに間に合うように持ってきてまでくれる。そういう仲のいい連携のとれた商店街だと安心して消費者がこれる。魅力あるということはまず仲良くする。そうすれば何とかなるんじゃないかな、というのんびりとした方が、魅力があるんじゃないかなと思います。

■司会
 今言ったことは大切なことで、魅力の中身というのは、商店街では大切です。町づくりというのは、集約していかなければいけない、そのためにはやはり仲良くしていかなければいけない。連帯感を持つ、無いところを補おうとする。

■Mさん
 ですから、私はある程度、力のある人たちを何とか中心市街地へ呼び寄せようと思っています。それから中心地へ来ていただけるようなことができないかと思っています。中心市街地は業種が不足しているのです。

■ Aさん
 キンカ堂とかを誘致するにはどれくらい駐車場があればいいのか、そしてお客さんをごっそり持ってこれるのか、一店舗が魅力ある店舗として、集客をするときに果たして、佐野の中心市街地にどれだけ人を呼び寄せる車のスペースがあるのかまたは必要なのかというデータはあるのか。

■Mさん
 駐車場に置いて買い物に来るという人は殆どいない。
たまたま遠くから来た方は市営駐車場へ置いて買い物をする。そういう習慣のあるところから来る人は出来ますが、佐野の人は皆無です。
 とにかく前へ停めなければ承知できない。でも、50メートルくらいは歩いてもらえるようにしなければいけない。根本的にそうしなければ無理です。

■Cさん
 メインテーマは中心市街地の活性化ですが、佐野市の町全体のまちづくり、佐野市をどうするのかを考えていかないと、中心街活性化は解決しないと思います。
 まちづくりというのはそこに住む人の生き方の問題だと思います。それだけ精神的に大切なところ。そこに住む人間が町をどう考えているのか。精神論をやらないと活性化の結論はでないとそこまで思っています。強大な資本を投じていろいろな企画をぶって、それでも駄目だったら、その町は永久に駄目です。そうじゃなくていろいろな形の努力をしてそこに住む、84000人の市民が関心を持つような運動をこの研究会がどう市民に還元していけるか。

■Mさん
 現実問題として、佐野小とか天明小とかが町中を探検して商店街を訪れたりして、いろいろ聞いてみたりみたりする。そういう企画があるのですが、なかなか盛り上がらない。商店の業種によっては、うちは迷惑だ、というところもある。小学の2、3年生を本当にこころよく迎え入れる。そうすれば将来商品を買ってもらえるようになるんじゃないか………。考え方を変えて、今繁盛するかどうかということよりも必要だと思います。
 教育という捉え方で、子供たちに親しく接して帰らせるのは、一番のことなんです。
 「うちにはこないでくれ」、子供には関係のない商売だからなとは思っても、子供たちは疑問があったり知りたいことがあってくるのだと思う。ですから今日ご出席の方で、商売をやっておられない方の意見を聞きたいと思っています。

■Sさん
 町の中が元気になって欲しいなと思うからですが、誤解の無いように言いますと、「町中の商店の使命は終わったのかな」って考えていることがある。というのはやはり消費者が買い物に行くには、品ぞろいの豊富さが一番の魅力ではないか。例えば、家電の大型店が出てくると、既存のお店は衰退した。それは品数の豊富さから考えれば、一つのものを買うにしても多くのものから選ぶのと二、三点のものの中から渋々買うのとでは、買い物に行くということが変わってきてしまっているのではないか。
 郊外へ大きな駐車場を備えた大型店が出てくる。そこであげた利益は全部地元じゃないところへ持って行かれる。やはり地元で買い物をして、地元が潤って、町が活性化するということが、とても幸せなことだと思う。
 商店街でもいろいろな方策をおこなっている。私は田沼だから、佐野というのは生活圏ではないけれども、あの手この手で、商店街がお客を集める。けれども、それは限界に来ているのではないか。やはり消費者の魅力というのはいつでも豊富なものから選べるということだから、商店街というのはもう役目が終わっちゃったのかなと考えてきた。だからそこをなんとかできないものかと思う。景気が悪いと言っても、コンビニとか小さい店でも品揃えは豊富だということで買い物をしてくれる。いくら魅力ある商店街を造ろうとしても根本的には品揃え、資本力が関わってくる。一店でやるには資金的なものも大変だ。それでも、うち破っていけることがあるのだろう。
 役目が終わった。それを言っちゃうと夢も希望もなくなってしまうだろう。ですからそうではなくて、元気を取り戻して佐野がモデル地区になってどんどん近隣の商店街が活発化して世の中全体が豊かになっていって欲しいというという希望はあるのです。みなさまのご意見をお聞きしたいと思います。

■Mさん
 Sさんがおっしゃったように、小さい商店は太刀打ちできない、やめるしかない。
 今、電気製品をお買いになる方は事前にこの機種はどうかとか、いろんなことを調べて買いに行かれる方が多いので、カタログだけでも商売が出来ないことはない。
 個店でやっている電気屋さんに聞いてみますと、大型店では「買いました、運んできました。テレビをつけました。これはずいぶん画像があれている。アンテナが古くてだめです、取り替えましょう」。「そうするといくらですか」。「4500円です」。それだったら取り替えてもらおう。「でもアンテナを立てるのに手間がかかるから2万円くらいはかかります」。
 それから修理ということになると、持ってきてください、持っていくとメーカーへ送りますから最低でも一週間から10日はかかります。 
 というのが大型店の答えです、ところが個店で何とかやっている人は、自分がいって、「ああ、ここだったよ」、と案外簡単なことが多いんです。そして、アンテナを立てるなどというべらぼうなことは言わない。やっぱり大型店とは違ったサービスをすれば、「頼むのは地元の商店の方が良いね、いろいろ面倒をみてくれるから」ということになる。
 半年に一回くらい「どうだい、映りは変わらないかい」と、のぞいてくれる。ということはけっこうやっている。だからやり方というものもある。特にお年寄り相手の電気製品店は個店がうまい。ですからやり方だと思います。確かに資本力ではかないません。小資本でもいける、そういうことをして対抗している電気店もある。その道、その道でなるほどなと思ったのです。
 我々がコンサルタントの先生に聞く話は総論であって、実際にこういう活動をしているところがありますよ、こんなことをやったら大失敗をしてしまったのですよということ、そこを一番聞きたい。それが我々商店街の一番の欲求なんです。難しいことをなんだとかということではなくてそういう物に対抗するのはこれしかない、これでいくのだ、これではどうですかというようなことを、積極的に聞かせていただけるといい。
 もう立ち向かうには力がないんですから、ほかのことしかない。いろいろなところを回ってみる。そういうノウハウを教えていただくといい。元気づけられると思います。


(略)

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こならの森163号

2008-05-31 | 101号~200号
       ■こならの森163号■2001.11発行
表紙 「町中の風景 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森12月号■


結婚しました。…………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン……5
佐野JC・地域主催フォーラム………6
特集・街中の電柱を消したら…………10
安佐の人…………………………………16
現代国語辞典……………………………17
美しくなるツボ…………………………18
風の独り言………………………………19
やぶいしゃのひとりごと………………20
書評/絵本紹介…………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
各市文化会館情報………………………24
サッカー情報……………………………26
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30

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【本文抜粋記事】

安 佐 の 人

亀田 昭雄さん
葛生町生まれ。44才。元全日本ウエルター級チャンピオン。世界ランキング1位。全日本アマ、プロ優勝。ジュニアウエルター級(63.5キロ)・ウエルター級(66.8キロ)の二階級制覇。モントリオールでおこなわれたプレオリンピックでは、ライトウエルター級で銀メダルをとっている。など、経歴をあげたらきりがないほどだ。
 10年間のプロボクシング、その後は空調設備会社に10年間勤務。現在は、東京から葛生町に戻っている。
 20才のとき語学留学していたハワイでプロデビュー、KO勝ちを納めた。その後日本に帰国し、具志堅や渡嘉敷といったチャンピオンがいた共栄ジムに所属。
 25才の時に、世界ランキング一位となり世界チャンピオンにもう少しで手が届くと言うところで、引退。その運命を決めたのはイギリス遠征の第3ラウンドだったという。
 「生まれたばかりの子供の顔がふと浮かんだ」のだそうだ。6ラウンド目には闘争心が尽きる。30才の時だ。
 現在の職業である整体は、ボクシング時代から調子を崩したときなどにかかっていたが、嘘のように痛みが引いていったという。その時に体験したのはニンニク温圧法だったという。現在の療法はびわの葉を使うものだという。びわには
アミグダリン・(ビタミンB17)が含まれており、その成分を温圧によって患部の奥深くに浸透させる方式という。

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こならの森162号

2008-05-30 | 101号~200号
       ■こならの森162号■2001.10発行
表紙 「 三毳山」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森11月号■



結婚しました。…………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン……5
タウンミーティング……………………6
廃線路を行く……………………………10
美しくなる16のツボ…………………18
風の独り言………………………………19
やぶいしゃのひとりごと………………20
書評/絵本紹介…………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
各市文化会館情報………………………24
サッカー情報……………………………26
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30

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【本文抜粋記事】

鉄道ロマン&ミステリー
県内の廃線路を行く

■廃線路を行く

 今、廃線路を行くというのが静かなブームのようだ。
 編者はいわゆる鉄道マニアという人ではないが、郷愁というかロマンというかそんなところに引かれた。

 本当は歴史に残る廃線路というのが関東県内には多くあり、軽井沢近辺は重文級の遺構が多い。栃木県はともうしますとこれが………ところがありました100年前に消えた遺構である。(残念ながら、今回は取り上げられず。遺構らしいものはわずか一つ)
 ともかく県内で一番有名でもっとも素晴らしいと思える、東野鉄道、西那須野~那須小川と東武鉄道、矢板線 新高徳~矢板、を取材した。何冊かのガイドブックをもとに出発。ガイドに書かれているとおりに、進むが、車を利用しているため、狭い道や道無き道をかき分けて遺構を探し当てるのは大変だった。
 事前の下調べや詳しい地図などが用意できなかったために、見つからないことも、ロマンがいつの間にかミステリーに変わっていた。実際にはガイドブックの著者も「1時間近く車を走らせてやっと探し当てた」、などと書かれている。

 今回取材した、二つの路線は東野鉄道と東武鉄道と非常に紛らわしい名前だ。また、東野鉄道は昭和43年廃止、東武鉄道は昭和34年廃止でこれまた紛らわしい。

「栃木県内の廃線路」
東野鉄道、《西那須野~那須小川町》を行く
昭和43年廃止というから比較的新しい廃線路でもある。ともかく西那須野駅へ向かってみる。この路線跡は、現在はぽっぽ通りという遊歩道となっており、西那須から大田原までいける。実際に野木神社前まで歩くことにした。遊歩道といっても自動車道と多く交差しており、何度も道を渡らなければならないので、安全な道とは言えないのが残念。野木神社前には、線路とホーム跡のレプリカがあって、往時を偲ばせる。近くには、SLを形どった遊具もある。
 そこからは、ぽっぽ通りに沿いながら大田原へと車で向かう。途中、道が分からなくなり、大田原駅跡は、確認できなかった。
 その先に、トンネルの跡があるというので向かう。ガイドの通りに向かうのだが、案内標識があるわけでもなく、人に聞くにしてもなんといって説明すれば良いやら………。ぐるぐるとあたりを周回してやっとのこと探し出す。トンネル前までは、単なる私道としか思えない、本当にここで良いのだろうかと不安になりながらも先を急ぐと、塗り壁のごとくにトンネルが出現した。
 ともかくトンネルを発見したときの感動は推理小説で犯人を発見したときの感動と似ていた。今回もそうである。思いがけないところから、それ(トンネル)が出てきたら、それも偶然に、そして驚きは自然に感動へと変わるだろう。
 なんとかトンネルを塞いでいる柵に登り、内部の写真撮影に成功。と思いきや………。片手で柵をつかみ、もう片方の手でカメラを操作。そのためなのか、内部が暗いのか思ったような撮影にはならなかった。手がちぎれるかと思ったのに………。
 それで、いったいどこがミステリーなのかといわれてしまいそうだが、ともかくいってみることをおすすめする。その前後の路線跡を寺の山門が塞いでいるのだ。完全に路を裁ちきっきっている。
 黒羽から小川町までのルートは、昭和43年廃止以前に先に廃線となっている。

東武鉄道矢板線 
《新高徳~矢板》

 東武鉄道は関東の私鉄の中では最長の営業距離を誇っているだけあって、こんなところにまで、路線を持っていたのかと、改めて感動した。
 昭和34年6月に廃止となっているが、なぜかこの年は編集長の生まれたとしでもある。なにかの因果というものを深く感じる。新高徳駅は現在でも健在だがその先は、のどかな田園風景の中に消えていってしまった。
 今回用意した地図は十万分の一のものだが、それにはくっきりと廃線路が刻まれていて、ルートの確認も割合と簡単に出来る。ともかく細い道ではあるが一直線にどこまでの続いていく道がそうである。
 四十年前とはいえ、その当時ここに本当に鉄道が通っていたのかと、驚きがこみ上げる。本当に、何もない田園地帯なのだ。舟生の何とも言えないひなびた、宿場町の情緒がたまらない。そして、今回のクライマックスともいえるトンネル跡へと向かう。やはり、案内板など一つもないので、「きっと、ここだろう」と思われる道を進む。途中にはちょっとした湿原が現れ、カモの群が一斉に飛び立っていった。高原地帯に迷い込んだと思わされる風景だ。
 しかし………、途中の看板にトンネルは途中落盤の危険があるため数年前に閉鎖、通行できないと書かれてあった。まことに残念。SLに乗ったつもりでゆっくりとトンネルを越えるのが、最大の目的であったのに………。でもちょっとした収穫もあった。取材班の興味は、いつのまにか山栗拾いに移っていったからだ。日暮れも近いというのに………

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こならの森161号

2008-05-30 | 101号~200号
       ■こならの森161号■2001.9発行
表紙 「 そばの花」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森10月号■
結婚しました。…………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン……5
タウンミーティング……………………6
美しくなる16のツボ…………………12
ドライブガイド…………………………14
風の独り言………………………………18
シネマまるかじり………………………19
やぶいしゃのひとりごと………………20
書評/絵本紹介…………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
各市文化会館情報………………………24
サッカー情報……………………………26
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30

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【本文抜粋記事】
ドライブガイド
磐城街道をゆく
■特集 街道をゆく

 いったんこの道(街道)にはいると、今まで忘れていた遠い日の記憶が蘇ってくる。ガイドブックに載るような大げさな「しかけ」は、全くないのだが、どことなく郷愁的なかれた感じが素晴らしい。
 この街道に殆ど平行するように並んでいるのが磐越東線である。東北本線の郡山から常磐線のいわき市までを結んでいる。
 実は、大きな用水路があるなと思っていたものが、線路であったのだ。こんな所にどうして線路があるのだろうという印象。使われなくなってしまったものだろうとも思っていた。しかし、車を降りて線路をよく見ると使用している痕跡がある。さらに先に行くと、駅らしい建物も発見できた。この街道の近くには、うつくしま福島博覧会会場もあるし、阿武隈(あぶくま)洞へのアクセスも簡単である。
 夏井川にそって夏井渓谷が道すがら迫ってくる、そればかりが、線路もつかず離れずで、こっちが忘れていても、あっちが忘れていないぞ、というような感じでおやっと思えるところで一致してくる。そして、たびたび接触する。つまり踏切の多さに絶句する。線路と、道路が平行線であれば、踏切も必要なくなると思うのだが………。線路が先で、道路が後で発達したのか、はたまた逆なのか。どちらにしてもこうたびたび交差していては、絶句する。しかも道路交通法では線路が優先で、常に線路と交わるときには道路側の車両が一時停止をする。当たり前だが。そのために、信号も十字路もないひなびた山道であるにもかかわらず実際の走行感覚は、信号機ジャングルの都会と変わらない。
 近くには、やはり内陸部から海岸へとのびる「御斉所街道」という名前の街道が直ぐ下を通っている。こちらも機会があればトライしてみたい。

話がそれてしまいそうだが………

 想像力によって全てを考えられる、人にとっては本当に肩すかしはもっとも究極のコトであると思われる。
 そういわれてしまうと、思い当たる点もないではない。行かなかったのに、殆どいったも同然のコトを得られたのであるから。それは旅には、過去、現在、未来があると思えるからだ。
過去とは、行く前の時間である。これが長い方がより長く肩すかしを楽しめるようにも思う。
 そして、本番。一年以上考えてきた計画の実際の時間は二泊三日というのが、本当の所であろう。しかしそれで終わりではない。その後の時間がもっとも肩すかしにはない時間であると思える。実際に旅を経験すれば、その後は過去ではなく思い出に変わるのだから。



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こならの森160号

2008-05-29 | 101号~200号
       ■こならの森160号■2001.8発行
表紙 「おきざり自転車とつた 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森9月号■

結婚しました。…………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン……5
特集・直訴状を読む……………………6
佐野JC・教育フォーラム……………14
風の独り言………………………………18
現代国語辞典……………………………19
やぶいしゃのひとりごと………………20
書評/絵本紹介…………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
各市文化会館情報………………………24
サッカー情報……………………………26
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30

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【本文抜粋記事】

風の独り言
お金が無くて暇~な時の過ごし方
 とある日曜日、朝から何もすることがない。4才になる孫が下から見上げてどこか連れて行けとせがむ。給料日前でお金も無い。よくあることであるが、こんな時どうするか。
 佐野駅に行き、岩舟までの切符を買う。大人190円、幼児はただ。1番線の上り列車08時28分に乗り足利に向かう。方向が逆だがこれで良いのである。日曜のこともあり列車内はガラガラに空いている。孫は窓の外を流れる田園風景に見入っている。靴を脱がせ外を見せていればおとなしい。私はおもむろにほんを取り出し読み始める。やがて列車は高崎到着。09時48分。八高線の次の列車は10時33分。時間があるので駅弁を買うことにする。だるま弁当900円。孫にはとりめし弁当800円。飲物は家から持ってきた水筒の麦茶で十分である。高崎からの列車の旅は秩父の山々を左右に眺めながらのゆっくりとした旅である。登り下りの多いせいか、時速30~40ののろのろ運転で進む。景観を楽しむには最高である。こちらの気持までゆっくりしてくる。弁当を広げ、土地の名産を味わう。11時56分高麗川(こまがわ)に着く。
 又、乗り換え、今度は川越線で大宮へ。途中、川越駅で快速に乗り換え12時54分大宮着。大宮では東北新幹線、上越新幹線、秋田新幹線等々、次々にくる新幹線に孫は大喜びだ。大宮発13時10分、宇都宮線で小山へ。この辺は少し見慣れた景色になってくる。小山着13時48分。小山発両毛線13時57分。岩舟着14時18分。ここで初めて改札を通り、佐野駅で買った190円の切符を渡し、駅外に出る。 駅前で一寸ブラブラし、改めて岩舟~佐野間の190円切符を買い14時46分発、佐野着14時53分。
 孫もいっぱい電車に乗れて大満足。私も好きな本を十分読めて良い1日でした。
こんなの利用の仕方をすると、何か違法行為をしているように聞こえるが、これは違法でもなんでもない。途中、車内検札があってもなんら臆する必要もない。正当なの利用なのである。両毛線は昨年六月から「東京近郊区間」ということになり、どんな経路を通ろうと1番安い運賃で切符を買えば良いことになっている。但し、改札を出られないこと。有効は1日だけであること。特急や急行は使えないこと。同一経路(駅)を2度通過できないこと。等が条件である。
 もっと凄い使い方を考えると、佐野~足利間の切符で、佐野~小山~友部~(常磐線)~上野~(京浜東北線)~大船~茅ヶ崎~八王子~高崎~足利。そして足利~佐野。
230円+230円で。早朝05時53分に出発して18時07分に佐野に戻れる。
子供連れの電車旅。お金が無く、ヒマーーーな時には1度試してみては如何ですか。


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こならの森159号

2008-05-29 | 101号~200号
       ■こならの森159号■2001.7発行
表紙 「 がくあじさい」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森8月号■



結婚しました。…………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン……5
特集・日帰りドライブガイド…………6
佐野JC・教育フォーラム……………14
風の独り言………………………………18
現代国語辞典……………………………19
やぶいしゃのひとりごと………………20
書評/絵本紹介…………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
各市文化会館情報………………………24
サッカー情報……………………………26
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30

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【本文抜粋記事】


佐野JC・教育フォーラム
「義務教育を考えた事がありますか?」
~親の義務であり子供の権利なのです~
特定非営利活動法人 
とちぎ教育ネットワーク 副理事長  
中野 謙作 さん

■プロフィール――――――――――――――――――――――
中野 謙作( なかの けんさく )
1959年 東京都千代田区に生まれる。
1983年 学習塾、家庭教師を職とする。
1986年 株式会社教育社 入社
1994年 WS・早稲田セミナーホーム学習会(栃木県高根沢町)塾長となる。
1999年 特定非営利活動法人とちぎ教育ネットワークの設立に参加
現在、特定非営利活動法人とちぎ教育ネットワーク副理事長、社団法人全国学習塾協会栃木県会員会副幹事長、栃木県統一テスト協議会機関誌部会部会長を兼任。座右の銘は『冬来たりなば、春遠からじ』。


中里 本日はよろしくお願いします。はじめに中野さんのこれまでのご活動をお聞かせ願えますか。
中野 私は東京出身でして、以前、学習塾や家庭教師、そして教材会社勤務など、教育に関連する仕事をしておりました。ところが、約8年前、教材会社を通して、高根沢町のある塾長と知り合い、その塾長が民間のNGOでインドネシアに行かれることになり、塾長の意向でそれまでの塾経営を引き継ぐことになりました。現在、その学習塾を全面リニューアルしまして、WS・早稲田セミナーホーム学習会(=WS学習会)を開いております。こちらへ来てからは様々な高校や大学受験において、東京との余りのギャップに驚きました。私自身の経験も含めてですが、東京の高校受験といえば、いかに私立高校に合格するか、という価値観ができあがっておりました。ところが、高根沢へ来たところ、まだ県立高校志向が非常に強いことに戸惑いを感じました。栃木県ではまだまだ私立高校が力を出し切っていないと感じました。
中里 確かに栃木県では、まだまだ県立高校の方がステイタスがありますが、最近では、少子化による学生の獲得のためにも、急速に私立高校のレベルが上がってきたように思います。さて、現在取り組んでおられる『NPO法人 とちぎ教育ネットワーク』の活動内容について、お聞かせ下さい。
中野 私は現在、不登校の問題をテーマに活動をしているのですが、学習塾にも色々な団体があり、様々な考え方を持つ先生がおります。そこでもっと地域に貢献できないものかという斎山先生(とちぎ教育ネットワーク理事長)の呼びかけで、賛同する方々が集まり、一昨年の11月に発足したのがこの『とちぎ教育ネットワーク』(=TEN)です。そして、昨年2月にNPOとしての認可を頂きました。この団体の大きな柱として国際交流を目的とした「イングリッシュキャンプ」があります。今年も100名ほどが参加する予定ですが、3日間のキャンプで、子供たちに英単語を教えるのではなく、運動やゲームなどの肌の触れ合い、心の触れ合いを通してお互いを理解していくという趣旨で行っています。キャンプ中、先生方は英語でしか話しませんが、キャンプの最後には子供たちもお互いを良く理解することができて、とても喜んで帰ります。これからも続けていきたい事業の一つです。
中里 佐野青年会議所でも、今年で4回目となる『安佐こども未来塾』という小学生対象の事業があります。内容はキャンプや高齢者擬似体験、ワールドゲームなど国際感覚を身につけるプログラムを実施してきました。今年は、企画の時点から子供たちに参加してもらい、この未来塾を卒業した中学生がリーダーとなって、自分たちでプログラムを決めていくという事業を行っています。
中野 子供たち自身に考えさせるという意味ではとても良い取り組みだと思います。総合学習の時間で生徒たちが自主的にテーマを決めて取り組んでいる学校も出てきていますね。そのように、どんな子でも自ら勧んで学習できる機会が増えるといいですね。
中里 私も昨年、総合的な学習の時間に、地域の先生として教壇に立ちました。私が所属する消防団の活動を小学生に教えました。学校の近くの川で、消防車を使って水を吸い上げ、放水する作業を、子供たちに体験させました。子供たちは目を輝かせて真剣に学習していました。私自身非常に良い経験をさせていただいたと思っています。総合的な学習の時間ということでは各学校が試行錯誤をしているようですが、地域学習ということも含めて真剣に取り組んでいってもらいたいと思います。
中野 そうですね。その通りだと思います。そして『TEN』のもう一つの柱としては「教育評価研究会」というものがあります。最近では子供たちの学力低下問題が焦眉の課題とされてきていますが、民間の立場から絶対評価と相対評価の研究をしていき、21世紀を担う子供たちが必要とされる学力を明らかにした上で、最終的には行政に対して提言できるような教育評価を作成するということがコンセプトです。
中里 その教育評価というものは学校の教育システムを評価するというものでしょうか。
中野 そうではなく、きちんとした理論体系をベースにした実際の学習における評価の考え方です。今までは、クラスの中での相対評価でしたが、これからは個人別での絶対評価が注目されていきます。ただ今後、絶対評価だけで子供たちのやる気を引き出すということは難しいので、私たちは両方を併せ持った考え方で取り組んでいきたいと考えています。そしてもう一つの柱として、「教材開発研究会」というものがあります。これも同じように来年度の教科書改定にあわせてどのような教材が必要なのか、ということをテーマにした研究会です。その他ITに関連したことでは「ホームページ」も開設しました。そして今年はメインの活動になっている、不登校問題の「サポートネットワーク」と、以上の5本柱で進めております。

(略)

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こならの森158号

2008-05-29 | 101号~200号
       ■こならの森158号■2001.6発行
表紙 「 田中正造生家ほか」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森7月号■


結婚しました。…………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン……5
特集・田中正造…………………………6
佐野JC・教育フォーラム……………14
風の独り言………………………………18
現代国語辞典……………………………19
やぶいしゃのひとりごと………………20
書評/絵本紹介…………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
各市文化会館情報………………………24
サッカー&映画情報……………………26
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30

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【本文抜粋記事】

田中正造直訴から100年
安蘇史談会主催 第17回安蘇の風土と歴史講座
『田中正造をふりかえる』

「直訴状と谷中村問題」  
講師:嶋田早苗さん
     
京谷会長 今回の講師の嶋田さんは1981年に佐野市郷土博物館準備室に入られまして、初代の館長さんとなられました。その後、教職に復帰され、佐野市内の小学校長を最後におやめになってから、足利工業高校に非常勤講師として勤めながら、田中正造邸宅保存整備事業に従事し田中正造宅の一般公開事業に当たっておられます。なお、先生のお父さんの嶋田宗三さんは谷中の人で14歳から25歳まで田中正造に師事をして臨終にも付き添いました。正造さんがなくなってからも遺品だとか、文書の収集保存に努められ、県の文化財の功労者として表彰されました。この田中正造さんにつきましては、嶋田さんが打ってつけであるので時間までお聞きになられればありがたいと思います。

嶋田 最初に直訴までの足取りを確かめるために、年表を使ってみていきたいと思います。最初に渡良瀬川に異変があることを報道したのは、1885年(明治18年)です。渡良瀬川で鮎が大量に死んだということを新聞が報道しました。それから魚がどうもおかしい。子どもが手づかみでもウナギを捕まえられた。食べると下痢をするということがありまして、漁業に従事している人が明治17年には、2132名いたのが、21年になると4分の1に減ってしまう。その後はゼロです。魚がいない捕れない、捕っても毒だ、体に良くないということで漁業従事者がゼロになってしまう。そして、23年には大洪水がありまして、被害民の鉱毒反対運動が始まりました。谷中村とか群馬県議会、吾妻村などで足尾鉱山がどうも被害を及ぼしているらしいので、何とかしてくれ、ということを訴え出ているわけです。
 梁田村の長 祐之は、わざわざ足尾まで出かけていきまして、調査してそれを本にしたのですが、発行禁止にされてしまうという状態になる。田中正造は24年の12月に議会があったのですが、質問書を出しました。その時の農商務大臣というのは陸奥宗光でした。答弁の席に出てこないんですね。議会が解散した後、官報で、田中正造の質問に答えている。鉱毒の原因ははっきりしない、足尾銅山は粉鉱採集機を欧米各国から用意して鉱毒被害がなくなるよう努力をしている。そういうふうに足尾銅山寄りの返事をしているんです。一方では、足尾銅山の方は金で問題を解決するように被害民と示談の話を進めている。田中正造がうるさいからと。田中正造はその様子を見守っていました。明治27、28年には日清戦争が起きたんですね。戦争をやっているのに、国内で意見が分かれてはいけないというのでこの期間田中正造は足尾鉱毒について、政府に責任追及をしなかったんです。それをいいことに、足尾銅山は大増産をやりまして、29年の9月には、大きな洪水被害が起きました。そのころは、東京都ではなく東京府でしたから一府五県に渡って10万54町歩に渡って鉱毒被害が出たわけです。
 雲龍寺に群馬県、栃木県の鉱毒停止事務所ができまして、ここを中心にして被害民が集まりました。田中正造は示談はやめろ。金で解決するのはやめろ。憲法で、請願権というものが認められているのだから、政府に対して請願をして鉱毒をやめさせる運動をすべきだ、ということを説いたわけです。東京にも請願事務所ができました。30年の上旬と下旬の2回にわたって、被害民が大挙して中央官庁に除害を請願したわけです。これは押し出しといいます。政府は下旬の農民の動きにある程度動かされたと見えて、足尾銅山の鉱毒調査委員会を作るんですね。そして、5月になると、東京鉱山監督事務所が初めて銅山に対して、鉱毒予防工事命令を出しました。政府は何もしなかったという言い方をよくするのですが、したんです。予防工事命令をこの時点において出しました。ただし、不完全だった。命令された方の銅山経営者、古河市兵衛ですけれども、「やればいいんでしょう」ということでかなり費用をかけてやったんですが、鉱毒はいぜんとして流れ出した。おまけを付けますと、東京の鉱山監督事務所長は予防工事が終わると、足尾銅山の所長に納まっている。悪い考え方をすれば、工事はいい加減で負けてもらって、終わったらウチの所へ来てくれ、礼は弾むから。そんな想像ができます。まあ、いい意味で考えますと最後まで責任をとって、足尾銅山から鉱毒が流れないように、事務所長になったんだと考えられます。後年になって、銅山で暴動が起きまして、その所長さんかなり痛めつけれているんですね。我々も気をつけないと子孫というのは後まで生きていくわけですからね。自分のやったことが後世になって批判されることにもなりかねません。
 政府もようやく予防工事命令を出したころから、足尾銅山が鉱毒を出しているということが分かりまして、税金を免除するんです。免除されるとありがたいんですが、残念なことに選挙権を無くしてしまう。最初の選挙権は直接国税15円を納める者が持っていたのですが、このころは10円でした。免税で自分たちの要求ができなくなってしまう。ですからマイナスなんです。
 続いて憲政党内閣成立と年表にあります。田中正造が最初に所属したのが改進党です。その後、小さい政党を併せて進歩党と名前を変えた。その進歩党が自由党と合併してこの憲政党を作る。政府寄りの政党を今、与党といいますが第一議会から、田中正造が所属している改進党、それから自由党の野党の方が与党より強いんです。そのために、初期議会といわれている明治23年から、27年までの間に解散が4回あるんですね。普通だと、今と同じで代議士の任期は4年なんですが、初期の議会では平均すると1年しか持たないんです。政府は、野党の勢力が強いので解散、解散とやる。だから田中正造は第1回の総選挙の時に、蓄えておいた政治資金を殆ど使ってしまった。そのあと5回選挙に出ましたから、借金、借金で手当としてもらう議員歳費を銀行に送って選挙資金を返すという苦しい状態を続けいた。
 田中正造が所属する憲政党が多数党を占めまして初めて内閣を作ったんです。これまでは、薩摩と長州出身の者がずっと内閣を作ってきた。初めてそれ以外の憲政党の政党内閣ができあがったんです。ですが、10ヶ月で潰れてしまいます。その後はまた薩摩と長州出身者の政府が続いていくわけです。

(略)

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こならの森157号

2008-05-29 | 101号~200号
       ■こならの森157号■2001.5発行
表紙 「フェイシャリスト 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森6月号■


ヤンバルのー子の青春レストラン……4
結婚しました。…………………………5
佐野JC・教育フォーラム……………6
特集・イメージチェンジ………………10
関東フォーラムとちぎ………………14
風の独り言………………………………18
何でも探偵団……………………………19
やぶいしゃのひとりごと………………20
書評/絵本紹介…………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
各市文化会館情報………………………24
タウン情報………………………………26
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30


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【本文抜粋記事】
佐野JC・教育フォーラム

子供を描きながら、子供達に伝えるメッセージ
~『心の「ふるさと」がありますか?』~
児童画家 
安藤 勇寿 さん

中里 本日はよろしくお願い致します。安藤勇寿さんの絵には必ず子供が描かれておりますが、なぜ子供がでてくるのですか。何かテーマがあると思うのですが・・・。

安藤 「少年の日」というテーマでずっと絵を描いております。自分の絵を探し求めていた時に、ふるさとの山や川や田んぼの中にテーマを見つけました。子供の姿を借りて自分が絵の中に登場してみたり、絵の中の子供を通して、私の思いを皆さんに感じてもらえたらと思っております。

中里 地元の風景や「ふるさと」というものを意識されているのですか。

安藤 私は田沼というところで生まれ育ったのですが、地元田沼はもちろんですが、田沼の風景だけではなく、自分がどんな風景の中に居たいのか、または、その風景をどう自分が感じるのかということで描いています。海のないところで育ちましたから、海にあこがれて漁村の暮らしなども題材にしたりしています。「ふるさと」については、自分がどこで生まれ、どこで育ったかということでしょうが、もう一つ日本ということを意識しています。外国の方に訪ねられたら必ず「日本から来ました」とか「日本人です」とか答えますよね。自分は日本人なんだということを再認識してもらいたいと願っています。

中里 日本人ということを誇りに思いたい、或いは、思っていただきたいということですね。

安藤 そうです。それがあるから人種、年齢、性別に関係なく色々な国の人と知り合っていきたいと思うわけです。私の場合には、知り合う方法として、或いは、知ってもらいたい方法として、絵があるということです。結局は自分が何者なのかというところに行きつくと思います。

中里 本年度は、(社)佐野青年会議所内に、ふるさと教育委員会という委員会を設けさせていただきました。主に教育に関する様々な事業を行っております。事業を通して、この地域の子供達に、自分の「ふるさと」について胸を張って自慢してもらいたいと思います。私自身、大学で初めて東京に行った時は、ふるさとの栃木についての恥ずかしさがありました。しかし、田舎に帰ってきて、この「ふるさと」の素晴らしさを改めて気付き、今では大いに自慢したいと思っています。

安藤 恥ずかしいと思っていたのは自分に自身がなかったからだと思います。自信がないとどうしても足元がふらつくことになるのではないかと思います。自分で何かやりたい事があることによって、自分自身が見えてくる、見えてくることによって色々な人との中での自分が具体的に分かってくる訳です。

中里 自分がこの町に住んでみて何がしていきたいのか、そして、その思いをしっかりと子供達に引き継いでいかなくてはいけないのだと感じています。そういった「ふるさと」を大事にしたいという想いから、自分自身やりたい事が見つかってきたのかなという気がします。

安藤 「ふるさとを大事にする」という言葉はとてもいい言葉だと思います。それが結局は自分自身を大事にするという事に繋がってくると思います。ある意味で「ふるさと」というのは、自分自身をこの世に送り出してくれた母親のような存在で、なくてはならない一番大事なものだと思います。そして自分で一番居心地の良いところ、そこが自分の「ふるさと」だと私は考えております。

中里 安藤さんの絵は海外でも評価されていますが、海外の方と接する事も多いのですか。

安藤 外国に行く機会はあまり多くはないのですが、出会いを大事にして相手の事をもっと理解したい、そして自分の事も、もっと理解してもらいたいと常に思っております。飛行機で12時間ほどかかるカナダにも知り合いがおりますが、隣町にいるようなほとんど距離を感じずにお付き合いさせて頂いております。

中里 ところで、最近は国の借金など、政治に関する色々な問題が出ております。日本の首相が海外に行っても相手にされなかったり、一方的にアメリカの大臣が日本経済に関して注文を付けたりしております。今、日本においては、強い真のリーダーが求められているのではないかと思います。大げさな話かもしれませんが、そういった外国の方とのお付き合いをするにあたって、どういう日本、日本人であれば良いと思われますか。

安藤 私が思うには、着飾らないで普段着のままと言いますか、お互いを理解し合えるきっかけを、色々な角度から考えていく必要があると思います。特に日本というのは島国ですが、他の国の人は国境を越えると、そこはもう自分の国ではない訳です。お互いを理解し合えなければ平和を維持することも、共存していくこともできません。他国の人と仲良くやっていきたいと言う気持ちがあるからこそ自分を理解してもらいたい、または相手を理解したいということになると思います。ただそれが一歩間違えるとマイナスの方向に行ってしまいますが、とにかく自分はどこの国の人間なんだと言う意識を持っていなくてはなりません。それが先ほど話しました「ふるさと」に繋がってくるのではないでしょうか。例えば、外国に行って自分を理解してもらう為にはどうしたら良いかということを考えると、やはり国旗を見てもらったり、国歌を聞いてもらうのが一番早い訳です。その辺りをしっかりと子供達に伝えていかなくてはいけないと思います。
(後略)

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こならの森156号

2008-05-28 | 101号~200号
       ■こならの森156号■2001.4発行
表紙 「三毳山 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森5月号■


ヤンバルのー子の青春レストラン……4
結婚しました。…………………………5
佐野JC・教育フォーラム……………6
特集・ドライブガイド………………… 10
関東フォーラム とちぎ……………… 13
風の独り言……………………………… 18
現代国語辞典…………………………… 19
やぶいしゃのひとりごと……………… 20
書評/絵本紹介………………………… 21
インフォメーション…………………… 22
 [映画・本・CD・ビデオ・コンサート]
各市文化会館情報……………………… 24
タウン情報……………………………… 26
安佐の人名クイズ……………………… 27
協賛店マップ…………………………… 28
こならの森から………………………… 30


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【本文抜粋記事】

風の独り言
もっと奥日光を楽しむために

 桜の花も満開になり、水ぬるむ季節となった。待ち遠しい春のおとずれ。私はこの頃になると日光に行きたくなる。しかし、4月、奥日光はまだ冬。5月にならないと雪が溶けない。
 お客様によく質問される。「日本で一番景色のきれいな所はどこですか?」。私は必ずこう答える。「日光湯元から金精峠に行く途中の展望台から見る、湯の湖、戦場ヶ原、中禅寺湖、男体山の眺めが日本一きれいですよ」。栃木県人の身びいきかもしれないが本当にそう思っている。私は日光が大好きなのだ。
 読者諸兄は奥日光に地図にのっていない小さな湖があるのをご存知だろうか。
名前を「蓼湖」「タテノウミ」という。湯元温泉から切込湖・刈込湖に行くハイキングコースを200m程入り、左手の谷底を見ると、周囲300m程の小さな湖(池)が見える。
この湖に入る正式な道はない。水の通り道を探し、熊笹をかき分けて少し下りると湖岸に出る。湖岸を右手に進むと幅1m程の流れ込みに出る。人がまったく入らないので、この辺の景観は神秘的なほど美しい。水は少しも色を持たないし、周りの木々は他より色濃いような気がする。
 さて小川の底をよく見ると、ビックリするほど大きなニジマスが泳いでいる。体長30~40cm位だろうか。ここのニジマスは7、80年前に湯の湖から移殖されたものだそうだが、完全に野生化している。尻尾がピンとはって美しい魚体をしている。よく見ると雪解けの春だというのに赤い婚姻色をしている。普通は秋に婚姻色が出て、オス、メス川を遡上し、適当なザラ瀬を見つけて産卵するのが定説である。ところがここのマスは春に婚姻色が出ている。
 何度か通いつめているうちに気が付いた。蓼湖に流れ込む小川は幅1m水深1m程。川を上ると約300m程で地中からの涌き水になり、川は途切れてしまう。この川は秋には枯渇してしまうのではないか。雪解けの今の時期にしか小さくても豊かな水量は維持できないのではないか。オス、メスが川を上り、並んで産卵できるのは今だけなのかも知れない。このことは私の仮説でしかないが、これが事実だとすれば大変な発見だと思う。この小さな湖に生きるマス達は種族保存のために、いつの時からか水量の多い春に結婚するようになってしまった。大自然に生きるとはなんと驚異的なことだろう。種族の継承のためにその婚期までも替えてしまった。なんという生命力、自然の力か。
 小川の入り口で神聖なマス達にそっと告げる。「頑張っていつまでも生き続けろ。」
 この湖は神秘の湖、そっと近づいて、そっと帰ってほしい。


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