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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森155号

2008-05-27 | 101号~200号
       ■こならの森155号■2001.3発行
表紙 「 桜と菜の花」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森4月号■


■155→

ヤンバルのー子の青春レストラン……4
結婚しました。…………………………5
佐野JC・教育フォーラム……………6
特集・花*花……………………………10
関東フォーラムとちぎ………………12
風の独り言………………………………18
現代国語辞典……………………………19
やぶいしゃのひとりごと………………20
書評/絵本紹介…………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・本・CD・ビデオ・コンサート]
各市文化会館情報………………………24
タウン情報………………………………26
安佐の人名クイズ………………………27
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30

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【本文抜粋記事】


● 三人寄ればトークショー●

『「つくる」をテーマに』
大森 彌さん
(東京大学名誉教授、千葉大学教授、自治体学会代表運営委員)
岡崎昌之さん
(福井県立大学教授、自治体学会運営委員)
高橋克法さん
(高根沢町長)
関東フォーラム栃木よりトークショーの模様をダイジェストで掲載いたします。
 トークショーに先立って三つの分科会が開催されました。その模様は次回より順次掲載の予定です。


司会 今日は、栃木県高根沢町で「つくる」をテーマにフォーラムを開催します。さて、分科会壱は、「環境をつくる」をテーマに生産者と消費者、都市と農村を結ぶ視点、ゴミ問題や流通との関わり合い、そして、二十一世紀に残したいものについて考えてみたいと思います。それではコーディネイターの岡崎先生にマイクをお渡ししたいと思います。

岡崎 環境という言葉事体は、幅広い意味を表わしていると思います。今日はそれを全てカバーするようにはいかないと思います。
 新潟県高柳町の春日さんは都市と農村を結ぶ農山村の環境をどうするのか。これからの農村と都市との交流でどういうふうにそれを新たに構築していくのか。そして、地元の高根沢からは、これも最近始まったばかりではありますが、周辺の市町村からもなかなか高い評価を得ている、消費者と生産者を結ぶリサイクル、廃棄物を新たなものに作り変えていく、そういったテーマです。そして、日鼻さんは日本を代表する、伝統のあるキリンビールという会社の環境部門の責任者です。生産者と消費者のあいだを環境という言葉を介してお話頂きます。
 まず、春日さんからお願いします。
春日 新潟県のじょんのび高柳からきました春日です。パンフレットにある「じょんのび」というのは、地元のお国言葉なのですが、のびのび楽々、気持ちいいという言葉になろうかと思います。
 「気持ちいいところだね」といわれるような、そういう土地柄に高柳をしたい。本当に縁あって生まれたこの土地で、楽々のびのび暮らしたい。そういう生き方をしたい。こう考えています。
 高柳町は昭和六十年から、これからの高柳の生き方、生き残りはこういうのではないか。行き着く先はこうじゃないかということを若い人たちが議論し、行政も一緒になりながらの取り組みをしてきました。六三年にはそれを少し組織だて、協議会とした。地域で頑張っている四十人。役場の若い人十人、助言者の先生方七人に入って頂いて、二年間に延べ二百回もの検討を頂いたり、集落の人と懇談会を開いたり、先進地へ見に行ったり、ということをしました。
 ここで少し、町の状況を説明します。平成六年から『じょんのび村』という、コア施設を手掛けてきました。そこを中心に、それぞれの集落で個性ある取り組みをすることによって町全体がさらに元気になる。そういう集落の取り組みをする。今年の三月二六日、これまでの取り組みの総括をしていただきました。行政が自分達の計画、議会からのビジョンに基づいた計画を作って、それを行政が総括をしたのでは、あまりにも手前味噌である。ということで全町民へのアンケートや六十人の方にヒアリングをしました。それには私ども行政は一切タッチをしません。早稲田大学の学生さんから、町民のアンケート内容、ヒアリングの内容などを発表していただいて、町民の方々のいろいろな意見を得られました。
 これまでの十年は、都市と高柳町との交流をいかにして作るかという十年であった。これからの十年は、今度は、おいでになった方々と集落で暮らしている人々の暮らしを結ぶような十年にしていきたい。交流ということをテーマに掲げている。お互いに取り組めて良かった。そういう生活に結びついた交流に取り組んでいくことが大切ではないか。町民アンケートでも五割くらいの方々が、これまでの取り組みについて好意的に受け止めています。私どももホッとしているところであります。
 これまでの取り組み、都市との交流の中で感じていることとして、今、私が大事にしていることを申し上げます。今までの私どもは、地域のものを売るため、地域の特産品なり交流施設に人が来て頂くための活動をしてきました。原点に返って考えると、自分達がこの村で、この町で生まれて、「ああ、これだから高柳はいいよね」「これだから、ここで暮らしていく意義があるよね」という心の拠所を見失わないようにしたい。
 もちろん食べていかなければいけないわけですが、心の拠所を持たなければ当然、食べていけません。経済活動も含めた近代化の取り組みの中で、食うためのことをやっているわけです。一つには自然です。町では今ブナ林の購入をしています。町の林にすれば誰からも切られる心配はない。ブナ林の中の観察もやっていく。
 それから生活文化の面では、茅葺きの集落をみんなで力をあわせ、県や町からも応援してもらって、保全しています。それは見せるためのものでも、売るためのものでもないんです。自分達は茅葺きの集落に縁あって生まれ、その中で暮らしてきた。「茅葺きの集落の中で生活してきて本当に良かった」という暮らしをこれからも創り続けていく。そのために茅葺き集落をしっかりと保全しておく。
 そして「食」です。地元のものをいかに美味しく食べるかということをもう一度考えよう。美味しく食べるという努力をしないと、駄目なんです。
 今、勉強会でやっていることは、春とれるものは春一生懸命食べる。夏とれるものは、夏一生懸命食べる。その季節、季節でとれるものをしっかり食べれば、一年間その土地で暮らしていける栄養はいただける。大切なのは、その中でいかに美味しく食べるかです。
 平成二年からは学校給食でも地元のコシヒカリを使っています。平成三年から野菜も地元でとれるものはそれを食べてもらっています。学校給食でも生産者を招待し、ニンジンのおとうさん、ジャガイモのおとうさんと。その土地に誇りを持つには、その土地の美味しいものをちゃんと食べる。そして自分達の大事な子どもにも、それを伝える。そういう農産物がとれるような環境をみんなで作っていくということが大事だと思います。
 それから集いと交流です。これはイベントなどもそうですが、人を呼ぶためのイベントではなくて、自分達が楽しむためのイベントです。そこで自分達の気が合う仲間と一緒にダンスをしたり、歌を歌ったりという考え方です。町の三大祭りの内、二つの企画運営は(お金は町の方で出すのですが)町民の方にして頂いております。一つだけは、町の行事として私どもが企画しております。
 それから純産品。この季節にはこの野菜、この山菜を食べる。これが高柳の味だよね。美味しかったよね。こういったものが今だんだんとなくなっている。やはりこういったものをしっかりと作れる。そういうことが大事じゃないかと思っています。
 それともう一つ。私達はポスターについても、「来てください」という言葉を使わないようにしよう。売るため、人を呼ぶための取り組みは薄っぺらで、直ぐ色褪せてしまう。都会の方は、薄情とは言いませんけれども、移り気なんですよね。
 ここは飽きたから、他へ行こうかと。それに合わせていたのでは、自分達の姿を見失ってしまう。自己表明をしよう。「自分達はこういう考え方でこういうふうに生きている。高柳はこういうところです。茅葺きの集落にしても何もありませんよ。お出しできるのは、地元でとれる野菜と、米と風景だけです。それでもよろしかったらおいでください」。先に自分達の素性を明かす。そういうことをしています。    
 一つのステップから地域の人たちがいろいろな活動を、地域でやってそれが積層し重なりあって、深みのある魅力をつくり出している。それが、都市と農村の長い交流を可能にするのではないのかなと感じています。
 人口は現在二五〇〇人。昭和三十年のピーク時は一万七千人いました。周りは、海側の柏崎市と十日町に挟まれています。雪は二メートルから三メートル、多いところでは四メートル。高齢化率は四十%を超えています。

岡崎 それでは、次に日鼻さんの方から、お願いします。

日鼻 私は今、社会環境部に属しています。立場は、環境対策の企画、立案、支援です。東京工場では醸造部長をやっていました。
 皆様の健康、楽しさや快適さを保つために、おいしいビールを作ってきました。非常に良いことをやってきたと思っておりました。社会環境部に来まして、地球環境を切り口にいろいろ整理してきますと、ビール工場の醸造部長というのは非常に悪いことをやっている。法律的には違反はやっていないが、地球にとっての悪さ加減が大きい。エネルギーをたくさん使うとか、廃水をいっぱい出すとか、ビール粕などの廃棄物をいっぱい出す。これらのことについて、適切に対策をとって来たわけですが、地球を切り口にした場合には気になることが多く、今それを改善しているところです。
 地球環境問題を踏まえて、国をあげて循環型社会を構築しようということで進んできています。当社もそれに向けた対策をとってきています。例えばISO14001を認証を取得していますし、それからゼロミッションですね。ビール工場は全部、いわゆるゼロミッションを達成しています。それから地球温暖化防止のための二炭化炭素の排出削減を、目標を決めて進めています。それから情報開示、教育啓発。社内だけではなくいろいろなところ、小学校、中学校という学校にたいしての支援もしています。
 ご存じのように、ビールは原料が大麦とホップと水です。それから酵母。こういった原料は、まさに自然の恵みです。だからこそ地球を大切にしたい。そういう思いがあります。
 ビールの製造工程というのは、自然界で行われている発酵の現象を工業化したものです。ですから使っているものは、薬品とか金属とかそういったものではないんです。比較的、環境的にはめぐまれた製造をしている。しかし、出てくるものが多量ですから、うまく対応しないと、環境の大きな負荷となってしまう。「次世代の子供達に、今の地球を残していきたい」というような思いでございます。
 こうした環境対策というのは企業の活動の一つであり、こういうことをやっていかないと企業は生き残れない。企業活動を適切にやっていくために、地道に活動をし
先端的な技術分野へチャレンジもやっております。例えば燃料電池です。環境に優しいエネルギーを作る設備を導入している。
 素晴らしい栃木県の環境の中で、特に高根沢のような環境を大切にする地区に私どものモデル工場がある。共に情報を共有化しながら何ができるかということを、ぜひ考えていきたいと思います。

岡崎 
 それでは、次に地元の鈴木さんの方からお願いいたします。

鈴木 開催地であります地元、高根沢町役場の鈴木と申します。高根沢町は過去からいろいろな事業を展開してきたわけであります。
 全町圃場整備事業や構造改善事業による営農集団の育成と併せて、農村農業の再構築を目指して、お祭りの復活とか、いわゆるハードとソフトを含めてやってきたわけでありますが、やはり農村から変わっていかないといけない。そういうことで平成六年に、リフレッシュビレッジ、「元気あっぷむら」というのを造ったわけです。
 これは都市と農村の交流を通じて新しい農業形態が創設できるのではないか。それにはアンテナショップとかがいろいろな形であったわけですが、例えば、高根沢町がアンテナショップを作ってそこへ年間、相当数の人が他から来て頂くとしても相当費用がかかる。そうであるならば、お客さまが町に来て頂いて、町を知って頂くのが一番良いとの考えで施設整備を進めました。農村の風景を利用した中ではじめて意義が出てくるのだろう。高根沢町へ来て、その風土の中で食べて頂く。その結果、米が美味しい、農産物が美味しい。おいで頂いて、そうした高根沢町の良さを知って頂くことが大切です。
 メニューの方も変わっています。みんなが元気になって欲しい。訪れた方も元気になってほしい。また、地域の方々も元気になってほしい。という形のメニューとなっています。
 いずれは、こだわりということで健康指向や自然指向に沿っていくつもりです。
 この「元気あっぷむら」の仕組みで一番大きいことはサテライトシステムということです。農業や農業施設の総てのものを有機的に結合しましょうということで、各集落で行っている村づくりの加工所や直売所、施設園芸農家などや商工業者などの商店と結合する。
 リフレッシュビレッジ構想により総てを計画していますが、最終的には農産物にもこだわっていきたい。農産物の価格の低迷ということですが、それをどうにかできないか。新しい農業形態、そして消費者の動向を捉え、その結果、有機なりに進んで行くという見通しの中で、問題解決に取り組んでいます。一般的には、生ゴミの取り扱いは、他の市町村では環境サイドからそれぞれの消費者の方々の要求をリサーチして処理していきますが、高根沢町では農業をとおして、「地産地消」によりまちづくりにつなげようとしたわけです。
 まちづくりの基本計画の中にゴミの問題がある。消費者が出しているゴミを土づくりセンターで受けて、酪農の方の糞尿を入れて有機質の堆肥を作る。それを使って有機などの美味しい農産物を農家の方に作ってもらう。今度はそれを町内の方に食べてもらう。
 いわゆる、ゴミでもってまちづくりができないか。一番悩んでいるのが給食です。やはり高根沢町は農村地帯です。ほとんど米が主力の町です。ですから、まず自分達が作った米を自分達の子どもに食べさせたい。そういうことで、給食のルートを作れないか、という検討をしています。土づくりセンターができることによって、それを大きく位置づけできる。また、町の生活も変わっていくし、いろいろな試みもできるものです。
 昨年の農業基本法を受けて、今各地で一斉にマスタープランを作っています。私どもも、平成二二年くらいをめどにした、生産コストの低減、有機農業、美味しい農産物の生産提供などをテーマとしたマスタープランを作ろうと一生懸命やっています。まず農民の方が元気になって、頑張ってほしい。
 今までは農産物が消費者のために町を横切って入ってきた。そうではなくて、農村(ここ)から市街地を繋ぐようにする。そういう仕組みが一番大切かなと思います。
 話は前後しますが、五月十五日の「食を考える協議会」でも、いろいろな意見が出ています。例えば、全国の学校給食を通じて食の安全性を学ぶことも大切とか。学校給食を充実させよう。子どもの食生活の重要性を教え、その中で地域の旬の農産物を大事にする。
 NHKの方がおっしゃったのは、どこの国も自分のお国の食材、農産物を大事にしている。そしてそれを食べている。やはり輸入に頼っている日本の現状をどうにかしないといけない。
 いずれにしても、この土づくりセンターができることによって安全で、安心な農産物がきちんと生産できる。それが大切なことです。
 それから高根沢町の都市と農村の交流。従来の考え方、極論から申し上げますと消費者と生産者がいて、生産者の方にリスクがある、と個人的には思っています。
 新聞などを見ますと、消費者が農家から前払いで直接農産物を買っている。そういう仕組みがアメリカなどで行われている。地域を支える農業を市民運動で行っている。今までと形態が違った中で、生産者と消費者が互角となった中での取り組みで地域農業を支える。そういう考え方にしていかないと、共生はできないのではないか。そのためにも、まちづくり関連に対しては、考え方も含めて早期に達成していきたいと思います。

岡崎 ありがとうございました。
地元の方も多いのですが、他から来ている方のために農業の概略、作物であれば何が中心か。それから土づくりセンターを運営していくためには酪農家、牛が必要ですが、だいたいどれくらいのボリュームか教えてください。
鈴木 高根沢町の農業でありますが、水田が四千ha。殆どが米、麦、大豆作り農家が中心です。首都圏に近い、立地条件が良い。また、どんな農産物でもできる。土づくりセンターの原材料としての家畜の糞尿は土づくりセンターが管理しているということではなくて、酪農組合の方が管理してる。全体で五十戸くらいなのですが、連携しているのは三二戸の農家です。総数にして五千頭くらいの牛で、連携しているのは約千八百頭くらいになります。
 土づくりセンターでやるというよりも施設をみんなで支えていく、そういう形態にしています。ですから町の施設であるだけでなく農家の方の施設でもある。そういう位置づけをしました。

岡崎 ありがとうございました。
(後略)

こならの森154号

2008-05-26 | 101号~200号
       ■こならの森154号■2001.2発行
表紙 「桜草(ブルー) 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森3月号■



■154号→

ヤンバルのー子の青春レストラン……4
結婚しました。…………………………5
佐野JC・教育フォーラム……………6
特集・関東フォーラムとちぎ………10
風の独り言………………………………18
現代国語辞典……………………………19
やぶいしゃのひとりごと………………20
書評/絵本紹介…………………………21
インフォメーション……………………22
 [映画・本・CD・ビデオ・コンサート]
各市文化会館情報………………………24
タウン情報………………………………26
安佐の人名クイズ………………………27
協賛店マップ……………………………28
こならの森から…………………………30

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【本文抜粋記事】


佐野JC・教育フォーラム
「あなたは自分の“マチ”が好きですか?
子供達にどんな“マチ”を贈りますか?」


日本ふるさと塾 主宰 
萩原 茂裕さん


中里 今年3月に佐野青年会議所が行う教育講演会の中で、萩原先生には「ふるさと」の良さを再認識するためのご講演をしていただく事になっております。また、先生は日本ふるさと塾を主宰されているということです。そこで、先生の出身は旭川ということをお聞きしましが、生まれ故郷の旭川の「ふるさと」という感覚と、こちら(埼玉)の「ふるさと」という感覚の違いというか、どちらが先生にとっての「ふるさと」なのか、まずお聞かせ願いたいのですが。

萩原 それは未だに旭川ですね。旭川のことは一番心配になります。ですが、現在、私の票田は日本ですから旭川にはもう戻れないのです。以前に「市長に出てみたら」という話がでたことがありましたが、首長になってマスコミに取り上げられて、日本中講演に周る人がいますがそれは違うと思います。票は地元からもらっている訳で、市長になったら外に出るのはおかしいと思うのです。そういう人は日本中にたくさんいますが。

中里 そうすると、先生にとっては日本中に「ふるさと」があるという発想なのでしょうか。先生が感じる「ふるさと」とは、全国の色々な地域の人々と、心と心の触れ合いや感動といったものをあちこちで改めて味わいたいということなのではないでしょうか。

萩原 他にいけば教わります。座っていたら教わりません。また、私はお金を頂いたうえに勉強させて頂いているということは、凄い事だと思います。なかには子供に教わることもあります。もうひとつは、私自身、年上の人よりも年下の人との接触が多いので、尚も勉強になります。だから年を取っていられないんです。

中里 ですからいつまでもお若いわけですね。それと、今の学校の現状や社会問題のなかで「自由と規律」或いは「自由と管理」の関係が問われております。欧米のほうでは「個人を大切する」というような捉えかたをするようですが、ところが、日本の場合は「自分だけよければよい」というような感覚になってきてしまったような気がします。そういったことは、規律の中で学ぶべきものだとは思うのですが、そのような「自由と規律」の関係をどう学ぶべきものなのか、またはどう思われてますか。

萩原 「自由と規律」というなかの「自由」を勘違いしていると思います。個人の捉え方が日本の場合は少しずれていて、日本の「自由」はもらった「自由」ですが、ヨーロッパの自由は勝ち取った「自由」なんです。それは何のためなのかというと、国のためにです。日本の場合の「自由」は自分のためなんです。その違いがかなり開いてくるわけです。自分さえ良ければ良いと言ったような。だから、自分だけよければ良い訳ですから「要求」なんです。その違いだと思います。つまり、勝ち取った自由と貰った自由の違いだと思います。

中里 私は最近「私たちが生きた世紀」という、世紀とはどういう100年だったのかが書かれたエッセイ集を読みました。戦争体験をされた方の話が多いのですが、それを読むと、戦時中は強制的だったかもしれませんが、家族や国を守るためにという思想があったように思います。それが当たり前の感覚だったのかなと思います。ところが現在はそういう感覚があるのでしょうか。子供達が関わる色々な凄惨な事件が数多くありますが、日本人は、今後どのようにしていったら良いのでしょうか。

萩原 その時はどうなっていたかというと、戦争は家族とか国を守るというのが普通だったのですが、現状は親・子供のために、地域のために、国のためにという事がすっかりなくなってしまったという事です。意図して占領した国がやっているかもしれません。変な考え方をするとですけど。最近私はよくこの話をするのですが、ある国を無くそうと思ったら時間はかかるけど、戦争をしなくてもいいんです。教育からやっていけばいいのです。その国を嫌いにさせる教育をしていけばいいのです。そうすればその国はいつか絶対に無くなります。

中里 そうですね。最近では国歌を歌おうとしない若者が増えていますからね。

萩原 日本の素晴らしさを日本人の多くは気が付いていない。だから皆、海外へ出て行った子供たち、大人たちが帰ってきてから日本の偉大さが分かるということです。日本は島国です。他の国は一歩踏み出せばよその国ですから国際感覚は分かりますが、日本はそうではないので国際感覚が分からない。ですからどこかの国が意図してやっていることだと考えたら、非常に恐ろしいことだと思います。それは国のために、地域のためにという発想をなくされたと思います。それと最近思うことは、昔語りをしていないということです。昔は家庭のなかに三世代も生活していた訳ですから、おじいちゃんやおばあちゃんの苦労話を聞かせてもらいました。今はその話も聞けません。おじいちゃんおばあちゃんと繋がってないのですから。長い歴史の繋がりというものを知りません。それと私が最近気が付いたことは、年をとった年配の方は体のどこかが悪くなってきてもそれを隠すことです。これは隠してしまってはダメなんです。そういう時は孫たちに教えないといけないのです。そういうことが無くなってきてしまった。しかしそういう世相をつくったのは我々の責任だと思います。

中里 今、「新しい教科書をつくる会」という運動があります。現在は、日本の歴史について、自虐的な叙述で犯罪者扱いの表現しかしていない教科書が多いそうです。栃木県の中で『安佐地区』の教科書が一番ひどいと言われています。確かにそういった戦争はありました。悪い事は悪いと謝ることは大切ですが、日本人には、神仏を中心とする精神的な良い考え方もありますので、そのあたりの正しい歴史を教えていないのではないかなと思います。

萩原 自分の国を悪く教育する国はありません。あのロシアでさえ自分の国を自慢している訳です。国を滅ぼそうとする意識が働いてるのかもしれませんが。生まれたところを本能で好きになるわけですが、日本の場合はそれを壊してしまっている教育があると思います。

中里 色々な外圧でそうしているのか、先ほど先生が言われました国を滅ぼそうという意識が働いているのかもしれませんね。

萩原 最近ここへ友人のお嬢さんが来て、本人が言った言葉は「私は日本に帰ってきて5年経ちましたが、大変ショックを受けました。それは日本の子供たちが自分たちの国を自慢しないことです」と言われて、そのとき私は気がつきました。私が学生時代ですが、先生に「戦争で敗れて無くなった国は沢山あるが、戦争に敗れなくても無くなった国がある」と言われたのを思い出しました。なぜ敗れていないのに無くなったのかというと、「ある国がその国を滅ぼそうとして、その国の子供たちに自分たちの住む国を嫌いになってしまう教育を続けていったら100年、200年後には無くなる」と言われました。まさしくその渦中に日本があるのです。それをみんなが気が付いていないのです。

中里 そこで、特に先生にお伺いしたいのですが、これからの子供たちに、どういう形で日本人の良さを伝えていったら良いのか、日本の自慢出来る部分を子供達にどう表現したら良いのかお聞かせ願いたいのですが。

萩原 その前に日本は昔、他の国から「日本のここが素晴らしい」といったように、色々と誉められたところは沢山あったと思います。そこから勉強するべきだと思います。世界の目から見たら日本という国にはどういう価値があったのか。そうすると、日本という国は礼儀正しいとか親切だという評価をされていたかと思いますが、それは一体どこなのかということです。昔の人には武士道というものがありましたが、そういうところを勉強するべきだと思います。日本人の良さはそこに出ていると思います。そういう勉強は今は無いですね。

中里 「お互い様の心」や「おもてなしの心」といった日本古来の精神文化ですね。

萩原 そうです。そのころは周りを考えての生活というものが沢山ありました。色々な教育がありましたから、これからはそれを噛み砕いて話してあげることが教育だと思います。それと、他人のために流す汗で勉強できるということもあります。昔はそういう教育がありました。例えば瀬戸大橋が掛かりました。これは誰が掛けたのか。国民の税金です。そこで瀬戸大橋にありがとうという教育をすればよいわけです。今はそういう教育がないと思います。
 アトランタオリンピックが始まる前の年のことですが、農業共済組合の月刊誌の原稿を頼まれてまして締め切りが迫っておりました。そのときに、テレビで千葉の幕張にて開催されていた、国際柔道選手権の試合を見ていましたら、そこで日本の選手が負けました。外国の選手は握手してきたり抱きついてきたりしますが、日本の選手は全員それを振り払って、ふてくされたように帰っていくんです。そこで私が昔、先生に言われたことを思い出しました。「柔道・剣道は日本のお家芸で、基本は心・技・体だぞ。試合に負けても勝っても試合をさせてもらってありがとうという気持ちで挨拶することが基本だ」ということです。案の定、日本の選手はオリンピックでは惨敗してしまいました。

中里 私も剣道の経験がありますが「礼に始まって礼に終わる」ということを教えられました。それが武士道だと思います。全てのことに感謝ということで、家庭の中での躾ということにおいても親が示していかなくてはならないと思います。最近は、ありがとうと言えない子供というのも大きな問題だと思います。先ほど先生がお話されたように、日本人の良さなり昔からの伝統文化やその心というものを少しでも広められるよう、私の家庭でも実践していきたいと思いますし、青年会議所メンバーの家庭のなかでも一人ひとりが実践してもらいたいと思います。そういうところから「個人」と「おおやけ公」或いは、「個人」と「団体」の調和する関係について考えていきたいと思います。

萩原 私は、全部が教育だと思いますが、先日電車に乗っていましたら隣の席でまだ小学生くらいでしょうか、男の子と女の子そしてお母さんの家族がおりました。そのお母さんが週刊誌を読んでいたところ、雑誌のなかでヌード写真が出てきました。そこで娘さんが「おかあさん、いやらしい!」と言ったわけです。そこでお母さんはこういいました。「お母さんはそう思わないわよ。とてもきれいだと思うわよ!」これぞ教育だと思います。すごい教育だと思いました。

中里 そういった教育を私たちも実践していきたいと思います。先生におかれましては今後とも、様々な日本の良さを国中で発信して頂ければと思います。特に、3月の教育講演会ではその部分のお話を宜しくお願い致します。本日はお忙しいところたいへんありがとうございました。

プ ロ フ ィ ー ル ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
萩原茂裕(はぎわら しげひろ)
 昭和4年(1929)北海道旭川市生まれ。経営コンサルタント時代から、一つの企業だけが良くなるだけではなく、地域全体が良くならなければと考えて地域開発を手がける。まちづくりは人づくりを唱え、現代の松下村塾たらんとして日本ふるさと塾を主宰する。国内飛行便利用回数年間平均約150便という数字が活動状況を物語る。
 大宅壮一マスコミ塾優等貰、蓮沼門三社会教育奨励賞受賞。「手づくりのふるさと」「日本人とまちづくり」「レッツ・ラブ運動の展開」「第四の教育」上・下「お互いの力でまちづくり」「あなたはふるさとが好きですか」等の著書がある。


こならの森153号

2008-05-25 | 101号~200号
       ■こならの森153号■2001.1発行
表紙 「 花博にて+2001年の文字」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森2月号■

3p としこの巻頭詩
4p やんばる
5p 結婚 古川さん夫妻
6p-9p JC通信
10-17p 東武佐野線ロマン
18p 風の独り言
19p 現代国語辞典
20p (新)やぶいしゃのひとりごと
21p 書評・絵本紹介
22-25pインフォメーション98
26-27pクイズ/タウン情報
28-29p 協賛店・MAP
30p こならの森から

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【本文抜粋記事】

東武佐野線ロマン
 こならの森で、町案内をシリーズ化していた頃に、写真にあるような可愛いアーチ型のレンガ造りのミニトンネルを見つけた。何となくオシャレでその他にレンガ造りの建物があったりしたら、どこかのレンガ造りの蔵のような景観であったかとも思われる。だがその時はただ単に町案内という記事だけでその他のことは浮かばなかった。しばらくしてそんなことは全く忘れた頃に、あるレンガ造りの高架橋を何気なくカメラに収めた。出来上がったものを見て、はたと気がついた。そういえば別の高架のものもレンガ造りだったような………。そんな思いでカメラ片手に探索行脚が始まったのだった。
 まず久保町にある東武線の高架から。そしてすぐ隣の例幣使街道にある高架橋へ。やっぱり橋桁らしきものはレンガ造りなのだ。中までレンガなのかコンクリートなのか、何かのものに飾りとしてレンガをはっていてそれらしくしているのかは、わからないがともかくレンガなのは間違い無い。それからさらに一本向こうの高架にもいってみる。やっぱりレンガなのだ。これってもしかしたら東武線の高架ってみんなレンガ造りなの?
 最初に浮かんだ思いがだんだん実感として捕らえられるようになってきた。
 さらに北へ向かっていくと、最初に紹介した丸アーチのトンネルに出る。他のどれよりもオシャレだ。実際には、ここだけ特別と思えるつくり、デザインだ。さらに北へ行くと背の高い高架に出る。それもやっぱりはるか高いところから下までがレンガ造りである。
 しかも真下から見てみると紅白でデザイン的にもどこかの国の国旗のようであって、サイケティックな感じもする。さらに北へ、JRを超える高架はどうなっているのかと向かった。しかしここで残念なことに夢が破れかかった。やっぱりレンガのコンセプトは無かったのか。無念な思いで線路まで車を降りて向かった。写真でもお分かりの通り、コンクリート造りなのである。
 高架まで道路はおろか小道さえ無い。草原をあるってやっと高架の下までやってきた。するとなんということだろうそこには新たなる発見がまっていたのだ。車から見ていた側は新しいコンクリート製のものだが、車から見えていなかった反対側の壁は今まで通りの造りのレンガであったのだ。(何ごとも諦めずに調べてみなくてはいけない…これ教訓)。
 ここでいったん市内へ戻ってみる。東武線と国道50号線が交わる高架はどうだろうか。ここもレンガに決まっている。だがその楽観論はもろくも崩れてしまった。先のJR方式のように、基本はレンガ造りでその後の増築でコンクリート造りとなったのでもない。レンガをコンクリでおおったのだと思ったが、反対側を見てみてもその痕跡すら発見できなかった。
 どこからみても近代的な工法のようにしか見えない(もちろんこれには大きな勘違いがあるのだが)。ここに来て最初の思いが途切れてしまった。
 やっぱり大正ロマンとかそういったものはこんな小さな地区にはなかったんだ。当時の鉄道は華やかで駅舎にもロマンティックなデザインを取り込み象徴的でシンボリックな存在だったに違い無い。そして統一性や手を抜かない全体的なデザインコンセプトがあったはずだ。そうした考えが全てもろくも崩れてしまった。
 本来はこの辺で止めるつもりだった。しかし、これには何らかの理由があるはずだと、気を取り直してさらに先を目指した。
 次なる地点へ。高架の他に秋山川を超える鉄橋の橋桁もレンガ造りでは?。さっそく堀米町の秋山川にかかる鉄橋へ。土手に立ってみるとあったあった。本当にレンガが使ってある。
■ここで発見。
 東武線で佐野市に入ってくる先に目に入るのが『子どもの国』のロケットであることだ。そこまで計算に入れていたのかどうかは知らないが、これまた新たなる発見だろう。最近はライトアップをおこなっているということなので、この地点からの眺め、というより田沼方面から館林に向かう4時から5時前後の列車の乗客はその勇姿が楽しめるものと思う。

■こだわり
 実はその先にも高架があるようだ。ほんのちいさなものだったが念のためにいってみた。やはりそうだった。こんな小さなものにまでもレンガが使用されている。しかも道路は線路の下を潜っていくものであった。ここでは使われているレンガの量も少ない。わざわざこんなところにまでレンガを使う必要性があったのか。いわば効率を考えれば、他のものでも良かっただろうに、ここまでレンガにこだわったのは、よほどレンガがあまっていたか、もっとも安い材料だったのか?(そんなはずは無いと思うが)施工が楽だったのか、その他かも知れないが、なんだが取材者としてはこだわりを感じてしまう。
 現時点では『東武線レンガ説』の結論は出ないわけだが、今回はこれまでということに。




こならの森152号

2008-05-24 | 101号~200号
       ■こならの森152号■2000.12発行
表紙 「 三毳山の朝」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森1月号■


3p としこの巻頭詩
4p やんばる
5p 結婚 古川さん夫妻
6p-9p JC通信
10-17p 旧谷中村を歩く
18p 風の独り言
19p お店情報
20p (新)やぶいしゃのひとりごと
21p 書評・絵本紹介
22-25pインフォメーション98
26-27pクイズ/タウン情報
28-29p 協賛店・MAP
30p こならの森から

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【本文抜粋記事】

渡良瀬遊水池
『旧谷中村を歩く』
■谷中村を歩く
 少し肌寒い中、『こだま会』のメンバーは渡良瀬遊水池にある旧谷中村跡に集まった。今回は、こだま会のメンバーと一緒に、晩秋の谷中村の遺跡のようすを紹介する。
 曇り空の中であったが、元気に歩き出す。歩いて少し運動をするにはちょうど良い気候でもある。いつになく70名以上の参加者だ。今回は、谷中村保存会の針谷さんのガイドで園内をめぐる企画。こならの森でも幾度となく紹介してきたが、公園として整備されたのちにやってくるのはひさしぶりのことだった。
 旧谷中村役場跡に新しく作られた東屋で説明を聞く、~村を捨てていった人々と残り続けた人々の葛藤。どんな思いで村を後にしたのか。時代の流れの中でほんろうされる人々。そうせざるをえなかった人々の思いが語られた。
 当時の民衆と今の民衆ではその姿が、あまりにもかけ離れていて想像するのは難しい。民主主義の20世紀、そして来るべき21世紀に向けてその原点とも言える、谷中村にこられたことは何か作為的な、あるいはある種の意味を感じる。新しい地域や郷土を考える上での原点でもあるのだ。郷土の偉人田中正造の人としてもここが原点である。これは21世紀になっても、変わらないものであろう。
 旧役場前を過ぎて、道なりに進む。十数年くらい前訪れた時は案内版もなく、ただ呆然と広がる野原だけのところだった。背丈以上の葦が一面に広がり、先も見えなかった。そう考えるとは今の風景はゆめのようでもある。

 遠い過去の『戦い』も夢のごとしで、リアリティがないのはいかしかたないところか。
 どういう指向か雑踏の中を寺院跡まで、枯れ草をかき分けて向かう。何かあるのだろうと言う期待感とは裏腹に、行き着く先には何もなかった。進めど変化はない。それは、谷中村村民が通ったであろう先の見えない『同じ道』のような気もした。
 映画や小説、伝記などの記述と今ここにある現実とはなんとかけ離れたことか。そのことのギャップをいつも訪れるたびに感じる。
 遺跡周辺には、野ぶとうが一面に咲いている。食べてみたくなるほど美味しそうな実だが、可食できないのだそうだ。一見山ぶどうのように思えて食べてみたくもなる(実は著者は口に含んでしまったのだ)。ルビーやエメラルド、もちろんの野のもの。でもこの野のものというキーワードが正造らしくてマッチしているように思う。正造のイメージカラー(そんなものあっか)は、野ぶとうだと思う。野人、正造とその聖地に咲く野ぶどう。本当にマッチしている。それに出会えただけでも何か新しい発見に遭遇したようで、楽しい気分になった。 さらに進むと、寺の跡にでる。何もない遺跡の中で何かそれらしい象徴的なものがある場所はここだけだろう。
 歴史に残る墓標はこの地である。
 曼珠沙華の葉が一面に広がる。もう花の盛りはとうに過ぎているのだが、開花の時期には咲き誇って見事だと針谷さんはいう。
 それから、谷中湖の道路まで出る。そこには、今までの歴史的な風景から、うって変わって一面人工的な、画一化された風景画広がる。水も淀んで見えた。ちょうどこの日には、遊水池マラソンがおこなわれていた。遺跡の説明中にも、園内をめぐるスピーカーからけたたましいアナウンスが流れ話が聞き取りにくくなる場面もしばしばあった。
 ランナーがこだま会のメンバーをおい越していく。
 ここで、遺跡の案内は終わり。
 メンバーはまだ歩きたらなかったのか、ゆっくりとマラソンランナーたちに向かうように、さらに先の谷中湖まで歩いていった。


こならの森151号

2008-05-23 | 101号~200号
       ■こならの森151号■2000.11発行
表紙 「星空と少年 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森12月号■


3p としこの巻頭詩
4p やんばる
5p 結婚 古川さん夫妻
6p-9p JC通信
10-16p 川の博物館
17p トピックス
18p 風の独り言
19p オープン情報
20p (新)やぶいしゃのひとりごと
21p 書評・絵本紹介
22-25pインフォメーション98
26-27pクイズ/タウン情報
28-29p 協賛店・MAP
30p こならの森から

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【本文抜粋記事】


ちょっとそこまで
『川の博物館』


川の博物館
 大水車が自慢というふれこみで訪れた博物館。これもやはりテーマパーク?という位置づけなのでしょうか。でも、記憶に新しい「東京で起こっても不思議じゃ無い」という、名古屋の洪水の例を引くでもなく、平和な時には実感できない川とその荒れ方、災害時の規模とその対策などあらためて実感できる施設である。名古屋のあの災害があって本当に新鮮味を持って受け止められるようになったと思う。
 距離的にはほんの数時間(と思えた)。大水車が目印と言うことだからとにかく行ってみればいいだろうと、むかったもののそれらしき水車は風景の中からその姿を現さなかった。今にして思えば当たり前だと思える。日本最大といってもたかだか30メートルの規模。
荒川と平行に走っているのにそれらしき施設は発見できない。方向音痴に陥ったのかという錯角の中、ひたすら走る。やがてありがたいことに目指す施設の標識が表れ、間違っていないことに気がつく。
 どうしてここに来たのかはともかく、『川』というものをテーマにした施設をこさえようという発案に感心した。規模的にはそれほどダイそれていない。それにもかかわらず、内容は充実していると思える。もちろんここまで来たのだからその期待を裏切ったらここで取り上げてなぞいないことでしょうけれど………。
 人々が川に関わった歴史が多角的に展示されている。荒川山系を形度った模型はその規模といい圧巻だ。入園は無料。その他の施設は有料。なんといっても一番に展望台へいってみることをお勧めする。ここからの眺めは逸品だ。荒川の流れも見える。川の流れによって削られた、川肌や崖などのようす、蛇行する雄大な流れなどが立体的に見える。
 本館内には展示ブース、地下施設、コンピュータールームなどがある。洪水のおこるようすや、被害の状況などのシュミレーションもあって立体的に楽しめる。
 先ほども触れたが、なんといってもメインは大水車である。風がある時などはその水しぶきが方向によってふりかかってくるほどで迫力一杯なのだ。


こならの森150号

2008-05-22 | 101号~200号
       ■こならの森150号■2000.10発行
表紙 「 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森11月号■

3p としこの巻頭詩
4p やんばる
5p 結婚 古川さん夫妻
6p-9p JC通信
10-17p 美術館めぐり
18p 風の独り言
19p 現代国語辞典
20p (新)やぶいしゃのひとりごと
21p 書評・絵本紹介
22-25pインフォメーション98
26-27pクイズ/タウン情報
28-29p 協賛店・MAP
30p こならの森から

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【本文抜粋記事】


   秋の日帰り!美術館めぐり
信州・安曇野偏&周辺散策・ドライブガイド

 信州の美術館・博物館はかなりある。「信州の博物館」という博物館・美術館ガイドに掲載されているものだけでも130くらいである。最近はブームとなっているのか、建設ラッシュで、実数はさらに増えて倍以上になっていると思われる。小さな美術館までも入れたらいったいどのくらいになるか見当もつかない。さすがは文教県と言われるだけのことはある。
 最近では、長野自動車道や上信越道が開通して日帰りも可能になった事もあって、ちょっと近くに、そこまで感覚で行けるようになったようだ。本格的利用は北関東道の開通を待たないといけないかもしれない。
 芸術の秋に美術館と観光の一挙両得の旅、これはもう出かけるしかないでしょう、これからのシーズンに。
 皆様の好評に答えて今回も企画してみました美術館めぐりの旅。
 ………と思って出かけた信州美術館めぐりでしたが、行楽シーズン中の事もあり有名な八風山トンネル他の渋滞に遭遇したり、それをさけるために軽井沢手前で高速をおりたら何のことはない、その先(軽井沢付近)までの大渋滞に巻き込まれてしまい、全く進まない。これなら高速を降りるんじゃなかったよ。しかたなくまたUターンして高速に乗り込む。でも、皮肉にも渋滞はさっきより激しくなったみたい。ノロノロであるが、進まないのよりましか。ここを過ぎればと、じっと我慢の運転が続く。時間的には、同じようにも思えるが、疲労度は違うだろうというのが感想か、なぐさめか………
 佐野から松本までは高速を使わなくても6時間というのが一般的な見方。しかし、我が取材班が穂高にある最初の美術館に辿り着いたのは午後4時だった。すべてを甘く見ていたのだ。出発時間が遅い設定の午前10時。これで、日帰りができるのかー。(まあ、まあ………編集長)
 結局所用時間は同じか。しかし、予定のコース設定が甘かったこともある。経費節約のため、あろうことが上田市から高速を降りてしまったのだ。それも手違いがあって、上田市の一歩手前のインターでである。ここで数十分はロスしてしまったであろう。それから上田の市内を抜けるのにまた一苦労。その後も、山道がつづいて疲労困ぱい。道の途中に見える、高速道路の高架が何とうらやましく思えたことか。上田市から山を超えれば、穂高はすぐそこ、そう思ったのに………
 最初の予定は、ちひろ美術館である。いわずと知れた、岩崎ちひろの美術館である。もちろん東京(本館)にもあるし、なにも安曇野までいかなくてもと思えるが、そこが違うんだな(急に相田みつを風)。
 特に黒姫にはちひろの別荘があり、俗世間から離れて創作に没頭できる空間が確保できた土地でもあるのだ。この美術館にはその創作現場となった別荘も復元されている。絵本にあるような、薪ストーブも錆まみれながら置いてあった。
 ………でもここで時間が切れてしまった?。もう夕方。高速を使えば今日中には戻れそうだが、もうその気力が残っていなかった。もろくも日帰りの予定(夢)はたたれた形だった。

■次の日。

 この『日程上』の、朝が早いのは本当にいいのだけれど、開いている美術館がない。しかたなく、ワサビ田の中の散策路を散歩する。朝の散歩のことを『単語』で言うとどういうのだろうか、『朝散』じゃないよね。でもこういうときは、あいさつがわりに何かことばがあってもいいよね。(フツウの人はそんな暇があったらアサシャンか。でも心身共に美しさを保ちたいならやっぱり「朝散」でしょう)。「アササン行かない?とかね。『ゴゴッティ(アフタヌーンティ)』があったりするんだから。
 本当に気持ちがいい。そして、また気分が爽やかになる清流。水路がワサビ田にめぐっている。
 もうワサビの採取はしていないということだが、本当にわき水の清らかさには驚かされた。付近には、民家や美術館、ドライブインなどがあるにも関わらず、澄んでいたからだ。
 近くにはガラスの美術館があったが、開館時間(ちょっと)前だった。
 豊かな清流に恵まれた扇型盆地の安曇野ではあるが、やはり夏は蒸し暑く、冬は寒いという盆地特有の気候条件地にあるようだ。

■山下清展
 スイス村では、この時山下清展が開かれていた。余りにも有名な人で佐野にも来ている。花火の大作は足利の花火を彷佛させる。
 素朴な作風と、それにもました素直な日常。それなのにどうして自然?ではない死に方をしたのか、いまだかって編者にはそのことが不思議でならない。

■豊科近代美術館
 あづみ野の山岳地の中腹には、小さな美術館がある。小粒ながら各々個性を発揮してこの地域の雰囲気にマッチしている。それは、土地に溶け込んだとさえいいえる美術館ではないだろうか。極論をいえば、安曇野の自然こそが究極の美であるのに(これ日本的な美感ね)どうしてそれ以外の美が必要なのだか。
 それがはっきりしたのは、小さな町の中を、迷いながらも探し当てた町立の美術館へいった時だ。ここで過ごした、数時間は展示内容の時間性ともあいなって、普遍的な内容となった。
 小さな町なのにどうしてこんなに素敵な美術館があるのか。ここだけ異国に来たような気分。あまり期待していなかっただけにお勧めだ。
 ここでできること、そしてそれこその空間の広がり、なんとも日本的なものが具現化される現実。小さな美術館でこそできないものがある。そのことをまざまざと見せつけられた一時であった。やはり長野は凄い。と、喜んでばかりはいられない。あなたの住む、自分の町(足元)を見れば良く分かることでしょう。
 帰りは、もう悲惨。昨日の内に帰ってしまえば良かったよと思ったほどだから……。なんであんなに渋滞するの上信越道、それも決まったところで………。


こならの森149号

2008-05-21 | 101号~200号
       ■こならの森149号■2000.9発行
表紙 「 奥日光」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森10月号■

3p としこの巻頭詩
4p やんばる
5p 結婚 古川さん夫妻
6p-9p JC通信
10-17p 奥日光を歩く
18p 風の独り言
19p 現代国語辞典
20p (新)やぶいしゃのひとりごと
21p 書評・絵本紹介
22-25pインフォメーション98
26-27pクイズ/タウン情報
28-29p 協賛店・MAP
30p こならの森から

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【本文抜粋記事】


『初秋の日光を歩く』 

 少し前までといっても20年くらい前だが、(少しじゃないじゃないか)奥日光というと、華厳の滝、竜頭の滝、中禅寺湖に男体山だけだと思ってきた。実際には、そこだけを見て帰るという人が大多数だと思う。


■奥日光の中の奥日光

 今回は、戦場ヶ原を歩くということに。もちろん何度か行った方も多いとは思う。でも何度いってもまたいってみたくなる場所ではないだろうか。上高地とか尾瀬が原とならぶ場所だとも思う。
 しかしその奥には神秘の湖、西の湖(さいのこ)や千鳥が浜などの砂浜があったりする。これが『奥日光の中の奥日光』といわれるゆえんか。この付近の存在を著者が知ったのは私が高校生の時だった(ふるーい)。その後も何度か訪れたが、やはりつねに歩っていた。
 最初に訪れた時は梅雨時の6月、当然の雨。しかし、その時のことが一番忘れられない。二輪だったので獣道をも走行できたのに、なぜかあるって中禅寺湖まで行った。当時話題だった湖畔に住んでいる人から、その先は道がないし雨もふっているからやめなさいと、さとされた。
 二度目は、まだ小田代が原経由で千鳥が浜まで行く道の通行が自由だった時。それも燃える紅葉の時。どこまでもつづくカラマツの燃える紅葉の中のドライブだった。紅葉の中にひときわ浮き立つ一本の白樺もまだそんなに有名ではなかった頃。でも、印象深い。

■やっぱり行くなら秋(これから)だ。

 今回走破したのは、戦場ヶ原のメインルートのひとつ。小田代が原をなめて湯滝へと抜けてるコース、その他にももちろんたくさんのコースがある。
 スタート地点は、バスの発着所がある赤沼。
 国道を渡り、熊笹の森の中へと。戦場ヶ原には何本かの小川が流れている。水は澄んでとても冷たい。鬱蒼と茂る木々がどこまでも続く。しかもアップダウンがほとんどない平坦地。気軽な格好でもあるけてしまうところだ。もちろんそういう人はあまり見かけないが………。
 一時間ほど歩くと、森が開ける。そこで昼食となる。遠くに男体山、他の連山が見える。
 視界が広がったのもつかの間、また密林へと入っていく。それもまたつかの間、十数で小田代が原へと到着する。ここからは木道を小田代が原を横目にみながら進んでいく。白樺林をみながらのトレッキングがまたいい。
 30分ほどで、赤沼と湯滝方面への分岐点へ差しかかる。湯滝も近い。約2キロほどの道程。
 川に沿って歩く、木陰がさわやか。釣り人の姿も見られた。清流が続く。ちょっとしたアップダウンもあった。高原というより、普通の山道といったところか。
 のぼっり切ったところには、小さな落差の滝があった。まもなく湯滝へ到着。
 帰りに、光徳牧場へ向かう。有名な牛乳をごくり。アイスクリームもペロリ。この先に広がる、刈り込み切り込みの散策道へも足をのばしてみるのもいいかも知れない。機会が有ればまた、紹介していみたい。この先は、男体山の裏側へ出られる。中腹までの林道もあり、途中まで行ったことがある。ダートである。



こならの森148号

2008-05-20 | 101号~200号
       ■こならの森148号■2000.8発行
表紙 「群馬の森 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森9月号■

3p としこの巻頭詩
4p やんばる
5p 結婚 古橋さん夫妻
6p-9p JC通信
10-13p 不透明な街
14-17p ドライブガイド 「群馬の森」
18p 風の独り言
19p 現代国語辞典
20p (新)やぶいしゃのひとりごと
21p 書評・絵本紹介
22-25pインフォメーション98
26-27pクイズ/タウン情報
28-29p 協賛店・MAP
30p こならの森から

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【本文抜粋記事】

森シリーズ
「群馬の森」
 
 こならの森はやはり「森」にはこだわりたい。
 旅の途中によく21世紀の森とか、○○の森というのを聞くようになった。こならの森以前にも、もちろん森がつく名前はあったのだが、気のせいか、こならの森創刊以後からその数が顕著に増加したような気がする。テレビでお馴染みのニュースの森はもちろん、こなら以後である。
 そこで、群馬の森である。今まで、いろいろ群馬を紹介してきたが、この「森」は佐野からも道のりでキロ圏内、かなり、思いもがけないほど近い身近な距離にあるのである。
 栃木県は日光の自然そのものを自然博物館として位置づけているが、群馬の森も自然と、博物館や美術館とをうまくアレンジしている。
 そこにはアミューズメントあり、美術館あり、フィールド、博物館etc とても一言ではかたり尽くせない施設が隣接している。それだけならいいのだが、そこを自然に利用している人々の暮し方にも個性を見つけられる。

 水のオブジェは圧巻だ、猛暑のこの季節、涼みにいくだけでもかなり有効である。それも美しい「涼」であるからすごい。
 芝の緑と、ともかくなにもない広場がまたいい。欧米の美術館、博物館を彷佛させる。あちらは、ほんとうに敷地が広く、なにもない。おおむね、美術や博物に興味がなくても「遊べる」場所として市民権を得ている、あるいは『公園』的な役目を担っていて、どうぞご自由にというシステムがまたいい。本来、美術とか芸術は………などという権威的な押し付けがいらないのである。   
 バトミントンやフリスビーをして、そして博物館を見学して。これがいい。と、編者だけは思っていたりする。
 何か日本では、決まりきった箱がこうした施設にはつきまとう気がしてならないが、そうではないと、来訪者が示している点が評価できるのだが皆様はどうであろうか。これは、訪れてみなければ分からないその場の雰囲気というものだろうか。その辺が『森』という、お題目にあっていると思える。
 ………とそこまでヨイショしてきて残念なのは、日本的なものが、たったひとつの日本庭園だけですまされているという点だろう。
 米国の美術館や博物館はその施設とは別に、広大な緑地を確保している。日本の神社も、鬱蒼と茂った林や森にまた別な思いを得るのだという。
群馬への道のりはきつい。なぜかというと安佐からそこへ行く距離そのものは短くても、太田や伊勢崎、桐生、前橋、その他の衛星都市を含めると、栃木県の宇都宮みたいに、そこへ向かうまでの迂回路が全くない状態であり、裏道が使いづらい。群馬県の人ならある程度の心得はあるのであろうと聞いてみても、答えは、『混めばどこも同じ』ということであった。
 ともかく狭い地域に大きな人口を抱えた都市が密集していて、どこを通っても混雑するという図式になっていると思う。われら安佐人は、このエリアをうまく抜けだせれば、その後の、新潟(関越道)方面、上信越方面へのアクセスが飛躍的に向上するということを実感している。北関東道でもできない限りこの悩みは続く。都市化と、インフラのバランスシートは専門家に任せるとしても、本題にかえって、近くでいろいろな『術』に自然にふれらるというのも貴重な体験かと感じる。
 芸術は全くあってもなくてもいいものです。であるからこそ総てから解き放されて、もっとも自由であるべきだ。そんな思いが森全体に感じられます。また、そんな器など感じ取れないほどに自然であることが、本来の『自然』を体感できるようです。




こならの森147号

2008-05-19 | 101号~200号
       ■こならの森147号■2000.7発行
表紙 「三滝 」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森8月号■

3p としこの巻頭詩
4p やんばる
5p 結婚 古橋さん夫妻
6p-9p JC通信
10-13p ドライブガイド 「海野宿」
14-17p 不透明な街
18p 風の独り言
19p お店紹介
20p (新)やぶいしゃのひとりごと
21p 書評・絵本紹介
22-25pインフォメーション98
26-27pクイズ/タウン情報
28-29p 協賛店・MAP
30p こならの森から

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【本文抜粋記事】
日帰りドライブガイド
「海野宿」
 佐野の例幣使街道もかつてはこうした町並みだったのだろうと思わされる海野宿。
 よくぞ今まで保存されて来たものだなと感心する。それも、人々がそこで生活しながらであるから本当に恐れいる。
 国道18号線を上田方面にいき、東部町役場前を左に入って行くのだが、大袈裟な看板がないので、前から気をつけていかないと通り過ぎてしまうかもしれない。
 夏の観光シーズン中は、車での走行ができないが取材に訪れたときは期間外で、車を運転しながら、昔に返って駕篭に乗ってという気分の走行ができた。だが、ゆっくり走っていると、後ろから車が来てしまい「のんびり」もほんの数分だった。しかし車で走っていてもその街道沿いの距離の長いこと、想像を絶する。
 車という現代的な文明の利器と、江戸時代から変わらぬ流れ行く通りの風景とのミスマッチがまたたまらない。パノラマ映画館にいるか、はやりのバーチャルリアリティ体験のようだ。唯一違うのはそれが実写(実体験)ということであろう。
 入り口と出口付近には、桝形(食い違い)がある。ここで終わりかと思いきや、第2次保存地区としてまた同じくらいの距離の街道が続いていて、二度おいしい。保存規制がきつくないのか、新しい建物がバラバラとあり、趣きにはかけるが、今風で肩を張らずに走行できるのもうれしい。逆に言えば、保存地区の方が異常区間であるのかもしれない。
 そのまま映画撮影ができるような造り。まるで映画セットの中に迷い込んだかのようだが、洋服を着て、ランドセルを背負った子どもたちが木戸からでてきてすぐさま現代に戻される。
 道路は舗装されている。人々が生活しているし、重要な道路でもあるのでいかしかたないところか。近くには、迂回する道路が造られているので、やがては昔風な道にもどるのかもしれない。
 上信越自動車道、東部湯ノ丸インターチェンジを利用すると早く着くが、国道を利用しても十分日帰り可能。余裕があれば小諸懐古園へよってみるのもいい。
 日帰りコースであるが、アレンジが可能なのがうれしい。浅間山や軽井沢なども近いので、他のスポットへも回りやすい。すぐ近くには、信州の鎌倉といわれている別所温泉へいってみるのもいい。




こならの森146号

2008-05-18 | 101号~200号
       ■こならの森146号■2000.6発行
表紙 「 のあざみ」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森7月号■

3p としこの巻頭詩
4p やんばる
5p 結婚 栗原さん夫妻
6p-9p JC通信
10-17p 特集 梅田の一番
18p 風の独り言
19p お店紹介
20p (新)やぶいしゃのひとりごと
21p 書評・絵本紹介
22-25pインフォメーション98
26-27pクイズ/タウン情報
28-29p 協賛店・MAP
30p こならの森から

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【本文抜粋記事】


樹木・清流・水源の森・桐生川源流
『梅田の一番』

 桐生の奥座敷、梅田地区は両毛の軽井沢とまでいわれている自然豊かなところである。梅田というとダム湖が有名で、そこだけが観光スポットだと思っていたが、今回さらにその先まで進んでみて初めてその良さに気づいた。
 また、こならの森5月号で紹介した、『富広美術館から、桐生に抜ける道』は、この先にある広域林道まで続いているのだった。
 佐野から飛駒経由で梅田まで向かう。時間をはかったわけでは無いが、国道50号を使って、桐生市内から梅田へ向かうより道は狭いが、山越えをした方が早く着くのでは無いかと思う。
 飛駒の先の道をさらに先に行くと、足利や桐生方面へと抜けられるが、この道を通るのもひさしぶりだ。それにしても、沿道のゴミの多さには唖然とする。清流に誘われて、車を停めようと駐車スペースを探す。適当な場所が見つかるが、停車してみてびっくり。当たり一面、ゴミの山だ。清流は相変わらず清流なのだが、ゴミまたゴミで、なんともこの状態は形容しずらい。次のスペースを探すが、空き地があれば必ず、ゴミがあるという具合で、どこまでいっても変わらない。
 やがて足利方面と桐生方面への分岐点に差しかかる。気のせいかも知れないが群馬県方面に入っていくと道路事情が良くなったほかに、あれだけあったゴミがないようにも見えた。
 道路は整備されてきているのだろうが、峠付近の道の狭さは変わっていなかった。対向車が来ると、すれ違えない。
 栃木県側から群馬県側に入ってくる。入組んだ道だ。やがて小さな集落にそばの看板。ここは『皆沢そばの里』である。ひなびた環境がまたいい。誰にも知られたく無いようなところである。
 ここで紹介してしまうと人知れずということにはならなくなってしまうが、しまっておきたくなるような場所である。地元からすれば採算がわなくなるからそうもいかねないが………。
 その先からは道路も広くなりゴミも見当たらない。すぐに『名水皆沢の水、水源の森日本百選』と書かれた看板が目に入る、塩ビ菅が通っていて、自由に水がくめる。しかし、今までたくさんゴミの山を見てきただけに少し気が引ける。標高も低くこの上に何があるのか確認もできない。
 皆沢川沿いに道を進むとやがて梅田大橋にでる。その下は、梅田ダムだ。とにかく行けるところまでいってみようと、先を急ぐ。蛇留渕では、プロらしいひとが写真をとっていた。この付近にカッパの伝説があるのもうなずけるほどの景色である。
 清流をみながらのドライブが続く。小休止して、小さな沢に入ってみた。もののけ姫を彷佛とさせる、深く暗い森。洞くつがあった。
 梅田5丁目まで行く。道も狭くなってきたので、ここでUターンする。帰路に、梅田ふるさとセンターに寄ってみた。遅かったせいか名物のうどんは売り切れだった。山菜や木の芽など郷土色豊かな物産が多くあった。
 付近には桐生和紙や木工所があるというので向かってみたが、それらしい案内は無い。もどってみると、写真にあるような『紙』と書かれた看板が目に入った。入り口らしいものもあるにはあるが、普通の民家の入り口のようにも見える。知らない人が見たら通り過ぎてしまうだろう。中へ入って行くと、家人らしき人がやってきた。「工房があると聞いたのですが………」というと、親切に中に案内してくれた。何気なく観光気分で立ち寄っただけなのに、ていねいに桐生和紙のことを説明していただけた。『和紙が見直されているが、この先の需要は未知数だ。古来からの桐生和紙の伝統を守っていくとなると、採算はとれない。だからといって、量産体制に持っていこうと考えているわけで無い』。現況は必ずしも良いとは言えないが、付加価値を高めて、生活の中に和紙が少しづつでも浸透していったら道は開ける………ということだ。ふるさとセンターで扱うことも考えられるが、一時のブームに流されたくも無いという。今の所、桐生和紙はこの小さな工房だけでしか購入できないようだ。売らんかなの看板が大々的に無かった理由がやっと分かった。
 この近くには、川沿いに一本の大木がある。梅田の一番にも選定されている。付近にある紅葉も見ごたえがあるという。
 少し先の青少年センターの近くには名水・閉篭里(とずろうり)の水がある。この他にも根本山登山道付近にある、石鴨の水。梅田ダムから桐生市街へもどった梅田一丁目にある西方寺沢の水など合計4つの名水が紹介されている。
 梅田の一番に紹介されている樹木は合計55あるが、大層な看板や案内版の類いは見てきたところ無かった。詳しくは事務局のある梅田公民館(TEL0277-32-1483)に問い合わせるか、付近の商店・食堂に問い合わせると良いだろう。新しい発見や出合いがあるかも知れない。


こならの森145号

2008-05-17 | 101号~200号
       ■こならの森145号■2000.5発行
表紙 「三毳山ほか 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森6月号■

3p としこの巻頭詩
4p やんばる
5p 結婚 小林さん夫妻
6p-9p JC通信
10-19p 特集 大小山賛歌
20p (新)やぶいしゃのひとりごと
21p 書評・絵本紹介
22-25pインフォメーション98
26-27pクイズ/タウン情報
28-29p 協賛店・MAP
30p こならの森から

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【本文抜粋記事】

新連載
やぶいしゃのひ と り ご と

著者プロフィール
松永 安優美(まつなが あゆみ)
岩舟町生まれ。
現在、社会福祉法人「裕母和会(ユーモワカイ)」会長。
   医療法人「聖生会(セイセイカイ)」理事長。
   老人保健施設「安純の里」施設長。


 ここ数年来、テレビや新聞などでだいぶ取り上げられて来た介護保険制度が、いよいよこの4月から導入され、動き出したわけです。今回は、現場から介護保険導入後の変化、又、今後どうなるかなどを少しお話ししたいと思います。
こんなに批判が目立つ法律もめずらしい訳ですが、始めての取り組みですから、今後に期待を持って、良い制度にして戴けるようにと思っております。
ただ、現場に携わる人間としては、要介護老人に対する虐待の問題をずっと懸念して参りました。しかし、その辺が予想以上のスピードで現実になって来ているようです。5月に入りたった日位の間にテレビで2例の親殺しのニュースが流れました。1例目は、介護保険導入後、施設から在宅介護へ切り変えたばかりの親と息子の家族、息子と言っても当然成人で、原因は日間の介護放棄による致死。2例目は、やはり息子との2人暮らしで、介護疲れから息子が殺人を犯した事例と記憶しております。
約9年以上前に、私が介護老人福祉施設を開設させて頂いた頃、年金の支給すら受けていないお年寄りも入居されておりました。その方々には、施設が運営費としていただくお金の中から、当時1カ月に1~2万円程度を、自由に利用できるお小遣いとして支給させて頂いておりました。そのお金を当てにして、母親に会いに来る~才位の息子さんがいたのです。定職はなかったようでした。ある時、その母親の財布には500円~1000円位しか残っていなかったので、母親が拒否したのでしょう。そのため暴力をふるわれて、持って行かれたようでした。その顔面には、明らかな外傷がありましたが、その方は、何をお聞きしても息子さんの事は言いませんでした。ただ、「何でもありません。」「申し訳ありません。」の一点張りで、治療をさせて頂きながら、それ以上伺うことができませんでした。
親殺しの事例やこの問題を見ても、形は異なっても親の年金をあてにして、働かなくなる方や、自宅介護の名目でお金の出費をおさえるなど、色々な御家庭の要介護老人に対する意識の差、又お金の価値感の差によって、少なからず虐待につながるのではないかと不安です。又、今後も様々な形で表面化して来る可能性があります。さらに、お金の自由にならない要介護老人が肩身の狭い思いをしなくてすむように、改善が必要かとも思っております。虐待の問題は、ただ介護のつらさ(介護をする方より、介護される方の方が体格が同じかさらに大きい場合は、何十倍にも肉体的、精神的負担は増加します。)から来るもののみならず、宗教感や教育、政治にまでつながる奥の深い問題ですから、根本的な改善も大切ですが、ねこをぶつよりさらを引く心のケア、気づき、対応を現場の専門家に任せて頂ける様な制度も盛り込んでいただけれは良いのかな、と思っております。しかし、個人の自由を侵害しない程度がどこなのかわからない事を考えると、今の日本では、さらに難しい事なのかも知れませんが…。問題は、今まで、施設や在宅サービスを受けていた方の大部分が負担額が増になるということ。又、介護度に応じて、負担額が異なり、さらに利用金額の上限が決まっているという、全く今までにないタイプの制度ですから、内容を御理解いただく事自体が難しい現況だという事です。
施設側から見た場合、本来、利用される方々のニーズや、法ではお救いする事が困難な事例に対しては、様々な知識や体験を駆使してプランニングをさせて頂くケアマネージャー等が、コンピューター入力に時間がかかり、本来の直接的な人を扱わせていただく時間が少なくなってしまっていたり、その他の業種についても、記録が優先するあまり介護や看護の時間が少なくなる事がない様にして頂きたいと考えております。何だか、愚痴になっている様で寂しい気持ちですが、悪い所を批判するつもりではなく、どうしたら良くして頂けるかを考えて行けると良いのですが…。
 「今日は、注射一本いかがですか。」と言って、往診カバン片手に営業する医者がいな いように、とかく医者というものは……失礼、私は経営の才能がないわけで……。
 介護保険導入とともに、在宅ケアサービスを民間事業主の方と、一緒に競走しなくては ならないわけで……。
「究極のサービス」こそが、「仁術」と一生懸命に自分に言い聞かせているのです。




こならの森144号

2008-05-16 | 101号~200号
       ■こならの森144号■2000.4発行
表紙 「 わたらせ渓谷鉄道」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森5月号■
3p 創刊12年
4p-7p JCトーク
8p やんばる
9p 結婚 中田さん夫妻
10-19p 特集 両毛五市ちょっと旅
20-21p 協賛店・MAP
22p お店紹介
23p 書評・絵本紹介
24-25p クイズ/タウン情報
26-29p インフォメーション98
30p こならの森から

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【本文抜粋記事】

佐野青年会議所@通信《教育問題と福祉問題について》

 ●佐野日本大学学園常務理事
  熊倉 勝さん

八下田理事長 今日は教育と福祉のことについてお話をうかがいたいと思います。
熊倉常務理事 教育と福祉は現代的問題ですから、私も日頃から大切なことと考えていました。
八下田 私が推し進めていることで、教育問題ということに非常に関心がありまして、二人の子供の父親として教育問題を今後どうしていくのか、親業という部分で親が分担する部分、学校が分担する部分、地域が分担する部分というものを、考えていかなくてはならないと思っています。その役割分担を、お聞かせ願えればと思います。
熊倉 そうですね。教育というのは大変難しい問題です。大きく分けて学校教育があれば、社会教育があり、家庭教育もあります。さらに、マスコミでも大きくとりあげられているように生涯教育でもあり、つまり、大きな枠組が四つあります。
私が戦後の日本教育の流れを眺めてみて思うことは、家庭、社会、学校の役割が不明確になってしまったことです。ご存じの通り、それが一因ともなって、今、大きな混乱が起こっています。人生教育のスタートは、家庭教育です。その後に、地域社会を支える社会教育があって学校教育に至り、最後に生涯教育があると言えばわかりやすいと思います。
まず、家庭教育が崩れた要因ですが、少子化と都市化によって三世代家族であったものが核家族化してしまったことがあげられます。昔の家庭は、お爺さん、お婆さんがいてお父さん、お母さんがい、子供が四~五人という三世代家族でした。そういう状態だと、自然に家族生活の中で基本的ルールを覚えます。ご飯の食べ方から、目上の人に対する対処の仕方とか、人間関係とか、基本的生活習慣を家庭の中で学ぶことができました。現在は、核家族化が進み、日本で従来培われてきた家族の質が変わったわけですから、基本的な教育の質も変わるわけです。お父さん、お母さんが三世代家族の中で培ってきたようなことを、どうやって今後の家庭生活の中に取り入れることができるか。つまり、お父さん、お母さんの役割が問題なのです。最近、親と子に関わる事件がいろいろ起きていますが、何故そうなってしまったのかと考えてみると、お父さん、お母さんの存在がなくなってしまっていることが原因です。昔から、「三つ子の魂百まで」と言います。〇歳~三歳までの幼児時代で受けた影響が非常に大きいということです。教育は「抱っこしてもらう」、母乳をもらうということから始まります。もらうことから愛情を受けるわけです。お母さんから愛情を受けることは、人間を愛せるようになる大きな要因です。反対に、お母さんの愛情を十分受けないと人間不信に陥ります。そして、将来大人になった時に人を愛せない。あるいは、自分が子供を産んだ時に正しく育てられない。ですから、お母さんの役割は非常に大きなものです。次に、お父さんの役割ですが、お父さんは厳しさを学ぶ場所です。社会生活を送るには色々と困難なことが起こります。そういう場面を乗り越えていく力というのは、お父さんから受けた影響が大きい。お父さんから影響を受けないと困難を乗り越えられません。最近、「キレる」とか、登校拒否とか、困難に出会った時、立ち向かわずに横に逃げてしまうケース、これらは、比較的お父さんからの影響が少ないことに原因していることが多い。お父さん、お母さんの役割がどう変わってもいいです。場合によっては、お母さんがお父さん役をやってもいい。お爺ちゃん、お婆ちゃんでもいい。そういう役割分担が必要です。
さらに、家庭内で子供の仕事分担を決めて、家庭内での手伝いをさせることも大切です。
家庭内の問題が学校に押し寄せて来るということでは、学校も大変な思いをしています。そうは言っても学校ですから、それをきちんと受け止めて、教育をして行くことが大切です。戦後、文部省もたくさんの教育改革を実施してきました。そして、二十一世紀型のカリキュラム改正ということで、幼稚園については本年四月より実施され、小学校、中学校が二〇〇二年、高等学校については二〇〇三年から始まります。「自ら学ぶ力」「自ら考える力」の育成が主眼です。今後も学校教育は変化していきます。皆さんは、小学校とか中学校教育のあり方が一番気になるのではありませんか。
八下田 ええ、僕は放課後教育が特に必要だと思うんです。放課後遊ぶ友達を作ったりしてですね。仲間と外で遊ぶということが大事だったと思うんですよ。今は塾、家に帰ればファミコン、夜は親との団欒もなくて、塾に行くと夜遅くなるのでそのまま寝てしまう。その繰り返し ― 。放課後教育は必要とは思いますが、今のそういう現実にぶつかると社会のシステムとしては難しいのかなとも思います。
熊倉 昔は、子供は家に帰ってから必ず外に出て、空き地や路地でキャッチボールしたり、サッカーボールを蹴ったり、鬼ごっこをやったりして遊んでいました。この遊びの中からガキ大将が生まれ、子供達の社会性も育ちました。
昔だって塾に行かなかったわけではなく、算盤塾とか習字の塾に行ったりしました。塾そのものが悪いということでなくて、子供達がどういう遊びが出来るのかということになると思います。
今後、文部省は学校五日制を実施しようとしています。土曜日に子供達はどうするのでしょうか?誰が、どうやって子供達の面倒をみるのでしょうか?或いは、子供達はどういう生活をするのか?大きな問題です。私は、二十年前に文部省の教員海外派遣で、共産主義国家のチェコスロバキアと、スイスを主体とする研修団に参加しました。当時、チェコスロバキアでは、学校の生活の中にも共産党青年同盟の部会があり、その同盟の人達が中心になって青少年の学校教育以外の活動を担当し、共産主義思想を広める為に、小さい時から共産党組織に参加させていました。
また、十五年前ですが、日本大学の教育視察で、サンフランシスコ市を訪問しました。シリコンバレー、スタンフォード大学、カルフォルニア州立大学のバークレー校等を見学しました。その当時、アメリカは学校の週休二日制が始まっていましたが、土曜日に公園内にある美術館に多くの人達が子供を引率して見学していました。地域社会の人達がボランティアで子供達を引率していたわけです。日本の場合、学校週休二日制を実施した時、地域社会の人達がアメリカのようにすることができるのか。子供達に土曜日はただの休みですよと言ってしまうのか。組織的に子供達を面倒をみてくれるのかどうか。そういうことは大きな問題になるのではないかと思います。
八下田 僕が参考にしている世田谷区の例があります。その地域にある公園や校庭を民間に貸すのです。管理するのはNPOなどの民間の団体です。子供達をそこで自由に遊ばせる。自分の責任で遊ぶということで開放された部分が必要になってくるのです。今の小さい子供達は、遊び方がわからないことが多いので、地域の人がプレイリーダーという先生になって遊び方をまず教えて、それに習って皆が遊んでいくということをしているのです。
熊倉 JCの「子供未来塾」も、そうしているのですか?
八下田 今後、そうなっていけばいいと思っています。青年会議所だけでなくて、民間団体も教育NPOがその推進のための運動をしていかなければと思います。青年会議所という形で活動していけるよう、NPOの有志が、その組織を作って地域の人達とリンクしながら造ってゆくのが理想だと思っています。
熊倉 そういう意味では、子供は自然とのふれ合いとか、友達と体をぶつけ合いながら学ぶことが大きいと思います。東京へ出た人は古里のイメージが脳裏に焼き付いている。いわゆる原体験とか原風景です。自然との触れ合いというものには、常に、一+一=二でなく、偶発性や偶然性があります。そういう体験が大切です。その意味では、JCの「未来塾」は大きな役割を持ってますね。
八下田 小学校、中学校で空教室が大変問題になっていますよね。一つの例といてスポーツジム的なことです。普段、子供達が授業が終わったら、そこでスポーツジムができるのです。五十円か百円の会費で使用させて、管理はNPO、地域のボランティアが予約まで取って貸し出している。会員制で必要経費を頂いてですね。土曜日は大人の人を対象にスポーツジムに必要主費をいただいて学校へ通うことも実施しています。その収益でボランティアの運営資金にしているという例もありますが、私立の学校では考えていないのですか?
熊倉 佐野日大の中学・高校・短期大学での学校開放は積極的に実施しています。短期大学では図書館の施設を開放したり、また、大学の授業に社会人の人達に参加してもらう聴講制度を実施しています。去年が春季講座で五十名。今年はもう七十名の方が受講申込を行っています。今、ちょうど受付期間です。また、高等学校でも素晴らしい野球場、サッカー場、陸上競技場を持っていますので、希望者があれば是非開放していきたいと思います。先日も野球場で市内の学童野球の選抜チームの大会が実施されました。天体観測のドームなどもありますので是非利用してください。また、公立学校の空いている教室などを利用されて色々な形でやられていることは本当にすばらしいことですし、私達も協力は惜しみません。ですから、佐野日大の学校開放については、是非、JCの方々にもご提案頂きたい。私は青年教師の時代、野球部の監督や部長をやっていた経験の中から思うんですが、子供の教育の中でJCの人達が事業を実施する時、形を作って与えるだけでなく、企画とまでいかないにしても準備段階で参加させる。造られたものに参加させるのではなく準備まで含めたものに参加させると子供達に勉強になると思います。「はい、やりなさい」という御膳立て、これは一つも勉強になりません。
八下田 野球で言えばグランド整備のためにまず石を拾うとか。
熊倉 極端に言えば、そういうところから始めるといいと思います。ところで、JCは、昔から安佐中学校野球大会を実施していました。当時、安佐地区では学童野球は盛んでしたが、中学校野球は今一つ。高校野球は最も弱かった。安佐地区から甲子園大会へ出場できるチームが何とか出てほしいと思っていました。安佐地区では学童野球は盛んでしたが、中学校野球は今一つ。当時、JCの方々が考えて、中学校野球大会を実施したことがありました。私も、高校の教員になって、すぐに野球部の監督、部長を引き受け、素人でしたが、何とか甲子園に出場できるチームを作ろうとしました。しかし、私が部長、監督の時代には甲子園大会に出場できませんでした。次の松本監督時代の平成元年に、安佐地区で初めて甲子園大会へ出場できました。(松本監督は佐野西中、佐野日大高、日本大学で野球選手として活躍。)さらに、平成二年、葛生高校が甲子園大会へ出場しました。そういう意味で、JCの中学校野球大会は、この地域の中学、高校の野球の隆盛に大きな貢献をしたと思います。その後、佐野日大は夏四回、春二回、計六回、甲子園大会へ出場しています。また、安佐地区の選手が、何人もプロ野球選手になりました。現在、石井君(横浜)、戸叶君(横浜)、小関君(西武)が、プロ野球で活躍し、子供達に夢と感動を与えています。
八下田 相手に感動を与えるというのは大変素晴らしいことだと思います。野球の話に戻ってしまいますが、私も佐野日大のOBとして県大会の決勝を見に行きました。最後、スライディングでサヨナラ勝ちした時は、嬉しくて飛び上がってしまいました。万歳!万歳!嬉しくてポケットにあるものが全部周りに散らばったほどでした。特に母校ということもありましたが、この安佐地区からやっと甲子園に出たんだ!という思いも強かったですね。感動を与えてくれると思うのです。スポーツを見て感動しない人は、いないと思うんのですよ。
佐野日大が甲子園に出て良かったと思うのは、この安佐地区の宣伝になったこと、これが最大の効果で、また大きな喜びだったのかなあという思いがあります。ところで、スポーツの教育的意義についてどういうお考えですか。
熊倉 スポーツは、青少年の育成に大きな役割を果たしていると思います。スポーツの意義は自分の肉体への挑戦を通じて身体を鍛えることもあります。
また、オリンピック大会などで、選手が全知全能をかけて走ったり、投げたりしている姿を連想し、我々見ている観客に大きな感動を与えています。そうした、トップレベルのものもありますが、一般的なところでは、スポーツを通じて、友情とか苦しい時を乗り越える力を培っていきます。少子化で子供がいなくなり、家族が、核家族になって
いく、その社会環境が子供にとってはすこぶる良くない。そこで、スポーツを通じて困難を乗り越えるとか、縦社会とか、横社会とかを、学ぶことに意味があると思います。また、団体競技の素晴らしい面としては「戦い」ということです。相手をゲームの中で倒そうという「戦い」を通じて相手の痛みを感じたり、つらさを感じたりすることが大切です。最近、青少年の犯罪などで、衝動的にに相手を傷つけたりするケースがありますね。相手の痛みがわかっていれば、そこまではいかなかったのではないかと思います。スポーツを通じて、相手の痛みがわかれば、平和な社会をつくれたのかなと思います。スポーツも原点に返って、そういう面も取り上げるといいのかなあ、という気がします。今以上に、スポーツが盛んになればと思います。
八下田 ところで、四月から介護保険、地方分権法が実施されますが、地域間格差というものが間違いなく出てくると思います。安佐地区が今後生き残れる部分、特に、日大さんが社会福祉法人をつくって介護をやっていくということがありますが、地域格差とか、結果的には少子化や、税金の問題も重なりあって影響してくると思いますが、今後どういうふうに考えていらっしゃるのかお聞きしたいと思います。
熊倉 高齢化というものは少子高齢化です。高齢化の部分では現在どういう状態になっているかと言いますと、二〇〇〇年で六十五歳以上の人が十七%です。(一九九四年では十三%)二〇二五年では、二五.八%。現在が六人に一人の割合で高齢者、これが二〇二五年には四人に一人になるわけです。通常高齢化社会というのは七%以上です。ところが、将来、高齢者が二十%を超える超高齢社会になります。これは、世界で例を見ないケースです。そのくらい速いスピードで高齢化が進んでいます。ですから、日本も老人福祉の分野で急いで何とかしなければならないということになったのです。そこで「介護の社会化」を実現しようことになった。従来、介護というのは、各家庭の負担でしてもらったことですが、家庭だけではどうにもなりません。家庭でどうにもならないと病院に持ってこられるわけです。病院が全部老人で埋まってしまう。老人医療保険で日本の医療保険はパンク寸前に陥っています。それを解決するために介護保険が始まったわけです。二〇〇〇年の四月からスタートするが、ドイツの公的介護保険制度を模範にしてつくったのですね。ドイツは準備期間に二十年をかけてスタートさせていますが、それでもいろいろ問題点はあるそうです。
日本は介護保険は、まだ五~六年しか経っていません。まだまだ準備不足でスタートしますから、いろいろな混乱があると思うのですが、そうは言っても何とかしなければならない問題ですから、皆さんの協力でやっていかなければならないと思います。そういう高齢化社会を考えて、佐野国際情報短期大学でも平成十年から社会福祉学科をつくりました。社会福祉専攻は、福祉に関する相談業務に応じるケースワーカーの分野を担当する社会福祉士を育成します。介護福祉専攻は老人介護における中心的役割を果たす介護福祉士を卒業と同時にに取得できます。福祉の分野では、専門的技術だけでなくボランティア精神を備えた人間性豊かな人材が必要であり、いくら専門的な知識があってもどうにもなりません。そこで、福祉の感性(福祉マインド)を育成します。
八下田 先日、先生のイギリスの老人施設の視察報告書を読ませていただきましたが、イギリスの老人施設はどのようなものでしたか。
熊倉 本学園の高等部(中・高一貫コース)の修学旅行で、昨年イギリスに行ってまいりました。その折、イギリスの老人施設の実情を調査し、報告書を研究紀要に発表しました。イギリスは、戦後最も社会福祉が進んだ先進国です。イギリスの老人施設というのはどのような思想で経営がなされているのか、そこのところを見てまいりました。施設は民家を改造した建物で大半が個室です。入居者は三十名で非常に狭い施設でした。所長のダイアナさんは、施設の経営理念として、「スタッフはくつろいだ雰囲気の中で最高のケアを提供する。住居者の質の高い生活を私たちが追求してこそ、住居者がここを自らの家とみなす」という、しっかりした経営理念をお持ちの方で、施設といえども、そこが「最後の棲み家」というような感覚を持たせてあげることが大切だと言っています。いわゆる、入居者の「人としての尊厳」を大切にしています。
佐野国際情報短期大学の社会福祉学科の関連施設として老人福祉施設を計画しています。この施設は、臨床教育の場であり、介護福祉の実践の場であり、地域福祉の場であり、入居者の「自立と安全と尊厳を守る」ことを理念にしたいと考えています。
八下田 高齢化社会を考えていくのにあたって何が大切なことでしょうか。
熊倉 高齢化社会で重要なことは世代間の信頼です。介護保険にしても高齢者だけが負担するのではなく、若い人も負担します。年金も高齢者が自分達で貯めたものを使うわけではなく、若い人の負担でも支えています。これからの少子高齢社会で重要なことは、世代間のギャップを起こさないことです。若い人も中高年層も高齢者も、お互いの世代間の交流を大切にしないといけないということです。小学校、中学校の子供達が施設を訪問して、高齢者と積極的に交流する。高齢者は子供達と触れ合うことによっていろいろな原体験を思い出していくという場面もあります。たとえば、イギリスの老人たちは、施設の部屋の中に可愛い子供の時の絵を飾っている。イギリスの施設の入居者は、アルツハイマー系「痴呆症」が2/3、いわゆる痴呆老人です。日本ではアルツハイマー系は1/3です。そして、2/3は脳血管障害です。痴呆症を防ぐものの中に原体験というか昔のことを思い出させることが効果があるというのです。日本でも、今後、アルツハイマー系が増えてくるだろうと言われています。子供との触れ合いがより一層大切です。同時に、世代間ギャップを起さない為にも、世代間の相互理解が大切だろうとと思います。なお、介護は、今までは家庭内での負担でしたが、もうそれではできないので、皆んなで助け合うということで介護保険が始まるわけですから、皆さんがNPOネットワークセンターの中で福祉のことも捉えていることは非常に重要なことだと思います。
八下田 最後に、少子化についてどう考えますか。
熊倉 高齢者の問題というのは、少子化の問題です。日本の平成九年の合計特殊出生率が一.三八。一定の人口を保つのには合計特殊出生率は二.〇八必要とされています。少子化の進行は社会構造に大きな変化をもたらすと共に経済活動の低下を招きます。そこで、最近、世界の中で人口増加政策で成功しているケースがあります。それは、シンガポールです。一九八〇年代に人口抑制策を採ったのですが、人口減少が激しく、一九九〇年代に人口増加策を採り、合計特殊出生率を二.〇〇まで持ってきたそうです。シンガポールは何をやったかというと、第二子以降の子については、所得税減税をやったのです。政府が政策として子育て支援のための政策をやったのです。それで出生率を戻してきた。日本も子育て支援のために、政府自らキャンペーンを展開しています。栃木県でもやっています。佐野市も「こどもの街」宣言をしています。子供を大事にしようということで行っているわけです。日本でも早く合計特殊出生率が一.七八とか、あるいは、一.八とかというような数字に戻さなくてはならないと思います。結婚して子供を育てることは、若者にとっては社会人として社会的な負担を負うことだと思います。反対に、子供を持たない方には大変申し訳ないけれども、何らかの社会負担をしてもらうとか。そうでないと他の人達の子供に負担がくるのです。少し暴論かも知れませんが、それくらい何かやらないと子供をたくさん産んでくれないのではないかと思うのです。佐野国際情報短期大学では、平成十三年度の四月から社会福祉学科の中に児童福祉専攻を設置して、保育園の保育士とか幼稚園の先生とか、あるいは、子育て支援の為の相談を行なえる人材の育成に取り組みます。また、同時に子供を産み、正しく育てられるような現代的良妻賢母を育ててていきたい。そんな準備を進めています
八下田 先生には貴重なお話をいただきありがとうございました。JCでも先生からのいくつかのご提案につきましては前向きに考えていきたいと思います。


プロフィール ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
熊倉 勝 (まさる)
1943年 佐野市生まれ


こならの森143号

2008-05-15 | 101号~200号
       ■こならの森143号■2000.3発行
表紙 「朝日森天満宮 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森4月号■
3pとしこの巻頭詩
4p-7p JCトーク
8p やんばる
9p 結婚 大川さん夫妻
10-19p 特集 田中正造生家周辺をあるく
20-21p 協賛店・MAP
22p 辛口映画評
23p 書評・絵本紹介
24-25p クイズ/タウン情報
26-29p インフォメーション98
30p こならの森から

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【本文抜粋記事】

特集
春一番! ウオーキング!
田中正造生家周辺をあるく

 ウオーキングがブームとなっているが、このほど、初心者でも気軽に参加できる、ウオーキングの会が発会され、同時に記念行事としてのウオーキングが開催された。
 行程は、設立総会会場のある小中町を起点にして、付近の名所旧跡をあわせてウオッチングしようというもの。70名ほどが参加した。
 まず最初に訪れたのは、人丸神社。宮司である林敏忠さんから直接説明を受けた。当日は晴天となったが、まだまだ寒さも残っている。しかし、熱心に説明を受けていた。拝殿の中の天井絵を見学して、足取りも軽く田中正造生家方面へと歩き出した。
 生家では、田中正造の大番頭といわれた島田宗三の息子である島田早苗さんから説明を受けた。数分の解説だけではとてもか足り尽くせずではあるが、田中正造の生涯を分かりやすく語った。また、参加者からの質問も受けた。
 ここからは数キロの歩きとなる。風も冷たいが、一路二柱神社へと向かう。各人が自分のペースを守って歓談しながらの緩やか歩行。二柱神社では、お参りする人や見事な彫刻に感嘆の声が多くあがった。また、同神社は佐野の文化財百選にも選ばれている。
 見学すべき予定はこれで最後となる。ここからは集合場所の小中町公民館まではのどかな旧道を旗川沿いに進んで、田中正造生家横を抜けていく。全行程数キロのコース1時間あまりの時間、歩行時間はもっと短かったが、盛り沢山の内容が歩くことの楽しみを増加させていたようだ。
 今後もこうしたスタイルで歴史散策を取り入れながら、歩くことだけではない他の楽しみを加味していくという。当初は、年数回ほどの予定でスタートするという。


■日中正造旧宅(県指定史跡)
 正造の生まれ育った母屋と隠居所、土蔵のほか、表門と便所が残されている。明治の初めから母屋は村の診療所に当てられ、隠居所には不在がちな正造の留守を守ってカツ夫人が正造の両親と同居していた。
 正造は大正2年(1913)73歳で世を去る前に、自己の家屋を含む全財産を故郷に寄付し、産業の復興と精神の回復に役立ててほしいと願った。
 現在の旧宅所有者は、財団法人小中農教倶楽部。毎週火・木・土・日曜日が公開日。祝日、お盆、年末年始が休館。 入場料(一般)300円。 JR佐野駅から4.6km、無料駐車場もある。



こならの森142号

2008-05-14 | 101号~200号
       ■こならの森142号■2000.2発行
表紙 「 れんげ草」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森3月号■

3pとしこの巻頭詩
4p-7p JCトーク
8p やんばる
9p 結婚 河内さん夫妻
10-11p NAZA報告「8」
12-19p 特集 北の中華街
20-21p 協賛店・MAP
22p 辛口映画評
23p 書評・絵本紹介
24-25p クイズ/タウン情報
26-29p インフォメーション98
30p こならの森から

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【本文抜粋記事】

『北の中華街』構想
■ラーメン横町

 今回は、最近マスコミを賑わし、ちょっとしたまちの話題となっている『ラーメン横町』、そして『北の中華街構想』についての詳細を、提唱者である上岡一雄さんに伺いました。
佐野みやげ麺会会長・
(株)上岡商店代表取締役
 上岡一雄さん

●最初にきっかけとなったことはなんですか。

 商工会議所の専務さんとの会話の中で、「どこかに横町を造って下さい」というと、「そういう声は一杯あるけれど、まず空き店鋪を活用することを考えてみたら」と言われ、それがヒントとなりました。
 よく考えたら駅前通りにも何軒かのラーメン屋さんがあり、大通りにも幾つかあって、間を埋めていけば全部繋がってしまう。そういう鳥瞰図が出来たわけです。
 厄除けさんのお客さんも中央商店街までは入ってこない。ですから、なんとかそこまで引き込もうと思ったわけです。
 それから来る人、来る人が訪ねることには、『横町』はどこですかということです。裏返せば『横町』があるものだと思っている。『ラーメン横町』というイメージは店が背中合わせにつながっているものですが、そういうものがあると思って来る。そしてがっかりして帰る人もいます。そんなことから横町は、みなさんが、望んでいるものだと思いました。
 商店街に人を呼ぶということでは二つのことがあると思います。一つはこの地区の人を呼ぶ。いろいろ工夫すればできないことではないが、これには財力も、テクニックも必要です。それだけの努力をするのであれば、他からくるお客さんを誘致した方が懸命だと考えたわけです。
 一つの大きな柱として、厄除けさんがある。ですから、もう一つの柱を作ってそこを中心に回遊させれば、町が活性化する。佐野市はラーメンの町ということで有名になっていますので、ラーメンが一番手っ取り早いと思いました。
 横町も背中合わせのものを作るとなると、建物を作らなければいけないわけで大変です。そこで空き店鋪にラーメン屋さんが入ってもらうことを考えたわけです。
 発火しないことには燃え上がりませんから、起爆剤になろうと思っています。
 現在のところ申し込む人は少ないのですが、いい方向にいけば、我も我もということで、多くの人から協力してもらえるのではないかと思っています。
 今のところは何の形もない、海のものとも山のものともわからないわけですから、様子を見ているのかなという気もします。もう一つには、郊外なら郊外で、もうお金をかけてしまっていますから、それを捨ててまで出店するということも、勇気のいることだと思います。
 それから、話が錯綜して、誤解されている方も多いみたいですね。新年の二日に市役所で『ラーメン横町』というのをやったのですが、あれが新聞紙上にでた横町かと思った人がいるみたいです。あるいは、大通りに面したある店鋪が横町になるのではないかとか………。いろいろ、話がとんでしまいました。実際には、背中合わせの横町ではなくて横町ゾーンの中に中華街を造るということなのです。

●あえて困難な道を選んだようにも思えるのですが。

 みんなにそういわれるんですよ。『大変だね』と。でも、内心はあまり大変だと思っていないんです。逆に楽しいと思っているくらいです。それが出来上がった時のことを思い描けば実に楽しい。例えば肉屋さんでは肉マンやシューマイを目の前で湯気を出して蒸かして売ってくださいとお願いしているわけです。肉屋さんの方もやろうと意欲的です。肉マンを食べながら、ウインドーショッピングをしながら楽しんでもらえる………ということを考えると、むしろわくわくしてきます。

●プラス・シンキングですね。

 佐野ラーメンも一時は盛り上がったが、今はちょっと停滞ぎみですよね。ここで活を入れないといけないですね。厄除け大師さんには年間200万人からの観光客が来ます。その人達を、歩いて十二、三分の中央商店街まで誘導できれば、そこが活性化するわけです。いい素材があるんですが、活かし切っていないということですね。もうちょっと視点をかえたり、工夫すればできるわけですね。
 今年の初頭から動きだそうと思ったのですが、まだラーメン屋さんも予定地にできていない。一部の商店がちょこっと中華のグッズを置いたくらいでは『行っても何もなかったよ』と、かえって評判を落としてしまう。ですから、4月のかたくりの里の頃を目指しています。春になれば、人の流れも動きも出てきますのでね。
 2月のはじめには、キャラバン隊を市の商工課でやっています。そのせいもあって、その時期には人が集まります。シャトルバスがピストン輸送をしますね。そして現実に乗った人が、町中を散策している。それでなくても人が集まるのだから、その時までに立ち上げようと思っています。
 今まではバスでくるわけですが、厄除けさんで降ろして参拝だけでかえってしまうというのがパターンです。それを厄除けさんで降ろしたら、バスは中央商店街で待っていますという風にする。嫌がおうでも歩かざるを得ないわけです。そうすれば中央商店街に誘導できますし、逆の方法も考えられます。地図を作って位置が分かるようにしておけば迷うこともないでしょう。
 今でも家族で佐野にラーメンを食べにきて、足利学校でも見ていこうか、栃木の蔵の町へいこうか、ということで他に行き、佐野でそんなにぶらぶらしている人はいないと思います。
 せっかくやって来た人が、町の中でラーメンを食べただけで帰られたのではもったいないです。ラーメンを食べた人が肉マンでも食べて、ちょっとしたグッズを買って町を散策する。それは、子どものグッズだけではなくて、いろいろそれぞれのお店が中華のものを置くことがいいと思います。例えば、靴屋さんはカンフーの靴、あるいは洋服屋さんではチャイナドレスとか、ブラウスとか、帽子とか。
 お茶屋さんでは、中国茶とか急須とかというものを置いてもらいたいと思っていますし、文房具とかカバンとか、骨董品などを置く店もあったりして。後はわらじとかね。
 今までの商品を、商売替えしてかえてしまうということではなくて、今までのお店づくりの中にプラスする。あまり負担がかからずにできると思います。
 もう一ついいと思う素材は、東石美術館です。無料で絵を見せていただいているわけで、文化の香もするわけです。いい絵がたくさんあります。
 もう一ついいと思うのは、こういう近代的な町並みの中に銭湯が二つもある。そして今流の銭湯「やすらぎの湯」もある。家族できて、ラーメンを食べ、町を歩いて、お風呂に入って、いい絵を見て帰れる。素材はたくさんある。観光資源がね。そういうものを活かさないことには、街が活性化しません。
 もう少し、発想の転換をしてもらってみんなが力を合わせ努力をすれば、出来てしまうことです。
 喜多方は有名になった。その頃は、毎日のようにテレビでラーメンの特集をやっていたわけです。それに追いつけ追い越せで、佐野が始めたのですが、途中でテレビのラーメン特集がなくなったので、喜多方ほど名前は浸透しなかった(味は佐野の方がよい)。佐野はかなり有名になりましたが、佐野に続けてと始めたところは、途中でとんざしています。
(後略)


こならの森141号

2008-05-13 | 101号~200号
       ■こならの森141号■2000.1発行
表紙 「 西方町にて」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森2月号■

3pとしこの巻頭詩
4p-7p JCトーク
8p やんばる
9p 結婚 向田さん夫妻
10-11p NAZA報告「7」
12-19p 特集 北関東道
20-21p 協賛店・MAP
22p 名所クイズ
23p 書評・絵本紹介
24-25p クイズ/タウン情報
26-29p インフォメーション98
30p こならの森から「おじゅけん」

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【本文抜粋記事】

ひと足早く体験北関東自動車道

北関東自動車道

 北関東自動車道はとちぎ県南部を横断し、群馬県高崎市と茨城県の常陸那珂港を結ぶ約150キロの自動車道。
 本年度中に常磐自動車道との分岐点となる友部ジャンクションから水戸南インターチェンジまでの14・3キロが、2000年夏には東北自動車道から分かれる都賀ジャンクションから上三川インターチェンジまでの18・5キロが部分開通する。都賀-上三川間は2000年九月の全国都市緑化とちぎフェアに向け、舗装や標識設置など仕上げ段階に入っている。
 全線開通には十年ほどかかるということだが、2000年を記念して一足早く開通?走覇。見どころをおってみた。
三日月村 
 木枯し紋次郎の架空の出身地「三日月村」を再現したテーマパーク。群馬県薮塚(やぶつか)本町の薮塚温泉の一角にある。
 三日月村は、紋次郎の原作者笹沢左保さんのアドバイスと江戸時代後期の時代考証に基づいて十七年前に建設。わらぶき屋根の名主屋敷や水車小屋など二十数軒の木造建築が並ぶ。
 西隣には温泉街のほか、スネークセンターもある。
年末年始以外は無休。午前9時から午後5時・入村料は大人600円、子供(小学生以下)300円。不思議体験ゾーンの入場券を含むセット券は大人1500円、子供1000円●TEL0277(78)5321

ぐんまこどもの国
 入場は無料。乗り物も格安料金で遊べるのがうれしい。敷地の一角にある児童会館も、プラネタリウムやハイビジョン、大型遊具のあるプレイルームなど、設備は充実している。
 遊戯施設では「ダイナミック広場」が圧巻。70メートルの丘を十五分かけて上る「パノラマチェアー」と、全長503メートルと520メートルのコースを一気に滑り下りる「サマーボブスレー」の組み合わせは大人も大満足。「サイクル広場」にはサイクルモノレールやサイクル電車などが体験できる。入館時は折からの雨のためぬれていて断念。

 有料施設は大人200円、子供(4歳以上中学生以下)100円から。3歳以下はすべて無料。パノラマチェアーとサマーボブスレーのセットは大人500円、こども300円。月曜定休9:30~PM5:00 
TEL0276(22)1766

常陸風土記の丘

 石岡市は、茨城県のほぼ中央、西に筑波山、東に霞ケ浦を望む台地上に位置している。有史以前から人々の生産生活の場としてひらけ、今から一万年以上も前の旧石器・縄文時代から弥生時代にいたる数多くの遺跡が発見されている。さらに四~六世杷の古墳時代の遺跡として、茨城県内最大規模を誇る舟塚山古墳をはじめ、府中愛宕山古墳、要害山一号墳など数多くの古墳が見られ、この時代、古代豪族がこの地に割拠していたことを物語っている。そして、七世紀のなかば常陸国が誕生すると、この石岡の地に国府が置かれ、つづいて国分寺・国分尼寺が建立された。以後、常陸国の中心地して、又茨城県最古の都市として大いに繁栄した。

虎の子史跡公園
石のモニュメントこの石の門は、現代・中世・古代を表現した「時の門」ぞす。「時の門」を通り、それぞれの時代にタイムスリップしてその時の人々の暮らしに、思いをはせてみませんか。移築復元した旧佐藤家は江戸時代、小松川の肝煎(名主)の家で、南会津において、地域の貴重な文化遺建と言える建造物といえます。

石岡のおまつりに巡行する獅子頭をステールアップした日本一の巨大獅子頭は、常陸風土記の丘の見守り役として人気を集めています。◇台座からの高さ14m・幅10m・奥行き10m

展示室では、石岡市内で発掘された埋蔵文化財を遺跡別に展示しています。また、古代から近世にいたる石岡市のあゆみを概観できます。