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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森 71号

2008-04-18 | 創刊~100号

       ■こならの森71号■1994.3発行

C・o・n・t・e・n・t・s


■こならの森4月号■

@目 次@
おぞねとしこのポエム………………3
結婚しました……………………
見知らんの5つの市…………………5
インタビュー・石川雅之さん………6
ミステリータウン「ぞうのボタン」…10
JC・JOURNAL………………14
協賛店マップ…………………………16
インフォメーション94………………18
お得な情報コーナー…………………20
こならの森3月の情報………………22
海棠市子の辛口 映画評……………24
書評・絵本紹介………………………25
新シリーズ カクテル・ミニガイド…26
「ロッキンオンこなら」……………27
「こならの森流・マスメディア論」28
杜 @皇が占う今月の運勢…………29
新・こならの森から…………………30

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【本文抜粋記事】

インタビュー・石川雅之さん

石川雅之さん 佐野市並木町在住、2月26日から渡英。昨年の暮れイギリスにて音楽プロデューサーに見いだされ、環境音楽アーチストとして年内にイギリスでレコードデビュー予定。
 小学校は佐野、中学は足利、高校は埼玉、音楽教育はロンドンとそれぞれ違った環境の中で育ったという21才。


@そもそものきっかけはなんですか。
 昨年の暮れ、デモテープを持ってイギリスに行ったときに、あるレコード会社の人にそのデモテープが気に入られたんです。それで、なるべく早くイギリスへ帰って来てほしいという状況です。
@それはどんな経過からですか。 始めはデモテープをたくさん持って行って、レコード会社に送ったんですが、ほとんどはゴミ箱行きなんですね。でも、あきらめずに直接レコード会社を回りました。その内の一つに、実は小さなレコード屋さんだったのですが、それを知らないでレコード会社だと思って入って行ったんです。そうしたら店のマスターが(うちは)レコード会社ではないが、レコード会社の人はよく知っているからということで、デモテープを聞かせてくれという、とにかく彼に聞かせてみたら気に入ってくれて、これだったらレコード会社に紹介するよ、ということになったんです。
@すごくラッキーだったんですね。ジャンル的にいうと、何に属するのですか。
 イギリスでは、「アンビィエントミュージック」というんです。日本で環境音楽とかいうと、まじめな音楽という印象がありますが歌謡曲の一環といったものなんですね。普通の若い人達が、今のはやりの曲を聞く感じで聞いています。もともとはダンスミュージックなんです。デスコで踊り疲れた人が、そのあとにそれを聞いてリラックスするというのが始まりです。
 イギリスではムーブメントというか、爆発的な流行で、すごく新しいんです。もともとアンビィエントミュージックというジャンルはあったのですが、それがメジャーな方になってくるというのは今が一番です。
 レコード会社というのは複雑で、そのレコード会社でもいろいろな意見の人がいるわけです。例えば、レコードを出すというときにも、一人に対して何千万もかかるわけです。そうすると、会社の方としてはどうしてもよほどの信用がない限りは見知ぬ人に、それだけのお金を出せないですから、いざ契約しましょうというところまでいくには、何人もの承諾を取らなければいけない。最初に気に入ってくれた人は良かったのですが、他の人が返事をしなかったものですから、結局その話はなくなってしまったのです。ですが、その一番最初に気に入ってくれた人がもともと自分で新しくレコード会社を開くという計画を立てていたそうです。他のレコード会社も回ってみようと思うんですが、最終的にはそこに落ち着くと思います。
 もともとはパソコンに興味があって、音楽にすごく興味があったというわけではないんです。そのうちにコンピューターサウンドというものに興味を持ってきて、それから、だんだんとこういう方向へいったんです。シンセサイザーはコンピューターとなじみが深いですからね。
@音楽をやるにはイギリスあたりが一番いい訳ですか。
 こういうジャンルをやる場合はそうですね。それから、レコード会社の数が違いますし、必ずしも大きな会社からじゃなければだめだという訳ではないんですね。小さい会社でも市場がある。日本ですと、自主製作という形になってしまいますよね。そうすると、お店の方でも置いてくれません。記念に作るということはありますが、商売ということになると大きな会社からでないと無理です。そうすると、自分ではこれでいいと思ってもなかなかデビューまではいかない。
@間口が狭いということですね。 そうです。でも日本の歌謡曲みたいなものをイギリスに持っていったとしても無理です。こういう音楽だから良かったということです。
@好きなアーチストは………。
 坂本竜一が一番好きですね。
@今後のスケジュールは。
 2月の26日にイギリスに渡ります。早ければ、今年中にレコードを出したいと思います。
@それは、イギリスの各レコード店に並ぶわけですね。
 そうですね。ヒットチャートというのがありますが、向こうはメジャー系とマイナー系に別れている。だから、いくらでもデビューする機会があるんです。僕は、マイナー系でデビューしますが、チャートが上がったとしますと今度はメジャー系に移籍ということになります。日本だと、大きなレコード会社から出ても、売れないともうその人は使ってもらえません。一度見放されるともうだめです。イギリスでは、メジャーで失敗しても一段下げて、マイナーで調整してもう一度出直すという人が多いんです。ですから普通の人達も音楽に対する捕らえ方が違うんです。
@ミュージシャンという職業が市民権を得ている。
 日本でミュージシャンというと大きな夢といった職業という感じがありますが、イギリスだと、普通に面接を受けて就職をするという感じでできます。レコードを出さなくてもいいのだったら、パブとかレストランとかいくらでも受け入れる所があります。
@伝統的に音楽人口が多いわけですか。
 国はすごく小さいのですが、やはりビートルズとかローリングストーンズが出ただけのことはあります。昔からビジネスとしての音楽があり、フィールドがあります。ですから、ビジネスとして捉えるならイギリスはより才能を発揮できるところだと言えます。
@住むところはどこですか。
 ロンドンのノッティングヒルというところです。トレンディな町で、日本で言うと渋谷や原宿といったところでしょうか。ミュージシャンがたくさん住んでいるエリアもあります。夏になると、大きな音楽のフェスティバルが二日間通しで開かれたりします。
一昨年ホームスティしていたところが、たまたまその町だったんですね。今回もまた、そこにホームスティします。
@一月いくらくらいなんですか。 日本円にして、二食付きで六万円くらいですね。
@安いんだか、高いんだか分かりませんが。
 日本と比べたら安いでしょうね。ロンドンの中心街まで十分くらいで出られますから。
@ロンドンへ行ってみようというきっかけは何かある訳ですか、友達の紹介とか。
 始めは海外でやりたいなんて思っていなかったんですが、東京に出て生活しているときに、もともと洋楽ばかりしか聞いていませんでしたから、やはり「自分の目で見たい」というのがきっかけになったと思います。 昔から、音楽の仕事をしたいという考えはあったんですが、そんなことは夢の話じゃないかということでずっと押さえていたんですが、高校に通って受験勉強していて、親も大学へいくだろうと考えている訳ですね。でも、やはりどうしてもミュージシャンの夢を捨て切れなくて………。自分の性格から人と同じではいやだということがあったんです。高校は進学校でしたから、みんなは大学へ四年間通って卒業して行く、ですがそれがいやだったんです。
 でも親は大学へ行かせるためにいろいろ世話をしてくれたので、悪いなという思いもあった。その時に、たまたま雑誌を見ていたらロンドンの音楽学校の案内が出ていました。日本の音楽学校というのは初めから考えていませんでした。そこは英語を勉強しながら英語で音楽レッスンをうけるということでした。もともと英語は好きでしたので、もし音楽の方がだめだとしても、英語がマスターできればそれを使った仕事が見つかると言って親を納得させました。
 でも始めは心配でした。もし向こうへ行って、すぐ帰って来てしまうようなことにでもなったら、日本にいて大学へ行った方が良かったと後悔するんじゃないかとかね。でも、向こうは自分にあっていたというか、楽しくのびのびできた。そういう環境があったんでしょう。
 イギリスの人は他人に関与しない。まったく個人主義なんですね。日本だったら、「そんなのやめちゃってまじめに働けよ」なんておせっかいに言いますけれど、向こうだと「ああ、そう」という程度です。
@その学校には日本人は来てましたか。
 けっこう多かったですね。観光交じりで来ている人もいました。でも、親しかった人の中にはもうレコードを出したという人もいます。
 音楽学校の方は、個人レッスンとなりました。レッスンもイギリス人を対象にしたものです。そういう英語ではなします。日本だとプロを引退したような人が先生として教えるという感じですが、そこでは現役のミュージシャンばかりですね。
 日本とだいぶ違う教え方でしたね。日本だと、どうしてもスタイルを重視しますが、むこうでは個性というか、感覚・フィーリングを大事にする教育ですからね。自由に弾かせる。強制するような雰囲気ではなく、もっとのびのびとしている。
@渡英したら結果が出るまでは帰って来ないという感じですか。そうです。レコードを出して初めてスタート地点に立ったという感じです。それからの自分がどう評価されるかですからね。将来は日本の方にまでビジネスを広げたいですね。
@そうしてはたから見た、佐野というのはどういった印象ですか。将来性とか。
 将来性では回りの町にひけを取っていますよね。でもケーブルテレビなどはメディアとしては可能性と応用性があると思いますし、駅前なども直している。僕自身としては、こういう山にかこまれた町の方がリラックスしますね。もし日本に住むとしたらもちろん佐野ですよ。東京よりは、佐野ですよね。
 向こうで何か手ごたえがあれば、なにも向こうにいる必要はないですからね。佐野にいてイギリスへ送ればすむことですからね。
@自然と対話しながら作った方がいいものができる?
 東京にいたときは、どうも落ち着かなかったですね。気持ち的に圧迫感がありました。
@東京と比較してロンドンはどうですか。
 代々木公園のような、本当にここは公園なのかと思えるような公園がいっぱいありました。リスとかがいたりね。向こうの人はかなり自然を大切にしています。
 日本だと、土地は個人の持ち物であって、売り買いしますよね。でも、イギリスは全部ロイヤルファミリーのものという感じで、勝手に土地を買い占めたりできない見たいです。各人の家に庭がない分、みんなのための公園というものがたくさんある。ロンドンのどこにいても家から十分も歩けば大きな公園に行けます。
@曲づくりはいつやるのですか。 ほとんど夜ですね。どうしても日中は他のことが気になってしまう。夜だとシーンとしていますからね。たまにふとメロディーが浮かんだときに、メモをする。あるいは、パソコンに直接入力する。もちろん譜面も書きます。でも、たいがいは直接入力です。今では、譜面を書かない人が多いですね。
@なんだかワープロと作家の関係みたいですね。
 それと同じです。
@そのほうが、イメージが湧き安いわけですか。
 というか、後から編集はしやすい。結局パソコンを使って入力するわけですからね。
 曲は、一つ完成するまでに一、二週間かかります。昨年のデモテープでは六曲作ったわけですが二カ月くらいかかりました。
@イメージというのはふと湧くものですか。
 作ろうと思って作ったときはあまりいいものはできないですね。たとえ人がいいと言ってくれても自分では気に入らないというのがあります。かといってただいるだけで浮かぶものでもない。本を読んでいたりすると、ふとなにか浮かんだりします。
@わりと読書も好きな方なんですか。
 そうですね。テレビはあまり好きじゃないし、後は映画ですね。コマーシャルな映画ではなく、その感想文として曲ができるという感じです。
@向こうではCDが主流なんですか。
 まだまだレコードが健在で、CDと半々くらいです。少しずつCDになりつつありますけれど、デスコのDJが使うのはやはりレコードですからね。
 僕がやっているようなものはスタジオを使わないとできないというようなものではない。ジャズとかクラッシュックといった、生のものだとステージにしないとお客さんは楽しめないですけれど、僕がやっているものは映像だとかビデオと一緒にやるものですからね。
@これを聞く年齢層はどういった人達ですか。
 幅は広いですね。小学生から聞きます。でも大半は大学生くらいの踊りに行きたい年齢の人たちですね。
@日本の歌謡曲のようなものは、イギリスにはあるのですか。
 ありますけれども日本ほどは大きくないですね。日本は歌謡曲と演歌という大きな柱があるでしょう。ところがむこうは完全に細分化されています。そしてそれぞれのジャンルが同じくらい支持を得ている。クラッシュック、ジャズ、ブルース、クラブ系のダンスミュージックとあり、どれをやっているから優れているとか、どれがだめとかということではない。
@生活の中に音楽が入って来ているという感じですか。
 完全にそうですね。生活の一部的です。日本ですと、レストランに入っても居酒屋に入っても音楽はかかっていますが、イギリスのパブでは生もあり、その店それぞれの個性がでています。ブルースならブルースを専門にしているパブもあるわけです。それもビール一本頼めば、後は何時間いようとおかまいなしなんです。日本だとそういうところは高いですよね。音楽の質というか、楽しみ方が違う。音楽は必需品というか、生活そ
のもの。まるで、日本人が仕事から帰って来てテレビをみる、あるいはドライブにいくとか、スキーだとか、カラオケボックス、そういう感覚で音楽を聴いている。ゴルフに行く代わりにレストランに行って音楽を聞く、というような楽しみ方をするんです。逆に言えば日本の人達のように、金をかける楽しみ方よりももっと気軽にお金のかからない楽しみ方をしている。それで、十分満足できればいい。
@どうもありがとうございました。


こならの森 70号

2008-04-17 | 創刊~100号

       ■こならの森70号■1993.2発行

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森3月号■
おぞねとしこのポエム………………3
結婚しました…………………………4
見知らんの5つの市…………………5
 特集 現代の迷宮を探る…………6
JC・JOURNAL………………14
協賛店マップ…………………………16
インフォメーション94………………18
お得な情報コーナー…………………20
こならの森2月の情報………………22
海棠市子の辛口映画評………………24
書評・絵本紹介………………………25
MINIニュース……………………26
「ロッキンオンこなら」……………27
「こならの森流・マスメディア論」28
杜  皇が占う今月の運勢…………29
新・こならの森から…………………30

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【本文抜粋記事】

特集 現代の迷宮を探る
馬門町
 その日の、日常的な一日とは別な時間をもつことによって、崇高な時間を供与することができる。それは、趣味に没頭することでも、ほとんどむだだと思えること、あるい非生産的で、発展性のないものであってもである。どこかに、日常とは掛け離れた世界を持たないことには、この複雑化された現代を生きて行けるはずはない。
 新年早々こならの森編集室に届いたのは、年賀状よりも先に、佐野市大祝町在住T氏からのファックスだった。後に電話も入る。年末に集金をするため、東の産業道路を南に向かい、その帰りにとても信じられない町に迷い込んでしまったというのが、彼の電話の内容だった。
 ファックスには、そのとき撮ったのだという写真があったが、解像力も悪く何が写っているのかまったく分からなかった。しかし、それがまた、好奇心を刺激したのかもしれない。ともかく、これでは何も分からないので、T氏の自宅まで出掛けることにした。写真もじっくり見てみたいし、どういう町だったのか詳しく聞いてみたくなったからだ。
 T氏は、先頃足利市で結成されたミステリー・サークル「ロックホー」に所属しており、ルート293の霊魂や、みかもやまレジャーランドの幽霊といった市内の怪奇現象に詳しく、それをこならの森の企画に取り上げてほしいと何度か編集室にも電話をかけてきていた。
 早速に写真を見せて欲しいと言ったのだが、あいにく「ロックホー」の会報に掲載するため、ほとんど送ってしまったという。しかたなく、残った写真数枚と、ネガを借り受け、それを見ながらいったいどういう町なのかと想像してみた。
 彼が言うのは、まったく明治時代が、現代にタイムスリップして来たみたいなのだという。
「ともかく、集金が終わってほっと一息、さて会社まで戻ろうと思ったとき、どこをどう間違っ
たのか途方もな町に迷い込んぢまった。冬でも、昼下がりに日の光を受けながら、ぼやーっと車を運転していると、つい眠くなるまでも、伸びやかな気持ちになるもんじゃありませんか。そんな時に、帰る道を一つ間違えたんだと思いますよ。確か。回りは、全くの農村風景で、最初は『迷宮』だなんてとっても信じていませんでした。でも、河川敷沿いに車を走らせると、
とても想像できない出来事が始まったんです。」
 ………彼の体はかすかに震えているように思えた。目も笑っていない。いつもクールな男を自認する彼のこと、これは何かあると思った。とにかく彼らしくなくいつにもなく、取り乱している風だったのだ。
 佐野に生まれて、佐野に育ったのだからこの辺の地理には詳しい。だから、〃佐野市内〃ならどこでも頭にあったはずだった。ちょっとくらい道を違えても、だいたいどこら辺りということは分かる。だからこそ、尚のこと気にかかったのかもしれない。と彼は言う。まったく見当違いだったのだ。もしからした、四次元空間とまでいわなくても、佐野市ではないところへ迷い込んだのかもしれないという。
 そこまでいうのならこれは調査してみる甲斐はあると思った。 さっそく、忙しい激務の間を縫って、彼にも同行取材をお願いした。しかし、なかなかその地点の入り口が見つからない。現地に行って、地図を広げ見当をつけていた地点までやって来ていた。ここら当たりがその辺だと思うという東の産業道路をとにかく南に向かってみた。
 佐野市と藤岡町の境まで来た。この辺あたりから、おかしくなったというのだ。まさしくこれは、「タイムゾーン」というやつだろうか。
 ぼやーっとした頭のまま、居眠り運転ともつかないで、流れのままにハンドルを握っていると、いつしかあの町に紛れ込んでいたというのが真相らしい。こんなことはよくある。知らない土地で、地図を見ながら進んでいてぼやっとしていると、とんでもない方向へ進んでいても全く気が付かない。ということはよくあることだ。なんのことはない、私だって間違いないと思い込んでしまって、流れのまま前進して、どうもおかしいな、でも間違いないから、と言い聞かせ結局途方もない引き返せない所まで進んでしまったということをよく経験していた。
 しかし、彼の出来事は佐野市内かあるいは〃そう遠くない〃地点での話だと聞く。いくらミステリーに興味があるからといって、この佐野市内でそんな事があるわけがない、というのが私(編集長)の意見なのだが。
 その、佐野市と藤岡町との境目地点から、あちこち脇路を入ってみたり、引き返してみたりを繰り返したのだが、どうも彼の見た町の風景とは違っているという。ことわっておくが、この辺りの農産村風景は、関東平野ならどこでもみられる風景であり、農産村風景の村落の中に突如として、庄屋の大屋敷が現れたり、大谷石造りの歴史的な大倉庫群が君臨するといったことは決して珍しくはないのだから、これといって珍しがるところでもないというのが、私の見解だが、彼は納得しない。まだ半信半疑の様子。日が暮れるまでには、その〃迷宮〃の入り口を探し当てるといっていたが、どうも午後四時にもならないうちに、彼は急用が入ったらしく、携帯電話を切ると、いそいで帰っていったのだった。ここまで来てと思ったので、もう少し辺りを散策した後、帰路についた。これでは仕方ないと半ばあきらめながら、日が陰る方向へ向かって車を走らせていると、彼が力説した風景だと思える町並みが突如として迫って来た。
 あわてて彼の携帯電話に連絡するが、応答がない。会社に電話を入れると、どうやら携帯電話は事務所にあづけていて他の会議に出席しているらしかった。こんなときに、と思ったが、これでは確認できない。しかし、「信じられないような、農寒村なのにちょっとした集落に時代を思い起こさせる、あるいは明治時代初期にタイムスリップしたと思えても不思議ではない風景が展開した。
「その風景の中に突如として、郵便局が表われた。」
「いわれありそうな寺院と、五百年はたったであろう樹木に覆われた鎮守の森の神社があった」「旅館や、洋品店といった店が当時のままの構えで営業していた」さらに「近代的な鉄筋建築の小学校があった。」
「それに付属するこれまた近代的な地区公民館も建っていて面食らってしまった。」いきなり現代に引き戻されたというのだ。 これは、まぎれもなく彼が口にしていた迷宮そのものではないか、しかし、どこかで見たことがある場所だなと思った。
 それは、この角を曲がったときにはっきりとした。
 昔見た映画で、自分が探していた極悪犯は実は自分自身だったという、なんともミステリアスであり、ホラーなものがたりだったが、これがまったくそのとおりになるとは思っていもいなかったのだが、この続きは次回に。


こならの森 69号

2008-04-17 | 創刊~100号
       ■こならの森69号■1993.12発行

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森1月号■

 @目   次@
としこのポエム ひなげし…………3p
結婚しました……小松原……………4p
見知らんの5つの市…………………5p
特集1994を占う…………………6-13p
JC・JOURNALインタビュー…14-15p
協賛店マップ…………………………16-17p
インフォメーション93………………18-21p
万葉ラブ……20-21p
海棠市子の辛口映画評………………22p
書評・絵本紹介………………………23p
「ロッキンオンこなら」……………24p
「こならの森流・マスメディア論」25p
現代国語………24-25p
インタビュー…26-28p
お知らせ………29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】
新春インタビュー
■PROFILE
 安蘇谷康夫さん
(株)アソヤ・専務取締役。
趣味は、SFCのシュミレーションゲームとゴルフ。

 今年の大きな目標は「安佐はひとつ」の原点に返ってということですが、具体的にはどういったことですか。
 安佐はひとつということでは、秋山川清掃が一番に上げられます。民間団体から盛り上げていったということでは先駆けとなった運動で、画期的な事だったと思います。全国的にも例がなかった事でしょうね。日本青年会議所の社会開発運動部門で秋山川清掃の事例を発表したのですが、それが認められ最優秀賞も受賞しています。
 この地域に住む人が共に手を携えてこの地域を良くしよう。それを佐野・田沼・葛生を貫いて流れる秋山川を象徴として取られえ、みんなの手できれいにする事で郷土愛を培う。そして清掃事業にとどまらずすべての面において住み良い環境を作っていきましょう、という運動なのです。ですがそれが、ここへ来て意識がだんだん薄れてきたのかもしれない。そこで、今年は「安佐はひとつ」という原点に返ってみる。今までの歴史にたって、新たな方向性として秋山川清掃を活かしながらどんなことができるのか模索する事が今年の一番大きなことなんです。
 その他で、今年の方針のなかにあるものを教えてください。 
 大きく分けると秋山川に関連する町づくり、国際貢献と環境問題です。環境問題は、秋山川にも関連します。
 町づくりというのはどういうことですか………。
 「安佐はひとつ」という意味が、当初は合併をとらえていたか、もしくはただ意識の上でのことだけだったのか、そういうことがあいまいですので、今年一年間かけて認識を新たにしないといけない。今年は創立29周年ですが、ここで考えを一つにできれば30周年に向けて、安佐に対して提唱できる運動にもなっていくと思っています。JCにはそれができると思っています。そこで、この問題を再認識しようと、昨年から先進地の方々を佐野にお招きしたりして勉強を始めています。
 町村合併という事を含めた考えですか。
 安佐の住みよい町づくりを考えているわけですから、その中でベストな方策が合併であればそれに向けて考えていかなければいけない。もし、それをそこに住む人が望んでいなければ無意味ですから、その辺の認識を改めて調査して分析する必要があると思います。そこで具体的な一歩が踏み出せるかどうかは分かりませんが、ある程度の形となれば30周年という節目の年に何らかの具体的な行動していきたい。 秋山川清掃では、単に清掃だけにとどまらず、その後になにかイベントを考えていると伺いましたが。
 いろいろな委員会が今年の目標である「安佐はひとつ」ということを考えて、行動しますから国際委員会の立場で秋山川を考えたら、ここに住んでいる外国人の方がただ住んでいるだけではなくて、安佐の地を良く知ってもらおうということも含めて、秋山川清掃の日に呼んでそこで交流ができれば、安佐の地を良くすることにもなるのかと思います。外国の人もここに住んでいる以上はそういう運動をやってみませんかと、呼びかけ、一緒に清掃ができればまたひとつ大きな流れになると思います。
 その他のイベントは………。
 内部的に方向性を見つめ直すというのが今年の一番の目的なんです。ただそれだけでは、外部に対してアピールできませんので、秋山川清掃などでイベントは持っていきますが、あくまで次年度の30周年のステップであって今年はそのための内部充実の年とらえています。
 昨年行った国際交流フェスティバルなどを行うという予定は………。 JCだけで行ったイベントではありませんので、私共だけで決められませんが、話がうまくまとまれば行うこともあります。
 JCというのは、物事を起こす団体だと思うんです。ですから、継続にするにしてもそれには新たな意味づけを持ちながら、運動を起こすのが本来の姿だと思います。
 あるべき運動をただ単に消化するだけでは、意味がないかも知れない、それが今年と違った形で目が出せれば、今まで関係なかった人をも巻きこめる運動になると思う。
 どういう意味付けでやるにしても同じ形ではなく、ちょっと味付けを変えて今度は、それ以外の団体も巻きこむ。するとより大きな運動に発展する。その辺が毎年同じ事業をやっていくポイントではないかと思います。
 それから日本青年会議所では、「もったいない運動」というのを提唱しています。もともと日本人には、もったいないという心が存在していたけれど、その辺の心が少しずつ失われて来た。それは、ものに対する慈しみだけではなくて、人に対する思いやりとかいろいろな意味を含んだ言葉ではないか。と、昨年の会頭が提唱しました。今年は具体的な運動としてもっと地域でやってください、といっています。六月がその「もったいない運動」強調月間ですので、その月にはなんらかの発信をしたいと思います。
 JCは単年度制ですので、つながりを強制することはできないのですが、精神としてはすくなからず受け継がれていく。それが、どういう形となるかは委員長や理事長の考え方で決まってくると思います。
 日本社会の先行き感といったところから、反省をこめて振り返えってみようという運動と言えますか。
 日本のレベルでとらえるとそういうことだと思うのですが、これには、地球規模の環境問題まで含んでいると思います。例えば、リサイクルの問題で再生紙が盛んに使われて来ていますが、これは日本が紙を無駄に消費して世界各地の森林を破壊している、そういうことにつながってくる。その辺のことまで視野に入った運動としてとらえられると思います。それは一地域の問題ではない。日本JCが提唱して、地域でそれを実践すれば日本全国に広まりますし、地球規模の問題まで考えることができると思います。
 現在は各地で市民レベルの草の根的な運動ができていて、町づくりに関しては相当数の実績を得ている。今まではどうしても汗をかかないで済むような運動に安易に落ち入りがちだったのが非常に地道に、地に足がついた運動となってきている。私達はそれを見習うと共に、手を携えてやっていかなくてはいけないのではないか。
 認識を新たにしてもう一度安佐の地でそういう草の根活動をしていらっしゃる方達と同じ土壌で話をして、お互いに交流しながら運動を展開できるのではないかと思います。
 今までお話を聞いて来て、いろいろな考えを持って行動している組織だということが良く分かったのですが、一般的にはJC、佐野青年会議所と聞いてもどういうことをしている会で、入会するにはどうしたらいいのかといったことが今一つ分からないのですが………。
 とにかく最初は例会を見学していただくと良く分かると思います。受付は随時行っていますから、その場で入会をされてもいいと思います。JCの一番いいことは、いろいろな人と出会える、その中で自分の選択肢が増える。ただ仕事だけだとそれだけの付き合いになってしまってその部分だけの選択肢しかないわけですが、今度は全方向へ広がっていく、その事が大きいですね。
 メンバーの年齢層も若いし、まだやり直しができる年齢ですので、失敗を恐れずに伸び伸びと活動ができると思います。
 最後に今年の抱負をお聞かせください。
 私は良くクールな男だと言われてしまうんです(笑)。なかなか燃えるところを人に今まで見せなかった。今年は、理事長の年なので本当に悔いのないように、燃える一年にしたいと思っています。JCの活動も机上の理論だけで終わってしまう所があるものですから、自ら汗を流すということですね。やってみなければ分からない。今年は体当たりでぶつかっていきたいと思っています。 


こならの森 68号

2008-04-16 | 創刊~100号
       ■こならの森68号■1993.12発行

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森1月号■
 @目   次@
としこのポエム………………………3
結婚しました…………………………4
見知らんの5つの市…………………5
すてきな・お店紹介…………………6
JC・JOURNAL特別号………8
インフォメーション93………………10
@特集「女性起業家のゆめ構想」…14
@新シリーズ
「こならの森流・マスメディア論」23
「ロッキンオンこなら」……………23
海棠市子の辛口映画評………………24
書評・絵本紹介………………………25
12月の情報……………………………26
協賛店マップ…………………………28
新・こならの森から…………………30

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【本文抜粋記事】

特集「女性起業家のゆめ構想」

  @パネラー@
 佐野市・白沢会計事務所 
   税理士 白沢みのる 
 足利市・(株)浅沼経営センター
   常務取締役 浅沼 公子
 太田市・(株)太田自動車教習所   代表取締役 遠藤キン子 
 桐生市・(株)ファッション企画
       アトリエ・スミ
   代表取締役 荒島スミ子 
 ※佐野女子短期大学で行われた公開
  シンポジュームにより収録。
  (構成・文章編集 こならの森)
@白沢 私は起業家というよりも、税理士ですので企業家をバックアップする立場では無いかと思います。
 私が税理士になろうとしたのは、母親の「自立できる方法を探してほしい」という言葉が焼き付いたからです。父親はこういう仕事をしろとはいいませんでした。ですから大学に行こうと思ったときにも商学部にいくことにしました。でも税理士になるのは簡単なものではなかったですね。 
 大学卒業の翌年に結婚。その年の暮れに簿記の試験を受けましたら受かったんですね。その時は「ああ、受かったでは無いか」と思いました。やがて長女が生まれましたが、その頃ウイルス性の肝炎がはやりまして、夫がそれにかかってしまったんです。死とかは感じませんでしたが、「やっぱり私、何かできなくては困る」と思いました。それが転機となって、また資格試験の勉強をやろうという気持ちになりつつも、忙しく子育てに追われていました。それでも、大きなおなかを抱えて試験場には足を運びました。そういう時というのはどうなんでしょうね底力が出たのか、財務諸表が受かったんです。これで二科目取った。(公認会計士の資格は)後三科目なんですが、これを仕事と家事・子育てをしながらやろうとしたら毎年一科目ずつ取れるとは限らないから、何年かかるか分からない。どうしようかと思ったときにひらめいたのが大学院へ行くことなんです。大学院の法学研究科を卒業すれば、残りの三科目が免除されます。ですからそれをやってみよう。でも、もう大学を卒業してから五年もたっている、と自問自答しましたが、これは「やってみなければ分からない」と思いまして、子どもを寝かせてから自分でも結構一生懸命やったと思うほど勉強しました。もし落ちたら、後は試験でやろうと思っていましたが、運良く合格することができました。
 朝は家の中の事をすませてから大学院へ出かけ、帰って来ても家事を全部やって………近くに母もいましたが、なるべく親には迷惑をかけないようにしようと思いました。自分で「これは絶対やるんだ」と決めたことですから、最後まで通しました。それで何とか卒業することができました。
 資格を取った時には主人も同じような仕事をしておりましたので、私は自分の許容量というものをこれだけと決めました。最初は、子育てをしていましたから少なかったですね。でも今までやって来た所の仕事は完璧にやって行こう。最初は範囲を狭くして両立できるようにしました。その代わり持った仕事は一〇〇%こなしました。
 家事・育児があり、それでも男の人と同じ仕事量をやろうと思いましたらとても無理なことで、自分が二人いないとできません。また、私自身にはそれだけの能力がありません。一人分の能力しかありません。ですから、そうやってしかやって来れませんでした。
 やる時にはやらなければいけないと思います。「あの時やっておけば良かった」という悔いだけは残してほしくないと思います。私にもできました、『そういう時』に一生懸命やってみると、案外うまく転ぶ場合が多いと思っています。やってみなくては分からない。だから、あの時に大変だったけれど頑張って良かったなと今ここへ来て思っています。
 私には、これが一番いい方法だという最良の方法は分からないんですね。でも私は、これが私の一番いい方法だと思って今までやって来ました。
 チャンスがあったら、そのチャンスにぜひ挑んでください。そして、何かのときに「自分はこれができるんだ」ということが、これから先の心の支えになるだろうし、充実感も味わえるだろうと思います。

@浅沼 私はグループAGの副代表をしております。女性が百十名、男性が六十名くらいいます。私には何の資格もありません。家庭では二男一女の母で長男はつい最近結婚しました。入学と卒業が重ならないように、しっかりと四年毎に子供を産みました(笑)。もし、入学と卒業が重なりますと、これは仕事が一時的に乗り切れなくなると思ったんですね。四年毎に産んで各育児はどうやったのか………。
 家事というのは、朝起きてから夜寝るまで、後始末的整理の連続です。食事の後片付け、洗濯物の後片付け、部屋の掃除の後片付け、八〇%は後片付的整理です。創造的な部分は料理とかインテリアとかいう二〇%くらいと思います。
 そんなところから、誰がやっても出来上がりの同じものは人に任せようと思いました。家事という品質管理をきちんとすればいい。そして、私のやった事と同じ事ができればいいのだと。 結婚して長男が生まれるちょっと前に、高卒の答辞を読むくらいの優秀な女性を採用し、名刺を持たせ家政課という課をつくりました。制服を着て洗濯したり、掃除をしたり、おむつを洗ったりしたわけです。課員は別に一人でもいいんですね。
 家事というのは、どうしてもオフィースに勤めている女性から見ますとお手伝いさん的、育児といいますと子守というような低いレベルになる。ですから、家事を家事学、育児を育児学におくことによって、「学」というものをやっているんだという意識をもたせました。
 このビジネスの世界はいつも新鮮で行動的で芸術的で自分の人生を燃焼させるすばらしいものだと思っています。今でも他にこれほど手ごたえのある人生があるだろうかと思っております。女性の生き方は生まれ育った時代、生育環境というものによって一〇〇人に聞けば、一〇〇人の生き方というものがあると思います。
 例年九月の初旬になりますと、学卒者の試験と面接があります。そこで何の仕事を希望しますかと聞きますと九〇%の人が一般事務ですと答えます。私のキャリアでこんなことにチャレンジしてみたいとか、こんな仕事はありませんか? こんな仕事がやりたいんです、というのはなかなか聞かれないんですね。もちろん緊張している面もあるでしょうが、会社の中に一般事務というのはなくなりつつあります。そして人間でなくてはできない専門能力や技術、高度なサービス、マネージメント能力、またオリジナリティナな発想力、そういうものが非常に大事になってきています。さらにその上に、第三の能力『人間関係能力』があると思います。今のような高学歴社会では、人間関係が大事になってくる。態度能力、言語能力、表現能力この三つが人間関係能力ではないかと思います。
 この間一つの文章が私の所に届きました。当社でアルバイトをしていた短大生が書いたものですが、「…アルバイトとして入ってから一週間たって、わざわざ私の前に並んでくれるお客様が現れるようになりました。そして、あなたから買いたいと思って来たのよと言ってくださったときには、顔を上げると涙だがあるのが分かりそうなので、なかなか上げられませんでした。そして私はそのときにサービスは何かを考えました。│それは一つの幸せに参加し、一つの感謝の場面に参加する。そう考えたとき、『サービスは生きることを豊かにする』と思った。そして、良い仕事をするということに奇跡は起こらない。次の日になったら突然一流のセールスマンになったりするなどということはない。一歩一歩の経験と努力しか無いということを知った。」というものでした。
 時代は大きく変わって来ています。今は『ABCCの時代』だといいます。Aはアメニティ…快適。Bはビューティ…ビューティな生活がしたいと思っている人が多くいます。Cはコミュニティ…社会の連帯感が求められ、コミュニティというものが非常に強く打ち出されて来ています。それからCのコンビニエンス…手軽とか利便性とか、そんなものが求められている。でもこれは全部女性の特質を要求するもので、これからの女性は時代が要求する能力をたくさんもっていると言えます。
@遠藤 私は現在自動車教習所をやっておりますが、人間の出会いというのは本当に大切でありまして、私の場合は今まで仕事関係では、知らない人達というのがほとんどなんですね。でも、いろいろなきっかけで発展していく訳なんです。人と人との出会いから、色々発展していくと思うんですね。
 教習所も最初は全然分からないことをやっていきながら、ひとつひとつ覚えていくということもあるわけです。そして、色々難しいことも消化して、最後に合格したときの嬉しさというのは人に言えないほどの喜びではないかなと思います。私たちの時代では、女性が免許を取る比率が低かったんです。それからその頃は、あくまでも先生が自分の口で講義をしていましたが、現在はハイテク全盛ですね。 私のところでも女性指導員がいます。今は教習所も女性の方が多い訳ですから、女性指導員もいておかしくない訳ですね。今までは、男性オンリーだったわけです。女性指導員は私のところでは、四、五人ですが、これからは女性の仕事として充分通用すると思います。
 今は男性でも女性でも変わりなくやっている訳ですが、女の人も苦労が多いと思います。ですけれども、人がやってできないことは無いはずです。女性はまずは結婚があります。そして、出産・育児がございます。そういうことを繰り返して一生懸命やってクリアーして初めて一人前になる。これは男性から見たらハンディーであるわけです。ですがそれは、女性である以上どうしても仕方がないわけですから、自分の環境を見ながらどうその環境を生かしていくかということがその人の英知ですね。私もすこし出産が遅かったんですが、四二歳のときに産んだ子どもが一人おります。育児の問題がありますから、どのように育てていったらいいかということはその人の環境によって違う訳ですから、その中で考えていかれるといいと思います。
 私もいろいろ考えましたけれども、幸いにして良いお手伝いさんを見つけまして、その方は子どもが大好きだった訳です。そして、おばあちゃんもいましたのでなんら心配することは無かった訳です。
 子どもとの接し方というのは、母親として一番大切な事なんですね。ですから、子どもとは常に対話をして接していく。それは、欠かしてはいけない部分ですから皆様もそういう部分を頭にいれながら、やっていただければよろしいんじゃ無いかと思います。
 企業は人なりとは良く言いますけれども、本当に企業をやっていくには人と人との接し方というものがある訳です。
 取りとめの無い話でしたが、最後まで聞いていただきましてありがとうございました。

@荒島 はたして私は、女性起業家と言えるのだうかと思いましたが、勉強の機会が与えられたということで大役をお引き受けすることにしました。
 私が大学を受けようとしたのは四〇年前のことです。細かいことをすることが好きでしたので女子美術大学を受験し合格しました。
 そこで現在の造形大学の創始者、桑沢先生が女子美の教授でありまして、私は桑沢先生の担当のクラスに入りました。遠藤さんも人との出会いと言うものを言われましたが、私も桑沢先
生に出会いましてかなりの影響を受けました。考え方が全然違うんですね。
 私にはプライドはありませんでしたが、小さいころから人と同じことはいやだと思いましたので、少し生意気な態度の女の子だったんです。姉妹はみんな大学へいっても、花嫁修業なんですね。就職をすることには縁がなかった訳です。私はそういう姉たちを見ていて、自分は自立しようと思った訳です。
 二年間があっと言う間に過ぎ、編入しようとしたら、学校に残ってくれと言われました。
 卒業する前から研究室の手伝いをされられ、三月に卒業すると四月から担任をさせられたんです。三月まで生徒だったのに、四月になったら先生と言われるようになりました。
 そういうような状況でしたが、積極的にトライしてみようという気もありましたので、かなり意気込んでやっておりました。それで三年間くらいやっておりましたが、どうも学校という環境が性格に合わないと思いはじめたんです。学校にはある枠があるんですね。ですからその枠の中で、教えるということに悲しくなりました。それから自分の考えていることを、形にしてみたいという創作意欲がつねにありましたので、そうお話ししましたら「後が見つかるまで」と、とうとう4年間いました。
 その後は、桑沢先生の関係であちらこちらと他流試合をさせていただき、それなりの勉強をいたしました。後になってからではできないので、その年その年を大事にして、吸収すべきことは、すべて吸収しました。
 他流試合をしているあいだに出会いがありまして、結婚をしました。結婚して、子育てもありましたので七年間は、主婦業をしておりました。
 たまたま桐生に戻って来ましたら、一週間後にオープンするお店がデザイナーを募集しているという事でそこに入りました。 その後独立した訳ですが、独立しても、経営力があるわけではなく苦労しました。
 一日は二十四時間しかありませんので、限界があります。そこで、人が三時間かかる仕事を二時間でしあげました。それまでひ弱だった私が、出産してからは寝込んだりという事が無くなりました。母は強しですね。
@質疑応答@


フロアーから…白沢さんに質問ですが、先程「あのときにやっておけばよかった」ということの無いように、という話しをお聞きしましたが、白沢さん自身で「あのときにやっておけばよかった」と思うことがありましたら、お伺いしたいのですが…。
@白沢 私の場合は「あのときにやっておけばよかった」という後悔はしないで今までやって来れたんですね。今これをしなくては、今がチャンスなんだというときにはやって来たんです。そして何とかそれがクリアーできたんです。
 その時に何をするかということが問題で、私の場合は試験を受け合格することができました。そして、その次にもう一つ受けようという気持ち、また財務諸表が受かった翌年の三月に、では大学院に挑戦してみようというその気持ちが大切なんです。もちろん落ちてしまったらしかたなかったのですが、たぶん私はそうなっていてもやっただろうと思います。
 大学院では、男性学生ばかりでしたがやって来れました。もちろん勉強は大変で、図書館から書物を何冊も借りて来て、夜子どもを寝かせてから一生懸命勉強しました。今ではできないかも知れません、あの時だったからこそできたと思います。
 みんなと一緒にまた学生気分が味わえた、つらかったけれども、先生からもいいアドバイスも受けられました。大学が法学部でなかったこともありまして、基礎的な知識で足りないこともあったんです。こういう部分は当然知らなければいけないんだよと言うようなことを遠回しに言われたときにはショックでしたね。その時に私は「ここで負けてなるものか」と思ったんですね。そういうときだけ力が出てくるんです。でもその中で、いい先生にも巡り会えました。今でもその先生方と交友を持っています。
 そういう時期が来て、それに挑戦することができたということ、そしてそのときに挑戦できるものはやって来たつもりです。ですから「あのときに………」ということは無かったと言っていいでしょう。
 そういう時というのはおそらくどなたにもある転機ですね。何かが取れるという時には、自分が出来る限りの挑戦をして見るということが大事だと思います。今まで生きて来てそう思います。

フロアーから……… 女性が仕事を続けて行くうえでは、セクハラを含めていろいろな障害があると思いますが、その時にまたやる気を出すには、仕事を続ける使命感が無ければできないと思います。皆さんは、何のために仕事をなさっているのか、その点を聞かせていただければ嬉しいのですが………。

@白沢 セクハラに関しては、割り切ることにしています。そんなことに乗らない、適当にかわす。ただ、仕事上のことでは、「女の人だから……」と言うことだけは非常に不愉快ですよね。私よりとしが上の方はもっとそういう場面に多くであったといいます。ただ、その時は自分には資格がある、男の人と何にも変わらない、見解が同じなら正しいことは突き進もう、そういう気持ちがあったから乗り切れたのかなと思います。また、それをよく解釈すれば逆手にとることもできるんです。男の人が相手だと感情的になることも、女性だと和らぐといういい面もあります。逆に女の人の方がいいよといわれる場合がこの頃あります。「女の人だと、対応が優しいからね」ということは、逆手にとることにしています。
 これからは、女の人がどんどん世の中に出てくる時代です。ですから、例えばお茶を入れるとかということについても、男の人より女の人の方が入れた方がおいしいのではないか。そういうことでは、男の人より勝っているのではないか。そういうふうに思って事にあたれば、悔しいことはないと思います。

@浅沼 「股尻三年、胸八年」ということが昔は言われたんですが、セクハラは女性自身側がちゃんとした気構えを持っていればおこらないと思います。自分が一人のビジネスウーマン、キャリアウーマンであるのだという気構えの確立が、キャリアということを白沢さんがおっしゃいましたけれども、そのようなものでかわして行けるのではないかと思います。ただし、女性ですのであくまでしなやかに、しとやかにという事が大事じゃ無いかと思います。
 長い間事業をやって参りまして、名刺を出す相手は、私の年代ですと全部男性です。でも、私はそのようなセクハラということにあったことは一度も無いと言っていいと思います。絶対相手と対等だと思っております。やはりそういうもののスキがないんじゃ無いかなと思います。
 それから、仕事をするのはなぜするのか、という一番重要な質問なんですけれども、女性には百人には百人の生き方があります。女の生き方などというものは、一本のものさしで押し付けられるものではないと思います。これは、私固有のものだと思いますけれども、人生は一回だと思います。地球はこの後何万年も続くかも知れませんけれども、その中で、浅沼きみ子という人間が生きていたというようなことなどだれも分かりません。ケシの実程の人生だと思うんです。そういう中で、なんで薄めた牛乳のような人生が送れるものか、と絶対に思うわけですね。後ろに続く女性のためにも、手応えある人生を送りたいと思います。

@荒島 私にとっては、セクハラが起こる状況事態がナンセンスです。
 いつも私は外見的には女性で接していますけれども内面は男性という意識で男性と接しています。 これはほめ言葉なのか、どうなのか分かりませんが、きせずしてある男性から、「今まで男女間の友情というのは成立しないと定義づけていたけれど、荒島さんと付き合って成り立つんだということが分かりました」という言葉を戴きました。
 新入社員がお茶くみをするというのではなくて、気持ちとして、「ああ、お茶を入れてあげたいな」と思ったらだれが入れてあげてもいい。お茶くみをすることが自分のプライドを傷つけると思うこと自体がナンセンスで、やはり人間というものは心と心との触れ合いで成り立っていて、大きな社会の中で自分一人で孤立することはできない。誰かがそういう仕事をしなければいけない訳です。ですから、それは新入社員でも、社長でもかまわない。だから、与えられた仕事をするだけで無くて、自分から率先してするようにすれば少しも不愉快なことは無いわけです。私はそうして来ました。ですから私は、人のためにしてあげるのではなくて自分のためにしてあげるのだと思えば何にもいやなことは無いと思います。人と人の触れ合いは心の勉強でもあると思うわけです。人生を振り返ってみて何をやって来たかでは無くて、どう生きたかという事が問題では無いかと思います。
 ですから、いつも心を平静に持って、楽しく笑って暮らすも一生、泣いて暮らすも一生だと思ってから、とても道が開けました。何もかも自分のためにしていると考えると、嫌なことが何もなくなる。努力するのも、人のためにするのでは無く自分のためにする。その努力が十年か二十年先に報われるわけです。もしかしたら報われないかも知れない。でも、報われる事を夢見て努力するのが人生だと思います。

@遠藤 いろいろでましたのでもう私が申し上げることは何もございません。
 その通りだと思います。この先は私はどう生きるのかということを今は真剣に考えています。いろいろなことに挑戦をして頂いて、その中でも一番いい道を探して伸びて行くということが大切だと思います。
司会 何のために仕事をするのかというのは素朴な質問ですが、一番的を射た質問だなと思いました。四名の方からそれぞれお話しを頂きまして、一つの取りまとめになったと思います。お話しの中にもありましたが、「百人の女性には、百人の生き方がある」、ここで一つの結論を出すということもある意味ではナンセンスかと思います。
 現在ご活躍の皆様方は、ここに至るまでに様々なご苦労があったという事をお聞きしましたが、皆さんに一つ共通していることは、自分のおかれた立場を最大限に活かして、常にチャンスを逃さないようにし、それが訪れたときにはしっかりと受け止める準備をなさっていらしたのではないかということです。
 本当にお忙しいところをありがとうございました。


こならの森 67号

2008-04-15 | 創刊~100号
       ■こならの森67号■1993.11

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森12月号■
3p… さざんか 目次
4p…結婚しました
5p…やんば 
6-9p…インフォ/現代用語
10-11p 新・ロック評/万葉ラブ
12-17p 特集 国際交流
18-23p…JCジャーナル 
24p…銀幕画廊
25p…書評・絵本紹介
26-29p 文化会館情報/協賛
30こならの森から~

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【本文抜粋記事】

特集 国際交流
 
9月19日に、佐野市民会館周辺で行われた国際交流フェスティバルは、各方面からの反応があり、意義があったと思います。そこで今回は、当日までのいきさつや、企画に協力した佐野市国際交流協会等の諸団体との交流をふまえ、また当日の模様などをお伝えしながら、「国際交流」や「まちづくり」といったことをじっくりと考えてみたいと思ます。(今回の企画は、佐野JC並びに同広報委員会のご協力を得て制作いたしました。)

@国際交流と人づくり
 これから五年後、十年後の安佐はどうなっているでしょうか。現在、ボーダレスワールド、国際化社会、といった言葉がもてはやされています。きっと、もっともっと世界が近くなり、外国人の友達も増え、身近な友人達が世界を相手に仕事をしているはずです。私達の子供も留学したり、海外で仕事をしているかもしれません。
 我々は次の世代に対して何がしてあげられるかを考えました。そして、世界の子供の絵画展を思いついたのです。これは昨年からの佐野JCの事業でもありますが、海外からは約500点、実行委員会の外国人スタッフが卒業した小学校に依頼しました。安佐地区の小学校からは約630点。フェスティバル中に展示をし、好評でした。この後、海外の小学生の絵が安佐の小学校へ配られ、安佐の小学生の絵がプレゼントと夢を乗せて海外へ渡ります。これを機会に文通などの交流が始まれば、本当の国際交流に育っていけるのではないでしょうか。そして、そうなることを期待を込めて願っています。

 あなたはあなたの隣人を知っていますか?話をしたことはありますか?一緒にお茶を飲んだことはありますか?どんな顔をしているか知っていますか?もしかしたら、外国の人かもしれない・・・現在、安佐地区に住んでいる外国人は千人若しくは三千人とも言われています。おそらくこれからも増えていくことでしょう。隣近所に外国の人が引っ越してくることはあり得ないことではないのです。そんな時、私達は上手につきあえるでしょうか。隣人と楽しく和気あいあいと暮らしていくところが@まち@であるとしたら、今、私たちはすでに外国人の隣人の存在を無視できない環境にいるのではないでしょうか。そこで愉快に暮らせるかどうかは私達次第なのです。
 我々が国際交流の必要性を感じたのはそこからなのです。現在、安佐地区に住んでいる外国の人は、日系ブラジル人が一番多く、続いてペルー、アルゼンチン、パラグアイの日系の方の順となっています。私たち日本人は比較的欧米人やその文化と接する機会はありますが、アジアや南米、アフリカの隣人が多いにもかかわらず、彼らと接する機会がほとんどありません。彼らに聞いても同じ答えが返ってきます。近所の人たちとの会話もあまり無く、あっても挨拶程度だといいます。
 @安佐のまちづくりを、彼らとの交流から考えたらどうだろう@これが今回の国際交流フェスティバルの原点でした。私達日本人が単一民族だから外国人を受け入れるのが苦手なのかもしれません。言葉、習慣の違いという大きな壁もあります。でもこのままではいけないのではないでしょうか。私達はこのフェスティバルを通して少しでも多くの人たちが出会い、お互いの文化の違いを知り、理解し合う機会が増えればと考えました。@ISSHONIYAROUYO!(一緒にやろうよ)@これが合い言葉です。
@国際交流とまちづくり
 近代から現代にかけてさまざまな都市計画が行われてきました。ブラジリアに代表される計画都市。そして、行政主体の再開発。都市で行われている街づくりをみていると@何か足りないものがあるのではないか@そんな気がしてなりません。青年会議所の活動を通じてたどりついた結論は、その@足りないもの@とは@人とのふれあい@ではないだろうかということです。立派な@いれもの@ができても中に住むひとが@まち@を意識しなければ本当の@まちづくり@ができたとは言えないのではないでしょうか。隣に住む人と気軽にお茶が飲めるような@まち@になってこそ初めて@まちづくり@が完成したことになると思うのです。

国際交流フェスティバル
@フェスティバルまで
 今回このように盛大なフェスティバルを開催することができましたが、当初、(社)佐野青年会議所(佐野JC)国際交流委員会では、外国人による日本語スピーチコンテスト、世界の子どもの絵画展、このふたつを軸とした催しを考えていました。それがこんなにも大きく発展できたのは多くの人、それも外国人の方々との出会いがあったからです。それは、佐野国際交流協会に足を運び、外国人の方々を紹介されたことに始まります。彼らに催しの主旨を説明すると@世界の料理を紹介したらどうだろう@@世界の遊びをやったらおもしろいのではないだろうか@と次々に意見が出され膨らんでいきました。彼らの熱意と委員会の気持ちが共鳴し、いつしかの一委員会の事業が、佐野JCの全体事業となり、全てのメンバーが参加する実行委員会が設立されるようになりました。佐野国際交流協会の中にもフェスティバル部会が作られます。そして合同の実行委員会が設立され、今回の@国際交流フェスティバル@になったのです。もしも彼らとの出会いがなかったら、彼らにあれほどの情熱がなかったら、@日本人による国際交流フェスティバル@で終わっていたかもしれません。

@国際交流フェスティバル当日
 九月十九日は快晴でした。八月に各国大使館を訪れた結果、公使、参事官、領事官そして大使夫人にまでお越しいただくことが出来ました。Jリーグの選手も応援に駆けつけてくれました。当日は三十周年委員会が千食用意した@世界の料理@もアッという間に完売し、好評でした。当初は外国人の日本語スピーチだった企画もWA!WA !WA!(和、輪、話)という名前で内容を再検討し、研修委員会の協力を得て意義のある交流会ができたと思います。安佐未来委員会はガレージセールで盛り上げてくれました。遅れをとって心配だった@世界の子供のゲーム@が当日の一番人気だったのは地域交流委員会の努力の賜です。模擬店でヤキソバ、かき氷などで頑張ってくれたロム長期、三十周年委員会の皆さん。裏方で準備、用意してくれた総務委員会の皆さん、広報活動をあれほどまで頑張ってくれた広報委員会の皆さん。ブース作り、看板作りなどに携わってくれた三役、監事の皆さん。とにかく全員が協力しなければ出来なかった事業でした。
 国際交流フェスティバルは終わりました。しかし、国際交流や安佐のまちづくり、ひとづくりの始まりでもあると思います。もし、このフェスティバルを通して、一つの出会いや一つの理解が生まれていたとしたら、私達にとってこれ以上嬉しいことはありません。これからも安佐の未来について考え続けていきたいと思います。@ISSHONIYAROUYO!(いっしょにやようよ!)@が合い言葉。私達の安佐が益々発展していくことを願ってペンを置きます。
 本誌に3ヶ月にわたり掲載させていただいた、国際交流フェスティバルもおかげさまで成功のうちに終了することができました。
 本当に多くの方々に協力いただきました。協賛していただいた安佐地区の各企業、団体の方々を始めとして佐野国際交流協会と交流協会フェスティバル部会の皆さん、外国人スタッフの皆さん、どうもありがとうございました。この紙面をお借りして、心から感謝申し上げます。

国際交流フェスティバル アンケート結果発表
-(全部で)101人に聞きました-
 当日フェスティバル会場でアンケートを実施しました。
 日本人・外国人合計101人の方にお答えいただきましたので、その結果を発表します。なお紙面に限りもありますので、多かった意見・代表的な意見のみを掲載させていただくことにし、また一部はグラフにしましたので、そちらもご覧ください。
●外国人に対してのアンケート
Q1.国際交流フェスティバルにきての貴方の印象は
◇他の国の人のことやゲーム・ 習慣がよくわかった
◇国々の文化交流はお互いのことを理解するよい機会だと思います
◇文化の違いがよく解り、とてもよかった
◇日本人の方と近づけるよい機会だと思います
◇もっとこのような企画を増やすべきだと思います
………全体的には外国人の方々に好意的に受け入れられることができたようです。異邦人どうしが出会い、お互いの文化を含めた理解をする機会がもっとふえる事が望まれているようです。
Q2.日本にきて一番うれしかったことは何ですか。楽しかっ  たことは何ですか。
◇安全であること (テロ行為が無い)
◇日本の文化に触れられたこと (囲碁が上達した)
◇日本の進んだ技術に触れられ ること
◇多くの日本人が親切であり、 思いやりがあること
………一口で言えば、安全な日本で日本文化に接し、親切な日
本人と生活すること。日本が安全であるというのは、一つの文化なのかもしれません。
Q3.日本にきて一番困って  いることは何ですか。
………やはり一番は言葉で、「日本人の言うことは解るが、こちらからは伝えられなくてもどかしい」という方もいました。その他のお答えは、「せま苦しい」、「交通量が多い」、「親切な人がいない」などです。
Q4.日本人に対して要望はありますか。
 この質問にはいろいろなお答えをいただきましたが、大別すると次の3つになります。
1.日本人との交流関係。
◇外国人との触れ合いをもっと増やしてほしい
◇外国人を差別しないでほしい
◇南米人がすべて同じタイプとは思わないでほしい
2.就職について。
◇パーマネントビザがほしい
◇失業者の救済をしてほしい
3.言葉の問題。
◇日本語教室がほしい
◇英語を話せる日本人が少ない
◇日本語が話せないことを理解 してほしい
●日本人に対してのアンケート

(略)
Q4.貴方が持っている外国  人に対する印象はどんなも  のですか。
………一番多かったのは、「外国人だからといって特にない、日本人と変わらない」というお答えでした。他に、「おもしろい」、「かっこいい」、などおおむね良い印象を持っている方がほとんどでした。なかには、「泥棒が多い」、などの意見もありました。外国人にも(日本人と同じように)良い人もいれば悪い人もいるということでしょうか。
Q5.今、貴方が彼らと出来る  国際交流は何ですか。
◇こうした催しに参加すること
◇外国人と自然に付き合う
◇教育の場で国際理解を育てる(教員の方)
◇パーティーをする
◇子供同士で遊ばせたい
◇料理を教えあいたい
◇スポーツの交流試合
◇簡単な踊りを教えあいたい
………いろいろな考えを聞かせていただきました。しかし難しいのはそれを実行に移すことだろうと思います。そのときには、ぜひ青年会議所でもお手伝いをさせていただきたいと思います。そして皆さんと国際交流の輪を広げていきましょう。




こならの森 66号

2008-04-15 | 創刊~100号

       ■こならの森66号■1993.10発行

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森11月号■
3p… 巻頭詩 どんぐり 
4p…結婚しました
5p…やんば 
6-7pJCジャーナル 
8-11p…インフォ
12-19p 特集 ちゃんとしつカルタ
16-19p…現代用語…夢見る頃を
20-23p インタビュー
24p…銀幕画廊
25p…書評・絵本紹介
26-29p 文化会館情報/協賛
30こならの森から~

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【本文抜粋記事】
JCジャーナル 

華やかに国際交流の輪が広がる 
国際交流フェスティバルが大成功のうちに終わる。

 9月の秋晴れの中、(社)佐野青年会議所は佐野市国際交流協会と(財)栃木県国際交流協会の共催で、構想約1年の「国際交流フェスティバル」を大成功に終えた。来場者は日本人、外国人合わせて約三万人で、笑顔で過ごせた一日となった。
 午前10時のオープニングセレモニ一にはパラグアイ共和国大使婦人の臨席を賜った。その後アルゼンチン共和国、ブラジル共和国、ペルー共和国の各公使、参事官、領事官の方々を招いて主催者側及び佐野市長との懇談会を持った。
 会場は、一千食用意して完売した世界の料理、三〇〇冊の世界の絵本、お茶席やいけばな、各国の音楽・踊り、また日本舞踊、大正琴、特産品ブースや、各国のブース、五十二出店のガレージセールなど盛りだくさんの内容で、どこも大変な人出でにぎわった。


 午後には、メインとなる企画のテーブルディスカッション「WA@WA@WA@(和・輪・話)」が行われた。 
 青年会議所本来の目的「国際交流は人づくり、まちづくり」を表現する一番の方法でもあった。 外国人のスピーチでは、「日本人はいつも忙しくしていて、ゆっくり話をしたことがない、話をする機会がない」といった意見が出され、そういったことからも意味のあった企画となったようだ。
 「世界の子どもの絵画展」は安佐地区の小学校28校630点と海外の小学生500点の作品を会場の他ジャスコ佐野店にて展示。展示後は、海外へプレゼントと一緒に送り、今後の交流の一助とする予定だ。
 一緒に企画に参加した外国人の中からも「こんなに楽しいのはじめてだ」との感想を聞く。そして他の市民団体の人達とも友達になることができてうれしい、とのこと。
 今後も市民レベルでの国際交流を展開して行けるよう努力したい。



こならの森 65号

2008-04-15 | 創刊~100号

       ■こならの森65号■1993.9発行

C・o・n・t・e・n・t・s
■こならの森10月号■

3p… こすもす 目次
4p…結婚しました
5p…やんば 第4回
6-7pJCジャーナル 
8-13p…インフォ
14-23p 特集 埋蔵金
18-23p…現代用語…万葉ラブ 第3回
24p…銀幕画廊
25p…書評・絵本紹介
26-29p 文化会館情報/協賛
30こならの森から~

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【本文抜粋記事】

 特集 埋蔵金
■埋蔵金わたしの推理■
@埋蔵金を思い立った伊井直弼の立場(身)になって考える。
 あなた伊井直弼だったらどこにかくすのでしょうか。
 まず、とにかく大金で、一目につき安いものです。そんな、大金を夜中であっても陸路で運ぶのは大変なことです。そこで、考えるのは水路の利用です。江戸より下流はありませんから、運び出す時は上りで大変ですが、下るときは楽に運び込めます。大型船を使えば、一度には移動させることも可能ですし、運んでいる品物も分かりません。カモフラージュも楽です。
 そうです、利根川と渡良瀬川をつかい、馬門・越名河岸を使って荷を降ろすのです。ここまで来れば三毳山は目と鼻の先。もともと、この河岸は彦根藩が年貢を江戸へ運ぶために開港したものと聞く。
 そして、自分(伊井直弼)の領地であればちょっとは勝手も分かります。そしてなにより、日光・男体山と江戸城を結ぶ直線上のほぼ真ん中にある山は三毳山以外にない。
 最近、佐野から見える男体山を見ていて思ったのですが、江戸から東照宮は確認できなくても、男体山ならどのあたりと容易に確認できます。「江戸から、家康公の眠る日光・男体山を目指し、最初に現れる山」そしてそれを確認するかのようにその北側にみえる男体山。目標物として考えたならこれ以上のものはありません。地図を持たずとも理屈さえ分かれば宝のありかがはっきりするのです。
そして、ウータンが言うように、亀の形をした岩が宝の目印となるのです。
 また、久能山─富士山─世良田の延長線上に日光があり、江戸から真北にもあたる、そういった立地条件にあるからこそ、東照宮がその地に選ばれたのだと言うし、家康の柩は佐野の朝日岡に一泊しているくらいだから、宝を隠しても信頼がおけるというような何か厚いつながりを思わずにはいられません。
 男体山は富士に似ている。三毳山も佐野に住む私達からすればなんの変哲もない山のようだが、南側つまり、江戸方面からみれば、富士を暗示できない訳でもない。
 新たに新メンバーを加えたこならの森埋蔵金取材班は、そうそうに三毳山の南側方面へ向かってみた。館林郊外の東北道わきまできて、三毳山方面を眺めてみた。回りには、大きく視界を遮るものはなく、関東平野のようすがうかがえるのだが北側にははるかに山の気配が映る。その最たるものが三毳山だった。江戸から、北極星を頼りに東照宮を目指す、するとその半分の距離に現れる山、まさしく三毳山のことだろう。そんなことを考えながら、遥かかなたをうかがっている時、突如として取材はんの一人が、叫んだ。「あっ、ここから見る三毳山って、頭を北側(つまり東照宮)へ向けた亀の形に似ていませんか」なんと、宝の番人を意味する@亀@は、三毳山そのものだったのだ。
 早速、三毳山へ向かってみた、南側つまり「三つの富士」が天・地・人のキーワードとなり、(この言葉さえ分かれば日本中どこにいる人にでも宝がわかる。伊井直弼はこの言葉を胸に暗殺されてしまったのではないか?)天(徳川家康)・地(地下に眠る埋蔵金)・人(江戸城の城主)となるのではないか。そして、仮に三毳山で亀の形をした岩などが発見されればその下に埋蔵金が眠っているに違いない。
 だが、市内に残る伝説や故事等を調べてみても、亀岩や鶴岩まして、亀や鶴に関した史料というものがことのほか少ないように思う。
■もういても立ってもいられない。
 すでにこならの森取材班は、取材を開始した昨年の初春ころから三毳山のある神社の上に点在する祠と、岩陰にその証しを見つけている。
 かってに掘削機を導入して掘ってもいいのだろうか、まあ他人の土地なのだから掘りおこすことは無理だと思うが、幸か不孝か、この山は県南大規模公園に指定されており、いずれ大規模開発が行われる山である。開発が行われたら注目しようと思っている。掘削機やブルトーザーが入ったら、あたりを散策してみるのもいいかも知れない。
 実際にもっともクサイと思われたところに登ってみた。ここはやがて三毳山大規模公園に指定された所である。それが何を意味するか。
 一部に、三毳山大規模公園絶対反対、自然を守れ、どうせなら山全体を県が買い上げろ、というある自然保護団体の声も聞くが、こらなの森埋蔵金取材班は逆説的にも大規模開発大賛成ののろしを上げてしまった。
 赤城山ではないがかなり大規模に、山全体を掘り起こしてくれるとなおいいのにと思っているのだ。だが、そうあまり大きく書くと脅迫電話や、不幸の手紙が舞い込みかねないので、ここまでにするが、幸いにも(?)三毳山周辺には、赤だの青だのといった杭が所せましと打ってある。間違いなく大規模な開発が行われるはずだ。
 埋蔵金を発見した場合は開発業者が第一発見者となるのだろうか、すると開発業者のもの?それとも地主(県)のも?はたまた佐野市のもの。いずれにしても大規模なお金が転がり込むに違いない。すれば、まちおこしだの、活性化だのということは完璧になってしまう(すごくムチャクチャな理論)。まちの繁栄が約束されているようなものだ。ふるさと創成一億円で、ゴルフの賞金まで出そうとしたある町村の例を引くまでもなく、お金だけで「まちおこし」ができるとは思っていない(雷おこしなら買えると思うが…)ともかくまちの発展のためにも、この埋蔵金は掘り当ててほしい。
 地域活性化に、ぜひとも徳川360万両(200兆円)の埋蔵金を掘り出して頂きたい! とこならの森は夢提案したいのだが……。
埋蔵金最終楽章
実はかのベートーベンには第九のほかに幻の第十交響曲があったといいます。あるかないかは皆さんで推理して下さい。こならの森としては、これからも皆さんの反応に答えます。
【参考資料】 鶴と亀がすべった後ろの正面だあれ………。これは宝の謎解き歌だという。後ろに正面があるのだろうか? また、後ろの正面にはなにがあるのか?
 各地に残っているそうしたものを紹介したい。
 @かごめかごめ(岡山)
「かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつめあう 夜明けの晩に 鶴と亀とすベった うしろの正面だあれ」
 @でんでんむかで(石川)
「でんでんむかで 千年たったむかで おっとのこは 大事だいじ だいじ だいじ」

※これが本命(埋蔵金最終楽章)
実はかのベートーベンには第九のほかに幻の第十交響曲があったといいます。あるかないかは皆さんで推理して下さい。こならの森としては、これからも皆さんの反応に答えます。


こならの森 64号

2008-04-14 | 創刊~100号
       ■こならの森64号■1993.8発行

C・o・n・t・e・n・t・s

3p… はまゆう 目次
4…結婚しました
5…やんば 第4回
6-7pJCジャーナル 
8-11p…インフォ
 現代用語…万葉ラブ 第3回
12-23p 特集 近隣レジャー情報
24p…銀幕画廊
25p…書評・絵本紹介
26-29p 文化会館情報/協賛
30こならの森から~

■■■■■■■■■■■


【本文抜粋記事】

海棠市子の銀幕画廊

「ザ    ジ」
 ZAZIE
 監督・脚本/利重剛 音楽/横道坊主 
 出演/中村義人(BY横道坊主) 杉本哲太 
 松下由樹 宮崎萬純 RIKACO 他 
@1989年劇場公開 
現在ビデオがレンタル・発売中(税込¥15450) 発売元/@アミューズ 販売元/パイオニアLDC@
@映画は映画館で@。これまでこのコーナーで何度も言ってきた、映画好きとして決て譲れないこのポリシー。これを曲げても紹介したい作品、それが『ZAZIE』です。 迷いながらも純粋に、必死に、自分の行き方を探す青年を主人公にした秀作。とにかく、ずっと胸の奥底に残して一生大切にしたい、ときおり自分自身の生き方を確かめるようにまた観たい、そう思わずにはいられない素晴らしい作品です。
 ちょうどこの原稿の締切直前は邦画が久々に悲惨な状況で、原稿が掲載されるまで公開している作品が『REX』(角川、いつまでこういう映画を作り続ける気なんだ@)くらいしかないという有様。そこで今回に限りの特例としてこの作品を取り上げたいと思います。
 確かにブラウン管はスクリーンと違って画面の端々にまで気が配れず、カメラ(演出と画像)を堪能することができません。だから映画独特の質感とパワーを感じられない。けれどこの作品の圧倒的魅力はその優れた脚本、ビカビカと原石のような光を放ち胸を突く、秀逸なセリフの数々にあります。この点で(邪道ですが)セリフを何度も繰り返し聞くことが可能であるビデオに相応しい作品と言えるかも知れません。
 さてこの映画、公開時に「80年代最後の天使の映画」「90年代の予感と期待を孕(はら)んだ新しい映画」などと評価されましたが、最も多く言われたことは、ちょうど同時期に作られカンヌ映画祭でグランプリを獲得したスティーブン・ソダーバーグ監督の『セックスと嘘とビデオテープ』に引っかけた「ロックと箴言(しんげん)とビデオテープ」というものです。実に言いえて妙。うまく映画の内容をまとめつつ、讃えていると言えます。けれど実際に洋画で『ZAZEI』と近い作品があるとすれば、それはジム・ジャームッシュ監督の『パーマネント・バケーション』でしょう。これは16歳の少年が自分の生き方を求め、旅に出る話です。
 一方の『ZAZEI』は、その昔カリスマ的人気を誇ったザジと呼ばれる25歳の元ロックシンガーが主人公。かれは歌をやめ、勤めた会社もやめて、毎日をビデオに収めるだけの生活をしながら、生き方を探し続けます。演じる中村義人は実際のバンドマン、この映画の音楽を担当する横道坊主のボーカルです。彼の寂しい、常に戸惑ったような笑顔は観るものを捕らえて離さないはず。このザジに、ザジに自分の理想の生き方を求める男・砂田(杉本哲太の演技は圧巻)や、迷うザジを純粋に受け止める娘・ブン(松下由樹)などが絡み、鮮烈でありながらも穏やかで優しい映画を構成しています。幾度も挿入されるザラついたビデオの映像と、硬派なファンクロックも印象的です。
 ロック嫌いでもこの映画には強い抵抗感はないと思います。とりあえず一度観てください。きっと観終わった後、「素直と我がままってのは、ほぼ同じ意味なんだよ」「性格の80%は癖だ。癖は直せる」なんてセリフが、ふと口から出てきてしまうと思います。そしてそのときは何とも思っていなくても、何年か後、きっとまた観たくなるはずです。あなたにとって大切にしたい一作になると思います。



こならの森 63号

2008-04-13 | 創刊~100号

       ■こならの森63号■1993.7発行

C・o・n・t・e・n・t・s

3p… つゆくさ 目次
4p-13p 特集 夏祭り再考
8-11p…万葉ラブ
12-13p現代用語
14-17p…インフォ
18p…銀幕画廊
19…書評・絵本紹介
20p…結婚
21p…やんば
22-25p インタビュー「木の家」
26-29p 文化会館情報/協賛
30こならの森から~

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【本文抜粋記事】

特集 夏祭り再考

夏祭りの季節となりました。
 夏というと、「チューブ(もちろん、ゴム管でもロンドンの地下鉄の名前のことでもない)」てなわけですけれども、そのリーダーがラジオでこんなことを言っていました。「君たち、君たちの夏はあと100回ないんだぜ@イェ~ィ」
 よく考えてみると、あたりまえなんですけれど、なんだか説得力のある言葉。一年でも、一番ウキウキする時かも知れません。それに今年の夏祭りは、市政50周年ということもあって、今までにない盛り上がりを見せています。
 しかし、本当の意味での市民参加がなされていない。タイトルだって、公募するのがスジだなど。ことしの夏祭りについてはあちこちで意見を頂いた。それだけ、人々の関心が高い行事だといえるのだろう。
 「今に始まったことではないが、それにしてもひど@最低の夏。」べつにこれはこならの森が言っている訳ではありませんよ。本当は、こう考えるのはこならの森だけだとひそかに心に秘めて来て、だれにも言わないつもりだったのですが、あちこちの人に意見を求めているとこのような結果になりました。
Q一体だれのための夏祭 りなの?
 市民の声が反映されていないところを見ると、やっぱり、自分たちが一緒に遊んでしまう、一部の人だけの@まつり@なんじゃないか。
Qどういう人たちを集   めたいの?
足利などは、毎年同じこと(花火)をやっているんだから、当然地元の人は花火なんて珍しくもなんともない。ちょっと、見晴らしのよいところへいけば見るともなく、見えてしまう。
 つまり、それによって地元の商店が潤えばいいという、外部の人を集めるスタイル。それが悪い訳ではけしてない。
Q佐野の夏祭りにはオリジナリティがないの?
 ある佐野の夏祭りには早食いが登場。でもよく考えてみれば「早食い」って人に薦められる事なの。
 らーめんがここまで有名になったんだか、プラスルアフファーが必要だ。
そのためには、らーめん+ 何かということになる。「夏祭りを見たあと、らーめんを食べて帰ろう」でもいいし、「らーめんを食べたついでに、夏祭りとらでも見てやんべか」でもいいではないか。
 関連性をぜひこの機会にとって頂きたいと思う。最 近さのらーめんを食べた後らしきお客さんに、〇〇という施設はどこですかとよく聞かれる。それはどこにでもある施設なのだが決まってさの以外の所を指定して来るという。だれも、分かっていない。さのにはらーめんだけしかないと思っている人があまりにも多い。これはどういうことか。
 せっかく、夏祭り期間中にさのらーめんをたべに来たのに、店主がこぞって夏祭りに参加していて店がどこも休みでさのらーめんが食べられなかったというのでは笑い話にもならない。
 とにかく人を引き付けはなさないようにする最大限の努力をしなければいけないと思う。我々には、たかだか後数十回の夏だが、『佐野』にとっては永遠の夏なのだ。
Q観光の一助になっているの?
 佐野の夏・祭りって佐野の観光全般についてはちっとも役には立たない? 同じ金をかけるならもっと将来的に役に立つものにかける方がいいんじゃない。一度そっぽを向くと二度とそこへは帰って来ないのよ、
そういうことご存じ。やっ ぱりやめた方がいい。醜 い?だけだし、無駄なこ とだと思うのだけれど… ……との声も………。
 ここで、過去の佐野の夏祭りを振り返えってみる意味も含めてこならの森15号より、その事情をよく知っていた人のインタビューを少し紹介してみます。
 昭和三十年代の佐野というのは、(足利では花火をやっていましたが)佐野では自前の七夕をやっていました。別々に、今とは違ってかなり大きなイベントをやっていました。竹飾りなども自分の家で造っていたんです。
 最初は、秋山川で花火をやっていたんです。ですが、三回くらいで止めてしまいました。どうしてかというと、川は南北に流れているものですから西風に吹かれるんですね。ですから、花火の煙が観覧席の方にみんな流れてしまうんです。それで、七夕まつりをやろうということになった。商店の一軒、一軒が競うように、豪華な七夕飾りをしたわけです。今年の七夕が終わるとすぐ来年の七夕を作り始めるというぐあいです。
 吾妻寿司、丹波屋、八百信、これは佐野の七夕三人男というんです。それも、すべて自分で作るわけですね。他人の力を借りて飾ったというのはその後からですよ。
 (七夕が)駄目になって来たというのは、昭和四十年代に入ってからでしょうね。
●また、こんなことも………
 まちづくりというのは、舞台作りです。まちの人達が寄り集まって新しい『舞台』を作っていく。『舞台』がよくなかったら人も集まって来ない。もともと、どの街でも『舞台』というものをもっているんです。そして、それをどう使うかということが『役者』の仕事ですよ。
 役者というのは市民ですね。そして、一流の『スター』がいないと駄目です。舞台を理解しなければいけない。それなりの形というものがありますから。
 佐野には、佐野の形があります。駅南でも、目新しいものはありますが、すごくはないです。それから、まず第一にそぐわないのは市庁舎で、それをどうするかが問題です。佐野市は個々の開発はやるけれど、総合的な開発はしないですね。 人というのは、どこか中心に向かって集まってくる。光に集まる虫達みたいです。だから、中心街に集まれるような道を作ってやらなければいけない。風通しを良くしてやらなければいけないんです。
 でも行政だけではできないですよね。
 一番悪い癖というのは、何でも行政に押し付けているということですね。そして、受け手側も何んでも受けてしまう。

 佐野市の一億円の問題が出てきましたが、わりあいと執行部は正直に言ったわけです。一億円くらいでは、やりようがないということですね。でも、田沼、葛生
あたりではみんな市民からアンケートを取っています。(こならの森15号より転載)

●それからこんな事まで…
 これからは佐野の特長あるものを伸ばしていきたいですね。『佐野ラーメン』でも、ただラーメン店がたくさんあるというだけではなく、例えば横浜の中華街のような本当の「ラーメンのまち」を象徴するような、@通り@というものを作っいきたいと考えています。
 そして、そうした佐野市のアイディンティティは、いろいろなまちづくりの基本になってくると思います。もちろん産業が基本ですが、産業というのは流動性が強いんです。しかし、文化はそうではないですね。
 そう考えると佐野地区の動き、育ちというものを踏まえて、文化が大きな土台になるべきだと考えています。その上に、産業とかその他のものが育って行く、そうでないとどこでも同じような、どこにでもあるような、まちづくりができてしまうし、まちの方向性が決まってしまいます。
 佐野市のオリジナリティは今日までストックしてきたものを、土台としてこそ大きく伸びて行くと思います。
 ですから、「人まねはするな、自分のまちにあったもので、まちづくりをする」そういうことが一番大事なことです。産業も、 文化も、政治もそうですね。
(『漫遊ロードさの』より転載)


こならの森 62号

2008-04-12 | 創刊~100号

       ■こならの森62号■1993.5発行

C・o・n・t・e・n・t・s

3p… 目次
4p-13p 対談埋蔵金=現代用語
8-9p 現代用語
10-13…万葉ラブ「情けを」OCR
14-17p…インフォ
18p…銀幕画廊
19…書評・絵本紹介
20p…結婚
21p…やんば 第2回
22-25…田中正造第造2回
26-29p 文化会館情報/協賛
30こならの森から~


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【本文抜粋記事】


田中正造をめぐる  第2回

 私たちは『田中正造』という教師についていながら、まだ何も学んではいないのではないでしょうか。例えば田中正造が私たちに残してくれたもの教えてくれたもの、学ぶということ、分かるということ、それによって変わるということ、始めることよりもそれを次世代にまで受け解いでいく意志ということ…
 ………それ全てが、田中正造の思想そのものではなかったでしょうか。まさしく田中正造はその先駆者だったのです。私たちは、日々の中でそのことを忘れ去る生活をしていますが、見渡してみれば分かるとおり今では、環境問題や環境破壊、政治腐敗などが顕著に表面化しています。しかも、その現在の状況を正造ははるか昔に予言しているのです。そのことは日記の記述かち読み取ることができます。「被害者も加害者もなく皆滅んでしまう」と訴えているのです。
 ここで一原点に帰って〃正造〃を学び起こして見ませんか。そうすれば、新たなる希望がわいてくる、といってしまうとおおげさですが、何かつかめるに違いないと思うのです。「どんなところでも、我々は、我々の愛する人からしか学べないものである。」とゲーテはいったそうです。田中正造は谷中村に入って残留する谷中の人々からいったいなにを学んだのでしょうか。
 実は、谷中村の戦い(闘争)のなかで、すべての戦う力をなくした所に、「新たに戦うことのできる可能性を見いだした」という世界のどこでも行われたことがなかった非暴力による国家権力への確固とした対決が見えてきたのでした。
 谷中村では聖書に書かれてあるような出来事が現実に目の前で行われている、ということを正造は直視します。
 「われらは好んで正しく貧苦にいるもの。人の富はうらやましからず。我ら夫婦は人の害となることはせざるなり。」というある谷中残留民の言葉があります。
 これを、正造は聖書にある言葉、人はパンのみに生きるにあらず、だと解釈しているのです。 佐野で行われた石牟礼道子さんの講演会では、「正造によって見いだされた谷中村の人々」という言葉がありました。これはあたかも歴史の主が谷中人であって、従が正造だという印象を受けますが、現実にはどうであったのでしょうか。
 真に啓発を受け、谷中人つまり〃普通の人〃を歴史の檜舞台にまで上り詰めさせた張本人は、実は田中正造自身ではないでしょうか。
 こんなことがあるのでしょうか。知識を持った人間が知識を持たない人々から啓発を受けるとは…。
 でもその理性の関所のたがを外せる人間が、そのことに気がつく人間が何人いるのか。 やがて田中正造は谷中の人々が、神に最も近き人であるということを理解します。そして正造自身も谷中の人々と共にまた神に最も近き人になったのです。この間十年近くの苦闘がこの地でおこなわれました。「田中正造は谷中村で何を学んだか」
 田中正造の生涯を知る上で何が一番大切か、と聞かれれば何をおいてもまず谷中村に入った最晩年の生き方だろうと答えます。どうしてでしょうか、第一にはその教材地が佐野市内から車でほんの三十分ほどので行けるということす。
 正造は、今まで政治 正造は、今まで政治家として足尾鉱毒問題に取り組んで来ました。その今までの自分として谷中村に入ったといいます。たぶん自分が谷中村に入ることで、谷中村の置かれている状況が変わるだろうと予測しました。たぶんに変えてみたい、変わるだろうという期待があったはずです。しかし、現実にはそうはなりませんでした。
 一般的に見れば、行き場を失った最悪の状況に落とし込められてしまったということです。どんな脱出の可能性もない、勝てる見込みのない状況に一人追い込まれ、絶対絶命です。
 この戦いに勝者はいません。敗者を排除し終えたときには、実は勝者自身もまか掛び去っているのです。
 本当の田中正造の姿は華々しかったのです。議員時代のときとは違っていたはずです。正造自身最後の闘病生活の中で思い起こされた出来事は議員として鉱毒被害の救済に走り華々しく活動し生涯を懸けた時のことではなくて、「天国へ行く道ぶしん」と言われた苦学の谷中村での出来事だったろうと思います。(かつての偉人もそうでした。)「小中村は関東の野の始まりなり」 本来正造の精神や生きてきた奇跡こそに真価があるのであって、それ以外のものは何らの価値もないということは承知のことですが、歴史の亡霊は、今でもさらに正造との戦いを仕掛け続けています。まだ、〃谷中〃の戦いは、(谷中で起こった戦いは)私たちの心の中で続いていると思えるのです。


こならの森 61号

2008-04-12 | 創刊~100号

       ■こならの森61号■1993.5

C・o・n・t・e・n・t・s

3p… 目次
4p-7p…万葉ラブ
8-13p…特集=自転車=田中正造
14p-15p 現代用語
14-17pインフォ
18p やんば…銀幕画廊
19…書評・絵本紹介
20p…結婚=
21p…お宅は意見
22-25p シンポ1993年ダイジェスト
26-29p 文化会館情報/協賛
30こならの森から~
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【本文抜粋記事】


万葉ラブストーリー 第一回

  キャンプシーズンにはちょっと早いけれど、待ちきれず前に買っておいたキャンドルに灯火をひとつ一つつけてみた。すると、今まで体験したどんな明かりよりとてもいい明かりが目の前に出現した。非常に淡く、優雅、叙情的で素直になれそうなそんな気にさせる。もしかしたら、万葉の頃の人々は、そんな叙情的な世界の人々だったのではないだろうか………
 こころに浮かび上がったものを歌として人に伝え、男女の掛け合いとして発達した歌垣。その形成は古代の「マレビト信仰」の問答からきているのだという。 それを元に今の短歌形式に万葉集の編集者?が整えていった、それが東歌の組成過程であろうか。だから、直接にその歌を詠んだ作者は分からない。民話、民謡の一部、あるいは原型的なものがもとになったのではないかとも思う。つまり、東歌は万葉集の中の民族学的編纂歌集であったのだろう。だから、一つひとつの歌は、一人のひとが詠んだ歌だと解釈するのではなく、広く一般に受け継がれてきた歌、あるいは多数の人の合作であると解釈した方が良いのではないだろうか。それはともかく、今回から万葉集・東歌を題材にしたラブストーリーを連載していこうと思います。

@万葉ラブ ストーリー        村田美香・作
[ 三毳山に登った。木もれ日がさしている。肺いっぱいに木々の香りを吸いこむ。木の根元に背をあずけ、しっとりした地面に腰を下ろす。
 うら、うら、うつら。
 けだるく、心地良い眠気を感じる。と、その時、寄り添った木の中からひとりの女性が、すうっと表れた。いつの時代か、かなり昔の人のイメージを受ける。どうしたことだろうとぼんやり思うが、眠い頭はかげろうのようではっきりせず、指ひとつ動かせない。するとその女性は、私がここにいることなどまったく目に入らぬようすで、私の座っているこの木の根元に………腰を、おろした!?。
 その女性の体は、私の体にすいこまれ、その人が私に、私がその人になった。いや、私が、その人にすいこまれたのか……。]
あの人に会ったのは昨年の春。みかものお山で木の芽を摘んでいた時のこと………。
 けものにでも出くわしたら危なかろうと、父さんに追い立てられるようにして付いて来た犬の「しろ」が、道草ばかりくうので、なかなか先にも進めず、籠の中はいつまでたってもいっぱいにならない。半ば木の芽摘みを諦め、足元に籠を置いた。せいいっぱい息を吸い、伸びをすると、湿った春の香りが心地好い。あちこちで、鳥のさえずりが聞こえる。「しろ」は、さっきから鼻先の蝶々をからかっているのか、からかわれているのか、どっちともつかないようすで、はしゃいでいる。と、突然何かに気づいたかのように「しろ」が走り出した。わたしは慌てて籠を取り、「しろ」を追い駆けた。  
 お山の中腹に、そう広くはないが、いくらか平らな所がある。おべんとうを広げるにはちょうどよい場所で、他の木の群れを離れるように、ひときわりっぱな枝振りの大木がある。あの日もその木の根にもたれて腰を下ろすのを楽しみにしていた。しろを追って走りより、わたしは足を止めた。 
 「ここは良い所ですね。 気持ち良さそうに木の根に背を預けたその人は、こちらを見るでもなく静かに言った。ちぎれんばかりに尾を振る「しろ」もまた、静かに頭を撫でられている。
 「あなたが、さっき両の手を空に広げ伸びをしてた時、まるで枝のすんなり伸びた小楢(こなら)のようでした。」
 「やだ、見てらしたの。」 あの時、人見知りしがちなわたしが、あんなにうちとけられたのは、きっとあの人の、あたりの自然に対してどこか受け身な雰囲気が、そうさせたのではないかと思う。
 「そこは、わたしのお気に入りの場所なの。良いでしょう。」
 「おや、そうでしたか。じゃ、半分ずつにしましょう。」
 その人は、体を少しずらし、隣に腰を下ろすのが、さも当たり前のようにわたしの場所を作った。おだやかな春の日を分け合うような心持ちで、わたしも自然に従った。 「きれいな色ですね。それは、なんの芽ですか?」
 「たらっていう木の芽です。」
 「薬草ですか?」
 「お惣菜になるの。この時期はたすかるわ。いろいろな木の芽や、野草があって。特別に、お薬って訳でもないんでしょうけど………、春の香りがして、病気など治ってしまいそう。」
「春の香りか。良いですね。そのたらの芽は、どんな風にして食べるのですか。」
 「そうね。お粥に炊き込んだり、おひたしにしたり………。」
 「なるほど。山の暮らしも良さそうだね。」
 「あなたは、みかもの人ではないの?」
「わたしは、このふもとの民です。」
 「ふもと!お山のてっぺんから、見えるかしら?。ね、上まで登ってみましょう。」
 ふたりして立ち上がると、今まで寝入っていたはずの、「しろ」が跳び起きて、お山のてっぺんに向かい駆け出した。
「まあ、聞いてたのかしら。」
 その人は、なれない山道を歩きにくそうに息をはずませていた。わたしは、「ほら、そこに足を置いて。」だの、「その枝をつかんで。」だの、得意げに先にたって歩いた。間もなく空が開け、ふもとの村が見渡せた。
 「これは、良い眺めだ。山頂から見ると、人の暮らしとは、こんなにも小さなものなのですね。」
 その人は、しきりに感心したようすで、眺めいっていた。
 「ねえ、どのへん?」
 「そうですねぇ。わたしが入ってきた山の入り口は、どっち側ですか?」
 「きっとこっち側だわ。」
 「じゃあ、こうまわって、こう折れて………、ああ、あのへんです。わたしの耕している田は。そしてその奥が、私の住む庵(いおり)です。」
 「まあ!高さばっかり離れてるけど、すぐ側(そば)なんだわ。」
 「遊びにいらっしゃい。ふもとの村には、あなたの話相手になりそうな娘も、何人かいますよ。それに、山の庵には、かわいい娘がいるらしいと、若者達のもっぱらのうわさだ。」
 「かわいい娘?わたしが?………あなたは、わたしがお山で暮らしていること知ってたの?」
 「いや。誰からともなく、かわいい娘がいるらしいという話が出ただけで、誰一人、その庵のある所さえ知らないんです。おおかた、誰かがたぬきに化かされたか、おとぎ話くらいに思ってました。」
 「たぬき!ひどいわ。」 「ははは、さっき本物のたぬきに会ったが、なかなかかわいいものですね。」
 「ふもとの………、あなたの村の………、娘さん達はみんなきれいなんでしょうね。」
 「さあ、どうでしょう。わたしには、女をきめる基準が、どうも解らない。」
 「あなた、お嫁さんは?」 「わたしは女を喜ばせる言葉を知らない。ましては村に娘が少ないんです。腕の細い、頼り無いわたしのところなど、だれも来ないでしょう。」
 「ふふふ、ずいぶんと、引っ込み思案ね。」
 「そういう訳でもないが、自然にまかせていたら、いつの間にか歳をとりすぎました。」
 「だって、まだそんなお歳じゃないでしょう。」
 「ははは、そう見えますか。」
 「わたしは、あなたに小楢のようだといわれて嬉しかったわ。」
 「それは、それは。期せずして喜ばれたわけですね。けしてお世辞じゃないですよ。本当にあなたは、伸び伸び生き生きしている。良い奥さんになるんでしょうね。あなたが、村に来たら、きっと若者達は色めき立つでしょう。」
 あれから、お山の庵も時折にぎやかなお客を迎える。みんな、わたしを小楢と呼んで、誰もが親切にしてくれている。ただ、あの人だけがあれきり、姿をみせない。ずっと、待っているのに。あの人は、わたしの気持ちを知ろうとしない。まだ一人でいるのだろうか。こんなに側で暮らしているのに。
 お山のてっぺんに登って、「ああ、あのへんですよ。」と、あの人が指した先を、やるせなく眺める。溜め息をついて寄り添った木の幹に、わたしの指先は、なにかしら刻みを感じた。だんだろうと思って目を近づけると………。
 わたしには読めないこの文字が、きっとあの人の手によるものだと、思えた。
  下野の 
みかの山の 小楢のす 
  まぐはしころは 
    誰が笥か持たむ

8-13p…特集=自転車=田中正造
 現在のエコロジカルな考え方や、環境問題がクローズアップされてはいるものの、その先駆者ともいえる田中正造はあまり話題にのぼることがないと思います。それどころか、この企画を知人に打ち明けると、一言「やめとけ」と言う答えが返って来る始末。
……………………………… 

@天気のよい日曜日、まだふとんの中でゆくっり朝寝坊を楽しんでいます。今日は何の予定もありません。 ………と思ったら、今日は恒例のこならの森主催ツーリングの日でした。 
「とうさん、今日は谷中村までサイクリングするの?」「そうだよ」
「僕ね昨日学校で田中正造って言う人の話を聞いたんだよ。佐野生まれの偉人なんだって、先生が真剣に話してくれたんだけど分からないことがあるんだ。」
「どういうことだい」
「なぜ直訴をしたかなんだよ」「おまえ難しいこと考えているんだな。おとうさんだって、正造さんじゃないんだから本当のことは分からないよ。でもマスコミに訴えようという意図で、計画的だったみたいだね。」
「ふぅ~ん。分かったような気がするけれど、もっと分からないのはそのあと、どうして谷中村へ入っていったかってことなんだよ」
「そうかそうか、おまえもそういう年齢になったか。論より証拠だ。一緒に谷中村へいってみよう」
「ほんとう!」
「でも、まだおまえは、マウンテン・バイクに乗れそうもないし今回は止めとくか」
「なにそれ@ 」
 何だかどこかで見たことがありそうな、文章だけれど………とにかく、正造と同じように、「無理に家人に言って握り飯を」三つにぎってもらい、「………行くところがある」とニヒルに言い残しひとり家を出て行ったのでした………。
 ………とは言っても自転車で行くには、谷中村は遠かった。
 春風ツーリングのメンバーは新設なった田中正造生家前に集合しました。ここから、良く佐野市街へ通ったという旧道を、まだ起きやらぬ眠い目で駆け抜けます。 菊沢川沿いに、暖かな季節の中を爽快に走り、少しして佐野市街まで入って来れました。秋山川沿いの津久居家へ。 地上で最後の朝に、正造はこの家から最後の道程を歩みます。人力車で谷中村へ向かおうとしたのでした。
 一行はしばらく秋山川の土手の上を走って田島町まで入って来ました。そして佐野の古城椿田城へ。ところが、この先の道路が工事中。しかたなく、下の田舎道を抜けていくことに。そこから正造終焉の
地庭田家へ。正造は、その前に雲竜寺へよりそこを死に場所としたらしかったが、あいにく住職が不在で住職を待つ間隣接する庭田家まで行ったのでした。
 ちょっと前に、正造を看病したという看護婦さんが、やってきたことがあり、昔とちっとも変わっていないといい、柱に頬づえをして帰っていったということだ。「正造さんも、天から今の世の中を見て笑っていらっしゃることだろうよ、そらいわんこっちゃないと……。」
 そんな話の後、正造が最後に向かいたかった谷中村を正造に変わり目指したのでした。渡良瀬川を越えてサイクリングロードへ。 
 何げなく渡良瀬川の土手を走行していく一行だが、
かつては辛酸な歴史がここを舞台に流れていったのでした。いまは、誰もそれに気づく人はいないほど、ゆったりとして平和な河川風景です。下羽根田から谷中村までは、1時間くらいの走行だったろうか、心地よい
春風に押されながらのどかさが全身にみなぎりました。かくして、谷中村が見えて来ました。
 [谷中にて………正造]
 一見すると谷中村に入ったときの田中正造は、年老いた老人が同情心からそこに寝起きし、最晩年には、野垂れ死にを徳(理想)として生き抜いた田中正造のみじめな成れの果てがあったという向きもあるが、それはけしてそうでなく、年を経るごとに人間形成からいえば、高い境地にまで上り詰めていったのでした。一個の生命体の完成ともいうべきでしょうか。だが、あまりにそれ以前の、直訴までの生き方が華やかだったために、そのこと、谷中村での出来事が忘れ去られようとしているのです。
 田中正造が谷中村で、谷中村民の中にその神に近きものの存在を見、気づき、それと共に生きることを生涯のかてとしたとき、彼もまた神に近きものの一人となったのでした。
 だからまさしく谷中村は一個の生命体が最も神に近づいた聖地に違いないのです。
 まあ聖地とはなんとおおげなことを言うものだろうとお思いでしょうが、私には現実の聖地よりももっと現実味を帯びて焼きつきます。そして「かつてどこでも行われたことの無い戦い」がまさにこの地で行われたのです。(分かったようなことを書いていますが、本当に自分自身で理解することは当分ないでしょうことは分かっています。)
 現在の谷中村は、大遊水池化され、ゴルフ場やウインドセーリングのための池となっています。娯楽と行楽の公園といったらいいのかも知れません。若い人がかよい、親子連れでにぎわい、一大憩いの広場とされていますが、谷中村跡地を訪れる人は心なしか少ないような気がします。それは現代の、「陽」をありがたがり、「陰」をさげすむ風潮を代弁しているかのようでした。
 谷中村の延命寺跡に残る木にもたれ、ボーっと木漏れ日を受けているとなんとなく悟りを開けそうな気持ちにもなってくるから不思議です。


こならの森 60号

2008-04-12 | 創刊~100号

       ■こならの森60号■1993.4

表紙 「はなだいこん」

C・o・n・t・e・n・t・s

3p… 結婚=阿部さん夫婦
4p…ミステリーワールド
5…きれい瞬間・圭吾の歳時記
6-8p…特集さくら
9p カラムコラム
10p-13p 世界の料理
14-19pインフォ/文化会館情報
20p…銀幕画廊
21p…書評・絵本紹介
22-27pインタビュー
28-29…協賛店MAP
30こならの森から~
■■■■■■■■■■■


【本文抜粋記事】


世界の料理「パラグアイ」

■PROFILE OF 「パラグアイ」
国名:パラグアイ共和国/首都:アスンシオン /政体:共和国制 /面積:約40万@(だいたい日本と 同じ面積)/人口:347万人(1983年)言語:スペイン語(公用語)/・グアラニー語 。/通貨:グアラニー /産業:小麦、大麦、牛 /時差:日本より十三時間遅れ/@気候と風土@
東部は森林地帯、西部は大草原となっており、気候は亜熱帯性で、平均気温は22度前後。
 近隣国からも「とことん、田舎者」と呼ばれるこの国はどこかのどかでのんびりしているという。
 しかし、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイに3方を囲まれ昔から国際問題に悩まされて来ている。

●エンパナダ●[材 料]
牛ひき肉………500g 
玉ねぎ大………2個 
卵………………4個 
クミン…………少々 
コショウ………少々
ニンニク………少々 
塩………………少々 
油(サラダ油)…1リットル 
ピーマン………1個 
[作り方]
 タマネギ、ピーマン、ニンニクを小さく切り、サラダ油で炒めます。きれいに炒め上がったら、塩、ひき肉をいれさらに炒めます。火からおろしてコショウ、クミンを入れます。卵はゆでておき、つぶしてこれも入れます。
 作ったかわに全てを入れて油で上げて出来上がりです。
@かわの部分[材 料]
小麦粉…1キロ 
卵………2個 
バター…50g 
牛乳……少々 
塩………少々
[作り方]
 ボールの小麦粉を丸く穴があくようにしておき、その中に卵、バター、牛乳、塩を入れよく混ぜ、こねる。引っ張れるようになったら、中に入れる物を作る間、そのままおいておく。

●クレマ(クリーム)●[材 料]
牛乳…………………1リットル
卵……………………3個 
砂糖…………………1キロ 
バニラエッセンス…少々 
小麦粉………………200g 
[作り方]
 まず牛乳をあたためます。卵黄と卵白を分け、卵黄は小麦粉と混ぜて牛乳とゆっくり煮ます。卵白は、泡立て、出来上がったクリームの上にのせます。砂糖を少し焦がして、その上にのせるとなおおいしくなります。

●クレリコ●[材 料]
ワイン………1リットル 
砂糖…………500g 
くだもの(お好みで何でも)
[作り方]
 くだものを小さく切り、それをワインと砂糖で混ぜ、冷たくして飲みます。

●チーパ●[材 料]
片栗粉……………1キロ 
チーズ……………300g 
牛乳………………1/2カップ 
卵…………………4個 
バターがラード…100g 
アニス……………少々 
塩…………………小さじ1
[作り方]
 ボールに卵、バター、アニス塩を入れよく混ぜる。
それに片栗粉を入れよくこねる。 好きな形にして皿の上にのせオーブンで焼きます。

●ポーリオ レ リェノ●
[材 料]
とり………一羽 
(A)《塩コショウ、ニンニク、オレガノ、ローレル、クミン、レモン》
タマネギ………1個 
ピーマン………1個 
ニンジン………1個
(以上は細長く切る。)
[作り方]
(A)を鳥の中にいれ割り箸でおさえる。それをオーブンに入れ約1時間。(あじつけを1日前にやっておくとさらにおいしい)※鳥のレバーを鳥肉の中にいれて作りますとおいしくできますよ。

●ソパ パラグァジャ●
[材 料]
とうもろこしの粉…1キロ
チーズ………………1キロ 
卵……………………8個 
タマネギ……………大2個 
バター又はラード…500g 
牛乳……………1/2リットル塩………………少々
[作り方]
 タマネギを切り、バターと炒めます。焦げ色がつく前に火からおろします。別のボールに卵を泡立て、それに塩、バター、トウモロコシの粉、いためたタマネギを入れ、最後に牛乳を入れて混ぜる。それを、油を塗った入れ物に入れてオーブンで焼きます。

■講師■PROFILE■
林マルタさん。
 パラグアイ、エンカルナシオン出身。日系人の父を持つ。日本に来て3カ月だというが日本での生活には問題はないということだ。

[編集部食後の感想は………]
@ソパ 
中にタマネギが入っていて妙味。なぜだか油っぽさが口に残った。甘いのかなと思っていたがさにあらず………。
@エンパナダ 
乾いた感じのするギューザというところかな。
@チーパ 
乾いたドーナツといったところ、あじはあまりついていない。
@ポーリオ レ リェノ 
鳥の丸焼き。



こならの森 59号

2008-04-12 | 創刊~100号

       ■こならの森59号■1993.3

表紙 「佐野小のモクレン」

C・o・n・t・e・n・t・s

3p… 結婚
4p…カラムコラム・街角の肖像
5…きれい瞬間・圭吾の歳時記
6…ミステリーワールド
7p…銀幕画廊
8p-11 特集「ギザギザ屋根」
12-20p「プロフィールたてばやし」
21p-23p 堀米町
24-26p…情報
27…書評・絵本紹介
28-29…文化会館情報
30こならの森から~
31…協賛店MAP

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【本文抜粋記事】

ミステリーワールド

「曲がっている小屋梁」
 北欧やアーリーアメリカン調の家並みに文化の香りを感じるのは私ばかりではないでしょう。 幾何学的な梁の美しい白い壁は、モルタルで塗りたくられ、 柱を覆い隠された私たちの住宅に比べて実に美しい。 人の住まいとうさぎ小屋の違いをまざまざと見せ付けられるような気さえします。 それでは古来我が日本の住宅がこんな風であったかと言うと、 そうでもない。 自分達の回りを少し気を付けて見渡せば、 美しい梁を持った家屋がまだまだ沢山あるのです。
 天井を支える横木が梁、 そしてその梁の上の屋根を支える横木が小屋梁。 美しい小屋梁を捜して街中を散歩すると、 不思議な事に気がつきます。 真っ直ぐな材木の小屋梁は一本もありません。 みんな曲がりくねった丸太が使用されているのです。 なぜでしょうか? 
一、昔は真っ直ぐな木が手に入りにくかった。 二、曲がっている木の方が丈夫である。 三、曲がっている方が造形的に美しい。 四、大工職人の腕のみせどころであった。 などなど。 思い付くままに考えてみましたが、 そんな理由よりも曲がっている木を立派に使いこなしている現実に驚きを感じてしまいます。
 今は、 真っ直ぐな事が貴ばれます。 横道にそれることなくただひたすら受験勉強に邁進しなければ人生に落伍してしまいます。 学校の先生も、 出来るだけ個性と云う名の曲がりを削って真っ直ぐにしようとしま
す。 いや、 真っ直ぐでなければ扱えなくなって来ています。 そして親も世間も、 真っ直ぐな事が当たり前で普通の事のように思っています。 しかし、 小屋梁の文化のように、 曲がっていても普通に使ってしまう度量を、 いや、 曲がっている姿をより自然で美しいと感じる文化を、 つい昨日まで私たち日本人は持っていたに違いないのです。
 古い家が壊され、 新しい家が建つと共に街中から小屋梁が姿を消していきます。 やがて全ての曲がった小屋梁が見えなくなっても、 曲がっている物を個性的で美しいと感じる文化はのこしたいものです。
 建築設計を仕事にしている知人の話によれば、 生木というものは本来一本一本なんらかの曲がりを持っているものなのだそうです。 それはそれぞれが大地に安定する姿をとっている為に自然とそうなるのだそうです。 ですから、曲がった丸太から真っ直ぐな角材を削り取るのは不経済なばかりでなく、 元の安定した姿に戻ろうとして角材は曲がってくるのだそうです。 曲がらないようにするためには何等かの力を常に外から加え続けなけばなりません。
 そろそろ、 子どもの個性を削り取って真っ直ぐにする作業を見直そうではありませんか。



こならの森 58号

2008-04-11 | 創刊~100号

       ■こならの森58号■1993.2

C・o・n・t・e・n・t・s

表紙 「ランカスター田園風景」

3p… 結婚しました 岩上さん夫妻
4p…カラムコラム・街角の肖像
5…きれい瞬間・圭吾の歳時記
6…ミステリーワールド
7p…銀幕画廊
8p-11pインタビュー
12-23p特集ランカスター
24-26p…情報
27…書評・絵本紹介
28-29…文化会館情報
30こならの森から~
31…協賛店MAP

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【本文抜粋記事】


特集 佐野市姉妹都市「ランカスター」について

 ペンシルヴァニアという名前は、「ペンの森」という意味だそうで、なんとなくこならの森としても親しみが持てそうな名前です(実はペンシル(えんぴつ)・バニアだとばっかり思っていたが………)。そんなことから今回の企画が発案されたとかないとか。
 佐野市が市政50周年に際し親善都市協定を結ぼうとしている米国ペンシルバニア州のランカスター市っていったいどんな町なのかな。 今年の7月30日には、佐野市へランカスター市の市長が来日の予定という。こならの森では一足お先に親善都市ランカスター市の素顔を追って見ました。
 もちろん企画にあたって直にランカスター市まで取材に行ければ一番いいのですが、そんなことが出来るはずがない、ということは賢明なる読者氏ならお解りのことでありましょう。ここはひとつ関連ある話を総合し、また実際にランカスター市を訪れた人の話などをまとめながら、(これが本当の意味での市民レベルの国際化、国際交流になるのかどうかはさだかではありませんが)お友達の町として、どういった町なのか分かっていただければいいと思います。
■ペンシルバニア■
 英国人でクウェーカー教徒のウイリアム・ペンが1682年に建設した。ペンは中央と、四辺に広場を設けるといった今でいう都市計画を実施した。「敷地の真ん中に家を建てよう、そうすれば緑の園となる。」といったペンの言葉どおりの町づくりが施された。そこから、州の名前もペンの森という意味でペンシルバニアとなった。ちなみに、州内一番の都市フィラデルフィアとはギリシャ語で兄弟愛を意味するとか。
■ランカスター市の概要■
 アメリカ北東部のペンシルバニア州は、なだらかな山脈が州の北東部から南西にかけ走っている。南東部には、豊かな農業地帯が広がる地域。州内六七郡のうちのひとつ。ワシントンから179キロ、ニューヨークから253キロ。ランカスター郡内全体での面積は2470 人口42万人、ランカスター市だけで5万5千人。1792年に入植が始まり、アメリカ開拓史上重要な役割を演じた。馬車と鉄の産地で有名。
 ランカスター郡全体の主な産業は、金属製造、印刷出版、食料品、衣服など。業種別人口は、卸売業4万7千人、サービス業3万5千人、公務員1万5千人。農業では、総生産高822百万ドルうち、酪農220百万ドル、牛197百万ドル、卵118百万ドルとなっている。(ランカスター市のみにかぎった数字は不明)

■DUTCH COUNTEY(ダッチカントリー)
アミッシュの人々の暮らし。
 ダッチ・カントリーはランカスターを中心とした一帯のことをさします。ニューヨークから車で三時間。飛行機ならフィラデルフィアまで四十五分。とうもろこしや、たばこなどが産物。 彼らは「この世の全ての知恵は神にとって愚かなものである」という聖書の言葉を実践するプロテスタントの一宗派で全米に六万人ほどいます。もともとはドイツ、ライン川流域に暮らしていた人々が祖先となっており、ダッチはドイツという意味。スペースシャトルに代表される米国の宇宙技術とはうらはらに、同じ国でありながらも、映画の一シーンと変わらない、十八世紀さながらの生活を続けています。車はもちろん電気や、電化製品を拒否しています。ですから表紙の写真でもお分かりのように、人家の回りには電柱といったものがありません。



こならの森 57号

2008-04-11 | 創刊~100号

       ■こならの森57号■1993.1発行

表紙 「田沼町イルミネーション」

C・o・n・t・e・n・t・s

3p… 結婚しました=赤坂さん夫妻
4p…7p 特集「埋蔵金」
8p-17p…夢構想93
18p=19 インタビュー「佐野短大 沼尻学長」
20p…カラムコラム・街角の肖像
21p…きれい瞬間・圭吾の歳時記
22…ミステリーワールド
23…銀幕画廊 第1回
24-25p…情報
26…書評・絵本紹介
27-29…文化会館情報
30こならの森から~
31…協賛店MAP
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【本文抜粋記事】

特集「徳川埋蔵金」

■熊鷹山
 何というとてつもない推論を掲げてしまったのだろう。「宝は意外な所に」といっても、あまりにも意外や意外、事もあろうか標高1000メートルもある山に徳川の御用金が眠っているとは………。
 しかしながら、地図上の推測ではそれ以外に考えられないし、否定するだけの根拠も見つけにくい。
 だが、もう一年も前になってしまうが、庚申山にいってみ ての感想も、ここまで@本命 @を運んで来なければいけない理由はいったい何だったのかということだっだ。そんな思いを胸に、また関東地区の地図を広げてみた(皆さんも、関東の地図をお持ちなら実際に検証して頂きたい)。
   
 前回の特集(No.55号)では、熊鷹山が怪しいの根拠として江戸から庚申塚町、田沼の庚申山の延長線に熊鷹山があるとしたが、もう一本重要な導線を忘れていた。すなわち、江戸から日光への直線だった。
 まず、江戸城から、男体山めがけて一直線に線を引いてみる。関東地区の地図では、あまりに細か過ぎてどこがどうと限定できないので、別の詳しい地図上にその延長線を描いてみた、誤差は仕方がないと思った。しかし、その延長線の軌跡を目で追って行った取材班は、以外な新事実を発見するのだった。
 なんとある山の山頂にある神社の鳥居のマークの上を偶然にもぴったりと通っていたのだった。さあ、地図を片手にその場所を検証されたし。そして、その山の前に立って見るべし。そすれば、すべてのなぞが誰の目にもはっきりと分かるに違いない。
 その山は富士山の形そっくりの山なのだ。
 本物の富士山、男体富士、そして富士の形をした山。この三つを結ぶもの、宝(本命)はやはりここといえる。

■埋蔵金の絞り込み
埋蔵金には、本命、不明・もしくは今のところ不確定。
      
 本命を掘り出す資金を得るため、埋蔵金。そして、ダミー。その3つが存在すると思う。それを順に追って検証してみたい。
1 足尾の庚申山
埋蔵を思い立ったのは、伊井直弼であり、担当したのは林鶴梁(はやし・かくりょう)
と後の勘定奉行・小栗上野介(おぐり・こうずけのすけ)である。その部下が勘定吟味役・中島蔵人(なかじま・くらんど)で、義理の息子が水野知義(みずの・ともよし)だという。
 知義は地図、方位、「一将ヲ得レバ七臣ニ達シ七臣ニ達スレバ天下平也」と書かれた三枚の銅版を見つけている。
 また、「一将ヲ得レバ七臣ニ達シ七臣ニ達スレバ天下平也」による七と、十干の七番目の「庚」という字、また暦の七番目が「庚申」であることから、庚申山を導きだしている。

■安佐の庚申塔と庚申信仰
 佐野市内には庚申塔が三〇〇ぐらいあるが、田沼町では三五〇〇基にも達し、安佐地区全体では五〇〇〇基近くに達するのではないだろうか。この全国でもまれな数の庚申塔、そして庚申信仰と、庚申山とのつながりは何かを暗示してはいないだろうか。
 ご存じの方もいると思うが、埋蔵金は八門遁甲という、兵法に基づいて埋蔵された。赤城でもこれが問題となったが、「多くのダミーを作って盗掘者?を惑わす」とあるそうだ。そのダミーが実は赤城山そのものだという。
 八門遁甲は、天・地・人をキーワードとして使うという。
 一説によると天は徳川家康=男体山、人は盗掘人が集まる赤城山そして、地とは男体山と赤城山を直線で結んだ線上の中間点で埋蔵金のある庚申山という。
2 田沼・閑馬にある庚申山
「庚申」というものにまどわされて、庚申信仰の総本山足尾の庚申山へいってしまったが、実はそこではなく、閑馬にある庚申山(こうしんやま)こそが、本命だ。
 赤城は囮で、赤城と日光男体山のちょうど中間地点に位置する庚申山が宝の埋蔵場所だとも思えるが、現地に行った感想は、どう考えてもこんな山奥まで宝を運んでくるとは考えにくい。 その結果、庚申信仰を拠点とした推理から察すると、閑馬の庚申山が怪しい。
3 田沼の金原地区、その山林(まだ未調査)。これからに期待する。
4 栗木内庚申搭群のある小高い山(栗とは小栗上野介の栗、木とはつまり金、内はこの中という意味だろうか)。
実際に伊井直弼はこの地点をつぶさに視察しているし、この近辺には、目印になるかのようなピラミッドを思わせる山が庚申山を結んで両脇にそびえ立っているのも奇妙だ。
 小栗上野介が東照宮を栗山村の角門へ移したという事実を示す資料がある。しかしながらそれが示す小栗家と言う文字が、小栗上野介を指し示すかについては不明だ。 だが、小栗上野介の「栗」と栗山村の「栗」そして、田沼の閑馬の栗木内庚申搭群の「栗」この三つは無関係ではだいだろう。
■資料編
 赤城は河川と交通路を上っていけ、地形の利点がある。また、地質てきにも火山灰で粘り気があり埋蔵に適している。
 上州にはたくさんの目撃談が残されている。宝360万両は四畳半くらいの大きさになる。
 元警察署長三枝茂三郎は、赤城山西麓を30年間も掘り続け、庚申塚の林立する百庚申のそばで、「『この山の中を訪ねよ』と刻まれた石を発見している。」
■キーワードとしては……
「鳳凰は北へ飛んだ」
「不動のものに気をつけろ」
「すでにあるものを利用する」「江戸から東北、北東は鬼門にあたる」「徳川にとって東北は弱かった」「西南の方角は良かったものが悪くなる」




●参考資料
■安佐近辺に残る埋蔵金伝説
 [ 出流原町の埋蔵金伝説 ]
 佐野市史によると、出流原町のあたりには古くから埋蔵金伝説が残っているというのだ。
「朝日さす夕日輝く木の下に うるし千ばい 黄金億々」というような宝のありかをよんだ歌も残っているという。また、この地の領主井伊掃部守の乗馬が、後山にまぎれこんだとき、ひずめに朱をつけて帰ったのでこれを手掛かりに宝探しをしたという話が伝わる。
 近年、研究家が黄金を埋蔵したと思われる石のカラトを発見、これをあけようとしたが、村人の反対で開けることが出来なかったという話も古老から聞き出すころが出来たということだ。
 また、黄金埋蔵の井戸という伝説も残っているそうだ。
 ………この地方には、「黄金千ばい 朱千ばい 砥石で組んだ井戸がある」という、これをさがすのには、雪が降った時、雪の積もらない所を掘ればいいといわれている。
 ある時、この話を信じた里人が、試掘したところ何もなかったという………。
■皆川城埋蔵金(詳細はこならの森のNo.38号参照)
 皆川城の埋蔵金伝説によれば、宝の隠し場所は雪が降った後最初に雪が解ける場所だという。
 そこで、編集部は今まであまりみたことのなかった猿田彦を祭る石塔を発見するにいたった。そればかりか、亀の頭を表すかのような庚申塔も発見した。その指し示す方向はその小高い山の山頂地点だった。ここが、最重要地点だと思う。試しに山頂までいってみた。それは亀の頭を思い起こさせるような切り立ったものだった。言い換えれば、山全体が作為的に作られたような気がしてくる。何か不自然なのだ。この直感は外れているのだろうか。
■もう一つのポイント
 「何故東照宮なのか」
 また、東照宮にもスポットをあてて見ることにもした。
 それは紛れもなく東照宮イコール徳川家康であるからだ。そして、佐野の東照宮が東を向いて立っていること、小栗上野介の領地であり、その霊を祭るという高橋町の雀神社が同じく東向きであることから、その方向に視点を向けて見た。
 全国各地に散らばる五〇〇社ともいわれる東照宮の分布をみると、さすがに赤城山や榛名山にはたくさんの東照宮がちらばる。これだけをとっても、宝が埋まっていることを裏付けられないわけではないかなと思えてしまうほどだ。
家康は宇宙神の化現
 家康の遺言
 「遺体を久能山に納め、葬礼を増上寺(江戸)に申し付け、いはいを三河の大樹寺に立てて、一周忌を過ぎて後に日光山に小さき堂をたて勧請せよ、関八州の鎮守とならん」
 また、日光東照宮の文庫長が東照宮創建に対する新説を90年5月13日付けの朝日新聞に発表している。
 その記事によると、生前一度も家康は日光を訪れていないというが、この辺のことを進言したのは、時のブレーンだった、天海だという。
 家康生誕の地岡崎、そしてそのさらに西には京都(家康の本地仏とされる鳳来寺)があり、この線を東に移動して行くと久能山に行き着き、この三点が一直線に並ぶ。これは単なる偶然ではない。
 古代遺跡などの配列から考えられる「太陽の道」にヒントをえて、太陽が東に昇るように、家康が神として再生するために、東に葬らなければならなかった。そこで、久能山が選ばれたというのだ。
 また、久能山-富士山-世良田(徳川家発祥の地)も一直線にならび、その延長線上には日光が位置する。久能山でお参りすることは、その背後に控える霊峰・富士(不死)山を参拝し、またそのさらに奥にある日光までも参拝することになるというのだ。
 また日光は江戸からみて真北にもあたる、そういった立地条件にあるからこそ東照宮がその地に選ばれたと言うことだ。そして、さらに驚いたことには、久能山東照宮の本殿は南南西の方を向いているというのだ。位置ばかりでなく、社殿の方向まで日光を意識している。また、地図上でもぴったりと一致する。これは、壮大な意味付けがなされている結果に他ならない。