■ ■■■■■ ■ 日刊 こならの森 ■ ■■■■■ ■

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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森 56号

2008-04-11 | 創刊~100号
       ■こならの森56号■1992.12発行

表紙 「秋山川=水道橋」

C・o・n・t・e・n・t・s

3p… 結婚しました 真家さん夫妻
4p-19p…まちづくり最後の提案
20p…カラムコラム・街角の肖像
21p…きれい瞬間・圭吾の歳時記
22…ミステリーワールド
23…モータースポーツ
24-26p…情報
27…書評・絵本紹介
28-29p…文化会館情報
30こならの森から~
31…協賛店MAP

【本文抜粋記事】


まちづくり最後の提案

夢構想 第1回

司会 このシンポジュームを実りある形で進めていきたいと思いますがここでお話しして頂くことは、あくまで個人の夢の意見であって、団体の代表としての見解ではないということを最初にお断りしておきます。
 それでは、最初に太田様お願い致します。

■佐野  

両毛五市構想というのは復活、ルネッサンスだ。

■佐野商工会議所 青年経営者懇談会 会長 太田哲夫さん
 地元代表ということでトップバッターのご指名を頂いております。 佐野市は来年市政五〇周年を迎えます。改めて五一年に向かっての町づくりをどうするのか行政サイドだけでなく市民のみなさんも真剣に取り組むべきときだと思っています。
 先日佐野へ日本新党の寺沢良男さんと出雲市の岩国市長さんがおみえになりました。お二人は、「中央集権の枠組により地域が発展したが、逆に言えば中央集権が地方の自立や活性化を阻害している。国民はもっと豊かな生活や、ゆとりを持つためにこうした面を改革して行かなければいけない」。また「国が変わらないならば地方から変わって行く、そう地方行政に当たるべきだ」とも言っておりました。そんなことから、これからの地方での町づくりは大事な道を選択しなければいけないと感じます。 私共、青年経営者懇談会も「みんなで未来の夢を語ろう」をサブタイルとして「残すべきもの、創るべきもの」と表現しています。ものといっても固形のものを意味している訳ではありませんで、心とか文化、情報の問題等が含まれると思います。そして来年三月にはシンポジュームを計画しています。主旨としては環境保護の高まりやゆとりのある生活、歴史文化を見直すこと。ミニ東京化でない個性的な暮らしやすいまち、そういったことを具体的に手探りしながら、佐野の個性、まちのアイデンティティというものをきっちりと追求していきたい。そして、それをベースにして街のビジョンを持うじゃないか、ということで進めています。 佐野は県内外から厄除大師やラーメンなどに大変多くのお客さんが来て頂いています。これはやはり手づくりの味わいや、何か心に触れるものがあるのではないかと、ある方から聞きました。佐野はその他にも地酒、雛人形、天命鋳物とか繊維関係の手仕事が脈々と受け継がれ、これが大事な資産だと思います。しかし、うっかりしているとそういう地方の良さが、首都圏の拡大と東京文化の流入によってなくなってしまう危険性がある。だから大事な所はしっかり守って行かなければいけない。
 当会は会員が百名近く、もっかのところ総務・経営研究・地域開発・情報ネットワークの四つの委員会に分かれ、各委員会ごとにテーマを絞り込んでいます。
 総務委員会は、祭りを切り口にしています。祭りはそのまちの個性や文化、経済力を反映するものである、そういったことから祭りの歴史を追いながら佐野のスピリットや今後の方向を探って行こうと試みています。
 経営研究委員会は地域の工芸品とか商工業を切り口に「創るもの、残すもの」という観点で研究をしています。
 地域開発委員会は、新都市整備開発と既存の街のかかわりについて研究する。この新都市整備計画は、国土庁の地域振興整備公団事業の前段階で、佐野のインター付近一五〇ヘクタールに及ぶ大規模な開発計画です。これは創るべきものに入ると思います。一方で、旧市街地は歴史と伝統に根差した町並みが残っていますから、いい意味で残すべきものだと思います。けれどもリフレッシュを図らなければならない面もある。暮らしの面からも新都市計画との関連を探って行きたいと考えます。 最後に情報ネットワーク委員会なんですが、これはテーマというより手法かも知れません。佐野市の新旧の写真あるいは8ミリ映像などを集め佐野の変遷をたどっていく。失ったものも多いかも知れませんが、ちゃんと残って輝いているものもあるでしょうし、創るべきものの方向性も探れると期待しております。
 以上四委員会の活動ですが、まだ作業中であり活動を報告するという形で町づくりの基本となる考え方を述べました。来年の三月にはシンポジュームという形で一般公開したいと思います。
 これからは地方の時代だ、北関東横断道路ができれば発展する、水と緑に恵まれている、道がいい、とスローガン的に掲げていただけでは良い町にはならない。開発と自然環境をどうやって調和させていくのか、どこの水と緑を残すのか、また大事にするのか、そういったことも具体的にしなくてはいけないと思います。
 佐野は立地が良いといいますが、道路交通の面は良しとしても、鉄道ではJRも私鉄も支線でどちらの駅も遠くへ出る場合乗り換えで、あまり恵まれていないと思います。県庁からも遠いですね。
 佐野市の南部は群馬県の館林、板倉町に接しており、行政の区割りですと南部が空白地帯になっています。加えて渡良瀬川で分けられていますから群馬県側へのアクセスは非常に悪く、板倉町などへは直接いけません。情報やビジネスも、中央統制の区割りに沿った営業なり展開にされています。一般市民のレベルではなかなか群馬県側の情報は入って来ないと思います。これが仮に同一の広域都市として形成されたり、同一の市ということになりますと情報や人々の交流がもっと盛んになると思います。
 私の子どもころの印象では、この両毛地区は繊維産業が盛んでそれを中心にもっと一体感があったのではないかと思います。江戸時代から、八木節音頭などは両毛地区一帯で歌われていたと思いますし、冬になりますといまだに両毛一帯にからっ風は吹き荒れます。それは健在なのですが……。
 ですから、この両毛五市構想というのは私からしてみれば復活というか、ルネッサンスだと思っています。今まで行政の中で分断されていたものが復活するチャンスであり、必然的にたどる道なのだと思っています。
 幸い両毛広域都市構想が国の総合開発事業として調査対象区域に指定されましたので我々民間レベルの交流をいっそう高めて、一歩も二歩前進していくことが必要かと考えます。この構想が具体化し、若い人もお年寄りも住み良い町、またそういう動きがあるだけでも若い人はどんどんUターンしてくる、あわよくば他の出身の若い人も両毛地区に集まって来る、そのくらい頑張っていく必要がある。そんなことを思いながら、具体的な提言にはいたりませんでしたが、両毛五市の夢の発表を終わられて頂きたいと思います。


こならの森 55号

2008-04-11 | 創刊~100号
       ■こならの森55号■1992.10発行


C・o・n・t・e・n・t・s

3p… 結婚しました=山口さん夫妻
4p…カラムコラム・街角の肖像
4p…モータースポーツ
5p…-きれい瞬間
6-11p…特集「埋蔵金」
12-19p…ミニ特集「大口さん」靖国問題
20p…オープン情報
21…書評・絵本紹介
22-27…情報
28p ミステリーワールド
29 ピープル
30こならの森から~
31…協賛店MAP


【本文抜粋記事】

■緊急特集 徳川埋蔵金■

■埋蔵金は必ずある。
 最近、埋蔵金は、必ずあるという資料を手に入れたのでまずご紹介したい。詳しい数字は載っていなかったが、過去における日本での金の産出量と輸出入、そして現在の総量を計算するとどうしてもつじつまが合わず、多くは地下に眠っているというものだった。
 また、徳川の御用金の埋蔵場所は一か所ではなく、本命の他に、それを掘り出すための御用金が数箇所に分けられて埋蔵されているという。群馬県の猿ガ京で御用金一〇万両が紛失したという事件があり、それをもとに発掘を敢行したグループもあったが、これなどまさしく分割して埋蔵された御用金の一部であろう。
 そうすると、仮に三六〇万両まで行かなくても、一〇万両くらい(元禄大判一枚が六五〇〇円として6億5千万円)の可能性は大となる。だから安佐地区で今まで調査して来た地点、栗木内庚申塔群、田沼の庚申山などは非常にくさい。ただ、八門遁甲の軍学によれば、囮も多いということで、さらなる調査と実証がほしいところ。だがここで問題なのは、ではいったい@本命@はどこに埋まっているのかということだ。

■やっぱり囮だった、赤城山
 TBSの製作側は「結局あれだけやったんだからもういいだろう」と思っているのだろうが、出もしないのに出るまでやると言っておきながら、結果的には「番組が終わるまでやる」だった。そのことに腹を立てているこならの森愛読者の声も聞く。あんなにいいかげんなことではいけない、と取材班は、思った。だから勢い「こならの森は最後までやりますよ」とある愛読者に言ってしまった。
 そんないきさつもあり、緊急に編集に入ったので、まだまだ不十分な点も多いと思う。また調査隊長の中島氏は十一月にかねてからうわさのあったKさんと挙式ということで、取材活動に参加できずだった。また、別のこならの森愛読者Tさんも調査隊への参加を希望するなどこの辺の動きも騒がしくなって来たように思う。
 久能山への取材で分かったことだが、調査費だけても今までにないほど巨額の費用がかかってしまった。久能山後は、もうこの企画そのものをやめてしまおうと、領収書の山を目の前にして思ったものだ。しかし、火付け役ともいえたあのギミアぶれいくが発掘をやめてしまった以上こちら側としても引くに引けない。それも、全くその気配や関連性がないという土地柄なら諦めもするが、調査して行けば行くほど確信が深まっていくのだから始末に終えない。今までの企画を全てお読みの読者ならお解りのことと思うが、その後放映された他局の内容よりこならの森が調査して来た事項の方が確信がもてるのは事実だろう。
 また、隊長の中島氏が新説として編集部へ電話して来た内容によると、幕末期に前橋にあった城を小栗上野介が修復したという記録があるそうだ。そして、あくまで官軍と戦うという幕府の強行論者の考えでは、箱根での戦いに敗れたら江戸を捨て利根川や赤城など自然地形を利用した天然の要塞ともいえる上州へたてこもり、さらには福島県方面へ撤退をしながら、徹底抗戦を続ける計画だったという。そのために撤退の経路である赤城や庚申山、といったところに御用金を埋蔵したのだという。初回にも触れたが、赤城-庚申山-日光は一直線上につながっている。これからもその入り口である、赤城が囮であることは間違いない。だがこならの森編集部発掘調査隊が考えていることは、それよりももっと江戸に近い地点の、この安佐にあるのだということだ。

■久能山での収穫は、以外や以外『熊鷹山があやしい』だった。
 久能山へ行ってみての感想は、もともとが城跡であり、反対側は海であることから、発掘調査隊のメンバーの一人である、松本隆祐氏が考える埋蔵金の説、つまり「小栗上野介が海外へ持ち出したのだ。」を考えると、海外まで行かずにこの久能山へ運び込んだのではないだろうかとも思えてくる。
 八門遁甲に精通していた幕府の最高顧問・天海がその軍学を使って、久能山-富士山-世良田-日光という線を導きだした(こならの森51号参照)。
 さて、そこで熊鷹山と久能山との関係だが、これを説明する前に関東地区の地図を用意していただきたいと思う。そして、地図上に久能山から日光東照宮まで線を引く。すると、本当に富士山、世良田、日光が一直線上に並ぶ、だが日光の手前を見ると、何と熊鷹山もその直線上にぴったりと一致する。そればかりではない、熊鷹山を起点に男体山、赤城山に線を引くと二等辺三角形が現れる。そして、熊鷹山から三角形の長辺に向かって垂直に線を延長して行くと、そこに現れるのはあの足尾の庚申山なのだ。熊鷹山は赤城か真東の方角。さらに、前回話題となった佐野市の庚申塚町と田沼の庚申山を結んだ線を延長して行くと、これまたぴったりと熊鷹山に行き着くのだ。蛇足ながらさらに延長すると、白根山にぶつかる。この白根山も霊峰と聞く、何か関係があることは間違いない。
 熊鷹山の北西に白根山がある、ではその逆に南東に延長して行くと行き着く先はどこなのだろうか。熊鷹山↓田沼・庚申山↓佐野市・庚申塚町と延長してその先に目を落としたとき、久能山行きを決意した。なんとその先は江戸城ではなないか。偶然と言えばそれまでだが偶然にしては、あまりにも一致し過ぎる。それに赤城↓庚申↓男体ルートの男体、庚申のちょうど真ん中を、白根-熊鷹-江戸ルートが横切っている。赤城から熊鷹山は真東だが、世良田から庚申塚町もまた真東なのだ。そして、世良田=庚申塚町=熊鷹山はほぼ正三角形を形成している。

■七不思議の怪
 名前から受ける熊鷹山の印象が、熊が住み、鷹が生息している秘境だと取れる。しかし、状況説明はともかく、地名や山の名称にこんな名前をつけるものなのだろうか………。
 大平山には七不思議と言われる言い伝えがあり、近くに埋蔵金が眠っていると考えられ、研究している人がいるという。その人の説によると、これは人々をこわがらせて、寄せ付けなくするためだといい、各地のこうした伝説の裏には必ず埋蔵金の臭いがあるのだという。その観点からすると、この熊鷹というのも、鳥類の最高峰と猛獣類の(日本での)最高を掛け合わせたものと考えられなくもない。そうでなくても山岳なのに、こうした名前なのは人を寄せ付けたくはなかった何かがあったに違いない。
 初回にも書いたが、安佐から熊鷹山を通り足尾の銅山へ抜ける道というのは当時から確立されていたし、その地図も残されている。
※今回は重大な発見があったにもかかわらず、紙面の都合と取材の不備でその全貌が詳しくお伝えできなかったことをお詫び致します。



こならの森 54号

2008-04-11 | 創刊~100号
       ■こならの森54号■1992.10

表紙 「三毳山定点=秋」

C・o・n・t・e・n・t・s

3… 結婚=大沢さん夫妻
4…6 秋だからみかもやま
7p ピープル
8-17p「読書の秋」
18…カラムコラム・街角の肖像
19… ミステリーワールド
20…モータースポーツ
21…-きれい瞬間・圭吾の歳時記
22-25…情報
26 大口さんへの質問
27…書評・絵本紹介
28-29 情報
30こならの森から~
31…協賛店MAP


【本文抜粋記事】

ミステリーワールド
「取り残された畑地」

 街の中心部にあったホームセンターが郊外に出ることになった。 売場面積の拡充と広い駐車場の確保が主な理由であった。 もちろん大型店の出店は簡単ではない。 立地条件に合った土地の買収、 周辺商店街との調整、 等など、 面倒な手続きや、 ややこしい書類の門をくぐらなければならない。 そうして何年かかけてようやくオープンとなるのであるが、 ホームセンター側はどうしても早く資金を回収したいからオープンを急ぐ。 その為、 地元住民との充分な話合いがなされぬまま、 法的な手続きが優先されてシャンシャンシャンとなる事が多い。 このホームセンターがそうだった、 とは言わないが、 不自然な形で残された二十坪程の畑地が気になる。
 この土地の所有者か、 この土地に何等かの権利を持つ人がどうしても納得しないのだろう。 近頃、 やたらと権利ばかりを振りかざし、 わがままを通す事が民主主義だとはき違えている若者が増えて来たが、 この土地の所有者からはそんなわがままさを感じない。 むしろすがすがしい頑固さを感じるのである。 納得していない事を 「私は納得していません」 と意思表示する事は民主主義の根底をなす大切な事と思う。 それは、口先だけで「納得していない、 不満である」 と言いながら、 大樹の陰に身を寄せて嬉々としている小利口な日和見主義者とは違う。 もっとも今は、 そんな口先だけの人間がもてはやされ、 物質的に豊かな暮らしをしている時代なのかもしれない。
 今から九十年程前、 強制破壊され、 藤岡町に合併されて廃村となりながらも、 雨漏りのする仮小屋で頑固に立ち退きを拒否つづけた旧谷中村の人達は、 何の為に抵抗し続けたのであろうか。 「国や、 県のやり方が納得出来ない」 と言うことではなかったのだろうか。 納得出来ないことを納得出来ないと、 自らの命をかけて意思表示した旧谷中住民に、私達は「民主主義とはなにか」 をもう一度学ばなくてはいけない。
 この不自然な形で取り残された畑地には野菜がきちんと植えられ管理されている。 所有者の心根が伝わって来るようですがすがしい。 多くの非難の中で孤立していくであろう畑地の所有者ガンバレ。
 後日、 ここに同ホームセンターの眼鏡売場が建った。 それでは、 わずかな期間取り残されたあの畑地はなんだったのだろうか。 土地買収がうまくいき、 少しの間だけホームセンター側の行為で野菜を作らせてもらっていただけだったのだろうか。 嗚呼あ。



こならの森 53号

2008-04-10 | 創刊~100号
       ■こならの森53号■1992.9発行

表紙 コスモスアップ

C・o・n・t・e・n・t・s

3… 結婚=久保田
4…5 書でみるおぞねとしこ展
6-13p  足利人気質
14… ミステリーワールド
15…-きれい瞬間
16-17 情報
18…カラムコラム・街角の肖像
19…書評・絵本紹介
20-23…情報
24-29 ミニ特集=わたぼうし
30こならの森から~
31…協賛店MAP

【本文抜粋記事】


 書でみるおぞねとしこ展

特別企画 
 書で観る『おぞねとしこ』の世界展

                                              ごあいさつ
  小曽根俊子さんはご存知の通り、重度の脳性麻痺(CP)と言うハンディを持って生活する佐野市在住の女性です。
 彼女が自分のハンディの重さに気付き、 生きる希望を失いかけた時、 彼女を勇気づけてくれたものは詩を作ることでした。 そしてその作詩活動を通じて知った人々の温かさだったのです。 彼女の詩の中に生きる勇気を感じ、 生きとし生きるものへの優しさを感じるとすれば、 それは若くして死のふちをさまよい続けた彼女の魂のやさしさに相違ありません。

 自らボランティア活動の先頭に立ち、 多くのハンディを持つ人々の代弁者として心を開く小曽根俊子さんは、 私たちのふるさと、 この地域において今も作詩活動を続けておりますが、このたび大阪の著名な書家(仮名書家)山田伍雲(やまだごうん)先生によって新しい俊子さんの世界に触れることが出来るようになりました。

 この企画展は8月1日(土)と2日(日)に佐野市文化会館展示室においておこなわれました。おぞねとしこさんは、こならの森にもエッセイや新作の詩を発表してくれました。こならの森でも近々、新たなコーナーを企画しております、ご期待ください。




こならの森 52号

2008-04-10 | 創刊~100号
 
       ■こならの森52号■1992.8発行

表紙/佐野市花火(泉マンション屋上より)

C・o・n・t・e・n・t・s

3… 結婚=あいこ
4…5 若き芸術家の世界
6-13p  飛駒線に乗って
14…モータースポーツ
15…-きれい瞬間
16-17 情報
18…カラムコラム・街角の肖像
19…書評・絵本紹介
20-21 情報
23 ミステリーワールド13 
24-26 インタビュー
27-29 世界の料理
30こならの森から~
31…協賛店MAP




【本文抜粋記事】


若き芸術家の新世界

春野ウララさん本名古住元幸。
1948年10月淡路島生まれ

 古住さんのアトリエは、最近越して来た大平町西山田にある民族資料館裏手の静かな山林の中にあった。
 アトリエといっても絵画制作だけの場ではなく、演劇を上演する劇場であったり、ミニコンサートを開くホールであったりする『ぽから劇場』と名付けられたおもしろ空間だ。
 今まではアトリエの条件等から水彩画を描いて来たが、これからは新しいアトリエを得ることができて油彩など多才な制作ができるようだ。8月16日までは、100点あまりの御面の展覧会を開催する。価格も一点2000円前後からのリーズナブルなもの。御面というと丸い物という観念を打ち破って古住さんのものは四角く、表情や色彩もユニークなものばかり。
 また、水彩画では五百羅漢と題された、五〇〇枚の大作も過去に制作。これは、完成まで二年も要したという。
 年一回くらいのペースで個展も開いているそうだ。テーマはいつも自然。それは人間も含めたものという。太陽、草、木、そして雲がイメージを大きく膨らませる。 根っからのお祭り好きで、春から夏の間は、コンサートや芝居などのミニイベントを月二回のペースで企画して楽しむという。そのため絵画制作も秋から冬にかけてが本番という。「その短い間に集中して描いてしまうほうですね。」と古住さんは語る。
 イベントが開かれるときには、会場まで手製の行灯に火が灯り昼でも薄暗い会場まで繋がらせるという。
 自宅前が清水寺から大中寺へのハイキング道となっており、最近になってハイカーから「水や飲み物は無いのか」と聞かれるということで、現在ちょっとした休憩所を元あった家屋を利用し、仲間と手作りで製作中だ。
 「土をこねたカマドも制作したんですよ。それから、古井戸も見つかりました。静かにして、中の音を聞いてみると水の流れる音がするんです。」どうやら、大平山系の伏流水が流れて込んで来ているらしい。
「栃木はいいですね。越して来て本当によかった。このあたりは回りじゅう木々で覆われていて、すぐ横は竹やぶなんです。それで、管理かたがた伐採して来て、板の間などを作りました。」と話してくれた。その竹敷の板の間に腰掛けてみると、ひんやりとしてとても心地よい。



こならの森 51号

2008-04-09 | 創刊~100号

       ■こならの森51号■1992.7発行

表紙/三毳山はれ

C・o・n・t・e・n・t・s

3… 結婚=津布久さん夫婦
4…13 特集「埋蔵金」
14…青春の断想・きれい瞬間
15-20情報
21…書評・絵本紹介
22…カラムコラム・街角の肖像
23 ミステリーワールド
24-27両毛五市 佐野市
28-29 インタビュー
30こならの森から~
31…協賛店MAP

………………………


【本文抜粋記事】


特集「埋蔵金」

■緊急特集@徳川埋蔵金■

●最近のテレビ、ギミアブレイクやその他の局が、埋蔵金について番組を作っているが、その辺の情報のうち大切と思えるものを拾って見ると……。
赤城は河川と交通路を上っていけ、地形の利点がある。また、地質てきにも火山灰で粘り気があり埋蔵に適している。
 上州にはたくさんの目撃談が残されている。宝360万両は四畳半くらいの大きさになる。
 元警察署長三枝茂三郎は、赤城山西麓を30年間も掘り続け、庚申塚の林立する百庚申のそばで、「『この山の中を訪ねよ』と刻まれた石を発見している。」
 また、キーワードとしては……「鳳凰は北へ飛んだ」「不動のものに気をつけろ」「すでにあるものを利用する」「江戸から東北、北東は鬼門にあたる」「徳川にとって東北は弱かった」「西南の方角は良かったものが悪くなる」
 [ 取材開始 ]
 突如として、強行取材を決行するのは、この発掘調査班の身の上だが、どうやら前回の企画は勇み足だったようだ。「庚申」というものにまどわされて、庚申信仰の総本山足尾の庚申山へいってしまったが、実はそこではなく、閑馬にある庚申山(こうしんやま)こそが、本命だったのだ。
 赤城は囮で、赤城と日光男体山のちょうど中間地点に位置する庚申山が宝の埋蔵場所だということは前回書いたし、現地にも行って見たが、どう考えてもこんな山奥まで宝を運んでくるとは考えにくい。というのが、現地調査での収穫で、帰りの車の中でえられた結論だったのだ。
[ かね・づかの謎とは ]
@佐野市には、「庚申塚」と書く町がある。どう読むのだろうか、「こうしんづか」と読むの
は、まあふつう。佐野に住みながらも、そんな町あるの? と言われてしまうのがオチだろう。だが、これがなんと、『かねづか』とよむのだ。『かね』とは、金のことだろか。
 その辺も興味深いし、他ではあまり聞かないのも事実で何か隠されていると思えてくる。
 また田沼には「亀」の字がつく名字がなぜ多いのか。亀とは兵法でいう宝の番人。それが守っている山という意味か。
 そして、閑馬の庚申山のすぐ奥にある集落は、「金原」というのだ。その近くの山の名前も金原山だ。この関連性は偶然とは思えない何かがあるに違いない。しかも、このまわりに、金とつく地名は他にはない。なにか、ここに「金」に関係するもの(埋蔵金)があったにちがいない。
 そして、庚申塔の分布も非常に多いと聞く(別図参照)。
 埋蔵を思い立ったのは伊井直弼だということはもう皆さんご存じだと思うが、その伊井直弼は安佐にも訪れているのだ。しかも、どのルートをとったかという詳細な地図まで残っているのだ。
 また、よいと思ったことは直ちに実行するタイプという。

■前回の京谷さんとのインタビューでは話の趣旨が埋蔵金の事ではなかったので紹介していないが、話の中では、埋蔵に関係するのではないのかと思われる事項も出て来ていたので、今回まとめて紹介してみたい。ただし京谷さん自身は、徳川埋蔵金に対しては否定的な見方をしているということは、残念ながら最初に断らなければいけない。
 …庚申塔の数だけでも田沼町で四〇〇〇を越えていますからね。田沼町史の中でも特に特長がある所です。とにかく閑馬では一つの山で、一〇〇〇を越えています。
■山というのはそんなに大きくない山ですか。
 そうですね。名前も庚申山(こうしんやま)です。石の標柱には、千体庚申山なんて書いてありますね。
■ よっぽどの何かがあったんですか。
■  あったんでしょうね。
 どういう信仰でそうなったかということは非常に難しいんですけれども。作られるのは、幕末期になって爆発的になった、ということはコレラ、そういうことも考えられるのかなと思いますね。
■ひとつ作るにもそれなりのお金がかかるわけですよね。
 そうですね、素人には彫れないですよ。また、その地域の人だけじゃなくって遠くのほうからも奉納に来ていますね。
■佐野は、家康公の眠る東照宮の真下に当たる訳ですよね。距離も江戸とちょうど半分で、昔の易学とか、方位学からすると、どうも気になる位置ですね。
 しかし、事実、家康の柩は佐野で一泊しています。それほど、佐野は重要視されたということなんですね。
 柩は川越から行田市、館林、佐野へ。元和三年(1617)の三月二八日に今の元三大師に一泊しました。その、一泊した所には東照宮が造られる訳ですから佐野の東照宮は日本でも古い時期に造られた東照宮なんですね。ですから、今の東照宮は幕府お抱えの棟梁が造った訳なんです。もちろん方位にもあたるわけですが、東照宮は江戸から見て真北にあたり、北極星は動かないということから、徳川の天下は動かない。また、日光から関東平野を見ているんだと。関東平野を見るということは、天下を見るということですからね。そこに、家康を祭って大権現としたわけです。
 柩の総責任者だったものの領地も佐野にあったんです。
[ さあ庚申山へ ]
 以上のことから、こならの森埋蔵金取材班は、前回参加出来なかった日立市在住で埋蔵金に対しては、独自の理論を展開する松本隆祐氏を同行しての編成隊で早々に取材活動を開始した。 まず、佐野元三大師にある東照宮へ向かってみた。ここでは、この東照宮がどの方向へ向いているかが問題だった。日光の方角かと思われたが、東を向いて建っていた。1829年幕命により造営されたとある。
 また、高橋町には、なんと埋蔵にかかわった小栗上野介の領地があるというのだ、それも群馬の権田村よりも多くの領地だという。
 高橋町にある渡良瀬川の土手に登って見たが、安佐のどこに埋蔵されているにせよ、小栗上野介の領地であったことからして、埋蔵金はこの当たりに荷揚げされたに違いない。
 高橋村の名主、人見宗平は小栗上野介の一周忌の夜に、首級を盗み出すことに成功し、権田村の東善寺に葬ったということだ。そんなことから雀神社には、小栗上野介親子の霊が祀られているそうだ。
 ただ不思議なことに付近の神社がみな南を向いて立っているにもかかわらず、この神社だけは東向きだった。これは、先に見て来た東照宮と同じではないか………。 そして、東照宮では眠り猫の彫られている裏に、雀の彫刻が彫ってあるという。そして、猫の彫刻とうのはだいたい目を開けているという。 眠っているのは東照宮だけだそうだ。それも、宝暦には、猫の記載がなく、雀の位置には三鵲があったそうだ。いつから、現在の位置になったのかは不明。だが、東照宮の彫刻はそれぞれに意味があり、重要な位置に置かれているという。また、富士山には左甚五郎作という粗彫りの眠り猫があるという。この位置関係はどうなのだろう。
[ 出流原町に残る埋蔵金伝説 ]
 そして、いよいよ庚申山へ向かうことにした。途中に出流原町を通る。佐野市史によると、このあたりには古くから埋蔵金伝説が残っているというのだ。「朝日さす夕日輝く木の下に うるし千ばい 黄金億々」というような宝のありかをよんだ歌も残っているという。また、この地の領主井伊掃部守の乗馬が、後山にまぎれこんだとき、ひずめに朱をつけて帰ったのでこれを手掛かりに宝探しをしたという話が伝わる。 近年、研究家が黄金を埋蔵したと思われる石のカラトを発見、これをあけようとしたが、村人の反対で開けることが出来なかったというような話も古老から聞き出すころが出来たということだ。
 また、黄金埋蔵の井戸という伝説も残っているそうだ。
…この地方には、「黄金千ばい 朱千ばい 砥石で組んだ井戸がある」という、これをさがすのには、雪が降った時、雪の積もらない所を掘ればいいといわれている。
 ある時、この話を信じた里人が、試掘したところ何もなかったという。………
 そんな話をしているうちに、目指す庚申山へやって来ていた。 本当に忘れてしまいそうな小
さな山だった。しかし入り口から、山頂まではたくさんの庚申塔が並ぶ、それもしっかりした大きなものから、村人が自然石に彫り付けたようなものまで様々だが、数としては大変なものだ。それも、へんぴな山村の一部なのだからもっと驚く。
 やっとのことで、山頂までこれた。しかし山頂を、くまなく捜したにもかかわらず、亀岩や鶴岩といったことはもとより、何らの物証もえることが出来なかった。 中島氏は、「ここではないんじゃないかな。」という。せっかく、ここまで調査を進めて来たのだから、この山を発掘ポイントとしておきたかったが、何の手掛かりもないのでは仕方がない。再調査地点として保留し、やむなく下山した。
 そして、この山の奥にある金原に視点を移していった。そこで、取材班は、新たなる庚申塔群にターゲットを絞ってみることにした。
 地元の人に、この辺(金原)に亀岩とか、鶴岩といったところがないか、聞いてみたが分からないという返事だった。
 残念無念ながら、次の目的地、伊井直弼が佐野領視察に来たときに、宿泊したという家へ向かったのだった。その道すがら、須花庚申塔群へよってみた。そこをみて行くうちに、中島氏は「これはやはり金原の庚申塔群が怪しい」という。そこで、予定を変更して、もう一度、金原へ向かった。そして、その近くにある庚申塔群にいってみることにしたのだ。
 そこで、編集部は今まであまりみたことのなかった猿田彦を祭る石塔を発見するにいたった。そればかりか、亀の頭を表すかのような庚申塔も発見した。その指し示す方向はその小高い山の山頂地点だった。ここが、最重要地点だと思う。試しに山頂までいってみた。それは亀の頭を思い起こさせるような切り立ったものだった。言い換えれば、山全体が作為的に作られたような気がしてくる。何か不自然なのだ。この直感は外れているのだろうか。
[ 調査結果 ]
 足早な、今回の取材の後、取材班は佐野市立図書館によって各種の文献を検討しながら今後の発掘調査について話し合った。
 その結果、庚申信仰を拠点とした推理から察すると、閑馬の庚申山とその近くの金原、また栗木内(栗とは小栗上野介の栗、木とはつまり金、内はこの中という意味だろうか)庚申搭群のある小高い山。この三点を埋蔵地点と推察した。事実伊井直弼はこの地点をつぶさに視察しているし、この近辺には、目印になるかのようなピラミッドを思わせる山が庚申山を結んで両脇にそびえ立っている。 しかしながら、まだまだ実証が少なすぎ、本当に全財産をなげうってまで掘ってやろうと
いう意欲がわかないのも事実だった。
 現地調査が終わってしばらくしてから、発掘調査隊長の中島氏から一通のファックスが編集部へ舞い込んだ。小栗上野介が東照宮を栗山村、角門へ移したという事実を示す資料だった。しかしながらそれが示す小栗家と言う文字が、小栗上野介を指し示すかについては不明だ。しかし、小栗上野介の「栗」と栗山村の「栗」そして、田沼の閑馬の栗木内庚申搭群の「栗」この三つは無関係なのだろうか。
●もう一つのポイント 「何故東照宮なのか」
 また、東照宮にもスポットをあてて見ることにもした。
 それは紛れもなく東照宮イコール徳川家康であるからだ。 そして、佐野の東照宮が東を向いて立っていること、小栗上野介の領地であり、その霊を祭るという高橋町の雀神社が同じく東向きであることから、その方向に視点を向けて見た。
 全国各地に散らばる五〇〇社ともいわれる東照宮の分布をみると、さすがに赤城山や榛名山にはたくさんの東照宮がちらばる。これだけをとっても、宝が埋まっていることを裏付けられないわけではないかなと思えてしまうほどだ。
■家康は宇宙神の化現  [ 家康の遺言 ] 「遺体を久能山に納め、葬礼を増上寺(江戸)に申し付け、いはいを三河の大樹寺に立てて、一周忌を過ぎて後に日光山に小さき堂をたて勧請せよ、関八州の鎮守とならん」
 また、日光東照宮の文庫長が東照宮創建に対する新説を90年5月13日付けの朝日新聞に発表している。
 その記事によると、生前一度も家康は日光を訪れていないというが、この辺のことを進言したのは、時のブレーンだった、天海だという。
 家康生誕の地岡崎、そしてそのさらに西には京都(家康の本地仏とされる鳳来寺)があり、この線を東に移動して行くと久能山に行き着き、この三点が一直線に並ぶ。これは単なる偶然ではない。
 古代遺跡などの配列から考えられる「太陽の道」にヒントをえて、太陽が東に昇るように、家康が神として再生するために、東に葬らなければならなかった。そこで、久能山が選ばれたというのだ。
 また、久能山-富士山-世良田(徳川家発祥の地)も一直線にならび、その延長線上には日光が位置する。久能山でお参りすることは、その背後に控える霊峰・富士(不死)山を参拝し、またそのさらに奥にある日光までも参拝することになるというのだ。 また日光は江戸からみて真北にもあたる、そういった立地条件にあるからこそ東照宮がその地に選ばれたと言うことだ。  そして、さらに驚いたことには、久能山東照宮の本殿は南南西の方を向いているというのだ。位置ばかりでなく、社殿の方向まで日光を意識している。また、地図上でもぴったりと一致する。これは、壮大な意味付けがなされている結果に他ならない。そう思うと、いても立ってもいられない。本家本元東照宮の久能山へ強行取材を思いつくまま決行してしまった。
[ 久能山-東照宮を結ぶもの ]
 梅雨の晴れ間をねらって東名高速をひたすら西へとかっ飛んでいったのだった。今回は、万が一に備えて、(雪道でスタックすることはもうないだろうと思えるが)屈強な4WD車(ロケバス)をチャーターしての重装備で取材に向かった。いよいよ取材も本格的になったと思いながらも、八門遁甲の軍学(さんざん惑わせておいて全財産を使い果たさせ破滅に追い込む)にまんまとはまってしまったことにこの時気づく人はだれもいなかった。
 苦悩(久能)山での強行軍取材の模様は次回で………。
 次回第3弾は、「宝は安佐に」の確証を、遠くは久能山の実地取材を踏まえてじっくり検証していきたいと思います。そして、宝が埋まっている地点(佐野地区内)を確定して行きますのでどうぞご期待ください。
 また、こならの森では、読者からの情報をお待ちしています。古くから伝わる埋蔵金伝説、亀岩、鶴岩、またそのかっこうをした奇岩がある、などどんなささいなことでも結構です(謝礼は[山分け]ということで…)。 また、一緒に埋蔵金を探してみませんか。ご連絡お待ちしています。
■参考文献
佐野市史 田沼町史 わが町さんぽ(京谷博次・著) 東照宮再発見(高藤春俊・著) 徳川家康公(全国東照宮連合会・編)ウータン(89年5月号) 360(92年4月号)★




こならの森 50号

2008-04-09 | 創刊~100号

       ■こならの森50号■1992.6発行

C・o・n・t・e・n・t・s

3… 結婚=坂上さん夫妻
4…9 特集「50号」
10-13世界の料理 「スリランカ」
14-15p情報コーナー
16…モータースポーツ
17…青春の断想・きれい瞬間
18…映画情報/本10
19…書評・絵本紹介
20-21情報
22…カラムコラム・街角の肖像
23 オープン「絵夢」
  ミステリーワールド
24-26=インタビュー「京谷博次さん」
27-29p=MTBツーリングレポート
30…こならの森から~
31…協賛店MAP


【本文抜粋記事】

こならの森50号の思い出
 なんとなく本人も気がつかないうちに50号となってしまった。そこで今回は、その50冊の軌跡を追ってみたい。


1 記念すべき創刊号。
 とにかく何がなんだが分からないうちに、始まった手探り状態のタウン誌づくり。キリがいいところで4月創刊、と思って来たのだが、慣れない状況下で遅れに遅れ、5月創刊ということに………。表紙は、ヘアータイムMの看板娘だった、飯塚さん。創刊号にもかかわらず、地味な色使いだった。

2 モノトーンの渋さを表したかったのだが、またしても地味な表紙となってしまった。表紙にご登場願ったのは、この月の特集「結婚について考える」にふさわしい、結婚式の記念すべき写真。 
 この当時から、いまの国際化を見越した各国語講座とも言うべき、タイ語-日本語-英語教室は、今でも好評を博している。
3 今までのイメージを一新、表紙の色使いも斬新?。各地方紙に紹介されたこともあってか、売上も急上昇かな。

4 この時表紙に登場願った、未婚女性3名は、こならの森発刊後にすぐに結婚がきまってしまったた。このころから、こならの森に登場すると、すぐに結婚が決まるというジンクスが読者の中で、ささやかれるようになった、とか。

5 少々疲れも出て来たのか、夏バテなのか、内容があまりなかっなと反省。だが、浴衣美人はこならの森が一番だと、評価をもらう。

6 ちょっと硬めに、国際交流を研究。しかし、突っ込みが甘かったのか、他紙の特集の素地(アイディア提供)にしかならなかったようだ。

7 エアロビックスのいきいきした女性を、表紙に載せたのだが、回りの評判は今一だったように思う。そのためか、内容もイマイチだった。しかし、今葛生でも話題の、産業廃棄物処理場問題に鋭いメスを入れた硬派の記事は、社会派「こならの森」を印象づけた。が、以来売上は愕然と落ち込んでしまう。

8 佐野市内のパーティ、新年会情報は、時節を反映し、それなりの反響を得る。

9 新年ということもあり、表紙のデザインを変えてみる。また、ちょっと見ただけでは分からないが、表紙の写真もモノクロのダブルトーンから、二色分解となり、色の幅が広がった。内容も、当時盛んに開催された「食」をテーマとした博覧会をモチーフに、下野の食を考えてみた。また、今回から、ヒストリートリップと題して、田中正造の軌跡をこならの森流に追ってみた。新シリーズとしては地域の有名・無名を問わず芸術家を紹介する「若き芸術家の世界」企画がスタートする。

10 二十歳のポートレートと題して成人式を特集。しかし、それが今の議論の下地になっていたとは全く思ってもいなかった。

11 当時話題となっていた、二カ国語を話すバイリンガールを特集。田中正造の連載もあちこちで、評価を得る。

12 今月の特集はバイリンガールの2回目。そのためか、読者の関心も今一つだったように思う。内容は、佳境に迫り円熟味を帯びたのだったが、世界各地のトイレの話題が内容に会わなかったのか、売上も今一つ伸びず。

13 1周年記念号。今号より、表紙も2色分解とし、版形も一回り大きくする。表紙も紙質も多少よくした。若き芸術家は田沼町の尾花さん。看板娘の誌上コンテストも開催した。

14 葛生の工業山神祭の花火のアップ写真をあしらった、大胆な表紙。特集は、お見合いについてだった。また、芭蕉が奥の細道に旅立って三〇〇年という事もあって、「芭蕉・もうひとつの細道」と題して、佐野市内に残る芭蕉の句碑を追ってみた。

15 今回から、新たなシリーズとして、地域社会を考えると題して、佐野の著名人にインタビューを試みる。第一回は、佐野商工会議所専務理事である小林正作さん。いらい、各界の代表者にインタビューをし、好評シリーズとなる。

16 輝けるベストセラーともなった、安佐の滝を見に行くという特集。大変な取材の苦労が実を結んだ記念すべき作品。だが、これに味を占め同じような企画を何回か試みて読者にそっぽを向かれてしまう、という苦い失敗も経験した教訓とも言うべき号だった。

17 表紙は、2色刷りの傑作とも言える作品。いまだかって、2色印刷でこれだけきれいな印刷を見たことがないと思えるほどの出来栄え。だれもが、4色刷だと思って信じて疑わなかった。それにも、まして、いい特集内容。題して「ネーミング文化論」。

18 こうした、いい作品ができた後は、スランプが襲ってくるもので、今号の内容は悲惨の一言、そのためが売上も散々だった、と記憶する。

19 今回の特集は、その後、長期の連載になるとは思いもよらなかった、その当時としてはブームに乗りかけていた、MTB(マウンテン・バイク)による峠道の走破記録で、記念すべき第一回「塩坂峠をゆく」だった。

20 こなら語録は、地域社会を考える総集編だった。
表紙は鈍い西日がちょうど斜めに差し込んだときの、影澤医院。

21 今号は、記念すべき九〇年代に突入する年。そこで、老若男女90人(日)、90年を語ってもらった。ミニ特集は、地域社会を考える新春スペシャル。

22 90年代は健康の時代。そこで健康対談を企画した。ミニ特集は、世紀末を考えると題して環境問題等をあつかう。

23 地域社会というものを安佐地区の飲食業界の代表者10名の方からうかがった。若き芸術家の世界第6回は、スピンナーの山崎任一さん。

24 こならの森が総力を結集して編集した、渡良瀬遊水池の特集。JICC出版発行の「田舎暮らしの本」にも掲載され、日本全国からの反響があっが、開発の波を止めるというところまではいかなかった。

25 一冊全部「みかも山」とも言うべき特集。編集者自身があらためて、その自然のすばらしさに感嘆する。

26 身近かな自然探究シリーズその2。唐沢山。またしても、驚かされることばかりだったが、みかも山の後だったのかイマイチ盛り上がらなかった。地域社会を考えるは、和光産業代表取締役山野井武夫さん。

27 佐野市の駅南にスポットをあてたQ&Aを企画して見た。表紙は、相生町の石川薬局前にある、アジサイの花ごしに見た、旧50号の風景。苦労して場所を探した割りには、出来栄えはまあまあといったところ。

28 表紙はブルーを基調とした、佐野藤岡インターチェンジの夜景を、三毳山山頂から撮影。また、特集も安佐地区の名勝風景を編集した労作だったが、一般読者の目はシビアだった………残念。また機会があれば、特集したい。

29 雑誌の特集企画というのは、何が当たるのか分からないものだと、つくづく思い知らされた一冊。もちろん手を抜いて取材した訳ではなく、きちんとしたものに仕上がったと思っていたが、予想していたより多くの反響があり、ベスト10でも8位にランクされた。佐野にはまだまだ再発見すべきところがたくさんあることを痛感するし、それにスポットライトをあてて欲しいと望む人が多い事に気づかされた。

30 今回から、新シリーズとして町案内をスタートさせる。記念すべき第一回。前々から思っていた、町中の「巨大迷路」。まちそのものが、迷路だという人もいるが、この一角はまさしく迷路そのものだった。もっと反響があってもよかったと思ったが、メインの特集が、暗い、ク・サ・イ、(もちろん「クサイ」は「臭い」の意味ではない)カッコ悪いの(本来なら3Kというより30K、つまり小汚い、感心ない、関係ない、金だけ出す、感じない、寄付だけ取る、勝手にやってる、ケッタルイ、健康的でない、感心は示すが全くその実情をしらず何もしない………などおよそ、一般社会生活を送る人間によっては関係ない社会のできごとなのだ)3Kを代表する「ボランティア(社会性イコール人間性)」だったために不発に終わった。だから、ぜひとももう一度取り上げて見たい企画といえる。

31 表紙が、前号に引き続き、今号も同じような色使いだったためか、どうも暗いイメージを引きずってしまったようだ。しかし、走ってマイタウンというタイトルは受けると思ったのだが………。

32 古代史の宝庫「赤見町」にスポットをあて、古墳群を中心にレポートしてみた、歴史探検企画。新しい発見はなかったが、赤見町そのものを再認識した。

33 渡良瀬遊水池の自然を特集してから、一年あまり。だが、その間に関東の@釧路湿原@といわれた、この遊水池は大きく変貌した。建設省関東地方建設局利根川上流工事事務所の電話取材を含め、多大な編集努力の末発行にこぎつけたもの。もっと、身近にある大自然を自分の目で見つめて欲しいと、願った。

34 一般読者にはまだ、あまりなじみがないようだが、車社会からの脱却を少なからずも暗示したエコロジカルなマウンテン・バイクツーリングは今になって徐々に市民権を得て来たようだ。

35 もうひとつの散歩道と題して企画した、ミニ・再発見の旅。その町内に住んでいる人からさえも、ここは「いったいどこなんですか?」と質問を受けたほどの、傑作。

36 安佐とその近辺の、有名な
「木」を見つめてみた。そうすることによって、見えてくるものはこの地方の自然とのかかわりや、歴史の重みというものだった。
 また、エコロジストでありネイチャリストでもある慶応大学の物理学者、藤田祐幸さんの、佐野市城北地区公民館における講演録も見逃せない企画だった。

37 「こならの森のここが嫌い」と、題打って特集したが、その企画そのものが、ダメ。と、言われてしまっった50号中最大の、駄作。言い訳が許されるならば、「ここ十年来ひいたこともない悪性の風邪に蝕まれ、月のうち半分は編集に裂けなかったというこの状況を分かってください。」とのこと。

38 今ほど、「埋蔵金」なるものが脚光を浴びなかったころの、宝探し企画。数々の確証を得ながらも、宝を掘りあてるまで行かなかった、継続審議中の企画。しかしながら、宝があるならば間違いなくここだという@まと@えており、今後が楽しみな企画の一つだ。

39 編集者本人が多大な力を入れても、その真意をくみ取ってもらえないということは大いにあるもので、この企画もその一つのようだった。

40 佐野のここがだめは、あちこちで反響をえた。善良な佐野市民にとっては耐え難い暴言だったに違いない。
本特集の双体道祖神を巡る旅は、なかなか好評だった。

41 近年まれにみる、低評価の特集。他の、企画もその影響を受けたのか受難のものになったようで、残念だった。表紙は、今は亡き三毳山に所狭しと咲き乱れるコスモスの花。

42 今回は、まちおこしと、町で見かけた不思議なことの二本立て企画。しかし、どれも的を射なかったのか、思ったよりも反響は無かった。

43 前回の無反響をあざ笑うかのように巻き起こった、田中正造旋風。この月の3日が、田中正造の誕生日である事もあってか、今までに無い反響があった。

44 亡国の構図の投げかけた波紋。町中の不思議。MTBツーリング・飛駒をゆく。と、ジャブを決めたが、これと言った決め手がなかったのか、相対的には不評に終わる。

45 女性問題を取り上げた、今までにない特集で、それなりの反響を期待したが、皆無だった。その辺は、編集努力が足りなかったのかも、と思えるが、同時にこの地域の関心度というものもうかがえた。

46 今号から加わった新シリーズ、世界の料理。国際化を背景に、それなりの評価を得る。若き芸術家の世界は、栃本の福田学さん。

47 今話題の、徳川埋蔵金にこならの森流の解釈を加えた企画。この後も、幾多かの波紋をえ、企画はまだまだ続く。

48 現代若者の意識は一体どこに。栃木県の青年意識調査にみる、青年あるいは青春の実像にせまる。世界の料理は、北アフリカ・チュニジアの料理を紹介。

49 「佐野発・ミニテレビ局」と題して、佐野ケーブルテレビを特集。これからの、メディアの中心的存在になると、期待され最も注目を受けているケーブルテレビを徹底取材。その実像に迫る。

50 祝 創刊50号


こならの森 49号

2008-04-08 | 創刊~100号
       49号■こならの森49号■1992.5発行

表紙「やぐるま=民家=黒袴町」

目次
………………………
2… 結婚
3…18 特集「ケーブル」
19…ミステリーワールド
20…全面広告「ニュージーランド留学」
21…佐知倶楽部
22…カラムコラム・街角の肖像
23…モータースポーツ
24…圭吾の歳時記・きれい瞬間
25-28情報コーナー
29…映画情報/本10
30…書評・絵本紹介
31…協賛店MAP
33…こならの森から~

………………………




【本文抜粋記事】


特集
佐野発信
ミニテレビ局とは?

インタビュー

【 開  局 】
■いよいよ今年の7月に佐野にケーブルテレビ(SCTV)が開局という事ですが、工事などの進みぐわいはどうでしょうか。
 現在は幹線ケーブルの工事をしており、6月からは第1期工事エリアで試験放送を開始します。パンフレットの記載よりは早まって、第二期工事エリアが93年の1月、第三期工事エリアでも93年の7月終了予定です。 第三期工事が終わると、佐野市の人口の約七割までカバーすることになります。
■この地域以外で加入したいという場合はどうでしょうか。
 その場合は当面待って頂くしかないんです。とういうのは、そのエリアは郵政省の認可を受けたものですから勝手にこれから出る訳にはいかないんです。ですから、区域外の場合は新たに郵政省の認可を受けて、事業エリアとして認定されないとケーブルを引くことができないんです。
■将来的には全市カバーですね。
 それが最終の目標となります。

【 メリットはあるのか? 】
■加入することに対するメリットというのは何かあるんでしょうか。
 最大のメリットというのは、今まで見ていたNHKや民放などの地上波とBS放送、さらにケーブルテレビならではの映画や音楽、ニュース、スポーツなどの専門チャンネル(自主放送)が、アンテナなしで見られる。また、チャンネルは全部で27もありますから、自分の好きな番組を、自分が見たいときに見られる、ということです。
 将来的には、自主放送のチャンネルを充実していくということですね。そして加入者の希望によって順次増やして行くということです。

【 地域との関連性 】
■その自主放送チャンネルの中に、『コミュニティチャンネル(佐野市内の情報、話題)』とありますが、内容はどういったものなんですか。
 自主放送と呼んでいるのは(通常の放送は再送信と呼んでいるわけですが)ケーブルが独自に選択出来るチャンネルなんですね。それを自主放送と呼んでいるわけです。その中にコミュニティチャンネルというのが含まれているわけです。ですから、コミュニティチャンネルは自主制作番組ということになるわけですね。
 都市型CATVを開局する場合には、この地元のチャンネル、コミュニティチャンネルを設けるということが義務づけされているわけですね。
 簡単に言うと、東京の大きな民放があってその下に県域のテレビがありますね。それをまた小さくしたようなテレビ放送という感じですね。ミニ・テレビ局といってもいいですね。ですからあくまでも取材対象は、佐野市内に限定された内容です。
■具体的にはどういった内容になるんですか。
 まず、いろいろなイベントの取材ですね。これからですと、人形祭りですとか、七夕祭りといったものですね。それから、町内会単位で昔から続いているお祭りがあるとか、子供達が田植えをしているとか、夏休みに花火大会とか、おもしろいことをやっているとか。本当に身近かな所までカメラをもっていって、日常生活を映し出す…ということです。
■「見る、佐野広報」ですか。
 そうですね、広報であって、また、一般の人も気軽に参加できる番組を作りたいというのが基本です。
 取材に行くばかりではなく、こういったことを取り上げてほしいというような、情報も受付ますので気軽に連絡してほしいですね。 
たとえばのど自慢大会とか、アマチュアコンサートとか……、そうした開かれた番組をやっていきたいんです。
■アメリカなどは先進地なんでしょうか。 
 アメリカもそうですが、ヨーロッパなどでは、9割近くまで普及しているところもあります。日本ではまだまだなじみがないですね。
 都市型CATVエリアというのは、通常のテレビも支障なく見られる地区です。ですから、それにプラスしてより多くのチャンネルを楽しんでもらおうという主旨なんです。娯楽性や情報社会の先取りみたいなものですね。CNNニュースや天気予報などは二十四時間見られます。
■一番気になるのは、その画質なんですが、今までのアンテナ受信と比べてどうなんでしょうか。
 もう、はるかに高画質なんですね。個人でアンテナを立てて受信していると、建物やその他の影響を受けますし、第一アンテナの高さが高くありません。それに正確に東京タワーの方向を割り出してアンテナを立てているわけでもないんですね。
 それに、1から12チャンネルまでというのは、周波数帯にだいぶ開きがあります。それを一本のアンテナでカバーするのですから、チャンネルによって画質の違いが表れてきます。衛星放送にしても、個人のパラボラアンテナは、せいぜい50センチほどです。
 ケーブルテレビでは、その微妙な電波を大型で高性能の業務用アンテナで受信し、常に最良な状態に調整して流しますから、安定した高品質な画像が得られわけです。本当に、手前みそでなく、見違えるようになるんです。モニターも設置しますので一度見にきてほしいですね。
■そのほかのメリットはなんですか。
 最大は、先程もいいましたが、佐野市内の情報が瞬時に映像として分かるということです。今までは、活字でしか入って来なかったものが、日常的に視覚的に入ってくるわけです。
 そして、番組内容がだんだん充実してくれば、7時のニュースを見るより先に、「佐野市内のニュースを見る」というようになると思います。
 コミュニティチャンネルをみないと明日の朝、町の話題についていけない、というような番組になれば最高ですね。
 今のところは、市役所とか商工会議所といったところだけですが、生中継も出来るような設備も整っています。
 【   将来の展望   】
■将来的にはどのような展開になるのでしょうか。
 いろいろな番組の充実はもとより、コミュニティチャンネルの充実ということに重点を置いていきます。
■情報の受け売りだけでなく、こちらから情報を発信するということですか。
 そうですね、それからケーブルテレビというのは非常に公共性が強いものなんです。一つの自治体に一つの会社しか認可にならないんです。ですからこれは市民の会社であると考えて頂ければいいんですね。
■栃木県では何番目くらいの開局になるのでしょうか。
 三番目ですね。一番最初が栃木市で、去年の10月です。二番目が宇都宮市です。これは今年の4月です。そして、佐野が三番目で7月開局というわけです。都市型ケーブルテレビというのは全国で130くらいあります。ですから、佐野などは非常に恵まれているということがいえますね。他では得られない情報が入ってくるわけですからね。
■本当に、情報の先進地ですね。
 コミュニティチャンネルを充実していけば将来は、ここが情報発信源となり、まちおこしや町の活性化までも刺激していけると思います。
■そのためには、多くの人がケーブルテレビというものを知って、理解してもらうということが大事なわけですね。
そうです。そのためにも、一人でも多くのひとがケーブルテレビの加入者になってもらいたいと思います。
 開局と同時にこのスタジオを初めとした局の施設を積極的に解放し、放送センターにはモニターテレビを設置しますので、多くの方に利用して頂きたいですね。
 ここだけの話ですが、一番有利な加入の仕方は、一台とにかく一つのテレビにコンバーターをつけ、その他のテレビはコンバーターを配さずにケーブルテレビの映像を見るという方法です。この場合は、(コンバーターがついていないテレビも)ケーブルの画質で1から12までのチャンネルと、テレビ埼玉、テレビ群馬が見られ、セントギガの放送も楽しめます。
 そして、コンバーターは一つですので月々3000円でいいんですね。
 それから、加入金が5万円で(標準)工事費が3万円、合計8万円というと随分高いように思いますが、今、衛星放送を見るためにパラボラアンテナを立て、チューナーなどをそろえ、工事費をたすとやはり8万円くらいにはなるんですね。
 月々3000円の出費というのも高いような気がしますが、一日ですと100円です。映画の好きな人でしたら、すぐに元は取れる数字だと思います。
 また、最新の洋画や邦画がいち早く見られるのも魅力なんです。
 現在放映している民放というのは総合娯楽チャンネルなんですね。野球あり、お笑い番組あり、ドラマあり…。その点ケーブルテレビは全くの専門チャンネルなんです。それも番組によっては、二十四時間フルに映像を流しています。お天気チャンネルにいたっては、全世界の天気から佐野市内の天気まで映し出されるのです。 これからゴールデンウィークに入るわけですが、ケーブルテレビは簡単にできる、家族サービスともいえるんですね。
■地域住民の情報をいち早く知られるという点が一番有利なのではないでしょうか。
 そのためにも皆様からいろいろな情報をお寄せくださいということなんです。

【 統一経済圏でのネットワーク化は? 】
■両毛五市とかいった、ケーブルテレビ同士の情報交換といったことはどうですか。
残念ながら両毛五市では、まだ佐野にしかないんですが、今後は足利、館林などと増えてくると思います。そうしたら、このコミュニティチャンネルのソフトの交換とか、あるいは何かテーマを決めて両毛五市が共同で一つの番組を作っていけたらいいわけです。この地区の歴史を紹介するのでもいい。
■各地に点在する、田中正造の軌跡を持ち回りで追ってもいいですね。
 そうですね。ですが、そういったことを一つのケーブルテレビでやろうとすると、スタッフも足りないし、機材も足りない。ところが、五市がスタッフを出し合って共同でやろうと思えば、それなりのものが出来上がるんです。中継車なども共同で購入してもいいわけですから、県域のテレビ局に匹敵するくらいの事が出来るんです。
 ニュース性や話題性のある講演会などの中継もやっていく予定です。文化会館などにも、有名な講師が来ますが、都合でいけない人もいることでしょうから、そういったものも収録していきたいですね。佐野市主催の公共性が強い企画などは、もっと広く知らせていくことが大事だと思います。文化会館の大ホールで行っても、1200名しか入場出来ないわけですからね。
■統一経済圏問題というのは、今注目を集めていますが、それが映像でつながってしまえば、一番いいというわけですね。
 商工会議所なども、パソコン通信などで両毛五市をネットしているようですが、それよりもダイレクトにつながるようになるわけです。
 また、両毛五市で情報交換の場に利用してもいい。佐野に住んでいると、足利であるとか、館林の情報がもっと知りたいわけですよね。すてきなお店がないかとか………。
■ケーブル回線にファックスなど他の通信回線を乗せということは出来るのでしょうか。
 それは充分に可能ですね。栃木県内ですと、茂木に、これは難視聴型のものなんですが、ケーブルテレビ局があるんです。そこは加入率が99パーセントなんですね。そして、各家庭にファックスが送れるんです。
■栃木県では、栃木市のケーブルテレビが一番最初ということすが、そことの連携などはどうでしょうか。
 ちょうど町の規模なども同じなので、いい関係です。ノウハウのやりとりとかも盛んにやっています。将来的には、栃木県内で協議会を結成して、お互いの連絡を取りたいですね。埼玉県あたりはもうできているんです。
 本当にケーブルテレビというのは、いろいろな活用の仕方があるし、発展性もあるものなんです。
■うまく活用していきたいですね。
 どうもありがとうございました。


こならの森 48号

2008-04-08 | 創刊~100号
       ■こならの森48号■1992.4

表紙「東光寺の桜」

目 次

2… 結婚
3…6 特集「国際交流」
7…16 「バナナ白書」  
17…20 世界の料理
21…トピックス/インホ92
25…映画情報/本10
26 情報コーナー
27…モータースポーツ
28…書評・絵本紹介
29…カラムコラム・街角の肖像
30…青春の断想・きれい瞬間
31…協賛店MAP
33…こならの森から~

【本文抜粋記事】

 特集「国際交流」

 国際交流については、こならの森でも創刊当時から何度か取り上げて来たことだが、今回も少し特集してみたい。
 こならの森の過去の記事で参考になったのは、インタビュー・地域社会を考えるの中のある人のこんな言葉だろう。
 「少なくても、いえるのは、姉妹都市を結ぶ事じゃないですよ。あれは国際化じゃない。年に一回くらい交流があって、市役所にいくとお互いの国旗なんかがある。これはまだ、幕末のやっと開国したころの使節団です」(こならの森37号より抜粋)
 また、外国人労働者については、「本音と建前が違っている。」その本質は、異なるものを内に入れられるかどうかだとも指摘している。そして、国際化とは、お互いの違った@文化@を認めあう事だと結論している。
 ここ数年の急激な外国人の増加と、そこから起こる多くの諸問題……偏見・差別、言葉・文化・習慣の違いによるトラブル、犯罪・デマ等を耳にすることが増えて来ている。そんな現状か
ら、そうした偏見を少しでも減らし、@外国人@ではなく@隣人@として、身近にいるさまざま国の人達と知り会いたい、同じ立場の話相手がほしい。と、このほど民間の国際交流の会が発足した。
 たみの会の「たみ」とは、いろいろな国の民(たみ)から命名したとか。
 目的は、「外国を知ることから、日本を知る」「佐野に住んでいる日本人および外国人がお互いを理解しつつ気持ち良く暮らしていけるような方法を考え出来ることから少しずつ始めていく」といったところだそうだ。
 会としては堅苦しく考えず、数カ月に一度の割りで自分たちが楽しめる交流会をもち、佐野周辺に住む外国人の医・衣食住や法律などのこまやかな情報交換の場として利用していきたいという。発足したといっても、発会式とうの式も宣言も無く、各人が持ち寄ったお国自慢の手料理食べながら、和やかなうちに始まった。まず自分達が楽しくなかったら会としては長続きしないということだ。
 また、言葉のネットワークを作り、活用法については検討が必要だが、通訳が必要なときは手助けできるような体制を作りたいともいう。
 その他として、行政への呼びかけ、講演会・バザー・ガレージセールなどの催し物等も企画している。
 会員は、佐野近辺にすむ外国人はもとより国際問題等に関心のある人ならだれでもOKだそうだ。
 それに先立ち会を代表者して何人かが、市長との対話の日を利用して、いくつかの要望を出している。
 それは、外国人のための総合的な窓口(国際交流課)の設置。一般生活上のガイドブックの作成。(すでに、真岡市等では、四カ国語によるガイドブックが出されている)外国人による日本語講座、日本人のための外国語講座。通訳ボランティアのネットワーク体制作り。交流の場作り、などだった。 それに対する市長の回答は、対応が迫られていることは認識しているが、国際交流課の設置は考えていない。今後は、民間と市とによる国際交流協会を設置し、『英語圏』の国の市と姉妹都市を結ぶ予定であるとのこと。


こならの森 47号

2008-04-08 | 創刊~100号
       ■こならの森47号■1992.2発行


目 次

2… 結婚
3…16 特集「埋蔵金」
17…20  世界の料理 「イギリス」
21…お店/アリス
22…23 トピックス/インホ92
24…モータースポーツ・珈琲
25…カラムコラム・街角の肖像
26…青春の断想・きれい瞬間
27…28 情報コーナー
29…映画情報/本10
30…書評・絵本紹介
31…協賛店MAP
33…こならの森から~



【本文抜粋記事】

モータースポーツ
[ヘルパー]

ゴミブチコーポレーション  小野 均
2月9日、今日は筑波サーキットでMCFAJのレースがありました。このレースに、ウチの店の人が何人か出るので、僕もヘルパーとしてついて行きました。久しぶりにサーキットに行って、まず思ったのは、よくこんなに寒いのに、頑張っているなーと思いました。みんな、とりあえず予選を通るために、緊張しながらバイクをセッティングしたりいろいろと準備をしています。
 ウチのライダーも、社長に期待されていたので、けっこう緊張していたみたいでしたが、まず予選は通りました。 予選が終わってから、今度は決勝に向けて、バイクをいろいろとチェックしました。
 エンジンセッティングもいいみたいで後は、バイクをきれいにみがいて、決勝にレースを待つばかりと思ったとき、フロントブレーキのディスクがかなり歪んでいるのに気がついて、あわてて、ディスクを交換しました。気がつかないで走っていたら大変なことになっていたかもしれないので、とりあえずは安心しました。そして迎えた決勝レース。スタートで出遅れたのが結果的に駄目で9位でゴールしました。まあ結果は9位でしたが、僕はよかったと思うし、レースを見ていたら久しぶりにバイクに乗ってみたくなりました。  


こならの森 46号

2008-04-08 | 創刊~100号

       ■こならの森46号■1992.2発行

目 次

2… 結婚
3…6 タウン
7…12 特集 世界の料理 
13-16 若き芸術家の世界
17…お店/すり鉢
18…カラムコラム・街角の肖像
19…22 トピックス/インホ92
23…モータースポーツ・珈琲
24…私の提言
25…青春の断想・きれい瞬間
26…29 情報コーナー
30…書評・絵本紹介
31…協賛店MAP
33…こならの森から~



【本文抜粋記事】

特集 世界の料理

▼料理その前に…
タイについての少々勉強してみましょう。

《タイ王国》
 人口6000万、首都バンコック。雨季、乾季に分かれ、年間の平均気温は30度。
王制の独立国。公用語タイ語。敬虔な仏教の国。日常生活は仏教の教えに従って営まれる。仏教の教えから、お年寄りはとても大切にされ、男子は一生に一度は僧侶になって修行することになっている。東南アジアで唯一植民地化されず、独立を保ったことに誇りをもっている。初対面の人と目が合うとにっこりとほほえむ姿が美しいことから《ほほえみの国》と呼ばれている。在タイ日本人は、2~3万人で、日系企業が多数進出し、日本製品で溢れている。その為、反日感情は強く、日本人を批判する歌がヒットしたりしている。歴史的には二〇〇〇年前から古代文化が栄え、スコタイ、アユタヤ王朝が有名。古い歴史と伝統を持つ国。

《 タ イ 料 理 》
タイの主食はインディカ米という、細長い、パラッとした米で、それにスープやおかずをご飯の上にかけて食べる。調味料の基本は、ナンプラー(魚醤、さかなを発酵させた醤油のようなもの)、トウガラシ、酢、それにココナツミルクと生のハーブ類(みかんの葉、レモングラス、
の他ハーブ類、調味料をクロックというすり鉢状のもので、たたいてペーストを作り、何種類もある。これがケーンというタイのカレーのようなもの(味はカレーとは全く違う)のベースとなる。辛い、甘い、すっぱいを基本にいろいろなハーブ、調味料が一体となり深い味を出している。一般にタイ料理は辛いものが多いがこれは食物が悪くなるのを防ぐ、食欲増進、発汗による体温低下作用、暑気払いなど生活の知恵である、といわれている。

《日本との関係》
 タイからは、繊維、でんぷん、米、ごま、あずき、イカなど大量に輸入。エビだけでも、年間380億円も輸入している。その一方でエビの養殖によってマングローブの林が乱伐され(マングローブの根に魚が生息していることから)生態系が崩れ魚がいなくなったり、環境破壊も進んでいる。エビ輸入を進めている日本企業は、現地の人達から「日本人はタイの資源を根こそぎもぎとり毒(公害)を置いてゆく」とストライキやデモのやり玉にあがっている。
 タイでは日本人が考えるより、はるかに大きな日本の影響が、問題となっている。
▼さていよいよ…

●今回のメニュー●

@ヤムウンセン
(タイ風春雨サラダ)
@アドボ
(フィリピン風鶏煮込み)
@ケーン チュウ 
 クークチン モー
(肉団子のスープ)
@カノム メッツ 
 サーコー ヤーイ
(タピオカのココナツミルクがけ)
タイの代表的なサラダ

@ヤムウンセン
●材料(4人分)
春雨………1袋
タマネギ…1個
ほしエビ…大さじ
2~3キクラゲ…適量
豚ひき肉…100g
キュウリ…1本
ピーナッツ(砕いたもの)……適量

@調味料
ナンプラー……大さじ1
レモン汁………少々
砂糖……………少々
トウガラシ粉…少々
酢………………少々
レタス

《作り方》
 春雨はゆでて適当に切り、タマネギはうすく切って水にさらす。キクラゲはぬるま湯で戻して、小さめにちぎる。豚肉ひき肉をいためて、塩コショーをし、肉汁も使う。キュウリは千切りにしておく。以上のものを大きなボールに入れ、調味料と混ぜてできあがり。
※ナンプラーのかわりに、しょうゆとゴマ油で味付けすれば中華風になる。ナンプラーは、日本ではショッツルが、同じように魚を発酵させて作られている。
フィリピン料理だが、タイ風にアレンジした

@アドボ

●材料(4人分)
とりもも肉……800g
にんにく………4片
しょうが中……1/2個
ベイリーフ……2枚
酢………………200cc
しょうゆ………100cc

《作り方》
1 にんにく、しょうがは包丁の背でつぶし、荒みじん切り。
2 全材料をボウルに入れ4時間から一晩つけ込む。
3 水を入れアクをすくいながら煮込む。
4 煮汁がすくなくなりトロッとしてきたら火から下ろして、できあがり。
肉団子のスープ

@ケーン チュウ クークチン モー
●材料(4人分)
ぶた挽き肉………200g
季節の野菜(白菜など)
   ……………2~3枚
ナンプラー……20~30cc
水か中華スープ……………  800~1000cc
コショー……………少々
豆腐…………………半丁
チョ カティアム(いためニンニクの油づけ)

《作り方》
1ひき肉にナンプラーとコショーを少々いれ混ぜて、肉団子を作る。
2白菜はざく切りにする。
3水(スープ)を火にかけ、白菜を入れ柔らかくなったら、肉団子を入れ煮込む。
4豆腐、ナンプラーをいれ少し煮る。最後に、チョカティアムとコショーを入れ味をととのえ て、で きあがり。
タピオカのココナツミルクがけ

@カノムメッツ 
サーコーヤーイ
●材料(4人分)
タピオカ…………50g
ココナツミルク粉末…
   …………1/2袋
牛乳…………500CC
熱湯…………200CC砂
糖(三温糖)………
1/3カップ(お好みで)
バナナ………1~2本エバミルク…50CC(甘くないもの)

《作り方》
1 タピオカは中心が透き通るまで、底がつかないようにゆでる。ゆであがったら水によくさらす。
2 ココナツミルク粉末と熱湯を、だまが残らないようによく練る。
3 バナナはうすく切る。
4 全体をボウルに混ぜる。
※好みでゆであずきを入れたり、バナナのかわりにさつまいもを入れてもよい。また、夏場などは氷を浮かべたりする。  
 タイ料理は、めん類以外はスプーンとフォーク食べるそうだ。ナンプラーねカピオカ、ココナツミルクなどはなくてもまったくさしつかいないが、あった方がよりタイ料理らしさを味わえるようだ。

(編集部の試食後の感想は…)

@ヤムウンセン
 食欲を誘うじわっとした辛さがまたいい。
@アドボ
 ちょっぴり酸っぱいが、意外性があっておいしい。肉のしつこさを余り感じないようだった。
@ケーンチュウ 
  クークチンモー
 肉団子入り中華風スープといったところ。
@カノム メッツ 
  サーコー ヤーイ
 いままで味わったこと のないような、不思議 な魅力が口の中で一杯 にひろがる。カピオカ  の粒々感がまた、たまら ない。    以上

 今回の企画は栃木コープ富岡店で行われた講座を取材してまとめたものです。
 〇同講座の次回開催日は2月4日、ディリーさんの料理(内容未定)です。
 今後は、スリランカ、インドネシア、ブラジルなどの人を招いておこなうという事です。


こならの森 45号

2008-04-07 | 創刊~100号

       こならの森45号 1992.1発行
表紙「遊水池=船とあし」

■こならの森1月号目次■.

2…今年のこならの森は~
3…新春・初笑い
5…カラムコラム・街角の肖像OCR済
6…結婚します 田辺さん夫妻
7…特集 女性が変わる個・性が変える 
17…青春の断想・きれい瞬間
19…歴史街道をゆく
21…トピックス
22…インホメーション 92 映画情報
25…モータースポーツ・珈琲
26…アウトドアー・スクール
27…情報コーナー@佐野市
28………@館林市@足利市
29……新米パパ・ママ奮闘記・ブックストップ10
30…書評・絵本紹介
31…協賛店MAP
33…こならの森から~


【本文抜粋記事】


いきいき女性セミナー講演 
「今、女性に求めるもの」  
(佐野市文化会館小ホールにて収録)

【講 師】山下泰子さん
文京女子大学教授1939東京都生まれ。
中央大学大学院法学研究科博士課程終了。
国際女性の地位協会常務理事。


■自立の精神を持ちましょう。
 民主主義は、個人主義を基礎として成立します。日本国憲法十三条は、「すべて国民は個人として尊重される」といっています。日本国憲法の下では、私たち一人ひとりが、独立した人権の保持者であり、国の政治の在り方に最終的責任を負う主権者です。これは、明治憲法の時代とまったく様変わりした点です。明治憲法の下では、「家」制度が、がっちり封建制を支えていました。各々の家の全責任とあらゆる決定権は、戸主権の下、「家長」が握っておりました。そうした各戸の上に、日本という一家の長として万世一系の天皇が君臨し、支配する完全なヒエラルヒーが成立していたのです。家制度の下、相続権は長男にしかありませんでした。女性はもちろん、次男や三男も親の財産を受け継ぐ資格がありませんでした。
 日本は、第二次大戦に負け、ポツダム宣言を受諾したことが契機となって、民主的な憲法を持つことになったのです。日本国憲法は占領下で制定されましたので、さまざまな問題を引きずることになりました。外国人による「おしつけ憲法」という人もいます。でも、もし日本人独自で制定したら、これだけすばらしい内容になっていたかどうか疑問です。誕生以来四五年にもなり、日本国民にじゅうぶん定着した憲法をいまさら「おしつけ憲法」だからよくない、というのは理由がないと思います。
 さて、憲法は、十三条で個人の尊重を謳い、二四条で婚姻が両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦は同等の権利を持つ、という新しい家庭の在り方を保証しました。このことは大変大きなことです。個人が「家」にしばりつけられていたのでは、民主主義も女性の解放もあり得ません。自立した個人が、それぞれの意思で家庭を営んではじめて日本国憲法の意図に合致する生き方ということになりましょう。
 ところが最近、日本社会は、豊かさの中でともすれば急激に逆戻り現象を起こしているのではないか、という不安にかられます。もしかしたら、戦前の状況に向かって坂道をかけおりているのではないか、心配です。典型的なのが、結婚式です。披露宴の招待状は、だいたい父親の名前ではありませんか。私、学生たちに申します。「父親の名前の招待状だったら、私はいかないから(笑)。ちゃんと本人たちの名前で出しなさい。結婚式場へいって、〇〇家なんて書いてあったら帰って来ちゃう」って。どうぞ、お母さん方も、何百万円もお金を出さないでください(笑)。私の二五年前の結婚披露は、会費制でした。時代が違うとおっしゃるかも知れませんが、とにかく、親が過保護だとろくなことがありません。どんどん若者を無責任にするばかりです。

■経済的自立を心掛けましょう。
九月二六日の朝日新聞に、ある外資系の生命保険会社が東京都の二三区内に住んでいる主婦五〇〇人を対象にアンケートをした、という記事が載っていました。それによりますと、妻名義の財産を持っていない人が三分の一いたそうです。そのうち、何と六〇パーセント以上の人が職業を持っているのです。仕事をしている妻の、二割くらいが自分名義の財産を持っていない、というこの調査結果に驚いて、その保
険会社は、つぎのようなコメントを発表しています。
 「妻たちは、もう少し自分名義の財産を持っていると思っていたが、意外に少ないのに驚いている。夫に頼りきっている妻が多いのだろう。男性中心の日本社会の構図が反映しているようだ。しかし、夫が妻に財産を譲る場合、多額の税金がかかるなど、税制上の問題もある。もし離婚の場合、日本では財産の一割程度しか妻には渡らない場合が多い。自分名義の財産が無いと不利なのは妻の側なのに…」
日本の妻たちは、夫の不倫には厳しく立ち向かうのに、経済面で
はあまりにも呑気すぎるといわれます。どうぞ皆さん財産を持ってください。経済的な基盤をがっちり押さえてください。数年前に、ある団体が宇都宮近辺でアンケートをしました。そこに、妻が収入を持っている場合、誰がその収入を管理しますか、という項目がありました。私は、それをみて、意味のない質問ではないか、と思いました。自分の収入を自分で管理しない人などいない、と思ったからです。ところが、その調査結果では、都市部の十二パーセントの妻、農村部の三一パーセントの妻が、自分以外の人が管理する、と答えています。では、誰が…。
 農村部では、夫と舅。都市部では、姑が管理をするというのです。自分は、仕事をしに外へ出ている。その間に子どもの世話や家のことをお姑さんにみてもらっているから、月給を渡すのでしょうか。それも結構ですけれど、まずは、自分の稼ぎは自分のものとし、夫婦の収入から毎月一定の金額をお姑さんに渡すのがスジというものでしょう。

■妻の財産形成のために
 皆さんは、日本の民法が、夫婦別産制をとっているのをご存じですか。夫のものは妻のもの、妻のものは夫のものではありません。現在、サラリーマンの場合、夫の収入はだいたい銀行口座に入金され、夫名義の口座から、妻がキャッシュカードで下ろして使っています。ですから、普段はちっとも不便はない。むしろ妻が下ろした中から夫にお小遣いをあげて優越感に浸っている方もあるかもしれません。しかし、夫の貯金は、法的には妻の財産ではありません。夫がだれかに貢いでしまっても文句はいえません。いま、皆さんが住んでおられるお住まいも、もしそれが夫のものであれば、処分されても仕方がないのです。財産とはそういうものなんです。 では、どうしたらいいのでしょうか。まずは、妻自身の貯金通帳をもってください。そして、年間六〇万円までの贈与は非課税ですから、次月五万円づつ夫の給料から天引きして、あなたの通帳に移してください。勿論夫の了解をえなければ駄目ですが。夫に生命保険の受取人は、何方ですか。ほっておくと、保険会社は、本人名義にしていますよ。そうすると、亡くなったとき、相続財産の一部にされて、あなただけのものにはなりません。二十年以上続いている夫婦の場合、現在住んでいる住宅について、二〇〇〇万円までの贈与が非課税ですから、夫から贈与をうけて、共有名義にしておかれてはいかがでしょうか。早速、登記所へ行ってください(笑)。二〇〇〇万円分自分の名義にしておけば、家が人手に渡るようなことは防げます。夫の財産形成には、きっと妻が多大な貢献をしているはずです。それがすべて夫名義になっているとしたら、せめて早いうちに妻に残すという遺言を書いておいてもらうことです(笑)。笑ってらっしゃるけれど、本当に大切なことですよ。
 最近、私のところも遺産相続やらありまして、夫が私への遺言状を作ってくれました。それも公正証書遺言という完璧なものです。明日何が起きても不思議ではない世の中です。まずは、経済的な自立の精神をもってください。どうぞ、今日からでも
(笑)。文化会館で、山下泰子という人の話を聞いたら、その人は最近夫に遺言を書いてもらったといってニコニコしていた、ウチもどうかしら、っておしゃってみて下さい。

■アイデンティティとは?
 ここに、ある婦人学級の感想文があります。「預けられなかった私─三歳児神話に囚われた閉塞状況の母と子」というタイトルです。この人は三歳児神話に囚われ母親は片時も子どもの側を離れず、世話をしていなければ駄目だと信じきっていました。そして、四六時中、一から十まで子どものことばかり。そんな中で、数年の後には、漢字は書けなくなり、判断力はなくなり、ついには、自分という存在すら失っていたのでした。
 ある時、一大決心の下に婦人学級に参加し、目のくらむような体験をしました。講座では、「〇〇さん」と名字で呼ばれます。それまで、長いこと「カナちゃんのママ」としか呼ばれていなかったので、はっと我にかえりました。子どもは子どもで、保育者を信頼し、楽しくてしょうがない、という様子でした。友達とも遊べるようになりました。そして、その母親は、「自分と子どもは、別の人格だ」ということに気づいたのです。子どもの自立を願っていたはずなのに、いままでの自分はいったい何をしていたのか。自立していない母親に自立した子どもを育てられるはずがない、と覚るのです。
この人は、非常にすばらしいことを体験から認識したのです。なにより個の自覚です。アイデンティティの大切さです。子どもは決して、親の一部ではないのです。そこのところをはっきり自覚していないと、親子心中に行き着くことになります。親子心中という思想は、欧米にはありません。日本だけです。どんなに母親が死にたくても、子殺しは、決して正当化されるものではありません。
 日本では、親殺し重罰観の裏返しとして、子殺し軽罰の思想がありますが、欧米では、親子心中は、れっきとした殺人です。個人主義の原理を私たちもしっかり学ばなければなりません。

■自己決定権ということ
 子を産むことの選択から死んだあとのことまで、いま、私たちは自己決定することの必要性に囲まれています。そのためには、自立した個人であることが不可欠です。
 私はたまたま子どもを産まないという選択をしました。いま、子どもを産む、産まないという選択は母体である女性の自己決定にまかされるべきだ、という主張か行われています。中絶は一般的にいえば、まず刑法上の堕胎罪を構成します。現在、日本で行われている妊娠中絶は、優生保護法にある経済的理由の拡大解釈によって、行われています。また、中絶には、夫の承認が必要とされていますが、これは必要ないのではないか、という議論があります。チェコスロバキアなどは、法改正し、本人と医者だけの判断で妊娠中絶ができることにしたのです。プロ・チョイス対プロ・ライフの論争で、いまアメリカでも議論になっています。皆さんも、どうぞ考えてみてください。

■夫婦別姓について
 つぎは、結婚の時の姓の選択の問題です。日本の民法七五〇条には、「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫または妻の氏を称する」と規定しています。つまり、実の姓をとろうと、妻の姓をとろうと民法の規定からは自由とされています。ところが現実は、どうでしょうか。九八パーセントもの夫婦が夫の姓をとっているのです。一見、平等に見える規定も、事実上の平等には程遠い、現実があるのです。
 皆様、とう感じていらっしゃいますか。夫の姓を取るのが当然で、妻の姓をとったら、お婿さん、とか思っていらっしゃる方が多いのではありませんか。まったく、平等の選択枝だと思っていらっしゃらない方か多いのではありませんか。ちなみに、もし妻の氏をとったとしても、夫は養子ではありませんから、改めて親との養子縁組をしないかぎり、妻の親の遺産の相続権か発生するわけでもありません。
 これは、完全に「家」制度の残滓です。女は、結婚によって夫の家に入るという考え方です。私自身も、二五年前、大したこだわりもなく、夫も姓をとってしまった一人です。このあたりを、私たちは反省とともに、もう一回よく考えてみる必要があるのではないでしょうか。

■姓は人なり。宇野千代さんのこと。
 女性問題で短命に終わった宇野宗佑総理大臣のお家は徹底しています。毎日新聞にこんな記事がありました。近江の造り酒屋の旧家である宇野家では、妻は宇野家に入ることによって、娘時代の姓を失うばかりか、名前も失うのだそうです。宇野さんの奥さんは、本名を「千代」というのに、宇野家が与えた通称が、「弘子」です。いままで選挙の応援も何もかも「宇野弘子」でやってきたのですが、夫が総理大臣になり、ご自分はファースト・レディになったのですから、通称ではまずかろうというので、本名を名乗ることにしたそうです。「宇野さんの奥さん、変わったの?」っていったかどうかは、定かではありませんが、とにかく選挙区で混乱がおきたということです。きわめつけは、お墓です。宇野さんのお母さんは、宇野家があたえた名前で葬られているのだそうです。あの世で、血を分けた親兄弟に再会できたでしょうか。なんだか悲しい話です。結婚衣装の白無垢の意味を考えたことがおありですか。白無垢を着ることによって、女性はそれまでの自己自身を失い、実の家の仕来りに新しく染め変えてください、という意味です。身も、心も、姓名まで変え、白紙の自分を捧げます、という結婚では、憲法の意味がまったく死んでいます。
 それでは、妻の姓をもっと夫が名乗るようになればよいか、というとそれも新たな問題を発生させるだけです。そうではなくて、夫は夫の、妻は妻の、結婚前の姓をそのまま維持してもよい、ということにする以外に解決方法はないと思います。そこで、いま、夫婦は別に共通の姓である必要はないのではないか、夫婦別姓で、よいではないか、ということが主張されているのです。私が六月一八日の朝日新聞「論壇」に書いた内容は、ドイツの判決についてです。「生まれたときの姓名は、その人の個別性と同一性の表現」だ、と判決は述べています。ドイツでも、夫婦は同一の姓を名乗らなければならないことになっており、もし、合意に通することかできない場合には、自動的に夫の姓か夫婦の姓になる、という規定でした。今年の三月、連邦憲法裁判所は、はっきりこの規定は違法だといい、法律の改正を命じました。
 夫婦のどちらかが結婚によって、自己のアイデンティティを失うことになってはいけない訳で、夫婦は別姓でも何ら差し支えない、というのかいま私たちが主張していることです。もちろん、夫婦同姓にしたい人はそうすればよいので、そこに選択の余地を設けようというのです。多分、三年後ぐらいにはそうなるのではないか、と期待しています。
 昨年度の一人の日本女性の産む子どもの数の平均は、一・五三人になりました。ということは、一人っ子か、せいぜい二人っ子しか世の中にいないんですから、姓にこだわっていたら、みんな結婚できなくなってしまいます。女性の社会進出から問題提起がはじまったことではありますが、こうした社会現象からも夫婦の姓は見直されなければならない時を迎えています。

(中略)

■どう死ぬかも自己決定すること
 いま、脳死は人の死か、とか、安楽死の是非が、問題になっています。生命維持装置が開発されたお陰で、なかなか死ねなくなりました。これも、基本的には自己決定の問題です。リビング・ウィルといって元気なうちに自分で、意識不明になったら生命維持装置は付けないでください、という意志を表明しておくのがいいと思います。そういうことを推進している日本尊厳死協会というのもあります。さらには、死後どう葬られるか、という問題もあります。「散骨」といって、骨を粉々に砕いて、海に撒こうというのです。法務省が、これは違法ではない、との見解を発表し、実際にそうした方があるんですね。
 有名な方では、ハーバード大学の日本学の教授で駐日大使を勤められたライシャワーさんが、ご自分の意思で見事な亡くなり方をされました。リビング・ウィルによって、延命装置は一切付けず、灰は、太平洋の懸け橋に、とおっしゃって、海に撒かれたのです。周恩来も、インディラ・ガンジーも遺灰は、川に流されました。インドでは、そもそも聖なる川に流がすのが、伝統的な葬り方です。
 さあ、いろいろなことをお話してまいりましたが、要はただひとつ、私たちがもっと自分というものについて、生き方にも、死に方にも、自覚と責任を持たなければならない、ということです。これは、男性も女性も同じです。とりわけ女性は三従の教えよろしく、親まかせ、夫まかせ、成長した子どもまかせでよしとしてきましたので、意識してはっきり自分で、自分のことを考え自己決定しなければならないと思います。

■父親も取れる育児休業法
 今年四月、日本でも「父親も取れる育児休業法」が作られました。来年四月一日に施行されます。この法律で、父親も一年間の育児休業を取れることになったのです。その間の給料が払われないのに保険料を払わなければならないとか、いろいろと問題もあり、父親が育児休業を取るケースは少ないだろうと思われますが、とにかくこの法律ができたことの意義は大きいと思います。このような法律ができるなんで、つい一年前は考えられませんでした。日本でできる育児休業法は、女性のみを対象とするものだろうといわれていました。それが蓋を開けたら、男性もとれる育児休業法になっていました。何故そうなったのかと申しますと、例の1・57ショック(一九八九年度合計特殊出生率)が直接の引き金だったのです。日本の女性たちは子どもを産まなくなりました。そこで、国は「健やかに子どもを生み育てる環境づくりに関する関係省庁連絡会議」というのを作り、どうして女性に結婚し、子どもを産んでもらうか真剣に検討したのです。その対策の一つが育児休業法であり、国際的には男も取れるものが一般的だというので、これを取り入れたのでした。
 そうした経緯ですから、どうも真に女性のための施策というには程遠い感があります。朝日新聞の天声人語がそこのところを皮肉って、「なにやら世継ぎ欲しさに側妻をいたわるお殿様の姿が見え隠れする」といっています。
若年労働力が減り、経済力が低下したら困る、という財界からの要請が政界を動かした、という観測です。これでは問題の根本的解決にはなりません。お殿様というのは移り気なもので次の側妻を好きになれば、心変わりをいたします。他に労働力が確保できたり、OA機器の開発や経済の縮小傾向など、そんなに労働力がいらない状況がでてきたりすれば、現在の政策はぱったり止んでしまうと思います。やはり女性自身が自覚をもって自分たちの問題解決にあたらなければ駄目だと思います。

■女子差別撤廃条約の意味
 さて、自己決定するためには、考える材料が必要です。そこで、私たちをとりまいている法的状況を知っている必要があります。国連の婦人の地位委員会が、一九九〇年に、ナイロビ将来戦略見直し勧告を発表しました。その中で、いま、各国がやっておくべき女性関係政策の、第一にあげているものが法律識字能力を高める、ということです。私は皆さんに、いま世界一〇七もの国が加盟国になっている女子差別撤廃条約を知ってほしいと思っています。私は、国際女性の地位協会という団体を作って、その普及活動をしています。女子差別撤廃条約は、一九八五年に批准をしたことにより日本の国内法になりました。どうぞ、折にふれて条約を読んでください。条約は、法律上の平等ばかりでなく、事実上の平等をはかることを目指しています。国家や地方公共団体による差別は勿論、個人や団体や企業による差別も撤廃するよう要請しています。世の中の慣習・慣行における差別も撤廃することを求めているのです。たとえば、先程申し上げた夫婦の姓についても、一六条一項b号で、はっきり、夫と妻の同一の権利、特に姓を選択する権利を上げています。

■女は土俵に上げない?
 森山真弓さんが官房長官だった時、大相撲の総理大臣杯を優勝力士にあげようと思ったら、女は土俵に上げない、といって相撲協会から断られてしまいました。あれは、明らかに女子差別撤廃条約の違反です。では、相撲協会に直接、国連のチェックがおよぶのかというとそうではありません。国内にそうした差別的状況があることを許している政府が責任を追求されるのです。
 国連に女子差別撤廃委員会という二三人の、世界の女性問題専門家で組織する機関が設けられました。各締約国は、四年毎に自国の条約進捗状況についてのレポートを提出し、この委員会の審議をうけることになっており、その中で問題点について指摘をうけることになります。いま、日本は第二次レポートを準備中です。
 森山さんが、官房長官のままだったらご自分の問題にご自分で答えなければならないようなことになったのかもしれません。森山さんは、参議院議員選挙での自民党凋落と与野党の逆転、女性の躍進をバックに官房長官に任命されました。テレビで拝見していてもテキパキものごとを処理なさる名官房長官だったと思いますが、次の衆議院議員選挙で自民党が安定多数を取ると、人気取りのお役目は終わったとばかりに、サッサと引っ込められてしまいました。大変残念なことでした。まだまだ政界での女性の場は不安定といわなければなりません。

(中略)

■治者盗みをなす
 佐野市は、田中正造の生地ですね。今年は正造翁生誕一五〇年、「天の監督を仰がざれば凡人堕落、国民監督を怠れば治者盗みをなす」という正造の言葉をテレフォンカードにした市民団体があるとの記事を読みました。私たち一人ひとりが、自立の精神をもって、堕落せぬように自己管理し、政府や地方自治体のやることをきちんとチェックする│そこに民主主義の原点があると思います。
 「しなやかに個性、のびやかに女(ひと)と男(ひと)」というのは、今年の婦人週間のテーマです。男女平等とは、性による垣根を外し、個性による選択で人生を拓いていくことだと思います。そうした文脈で、「いま、女性に求めるもの」―それは、しっかりした自己の確立、自立の精神に他なりません。

 御静聴ありがとうございました。



こならの森 44号

2008-04-07 | 創刊~100号

        こならの森44号■1991.12.1発行

表紙「矢印の+遊水池」

■目 次

2…看板娘・武藤さん
3…町・どんぐり山
7… 亡国の構図の波紋
9…特集マウンテンバイク「飛駒」
12…新米ママ奮闘記
13…町中の不思議
16…佐知倶楽部
17…結婚「田中さん夫妻」
18…カラムコラム・街角の肖像
19…24p トピック
25…モータースポーツ・コーヒー
26…青春の断想・きれい瞬間
27…情報コーナー @佐野市
28……………………@館林市
29…映画情報・ブックストップ10
30…書評・絵本紹介
31…協賛店MAP
33…こならの森から~

【本文抜粋記事】


田中正造

亡国の構図の投げかけた波紋

川 柳(作 乱 鬼龍)
      流域文学会より
亡国の構図三面記事多弁
亡国の構図明日なく今日の虚無
亡国の構図バブルがはじけ出す
亡国の構図陳腐な嘘並ぶ
亡国の構図の明日を覚悟せよ
亡国の構図天地もあきれはて
亡国の構図一億洗脳す
亡国の構図日の丸あげて征く
亡国の構図ごたくはあり余る
亡国の構図明日をどう描く
ああ、これまた亡国(編集部)

 「史実重視の重厚な舞台」下野新聞・はぐるま座「亡国の構図」評。「ただ感動するばかりです。谷中村の人たちが、立ち退きを命じられたとき、『私はどうなっても背中の子どもだけは助けて下さい』とすがりついて泣いておりました時、わたしもともに泣いておりました。私共も、先祖が川俣事件の時に警官に押さえ付けられた一人です」(感想文より)「最初にシナリオを読んだ感想では、どうしても『解説者』の存在が気になった。芸術とかいうものは本来@解説@するものではないからだ」 (田中正造大学群馬事務局 関 充明)

 それとは別に藤岡町の石井さんからは、「来年は田中正造没後80年になるようです。私も田中正造・石井文庫(現在の蔵書200冊)の開設を予定しています」という励ましとも取れる、お便りを編集部までいただいた。波紋はまだまだ広がっていく。


こならの森 43号

2008-04-07 | 創刊~100号

       こならの森43号1991.11.1発行


表紙/渡良瀬川夕陽

■こならの森11月号■

2…看板娘・小平さん
3…町・最北端の町」
5…結婚しました 山根さん
6…新米ママ奮闘記 蛭川さん一家
7…特集 一冊まるごと「田中正造」 
17…インホメ91 《芸術の秋 特集》
23…モータースポーツ・珈琲
24…アウトドアースクール
25…カラムコラム・街角の肖像
26…青春の断想・きれい瞬間
27…情報コーナー 佐野市
28………館林市 足利市
29…映画情報・ブックストップ10
30…書評・絵本紹介
31…協賛店MAP
33…こならの森から~
■こならの森11月号■

【本文抜粋記事】

新米ママ奮闘記
蛭川夫妻 長男
 私達は、赤ちゃんが生まれる前に一つの約束をしたことがあります。それは、「赤ちゃんばかりに夢中になってしまわないこと」こども大好きな私達は、きっと、赤ちゃんのことしか眼中になくなってしまうのではないか…と思ったから、どちらからともなくこの約束をしたわけなんです。
 平成2年の9月10日、わが家の長男・正敏が生まれました。生まれてみると、本当にかわいいこと、かわいいこと(ほとんど親ばかですが…)一般に、「目の中に入れても痛くない」とか「食べてしまいたいくらいかわいい」とか言いますが、その気持ちが良くわかりました。あーこう言う思いを言うんだなって……。パパは念願の男の子誕生に、喜びをかくしきれない様子で、一日に何度も、赤ちゃん(とママに?)会いに来てくれました。でも赤ちゃんを育てるって、とっても大変なことなんですね。病院にいる間は、看護婦さんにおまかせでしたが、退院してからはママの出番です。赤ちゃんが頼れるのは、なんていったってママですからね。「正敏君ママがんばるよ」とハッスルしていたのですが、新米ママは、赤ちゃんの出す信号を読み取ることができないことも、しばしばだったようです。                    
 退院した日の夜は台風の影響で大荒れでした。家の中では正敏がくしゅんとくしゃみ、実家に連れて来たとたん風邪をひかせたとあっては大変と、熱をはかってみたり、便の状態を育児書と見くらべてみたり、責任の重さに心臓がドキドキしてしまいました。朝起きて来て、昨夜あわててしまった事を話すと、「赤ちゃんにはまだ鼻毛がないから、ちょっとしたほこりが入ってもすぐクシャミが出るんだよ」と言われて胸をなでおろす始末。 一カ月近く実家にお世話になった後、パパの両親が待つ家に帰ってきました。おじいちゃんおばあちゃんは、とても赤ちゃんのあつかいに慣れているので、新米ママは頼りっぱなしです。最初の頃は母乳の出があまり良くなかったので「どうしたのかな?」と考えていると「もっとたくさん食べるようにすると、自然におっぱいの出も良くなってくるよ」とアドバイスを受け、一食一善だったのを二善食べるようにしてみたら、いつの間にか母乳だけで足りるようになっていました。やっぱり、ベテランですね。パパなんか私と同じ新米なのに、ママにいろいろアドバイスをするんです。そのはりきりようときたら、なんだかとてもおかしくなってしまいます。(本当は、そんなパパに感謝しています。) そんなことを繰り返しながら、正敏も1歳の誕生日を無事に迎えることができました。リュックサックの中に重い一升餅をいれて5秒も歩いたんです。とても感動的な瞬間でした。さて、私達の約束はどうなったか…と、いいますと。約束はしたものの、二人して赤ちゃんに夢中正敏と遊んであげているのか、正敏に遊んでもらっているのか、時々分からなくなってしまいます。とにかく赤ちゃん中心の毎日なんです。でも、これでいいのかも知れません。こうして、赤ちゃんと共に一年がたったわけです。まだまだ長い道のりだと思いますが、これからも新米ママは、がんばるつもりです。


こならの森 42号

2008-04-06 | 創刊~100号

       こならの森42号1991.10.1発行

目 次

■こならの森10月号■
2…看板娘・加藤さん
3…町・「日本のウクライナ」
5…特集 まちおこし再考 
11…佐知倶楽部NEWS
12…結婚します。和田家・重野家
13…ミニ特集 そんなバカな~
17…インホメ91 《芸術の秋特集》
23…モータースポーツWORLD
24…新米ママ奮闘 安藤さん一家
25…カラムコラム・街角の肖像
26…書評・絵本紹介
27…情報コーナー @佐野市
28……………………@館林市
29……………………@足利市
30…映画情報・ブックストップ10 
31…協賛店MAP
33…こならの森から~



【本文抜粋記事】

特集 まちおこし再考

 バブルが崩壊した今、もう一度考えてみよう、まちおこし。
 現象といってしまえばそれまでだがバブルが去ったのだからもう無意味な開発は行われないと思っていたのだがそうでもないらしい。行政指導型のハコもの文化はもういらないといわれて久しいのに、まだまだ欲しがる人々が多いのにはびっくりさせられる。
 現在、佐野では田村耕一記念館建設でもめていますが、作るにせよ作らないにせよ、徹底的に議論すべきです。田中正造生家保存問題でも、何が本当の利益になるのか議論すべきだったのです。それがなかったばかりに、平行線で終わってしまった。話し合いも無く、やってしまえば結果オーライ、壊してしまえば、全てはおしまいなのです。そうならない前に、話し合いの場の方を先に作るべきです。もっと初心に返ってまちづくりを考えてみましょう。
 もちろん一億円のようにどう使おうとおかまいなしのお金があるなら少しは別だがそれにしても、一億円ではね。といわれているがはたしてどうでしょう。 

■一億円の事例
事例集をあたってみるとあるわあるわ各地のおもしろ事例。
 キャバレーを建てて遊んでしまった所。帰りの手荷物の多さから見て、どうしても11日間海外旅行無料ご招待としか取れない、新妻海外研修。新たに温泉を掘り、温泉街全体の湯量を少なくしてしまった所。(これでは町つぶしになりかねない。)金の延棒やら、金のこけしはまだしも、ただ一億円の札束を拝ませただけなんて所までさまざま。
 結局、竹下政権の人気取りの苦肉の策だったのに、躍らされただけのようだ。自衛隊の海外派兵ではないが泥縄政策ばっかりでは社会党のことを笑ってばかりもいられない。だから、町中であそんじゃったところは実にえらいと思う。
 さて、みんなはどういっているのか、地域社会を考えるの中からランダムにあたってみよう。

………………………………………………………………………

 らーめん会のきっかけはその話しが始まる前に、組合の親睦旅行で喜多方へ行ったんですが、あちこち食べ歩きして、いろいろみてきました。そこでこれからの自分達の商売のことやまちづくりを考えさせられましてね。そんな時に、たまたま市長さんから市の活性化に役立つ目玉は無いかと、商工課長さんを通じてお話しがあったんです。それではということで、仲間が発起人になって商工会議所や、商店連合会、観光協会が前向きに協力してくれて、会づくりの話しがもり上がったわけです。
 佐野の人がもっと開拓者精神というか冒険心をもってほしいですね。結果を怖がって、何もしないのではなくて、前向きにやってみる。そういう事がよくても悪くても、地元の活性化につながると思います。(古沢幸一さん 佐野ラーメン会会長)

 佐野でも例えば鉢の木に通じる人情だとか、水と緑と万葉のということから『水で有名な町』というふうにする。佐野市の鳥はオシドリですが、それをきれいな水で飼っているとか、各小学校にきれいな水ということを象徴させるようなものを置くとか、現実に結び付けたほうがいいですね。まちづくりというのは残念ながらハード面ではない。住んでいる人が大切なんです。道路でいえば安全に通れるようにすることが最小限のことだと思います。少し店を削っても自転車を置けるところくらいは作るべきだと思いますね。しかし私たちはそれを理解して具体的にする事には弱いんですね。やはり行動に結び付いてこそ、初めてそれが生きたといえるような気がします。(山野井武夫さん 和光産業 代表取締役)

 この辺の特色はわりと豊かな土地がらで、昔から飢饉もあまりなかった。西那須を中心にして、開拓地がわりと多かった。そこに里芋などが植えられたわけですね。山間と平場と、北と南を分ける里芋文化です。あとは葛生の山間などもそうですし、田沼なども戦後の開拓なんですね。米が出来ないものですから、里芋とかそば、仙波そはなどは有名ですね。
 面白いのは栃木県の中でも足利は食生活の面で他と違っているということです。『しもつかれ』を取っても佐野や館林、邑楽郡あたりまでは作るみたいですが足利は作らないんです。体質に合わないというんです。佐野とか、栃木と比べて農業人口が少ないせいもあると思いますし、あまり作られていなかったりしてなじみがないみたいですね。(香川道男さん 農文協関東支部係長)
 地域の活性化というと、どうしても本音と建前が違ってきます。建前は健全性とかいうことですが、本音の部分の不健全性の方が実は活性化につながるんです。(阿部久司さん 佐野飲食組合 会計)

 両毛地域経済というのは北関東横断道路ができることから北関東の中でも重要視されます。ですから行政側は県単位ではなくて、もっと大きな、(関東というと大きすぎますが)単位で対処して欲しいと思いますね。 一村一品運動という聞き慣れた言葉になってしまいましたけれども、大分県知事の話を聞かせてもらった事がありましたが、その中で『自分達で創造していく』ということを学びました。
 『ふるさと創生一億円』の使い道ですが、ハード面でなく、ソフト面を重視して行かなくてはいけないと思いますね。(藤波一博さん (株)波里代表取締役)

 駅南も魅力あるまちづくりというものが基本構想にあるのかというと、そうでもない。大型店を誘致するとか共同ビルを造るとかそいう案もいくつかでているんですが、みんなたちぎれている。(曾根紀夫さん 佐野軽飲食組合長)

 この地区は、東京の周辺から見れば地価の上がり方が少ないですから、まだ大企業が進出する余地はある。地理的に東京に近くなって来ることは、佐野の外からの資本と人が入って来る余地というのがものが大きく膨れあがってくるわけです。よそからの資本が入ってくれば、想像もつかない発展をします。その土地の人から見れば無秩序な発展です。それが想定されるとすれば、逆にこちらから提案をしながら枠を作るんですね。 
 ただ東京の発展を持って来るかと言うのは別問題です。東京に連動して無秩序な発展をしてしまった所、そういうような事例を回りで多く見ている訳ですから、そういう事を除いた発展の仕方というものが工夫出来ると思いますね。それには、知恵も出し合わなければいけないし、議論もしなければいけない。そういう事を回りのみんなが考える雰囲気になっているのかというと、何か自己満足で終わっているような気がしないでもない
。 例えば、自治体がネームバリューを上げる為に活用しよう、という型のお祭りがたくさんありますが、そういうものがあってもいい。自分達が楽しみつつよそから人を呼べる、そういうお祭りがあってもいいと思います。それは市が中心となってやっている七夕祭りだと思うんです。 ある意味で真面目だから、遊び心がないのかもしれませんね。遊びの中からの発想というものも良いものがあると思うんですね。ダイナミックな発想というか、ちょっと毛色が変わっているけれど面白い発想。歯車をあわせれば、もっと発展をすると思いますね。(新村文克さん 前NTT佐野支店長)

 北関東道ができればできたで、今までよりも通りがよくなってもっと先に行こう、田沼なんかより足利か、桐生へいこう、なんて事になる。便利になるけれどもそれに乗ってどんどん離れて行くようなきもします。(小林三郎さん 田沼旅飲組合)

 現在の佐野を近代化するにあたって会議所は、駅南もそうですが、大ショッピングセンターを作り市庁舎も入れる、という提案を行ったわけです。それだけでなく人の集まるものを作って行かなければいけないと。
 足利の中央通りもあれだけのことをやったが人集めの場所がないから、商工会議所をはじめアピタとかができて賑わいが川南へ移ってしまいました。だから、佐野の場合も外へ出てしまってもいいんですが、その前に街の中の体制もそれなりに作ってからでないと駄目ですね。
 例えば、戦後の日本の近代化というのは西欧諸国のまねをすることでした。でも、初めから舞台が違う。カナダのバンフやジャスパーの国立公園を見て来ましたが、あそこの舞台作りは国がやっています。住宅や商店街などは、その国立公園に密着したものを作っているわけです。そして、この街の商店は、何件というふうに決まっている。観光局が商店街をもっているわけですからね。そして、その舞台回しをしているのは、商工会議所の会頭なんです。それだけの権威を持たしているんですね。
 だから日光などは、同じ国立公園であれだけの舞台を持っているのにかかわらず舞台回しができないのですからもったいないですね。だからといって、カナダでやっている事を持ってくればいいかというとそうではない。それなりの形というものがありますからね。
 佐野には、佐野の形があります。駅南でも、目新しいものはありますが、けしてすごくはないです。第一にそぐわないのは市庁舎で、それをどうするかが問題です。佐野市は個々の開発はやるけれど、総合的な開発はしないですね。
 人というのは、どこか中心に向かって集まってくる。光に集まる虫達みたいです。だから、中心街に集まれるような道を作ってやらなければいけない。風通しを良くしてやらなければいけないんです。市民の動きというのは、車によるわけです。その、道筋を作るのが行政なわけですね。町づくりも同じです。でも行政だけではできないですよね。一番悪い癖というのは、何でも行政に押し付けているということですね。そして、受け手側も何んでも受けてしまう。 
 昔、田中角栄が打ち出した『日本列島改造論』では、北関東の事を取り上げている。ここの重要性を認め、日本の人口の三〇パーセントくらいを集めて活用しよう。そして、その中心になるのが那珂湊港から、高崎までを結ぶ北関東自動車道なのです。それと、同じに両毛線の見直しも大切です。鉄道の輸送力の見直しですね。確かにトラックで運んでしまうと楽は楽。ですが、輸送経費が多く掛かる。鉄道の輸送力は、大きいですから、見直しをし大きな貨物基地を作りそこからトラックで運び出すということですね。また、両毛線上にある都市が連携をしていない。だから、両毛線上の首長が集まって、いかに開発すべきかを議論しなければいけないと思います。
 そして、両毛線と水戸線を一本化するという大きな課題があります。逆に言えば、今の両毛線と水戸線上に橋脚を付けてそこに、高速道路を作ってしまうというような構想もいいですね。それから、昔のように水路を利用してもいいのではないでしょうか。古河に広大なる陸の港を作って、利根川から大洗まで運河を作ってしまう、というような構想です。那珂湊港を大きな港として、大体二〇万トンくらいの商船が入るくらいなものです。そうすると、物資の輸送というものは、違ってくると思います。これは関越道を通して日本海へとつながる。(小林正作さん 佐野商工会議所専務理事)

 今になって思えば、越名沼を干拓したのは大きな損失でした。現在ではインターチェンジができていますし、人を呼べる絶好の場所になっていたでしょうね。佐野は中心街になにもない、だから城山公園あたりを整備して観光に利用したらいい。(新井金光さん 佐野料飲組合幹事)

 あちこちでまちおこしなどといっていますけれども、もう観光でしか食ってい行けない地域というのがある訳です。また工業化して行くしかない地域もあるわけですよね。川崎市など公害に悩みながらも工場で食って行くしかなかった訳ですから。昔から、この地区の人は東京へ出て行くときに「食えなくなったらいつでも帰って来い」といわれて出て行く。それくらい豊かなんです。ですから、その融通性がかえって裏目に出てしまった。ところが四国とか九州から働きに出る人は、「もうお前の帰ってくる場所はない」です。だから、向こうで成功して帰って来いよ、ということになる。そういった県民性はあると思います。
 それから、それぞれの市長さん、町長さんがいかに人の意見を聴いて若い人お年寄り、そういった年齢に関係なく革新的な意見をどれだけ処理できるかその能力の問題だと思います。しかし、地域性がありまして優秀なブレーンを育てられないという感じを受けます。若い人がやらなければいけない、と理解してくださる方が多ければいいですけれども…。
 この地区からは、経済界の大物がたくさん出ている。ですが、その人たちを追いかけようともしていない。また、その人達も振り向こうとしていない。山口県では町の公園とかいろいろな場所に歴史的な人物の銅像がたくさんたっているんです。そういう人物の銅像をみて育った県民姓というのは違うと思いますね。佐野駅や佐野市駅といったところに田中正造の像があってもいいと思いますね。
(石川道明さん (株)石川定次郎商店 代表取締役)

 駅南が、古いものもある新しいものもあるというのではなく、もっと早くできなければだめですよ。まだ数年かかるようですが、一緒にパッとできなければね。(高見聖介さん 佐野飲食組合長)
 安佐の人の人格というものが地元の人間にもかかわらず分からないですね。足利の人は自分を表現するパフォーマンスがうまい。栃木は逆にいぶし銀のように光るところがある。こんなに近いところで、会社でいえば営業と経理のように違っていて、その中間に佐野が位置していて影が薄くなっている。それから、佐野というところはまだ自然が残っています、ですからその自然を残しておくということが文化につながると思います。
 クリエィティブな仕事はもとより、発想性の根源というのは、自然とか空気がきれいだとかいう環境ではないでしょうか。ただ残すだけではなくて、古いものは細工をしてでも残して行くという演出も必要ではないかと思います。それが、文化と、それを生み出す元につながると思います。ですから、その地の利を最大限に生かすべきです。(松田光央さん (株)松田 代表取締役)まとめ

 全国の事例を引くまでも無く、開発もむらおこしも紙一重といわれています、紙どころでなく同一紙というのが常識。また、大規模なリゾート開発がたいして地元の利益なっていない、という記事が最近は新聞に出ているくら。しかし、そういいながらも変わらないのがこの世界。それをよく表しているのが、なんとかコンサルタントとかいう職業の旺盛だろう。どれを取っても似たり寄ったりの案ばかり、中華菓子の方がまだアンが詰まっていそうなものだ。しかし、彼らもそれほどばかではない、もっとましな案があるに決まっていると信じたい。にもかかわらず、こうもワンパターンを出してくるにはそれなりの理由というものがあるようだ。ようするに、受け手をばかにしているというか、無難なもの、よそでもやっているものそして成功していればなお説得力があると思っている。一番いけないのは、批判を受けたものだ。奇抜なデザインでもプランでも批判を受けていなければ大丈夫なのだ。これでは、コンサルタントなぞいらないではないか、なのに結婚式に呼ぶ議員のように箔をつける為に競って使うところはどうも田舎者臭い。それも、近在のコンサルタント会社などではない。これもばかのひとつ覚えのように東京だけなのだ。一地方都市からばっかりの案にたよっていたら同じものが出てくるに決まっている。一億円の一件でも一番儲かったのはコンサルタント会社ではないか。

■今回の提案
 そこで提案ですが、やはり作るならもっと人が呼べるところがいいのではないでしょうか、複合的なそして、一度いったらまた来てみたくなるそうな、それでいてむかえる側も2時間くらいなら優に楽しませてあげられると自信に満ちたものを出せる、そんなものができないものでしょうか。
 その一番の候補地は逆手に取ったところに作った方が良いと思います。そこで上がってくるのが、城山公園、三毳山、唐沢山といったところでしょうか。最も候補に上がるのは唐沢山ではないでしょうか? どうしてかというと、市内から近くもなく遠くもない。歴史はあるが、とりたてて有名でもない。ということはこれから有名にする余地が充分にあるということでしょう。 以 上