■ ■■■■■ ■ 日刊 こならの森 ■ ■■■■■ ■

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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森 41号

2008-04-06 | 創刊~100号

       こならの森41号1991.9.1発行

表紙/岩舟コスモス=三毳山=広角

C O N T E N T S

■こならの森9月号■

2…看板娘・庭田悦子さん
3…町・「カタクリの里」
5…特集 池・沼に注目@ 
13…若き芸術家の世界 田中重光さん
17…インホメ91 《芸術の秋特集》
21…カラムコラム・街角の肖像
22…結婚します。
23…モータースポーツWORLD
24…アウトドアースクール
25…新米ママ奮闘記 山田さん一家
26…書評・絵本紹介
27…情報コーナー 佐野市
28……………………館林市
29……………………足利市
30…映画情報・ブックストップ10 
31…協賛店MAP
33…こならの森から~



【本文抜粋記事】

特集 湖沼にこだわる

【池? 湖?】
 池・沼にスポットをあてると、いろんなことが見えてくる。そんなことを探してみませんか。池、沼、湖とランクはされているが、それだけではどうも割り切れないものがある。上高地の神秘的な湖?は大正池と言う名前が付いている。池だから汚いとか、見る価値もないというのは偏見。沼はどうであろう、ただのよどみともとれかねない。 三毳山には、たくさんの溜池がある、というより残っているといったほうがいいかもしれない。
【名水百選】
 さて、池といわれるとまず真っ先に思い浮かべるのは、名水百選に選ばれた出流原の弁天池だろうか。しかし、この池も野放しでは名水どころが泥沼になりかねない様相だ。汚れてもすぐきれいになるからまだいいが元が汚染されてしまったらもうどうしようもない。富士の押野八海で今流れている水は何十年前に降った雨のものと言われている。弁天池でもそれくらいの流れをへて湧き出ているに違いない。そうすると元が汚染されているということになれば、その元が元に戻ったとしても、その後何十年も汚染され続けるということになる。こうなっては手遅れなのだが…
 だから、埋もれてしまいそうなこの池と沼に光を当ててみたい。
 三毳山には、熊沢蕃山が作ったという歴史的な水路と池がのこっている。また四季折々の風景がまたたまらなくきれいなのだ。
  信州の松原湖は、大小の池がいくつか集まってこの湖の名前になっているという。だから松原湖は特定の一つの大きな湖を指す言葉ではないということだ。また、信州の地元ではかつて〇〇池と言われていたあまりパッとしなかった湖が、女神湖と名前が変わってから爆発的な人気になったということも聞く。〇〇池〇〇沼というより湖とつけると響きが断然違ってくる。
【リバイバル】
 残念ながら安佐地区に湖はない。こんな平野部に湖があったら大変だという気もしないでもない。かつての越名沼を、干拓したのにもかかわらず、また水を張り、湖にしようというはなしもある。これも沼という名称をやめ阿曽湖とか、三毳湖、とつけるといいかもしれない。
【湖の一生】
 その湖にも人と同じように一生があると言う。湖として水をたたえながらも、土砂が流れ込み湿地化してやがて陸地になってしまう。今話題になっているの戦場ガ原がまさにそうである。そして先の大正池にいたっては現在、土砂でほぼ埋まってしまっている状態と言う。逆に長寿なのは日本一という琵琶湖。数百万年も生き延びていると言うことだ。また、今では透明度世界一と言われたバイカル湖も汚染被害に会い、透明度四十二メートルどころか五メートルがやっとという。ならば摩周湖が世界一ではという期待も出てくる。何しろこの湖には流れ込む川が一つもない。つまりは汚染源がないということなる。そして一年の何カ月は雪に覆われ人を寄せ付けない。道なき道を下り、湖面まで降りて来たという人の貴重な話によれば、限り無くすんで宝石のようにきれいだったと言う。
 話はだいぶそれてしまった。こうまで書いておいて、沼や池の話をするのはつらいが、さにあらず。三毳山の北西部には沢山の池が今でもひっそりとたたずんでいる。絶滅の危機に瀕しているというフジバカマもかってはいたるとこに生息していたが、今ではさすがに見つけるのは困難。しかしながらそのそばでは花木センターが建設されているのは何とも皮肉なことのようだ。
 花木センターわきの夏草の生い茂る「万葉のみち」と名ずけられた道を行く。好きで良くあるった道だった。この道への入り方は難しい、地元の人しか知らない道だった。それを行くと、深い森の中に囲まれた二つのため池が現れる。あまりに森の中なのであぜんとしてしまうのだった。
 三毳山に詳しい人の話によると、こんな池は回りのあちこちに存在しているそうだ。オフロードバイクにまたがり、道なき道に分け行って探し歩く過程がよいともいう。それは、想像以上の発見を約束した。森の中の池を発見すると自分が最初に発見したかのように興奮し、勝手に名前をつけて回ったと言う。清水の池、妖精の湖と思いつくままにつけてアンシャーリーの陶酔に浸っていた訳だ…。これも今となっては誠にうらやましい話。 唐沢山近辺にも沢山のため池があるが、隠し湯的な神秘性はないような気がして残念だ。


こならの森 40号

2008-04-05 | 創刊~100号

       こならの森 40号1991.8発行

表紙/夏祭り、ブレ神輿

目 次

………………………
2p…看板娘=藤井みよ子さん
3-4p…その他の情報
5p…結婚=岡田さん夫妻
6p…おぞねとしこ/カラムコラム
7-18p…特集=双体道祖神を巡る
19p-22p…佐野のここがダメ
22p…街角の肖像
23p…モータースポーツOCR
24p…アウトドアー/コーヒーOCR
25p…我家の子育=山本さん/青春の断想
26p…本/絵本紹介
27-29…情報
30p…本10/きれい瞬間
31-32p…協賛店名
33p…編集日記
……………………

【本文抜粋記事】

「佐野のここがダメ」

他市出身者による覆面座談会
(名称は各人の出身地名となっています)

▲福島 はっきり言って度量が広くない。批判というものが建設的なものにもかかわらず。そういう度量がない町ですね。
●足利 安佐地区では足利に本社があるというと人が集まるが、足利では、宇都宮に本社があるというとばかにしてしまうんです。
▲福島足利はどちらかというと、東京経済圏にあるが佐野は地方経済圏の中にある。
●足利 足利は近隣の市を集めて一つの県を作ろうというノリなんですね。そこを一つの経済圏にしようというんです。
 足利の人は太平記ではないんですが、いまだに反体制なんですよ。佐野と比べると歴然ですね。足利だと民間組織が強かったりします。市民運動なども強いんです。
▲福島 みんなの第一印象はどうなのかな。
■東京 星がきれいだなあーと思ったね(笑)。それから寒い。
人柄としてはほのぼのとして純朴だ。
●足利 わたしも最初に来たときにそう思いました。
▲福島 駅前の話ですけれども核になるものがないですね。
「市」というよりも東北のとある「町」と言った感じですね。
■東京 核になるものというのは何だろう。
▲福島 やはり駅前だろうね。
■東京 駅前の商店街ということかな。
▲福島 それがなくても駅ビルがあるとかね。わたしが大学に通っていた町もシンボライズなものがなかった。そこへ大手デパートが出て来て駅ビルを造ってからは大きく変わったね。人口10万くらいだったけれど若者の町となった。
 佐野では市役所があんなところになくてもいいよ。市役所というのは市の真ん中にあればいい。そういうことからすればあんないい立地条件のところになくもいい。あそこは駅前商店街だよね。
★佐野 みんなそう言っているんですけれどもね。
■東京 核が駅であると言うけれどそれが出来ていないというのはどうしてかな。
▲福島 一つには都市計画が後手後手に回っているんだよ。極端に言えば都市計画が無いような、無くても済むみたいなそんな感じかな。
★佐野 現在の駅南も、もう十年遅いと言われ続けています。
▲福島 十年というより、二十年遅いよ。
●足利 私の第一印象はらーめん店が多い。それから、本当にいい人ばかりなんですよね。発展するしかない訳なんです。ですが選挙でも何でも、もろ足の引っ張り合ですよ。
▲福島 面積は足利と変わらないのかな。
●足利 面積も人口も商店件数もみんな半分ですよ。それから、文化的なものが非常に多いんですよ。足利の食い倒れ、桐生の着倒れ、佐野の見倒れ。文化的なものや史跡とかも多い。らーめんでもなんでもそういう「仕掛け」をするものが多いけれども、ただそれが風化するのを待つだけなんです。そこが一番信じられないんです。それにロマンチックな伝説も残っているんです。そういうのは、足利だったらすぐに話題になるんですが、ならない。
★佐野 そういう意味では、足利の人はマスコミの使い方がうまいよね。
●足利 先にニュースだけ流すやり方ね。それから、やはりこういうことに理解のある人というのは地元に対する執着が非常に薄いんです。ボーンとダイレクトに東京とかへもって行ってしまうんですね。非常に分かっている人は地元なんかかえりみないんです。要するに言っても分からないというような。
■東京 それは諦めであって、諦めの中に安住の地があるんでしょう。あなたたち諦めの世代駅前の話ですけれども核になるものがないですね。
「市」というよりも東北のとある「町」と言った感じですね。
はいいかもしれないけれども次の世代のことも考えなくてはいけない。
●足利 そのことに対してものんびりしてしまっているんです。場所があって交通の便がよくてそれさえあれば後はどうでもいいんだと、後は知らない、という企業が多いですね。それは、それ以外に魅力がないんです。ですから引っ掛かりもないんです。ところが、足利はいじめられていますからね……。そういうのがある。
 それから「隠れ家の無い町」とも言えます。例えば仕事サボって喫茶店にいこうとか思うと、そういう場所はどこにでも何カ所かあるんです。ところが、佐野には無い。だから佐野が嫌いでとにかく好きな町にしたい、愛する町にしたいんです。それから、どこの商店街でも特に足並みが揃うということはないんですけれども、佐野は特に揃わないんです。
▲福島 もともと栃木というのは文化不毛の地なんだよ。なぜかと言うと大藩が無いんだよ。歴史的に言って小藩ばっかり何だよな。徳川幕府が江戸の近くに大藩ばっかりをおくと反逆されたとき困るから全部小藩に画一している。だからいろんな意味で文化が育たない。歴史を動かすようなエネルギーがうまれるような土壌というのはないんだよ。
★佐野 だから田中正造が出て来たのが不思議だといわれる。
▲福島 本来栃木の土壌からすれば出て来ない人なんだよね。だからここの人は田中正造を評価していないんです。自分たちの郷土の偉人という意識は全く無いね。
●足利 若い世代からすれば、やはりクライんですよ。だから賞を取るようなあれだけ立派な博物館に銅像がありながら、特別展示室がありながら「クライ」んですよ。
▲福島 だって公害じゃ暗いよ。華やかさが無いよ。
■東京 それはそうだけど、たてついた訳だからね。しかし、今言えばエコロジーだよ。
▲福島 最先端の学者なり、公害問題をやっている人間からすれば教祖だよ。
●足利 地元にはやはり応援している団体はいます。しかし、足利尊氏みたいな棟梁ではない。
■東京 だからそこまで出るスケールじゃない。
▲福島 日本の政治家の原点なんだよな。どうあるべきかということのね。
 日本の政治がもっと変革されれば田中正造ももっと評価されたかもしれない。そうじゃないからね。
★佐野 村おこし、町おこしが叫ばれて久しいんですけれども、何も無理しなくても、佐野には素晴らしいものがたくさんある。逆説的ですけれども、何でも起こせはいいという商業主義はもうこれからの時代必要ないと思うんです。ですから、起こさなくていいと思うんですね。だから、「おこす」んでなくてそのことに目覚めてほしいんです。
▲福島 ここの人は田中正造を評価していないんです。若い世代からすれば、やはりクライんですよ。


こならの森 39号

2008-04-05 | 創刊~100号

       こならの森39号 1991.7発行

表紙/すいせん「菖蒲」

目 次
………………………
2p…看板娘=小竹泰子さん
3-4p…町案内=
5p…結婚=三木さん夫妻
6p…おぞねとしこ/カラムコラム
7-14p…水紀行
15-16p…ミニ特集=宝探し顛末記
17-18…その他の情報
19p…お店紹介
20p…マン&ウーマン=深津朝雄さん
21-22p…トピックス/街角
23p…モータースポーツOCR
24p…アウトドアー/コーヒーOCR
25p…我が家の子育て=四家さん
27…きれい瞬間
28-32p情報/本ベスト10
33p…編集日記
………………………

【本文抜粋記事】

ミニ特集
宝探し顛末記

【星は招くよ】
 前回目的の山まで来て捜索をやめたのにはそれなりの理由があった。仮に地図上で求めた地点に来ても目印となるもの、石碑や木々などがなければ何にもならない。辺りかまわず掘り返すわけにもいかないからだ。
【東の空の大三角形】
 5月12。日来るべき日が来たと思った。この日は、太陽系内の三つの星が東の空に正三角形を描く、という二百数十年に一度の珍しい日なのだ。正三角形。これから何が連想されるかは明白だろう。今までは地図上の三角形を思い浮かべてきたのだが、発想を変えて大宇宙に思いをはべらせる時がやって来たのだ。こうも偶然が重なるとは思いもしなかった。その時間に、山頂に行っていればなにか新たな目標物が発見できるかもしれない。三角形が指し示す東の空には何かがきっとある。
【時間制限】
 もういても立ってもいられない。捜索隊の編成を待たずにひとり東の空を目指した。しかし、やっぱりかと思わされるのはこの時間帯。正三角形になるのは夜の8時という限定つきだったのだ。夏至に近いこの時期だからぎりぎり7時半くらいまでは何とか手元が明るいだろうと思い、とにかく現地へ向かって見ることにした。7時28分。向かう途中の東の空にはかすかな夕日が見えていたのに、現地へいって見るとすっかり暮れて、空に星は輝かなかった。ぎりぎりまで待ったが晴れる様子もない。天を仰ぎながらも無常なる空に別れをつげて、帰ることにした。やはり個人の力で掘り当てることは無理なのだろうか。
【東がだめなら南】
 事務所に帰ってから、三角形の中心点にばかり目を向けずに、頂点の先(南)に何かを暗示するものが有るはずだとふと思い、また地図に目を走らす。この一瞬がまたたまらない。二枚の地図を正確に合わせ先に引いた2点間の延長線上に同間隔の線を引く。地図上で十五センチだった。よく見るとその線に合わせるかのように細い昔ながらの道が続いているではないか。これも何かの偶然でないことは明らかであろう。十五センチめに差しかかろうとするとき道は大きく曲がってしまった。
地図上では田園地帯でさしたる目標物はない。ここにはないのだろうか。しかし、気を取り直してさらに、元の長さの2倍にあたる地点に延長線を引く。すると、そこは渡良瀬遊水池入り口の新開橋地点となる。ここしかない。そう合点する。しかし、行ったところで新開橋のどこを掘っていいのか、またしても見当もつかない事態に陥ってしまう。
【3×3=?】
 ここに来て迷宮に入ってしまったようだ。もちろんそれでも諦めずさらに十五センチ先に延長してみようと思った。三角形の延長線上なのだから距離も三倍は当たり前。なぜそんな簡単な事に気がつかなかったのだろうと思いながら先に目を移すと、あろうことかこの先の地図が手元にないことに気がついた。古河地区の二万五千分の一の地図が用意していないのだ。まったく先が思いやられる。
 (もう次回にはつづかない。)
【金塊を探せ】
 こならの森がもっている情報はすべて公開しました。だから後の宝探しはあなたの気力と体力のみ。さあ地図とこならのもーりーを頼りに最初に戻って冒険の旅に出て見ませんか。


こならの森 38号

2008-04-04 | 創刊~100号

       38号 1991.6発行

表紙/山と矢車菊
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2p…看板娘
3-4p…町案内=犬伏町
5-8p…タンデムサイクリング
9p…結婚しました
10p…おぞねとしこ/カラムコラム
11p-16p…特集宝探し
17-18p…その他の情報
19-21p…MTBツーリング大平山
22p…佐知倶楽部
23p…モータースポーツ
24p…きれい瞬間
25p …我が家の子育て日記 森香誕生
25p…青春の断想
26p…本/絵本紹介
27-32p…協賛/情報
33p足利尊氏と新楽家
………………………

【本文抜粋記事】

タンデムサイクリング

 タンデムサイクリングという催しがこのほど行われた。とにかくおもしろ好きのわたしは後先考えずのってしまうほうなのですぐに飛びついてしまった。この辺のなりゆきはすんなりだったように思う。いつもそうなのだが、これだけの催しにもかかわらず、地元ではあまり反響がなかった。NHKをはじめTVの取材も目白押しだったのに…。
このタンデムサイクリングというのは、早く言えば二人乗りの自転車で安佐の公道を堂々と走ろうというもの。我が家の子育てにも書いた通り、当日は自分の二人目の子が誕生というハプニングにもめげず完走した、さわやかな一日だった。わたしの後ろに乗るパートナーは昨年黒磯で開かれた第1回のタンデムサイクリングにも参加したという40才代のきさくなおかあさん。なんと今日は娘さんと一緒に参加しているというのだ。それも良く話を聞いてみると、その子はすぐ前を走っているではないか。最年少参加のためか、テレビ局のカメラが盛んにおっていた。
 失礼ながらこの企画に参加するのもタンデムサイクルに乗るのも全くの初体験だったのだ。そのせいだろうか、試運転をすませると非常に不安になってきた。走行し始めるときにひどくふらつくし、カーブも思うように曲がれない。こんなことで無事18kの道を走って来れるのだろうか、それも前の座席に座るのは私自身、ハンドルを握るのも、ブレーキを踏むのもすべては私の意志による。いよいよ5、6列に別れてスタートとなる。フラフラしながらも佐野の運動公園前を出発した。緊張する。激しく緊張する。最初の左カーブが思うようにまがれない。ふだん思う二倍の距離を大回りしながらよろよろ曲がって行く。細い歩道とアップダウンの道が続く。信号に近づくと前がつかえて大渋滞が起こる。このタンデム自転車は構造上直進の安定性は抜群なのだが、止まる曲がるという運動性能が悪い。だから止まったり、走ったりが続くと大変なのだ。やっとのこと奈良淵の交差点まできて、唐沢山へ向かう道に出る。このへんまでくると、少し慣れて余裕も出て来たようだ。パートナーとの会話も弾む、今日のような曇りの天気の方が照っているより暑くてならなくて、走行するには楽だと言う。麦の香りがただよい夏に向かう季節を感じさせてくれる。曇ってはいても心は晴れ晴れとしていた。唐沢山近くまで来るとさしもの取材陣も消えやっとのんびりしたサイクリングを楽しめるようになった。初めての体験のせいか疲れもそれほど感じない。しかし、田沼高校をすぎて田沼町の中に入って来るころになるとと手が真っ赤になっていた。それに最近は体調が悪くてあまり自転車に乗れず、ふだんの力が出ないままだった。田沼町役場まで行くと休憩が取れる。それだけならいいが、もうやめにして昼食にしたいと思うほど腹が減って来た。もうたまらない。やっとのこと役場についたが、とにかく喉が渇いて水がほしかった。小休の後に、また元気に走りだした。後は田舎道を行くだけと安心したのもつかの間、その田舎道がコース中最もひどかった。ものすごいスピードで行き過ぎる心ない車がいるのだ。そしてダンプの列。おまけに頼りのおまわりさんは田舎道と馬鹿にしたのか一人もいない。一番の難所となった。そのためかどうかは知らないが、前のグループの一人が転倒してしまった。後から車でも来たら本当に危なかった。山形小学校で左に曲がり、コースも終盤となった。ところがこの道がでこぼこで走行しずらい。やっとのことで乗り切り赤見町までやって来れた。ゴールは近い、パートナーにもそう告げた。最後に残された坂道をふたり力を合わせて乗り切って静かな下りを楽しむ。かぜの中で、すぐ後ろに座る人が盲人であることを忘れた。ウイニングランのごときフィナーレだった。


こならの森 37号

2008-04-03 | 創刊~100号
       37号 1991.5発行

表紙/レンゲ畑(免鳥町)

………………………

2p三周年あいさつ
3-8p…「こならの森のここが嫌い」
9p…としこ/カラムコラム
10p…結婚=藤浦さん夫妻
11-14p…町案内=大正通り
15p…茂木敏充=Part2
19-20p行楽マップ(手書き)
21-22pその他の情報
23p…本/絵本紹介
24-26p情報
27p…コーヒー
28p…モータースポーツ
29p…我が家の子育て
29p青春の断想
30pき・れ・い 瞬間/街角
31-32p…協賛店名
33p…編集日記
………………………


【本文抜粋記事】

新シリーズ 青春の断想 

「 至 福 の 時 」 
      
 湿気を含んだ空気の中を、サイクリング車でポタリング(自転車によるかるい遠乗り)に出ることがあります。朝の淡い太陽の光のシャワーを浴びながら、急に暖かくなり弛緩(しかん)した少しだるい体を動かしてペダルを踏みます。春の光とは言え春頃になるとやけに目にしみます。帽子を深くかぶり、数メートル先を凝視します。そんな時です、私の体全体が光りに包まれ、自分自身の世界へと旅立てるのは。
 思いは駆け巡ります。友のこと、妻のこと、子供のこと、仕事のこと。学生時代のこと、情熱をかけた山々、ハワイでの自転車、映画上映会、演劇公演などなど。こんなとき、喜びや苦しみ、楽しさ悲しさが一度にどっと迫ってきて不思議な気持ちにおそわれます。この時の気持ちを一言で言い表せば「至福の時」でしょうか。
 自分は大自然の中で生きている、生かされているのだと言う喜び。どう表現したらよいか分からない自分と言う存在。こんなことを考えられるのは、ある意味では歳とったからかも知れません。
 人生には何度か幸せを感じる時があります。そんな時は、いつも頭の中がまっ白で、それでいながら色々な事が浮かんで来て、少し体がかったるい時です。一年に一度くらいは瞬間でも良い、至福の時と呼べる一人だけの時間と空間が欲しいと思っています。生きている証しとして。 大川圭吾


こならの森 36号

2008-04-02 | 創刊~100号
       36号 1991.4発行

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2p…看板娘 中沢さん
3-4p…トピックス
5p…結婚しました
6p…としこ/カラムコラム
7-10p…町案内/黒袴町 西浦町
11-14p…セミナー「藤田祐幸」
15p-22p…【みてある木】
23p…モータースポーツ
24p…アウトドアー/祈り
25p…美容と健康/街角
26p…本/絵本紹介
27-28p…情報
29p…コーヒー
30p…コンサート
31-32p…協賛店名
33p…子育て編集日記
………………………


【本文抜粋記事】

佐野市青年団体連絡協議会創立20周年記念
(ユースフォーラム・セミナーより抜粋)

■講師紹介■
藤田祐幸(ふじた ゆうこう)
1942年千葉県生まれ。東京都立大大学院卒。慶応大学物理学教室で化学哲学を教える。83年には槌田敦氏らとエントロピー学会創設に参加。三浦市で、自然と人間が文化を介して共生する宮澤賢治の理想を実現するための「ポラーノ村」の運動を展開。90年には、5月と8月の二度チェルノブイリ事故調査団の一員としてソ連を訪問。


 ひとことに言って我々は何千年、何万年も前からひとつの流れ、巨大なる流れの中にいて、先祖からその命の流れを受け継ぎ、また次の世代に受け継いでいくという事が最大の責務であると考えます。その命の流れを支えるにはどうしても、豊かな自然環というものが必要なんです。自然環境、水の循環システム、あるいは物質の循環システムというものが命を支える源になります。その自然の循環システムの中で人は命を育て伝えていく技術を産みました。ですが、この数十年の間に我々は、森を切り、水をけがし、海を潰し、そして遺伝子に放射能を塗りたくって、次の世代に譲り渡そうとしている。このことを真剣に思うべきなんですね。しかし、お金と交換に何でも手に入るようになって、我々は生活を支える技術を次の世代に受け継げなくなった。そういう事態に今いると思うんです。
 小網代の森の「ポラーノ村」というのはそういう時代認識の元に始まりました。具体的には、僕が住んでいます神奈川県の三浦市に奇跡的に残された五〇万坪程の自然林があります。これは、ひとつの独立した集水域と言いまして分水嶺で囲まれたひとつの谷なんです。そこに、降った雨は中央に集まってひとつの川を作っている。海に流れ出す前の川は一面に広がった湿原、低層湿原としては全国で希にみる湿原を形作り、そして海に注いで今度は干潟を作り出した。という訳で、わずか全体で二キロくらいしかない川ですけれどそこには独立した、博物館のように完壁に揃った自然がある。一番上流には沢蟹が住み、その下には赤手蟹や葦原蟹がいて、蟹だけを取っても教科書にあるように本当に住んでいる。そういう理想的な環境です。しかし、その五〇万坪の森林をブルトーザーで平らにしてゴルフ場を作るという計画が持ち上がり、すでにその開発業者は六〇パーセント以上の土地を買い占めてしまった。だから、単に「森を守れ、ゴルフ場計画粉砕」というような斗争を展開しても勝てるような状況ではない。そこで、もっと積極的にこの森を我々の生きる命を伝える場として活用できる、対案を提起する運動がないかという事で、宮沢賢治の理想であった『ポラーノ広場』というのをここに作ろう、というプランを作り、「ゴルフ場よりこっちの方がいいんじゃないですか、こっちの方が資本家も儲かりますよ」という対案提起をしました。
 この運動は三つのステップ状態があるんです。まず、一つはゴルフ場建設を撤回させる。第二にはその自然の森を出来るだけ自然な状態のままで残す。第三には、その森を中心とした周辺地域に、生活技術を次の世代に伝えて、命の流れが本当にリアルに目の前で流れて行くような、文化と芸術の村を作る。そして、地域の経済活性化につながる町づくりを作って行く。そういう「村」を作るということで進んで来た。その第一の局面であるゴルフ場撤回というのは、神奈川県知事に議会で「神奈川はこれ以上ゴルフ場を作りません。」という答弁をさせる事で勝ちました。第二番目は、この森をどう残すかという問題です。ここは湿原ですから、歩きますと僕達が自然観察で入っても田んぼのように荒れてしまう訳で、そこに尾瀬のような木道を作って、この森全体を巡る巡回路を作る。今、森の自然状態はだいぶ荒れて来ているし、水も汚くなっている。だから水をきれいにし、いろんな植物や動物が増えるような条件、場所を作ってやって、より完成度の高い生態システムの完備した森に作り直しながら、学校のカリキュラムの中にこの森での体験学習というものを位置付けてしまおう。そういう事によって何百、何千という子供達がそこで自然体験をして、本来あるべき自然はこういうものだと学ぶ、そういう教育の森にする。という主張を県に向かって、あるいは知事に向かってしている訳です。 最近、県が動き出しました。「この森の自然状況は極めて良好である。これを保全する形で計画を再検討したらどうか」という事を明確に言い出し、開発業者の方が慌てました。あの、池子を潰してかかったという神奈川県が突如この僕達の『小網代の森』というところの自然が大事だと言い出した。という事で、この森を次の世代に伝えるという第二段階の所もほば見通しは明るくなって来ました。残った三〇万坪程の土地に僕達は芸術と文化の村を作ろう、有機農業の農場を作ろう、そういう事を盛んに主張していますが、おそらく開発業者はそこにミニ・ディズニーランドを作ろうとしてくるに違いない。その戦いが始まります。こういう、具体的な対案提起運動で、僕達はパンフレットを作ってそれぞれの所に、どういうものを作ったら良いかを明らかにした。基本的なコンセプトとして「人間と自然が、共生できる町づくりをしよう。」それから「自然と自然が共生できる町づくりをしよう。」「人間と人間が共生できる町づくりをしよう。」この、三つの共生という、町づくりの基本的なコンセプトを持ち出して来た訳です。

地域の経済活性化につながる町づくり

 まず、自然と人間との共生というのは、農地を有機化する。その地域の人々の欲する野菜を多品種少量生産で作って、地域内物質循環を計る。そして、家庭から出るごみを有機肥料の材料として畑に戻す。そうすれば生態循環システムが、自然と人間の共生を成立させるだろう。それは農業の経営にとってもずっと安定的で、経済的だ。そういう事を主張しています。 そうした自然と自然、森と森の共生構造に着目した町づくりとしなくてはいけないと主張しました。自然と人間、あるいは自然と自然が共生する町の中にあって、人々はもはや選別と差別の世界に生きる必要が無い。全ての人々がそれぞれの能力に合わせた仕事を分担する事が出来る。つまり、どのような人間もその中で共に生きる。原発という特殊な技術を選択して、そのことによって子孫にとんでもないつけを回してしまったのですが、それを無くす運動をやると同時に、二十一世紀に(我々の次の世代に)人々はどのように暮らすか、というライフスタイルを町づくりの中に、あるいはそれぞれの運動の中に作りあげて行くような運動を同時に作りながら、原発を止めていく運動のエネルギー源にして行く必要がある、と思います。
 実は、チェルノブイリの事故が起こる前に我々は日本の原発がそろそろ事故を起すという予測をしていました。これは二〇〇〇炉/年に一度大事故が起こるという統計があるんです。それはどういう事かと言うと、ひとつの原子炉を二〇〇〇年運転すると破局的な事故が起こる。そういう統計が出ていた。ひとつの原子炉を二〇〇〇年という事は、ふたつの原子炉だったら一〇〇〇年、四つの原子炉だったら五〇〇年ですね。スリーマイル事故の頃、だいたい世界に三〇〇基くらい原発がありましたので二〇〇〇を三〇〇で割りますと、だいたい七という数字が出ました。そこで、スリーマイル島から七年目あたりに大事故が起こるんじゃないかという危機感を持ちまして、「スリーマイル島事故七周年記念集会」というのを開いたのです。そうしたら何と一ヶ月後、誤差一ヶ月でチェルノブイリの事故が起こって、ぞっとした訳です。今、世界の原発は四〇〇体制です。そうすると、今度は二〇〇〇を四〇〇で割りますと、五という数字が出てくる。すると、チェルノブイリから五年目あたりに次の大事故が起こる。これはあくまで統計なんです。ですから、確率的に何年に一度という事なので、何年目に必ず起こという訳では無いという事を、申し添えておきます。しかし、現に七年目に起きたという事で、僕達は非常に重みを持って考えています。世界の原子炉の運転状況をみると日本が一番危ない、無謀な運転しているんです。 原発というものは二〇世紀後半の半世紀の間のうたかたの夢で、おそらく二〇世紀が終わり二十一世紀になるまで続いているなんて考えられないんです。世界趨勢も撤退路線ですし、ぐずぐずしていれば大事故でおしまいなので、二十一世紀に原発が動いている事は考えにくい。しかしその結果、今後数十万年に渡る我々の子孫はこの放射性廃棄物の処理や管理の責務を負わなければならない。我々の子孫が、その管理に手抜きをすればその段階で地球の生態系というものは終わってしまう。ですから、この放射性廃棄物を誰の目にも触れない、どのような物になっているか分からないような地面の下に埋めようとする事が一番犯罪的なんです。だから、政府の「下北・幌延に処分を」というのは全く誤った選択なんです。後世の子孫達に管理しやすい形にして置くしか手はないんです。我々の子孫は何百世代、何千世代たってもその放射能が消えない訳ですから、子孫達は二〇世紀後半に生きた我々の事を犯罪人であるとして糾弾するに違いない。例えば縄文人、平安時代の人々はというような見方で、二〇世紀後半の連中は石油を使い果たし、鉄を使い果たし、森を壊し、川を汚し、放射能を作り、全ての生き物の存在を危うくして、そういう地球を我々に残した。縄文人の中にもいやあらかたこういう奴もいた、ああいう奴もいた、なんて事はもう見えない訳なんですね。それからこれはとことん第三世界の差別構造の中に存在している。ウランの採掘の現場で被曝しているのは、インディアンだったり、アボリジニーであったり、アフリカの黒人であったりする。いずれも白人支配の中で居留区に追い込まれ、その居留区からウランが出て、結果的に鉱山労働を強いられ、被曝をして倒れて行く。しかも、差別をされているがゆえに彼らの被害は、二〇年も三〇年も時間が掛かってから見えてくる。そういう所からウランが運ばれ、日本に入ってくる。また電気は、原発の中で毎日の労働が被曝量でノルマを課せられている労働者によって支えられている。そして下北や幌延といった貧しい過疎地に最後のつけが回される。そういう重層的な差別構造の上にこの原発というものが存在して、電気がついている。言うならば我々はそういう差別された第三世界の人々に対しての犯罪性であるとか、二重のあるいは僕は全体としては五重の犯罪性という事を思うんです。そういう加害側にあるんだという事を認識し、我々の生活の質を問い直すところから原発を止める運動を作り上げていくという事が必要だと思うんです。そのためには、我々都会に暮らす、あるいは都会的ライフスタイルを送るものも考えを問い直さなくてはいけない。
 その事が実は原発を頂点とする全ての産業構造を支えてしまっている。例えば、食品にこだわろうとする時、どうして添加物が入っているんだろう、防腐剤が入っているんだろうと考える。これは単なる企業戦略で入っているんじゃなくって、我々が選択してしまっていたんです。そういう、ライフスタイルを近代的なライフスタイルだと思って選択してしまった。そのつけが今、回って来ている。我々は、反対派であろうと、推進派であろうと、無知なるが故に推進派に加担してしまったのであろうと、二〇世紀後半の人類は二〇世紀後半の日本人はという形でひとくくりにくくられ糾弾される立場にある。我々は、被害者のような顔をしていますけれども、実はそういう時間の流れの中では加害者の立場にあるという事をけして忘れてはならないんです。


こならの森 35号

2008-04-01 | 創刊~100号

       35号 1991.3.1発行
表紙 かたくりの花
………………………
2p…看板娘
3p…結婚
4p…としこ/カラムコラム
5p-16p…散歩道
17p~20p地域社会を考える
21p-22p…トピックス
23p…モータースポーツ
24p…アウトドアー
24p…コーヒー/本ベスト10
25p…美容と健康/街角
26p…本/絵本紹介
27-29p…情報
31-32p…協賛店名
33p…子育て編集日記
………………………

【特集企画】

街角の散歩道

「もはや安佐の道には風景がない。」と思っていいるひとへ贈る。もう一つの散歩みち

 東の産業道路から離れ、女子短大へ入る丁字路を少し行くと、竹薮のあたりから小道が続いている。車でいきなり入るにはそれなりの勇気がいる。散歩道はここから始まる。
 ひとたび、春ともなれば菜の花が咲いて人影もない道は趣がます。そっと日だまりの中に春が見え隠れする今は姿を変え、息を潜めて…。ひがらいてもいいと思う。道はまだ続く。もっと足を伸ばせば水道塔があり、おやっと思わされることだろう。淋しい田園地帯であったのが信じられないほど、ここ数年で急激な変貌を遂げたところだ。工業団地から続く丘陵地帯の片鱗が見えて楽しいものだ。もうすぐ、全く自然のままの姿の野草が芽を出す。小道を入り、人家が続くがやがてすーと消え、写真のような建物が続く。時代劇の一シーンのようだ。別に時代遅れと言おうとしているわけではないが、高く長いベルリンの壁の如く立ちはだかる建物は異様な感じがする。
 見た限りは一つの続いた大きな建物のように見えるが実際には、二つの部分から出来ており、建物と建物の間は、人一人が通れるか通れないかといったところ。壁の高さは5~6メートルくらいだろうか、その上にこれまた大きな屋根が乗っているわけだから建物全体の大きさは10メートル以上と言う事になる。ちょっとしたビルなみである。小さな笹が壁に沿って続く。反対側は、小さな栗林となっている。今年はどうだが分からないが昨年は道路側に菜の花が咲き誇って壁の黒々とした色に映えていた。栗林の先には、みかも山が人家の屋根と同じ高さに見える。家に囲まれてしまったが、この一角だけひっそりとしている。
黒々とした威圧感は人々を寄せつけないのだろうか。
 道は車一台分ほど舗装されているが、狭いので行き交うのは難しい。そのために人影もない。
 ただ気になるのはゴミの多さである。せっかくの散歩通が台無しだ。
 少し道からそれて、栗林の中を歩ってみた。ふり変えってみる
と、すくっと木のあいだから浮かび上がるその大きさに、再び驚かされる。このあたりだけ別世界のようだ。璧のそばの狭い道を歩っていると、その威圧感から長く歩っているような、はたまたどこまでも続いていくような視覚効果の影響を受ける。しかし、実際に歩って見ると、それほど長い距離ではない。
 璧の圧迫感から逃れたら見慣れた住宅地が見えてくる。道はまだ狭い。やがて丁字路に出る。右手は、市営高萩住宅だ。左に行くと、田園の中に取り残された小道が続く事になる。これも、情緒があるのでいってみるのもいいだろう。少し行ってやはり、住宅がきれると、前ページの写真のような、塔が出現する。これは箱庭の田園と人家を分けるランドマークとなっているのだろう。やがてこの田園が消える時、これも取り壊されることだろう。
 稲を作らなくなった田んぼは、やがで名も知れぬ野草の宝庫となる。花ばなの群落が素晴らしい。

こんな散歩道他にあるだろうか。



 旗川沿いには、面白い景色が展開している。
 並木町は、佐野の外れ。足利市との境に位置している。しかし、安楽寺をはじめ市内でも屈指の文化遺産を有しているところである。この町を抜けているのは寺岡・館林線だが、お分かりのように、何も見るところはない。そこで、旗川に沿って歩き出すことにした。白旗橋から北へ抜けていく。土手の高さから見る町並はまた変わって見える。いくつもの蔵や、いく時代も越えてきたような建物が点在する。不思議なくらいにはっきりと他の建物と区別出来る。


【原風景】
 さして重要なものがないからだろうか、道も広くなく、趣もあって楽しめる。トラックやダンプカーが激しく行き交う道ではないのがいい。どこか昔の物語の世界に入って来たような錯覚に陥る。
 こういう道を歩って行くと、戦後の長い歴史の中で人々が失ってきたものが、あるような気がしてならない。だれしも子供の頃に見た風景の中で印象に残っている風景というものがあるが、どこだか分からない。そんな風景に出会ったような気になる。それも、そのもままの姿だったりすると、なお嬉しい。こんな風景はちょっと前だったらありきたりだったのだろうけれど、今は探さないとないのかと思うと残念である。
 こうした町並を抜けていくと、国際都市東京とか、歴史の町京都、経済国家日本、高い工業生産能力、ハイテック技術など、『見られて』いる日本とはだいぶかけ離れているように思える。しかし本当の日本に触れたようで、なぜだかほっとするのも事実だ。

【小野茂木】
 さてこの町の中の、通り名となっている、字名で『小野茂木』というのがある。ちょっと変わっている。というより、なんか変だなと思う。良く町を歩ってみれば分かるが、一軒が小野さんの家だとすると、その次も小野さん。いくつか続くと、今度は茂木さんが続く。そう、ここは小野さんか茂木さんだけの集落なのだ。もちろん何軒か例外の家も混じっているが…。な~んだ例外も…という人に、特別に教えてしまえば、藤岡町都賀の、一つの集落は十七軒ほどだが、みんな小関さんばかりなのだ。完璧!。
 川沿いに、さらに北に進むと、橋一本で足利市稲岡町になる。やっと足利市に入ったと思うが、すぐ北へ行くと赤見の町なのだから不思議な気もする。機会があったらここも紹介してみたい。
こんな散歩道どこにだってある。

 田沼町というのは面白い。深く知ってしまえば知るほど、魅力にあふれている。町全体が貴重な歴史財産だともいえる。開発が進んでいないだけ得な面もあるのか、面積のほとんどが山林という事もあるのだろうが…。

【岩崎】
 ここでも思わず立ちどまってしまうような情景に多くであう。これも散歩の楽しみの一つだろう。特に夕暮れの雰囲気は独特なものを持っている。小さな集落を曲がりくねりながら進んで行くとどことなく急激な変化から取り残された風景と出会う。しかし、こういった地でも一つが変わればあっというまに変わって行くような気がする。そのハドメをにぎっているところ。そういうと大袈裟だろうか。変わる時は変わる。しかし、変わらない時はずーと変わらないそんな息吹が肌で感じられるだけでも来て歩ってよかったなと思う。

【ツ・イ・ン】
 ツイン・ビルというものは日本はおろか各地にある。けして珍しくも、新しくもない。間組が青山に立てた、狭間のある青山ツイン。ニューヨークの国際貿易センタービル。モダンデザインの象徴的な存在だが、田沼でも各地でこうしたビルをみる。タバコ乾燥小屋か何かの建物だ。しかしどれもツインなのだ。佐野市内で見かけるものは単体のものが多く、同じものが二つというのはみた事がない。構造上どちらが効率が良いのかとかそういうことは分からないが単にデザイン上だけの事ではないだろう。しかし、デザイン的な事なのだとしたらかえて素晴らしい意味を持つし、そう願いたいものだ。今が素晴らしいのではなく、長年の時代を経てなお存在し、人々の生活や風景の一部となるものそういうものがグッドデザインというものだろう。奇をてらったものや、流行のモチーフに惑わされては本物がみ見えにくくなる。その点が今騒がれている、ポスト・ポストモダンの考えであろう。流行を越えた、流行が存在する。それは身近に、栃木駅、葛生駅と言った大正ロマンの建造物であったりする。見ると両者はよく似ているが、非なるもの。これが変に画一化されたモダンデザインとなれば、何か大切なものを失ったような、心の貧しさに気づくいに違いない。第一、それが残る。

 草もなく、小動物も行き交わない。そんな姿は自然とはいいがたく、散歩する気にはなれないのは当然だが、長い時代を越えて存在するものにはそれなりの理由というものがあるのだろう。古いもの、壊れ行くものその不安定さがまたいい。

こんな散歩道だれも知らない。


こならの森 34号

2008-03-31 | 創刊~100号
       こならの森34号 1991.2.1発行

表紙 岩舟から見た三毳山の風景

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2p…看板娘
3-8p…町案内 
9p…結婚しました
10p…としこ/カラムコラム
11-20p…特集 塩坂峠
21p-22p…トピックス
23p…モータースポーツ
24p…美容と健康/街角
25p…コーヒー/本ベスト10
26p…本/絵本紹介
27-29p…情報
31-32p…協賛店名
33p…子育て編集日記

【本文抜粋記事】


町案内

こんなご時世だからこそ最も望まれるのが『平和』だと思う。
 寒い中外で取材を行なっていてもこんな事していていいのだろうか(別に血を流せ―とは言われないだろうけれども…)という自問がわく。そんなおりに見つけたのがこの道。正式にそう呼ばれているのかは定かではないが、この道の隅にひっそりとたたずんでいる碑には紛れもなく平和の文字が…
 相生町交差点から百メートルほど東に向かって右に入る路地が、今回紹介する道だ。最初はなだらかな登りとなっている。その先は丁字路で、これまた細い曲がりくねった路地が続く。その前に、その反対側にある路地を紹介しようと思う。取り立てたものなどない路地だが、大通りから少ししか離れていないというのにシーンと静まりかえって、物音しない路地だ。そればかりでなく、ちょっと開けた所には、オシドリ塚という碑がある。
 佐野市の史跡に指定されているという事だが、その詳しい説明はない。佐野史跡写真帳には、当時犬伏町に属していたらしく、浅沼と言う地名があった。現在その碑は相生町の所在となっている。
 さて本題の平和の碑だが50号線から金成院方面に入って二つ目の交差点を渡ると、左手に大きなガレージがありそのすぐ脇にある。高さは人の背丈ほど。何とも威圧感のある碑だ。今は冬、あたりにはその他に何もない。碑を後に坂を登って行くと途中の花屋さんの裏にレンギョの黄色い花を見つけた。満開だった。空の青とコントラストを成してとてもよい。
 ほどなく坂道も終る。ここは久保町と相生町を分ける分岐点となっているようだ。もちろん線が引いてあるわけではなくあくまで地図上での事。
 さて坂を過ぎれば下りだが、これが登りと違って短い。ここには夏ともなれば、朝顔の大垣根が出現し秋まで楽しませてくれるところだが今その垣根はない。
 坂をおりきって丁字路にぶつかり右へ行くと小さなカーブになっている。その近くに面白い作りの家を見つけた。ちょっと見ると平凡な家のようだが、左側をよく見ると教会のような、洋風建築がついている不思議な様式だ。文明開化の頃だったか、和風建築に表面だけ洋風建築を付けるのが流行ったがその名残だろうか。
 さらに少し行って左に曲がってみると、両毛線の踏切が見える。その先は東武線の高架線となっている。この高架線、よく見ると城を思わせるしっかりした石垣と情緒のある煉瓦でできている。また、水道管であろうか太い管がのっているのもおもしろい。以上のことなら別段書きとめるほどの道ではないと思い、ここが坂道である事に注目して眺望がよいところを探しにもどった。相生町と久保町を分ける地点まできてあたりを探してみた。左に入ってしばらく行くと、あたりが見渡せる素敵な公園が表われた。
 残念ながらみかも山は観音山に隠れて少ししか見えないが、遥かかなたの地平線は市内の家の上に見渡せる。公園と書いたがあるのは椅子とテーブルが二つ三つだけ。広さは、そんなに広くはないし、名前もついていないらしく看板もない。もちろん地図にも載っていない。人気のないところが最もよく、自分だけの秘密にしたい場所だ。
 帰りはまた来た道を戻り、市内の風景が沈み込みながら消えてゆくのをゆっくりと眺めながら坂道を下りてきた。



こならの森 33号

2008-03-30 | 創刊~100号
     33号 1991.1.1発行

表紙 夜景 市役所前のイルミネーション

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2p…看板娘
3-4p…町案内 【赤坂町】
5p…結婚しました
6p…おむすびポン
7p…トピックス
10p…カラムコラム
11-22p…特集 変わりゆく渡良瀬遊水池
23p…モータースポーツ
24p…アウトドアー
25p…コーヒー/本ベスト10
26p…美容と健康/街角の肖像
27-28p…情報
29p…本/絵本紹介
31-32p…協賛店名
33p…子育て編集日記


【本文抜粋記事】

■特集
変わりゆく渡良瀬遊水池

 「枯れ野にオギヨシの穂波が光り、茫々たる日本一の芦原は季節の深まりの中にある。八〇年もの間、誰も踏み入れていない小高い住居跡は在りし日の谷中村の人々の暮しを彷彿させる。沼ではチョウヒがカモの大群を追い水しぶきが上がる。この広い芦原には、まだ知られていないこといっぱいある…。」そんな、言葉に誘われてふたたび遊水池を歩ってみたくなった。

渡良瀬貯水池の働き
 洪水被害から守ってくれます。大雨が降ると川などの水があふれ家や田畑に水がつかり大変な被害を受けます。渡良瀬貯水池は渡良瀬貯水池にある三つの調整池と一緒に川の水を一時貯めて、下流へ流れていく水の量を少なくして洪水から私通を守ってくれます。毎日使う水を確保してくれます。
(新規都市用水の確保)

 毎日の生活にたくさんの水が使われています。小山市、野木町、茨城県、千葉県、東京都の人めために新たに216、000m3/日の水道水を送ります。川のきれいな流れを保ちます。
(流水の正常な機能の維持と増進)

 日照りが長く続くと川の水が少なくなり、川の水を利用している農作や川に住む魚などが影響を受けます。このようなことを防ぐため、貯水池に貯めてある水を流して、いつも川には水がなれているようにします。
   建設省関東地方建設局利根川上流工事事務所

渡良瀬遊水池散策
 二度目の遊水池散策。最初の時はただ広さと自然の雄大さに目を細めるばかりだった。今回はちょっと違っていた。もちろんちょっとばかりではないが……。(どのくらい変わったのかは、実際にいってみれば本当はよく分かるのだが…。)
 今回の最大の収穫は参加者の数だろう。当初は数十名というところだったが、マスコミ報道等でだんだん開発の内容が分かってきためだろうか、今回は二百名近い参加者となった。ことに地元藤岡町の参加者が多かったという。

 水土と緑を考える会からのメッセージ

 今ありふれた景色としてきた枯葦原、人口的な護岸や公園まがいの植え込みと比べると、なんと暖かく、なんと穏やかに見えることでしょう。この葦原が、鳥や小動物や昆虫を育んでいると知ると、さらにこの思いはたかまります。この葦原と、魚や可憐な植物を育てる湿地と、柳の林をこらから私達はますます大切にし、谷中村の歴史を真剣に学んでいかないければならないことを、強く感じました。次の観察会は、若葦が背をのばし、野草が小さな花を開き、チドリやシギが渡って来る五月頃を予定しています。またどうぞご参加ください。その間に湿地に関する学習会も開きます。知識が増えると観察会が一層楽しくなります。



こならの森 32号

2008-03-29 | 創刊~100号

       32号 90.12.1発行

表紙 三毳山定点アップ

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2p…看板娘
3p-4p…天神町/若松町
5p…結婚しました
6p…としこの童謡詩
6p…カラムコラム
7-14p…古墳
15p~20p…年末年始情報
21-22p…トピックス
23p…モーター
24p…アウトドアー
25p…コーヒータイム/本ベスト10
26p…美容と健康/街角の肖像
27-29情報
30p…本/絵本紹
31-32p…協賛店名
33p…子育て編集日記


【本文抜粋記事】

町案内

天神町/若松町

 佐野市の最もさのらしい所はどこだろうか、やはり中心街の若松町であろうか。駅前通りを紹介したい所だが駅南の改良中。そこで、天神町と若松町を分ける、殿町通りから県道までのJRと東武線の二つの踏み切りに挟まれた区間にスポットをあててみよう。
 今回は不思議な発見を紹介しょう。昔懐かしい看板がある。今は『三丁目の夕日』というアニメがTV放映されたりして、50年代ブームだがこの短い区間を通るだけで何とも懐かしさや楽しさを与えてくれる看板が多数出現してくれる。それはまるで1950年代のような、(あるいは私が生れた時そのままのような)錯覚に陥らせるのだ。車で通ってしまえば一分もかからない。でもそれではなにも見るものはない。
 JRの踏み切りには、創業百年何年というお寿司屋さんがあって、その前にはかつて写真のような建物が存在していた。だが惜しまれつつも壊された。しかし現在も昔そのままに水飴屋さんがあったりして安心させられたりする。これも知る人ぞ知るで、店内の一角には、マニアに取ってはよだれの出るようなものが所せましと並んでいたりして、どうしても売って欲しいと市外からやってくる人もいるとか。とにかく短い区間、歩ってもすぐ通りぬけてしまう。だがきっと新しい発見が待っている。なにもないと思っても一つでも見つかればあなたの明日からの生活を変えるに違いない。
 佐野市の最もさのらしい所はどこだろうか、やはり中心街の若松町であろうか。駅前通りを紹介したい所だが駅南の改良中。そこで、天神町と若松町を分ける、殿町通りから県道までのJRと東武線の二つの踏み切りに挾まれた区間にスポットをあててみよう。
 今回は不思議な発見を紹介しう。昔懐かしい看板がある。今は『三丁目の夕日』というアニメがTV放映されたりして、50年代ブームだがこの短い区間を通るだけで何とも懐かしさや楽しさを与えてくれる看板が多数出現してくれる。それはまるで1950年代のような、(あるいは私が生れた時そのままのような)錯覚に陥らせ
も見るものはない。
 JRの踏み切りには、創業百年何年というお寿司屋さんがあって、その前にはかつて写真のような建物が存在していた。だが惜しまれつつも壊された。しかし現在も昔そのままに水飴屋さんがあったりして安心させられたりする。これも知る人ぞ知るで、店内の一角には、マニアに取ってはよだれの出るようなものが所せましと並んでいたりして、どうしても売って欲しいと市外からやってくる人もいるとか。とにかく短い区間、歩ってもすぐ通りぬけてしまう。だがきっと新しい発見が待っている。なにもないと思っても一つでも見つかればあなたの明日からの生活を変えるに違いない。


こならの森 31号

2008-03-29 | 創刊~100号

       31号 1990.11.1発行

表紙「恵比寿講」夜景

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2p…看板娘
3p…としこの童謡詩
4p…結婚しました
5p~8p…町案内【大橋町】
9p-18p…MTB=秋山を行く
19p…トピックス
22p…カラムコラム
23p…モーター
24p…パラグライダー
25p…本/絵本紹
26p…コーヒータイム/ベスト10
27p…美容と健康/街角
33p…■子育て編集日記


【本文抜粋記事】

サイクリング&MTBツーリング

 普段走り慣れている道でも、自転車で走ってみるとまた違った趣があるもの。今回のサイクリング&マウンテンバイク(以下MTBと訳す)ツーリングは大通りをできるだけ避け歴史ある裏道を行く事にした。そのためか秋晴の中、十分に楽しめるものになったと思う。クレージーサイクリングクラブでは、春先にまたこうした企画を考えているそうだ。
コースを簡単に説明すると、東産業道路から秋山川サイクリングロードを抜け、唐沢橋近くの緑地、で小休止、そこからサイクリング派とMTB派に別れる。サイクリング派はそのまま、サイクリングロードをぬけ裏道を通って、葛生駅から仙波、五丈の滝というコース。MTB派は、一路唐沢山にある、農工大の演習林を使って、ヒルクライムレースを行ない。関東ふれあいの道を抜けて、京路戸峠から多田方面に下り葛生駅へ。後はサイクリング派と同じコース。
午前八時、吉沢輪業前に集合する。ウォームアップ、コースの説明と出発前の整備点検の後、いざ出発。参加者十三名余りが一斉に市内を駆けぬけた。足慣らしに秋山川のサイクリングロードを行く。天気も最高で、雲一つない。また寒くも、暑くもなくて風も心地よく絶好のサイクリング日和となった。目一杯ペダルをこいでも汗が吹きだすという事がないのだ。あっという間に、秋山川の緑地へ。小休止の後、コースの再確認と、諸説明。特にMTBは、道のあちこちに倒木が立ちはだかったり、丸太の階段が出現したり、数日前の雨で道がぬかるんでいたりで、初心者にはきついコースとなる。また、急な下りが何か所かあり、しかも道の右側が崖になっていて一歩間違うと転落の危険性もあったりで、十分な注意が必要だ。サイクリング派はのんびりとぺダリングを楽しんだようだが、 MTB派は、すぐに唐沢山を登ることになる。演習林のなだらかなアップダウンの道を流していくとヒルクライムのスタート地点にでた。ここで、先にゴール地点まで一人が向かい。一分毎に、一人づつスターとしていく方式を取る。ヒルクライムレースはMTBレースの中でもキツイ競技。ダウンヒルのような豪快さや、スリルもなく、ただひたすら登るという過酷なレース。距離にして二キロ余りだが、なかなかゴールは見えてこない。ちなみにトップの人のタイムは十一秒代だった。トライしたのは全員で八名。最後の選手が、ゴールに入って来る。みんなくたくたった。小休止の後、関東ふれあいの道に入り松並木を抜けてい く。今までの登りの疲れをいやす には絶好の道だ。しかし、少し行 くと、丸太道になっていて自転車に乗っていては登れなくなり、下りて歩く事になる。しかも登りだ。また、少々行くと、今度は下りの丸太道となる。また自転車下りて下るかと思いきや乗ったまま下っていく人も現われた。テクニックの差を痛感してしまう。やがて、急な下り道、右側が崖というやつだ。しかも、数日前に降った雨の影響でスリップしやすくなっている。途中でブレーキングしたら、どうなるか分からない。 一気にいってしまうのがいい、というアドバイスに、コワゴワ行ってみると難なくクリアー。ジェットコースターのごときスリルだった。何度かこうした急勾配が続き、やっと京路戸峠にたどり着く。これからは下りだ。サドルの位置を低くして、一気に下りへと思いきや、早速に倒木とでくあしおりて越えなければいけない羽目に。これでは気もそがれようというものだが仕方ない。ずーと下までなだらかに下って行けたらいう事はないと思いながらも、途中途中にある倒木にがっかりする。それでも他の人は、初めての道にもかかわらず、適格なブレーキングやハンドリングで下って行った。あたりまえだが登りに時間がかかるのとは対照的に下りというのはあっという間だ。下りが終り、やっと平坦な道に来たかと思うと雨の影響で道がぬかっている。滑って足をついたり、転んでしまったら泥 だらけという状況で、さすがのオフロードタイヤも負けそうな路面状態だ。やっとの思いで越え田沼町にある京路戸公園へ出てこれた。後は、平坦道。やれやれと思うが、予定コースとしてはまだ三分の一、先は長い。
 ここで全員が下山して来るのを待ち集まったところで、再スタート。しかし、出発してみると、のんびりどころが、最初からぺースが早い、やっと山道が終ったというのに、また歯を食いしばらなくなるとは…。工業団地を抜け、新しく出来た産業道路を通って、稲刈りの盛んな田園地帯の小道を川に沿って葛生駅方面へと向かう。
 この辺は、まだ稲刈り後の稲を天日干しにしている。のどかな風景だ。見とれる余裕はあまりないが…。そうこうするうちに、葛生駅へ。そして、町中を通って、葛生原人出土跡の脇を抜けて、田んぼ道に入って行く。山裾の田んぼに囲まれたところにあろうことか、公園がある。回りには人家がないのに一体誰が遊びに来るのだろう不思議な公園だ。
 やがて秋山川の脇に出る。葛生と田沼を結ぶ、古越路峠のある道を渡り、また秋山川沿いにゆっくり走る。もうここまで来ると、半分力尽きていて先頭集団について行けなくなっていた。常盤中のところから、また小道を行く。小集落を抜けて行く。いくつもの倉や歴史ある作りの家々が見える。この辺りはゆるやかな登りになっているのだろう、はっきりと感じられるほどではないが、ペダルが重い。
しかし、両側に広がる山の緑は、目に優しく疲れをいやしてくれる。先頭集団がペースを落としてくれた。残りは少ないはずだが、なかなかたどり着かない。やっとのことで、バーベキューをする秋山川の川原に到着。ちょうどお昼時だ。時間があれば五丈の滝に行く予定だったが時間的に無理があり断念。
 バーベキューの準備に取りかかろうとするところへ、ちょうどサイクリング派のメンバーが五丈の滝から戻ってきた。ワイワイガヤガヤ準備にとりかかる。どっと疲れも吹きだしてきたが、食欲だけはみなさん旺盛であっという間に肉も終り、焼きそば作りに取りかかる。食後には、MTBによる川渡り、ウィリー(片輪走行)といった模範走行を余興に楽しんだ。
そうこうしているうちに午後二時となっていた。早々かたずをして、戻ることにする。帰りは、今度こそのんびりとサイクリングを楽しみ傾きかける日差をバックに戻ってきたのだった。
秋山緑地までがとても、長く感じられた。小休止していると眠くなってくる。もう全身がだるく、硬直して動かない。
秋山川サイクリングロードを抜ける。もう日が傾いて、太陽が赤く見える。日暮はもうすぐだ。四時近くに、やっと出発地点に戻ってこれた。脱落者のためにキャリアと車を用意していたが、一人もなく、無事全員戻ってこれた。★



こならの森 30号

2008-03-29 | 創刊~100号

     30号 1990.10.1発行

表紙「広角で撮った野アザミ」三毳山にて

………………………
2p…■看板娘
3p…としこの童謡詩
4p-14p…特集ボランティアってなに?
15-20p…巨大迷路出現
21p~22p…トピックス/からむコラム
23p…モーター
24p…パラグライダー
25p…本/絵本紹
26p…コーヒータイム/ベスト10
27p…美容と健康/街角
33p…■子育て編集日記


【本文抜粋記事】

特集
ボランティアってなに?

 十月一日からは、恒例になっている赤い羽共同募金が行なわれるが、日本人はどうもこういった活動というものに不慣れのようだ。そして、それ以外に福祉や社会奉仕といったものに直接ふれられる機会が余りないように思う。そのためだろうか、募金をしてしまうと、その問題が全て解決したかのような錯覚に陥ってしまう。その際たるものがODAであろう。「日本の福祉は遅れている」こういうあいさつから、みんなの会十周年記念式典は始まったそうだが、その問題はしっかり見つめる必要がある。

 アメリカでは、ノーマライゼーションという言葉が叫ばれ、やっと日本でもその言葉を聞くようになった。(直訳すると、ノーマルにする。平常化、平均化を計るということ)しかし、ボランティアという言葉もまだこれといった定着した訳がない?のと同じで、聞き慣れない言葉だ。障害者を社会から隔離することなく、普通にあつかう。そう言うアメリカでさえ、まだまだ障害者である事と、黒人であるという事は足し算でなく、掛け算となる差別を受けるということだ。日本でも、差別されている人間は同じ扱いをうける。もちろんこの事は安佐という狭い地域に限った問題ではない。日本全体がかかえている差別意識や偏見といった事が深く関連してくることだ。
 そこで、こならの森では、混乱するボランティアと福祉の状況を、それにたづさわる人々や障害者の生の声を伝える事で、明らかにしていきたい。


この座談会は、みんなの会創立10周年記念式典にさいして行なわれたものを、収録編集したものです。出席者は、みんなの会のメンバー他、式典に参加した人も加わっています。


★司会 今日の反省も込めて何かありましたら、お願い致します。
■金子 まず、みんなの会そのものを知らない人もいると思うので、とりあえず十年の歩みとこれから十年の展望などを語って欲しいんです。
■三田 それでは、なれそめを簡単に話しますと、栃木県では小山が最初にわたぼうしコンサートをやったんです。その直前くらいにぜひ佐野でもやりたいという事でトッコ(小曽根俊子)なんかと一緒に実行委員会を作って動きはじめました。そのうちに単発で、わたぼうしをやるだけで終らすのは良くない。『みんな同じ空の下に生きている』というテーマでこれからも活動して行ったらいい。そうして、みんなの会が発足したわけです。
■井腰 わたぼうしコンサートですと佐野は三年間隔で行なってきたました。第二回からは手話サークル「わたらせ」の方々のご協力で、歌唱に合わせて手話で内容を表現してくれました。第三回の頃になると、今度は若年化してきます。古株の人も参加していましたが、本当の意味で原動力というのは二百三十人にも及ぶ当日ボランティアの人たちと実行委員の高校生の人たちだと思っています。わたぼうしコンサートが見たり聞いたりするコンサートから参加するものに変わったという事で大きなことだったんです。しかしすでに出されていた命題ですがコンサートをするだけが、みんなの会の活動ではない。わたぼうしはもうやめようじゃないか。それよりも他に、ボランティア活動を佐野に根ざさせるよい方法があるのではないだろうか、という疑問が再燃しながらもそのまま行なってしまった第三回でした。それから二年半くらいして『ラブ・マイタウンコンサート』というのを行ないました。これは一番最初にわたぼうし大賞を取った時の作曲者である無田雄二さんを佐野に呼んで、小曽根さん詩による歌のコンサートを開いたんです。その時の実行委員長が谷真由美さんでした。また、コンサートばかりでなくすごく地味な行事だったんですが、車椅子で空き缶拾いをした事があるんです。疑問を投げかけると言う点では非常に大きな事だと思っています。
★司会 ここで、アンケートの中からいくつか紹介てもらいましょう。
■青木 映画を見た感想として多かったのは「命の尊さを感じた。」というもので、ほかには「出演者の人達がハンディを持っているにもかかわらず明るくて生き生きとしていた様子に感動した。」というものです。「つまらなかった」というのはないですね(笑)。
★司会 俊子さんなにかありますか。
■小曽根 このサークルをモデルにして、ハンディを持った人達と一緒に活動出来るサークルが成長して行かなければ、ウソだなーと思う。
★司会 ということは…
■小曽根 みんなの会に参加した時だけじゃなくて、ほかの場面でも活動していけるといいなと思う。これからもハンディを持つ若いメンバーが待機していますから…。例えば絵画や俳句や音楽や、手芸などといった活動の分野があればいいなと思うのです。
■金子 ではどうしたらいいと思う。
■小曽根 今までみたいに見たり聞いたり経験したりして発見していくしかないんだけれど、そういう考えを胸にもって歩んでいく事が発展につながる事だと思う。
■金子 その事なんだけれど、確かにトッコの言う事は分かるでもその方法というのがなかなか見つからないんだよ。確かに会に来る事が一つの活動になるけれど、ひとり一人の『成長』という事を考えると、何かが足りない。さっき誰かが言った、もっと遊んでいいと言うのは、みんなの会でなくてもいいと思うんだ。メンバーである小手森君とか、井腰君はこの会の他にも、人形劇という遊びをもっている。ほかのメンバーのひとり一人が自分の遊びを創造して、いろんな分野の人が集まった時にトッコや小林君をその活動の中に誘っていく。そういう事なのかな。
■小曽根 そういう事です。
■井腰 それは個性を磨く事にもつながると思うんです。例えば人形劇の事を言えば、正直手が使えないなら人形を扱うのは無理かも知れない。けれど、例えば台本が書ける、人形のデザインが出来る、というところで大丈夫だと思います。ただ、みんなの会とは別のサークルになるわけだから主体が共にやるということよりも、それ自体をやる事になる。ですから、今度はハンディを持っていること自体が存在価値ではなくなって来るんです。同じような事をみんなの会の中で出来ればけっこうすごい事だなと思う。ハンディを持っているからこそ、逆に光っているものがあるんじゃないかなと期待をするし、そういった点で個性を磨いていって欲しいなと思うんです。
 そんなような事かな、俊子さんが言っているのは…。
■金子 井腰君がいま言った『個性』という言葉を誤解しないで欲しい。彼はそういう意味で言ったんじゃないからね。吉村敬子の書いた絵本で『わたしいややねん』というのがあるんです。作者は肢体不自由児なのね。内容は、みんなが頑張れ頑張れって応援してくれるんだけれど、なかなかみんなの期待通りになれないんだって。最後に彼女は何を言うかというと「なぜ私だけが頑張らなければいけないの、わたしいややねん。私かて黄色いウンチするわ…」。
 これはちょっと難しい事なんだけれど、肢体が不自由であるというのはハンディを持っているという誤解だけであってそれをハンディだと思う時に、差別意識が生れるんだからね。
 何年か前に障害者と一緒に喫茶店に入ったんだけれど、その中に随分オウヘイな人かいたのね。それで『お前みたいな障害者がいるから、障害者が誤解されるんだ、馬鹿者出て行け』って文句いったんだ。みんなの会の障害者はそんな事ないけれど中には悪いのがいる。酒飲むと癖が悪いのもいれば、陽気になるやつもいる。それは普通なんだよ。ただ普通の範囲がただ広いだけの話。そういうふうに、理屈じゃなくって体験で会得していってほしい。
 昔、車椅子の警部を主人公にしたアメリカのテレビ番組があったのね。だけど、車椅子に乗っていたから事件が解決出来たとか、車椅子だったからよかったというテーマは一つもない。それを見た時アメリカのすごさを感じたね。日本でハンデキャパーが登場すればその事がドラマの中の筋書きとなり、一つのテーマになってしまう。それではだめなのね。だから、みんなの会も障害者がテーマにならないように一緒に遊んで欲しい。
★司会 吉沢さんは今日が最初の行事ではないんですか。
■吉沢 そうです。若い人達でこれだけ出来たので素晴らしいと思います。
■小竹 健康に生れて良かったなと痛切に感じた事と自分も一生懸命に生きなければいけないと思いました。
★司会 小手森さんはどうですか。
■小手森 京子今日の映画に出ていた砂丘登りがしたい、と思ってみていました。楽しそうだったので羨ましいと思いました。
■金子 みんなの会が発足してからずっと思っていたことは、みんなの会というのは、健常者と障害者が作ったグループなんですね。毎回みんなの会は何をやったらいいかという疑問が出て来るそうですが実は何をやってもいいんです。大切なのはグループの中に障害者がいて一緒にやるという事なんです。それだけがみんなの会の柱だと思う。
■川村 しかし、わたぼうしコンサートは障害者が参加するにはちょっと無理があるね。準備なんかの時にのばにされる事もある。見ていてそう思うね。集まりでも障害者は、小曽根さんか小林くんだけでしょう。どうして四人も五人もいないのかというと、迎えにいったり送っていったりする時間がないからなんだ。コンサートだコンサートだっていって騒いで、その日だけで後はおっぱなしたらその障害者たちは混乱するよ。
 デッカイところ(会場)でやると、健常者だけの集りになってしまう。忙しいからね。みんな仕事もっているから…。だから、みんなでこっちから行ってみるというのもいいと思う。
■金子 今の彼の指摘はものすごく鋭い。佐野市ボランティア連絡協議会の中で障害者と健常者が共にサークルを作っているのは、たぶん二つしかない。『手話サークルわたらせ』とみんなの会だけでしょう。後は、彼が指摘したように健常者が障害者のためになにかをしてあげる団体に過ぎない。忙しいということは、健常者の時間帯なわけですよ。
■川村 コンサートも確かに大事だけれど、七夕祭などにみんなで行ってもいいと思う。車椅子に乗っけてね。これだけのメンバーがいれば、三百六十五日の一日、その内の二時間ぐらい取れると思う。障害者の人は家から出られないんですよ、誰かの手がなくちゃね。なにも特別、行事を作らなくてもいいんですよ。
■金子 そういう意味では小曽根さんと小林君は貴重な存在だね。みんなの会は、二人がいるからみんなの会という存在がある。二人がいなかったら存在価値はなくなるからね。二人がいなければ、ただの健常者だけのボランティアサークルや奉仕団体になってしまうんだからね。だから小林君なんか支えているようなものだからもっとみんなの会に対して我がまま言っていい。その事で一番大事なことは例えば私と俊子さんとの人間関係を作ってしまう事ね。ただ、愛情を感じるには俊子さんは少し年上すぎるから…。(笑)。
■小曽根 ごもっともです。(笑)。
■金子 というのは、そういう『愚痴』を俊子さんから聞くのね。十年前は、彼女は十才若かったから、みんなの会のメンバーも彼女と同じくらいの年令だった。だから、トッコ、トッコとか言いながら、お互いに我がまま言い合って本当に好き勝手な事をやれた。だけれど現在はなにか発言すると年上のおばさんが話しをするということになってしまって、いま私が話しているような雰囲気になってしまう。(笑)。
 友情でやっているのか、それともお姉さんと妹という関係でやっているのか分からない部分が出て来て、そういう意味では淋しい、という事を聞いた事があるんですよ。年令の差もあるけれどやはり友情というのは、作くりあげて行くものが本物だと思うからそのためにはお互いに我がままにならなくては…。
■小林 僕から見ると、障害者は受け身になりすぎているかなという気がするんですね。
■金子 それは受け身になる事に慣れているからですかね。だとすると、慣れさせない方がいいな。だから、自分で意思表示するまでなにもしてあげない。
★司会 OB諸氏からけっこう耳に痛い言葉が来ていますけれどもどうですか。
■片柳 私は第三回のわたぼうしコンサートの時に、当日ボランティアというのを谷さんからやらないかと誘われて、その時はわたぼうしとかは知らなかったんです。でも、やってもいいんじゃないかという気持ちで始めたんです。それからラブマイタウン・コンサートのボランティア募集という事で、また誘われて、それがきっかけでみんなの会に入ったんです。やっぱり最初はなにも知らなくて、いろいろと先輩方に教えてもらったのですが、今では小曽根さんや小林くんと一緒につきあったり話したりするようになれて、初めて自分としては進歩したかなって思っています。
★司会 私は今年でまだ五年目で。まだ五年目と言っても、みんなの会の歴史で言えば半分なんですね。私にしてみるとこの五年というのは、それほど長く感じない。まだ一年か二年しかいないという感じ。というのは最近やっと小曽根さんや小林くんと普通に話せるようになったくらいですから。
 これから十年という事はけして難しい事ではないかも知れない、と思う反面とても難しいと思っうのは、小曽根さんとかと歩んで来たというよりも勝手にひとりで来ちゃった五年間ですから…。これから小林くんとかその他、わたらせの人とかと交流していくとしても、やっていけないことはないと思う。
 みんなの会がどういうものかを多くの人に知ってもらうために、自分自身でいろいろと考えて、OBの人達に顔向けが出来ない事がないようにみんなの会の活動を続けていきたいと考えています。その点、いかがですか現役会長は。
■篠崎 私は今年の九月二十八日で五年目に入るんです。みんなの会に入ってすぐ書記をまかせられて三年間やりました。去年副会長をやって今年は会長という事です。来年まで、まだ会長の任期が残っているので、この先どうしたらいいか分からないんです。今でも小林くん、小曽根さんと話していてえっと思う事があります。自分では(健常者では)分からない事がいっぱいあって、それは彼等が私たちに教えている事で、後から「ああそうだったんだ」と、考え直す事がたくさんあるんです。これからはそういう事がないよう、一生懸命頑張っていきたいと思います。
★司会 みんなの会の世代というのは、遠藤さんと、相良さんの下はずーと開いちゃって、しばらくいない。そんな中で入って来てくれた一番若い期待の男性吉沢君はどうお考えですか。
■吉沢 今年の七月から入会しました。さっきOBの人が、みんなの会では小林君と小曽根さんが貴重な存在だといわれていたんですが、僕は別にそうは思いません。青木さんや、谷さんもみんなの会にとっては同じように貴重な存在であると思いたいんです。特別に考えないで、遊ぶ事が好きな集まり=みんなの会。そういう感じでこれかも一緒に遊んでいきたいなと思っています。
★司会確かに、屁理屈こねたって最終的には、ただ遊んでいるだけだよね。
■井腰 遊びというのは非常に難しい。楽しくなかったら遊びではないからね。やっている本人が納得しなければいけない。
■川村 遊びをいろいろとやってきたから十年間もったんですよ。『決まった事をやれ』というのをずっとやっていたんではみんないなくなってしまう。やりたい事をやってきたからいいんですよ。どんな形でもいいから、後十年は、みんなでわいわい、うまくやっていこう。
■小曽根 遠路はるばる東京からきた木村さんにご意見を…
■木村 私は第二回のわたぼうしからみんなの会に参加しまして、その後結婚して佐野を離れてしまったので、おいしいところだけで…。なんか心苦しいんです。なにもしないまま逃げちゃったという感じです。
 皆さん若いのでびっくりして若いパワーでこれからも、あんまり頑張らないでやって欲しい。(笑)。
★司会 そろそろ時間もなくなってきました。まだしゃべっていない人。青木さんどうですか。
■青木 私は、短大に入った年に入会したので、今年で四年目ですね。四年間だけで見ると、どうしてもマンネリになる部分があったり、やる事に新しい事は見つからないし新入会員が入ってこなくってどうしよう、という時期もあったんです。今こうしてみてみると、また、どんどん新しい会員の人が入って来るし、ひとりでに新しい展開が出て来るような気はするんです。ですから将来に関してはあまり悲観はしていません。自然に若い人達に任せてみれば、優子ちゃんなんかもそうだし、心配をしなくても若い人達がどんどんやってくれるという期待がある。そこでやっぱり、新入会員の人達に将来を託したいんですね。
★司会 勝川先生どうですか。
■勝川 正直言って、みんなの会の、会そのものは知っていたんですが、どんな活動をされているのかは、知りませんでした。
 みんながそれぞれ、何か思いがあってやっている。でもたどり着くところは同じなんです。それから、「こうだからこうだ」というこだわりは捨てて欲しくないなと思います。
 みんな新しい展開、新しいものを求めていくんですけれどもそれが自然に出て来れば一番いいと思います。自分自身で思っている希望性を崩すという事は、勇気がいる事です。やっている事がそれぞれ、何かそう感じてやっているとしたら、それを守っていって欲しい。
 言葉で簡単に話してしまうと無責任になるので……皆さんのやっている事を大切にしてこれからも長く続けて欲しいなと思います。
■森戸 谷さんとは友達で「人数足りないから」って誘われたんです。(笑)でもこういう活動というのは知っていたんですが行った事はないし、どういう事をやるんだか分からなかったんです。それで、実際に今日来てみて、みんな頑張っているなって感じられ、自分も考えされられました。どういう人が来ていてどういう活動をするのか、というのを見てみたいという興味で今日は来たんです。ほかのお客さんはどういうふうに思ってどんな事を考えてここに来ているのかなって事を考えたりしてとにかく来て良かった、考えさせられた一日を送れたかなって思います。
■小手森京子 全々話は別の事になってしまうかも知れませんが、今、楽しいんだなって思う事が感じられるんです。いいたい事を言い合えるとか、わがままを言い合える環境って楽しい。だから、そういう関係のひとが一人づつでも多く増えていくと、もっと楽しくなるかなって、そう思っています。
★司会 では旦那さんである小手森さんはどうですか。
■小手森正幸 仲良しグループという言葉があるります。さっき金子さんが言われたように、逆にそれが障害になってほかの人が入りずらいという見えない壁を作っているという事がみんなの会の場合なきにしもあらずだと思っています。遊ぶことは非常にけっこうなんですけれどもそれによって目に見えない障壁を作らないように、どんどん活動を広げて行けるように絶えずそっから考えておかないと、自分たちの馴合のサークルに陥る傾向があるような気がするのです。
 みんなが、みんなの会のような活動を理解してくれるような社会になれば、ひとつのサークルの存在理由というものがなくってしまうわけで、最終的には会の活動というのは、会を解散に追い込むまでつづけなければ目的は成就されないと思います。
 また、先程からOBとか現役という言い方をしているんですが、こういった活動というものは遊びである反面、運動でもあると思いますので、活動に来ない人をOBといっていると思うんですが、その方でも実際は、経験というものを持っていて、町で障害者と出合って、どうしたらいいのかという時に、みんなに指示してやっているんじゃないかと思いますので、そのへんを理解して下さい。
★司会 相良さんはどうですか。
■相良 去年、今年と副会長をやってきました。副会長としてはたいした事やっていないんですが、小曽根さんや小林くんとつきあってみて、障害者を見る目が変わったので自分に取ってはとっても良かったと思っています。
 これからの、みんなの会はちょっと見る目を変えて考えていきたいと思っています。
■川村 みんなの会に、手話通訳ができる人が誰もいないと言うのはね。誰か、勉強すれば。
★司会 いろいろみなさんからご意見も頂戴しました。今後は考えていく事もあり、また自然に成り行きで動く事もあるかと思いますが、今後とも頑張りましょう。

監修・小曽根俊子(佐野市総合福祉センターにて収録)




こならの森 29号

2008-03-28 | 創刊~100号
     29号 1990.9.1発行


2p…看板娘
3p…としこの童謡詩
4p…結婚しました
5p~14p…特集 ■関東の柳川
15~18p…つれづれインタビュー尾花好信さん
19p…からむコラム
19~22p…トピックス
23p…モーター
24p…佐知倶楽部
25p…本/絵本紹
26p…コーヒータイム/ベスト10
27p…美容と健康/街角
28-32p…協賛店名/情報
33p…子育て編集日記

【本文抜粋記事】

つれづれインタビュー

尾花好信さん

■最近自主出版された本の題名が『教養としての経済』と言うことですが、ここで言う経済というのは具体的にどういうことですか。
社会現象の中心は経済にあります。別にマルキストになって政治や文化が経済の上部構造にあるとか、そういう事を言いたいのではないんです。我々の日常生活というのは、だいたい崇高な事を言ったりしていても毎日飯を食べなければいけないし現実というものがベースにある訳ですね。ですから一番大きな現実問題は経済なんです。政治問題と言うのは、核の問題であるとか、全然我々の届かない部分というものを含んでいる訳です。
■本の題名の中に『経済』という文字があると、それだけで経済論かな?と思われてしまうほど、経済というのは固いイメージですね。
学問と言うのは全て、社会の健全な発展のために役割を担う手段なんですね。ところが、今日では手段が目的になってしまった。学問至上主義と言うか、学者が研究室の中に閉じこもって悦に入っており、世の中の変化について無頓着で大衆の意見を聞こうとしない。ですから、そういう弊害というものを逆に手元に引き寄せて、台所経済学というか、お茶の間経済学にしなくてはいけないんです。
 経済という言葉は、『経国済民』という中国の古典・文中子から出た言葉です。意味は、国を治め民を救うという事です。
 ですから『経済』と『エコノミックス』というのは違うんです。エコノミックスというのは節約という事から始まっている。ものがある段階からそれをどのようにしようかという事が西欧人の考え方なんです。
 それから、こんな教室で有頂天になっていたって海外へ行ったり、外国の人を受け入れた時に、何の約にも立たない事に気が付く訳です。それでもっと勉強しようと思うんですね。
 日本に働きに来ている外国の人達が道に迷った時に、あれだけ英語を習ってきたんだから「何か困った事あるんですか。お手伝いしましょうか。」という言葉が道端ですぐ出てくればその人は素晴らしい外交官なわけです。ですが勇気の面もあるだろうけれど、なかなか出来ない。
 また「ジャスコどこですか?」と聞かれるのよりも「ス、スイマセン。じゃ、じゃすこ、ド・コ・デ・ス・カ?」というふうに聞かれるほうがいいし、「分かったよ、俺は仕事中だけれども、乗れよ。連れてってやるから。」という気持ちに自然となるでしょう。そういうふうに、本来人間は優しいところがあるんです。ですから、ただ英語をしゃべれるというのでは無くて、世界を知るという事が大事ですね。そして自分自身を知る。ですから、英語がべらべらになったところで相手に気にいられなかったり、相手を馬鹿にしたりすれば、それは英語はしゃべれるけれども英語の真の理解者ではないんですね。
 それは流暢に『l』と『r』の区別をつけてもらいたいとも思うけれど、それ以前になんで英語を勉強するのかという事をいつも理解して欲しいですね。
 高校生くらいですとちょっと考え方が飛躍します。留学したいとか思うんですね。なんだか英語を使うとそれが職業になってしまう。そして自分で夢を描いてしまう。外国人とべらべらしゃべって「ハーイ、ミチコ」なんていわれて喜んじゃう。だけれどもその夢の中には、黒人も東南アジアの人も出てこないんです。つまり、金髪コンプレックスがある訳です。
■AETなんかもそうですね。
国際化とか、英語を話すとかいうのは、弱い側に立てるか、困っている人の側に立てるかという事です。そういう考えを持っていないと人間としての薄さを感じてしまう。利害を持たないで助けようという気持ちになっていくという事が英語を勉強したり学問というもの勉強する人間の第一段階です。
■副題の共生社会というのはどういう事でしょうか。
共生というのは、環境と人間という意味なんです。例えば人間は生きていますね。生物というのはみんな生きています。我々は、生命を維持するために酸素を吸って二炭化炭素を出しています。その二炭化炭素を植物が吸って、光合成によって又酸素が我々にもたらされる。つまり、人間と植物というものは、共生している訳なんです。
 それからライオンは絶対駆け足の速いシマウマを追わない。一番遅いから捕まえられたのではなくて、遅いシマウマを狙っているんですね。つまり速いのをやってしまうと種が途絶えてしまい、自分の餌がなくなってしまうという事を本能的に分かっているからなんです。
 ところが、人間だけはそういう事を癖として忘れてしまっている。ものすごい勢いで、植物が吸収出来ないような量の二炭化炭素を出している訳です。それが大気圏を汚しはじめて、酸性雨であるとか、大気汚染を引き起こしている訳ですね。
 人間が増えた分だけ植物が増えればいい訳なんですが、増えた分だけ家が建ち、木が切られる訳です。それは人間生活にとって悪い訳ではないんですね。家族を持って家を構えるという事は立派な行為です。しかし、それが地球全体になってしまうと罪悪感が出て来る。
 個人としては良い事をしていても社会全体からすれば悪になってくるんです。その行き着くところをどう回避していくのかやはりそれは人間の側にあると思うんですね。
 今回の本でもそうですが、僕は学歴は書かないんです。嫌いなんですね。一般の本だと、どこの何科の卒業というふうに書きますね。ですが、それはいったいなんなんだろう、と。多分読む方も、こういう人が書いたんだからきっと立派な内容なんだろうと…。
■先入観がありますからね。
学歴というもので嫌な思いをする人もいると思うんです。高校や大学へ行きたかったけれども家庭の事情でいけなかった人は、学生以上に努力をしているけれども自分ではどうしようもない事によって学校へ行けなかったと、悔しい思いをしている人も中にはいる訳です。そういう人がいる時に、俺はこういう大学を出てこういう事をやったというが、それはあなたに暇と経済的な余裕があったからですよ。
 だいたい経済とか経営といっても実際に企業を経営しないと経営論というのは分からないんですね。例えばこうすれば儲かるといっても、そうはならないですよ。
 人間関係の中で、企業というのは成り立っている訳だから、一次方程式の解の様にχは2だと、答えが出て来るんだったら努力なんてしないですよ。
 そういうものじゃないという事を経験から知っているから、人と合って勉強しようとか、人の意見を聞こうとか思う訳です。
 なぜ私が教養という文字をつけて本を出したかというと二十一世紀というのは教養人が活躍する時代なんですね。十八世紀は身分が活躍したんです。十九世紀、二十世紀に来て産業人が活躍するようになって来た。
 その時は世界全体がインフレの中にあるから経営の資質が上がれば売上を伸ばし資本を大きくする事ができた。ところが、二十世紀後半に入って非常な勢いで認識が、多様化してしまっている。つまり考え方というのが『ミーイズム』になっている訳ですね。(アイ、マイミーのミーですが)いろんな構造様式が自分の中に入って来てしまっている訳ですね。そうすると商品だって売れなくなる訳です。
 今までは、大規模生産大規模消費だった訳ですね。つまり、我々の世代はジーパンが流行ればみんなジーパンを履くんですよ。ワンポイントが流行ると、みんなそう。これは何故かというと二十世紀の特徴だからなんです。つまり無い時代から、ある時代へ移っていく時というのは自分がそこから落ちこぼれたく無いという気持ちがある訳です。みんなの中で一人だけ外されるとものすごく淋しい。ですから、とにかくみんなと一緒にいたい訳ですね。
■団塊の世代ですね。
そうですね。これをガルブレイス教授の言葉でいえば依存効果というんだそうです。他人に依存する事によって自分を慰めている。ところが現在は、一応世界の先進国といわれている国が、衣食住たりて普段の生活に困らない訳ですね。そうするとさっきの依存効果というのが崩れてしまって、他人と違う自分になりたい、その他人と違う自分でありたいというのはものすごくバラバラな各行動というのを起こして来る訳です。けれども人がみんなすき勝手な行動をして行けば地域社会だとか、あるいは国家というものは、バラバラになっていく。それが、環境問題だとか、公害問題として大きくクローズアップされて来た訳です。つまり、地域の川やあるいは大気や、そこに住む勤労者を含めて企業が自分の利益の追求のために好き勝手な事をやってきた。だから、神からの報い、裁きがあった訳ですね。
 それが、この何十年かで地球全体という規模になって来た訳です。
 これから我々は二十一世紀をどうしても生きなければいけない。あるいは自分の子供が二十一世紀に生きる。その彼等が幸せになって欲しいとか、この緑豊かな地球が未来永遠にに緑を提供してくれる社会を造ろうとか、そういう事を思うとどうしても自分自身の教養度を高めないといけないんではないだろうかと考える訳です。それは他人に対していっていても、結局は自分に対しての問いかけなんですね。
 教養というのは、学歴でも無いし、物知りでも無い。
 確かに知識は必要な事です。ですが、それをたいそうな事だ思っている人は無教養ですね。
 良くいますが、僕はどこどこの大学を出ました。僕の親戚にはこういう人がいます。笑われますけれどもね。確かにそういう親戚がいるんだろうけれども、あなたはどうなんですか。
 やはり、自分というものが大切なんですね。自分がどれだけ教養があるかという事は、人に対する思いやりがどれだけあるかどうかと言う事です。この思いやりが二十一世紀に活躍する人間の必要不可欠なものになると思いますね。





こならの森 28号

2008-03-28 | 創刊~100号
     28号 1990.8.1発行

表紙「三毳山からみる高速夜景」

2p…看板娘
3p…としこの巻頭詩 ほおずき
4p…結婚 茂呂さん夫妻
5p~18p…特集・田沼葛生がおもしろい
19-22p…情報
21p…カラムコラムOCR
23-24p…アウトドアースポーツOCR
25p…本/絵本OCR
26p…本10コーヒータイムOCR
27p…美と健康/街角OCR
28~32p…協賛/地図/情報
33p…子育て


【本文抜粋記事】


【絵本紹介】
「ブタブタくんのおかいもの」
土万久功 さく/え
 「ぶたぶた ぶたぶた」とひとりごとを言うくせがあるので、みんなからぶたぶたくんと呼ばれているこぶたくんのお話。
 おかあさんからおかいものをたのまれてぶたぶたくんのおでかけです。ぱんやのにこにこおじさん、はやくちおねえさん、おかしやのゆっくりおばさん、そしておともだちのかおこちゃんとこぐまくん…それぞれの個性を生かしたことばのやりとり、くりかえしが楽しい作品です。元気に張り切ってはじめてのおかいものを楽しんでいるようですが、やっぱりちょっぴり不安で…と言う子供の心理ものぞかせています。 素朴なさし絵も親しみやすく、最近おとな向けの絵本(?)が多い中で、本当に子どもの楽しめる絵本の一つではないかと思います。
 文・絵本仲間コロポックルT




こならの森 27号

2008-03-28 | 創刊~100号

       27号1990.7発行

表紙 斎藤内科より中央通りあじさいをみる

2p…看板娘
3p…いただきます/カラムコラム
4p…結婚しました
5p…足尾鉱毒事件から原発を考えるー西尾勝さん=
6-8p…情報
9-20p…あなたのまちのウソホント?
21p…美容/芝居三昧OCR
22p…街角の肖像/コーヒータイム
23p…アウトドアースポーツ
24p…危険な道路をぶっとばせ
25p…本紹介/絵本
26p…本ベスト10
27p…佐知倶楽部
28-32p…情報/協賛店名
33p…子育て


【本文抜粋記事】

編集長の子育て編集日記

 ふるさと創生始末記という記事がある雑誌に載っていた。
 どんなものが出来たとかいう事よりも、何を考え、市民性はどう上がったのかその過程を大きく評価したい。変なものをつくってしまえば永久に笑い種になる。一億ではなにも出来ないという事は分かっているが、全国の例を見ていくと、それぞれ個性というものを感じる。日本もなかなか面白いものだと思う。しかし、三千あまりある市町村の発想はほとんどが安易で似たり寄ったり。あまりにも情けない状態だ。
 さて、我が家ではつい最近、清水の舞台から飛び降りたつもりで五段がさねの積み木を買った(二か月分の保育料が飛んでしまった)。積み木といいながらプラスチックだったりする昨今のものと違って、全てが木。それも受注生産。待てど暮せどやってこなかった代物だった。だから、来た時のうれしさは、3分で飽きてしまったヒロの比ではない。一見高い買い物のようにも思えるが、孫子の代まで半永久的に使える事を思えば、安い買い物。使い込むほどに、木そのものの味がにじみ出る。自然のものというのは本来そういうものだろう。こっちの方は一億円より『当分』楽しめるようだ。