■ ■■■■■ ■ 日刊 こならの森 ■ ■■■■■ ■

* * * *  *  * * * *
東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

正田淑子のこと

2009-10-01 | 本文記事
9月15日に遠藤康次さんが正田淑子さんの講演をおこなった。こならの森118号でも紹介しているのでここに抜粋を掲載する。

■時代を先取りした女たち
 男たちばかり話すのも片手落ちかなと思いますのでこれから女性のことをお話ししたいと思います。
 一人は正田淑子です。利右衛門の孫・章次郎の妹にキクという人がいましてその娘です。キクには子どもが二人おりまして正田淑子と愛子です。愛子が私の叔父の遠藤勝次郎に嫁に来ています。
■女子の力で第二維新をやれ
 正田淑子は終生独身だったのですが明治10年に佐野の今の農協の所に生まれました。
 明治34年に日本女子大学が成瀬仁蔵という教育者によって高等教育の学校として初めてできる。淑子はその第1回の入学生に25歳でなります。淑子が入ったのが英文学科で卒業者が6人。田舎町から出て行って、普通ならば家政科とか国文科に入るのでしょうが、まあどういう事情であったか英文学科へ入りました。成瀬学長は傑物でありまして、女子の教育には非常に熱意があった。卒業式に言った言葉が『明治維新は約50年前に行われたが、それは男子の力によってなされた。これから後の50年間は女子の力で第二維新をやれ。それはおまえたちの肩に掛かっているのだ。』ということを得々と諭したわけです。今までの世界は男の世界、これからは婦人(女性)の領分だ。婦人が社会の元、これからは女子の手によって世の中を開拓しなければならない。
 この校長の信念が正田淑子の人生に非常に大きく影響します。明治43年に単身渡米。大正12年には博士号をとって日本に帰って来ます。そして母校の日本女子大学の教授となる。佐野にも一人だけ教え子がいます。この間亡くなられましたが、金子醤油屋さんの富佐さんです。
 昭和12年(1937)には満州国道徳会顧問として満州に渡る。教化政策として村々を渡った。当時はそういうことが国家的、献身的な活躍だったわけですが、昭和17年に心臓麻痺で亡くなるわけです。まあ、生きていたならば戦犯だったかなあと思いますので昭和17年という時期に死んだことには複雑な思いがします。
 淑子は昭和3年にハワイで行われました汎太平洋婦人会議に出席している。婦人の代表を全国から選ぶわけですが、婦選獲得同盟の市川房枝、日本女子大学の学長の井上秀子などの人達が選ばれている。淑子は全国投票の公選で11万票とって、トップで選ばれています。
 佐野育ちで、小学校前までは佐野におりまして、それ以後は全く佐野で暮らすことは無かったが、時代を先取りした女かなと思います。