■こならの森198号■2004.10発行
表紙 「 コスモス」
C・o・n・t・e・n・t・s
■こならの森11月号■
結婚しました。………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集 「田舎教師・文学紀行」……6
JCジャーナル……………………14
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
[映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
イベント情報/協賛店マップ
■■■■■■■■■■■■■■■
【本文抜粋記事】
●純文学に帰ろう! 読書の秋スペシャル
田舎教師文学紀行
作家の秋山 駿(あきやま・しゅん)が朝日新聞に寄せている文章では、田山花袋の小説を読み返しているという。それは、純文学であり、私小説のルーツでもあるからだという。そして、金原ひとみや綿矢りさの方が、花袋よりもうまく描いている、とさえいう。
「蹴りたい背中」や「蛇にピアス」は純文学や純情、そして今の「冬ソナ」ブームに引き継がれる「純」な気持ちへの出発点でもある。
それが若い19歳20歳という感覚で書かれていながらも50歳代の人々にも共感をもたれるゆえんでもある。混沌とした、現代で見失ったかに見えたものが、再び復活してきたような気がする。「読書は、純文学に始まり、純文学に終わる。その間にはたくさんの駄作を読まなければいけない」という文芸評が思い出される。
花袋は夏目漱石とも4歳しか離れていない、小説の水明期に、暗中模索していた作家だ。それらを飛翔してきた世代とでは自ずと書き方も変わってくるのだろう。でも、その原点とも言える小説を読み返してみるのもいいかも知れない。
■文学散歩
創刊間もない頃のこならの森では、館林における田山花袋を少々取り上げているので、今回は実際に舞台となった、行田市を中心に話を進めています。
少し前、ある冊子で、田舎教師の墓という記事は見てはいたのですが、少し古くさい印象でした。それくらいにしか思っていなかったのですが、先にも紹介したように何事にもはじめがあって、私小説の先駆者という認識でみてみると、また違った感じがします。その辺が、純文学に始まり、純文学に終わるという普遍性へつながっていくのでしょうか。
■旅立ち
順路どうりに、館林の田山花袋記念館を起点にして、行田方面へ向かいました。途中、川俣事件の碑を見たりして30キロ近く寄り道。
行田市に入ってまず、モデルになった青年の墓があるという建福寺へ。最初に思っていたイメージは町外れでしたが、実際にはまんま駅前。交通量の多い道路に車を止めての強行軍です。道路側からは、これといった大きな案内板はありません。境内に隣接して幼稚園があり、何かの行事がおこなわれていて、あいさつされたりして少々テレ気味のあと墓へ向かいました。そんな、状況もあって、足早に取材、写真撮影、ところがこれがいけなかったと後から思うのですが、モデルとなった小林さんが下宿していたという旧本堂は、確認できませんでした。
ガイドマップが細かくなかったのか、また古いものだったのか、目的地までは本当に「4里」ほどかかりました。
今でも、モデルになった、小林秀三さんの墓はしっかりと守られていました。記念碑も、説明の看板もしっかりと有りました。案内板は、控えめですし、はじめて羽生駅に降り立って、墓碑を目指そうと思ったら苦労するかも知れません。ここは、駅員さんに聞く方が、いいでしょう。
それから町の中心地をすぎ、田舎教師の舞台となった、「弥勒小学校跡」へ向かいました。建福寺から車で行っても、15分は過ぎています。実際に、徒歩であるったら何時間かかったのでしょうか。四里は、今でいう約16キロ。佐野から足利くらいの距離です。
どうしてもっと近くに下宿しなかったのかとか、他の交通手段はなかったのかと、思ったりします。
舞台となった小学校は今はありませんが近くには田舎教師の像があります。またここに小学校があったという記念碑もあります。時は流れても、あたりの風景はむかしのままのようです。
「田舎教師」は自然主義文学の代表作といわれる。自然主義は人生をありのままに描くことに徹するという。だから人も風物も忠実に再現され、そうした真実がいまも心を打っのかもしれません。
■私小説、純文学のふるさと
人は一生のうちにいろいろなジャンルの本を読むのだけれど、結局はここにかえって来るといわれている純文学。
それにしても、ノスタルジーなのか、分かりませんが時を超えてこうして文学の舞台となった土地に記念碑や足跡が残っているのはうれしかったり、また文学の普遍性をかいま見たような気もします。
私の手元にある「田舎教師」の文庫本の解説には、「………というのが、このたいくつな小説の筋書」とあります。つづけて「筋もたいくつでありますが、」とあり、代表作の解説なのになんともはっきり物事をいうのだろうと感心しました。
■再び草の野に
『田舎教師』の発表から一〇年後に、やはり羽生を舞台とした小説『再び草の野に(一九一九年)』を出している。当時の東武伊勢崎線は、利根川橋の工事が遅れていたために、羽生までしか伸びていなかった。そこに暫定的におかれた終着駅、川俣の物語が「再び草の野に」だ。ゴールとラッシュのように町が興り、線路が延びると駅が廃止されて「再び草の野に」。実際に、利根川のたもとにはその廃墟があるという。
■都会教師か田舎教師か
「都会か、田舎か」実は今に通じる深い思想が当時もあったようです。モデルとなった青年も地方で教員をしながら、都会へ出ていく夢を持っていた。それとは逆に、地方へ向かう流れもあった。
小林の日記を田山花袋に紹介した建福寺の住職太田玉茗は、都会で活躍しながらも羽生に戻っているのです。
※主人公とモデルになった人物が似かよった名前なので、混同してしまいますが、主人公は林清三です。
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表紙 「 コスモス」
C・o・n・t・e・n・t・s
■こならの森11月号■
結婚しました。………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集 「田舎教師・文学紀行」……6
JCジャーナル……………………14
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
[映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
イベント情報/協賛店マップ
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【本文抜粋記事】
●純文学に帰ろう! 読書の秋スペシャル
田舎教師文学紀行
作家の秋山 駿(あきやま・しゅん)が朝日新聞に寄せている文章では、田山花袋の小説を読み返しているという。それは、純文学であり、私小説のルーツでもあるからだという。そして、金原ひとみや綿矢りさの方が、花袋よりもうまく描いている、とさえいう。
「蹴りたい背中」や「蛇にピアス」は純文学や純情、そして今の「冬ソナ」ブームに引き継がれる「純」な気持ちへの出発点でもある。
それが若い19歳20歳という感覚で書かれていながらも50歳代の人々にも共感をもたれるゆえんでもある。混沌とした、現代で見失ったかに見えたものが、再び復活してきたような気がする。「読書は、純文学に始まり、純文学に終わる。その間にはたくさんの駄作を読まなければいけない」という文芸評が思い出される。
花袋は夏目漱石とも4歳しか離れていない、小説の水明期に、暗中模索していた作家だ。それらを飛翔してきた世代とでは自ずと書き方も変わってくるのだろう。でも、その原点とも言える小説を読み返してみるのもいいかも知れない。
■文学散歩
創刊間もない頃のこならの森では、館林における田山花袋を少々取り上げているので、今回は実際に舞台となった、行田市を中心に話を進めています。
少し前、ある冊子で、田舎教師の墓という記事は見てはいたのですが、少し古くさい印象でした。それくらいにしか思っていなかったのですが、先にも紹介したように何事にもはじめがあって、私小説の先駆者という認識でみてみると、また違った感じがします。その辺が、純文学に始まり、純文学に終わるという普遍性へつながっていくのでしょうか。
■旅立ち
順路どうりに、館林の田山花袋記念館を起点にして、行田方面へ向かいました。途中、川俣事件の碑を見たりして30キロ近く寄り道。
行田市に入ってまず、モデルになった青年の墓があるという建福寺へ。最初に思っていたイメージは町外れでしたが、実際にはまんま駅前。交通量の多い道路に車を止めての強行軍です。道路側からは、これといった大きな案内板はありません。境内に隣接して幼稚園があり、何かの行事がおこなわれていて、あいさつされたりして少々テレ気味のあと墓へ向かいました。そんな、状況もあって、足早に取材、写真撮影、ところがこれがいけなかったと後から思うのですが、モデルとなった小林さんが下宿していたという旧本堂は、確認できませんでした。
ガイドマップが細かくなかったのか、また古いものだったのか、目的地までは本当に「4里」ほどかかりました。
今でも、モデルになった、小林秀三さんの墓はしっかりと守られていました。記念碑も、説明の看板もしっかりと有りました。案内板は、控えめですし、はじめて羽生駅に降り立って、墓碑を目指そうと思ったら苦労するかも知れません。ここは、駅員さんに聞く方が、いいでしょう。
それから町の中心地をすぎ、田舎教師の舞台となった、「弥勒小学校跡」へ向かいました。建福寺から車で行っても、15分は過ぎています。実際に、徒歩であるったら何時間かかったのでしょうか。四里は、今でいう約16キロ。佐野から足利くらいの距離です。
どうしてもっと近くに下宿しなかったのかとか、他の交通手段はなかったのかと、思ったりします。
舞台となった小学校は今はありませんが近くには田舎教師の像があります。またここに小学校があったという記念碑もあります。時は流れても、あたりの風景はむかしのままのようです。
「田舎教師」は自然主義文学の代表作といわれる。自然主義は人生をありのままに描くことに徹するという。だから人も風物も忠実に再現され、そうした真実がいまも心を打っのかもしれません。
■私小説、純文学のふるさと
人は一生のうちにいろいろなジャンルの本を読むのだけれど、結局はここにかえって来るといわれている純文学。
それにしても、ノスタルジーなのか、分かりませんが時を超えてこうして文学の舞台となった土地に記念碑や足跡が残っているのはうれしかったり、また文学の普遍性をかいま見たような気もします。
私の手元にある「田舎教師」の文庫本の解説には、「………というのが、このたいくつな小説の筋書」とあります。つづけて「筋もたいくつでありますが、」とあり、代表作の解説なのになんともはっきり物事をいうのだろうと感心しました。
■再び草の野に
『田舎教師』の発表から一〇年後に、やはり羽生を舞台とした小説『再び草の野に(一九一九年)』を出している。当時の東武伊勢崎線は、利根川橋の工事が遅れていたために、羽生までしか伸びていなかった。そこに暫定的におかれた終着駅、川俣の物語が「再び草の野に」だ。ゴールとラッシュのように町が興り、線路が延びると駅が廃止されて「再び草の野に」。実際に、利根川のたもとにはその廃墟があるという。
■都会教師か田舎教師か
「都会か、田舎か」実は今に通じる深い思想が当時もあったようです。モデルとなった青年も地方で教員をしながら、都会へ出ていく夢を持っていた。それとは逆に、地方へ向かう流れもあった。
小林の日記を田山花袋に紹介した建福寺の住職太田玉茗は、都会で活躍しながらも羽生に戻っているのです。
※主人公とモデルになった人物が似かよった名前なので、混同してしまいますが、主人公は林清三です。
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