本日は、チェーホフの中篇「退屈な話ーある老人の手記」でした。
手記ということをことわっただけあり、主人公ニコライが好き勝手なことを言ってもいいという設定に衝撃を受けました。彼が、若かりし頃と現在のギャップ、現在の自分の状況を語っても矛盾するということがチェーホフの失策ではなく、手記だからありうることだというのが、言語芸術の醍醐味のように思いました。
また、妻や娘の変わりように関しては何があってそうなったのかは説明なく、自分が後見人になったカーチャだけ変化の経緯が描かれているというコントラストは見事です。
ただ、これは高田映介先生のご説明であって、自分で発見できたらどんなに素晴らしいでしょう。
前回もいいましたが、チェーホフという作家は地味であまり小説に面白味を感じなかったのですが、高田先生の手にかかると魔法のように面白い。
半期だけの予定が、後期も とることにしました。いつも出掛けるときは体が思いのですが、講義を聴くと必死でメモり、あとでも反芻できるようにしたくなる。
さて、「退屈な話」の続きですが、カーチャについて描かれたところは、まさに老人の若かりし頃と現在の衰え、カーチャの求める、子供の時には全肯定してもらったものが、なぜか老いたニコライはしてくれない。そのもどかしさが、魂に食い込んできました。
おそらく自分だけで読んだら、まさに退屈な話だったのだろうけれど、先生の講義によって、忘れられない一篇になりました。
先生、ありがとうございます。
来月は「無名氏の話」です。
自分なりに読んで、発見もしておきたいという意欲が湧いております。
先生の話だけ聞いて有り難がるだけではもったいない。
文学の面白さを骨の髄まで感じた次第です。