勉強会、やっています。
「ドストエフスキーの詩学」はとても難解でありますが、慣れてきたのか、少しは易しくなったのか、読みやすく感じた我々でした。
しかし、なぞは深まります。
第1章で、「ポリフォニー」こそドストエフスキーの真骨頂だったのですが、それらを我々なりに解釈すると、作者が意図的に自分の言いたいことを登場人物に語らせるのではなくて、造型した登場人物自体が語り出すということでした。
ところが、友人が持ってきてくれた「百姓マレイ」という超短編では、語り手とマレイとがでで来るだけで、これをどうボリフォニーと読めばいいのやら???
でも、決してドストエフスキーが語っているのではなく、造型した語り手が語っている点で、ポリフォニーなのかもしれません。
文学者の手引きもなく、こうやって?にぶつかりながら、また進んでいきます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます