修学旅行中、某先生が民泊を実施した「東村(ひがしそん)」周辺を散策中、川に浮いていた不思議な形をした種子を発見、持って帰って「ブログのネタに」と見せてくれた。川に浮くぐらいの軽さだが、これが成長するとびっくりするような樹木になるという。
沖縄のガイドの中には「これがウルトラマンのモデルになった」と説明する人もいるそうで、実際、2年生が民泊をした沖縄北部「ヤンバル」の「国頭郡(くにがみぐん)」の子供たちは、この樹木を「ウルトラマンの木」と呼んでいる。
その樹木の名は「サキシマスオウノキ(先島蘇芳木)」。2年生の中には散策の途中で見た生徒もいるかもしれない。
アフリカ東岸や東南アジア、ポリネシア、日本の奄美大島以南に生息する常緑高木で、写真のような「板根(ばんこん)」が特徴だ。以下その樹木の近くにあった掲示板より。
東村指定天然記念物 サキシマスオウノキ 東村字(あざ)川田下福地
サキシマスオウノキは、アオギリ科に属し、奄美大島以南の亜熱帯から熱帯にかけて生えている木で、板のような根(板根)をつくることで有名です。
ここのサキシマスオウノキは、高さ18m、胸高周囲約2.9mで、地上から1m余りのところから板根を出しています。12本の板根はみごとな流線型をなし、沖縄本島では最も発達した板根をみせています。
サキシマスオウノキはマングローブの後方や河辺などによくみられます。この地域にも、そばに小さな水流があり、いつも湿っています。ここにサキシマスオウノキが生えていることから、かつてはここも福地川の一部であったと思われます。
県内でも数少ない貴重な木です。みんなで大切にしましょう。
2年生が修学旅行へ行く前日、PTAの学年委員会で現3年生の修学旅行の写真を動画にして見てもらったが、沖縄は音階や「ウチナーグチ」だけでなく、こういった「植物」も、「本土」(九州・四国・本州・北海道など)と異なる独特なものがある。さすが「本土」より温暖な「亜熱帯」(社会科的な分類では「亜熱帯」は存在しないが・・・)というべきか。
その「亜熱帯」の「沖縄」より「大阪」は夏の平均気温が高いって知っているか?
ハイビスカス
ブーゲンビリア
カンヒザクラ(寒緋桜)
(追記)
沖縄の人が「これがウルトラマンのモデルになった」と言うのは、種子の見た目だけでなく別な理由がある。
あと2年で定年の担当者がそれはそれは可愛らしかった小学校低学年の頃、1966(昭和41)年7月から翌年4月に放映された「ウルトラマン」は、子供たちの熱狂的な支持を受けたヒーローだった。その熱狂の度合いは、現在のどのアニメヒーローよりも凄まじかったと断言できる。
「録画」という概念のなかった当時、日曜日の夜に放映される「ウルトラマン」を見逃したら、翌日は友達の話の輪に入ることができず悲しい思いをした。
沖縄が日本に復帰する1972(昭和47)年より前に登場した「ウルトラマン」の生みの親が、沖縄出身の「金城哲夫(きんじょうてつお)」であることを知る人は今は少なくなっただろう。
金城哲夫は1938(昭和13)年に沖縄県南部の島尻郡で生まれた。
県民の4人に1人が死亡した「沖縄戦」当時、彼は7歳ぐらいで小学校1・2年生ぐらいか。当然、平穏な小学校生活などなく、激戦の中で今の自分たちが想像もできないようなことを経験したのかもしれない。
その後のアメリカによる占領政策や混乱の中で、彼がどんな青春時代を送ったかは分からない。とにかく、那覇高校の受験に失敗した彼は、当時の沖縄の中学3年生としては珍しかっただろう、なんと東京の玉川学園高等部(私立)に入学する。
その後、進学した玉川大学文学部で脚本に興味を持ち、1963(昭和38)年に恩師の伝手(つて)で「円谷プロダクション」に入社。才能を開花させた彼は獅子奮迅の活躍をみせ、50歳代後半以上なら誰でも知っている「ウルトラQ」「ウルトラマン」「快獣ブースカ」「ウルトラセブン」などの人気番組の企画立案から脚本も手掛けた。
そのシリーズの中で、「チブル星人」(沖縄では「チブル=頭」)や「ジーラス」(=次郎おじさん)など「沖縄」を連想させる怪獣が登場するが、なんといっても「ウルトラセブン」の第42話「ノンマルトの使者」は、今もなおファンの間で語り継がれる異色作だ。
リアルタイムで「ノルマントの使者」を見た小学3年生の自分は、最後に悪役の怪獣をボコボコにするウルトラセブンにいつもは拍手を送るのだが、この時ばかりは幼心に「なんか可哀想やな」と複雑な気持ちになったことを覚えている。
大昔、人類に追われた海底人が、人類の海底開発に抗議して「人間こそ侵略者」と告発するが、最後に地球防衛軍に滅ぼされる。「正義とはなんだ」という割り切れない気持ちが残る作品を通じて、金城が「マイノリティーへの視線も大切なんだよ」「今の沖縄のことも忘れないでほしい」というメッセージを込めたとする意見もある。
その後、円谷プロの経営悪化で退社した彼は、沖縄に帰ってラジオや脚本家として活動するが、1976(昭和51)年、自宅で泥酔・転落して37歳で亡くなった。
「サキシマスオウノキ」の種子を「ウルトラマンのモデル」と説明するガイドさんの気持ちの中には、大ヒットしたシリーズの脚本に「沖縄」をひそませた金城哲夫なら、きっとあのウルトラマンの顔も郷土に根付く「サキシマスオウノキ」の種子を参考にしたに違いない、という思いがあるのかもしれない。
沖縄のガイドの中には「これがウルトラマンのモデルになった」と説明する人もいるそうで、実際、2年生が民泊をした沖縄北部「ヤンバル」の「国頭郡(くにがみぐん)」の子供たちは、この樹木を「ウルトラマンの木」と呼んでいる。
その樹木の名は「サキシマスオウノキ(先島蘇芳木)」。2年生の中には散策の途中で見た生徒もいるかもしれない。
アフリカ東岸や東南アジア、ポリネシア、日本の奄美大島以南に生息する常緑高木で、写真のような「板根(ばんこん)」が特徴だ。以下その樹木の近くにあった掲示板より。
東村指定天然記念物 サキシマスオウノキ 東村字(あざ)川田下福地
サキシマスオウノキは、アオギリ科に属し、奄美大島以南の亜熱帯から熱帯にかけて生えている木で、板のような根(板根)をつくることで有名です。
ここのサキシマスオウノキは、高さ18m、胸高周囲約2.9mで、地上から1m余りのところから板根を出しています。12本の板根はみごとな流線型をなし、沖縄本島では最も発達した板根をみせています。
サキシマスオウノキはマングローブの後方や河辺などによくみられます。この地域にも、そばに小さな水流があり、いつも湿っています。ここにサキシマスオウノキが生えていることから、かつてはここも福地川の一部であったと思われます。
県内でも数少ない貴重な木です。みんなで大切にしましょう。
2年生が修学旅行へ行く前日、PTAの学年委員会で現3年生の修学旅行の写真を動画にして見てもらったが、沖縄は音階や「ウチナーグチ」だけでなく、こういった「植物」も、「本土」(九州・四国・本州・北海道など)と異なる独特なものがある。さすが「本土」より温暖な「亜熱帯」(社会科的な分類では「亜熱帯」は存在しないが・・・)というべきか。
その「亜熱帯」の「沖縄」より「大阪」は夏の平均気温が高いって知っているか?
ハイビスカス
ブーゲンビリア
カンヒザクラ(寒緋桜)
(追記)
沖縄の人が「これがウルトラマンのモデルになった」と言うのは、種子の見た目だけでなく別な理由がある。
あと2年で定年の担当者がそれはそれは可愛らしかった小学校低学年の頃、1966(昭和41)年7月から翌年4月に放映された「ウルトラマン」は、子供たちの熱狂的な支持を受けたヒーローだった。その熱狂の度合いは、現在のどのアニメヒーローよりも凄まじかったと断言できる。
「録画」という概念のなかった当時、日曜日の夜に放映される「ウルトラマン」を見逃したら、翌日は友達の話の輪に入ることができず悲しい思いをした。
沖縄が日本に復帰する1972(昭和47)年より前に登場した「ウルトラマン」の生みの親が、沖縄出身の「金城哲夫(きんじょうてつお)」であることを知る人は今は少なくなっただろう。
金城哲夫は1938(昭和13)年に沖縄県南部の島尻郡で生まれた。
県民の4人に1人が死亡した「沖縄戦」当時、彼は7歳ぐらいで小学校1・2年生ぐらいか。当然、平穏な小学校生活などなく、激戦の中で今の自分たちが想像もできないようなことを経験したのかもしれない。
その後のアメリカによる占領政策や混乱の中で、彼がどんな青春時代を送ったかは分からない。とにかく、那覇高校の受験に失敗した彼は、当時の沖縄の中学3年生としては珍しかっただろう、なんと東京の玉川学園高等部(私立)に入学する。
その後、進学した玉川大学文学部で脚本に興味を持ち、1963(昭和38)年に恩師の伝手(つて)で「円谷プロダクション」に入社。才能を開花させた彼は獅子奮迅の活躍をみせ、50歳代後半以上なら誰でも知っている「ウルトラQ」「ウルトラマン」「快獣ブースカ」「ウルトラセブン」などの人気番組の企画立案から脚本も手掛けた。
そのシリーズの中で、「チブル星人」(沖縄では「チブル=頭」)や「ジーラス」(=次郎おじさん)など「沖縄」を連想させる怪獣が登場するが、なんといっても「ウルトラセブン」の第42話「ノンマルトの使者」は、今もなおファンの間で語り継がれる異色作だ。
リアルタイムで「ノルマントの使者」を見た小学3年生の自分は、最後に悪役の怪獣をボコボコにするウルトラセブンにいつもは拍手を送るのだが、この時ばかりは幼心に「なんか可哀想やな」と複雑な気持ちになったことを覚えている。
大昔、人類に追われた海底人が、人類の海底開発に抗議して「人間こそ侵略者」と告発するが、最後に地球防衛軍に滅ぼされる。「正義とはなんだ」という割り切れない気持ちが残る作品を通じて、金城が「マイノリティーへの視線も大切なんだよ」「今の沖縄のことも忘れないでほしい」というメッセージを込めたとする意見もある。
その後、円谷プロの経営悪化で退社した彼は、沖縄に帰ってラジオや脚本家として活動するが、1976(昭和51)年、自宅で泥酔・転落して37歳で亡くなった。
「サキシマスオウノキ」の種子を「ウルトラマンのモデル」と説明するガイドさんの気持ちの中には、大ヒットしたシリーズの脚本に「沖縄」をひそませた金城哲夫なら、きっとあのウルトラマンの顔も郷土に根付く「サキシマスオウノキ」の種子を参考にしたに違いない、という思いがあるのかもしれない。