NINAの物語 Ⅱ

思いついたままに物語を書いています

季節の花も載せていきたいと思っています。

愛の行方16. 未練

2010-03-24 16:23:46 | 愛の行方
職場の食堂で麻衣が昼食をとっていると、良江が隣の席にやってきて言った。
「修司さんお見合いするそうよ。貴女のことずっと諦められなかったようだけど、やっと決心がついたみたいだわ。」
麻衣の胸が騒ぎだした。
「それで修司結婚するの?」
「さあ。」

その日は仕事を早めに片付けて、定時きっかりに銀行を出た。
行った先は修司の勤める役所前の道路であった。
官庁通りのケヤキ並木はすでに裸木になっていて、散り残った黄色い葉が北風にヒラヒラ揺れていた。
歩道は勤め帰りの人達が足早に家路についていて混雑していた。
役所の玄関はもう扉が閉まっているようだ。
麻衣は裏に回り、駐車場に続く狭い道路を行きつ戻りつしながら、庁舎の出入口を見ていた。
退庁する人達が数人ずつ塊って出てくるのが見える。だんだんと出てくる人もまばらになってきたが、修司の姿を見つけることはできなかった。

ふと我にかえった麻衣は、
<私は一体ここで何をしているのだろう。今さら修司に会ってどうしようとしているのだろう。>
彼が結婚するかもしれないと知って動揺し、無意識にこんな行動を取っている自分が恥ずかしく惨めだった。

和也にとって自分は特別な女だと思い込んでいたにも拘わらず、その関係はあまりにも軽い関係でしかなかったと気付いて以来、修司を想う気持ちが日に日に増していた。
しかしこの切ない想いを誰にも打ち明けることが出来なくて、心の中にしまい込んでいた。
あんな別れ方をした故に、修司を紹介してくれた良江達にはどうしても言い出せなく、また修司に直接電話を掛けることさえ躊躇われた。

次の日出勤すると預金課の課長が麻衣を呼んだ。
課長は40歳を少し過ぎていて、脂ぎった顔で眼鏡越しに麻衣の顔を見た。
「今日、帰りにちょっと紹介したい人がいるので付き合ってくれないかな。」
と笑みを浮かべながら言った。
「でも、わたし・・」とまでは言ったが、はっきりと断る理由が見つからず、付いて行くことになった。

愛の行方17. 思いがけないこと

2010-03-24 16:21:52 | 愛の行方
麻衣が課長に連れられて行ったところは、公園横の赤いレンガのようなタイルの壁に蔦が絡まった”喫茶&軽食”の店だった。
中に入ると薄暗く、テーブルの横に暖色系の明かりが灯されて、観葉植物が隣との境をつくっている落ち着く空間だった。
課長に勧められるまま彼の前の席に着いた。
ほどなく長身の若い青年が入ってきて、課長が「やあ。」と手を上げて呼んだ。
その青年は課長の隣に座り、麻衣と向い合せになった。
課長が青年と麻衣をそれぞれに紹介した。
それによると、この青年は古川良といって課長の従兄弟で31歳だそうだ。
K大学を卒業して、今はT化学系会社の研究開発にあたっているという。
落ち着いていて、人柄も誠実そうで好感の持てる男性であった。
コーヒーを飲みながら、暫く取り止めの無い話をして3人は店を出た。
「じゃあ、僕はこの辺で。」と言って青年は別れて行った。

駅前のバス停までと、麻衣と課長は二人並んで公園の中の道を歩いていた。
そのとき、突然課長が麻衣の体を抱きよせキスをしようとした。
驚いた麻衣は必死でもがき、課長を突き放した。課長の眼鏡が横の植木の中に飛んだ。
一目散に逃げる麻衣の後ろから、課長の声が聞こえてきた。
「こんなことで驚くような初でもないだろう。」
大通りへ出ても麻衣は走っていた。
黒い車が麻衣の横に止まり、中から声がした。
「麻衣。誰が走っているのかと思ったら麻衣じゃないか。
どうしたんだ。送って行こうか。」
和也だ。
「今誰かに付けられているような気がしたので、つい走ってしまったの。
大丈夫よ。バスで帰るから。」
「それじゃ気を付けてね。」と言うと和也は車を発車させて去ってしまった。
この大通り沿いのそこから500m程先の所に、和也の勤める会社はあり、帰宅するところだったようだ。
まだ胸がドキドキしていて、怒りが込み上げてきた。
和也に見せた顔はきっと恐怖と怒りで、引きつっていたであろう。
幸いに街灯の明かりでは、暗くて気付かれずに済んだとホッと胸をなで下ろした。

愛の行方18. つらい職場

2010-03-24 16:20:11 | 愛の行方
翌日、課長は何食わぬ顔で仕事をしていた。
眼鏡を見たら、フレームの色が変わっていた。
麻衣は課長の顔を見るのも汚らわしく感じ、この男にそんなにまで見下されていたのかと悔しかった。
部長に昨夜のセクハラを相談しようかとも思ったが、自分にも気の緩みがあったことは否めなく、また話すことが恥ずかしくもあった。

トイレに立ったとき、課長に出くわしてしまった。
麻衣は背筋に冷たいものが走った。
「昨日の古川良だけど、昨夜遅くに電話があって、君と付き合いたいと言ってきた。君は彼のことどう思う?。」
課長は昨夜何もなかったかのように平然とした顔で訊ねた。
「ごめんなさい。私考えるところがあって、申し訳ありませんが断っていただけますか。」
麻衣は即答した。
古川良という青年には大変好感は持てたが、この課長の世話で、しかも親戚であることがどうにも許せない。
書類を課長のところに持って行くのも気が重く、目を逸らしたままで机の上に置くのであった。

それ以後、課長は何かにつけて麻衣を叱責するようになった。
字が小さいだの、話が分かり難い、笑顔が良くない、歩く音がどうの等々よくこれだけ文句を付けることがあるものだと、麻衣自身も呆れるほどだった。
「課長と何かあったの?」と心配してくれる同僚もいた。

この職場もこれまでだと思い始め、よく周りを見てみると、独身女性の中では最年長になっていた。
ここを退職しても仕事がすぐ見つかるとも限らない。
今は兄夫婦と同居しているが、いつまでも世話になっている訳にもいかなく、そろそろ自立して暮らそうかと考えていた矢先のことで、職を失うことは不安で退職する勇気が出なかった。
縁談も最近は少なくなってきたが、まだ時々世話好きの人が持ってくることもある。
お見合いをして、適当に結婚でもしようかなどと思ったりもする。

麻衣はこれまで課長には遠慮していたが、言いたいことははっきり発言するようになっていた。
「だから何時までも独身でいる女は困るんだよ。」
課長が側の人に小声で陰口を言っているのが聞こえた。
<なによ! この職場は皆早く結婚しているけれど、他の支店じゃ40歳近くまで独身でいる女性は大勢いるのに。男性だって独身者は多いじゃないの。独身でいることがどうして悪いの。>と大声で叫んでみたい衝動に襲われたが、胸の内に押さえた。

愛の行方19. 与える愛は?

2010-03-24 16:18:49 | 愛の行方
麻衣はこの頃「愛」について考えるようになった。

親から受ける愛
姉兄から受ける愛
自分の親や姉兄に対する愛
肉親の愛は生きている限り不滅のものと、麻衣の場合は感じている。

父母の場合は夫婦としてどうであっただろう。
父と母は態度や口には出さなかったが、互いに想い合っていたのではないかと、今では思う。
子どもの頃は父が母に対して発する言葉を冷たいと受け止めていたが、大人になり、男女の愛を幾つか経験した今、思い返せば父の冷たいと思った言葉も母には自分の存在を認めてくれる嬉しい言葉であったのかもしれない。
夫の死に際して涙を見せなかった母は、子どもたちのいない所でどんなに涙を流したことであろうと、母の悲しみを思い遣ることが出来るようになり、子どもたちに不安を抱かせないために、人前では涙を堪えていたであろう母を愛おしく想えるのであった。

自分の異性との愛はどうであろう。
高校の同級生克実が、自分のことを愛してくれていることは分かっていたにも拘わらず、気付かない振りをして、ただの友達だと言って遊ぶときだけ利用していた。
真剣に愛してくれた修司に対しては、前の彼女につまらない対抗意識を持って別れ、若い和也と関係を持って、その愛が成就しないと分かると、すぐ修司の方に心が戻っていく、自己本位の移り気な自分が軽軽な人間のように思われる。

自分は彼らに対して、愛を受けるのみに執着して、果たして愛を与えていたであろうか。

険悪な状態になっている課長との間も、彼は最初、麻衣に親戚の誠実な好青年を紹介してくれた親切な人だったではないか。
公園の人気のない道で魔が差したのであろう。
あの行為は許せないが、その後の自分はただ彼を忌み嫌う反抗的な態度を取っていただけではないか。
課長と話し合い、彼に反省を促して平穏に和解することも出来たのではないか。

今、仕事でも恋愛でも八方ふさがりの泥沼状態に陥っているのは、自分が招いた結果なのかと麻衣は思い悩む日々であった。

愛の行方20. 虚しい日々 

2010-03-24 16:16:55 | 愛の行方
年が明け七草も終わった頃だった。
良江が仕事を終えて帰ろうとする麻衣を引き留めて、言いにくそうに話した。
「修司さん、2月の初めの日曜日に結婚するそうよ。
昨日招待状が送られてきたの。」
「そう、おめでたいわね。幸せになってほしいわ。」
麻衣は顔では平静を装っていたが、胸の動悸が始まって止まらない。
「お疲れ様!」
と皆にわざと大きな声で元気よく言って、外に出た途端、涙が溢れ出て胸を締め付けられるような悲しみで、体中から力が抜けていくようだった。
吹いている風がより冷たく感じられ、体を芯から冷やしているようだ。
素直に自分の気持ちを修司に伝えられなかった後悔が、麻衣の心から涙を出していた。
彼のことはもう諦めなければ、と心に言い聞かせ、湧き出す感情を必死で打ち消していた。
バス停に向かったが、涙の止まらない顔を他人に見られるのも恥ずかしく、バスに乗り込む訳にもいかないので、暗い通りを選んで歩き涙の乾くのを待った。

その後課長との間は、麻衣が反抗的な態度を取らなくなったので一応平穏だった。
しかし全てが虚しく感じられ、涙を流すことはなくなったが憂鬱な毎日であった。

2月に入った月曜日、「昨日は修司の結婚式だったんだ。」と仕事をしながら、机の前の小さなカレンダーを時々ぼんやり見ていた。
そんな時、ケイタイの着信を知らせる震動が伝わってきた。
席をはずして廊下でケイタイを耳に当てると、
「お母さんが入院したのよ。」
と電話の向こうに息せき切った義姉の声がした。
「えっ、どうして? 今何処から?」
麻衣も驚いて訊ねた。
「今朝、お母さんがなかなか起きて来ないものだから、部屋へ見に行ったら、口が少しろれつが回らなくて、体も動かせないみたいだったので、すぐに救急車を呼んだのよ。今はT総合病院にいるの。」
「じゃあ、わたし早退してすぐにそっちへ行くわね。」
麻衣は早退願をだして病院に向かった。

愛の行方21. 母の病気

2010-03-24 16:15:07 | 愛の行方
麻衣の向かった病院は、市街地から外れた田園の中に建っていた。
建て替えられて、まだ一年も経っていない美しい建物だ。
玄関を入ると広いスペースがあり、その中に5m四方ほどの庭があって丈の高い木が植えられていた。
庭の周りがガラス張りになっているので、天井の照明だけでなく日光が入ってくるのでそのスペース全体が明るく感じられた。
手前に長椅子が数脚並べられ、医療費の精算を待っているのか数人が掛けて待っていた。その奥にまるでホテルのロビーの受付のようなカウンターが設けられていて、何人かの若い女性達が立って応対をしていた。
その一人に麻衣は母美佐の部屋を訊ねた。
「3階のE病棟305号室です。右手のエレベーターをお使いください。」
その女性は愛想よく教えてくれた。
3階に上がると医師や看護士が控えるオープンな部屋があり、そこも廊下に面したところはカウンターになっていた。
E病棟の305号室を訊ねると、そのすぐ近くにあった。
部屋のドアを開けると、兄と義姉がベッドの横の椅子に掛けていて、母は点滴の管を手の甲に繋がれて眠っていた。
兄が麻衣に言った。
「先ほどMRIやいろいろと検査をしてもらって、脳梗塞ということだ。早く病院に連れてきたので良かった。今、血の塊を溶かす薬を点滴してもらっているので、心配しなくても良い。」
とは言っているが、兄の顔は如何にも心配で堪らなさそうだ。
3人で美佐の傍にいて様子を見守っていた。
その間にも医師や看護士が何度も出入りをしていた。
眠っている母の顔は病気のせいか口が少しゆがみ、還暦を少し過ぎたばかりなのに深い皺が刻まれていて、早くに夫に死に分かれ、長年苦労をしてきた跡が見て取れた。
今も心配をかけている麻衣は、母に申し訳ない気持ちでいっぱいだっ

愛の行方..22 リハビリ

2010-03-24 16:06:20 | 愛の行方
 翌日からは結婚している麻衣の姉が来て、義姉と交代に美佐に付添うことになった。
入院して4日目に姉と交代のため、麻衣は勤めを休んで病院へ行った。
ベッドの上の美佐は白衣を着た若い女性に寝たままの姿で、手首や足首をを回してもらったり、膝を立てたりしてもらっていた。
その女性が部屋から出て行って、麻衣は姉に訊いた。
「何をしてもらっていたの?」
「リハビリよ。昨日から少し体を動かす訓練が始まっているのよ。」
「そんなに早くから?」
「早くからやった方が回復が早いんだって。」
美佐が口を少し歪めながら、
「みんなに迷惑をかけてごめんね。」
と済まなさそうにはっきりしない口調でいった。
「何言っているの。今はお母さんの休養のときよ。ずっと働きづめだったものね。」
姉が母を慰めている。

姉が帰って、麻衣が母美佐の傍に付添うことになった。
何もすることはなかったが、母が心細くないように昼間は誰かが来て傍に付いていることにしていた。
昼食の時間になって、例の白衣の女性が現れ、電動ベッドを起こして美佐の体を起き上がらせた。
そしてベッドの食台を引き寄せ、その上に食事の載ったトレイを置き、美佐に箸を持たせた。
美佐は右半身が麻痺しているので、左手で箸を持ち食べようとするが、上手く摘むことも口に運ぶことも出来なかった。
麻衣は見ていても歯がゆい思いがした。
「右がダメだと左も言うことを利いてくれないみたい。」
と美佐は照れ臭そうに言って苦笑いをした。

それからの美佐は毎日リハビリに精を出した。
発病して、早い時期の治療とリハビリが良かったのか、徐々に機能を回復をしてきた。
何時もの若い白衣の女性が、「そうそう、よくできましたね。よく頑張りました。」
と、まるで幼児に言うように美佐を励まし、ベッドから美佐を下ろし歩かせている。美佐は褒められて嬉しそうな顔をして、そろりそろりと歩く練習をしている。
リハビリが終わって、その女性が部屋から出て行ったので麻衣は美佐に訊いた。
「あの人は看護士さんなの?」
「作業療法士さんよ。本当によくしてくださるわ。あの人のお陰でこんなに良くしてもらえて感謝しているのよ。」
美佐が少しろれつの回らない口調で答えた。
「作業療法士?そんな職業があるんだ。」
初めて聞く職業だ。

病院からの帰り、麻衣は「作業療法士」という言葉を何度も繰り返し声に出していた。
母が辛いであろうリハビリをあれほど嬉しそうにして頑張り、感謝していた職業とは一体どんなものであろうと調べてみたくなった。

愛の行方23. リハビリに関わる人

2010-03-24 16:04:38 | 愛の行方
美佐が入院して2か月余り過ぎた。
街は新緑が美しくケヤキやイチョウの樹を覆い、歩道に涼しい影を落としていた。
ゴールデンウィークも間近のある日、麻衣は何時ものように美佐のいる病院を訪れた。
部屋に美佐がいないのでリハビリ室を覗いてみた。
何人かの患者がいて、平行棒の間をそろりそろりと歩いていたり、滑車に付いた紐を引っ張っていたり、肩に赤い光の出る電気を当ててもらっていたり、脚に器具を装着してもらっている人達がいた。
美佐はと見ると、椅子に掛けて白衣を着た男性に右側の肩や腕をマッサージしてもらっていた。
麻衣は部屋へ戻り、洗濯物を整理しながらリハビリが終わるのを待った。

暫くすると歩行器を押しながら、美佐が一人で部屋へ戻ってきた。
「お母さん、随分良くなったわね。よく頑張ったものね。」
「ええ、凄い回復力でしょう。もうすぐ一人で歩けそうよ。」
美佐はまだ少しぎこちない口調で、自慢げに笑顔で答えた。
「今、リハビリ室でマッサージをしてくれていた人、いつもの女性と違うわね。」
「ああ、あの方は理学療法士さんで、あの方にも何時もお世話になっているのよ。」
麻衣の問に美佐は答えた。
「へえ、理学療法士さんね。」
この職業は以前から聞いたことがあった。
「あのリハビリ室にもいろんな資格を持った人がいるのね。
去年お婆ちゃんのお見舞いに、お母さんと老人ホームへ行ったとき、張り絵や折り紙を教えていた人がいたでしょう。
あの人も作業療法士さんなんだって、この前伯父さんが言ってたわ。」
麻衣はだんだんリハビリに関わる人達に興味を持ち始めた。

美佐の汚れた衣類を入れた紙袋を持って、麻衣はエレベータの前で扉の開くのを待っていた。
「麻衣じゃないか。」
突然背後から声がした。
振り向くと高校の同級生克実が、ポロシャツの普段着姿で立っていた。
「どうしたの。こんな所で。」
と驚いて訊ねると、
「麻衣こそどうして、ここにいるんだ。」
エレベーターの扉が開いたので中に乗り、1階のロビーの長椅子に二人は掛けた。
麻衣が母の病気の顛末を話した。
克実の方は、彼の母が家の階段を踏み外し、右足を骨折して昨日入院したとのことだった。
「明日は金曜日だし、もう一日休暇を取っているんだ。
明日、麻衣の仕事が終わったら会わないか?」

翌日、仕事を終えた麻衣は約束の喫茶店へ向かった。

愛の行方.24 決心

2010-03-24 16:00:49 | 愛の行方
そこは病院近くの、白い壁に尖った屋根のある瀟洒な建物で、中に入ると克実が既にコーヒーを飲みながら待っていた。
向かいの席に着いて麻衣もコーヒーを注文した。
麻衣が先に口を開いた。
「私、今の勤め辞めようと思っているの。」
「辞めて結婚するの?」
克実は大きな目を見開いて麻衣を見た。
「うーうん。違うのよ。」
麻衣は笑いながら首を横に振った。
「実は私、やっと自分でやりたいと思えることを見つけの。それで勤めを辞めてその勉強をしたいの。
今頃からなんだけど、あの時やっておけば良かった、なんて後悔だけはしたくないのよ。」
「それで、なんの勉強?」
克実は怪訝そうな表情で訊ねた。
「作業療法士よ。」
「作業療法士?」
おうむ返しに彼は言った。
「私も母や祖母が入院や老人ホームに入って、そんな職業があることを初めて知ったのよ。」
心や体に障害を持っている人に、身の回りのことがスムーズにできるようにリハビリの手助けをする仕事なの。
運動機能の回復とか、手先がうまく使えるようにするとか、そんな仕事みたい。」
「ふ~ん。遣り甲斐のある仕事のようだけど、その資格を取ったら病院で働けるの?」
「資格が取れたらだけどね。
病院とか老人ホーム、保健センターなんかね。
それで先ず、専門学校に入ろうと思っているのよ。
学費も今まで働いて貯めてきたものを使うつもりなの。
これから受験の勉強をしなくては。」
「あ~あ、今日俺は麻衣にプロポーズをしようと思って来たんだけど、この様子じゃダメだな。
だけど麻衣がこれから勉強をして資格を取るのなら応援するよ。
学生でも落ち着いたら結婚出来るかもしれないしね。」
「ありがとう。」
麻衣は克実の優しさが嬉しかった。
「俺も今、実家から離れて暮らしているんで、いづれ両親も歳を取ってくるし、こちらの支社に移れるように転勤願を出しているところなんだ。」

克実が傍にいてくれたらどんなに心強いだろうと麻衣は思った。
しかし今、自分は男性のことは忘れて自分自身の道を歩もうと決心したところだ。
彼を失いたくはないが、もし待ちきれなくて愛想を尽かされたとしても、麻衣には目標を持って生きていける自信が付いていた。

                   完