くるみの世界

金でやっていく世の中や、あいさつが正しいとされていることは間違っているということを主張したいです。

脱あいさつ あいさつは正しくない17

2022年10月24日 | 脱あいさつ

目次
第1章から第9章へのリンク
第10章から第12章へのリンク
第13章から第20章へのリンク
第21章から第23章へのリンク
第24章へのリンク
第25章から第28章へのリンク
第29章から第37章へのリンク
第38章から第47章へのリンク
第48章から第52章へのリンク
第53章から第56章へのリンク
第57章から第59章へのリンク
第60章から第67章へのリンク
第68章から第75章へのリンク
第76章から第81章へのリンク
第82章から第86章へのリンク
第87章から第93章へのリンク
94.あいさつの信仰とコロナ関連のことについての信仰は似ている
95.あいさつという同調圧力
96.みんな心の盲人、みんな貧しい人で情報貧乏で人脈貧乏など
97.あいさつを初めにした人が王様、女王様、殿様の様になっている
98.叔父の言ったことと天皇家とあいさつのことなど
99.性的なことや暴力とあいさつ

 

94.あいさつの信仰とコロナ関連のことについての信仰は似ている

 

2020年にコロナウイルスのことがメディアで取り上げられだして、外でマスクをつける人がたくさん出てきた。
一見表面上は口元にマスクを付けている点では同じような感じだが、マスクを付けている理由、目的が同じなわけがない。
江戸時代の権力者はキリスト教に禁教令を出していて、キリスト教徒が殺されていたので、殺されるわけにはいかないからキリスト教信者の人は自分の信仰を隠す人もいて、その人たちのことが隠れキリシタンなどと呼ばれているが、コロナのことでマスクを付けている人の中には、マスクを付けなくてもいいと思っていながら、マスクを付けないことで誰かから不満を言われたり、店への入店拒否や乗車拒否されたら嫌だからなどの理由で仕方なくマスクを付けている人もいるだろう。
一方でコロナに感染しないためにマスクを付けている人もいる。

政治家の麻生さんとかが口元に付けていた透明なシールドマスクは、
マスクを付けていてもシールドマスクだとマスクと顔の間が離れているので、そのマスクを付けている人がコロナに感染している人だったらシールドマスクでは感染するかもしれないと思い嫌がる人もいるだろう。
マスクを付けている時に鼻が出ている人のことをおかしいと思っていない人が、少数派のマスクを付けていない人やシールドマスク付けている人のことはおかしいと思ったりして変な目で見る人もいるだろう。
コロナについても、コロナウイルス感染防止するための信仰も人によって違い、自分が信じたいことだけ信じているだけで、あいさつやそれ以外の色んなことでも同じことだ。
あいさつしない人に不満を持ったり、ダメ人間と思ったりして見下している人も、ほとんどの人にあいさつしなかったり、好きな人があいさつ返さないことは許したりなどして、自分独自のあいさつのルール(決まり)を作って、おかしな信仰を持っている。

私が自分が住んでいる近所や近所以外の住宅街を通っている時に歩いていたり自転車に乗っている人のほとんどはマスクを付けていない。
スーパーやホームセンターに行くとマスクを付けている人の方が多かった。
住宅街で小さい子どもを連れた親らしき人が、走っている一人の若者がこの人たちの数メートル横を通り過ぎる時に、あごに付けていたマスクを上に上げて口元をマスクで覆っていた。
私が標高が低い山に登った時、山の上の方には公園があって、そこに若者2人がいて、私がこの人達から数メートル離れた所に来た時に、
一人の若者があごに付けていたマスクで口元を覆ったのだ。
人と一緒にいても家族や友人、恋人はコロナに感染していないと信じている人が多いだろうからマスクを付けずに、他の人が来たらマスクを付ける人もいるだろう。

スーパーで大人1人と子ども2人の3人組が私の近くにいたのだが、親らしき1人の大人は口と鼻をマスクで覆ってショッピングカートを押していて、
ショッピングカートの下にいた小さい子どもはマスクは付けていなくて、大人の後ろを歩いていた幼稚園児ぐらいの子どもは、あごマスクをしていて
鼻と口が見えていた。
スーパーにいた他の人もマスクで口元を覆っている親らしき大人と一緒にいる子どもがマスクを付けていないのを何回か見た。
もし、コロナウイルスに感染することを恐れて大人の方がマスクを付けているのなら、子どもにも付けさせるか、子どもは店に連れて来ないことも出来るだろうが、一緒に連れてきているのを見ているとコロナを信じていないか、コロナを信じていてもマスクで感染防止など出来ないと信じていそうな感じがする。つまり形だけマスクを付けているのだろう。
スーパーで見かけたマスクをつけた2人組の人たちが私の目に入ってきた。初めは気づかなかったのだが、2人とも鼻は出ていてマスクで鼻を覆ってはいなかった。
テレビのニュースでも、どこかに出かける人にテレビ局側の人から話しかられていた人が2人映っていて、一人の人は口元にマスクを付けていたが鼻が出ていた。

誰かがブログで、マスクを付けている人やワクチンを打つ人について
「みんながマスク付けているからマスクを付けている。みんながワクチン打つからワクチン打つ」というようなことを書いている人がいた。
コロナ関連のことでみんなが同じことなど思っていないのだ。
ワクチンを打つ人でみんなが打っているからワクチンを打っているとか、打とうと思っている人はあまりいなさそうだと私は思う。
何でかと言うと、ワクチンについて信じていることは人によって違い、ワクチンは効かないとか、ワクチン接種した後に体調が悪くなったとか言っている人がいて、それを信じている人はワクチンを打たないだろう。
ワクチンに対して信じていることが違うだけで、みんなが打っているからワクチンを打っているわけではないと思うが。
マスクを付けている理由も人によって違うだろうし、飲食店以外の店でマスクを付けている人が多くても、私が見たかぎりでは住宅街でマスクを付けている人は少なかったし、飲食店ではマスクを外して食べることを多くの人が許しているだろうし、人がいる所の全てでマスクを付けてるわけではないだろうから、みんながマスク付けているからマスク付けている感じでもないと思うのだが。

コロナをウソだと思っていない人で、飲食店の営業をやってもいいと許可している人で、店内や外でマスクを付けていない人に不満を持っていたりして怖がっている人は何を考えているのか意味が分からない。
コロナはウソと信じている人もいるみたいだが、私の母はコロナのことをウソだとは思っていない方で、コロナウイルスの感染を本当のことだと信じていて、2021年の正月の初詣に行っている人に気が緩んでいるというようなことを言っていたのだが、私が分かっているだけでも、私の母は2020年の春や、2021年の3月に飲食店に食べに行っているのだ。
飲食店など不特定多数の色んな人が来て、マスクを外して飲み食いするところだと分かっているのに、わざわざ飲食店に行って食べているのだ。
本当にコロナの感染を怖がっているなら、わざわざ飲食店に行くとは思えない。
国が時短営業命令に従わないと罰金という決まりを決めているのもおかしいのだが、時短営業しようがしなかろうが、店内で誰かがマスクを取って食べているのは同じことなのに、時短営業させたい目的が分からない。

コロナの感染がなくならないのを飲食店のせいにしたり、若い人のせいにしている人がいるみたいだが、店内でマスクを付けていないのは若い人だけではないし、中年や老年にもマスクを付けていない人はいる。
外でも同じ人がマスクを付けている時と付けていない時もあるだろう。
誰でも常に人がいる所でマスクを付けているわけではないのに一部の人のせいにしたい人もいるのだろう。

2021年の7月下旬に親戚が私の母親にアナウンサーの女がコロナに感染したということを話していた。
「わけーのはあめーんだよ」というようなことを何回か言っていた。わけーのはあめーんだよと言っているのは、若い人は甘いんだよと言っている。
親戚は若い人は甘いからマスクを付けていない時があるからコロナに感染したんだと思っているのだろう。
若いから甘くてマスクを付けていない時があるからコロナに感染したのだと言いたいのならば、テレビ番組に出ている人などでも若い人ではなくてもマスクは付けていないし、中年や老年の人も野外や飲食店や飲食店以外の店でマスクを付けていなかったり、鼻を出しているマスクの付け方をしている人はどの年齢の人にもいるだろう。
まるで、気に入らない言動を取る人に親に甘やかされたから、親が教えてないからなどと、人に不満を言う時によく聞くようなことと同じような感じのことを言っている。
若い人がやったことを若いからやったんだと理由を付けていても、
若い人の多くはコロナに感染はしていないだろうし、若い人以外でもコロナに感染している人の方が少ないだろう。
若い人がコロナに感染したことを、若い人が甘いからという理由を付けているのも、ただの思い込みや、こじつけだろう。

親戚が外に出た時にマスクを付けていない時もあり、私の母親が飲食店に食べに行っていることを聞いても、マスクを外して食べるようなところに行ってはダメだとは言っていなかった。
私の住んでいる近所でも同じ人がある時にはマスクを付けていても、別の時にはマスクを付けていなかったり、
色んな年齢の人がマスクを付けずに住宅街を歩いたり、自転車に乗っているが、親戚はこれを甘いと思っているのだろうか?
田舎の人には感染者が少ないから都会の人よりはマスクは付けなくてもいいと信じているのだろうか?

同じ親戚が「テレビ局はでれー厳しいんで」とも言っていた。
テレビ局側はコロナに感染しないために厳しくしているとでも言いたいのだろうがこれは間違いだ。
私はテレビをあまり見ないが、たまに見るとテレビ番組に出ている人が室内で撮影していても、誰もマスクを付けていなかったり、顔から離して付ける透明なシールドマスクを付けていた。
マツコデラックスを含んだ3人が出ている番組で一人がマスクを付けていて、マツコデラックスと、もう一人の人はマスクを付けていなかった。
数人の芸人が野外で撮影されていて、芸人はみんなマスクを付けていなかったが、スタッフの人がカメラに映りこんでいたのだが、黒いマスクを付けていた。
テレビ局の人たちがコロナに感染しないため厳しいのだったら、テレビに出ている人がマスクを付けていなかったり、マスクを付けていても
顔から離れているシールドマスクを付けているのは厳しい感じではない。

誰かが公共の乗り物に乗った時にマスクを付けていても、マスクの種類で不満を言われた人がいるみたいだ。
その人の知り合いがそれを聞いて、マスクを2重に付けるようになったとテレビで言っていた。
誰かは2重でマスクを付けていたり、形だけで仕方なくマスクを付けている人もいる中で、親戚がテレビ局はコロナのことで厳しいということを言っているわりには、テレビに出ている人がマスクを付けていない人もいるのもおかしいし滑稽だ。
コロナウイルスを信じていて、コロナに感染することをテレビ局の人が怖がっていて、マスクを付けていたら感染防止になると信じているのならばテレビに出ている人にもマスクを付けるようにしてもらうだろうが、テレビに出ている人の中にマスクを付けていない人がいるのは、コロナのことにおいてテレビ局は厳しくはないということだろう。
顔から離れているシールドマスクを感染防止に役に立たないと思う人や、嫌がる人もいるだろうし、嫌がらない人もいるだろう。
コロナに感染しているかもしれない人がシールドマスクを付けている人だったらシールドマスクと顔の間からコロナウイルスが空気中に浮遊して自分の鼻や口からコロナが入ってくるかもしれないと思っている人もいるだろう。
唾がシールドマスクや顔にぴったり付けているマスクに付いたら、そのコロナはマスクからは離れずに、ずっとマスクに付いたままだと信じている人もいれば、顔にぴったり付けているマスクでも、マスクの種類によってはコロナがマスクを通過すると信じている人や、どのマスクを付けていてもコロナはマスクを通過すると信じている人もいるだろう。
コロナウイルスについて信じていることの信仰が全然違うのだ。

今の日本や多くの国では色んな国で作られたものが外国からも入って来てたり、同国内の色んな場所で作られたものがスーパーやコンビニで売られているけど、誰かがコロナに感染していて、色んな商品の物や、果物や野菜にコロナに感染している人が近くにいてコロナウイルスが物や野菜や果物に付いているとは思わないのだろうか?
手を消毒している人もいるが、商品の物や食べ物はほとんどの人は消毒はしていないだろうが、どういう基準を持っているのだろうか?
コロナウイルス関連の色んなことは信仰なのだ。

あいさつされて無反応な人に不満を持つ人の一部の不満の理由は、自分や好きな人に無反応な態度を取ったことで、自分達が嫌われている可能性があると思い不満を持っているのだ。
あいさつを初めにしてきたり、オウム返しをしたり、会釈をしたから相手のことを嫌っていないということにはならない。
嫌いな人にあいさつする人もたくさんいるだろう。
マスクを付けているのもみんなが感染防止のためにマスク付けているわけではない。
マスクを付けているからコロナウイルスが鼻や口から入って来ていないと信じている人はマスクを付けていれば安心なのだろうが、
どのマスク付けてもコロナウイルスはマスクを通過してくると思っている人はマスク付けていても意味がないと思っているだろう。
マスクを付けていても感染防止にはならないと信じてる人がマスクを付けているのは、他人から不満を言われたり、白い目で見られたりするのが嫌だからとか、トラブル防止のためにマスク付けている人もいるのだ。

テレビ番組で日本人の若者数人が鼻と口をマスクで覆って国内のどこかに観光地に行っているのが放送されていたのだが、室内の食べ物を食べる所で、食べ物を器に入れている仕事をしている人はマスクを付けていて、その人の前には透明なシートを張っていた。
若者数人は椅子に座ってマスクを取って食べ物を食べていて、隣にはあごマスクを付けて食べている人がいた。
別の番組でも、口と鼻にマスクを付けた若者が、電車に乗るのが撮影されていて、その電車の中では料理が運ばれてきて車内で食べる電車のようで、
車内の食べる机の横には透明な板が置かれていたが、板の上や下や横は開いていた。
コロナの感染を本当に怖がっているのなら、わざわざ室内でも外でも知らない人がいる所で食べないこともできるだろうが、感染防止のためにマスクを付けているのなら、室内で食べているのもおかしいのだ。
本当に感染を怖がっているのならマスクを外して食べないだろうけど。
感染防止のために人に気を使っているとか言うのなら店内で食べる飲食店の営業を許しているのもおかしいということになる。

オリンピックの開会式の時に色んな国の人が入場してくるのを一部見たが、
外国のどこかの国の人が入場してきた時に、あごマスクで口と鼻が見えている人がいたが、意図的にあごマスクにしているのか、
マスクを付け忘れていたのかは分からない。同じ国の男の選手がマスクを付けていたのだが、その選手がカメラの方を見た時にマスクをずらして口と鼻を見せていた人がいたが、マスクを付けていてもコロナの感染防止にはならないと信じている人だったのだろうか?
他の選手も口だけマスクで覆い、鼻が見えている人がいたが、コロナの感染防止のためにマスクを付けているのなら鼻もマスクで隠すだろうが、
鼻を隠していないのは、コロナ感染防止のためにマスクは付けていないだろうけど。

あいさつでも、あいさつできる人と言われている人が、ほとんどの人にあいさつをしないことなど分かり切っていることだが、あいさつをしたところだけを持ち出して高評価して褒める人もいる。
あいさつを一部の人にだけする人の心理や動機に多くの人は興味、関心がないだろうに、自分に都合のいい捉え方をして、あいさつされたのはあいさつした相手を嫌っていないからだとか、大人に教えてもらったからあいさつしたのだとか、あいさつすることを正しいと信じているからあいさつしていると勝手に信じている人もいるのだ。
マスクを付けている人が何でマスクを付けているのかの理由、心理もあまり分からないだろう。自分が思いたいように思うだけだ。

子どもは大人の真似をするというが、そういうところもある一方で、ほとんどの大人の真似などしていないだろう。
真似するどころか、大人の外見や生き方や言動をバカにしていたりもするのに、都合のいい捉え方をする人は子どもの思うことや、
やることのほとんどや、一部のことを大人の影響だと言う人もいるだろう。
コロナのことで、親と一緒に店に買い物に来ている子どもが親がマスクを付けているのに子どもの方がマスクを付けていなくても親の真似をしているとは言えないだろう。
20代ぐらいの若い人がやったことで間違っていることをやったと思っている人が、大人が教えないからなどと言って、若者を悪く言わずに
大人のせいにする人がいるが、自分より年上の大人がやるなと言ったことでもやる人はやるし、何でも大人の言うことを聞くわけではない。

コロナのことでも、テレビを見ればマスクを付けている人がいるのは多くのテレビを見ている人は分かっているだろうし、街中や住宅街や店内でもマスクを付けていない人がいるのは多くの人は知っているだろうが、感染防止のためにマスクを付けたい人は付けるし、不満を言われたり、入店拒否されないためにマスクを付けたい人はマスクを付けるわけだ。
マスクを付けている理由が周りの人がマスクを付けているからとか、子どものことだったら、大人にマスクを付けている人がいるからマスクを付けたという理由は付けられないだろう。
大人でマスクを付けている人が、人のいる所でどこでもマスクを付けているわけではないだろう。

子どもや若い人が大人の真似をするとか、大人の心を吸っているという人がいるが、子どもにも大人にも色んな人がいることは子どもの時から分かっているだろうに、人が何かをしているのは人の真似をしたのだという理由をつけても、何でごく一部の人の真似だけをしたのかの詳しい理由は言っていないのだ。
人がいる所でマスクを付けている人と付けていない人がいることが分かっていても、マスクを付けるか付けないかは自分が選んでいるのだ。みんながどこでもマスクを付けているわけではない。
あいさつも同じで、誰にあいさつするのか、しないのかは自分が選んでいるのだ。
子どもにあいさつしろと親や祖父母が言った後に、言われた子どもがあいさつした場合は、その子どもはいつでも親や祖父母や、それ以外の人の言うことを聞いている人なのだろうか?
そんな子どもはほとんどいないだろうが、どんなことを正しいと勝手に信じて、他人の言うこと聞いていようと、正しいと信じていないのに色んな理由で他人の言うことを聞いていても、親や祖父母や大人に教えられたと言うのだろう。

2021年の前半に、ある大きい公園に行った時に、たくさんの人が歩いていたが、マスクを付けている人もたくさんいたし、マスクを付けていない人もいた。
老人や中年の人にもマスクを付けている人と付けていない人がいた。
この公園でも赤ちゃんを連れたお母さんらしき人はマスクを付けていたが、赤ちゃんはマスクを付けていなかった。
2人以上で一緒に店に来ている人でもマスク付けている人とマスク付けていない人がいて、コロナウイルス関連のことについて信じていることが違うのだ。
戦時中の日本でも戦争反対の人と賛成の人がいたり、戦争反対の人が逮捕されていたみたいで、同じ日本人とは言っても、同じことを信じているわけではないのだ。

コロナのことで、日本人について誰かが、日本人がデモをしたりしないことや、攻撃的に騒いだりしていない、「緊急事態宣言が出ても出歩いたり、店に行って応援している、みんなで助け合おう精神があって素敵」という感じのことを言っている人がいたが、
店に行っている人を、その店を応援していると言い表している人もいるが、
必要なものがあるから店に買いに行っているだけのことを店を応援していると言って良く言う人もいるのだろう。
私の母親が初詣に行っている人のことを、気が緩んでいるなどと言っていたが、私の母親がマスクを付けずに食べるような飲食店に行っているのは、店を応援するために行っているとは思わないし、食べに行きたいから行っているだけだと思っている。
他の人でも、飲食店や飲食店以外の店に行っているのは、食べに行きたいとか、必要なものがあるから買いに行くために店に行っている人の方が多いと思ってる。

日本人が攻撃的に騒いだりしていないと言っているのも、そもそも攻撃的に騒ぐとはどういうことを言いたいのだろうか?
日本人は影で悪口を言ったり、影から嫌がらせして攻撃しやすいだろう。コロナのことについて多くの日本人が影で何を言っているのか知らないし、知る気もない人がたくさんいるのだろう。
私の親や親戚がコロナ関連のことで日本の総理や政治家が決めたことに不満を言っていたが、不満を攻撃的というなら、攻撃的に騒いでいるとも言えるので、日本人はコロナのことで攻撃的に騒いではいないというのは間違いだろう。
国が緊急事態宣言を出していることにも、国側のコロナに対する対策に問題があり、緊急事態宣言は国民に尻拭いをさせているのだと言って、
コロナの感染者が出ているのは国に問題があると思っている人もいる。
ほとんどの人は感染者が減らないことを国のせいにはしないだろう。若い人がマスクを付けていないからだとか、飲食店が営業しているから、コロナ感染者が減らないと思っている人もいたり、コロナはみんなの意識が作り出したというようなことを言っている人もいるのだ。
他の人が見ていない影でセックスをしていても、それを人に言わなかったり、他の人に見られていなかったら、セックスをしていることも分からないのと同じだ。
身体暴力をやったら攻撃的と言われやすいだろうが、人のことを悪く言うことを攻撃的と言う人はあまりいないのだろう。
外国人より日本人の方が控えめだと言いわれやすいのは、例外あれど、日本人の不満の表し方が、影で悪口(中傷)を言ったり、影から嫌がらせをしていたり、第三者に攻撃をさせたりするから何もしていないように見えて控えめに見えるのだろう。
マスクを付けていない人に不満を持っている点では同じでも、それを内面で思っているだけの人や、本人のいない所で不満を言う人や、
本人に不満を言う人がいて、不満の表し方が違うだけで、同じことに対して不満を持っているのは同じことだ。

緊急事態宣言が出ても出歩いたり、店に行っていると言っていても、出歩いている理由など人によって違うだろうし、マスクを付けて出歩く人と、マスクを付けずに出歩いている人がいたり、飲食店以外の店でもマスク付けてる人と付けていない人がいるので、日本人みんなが同じことを思っているわけがない。マスクを付けている理由が感染防止のためのマスクを付けていたり、誰かに不満を言われるのが嫌だから演技でマスクを付けていたりして、マスクを付けている理由が違うのだ。
飲食店以外の店内や野外でマスクは付けないとダメだと信じている人もいれば、マスクは付けなくてもいいと思っている人もいるのだから、日本人みんなが同じことなど思っていない。

戦争関連のウソみたいだ。お国のためにと思って戦争に行ったと言っていて、みんなが同じ気持ちだったかのように戦後数十年経った今も言っている人がいるが、みんながそんなこと思っているわけがないのだ。同じ言い分を聞いても、同じものを見ても同じことを思っていないということだ。
みんなで助け合おう精神があって素敵と言っているのも、店に行っている人が店を応援するために行っている人は少ないと思うから、
助け合いと言っているのも陳腐だし、本当にみんなで助け合いしているのなら、金でやっていく世の中などをまかり通らせていること自体がおかしい。
値段がついているものに金を払わない人やスリなどと呼ばれている人を犯罪者や泥棒と言って逮捕しているのもおかしくて、本当にみんなで助け合いをしていたら、泥棒と言われている人など出てこないだろう。
こういう人が出てくるのはみんなで助け合いをしていないことの表れだ。
本来全てのものに値段が付いていないことなど考えなくても分かることだが、みんなで助け合いしていないので、
生きていくために金がないと死活問題だから、金でやっていく世の中という合法の詐欺、泥棒社会を多くの人は正しいと信じてまかり通らせているのだ。

戦争でも、同じ国の国民が戦地に一緒に行って助け合いをしたかのように言っているが、本当に人類みんなで助け合っているのならば戦争はやってはいないだろう。
戦地に行ったある日本人が、同じ軍の日本人にされたことに「差別だよね、屈辱だよね」と言っているのをテレビで視聴したことがあるが、
同じ軍にいても仲間だとは思っていないということだろう。
金でやっていく世の中も、武器を持って行く戦争とは別の意味で戦争なのだ。
あいさつも、大切だとは思っていない人や仲間扱いしていない人にあいさつしてほしいと望んでいるのに、自分の思い道りにならないから、嫌ったり、見下したりする差別をしている。
みんなが金でやっていく世の中を正しいとは信じていないが、
あいさつでも同じことで、みんなを仲間だと思っていたら、ほとんどの人はあいさつなどしないだろう。
例外除いて、あいさつはどうでもいい人や、大切ではない人、仲間ではないと思っている人にあいさつを初めにしたり、あいさつ返しを求めている人が多いだろうから。
でも、関わる気もない人や、大切ではない人にあいさつをすることを素晴らしいこと、素敵なことと思う人たちもいるわけで、
どうでもいい人や嫌いな人にもあいさつしたことを良く言い、褒めてコミニケーションなどと言う人もいるのだ。

 

95.あいさつという同調圧力

 

私は今まで同調圧力という言葉を知らなかったのだが、新聞の本の宣伝の何かに、「なぜ、日本人だけが同調圧力に苦しむのか」という感じのことが書いていた気がする。
同調圧力という言葉の定義自体が人によっても違うだろうが、大体同じ意味で使っている人が多いと思うが、少数派の人に多数派と同じことをさせようとしていて、色んなやり方で少数派に多数派と同じことをやらせようとしているということだろう。
同調圧力で自分と同じことを信じていない少数派に自分と同じことを信じさせようとしている宗教とも言える。つまり信仰心なのだ。
自分が感じていることが正しい、自分が信じていることが正しいという信仰心の押し売りをしているのだ。
例外あれど少数派が見下されたり、悪者扱いされるのは、多数派にとって都合が悪い場合が多いから少数派を悪者にしたり、見下すのだ。
日本人は無言で説明もせずに大勢と同じことをして当たり前という雰囲気を作っているところがあるのと、日本人はあまり人の気持ちが分かる人ではないだろうから、自分が正しいと信じていることを、
同じ人間ではないと思っている他の人も同じことを信じていると自分に都合のいい捉え方をするところがあるのだろう。

正しいこととは何かという答えが、例外除いて大勢と同じことをすることが正しいと信じている人が世界中にたくさんいるだろう。
つまり、なぜ大勢がやっていることや、大勢が感じたことが正しいと勝手に決めつけて信じているのかについては説明はしないのだ。
そう感じたからそれが正しいと信じているのだろう。
あいさつにおいても、あいさつをされたら言葉であいさつを返すのが正しいし、人はみんなあいさつを返さなければいけないと、
無意識や意識的に勝手に信じている人がたくさんいるのだ。
あいさつを返さない人に白眼視したり、奇異な目で見たり、見下したり、嫌ったり、嫌がらせしてきたり、身体暴力をやる人がいるのも、
正しい根拠がなくても自分が感じたことが正しいと信じているところがあるから、あいさつ返しが正しことで、人として絶対にやらなければいけないと信じ込んでいると、あいさつ返しをしない人をおかしいと思ったり、悪い意味で変わっているなどと言うのだろう。
正しい根拠がないことを正しいと信じまくり、大勢と同じことを感じたり、やったりすることを根拠なく正しいと感じている自分達を変わっているとは言いにくいのだろう。

学校、部活、職場、近所など色んな集団に属している中で、信仰心や望んでいることの満場一致など、ほとんどないだろうが、誰の言い分をまかり通らせて押し通すのかは、自分が属している集団の多数派か、立場が上の一人か一部の人が決めたことで決まりやすいだろう。
つまり、少数派や立場が下の人は多数決で決めたことに不満があっても不満は言うなと言いたいか、不満は影で言えということだろう。
いい加減で適当な物事の決め方をしている人や、根拠のないことを正しいと信じている人が変な人ではないとか、普通の人や常識人などと言われているのだ。
あいさつも自分の周りの数少ない人が、あいさつされたらみんな返していたとか、自分があいさつした相手みんながあいさつ返したから、
あいさつ返すのが正しいと勝手に信じるのだろう。
あいさつ信者の中には、あいさつされたら全員に返したとか、一部の人にだけ初めにあいさつをしたから、常識人で大勢と同じことが出来ている素晴らしい人だと思っている変な人達もいる。
あいさつする時に人の目を全くか、ほとんど見ないような、あいさつしている人の中でも少数派の人が変な人とは言われにくく、あいさつしたところだけを持ち出して、普通の人や常識人や素晴らしい人と言われて褒められて得をする。

自分が感じたことが正しいと信じていることを、自分が正しいんだという言い方はせずに、「自分と同じことを信じていたり、自分と同じことをやっている人がたくさんいるから、私が感じたことや、やっていることが正しいんだ。自分だけがやっているわけではないから、自分は間違っていない」と思っていて、それを常識や社会のルール、良識などと言っている人はたくさんいそうだ。
全く同じことをやっていたり、全く同じことを主張しているのに、大勢がやっていると正しい根拠のないことでも信じられやすかったり、
テレビや雑誌などのメディアが取り上げたことはメディアをバカにしていない人は信じやすかったり、メディアをバカにしているところがある人でも信じやすいところがあったり、メディアで取り上げたものを取り入れやすいのだろうけど。
信用している人が言うと信じやすいが、信用していない人が同じことを言っても信じられにくい。
大勢がやっていることや信じていることの方が正しい根拠がなくても正しいことだと信じやすいのが多くの人の心理だろう。

ほとんどの人は複数の集団に属しているだろうが、あいさつ信者の多くは家族にはあいさつしなくてもいいという信仰を持っているだろうから、
この家族という集団の中ではあいさつしなくても許されるのだ。
でも、一歩家の外に出ると近所では近所の人などにあいさつ返しをさせるために、あいさつを初めにしてくる人がいて、その人たちはあいさつ返しが正しいと信じている人が多いだろうから、あいさつ返してあげないと不満を持たれて、嫌われたり、嫌がらせなどをされる場合があるのだから、
ある地域に属していたら、そこで大勢があいさつを返すことが正しいと信じていると、それに合わせてあげないとその地域に居にくいと感じる人もいるだろう。

ある職場では誰もあいさつをしないが、別の職場ではあいさつする人の方が多かったりして全然違うのだ。
自分が属している集団の中の多数派(大勢)と同じことをしないと目立って、変な目で見られやすいところがある。
こっちの集団ではあいさつしなくても許されるのに、あっちの集団に行けばあいさつしないことは許されないのだ。
私がいい例で、私が初めにあいさつしないことに対して、今私が住んでいるところの近所の老人4人から間接的、直接的に悪態つかれたり、不満を言われたが、他の地域に住んでいる時にこんな態度はとられたことはないし、学校や職場という集団に属している時でもこんな態度を取られたことはない。
今の日本の法律では大麻取締法で上の許可なく大麻栽培、所持していると逮捕だが、他の国なら同じことをしても逮捕にはならない国もある。属している国によって法律が違うので同じことをしても扱いが違うのだ。
あいさつや大麻以外でも同じことだ。

金でやっていく世の中で値段ついているものに金を払わないことを大勢が間違っていると思ったり、それをやった人を見下していたりするのも、
大勢と同じことをしていないからだ。もし大勢が金でやっていく世の中がおかしいとか、金を払わない人を逮捕していることがおかしいと言い出したら、大勢が感じていることを正しいと信じているところがある人が多いだろうから、金でやっていく世の中が間違っていると言い出す人もたくさん出てくるだろう。
大勢と同じことをしないから例外あれど、気に入らないと思ったり、見下してきたり、バカにしてくる。
金でやっていく世の中を人のためとか、社会貢献と言っている人は、自分が金社会を正しいと信じているから、値段ついているものに金払うことを正当化したり、給料という形で金を貰う人を高評価して良く言う人もいるのだろう。
金信者は金でやっていく世の中が間違っていて不正なのに、自分が正しいと勘違いしているのだ。

「なぜ、日本人だけが同調圧力に苦しむのか」というようなことを書いていた人も間違っている。
同調圧力されているのは日本人だけではないだろう。少数派でも歌手や芸能人の様に大勢から好かれたりしている人の場合は、
この人たちを嫌っても、大勢から好かれているからと大目に見る場合もあるだろう。
大勢から好かれている少数派の人には「自分はこの人が嫌いだけど、この人の存在や、この人たちの歌や言動でたくさんの人が好んでいたり、役に立っているのだから許す」という人は多いだろうが、大勢から好かれているわけではない少数派の人の場合はバカにされるだけだったり、見下されやすいのだろう。

「なぜ、日本人だけが同調圧力に苦しむのか」と言っている人は、
大勢と同じことをしろと無言や言葉や態度で不満を表されたり、信仰を押し付けられて、正しいと信じていないのに誰かの信仰に合わせて従ったり、やりたくないことを嫌々やっていて苦しんでいる人がいると言いたいのかもしれないが、大勢と同じことをしないことでも見下されたり、バカにされたり、裁判起こされたり、逮捕されたり、嫌がらせされたりなどして苦しんでいる人もいるわけで、大勢と同じことしていても、大勢と同じことをしないことでも不満を持たれたり、嫌われる場合があるのは同じことだ。
例えば歌手や芸能人がいい例で、大勢と違うことをしていて、他の無名な人達よりも多くの人に好かれたり褒められている一方で、
バカにされたり、見下されたり、不満持たれたりなどもしている。
大勢と同じことをしないと誰か一人からでも変な目で見られたりするから形だけでも同じことをしておけと言いたい人もいるだろうが、
大勢と同じことをしていても、似合っていなかったり、自分が見下している人が自分達大勢と同じことをしているとバカにしたり、見下す場合もあるのだから、どちらをやってもバカにされたり、変な目で見られたり、嫌われる場合もあるのだ。

あいさつ信者の場合は、誰でも人のことなどほとんど知らないが、
自分は人のことを知っているところがあるという知ったかぶりをしているバカで頭が悪い、鈍いところがあるのだ。
あいさつを常識や、社会のルールや、コミニケーションなどと美化したり、綺麗事を言い良く言っている人が多いだろうが、相手を自分の思い道りにさせたがっている支配的で独裁的、自分中心なところがあるとも言えるのだ。
自分の思い道りの言動を取った人や、自分が好きな外見をしている人を褒めて良く言ったり、好きになったりする場合があるのも、我が身が可愛いい人間が自分の思い道りのことをすると褒めて高評価するのだ。
あいさつをしてほしい人があいさつをしないことで嫌ってきたり、見下したりして格下に見たり、攻撃してくるのも自分の思い道りにならなかった不満や不快さを相手のせいにしているからだ。

社会のルールと言っていて、はっきり言わない言い方に隠している意味は、大勢が正しいと信じているルールとか、大勢が守っているルールというような意味で使っている場合が多いだろう。
こんな信仰を持っているのはいい加減、適当なのだが、大勢と同じことをしている方が良く言われやすい。
「みんなまじめにやっているんですよ」とか「まじめな人が損をする」などと言っているのは、ある集団に属していて、その集団の中の多数派と同じことをしないことに対して少数派を問題視ているからこんなことを言うのだ。
ほとんどの決まりを守らない人が、自分が守っている決まりを守らない人に「まじめな人が損をする」などと言い、自分の信仰を正当化したり、正しいとさえ信じていない決まりをいろんな理由で形だけ守り、同じことをしない人を悪く言って、自分に甘いところがあるのだ。

井の中の蛙大海を知らずということわざは、全ての人間に言えることだが、
知らない事が多いけど他の人は何を思っているのだろうかとか多くの人に関心、興味がある人もいるだろうが、多くの人はほとんどの人には関心、興味はないだろうけど。
色んなことを知ろうとはしないけど、人間として正しいことは例外あれど大勢と同じことをすることだと適当に信じている人もたくさんいるのだろう。
信仰心、信じることを常識や社会のルールやマナー、モラル、良識などと言って誤魔化しているのだ。

 

97.あいさつを初めにした人が王様、女王様、殿様の様になっている

 

あいさつを初めにした人が正しいことをしている素晴らしい人の様になっていて、あいさつされたら言葉であいさつ返すことが正しいと信じている人がたくさんいるのだろう。
初めにあいさつをした人から選ばれて、あいさつされた人は絶対にあいさつを返さなければならないという決まりを悪い感じに言えば、あいさつを初めにしてきた人の奴隷や召使いのような扱いだ。

私はあんたには合わせないけど、私には合わせてと思っているのを隠しているのだ。
初めにあいさつした人が偉い人で、王様や女王や殿様みたいに上の立場の人であるかのようになっているところがある。
あいさつを初めにやった人に合わせて従えと言葉で言い表さずに隠して、
人を自分の言いなりにさせたいことを、カッコつけて美化して綺麗事を言う人はコミニケーションや社会のルール、人間のルール、常識などと良く言いウソを言っているのだ。

みんながあいさつを正しいと信じているわけではないし、誰にでもあいさつしたいと思っているわけでもない。
自分達あいさつ信者が、ほとんどの人に初めにあいさつしないことは許し、あいさつを返さない人のことは見下したり、嫌ったりして
許さないという差別をしている。
自分はやりたい時に、やりたい人にだけあいさつする自由を許し、他の人があいさつしない自由は許さない勝手な自分中心なところがあるのだ。

 

98.叔父の言ったことと天皇家とあいさつのことなど

 

2021年の8月のお盆ぐらいの時期に、私の叔父が私に「人が来るから、ちゃんとしないとダメだぞ、笑われるぞ」というようなことを言ってきた。
私の住んでいる母親の実家に母親の親戚(いとこ)がお盆で来るだろうから、ちゃんとしろよと言っているのだろう。
叔父がちゃんとしろと言っている意味が私にはわからない。叔父が「ちゃんととしろ」と言っているのが、はっきり詳しいことを言わない言い方をしたことが、ちゃんとした言い方をしていないとも言える。

他人に自分の要望や信仰心を押し付けて、ちゃんと説明をしないのに、自分の思い道理にならないと不満や疑問を持ち、本人のいる所や
本人がいない所で不満を言ったりする人もたくさんいるだろう。
あいさつでも同じようなもので、あいさつを初めにする動機や目的や理由は人によって違う。
初めにあいさつする人のほとんどは、あいさつ返しを求めているだろうが、みんながあいさつ返しを求めてはいない。
叔父がちゃんとしろという言葉に込めている意味が私には分からないが、叔父はちゃんと意味を説明せずに、自己満足で喋っているだけだ。
「人からバカにされたり、おかしいと思われて笑われたら嫌だろ。だから、わしがちゃんしていると思うことをやれよ。」とでも言いたいのだろうが
自分が家のドアを凄い大きい音で閉めていることで近所の人から不満を持たれていて、その人たちから音の嫌がらせをされていることに叔父は気づいていない。
音の面では私が以前家の中で独り言を言ってた時に、叔父がその独り言を聞いて不満を持っていて、私のことを頭がおかしいと言っていたが、
自分も音のことで誰かから不満を持たれているのだ。目くそ鼻くそだ。笑われてはいなくても叔父も誰かからおかしいと思われているのだ。

以前に、私の母親が「天皇家をいらないと言っている人がいる」と叔父に言ったら、叔父が「天皇家をいらないと言っているのは、ごくごく一部の人だけ」と言っていたのだが、叔父は天皇家が税金を使って、特別扱いされていることをおかしいとか間違っているとは思っていないと思う。
大正天皇のことは悪い感じに言っていたが、別の天皇のことは高評価していて、天皇家のことはあまり悪くは思っていないようだが、
天皇家を特別扱いして、税金から皇室関連のことに100億以上の金を取っていることをおかしいと思っていたり、間違っていると思っている人もいたり、天皇家の人や皇室関連のことをやっている人を嫌っていたり、バカにしている人もいるが、叔父はそういう人がいることを知っているだろうに、
多くの人は天皇家が特別扱いされていてもいいと思っていそうだが、大勢が許しているから、一部の人がおかしいと思っていたり、
嫌がっていることはやってもいいと思っていそうだ。

全ての人が同じ信仰心や好き嫌いを持っているわけではないし、同じ人間ではないのだから、誰かがバカにしたり、おかしいと思うことを他の人も同じことを思うわけではない。
全ての人から、何から何まで自分の全のことに対してバカにされないようにしたり、おかしいと思われないようにすることは不可能だし、
そんなことを思っている人などいるのだろうか?

誰かが嫌がることは、他の人は嫌がっていないし、同じことを好きな人もいれば嫌う人もいる。
みんなが同じことに対しておかしいと思っているわけでもないし、バカにしたりはしていない。
人からバカにされたくない、おかしいと思われたくないと思っている人など、人のことや世の中のことについて、ほとんど知らないだろうし、
多くの人はほとんどの人に関心、興味などないだろう。人のことをほとんど知らないのに自分や自分以外の誰かが、誰かのやっていることや、誰かの外見をバカにしていることに、バカにされている人は人からバカにされて嫌だと思わないのかなと思うのは、自分が感じたことが正しいと信じているところがあるから、そんなことを思うのだ。
みんなが自分と同じことを感じているわけではないことを分かっていないバカなところがあるのだ。
バカにされたくないから誰かがバカにしていることをやりたくないと思っている人が、誰かがバカにしていることを他の人は高評価している場合があることを知らなかったり、高評価している人がいることを知っていても、
バカにしている人が一人でもいることの方に意識を持っていき、自分がやりたいことを一人でもバカにしている人がいるのならば、やりたいことやらずに、バカにしている一人の人からバカにされたくないと思う人もいるのだ。
そんな人が自分のやることや、やらないことで誰かから低評価されたり、不満を持たれたり、バカにされているのに、それに気づいていないのだ。

私が30歳前後の時に派遣の仕事に行っていた時に、私が職場で食べるための昼食の弁当を作り終えて、弁当箱を使用済みの小さいスーパーのビニール袋に入れていたのを見た私の母親が、「人に笑われる―」と言ったのだ。私の母親は弁当をビニール袋に入れているのをおかしいとか、
かっこが悪いとでも思ったのだろうが、みんながスーパーの袋に弁当を入れているのをおかしいとは思わないだろう。
私の母親にしろ、それ以外の人も、自分中心に物事を捉えているところがあるのだ。
それはあいさつのことにも通じることで、自分があいさつを返すことを正しいとか、絶対にしなければいけないと信じていると、あいさつ返さない方がおかしいとか、間違っていると勝手に思う人もいるのだ。
正しいという根拠や裏付けがなくても、自分が感じたことが正しいと無意識や意識的に勝手に信じているところは誰にでもあることだろう。
以前、私が頭のハゲを隠さずに店内にいた時に、私の近くを通りすがった人が「恥ずかしいと思わないのかな」と言い、その人と一緒にいた人が
「誰も見てない」と言っていたのだが、私のハゲのことを言っていたとと思っているが、この人やそれ以外の人も似合っていないと思うハゲを、そのまま見せている人をおかしいと思っている人は、
自分がおかしいと思うから他の人もおかしいと思っていたり、
バカにしている人がいると思い、似合っていないハゲを隠さずに見せている人の方がおかしいと思っているのだろう。
みんなが似合っていないハゲは隠すべきだとは思っているわけがない。
誰でも自分が感じたことが正しいと信じているところがあるのだろうけど。

 

99.性的なことや暴力とあいさつ

 

性的なスケベやエロや暴力も、あいさつに通じるところがある。
性的なセックスなどは誰にでもやっていいものではなくて、
性的両思いの人達はやってもいいが、性的両思いではない人はやってはいけないと多くの人が思っているが、それを言葉でいちいち説明はしない。
多くの人は身体暴力は悪人だと思っている人にはやってもいいと思っているだろう。
牛や豚や鳥を殺したり、蚊やハエやゴキブリなどを殺したりするのも暴力だがこれらの暴力も多くの人はやってもいいことだと許している。

あいさつも、初めにあいさつをしなくても許す人が多いだろうし、
あいさつ返しをしないのが子どもや、耳が聞こえない人や声が出ない人や、自分の仲間なら許しても、それ以外の人があいさつ返しをしないことを
許さない人もいるわけだ。
同じことをしていても、誰がやったかによって違うことを思っているのは人を同じ人間だと思っていないからだ。
同じ人間ではないし、同じ関係性ではないから、同じ態度を取っても思うことが違うのと、見下している人や、どうでもいい人、好きではない人を軽視して軽く見ているから、自分が望む態度を取らないと不満を持つ場合が多いのだろうけど。

性的なことはいい例で、テレビや映画のセックス場面などで、胸やお尻を見せているのをテレビで放送したり、演技でセックスしている場面をテレビで放送したり、AVのアダルトビデオやアダルトDVDやAVの動画を出しても逮捕にならない場合もあれば、逮捕になる場合があるが、何を基準にしているのかが、いい加減であり、差別しているのだ。
日本で外で裸になっていたり、下半身を出して露出している人がいたら、警察を呼ばれたら逮捕になるが、AV動画を販売やレンタルして金を取ることは許していたりなどして、おかしいことをしていて差別しているだけだ。
AVのアダルト動画を出したりしていることに不満を持つ人もいれば、持たない人もいる。
みんな自分を基準にしているだけで、自分が許せることならば誰かが嫌がっていても許す場合が多いだろうし、嫌がった方に問題があるとか、心が狭いなどと思ったりするのだ。
浮気をされた妻の方に問題があると思う人もいれば、浮気相手や浮気した夫の方を問題視する人もいて、自分が思いたいようにしか思わなくて、
自分を基準にしているだけだ。

ミロのヴィーナスやダビデ像などの裸体をワイセツとは言わなくても、
外で幼児が裸だったり、ヌーディービーチで裸になっていること以外で裸ならば警察呼ばれたら捕まる。
無職やニートと言われている人を見下して、正しい生き方をしていないと思っている人がいて、誰かから間違った生き方しているとか、気に入らないとか思われていたり、嫌がられていても、刑法違反ではないから逮捕にはならない。
年金や税金を取られることを正しいとは思っていなかったり、嫌がっている人がいても刑法違反ではないから逮捕にはならない。
みんな自分が正しと信じているところがあるが、信じているという言葉で言い表す人はほとんどいないだろうが、常識や社会のルールやマナーモラルなどの言葉で言い表したりして、はっきり言わずに誤魔化していたり、自分の本当の信仰を隠しているところがある人もたくさんいるのだ。
性的なことで、これはやってもいいけど、あれはやってはいけないというのと、あいさつも似ているところがあり、あいさつは、ほとんどの人にあいさつをしなくても許されるが、一部の人があいさつをしないことは許さない。
みんな、それぞれ勝手な信仰を持っているが、多くの人は普通の人や一般人などという言葉で片づけられている。

 

 


脱あいさつ あいさつは正しくない16

2022年10月23日 | 脱あいさつ

目次

第1章から第9章へのリンク
第10章から第12章へのリンク
第13章から第20章へのリンク
第21章から第23章へのリンク
第24章へのリンク
第25章から第28章へのリンク
第29章から第37章へのリンク
第38章から第47章へのリンク
第48章から第52章へのリンク
第53章から第56章へのリンク
第57章から第59章へのリンク
第60章から第67章へのリンク
第68章から第75章へのリンク
第76章から第81章へのリンク
第82章から第86章へのリンク
87.宗教の勧誘お断りは許されても、あいさつ返しお断りは許されない
88.あいさつ信者には、あいさつの押し売りという言葉を知らない人がたくさんいそう
89.出る杭は打たれるのではなくて、気に入らない杭を打っている
90.あいさつとYouTubeなどの広告ブロック
91.あいさつと恋愛も似ているところがある
92.切羽詰まらないとやらない うまくいかなくなった時に考え出したり、変えようとする
93.制限を手放したらうまくいく場合と、うまくいかない場合がある
第94章から第99章へのリンク

87.宗教の勧誘お断りは許されても、あいさつ返しお断りは許されない

 

一般に宗教と言われているキリスト教、イスラム教、エホバの証人、創価学会などの勧誘は断ってもいいし、家のインターホンの近くなどに宗教の勧誘お断りと書かれたものを張っておいたりしても多くの人はおかしいとは思わないだろうが、あいさつ返しをしない人にはおかしいと思う人が多いだろう。

あいさつ返しをしないことは、あいさつ返しを断っているとも言えるわけだが、自分が正しいと信じていたり、絶対に100%あいさつ返されると思っているのに、あいさつ返されないと違和感や不満や疑問を持ったりして、
白眼視してきたり、不満を言ってきたり、嫌がらせしてきたりする人もいるのだ。

あいさつは宗教と言われていないだけで、宗教とも言えるが、
宗教と呼んでいないものの場合は、押し付けてもいい場合と、押し付けてはいけない場合があると多くの人は信じているだろうが、あいさつの場合は、大勢の人が無意識や意識的にあいさつ返しをしろとか、あいさつをしろと、あいさつ信仰を押し付けてもいいと信じているのだろう。

大切ではない人や、どうでもいい人や、嫌いなだけの人などの軽視している人が自分の思い道りの態度を取らずにあいさつしてほしいのに
あいさつしないと不満や疑問を持ち、本人のいない所で不満を言ったり、書いたり、本人の目の前で直接的や、遠回しに不満を言ってきたりして悪態ついてきたり、影で嫌がらせしたり、身体暴力を振るう人もいるのだから、カルト宗教とも言える。
あいさつ返すまで、しつこく執拗にあいさつを初めにしてきたり、初めにあいさつしないことに不満を持ち、本人の前で悪態ついてきたり、
不満を言ったりして異様だが、あいさつ信者は自分が正しいと信じているので、あいさつしてほしいのにあいさつしなかった方が悪いとか、
おかしいと思っているのだろう。これが一般に宗教と言われているキリスト教などだった場合は、宗教の押し売りはダメだと言われるものが、
宗教と言われていなくて、大勢が正しいと信じているあいさつの場合は、あいさつの押し売りを多くの人は許している。
あいさつを初めにしてあげたから、言葉であいさつ返しをしろという押し売りは大勢から許されやすい。
初めにあいさつをされた人は、絶対に言葉であいさつ返しをしなければいけないと信じているあいさつ信者は、みんながあいさつ返しが正しい信仰を持っていると勘違いしていて、間違ったことを信じている。
宗教と言われている所の信者の人が宗教の勧誘をしつこくやったり、誰かがおかしいと思うことをやったら、カルト宗教と言われて、
悪評価されて悪く言われるが、あいさつは宗教とは言われていないし、大勢があいさつを正しいと信じているあいさつ信者なので
あいさつを返せと無言の圧力で自分の信仰を押し付けても、多くの人からおかしいとか変だとか思われないし、カルト宗教とは言われないのだ。
あいさつを返さなかったとか、初めにしなかったということでダメ人間などと言ったり、人として格下の人間であると見下す人もいるのだから異様だ。
あいさつが正しいとか、あいさつを初めにされたら、言葉であいさつ返しをすることが正しいと信じていることが間違いであり、
正しくもない不正なことにあいさつ信者は気づいていない。

あいさつ信者にも軽度のあいさつ信者と、重度のあいさつ信者がいる。
あいさつされたいのにあいさつされなかったことに不満を持つ人や、不満を言ってくる人や、嫌がらせしてきたり、身体暴力振るったり、しつこくあいさつしてくる人は重度のあいさつ信者とか、重症のあいさつ信者とか、重篤あいさつ信者とも言える。

あいさつ非信者や、あいさつ信者でも誰にでもあいさつしてきてほしいとは望んでいなくて、あの人からあいさつされたくはないと思っている人もいるだろう。
「あんたのあいさつ要らない」と思っていても、それを言葉で相手に言っても、絶対あいさつ返されることが正しいと信じている人は白眼視してきたり、見下してきたり、攻撃してくる人もいるだろう。かといって、あいさつを初めにしてきた人に無反応な態度を取っても、
白眼視されたり、バカにされたり、攻撃してくる人もいるのだから
同じだろう。最低限会釈しても、会釈を受け付ける人ならいいが、会釈しても白眼視してくる人はいるし、言葉でオウム返しであいさつしないことに不満を持つ人もいるのだ。
どれをやっても同じだとも言える。大勢がやっていることが安心してあいさつしたり、正しい根拠はなくても、あいさつは正しいから正しいからあいさつを返せと信じて、一部の人にだけあいさつ返しを求めて、あいさつを初めにする人がたくさんいるのだろう。

 

 

88.あいさつ信者には、あいさつの押し売りという言葉を知らない人がたくさんいそう

あいさつの押し売りという言葉がある。あいさつをしろと言っていることを嫌がっている人がいるということだ。
あいさつを初めにしろとか、あいさつを返せということを嫌がっている人がいたり、あいさつを正しいとは信じていない人がいたり、あいさつ返しを正しいとは信じていないあいさつ非信者もいるわけだが、
あいさつ信者の多くはあいさつの押し売りという言葉を知らない人がたくさんいると思う。
もし、あいさつの押し売りという言葉を知っていて、あいさつを嫌がっている人や正しいと思っていない人がいることを知っているのならば、
誰にもあいさつしないか、知らない人や、大切ではない人にはあいさつしなくなる人の方が多くなりそうだが、あいさつ信者は一部の人に対して初めにあいさつしろとか、あいさつ返しを求めて初めにあいさつをしてくるのだから、あいさつを正しいと信じていない人や、知らない人にあいさつしなくてもいいと信じている人のことを知らないところがある無知でバカで鈍いところがあるのだ。

あいさつ信者は、ほとんどの人のことを知らないし、知る気もない人が多いだろうが、勝手にあいさつが正しいとか、あいさつ返しが正しいと信じていて、自分が感じていることに強い自信を持っている自信過剰なところがあるのだ。
自分の気持ちや信仰心は知ってほしいところがあっても、相手のことを知ろうとはしないところがあるのだ。

私が以前、働いていたスーパーで、一か月後ぐらいに私が辞めることになっていた時に、あることで私がそれより早く無理やり辞めようとした時に、店長から言われた不満に「他の人の迷惑になる」というようなことを言われたが、私が辞めることで他の人が代わりにやらないといけなくなるから迷惑で困るという意味だろうが、金でやっていく世の中に加担して商売をしていることでも、金でやっていく世の中でたくさんの人が迷惑して苦しんでいるが、金でやっていく世の中で金がないとやっていけなくて、多くの人が金社会で苦しんでいても、自分達は関係がないと思っている人が多いだろう。
自分達が誰かから迷惑がられたり、嫌がられていることに気づいていない人もいるだろうし、気づいていても、嫌がった方に問題があると思っている場合もあるだろう。

あいさつでも、あいさつを返されないことで、自分の思い道理の態度を取らないことが迷惑だと思っているあいさつ信者もたくさんいるだろうが、
あいさつを初めにしろとか、あいさつ返せという態度を取られて嫌がって迷惑している人もいることに、あいさつ信者の多くは気づいていないくて鈍いところがあるのだ。
もし、あいさつ信者があいさつを嫌がっている人や、あいさつを正しいと信じていない人がいるということを知ったら、ほとんどのあいさつ信者は知らない人や関わる気もない人などにあいさつをやらなくなる人が多いだろう。
例外あれど、あいさつを返させたいからあいさつした相手のことを大切でもなくて、どうでもいいと思っている人に形だけあいさつしている場合が多いだろうから、堂々と関わる気もない人などにあいさつしなくなるだろう。

職場や部活であいさつをしている人は、職場や部活であいさつすることは当たり前で常識だという人もいるだろうが、私が働いていた複数の職場では例外を除いて、ほとんどの人は私にあいさつしてこなかったし、私がいた部活ではあいさつはしている人はいなかったと思う。
人類の中で3万人や50万人ぐらいがやっていることでも、常識や社会のルールなどと言う場合もあるだろうし、数億人や数十億人がやっていることを常識や社会のルールなどという場合もあるだろうし、ごく少数だけが信じていることや、自分だけが信じていることでも常識という場合もあるだろう。同じ言葉を違う意味で使っているのだ。
あいさつを常識と言う人もいるだろうが、みんなが正しいと信じていない。

人間は誰でも自分に都合のいい捉え方をしているところがあるだろうが、
自分が正しいと主張したい時には、一人でも自分と同じことを信じていたり、自分と同じことをやっている人がいると、自分が正しいと根拠もなく信じたり、安心したりする人もたくさんいるだろう。
自分の信じていることを否定してきたり、自分と同じことをしていない人がいることを知っていても、自分が正しいと信じたい人は、正しいという根拠や裏付けがなくても自分が正しいと信じるのだ。

昔、日本のどこかの地域で、その地域に住んでいる男が女の家に行ってセックスをするということをやっていたみたいで、セックスをされたある女の人が警察に通報し、セックスした男の人は逮捕されたみたいだ。
私はYouTubeの動画でこれを知ったのだが、日本のある地域では、相手の同意がないのにセックスすることがまかり通っていたのだろう。
それを誰かが言って、多くの人に広まらないと多くの人に知られることもないだろう。
その逮捕された男の人のことは、多くの人なら女の人が嫌がっていて同意がないのにセックスするのはダメだと思うだろうが、その地域の人の中には逮捕された男の人の方を擁護している人もいたみたいだ。
自分達も今まで同じことをやってきて、おかしいことだとは思っていないのだろう。人は同じ人間ではないので同じことは思わないのだ。

あいさつでは、あいさつ信者は自分達のあいさつ返しが正しい信仰は間違っていなくて、人間としてすべきことだと信じているだろうが、
これは間違いでウソであり、あいさつ返しが正しい根拠などどこにもないが、あいさつ信者の方が多いので、あいさつ返せの信仰はまかり通りやすく、あいさつ信者はあいさつ非信者がいることや、知らない人にあいさつしなくてもいいという信仰の人がいることを知らない人が多いから、
オウム返しのあいさつ返しを求める人がたくさんいるのだ。
あいさつを正しいと信じている人が暴走して、あいさつしろと押し付けていても、みんながあいさつを正しいとは信じていないということを
子どもの時から多くの人は知らずに生きてきて、子どもの時から鈍くて鈍感なところがあるのだ。

言ったことが大勢の人に知られやすいのは新聞、雑誌、テレビのメディアやマスコミと言われているものや、ブログやSNSやYouTubeなどの一部も
大勢から視聴されたり、読まれたりしている人達もいる。でも、ほとんどの人はSNSやYouTubeなどで思っていることを言ったりしても、
誰も見聞しないか、ほとんどの人から見聞されない場合も多いだろう。もし大勢に広まっても、広まるまでに時間がかかるだろう。

ヘミングウェイという作家の人が今スペインで有名な祭りのことを本で取り上げなかったら、スペインのその祭りも有名にはならなっただろうというようなことを書いている人がいた。
誰かが何かの話題を取り上げて、なおかつ、それが大勢の人に知られなければ、知らない人からしたら、ないのと同じことなのだ。
誰かが言っていることを知っても信じる人もいれば、信じない人もいるが、今まで自分が知らなかったことを言っている人がいるということを知ることは出来る。

昔、あなたの知らない世界というテレビ番組があったが、世の中や人間のことは誰でも知らないことだらけだし、多くの人はほとんどのことを知る気もなく興味、関心がないだろうが、誰でも多かれ少なかれ知ったかぶって知っているつもりになっていることはあるだろう。
その一つがあいさつで、多くの人が何で一部の人にだけあいさつしているのかの心理はよく分かっていないだろうし、分かる気もない人もいるのだ。
表面的で機械的なあいさつをしているだけで、相手の心理は分かっていない場合が多いだろう。

 

 

89.出る杭は打たれるのではなくて、気に入らない杭を打っている

 

「出る杭は打たれるなど」と言うが、例外あれど、自分が正しいと信じていることや、自分に都合のいいことや、自分が好きなことしている人に対しては出る杭は打たないのだ。
同じことをしても、好きな人がやるのは許すけど、他の人ならば許さないなどのえこひいき差別をするのだ。
例外あれど、職場や会社などで下の立場の人や、年下や、人として格下に見ている人が思っていることを言ったり、口出しすると不満を持ったり、腹を立てるのに、同じことを自分や年上や、職場で立場が上の人がやったり、
人として上に見ている人がやると許して、出る杭であっても打たないのだ。

出る杭を打つのが日本人ならば、日本人は何もできないということになるし、何もやっていないということになる。
それならば、給料を貰う仕事などできないし、金でやっていく世の中をやっているのもおかしいということになるのだ。
歌手が新曲を出したり、ライブやったりなども出来ないだろう。
好きな人や、役に立っている人や、嫌いであっても大勢から好かれていることや、大勢の役に役に立っているものは許されやすいので、歌手みたいに大勢から好かれていて、役に立っている人が新曲を出しても、それを止めることはしないのだろう。

ブスだと思う人の顔を嫌う人や、体臭やたばこや香水などの何かの匂いを嫌ったり、不満を言ったりする人に、出る杭を打っているとは言わないが、誰かの言動でやってもいいと思うことや、悪いことや不正ではないと思うことをやっている人を否定したり、止めたりなどすると出る杭は打たれるなどと言う人もいるが、悪だとか、不正だと思っていることや、大勢が嫌がっていることを止めたり、否定しても出る杭は打たれるとは言わないだろう。
誰かの信じていることや、やっていることや、やろうとしていることを否定したり、止めたりしている点では同じことなのだ。
出る杭は打たれるという言葉に隠している意味は、例外あれど、気に入らないことを否定したい、止めてやりたい、と思っているのだろう。
例外は、自分は気に入らないけれど、大勢から気に入られて、好かれていたり、役に立っていることの場合は不満を言ったり、止めることで
自分が嫌われたり、大勢から不満を言われることを避けたかったり、自分は嫌だけど、大勢の役に立っているのなら許してやるということだろう。

人間は逆のことを信じているところがあるので、誰かが自分の信じていることをまかり通らすと、同じことを信じていない人は不満を持ったり、相手の決めた決まりを守らなかったりすることになるのだ。
権力者がいい例で、権力者やその権力者を支持する人は、権力者が決めたことに従って合わせてほしいのだが、みんなが同じことを正しいとは信じていないので、権力者の決めたことに従わなかったりするのだ。

権力者を支持する人や権力者は自分の思い道理にしたいのに、それができないから不満を持ち、自分達が正しいのに、なんで自分と同じことを信じていないのか、自分が望むことをやらないのか理解できないところがあるのだ。
こういう人達のことを悪く言う言い方では支配的、独裁的、独裁者、支配者、勝手、我がまま、自己中心的などと言われるだろう。

「人を攻撃する人は自分が先に相手から攻撃されたと思っている」と言っている人がいたが、ほとんどの攻撃はこういう理由だろう。
権力者とかの、いかにも支配的で自分の言うことを聞いてほしいような人は
自分に従わない人に対して「自分の思い道りにしたいのに、なんで言うこと聞かないんだ?理解できない、嫌な気持ちにさせられた」などと思い、気に入らなくて、自分の言うこと聞かない人を攻撃したりする場合もあるのだろう。
本人は先に自分が相手から被害を被って、嫌な思いさせられたなどと思っていたりする場合があるのだ。

日本人は小さい頃から、出る杭は打たれるとか、控えめにとか、出しゃばらないようにという教育をされてきていると言ってる人がいるのは、
自分や自分が尊敬している人など上に見ている人に対して、上に見ている人よりも立場が下だと思っている人が出しゃばらずに、
しゃしゃり出てきたりせずに控えて、上の言うことに合わせて従ってほしいと思っている人もいて、それをしない人には出る杭を打ってやるということだろうが、自分達が正しいと思うことや、やってもいいと思っていることには、出しゃばってもいいし、控えなくてもいいし、出る杭は打たないということだ。
全てのことに対して控えろとか、出しゃばるなという意味では言っていないのだ。

例えば、学校の先生が生徒にスカートを短くするなとか、髪を染めるなと言っていても、多くの人はそれをやってもいいと思っているだろう。信じていることが違うので、同じことに対して同じことを思っていないのだ。

自分の子どもに言うことを聞かせるためや、親が間違っていると思う言動を子どもがやったことに対して、子どもに軽い暴力を振るったり、子どもの言動を否定することに誰かが共感した場合は、「厳しい親御さんで、躾がなっている」と褒めても、別の人なら「あれは親の方が間違っていて、やってもいいことなのに止めているのはおかしい」とか思ったりするだろう。

例外あれど、学校や家などで年下の子供に、親や先生が正しいと信じていることを守らせたり、自分たちに都合のいい言動を取らせようとしていて、
やれと言ったことだけやればいいのだから、自分たちが言っていることを鵜呑みにして信じてほしいと思っているところがあり、それに逆らったり、言うことを聞かなかったりする人には不満を言ったり、身体暴力振るったりするのだろう。

出る杭を打っているのではなくて、気にいらない杭を打っているだけだ。
はっきり言っていないから分かりにくいのだ。
格下に見ている人や嫌いな人がやると止める場合があっても、他の人が同じことをしても止めなかったりするのだ。
羨ましがられたり、妬まれたりしないために止めてくる場合もあるだろう。
何かを持っていたり、そういうことをやっていたら、他の人から羨ましがられたり、妬まれるから、それを持っていることを言ったらダメだとか、
あれをやったと言ったらダメだと言う場合もあるだろう。
人のやっていることを止める理由は同じ理由で止めているわけではない。
あいさつも同じで、あいさつをしてほしいのにあいさつをしないから相手を嫌っていたり、不満を持つ理由が、あいさつを返さないという大勢と同じことをしないから叩いている人もいるだろうが、あいさつを返さないことに不満を言う人の全てがその理由で不満を持っているわけではなく、
大切ではない人やどうでもいい人や嫌いなだけの人などがあいさつしてほしいのにしないから嫌ったりして叩いたりしてきていて、
大勢と同じことをしないで、あいさつを返さないという出る杭だから叩いているわけではなくて、えこひいき差別しているのだ。

 

 

90.あいさつとYouTubeなどの広告ブロック

 

インターネットをやっていると広告が出てくる。この広告に対して思っていることも人によって違うだろう。
写真と文字だけの広告ならよくても、YouTubeを視聴している時に1回や2回以上動画の広告が入ると嫌がったり、うっとうしがったりする人もいるだろう。
嫌がっている人の中には、無料でYouTubeを視聴できるのだから広告は仕方がないと思っている人もいれば、YouTube利用者の誰かが広告を嫌がっているなら広告を出すなと思う人もいるだろうし、動画視聴の時に1回か2回ぐらいの広告ならいいけど、それ以上の広告が視聴中に入るのを嫌がる人もいるだろう。
YouTubeやテレビ番組などは、これらの会社に金を出している会社の金でやっていっているので、金を出している会社の広告を出さないわけにもいかないのだろう。
利用者は自分の都合のいいようにYouTubeなどを利用したいのに、自分が気に入らないことがあると利用者のことを考えていない、
分かっていないと思う人もいるだろう。
パソコンやスマホなどでYouTubeなどの広告が出ないようにするアプリがあり、それを使っている人もいる。
そういうアプリがあることを知らない人もいるだろう。

あいさつも似ていて、みんながあいさつを正しいと信じているわけではなく、あいさつ非信者もいれば、あいさつ信者の中には知らない人にはあいさつしなくてもいいという信仰を持っている人もいて、みんながあいさつや、あいさつを返すことを正しいとは信じていないので、初めにあいさつしてきた人をうっとうしがったり、嫌がっている人がいても、
あいさつ信者の多くはあいさつ非信者がいることを知らないだろう。
YouTubeなどの広告の場合は、広告が出ないようにするアプリがあることを知っていて使っている人は広告なしでYouTubeなどを使って、
わずらわしい、うっとうしい、見たくないと思っている広告を見なくてもいいだろうが、あいさつの場合はそうはいかない。あいさつを返さないと不満を言ってきたり、嫌がらせしてきたり、身体暴力を振るう人もいるのだ。
あいさつを誰にもしないことは簡単にできるが、あいさつを初めにしてきた人にあいさつ返さないと、何されるか分からない恐怖がある人もいるだろうし、不満を言われたり、嫌われるのも面倒だったり、嫌だから、あいさつ非信者は嫌でもあいさつする人の方が多いだろう。

YouTubeの広告に対して誰かが「なんども同じ広告を閲覧していると、
広告された商品とYouTuberに対して良くない印象を持つことも多いかもしれません」と書いている人がいたが、みんなが広告の商品やYouTuberに対して悪い印象を持つわけではないだろうが、あいさつでもあいさつ返さなかった人や、初めにあいさつしなかった人に不満を持ったり、嫌う人がいるわけだが、みんなが不満を持つわけでもなければ嫌うわけではない。同じことに対して同じことを思っていないのだ。
YouTubeなどの広告に対して、うざい、有害、迷惑と言う人がいたり、嫌がっている人がいても、多くの人はその広告を出している会社に常識なってない、非常識とか、ダメ人間とは言わないだろうが、あいさつも広告も初めに誰かに働きかけている点では同じだが、あいさつの場合はあいさつ信者が多いので、あいさつを返さない人をおかしいとか、非常識、常識なっていない、ダメ人間などと見下したり、嫌ったりするあいさつ信者もいるわけだ。
あいさつ信者の中には、人や物事を自分の言いなりにさせたいことをコミニケーションや社会のルールなどと言い、自分が勝手に信じこんでいる
あいさつ信仰を正当化させて、同じことを信じていない人を見下したり嫌うが、自分が間違った信仰を持っているとは思わないのだ。

 

91.あいさつと恋愛も似ているところがある

 

恋愛という言葉の定義、意味付けは人によって違うが、
多くの人の恋愛の定義は性的両思いだったり、性的両思いでセックスをしたり、性的両思いでセックス以外のことでも一緒に行動している人達のことを
恋愛と定義づけている人が多いと思う。
誰かの外見や言動などを見て性的に好きになった理由について、なんであの人に性的好意を持ったのかを聞かれても、
性的好意を持った人自体が何で性的好意を持ったのか分かっていないだろう。

男が美人やかわいいと思う顔の人に性的好意を持った時に、
性的に好きになった理由を、あの子がかわいいから好きになったという男もいるだろうが、なんで顔がかわいいから性的に好きになったのかの理由は分からないはずだし、なんでその人の顔をかわいいという言葉で言い表したのかも自分では分からないだろう。

誰かからこういう顔をかわいいとう言葉で言い表せなどと言われなくても、勝手にある顔を見てかわいいという言葉でいい表すのだ。
あいさつもそれと同じで、多くの人はあいさつを初めにしたら、みんながオウム返しであいさつを返してくると信じている人がたくさんいるだろうが、
なんであいさつを初めにしたら、あいさつされた人が全員オウム返しであいさつをすると勝手に信じ込んでいるのかは自分でも分からないだろうし、
なんで一部の人にだけあいさつをしてほしいのかの理由も自分では分かっていない人もいるだろう。

一人の人にだけ初めにあいさつさせたがっていたり、ごく少数の人にだけ初めにあいさつをさせたがっている人がいるが、なんで一人だけとか、一部の人にだけ初めにあいさつをさせたいのかを、初めにあいさつさせたがっている人に聞いても自分でも理由は分からない人もいるだろう。
自分でも理由が分かっていない点では、あいさつも恋や恋愛と同じなのだ。
恋愛やあいさつだけではなくて他のことでも同じことだ。
色んなことに不満を持っていても、なんで不満を持ったのかの理由を自分では分かっていない場合が多々あるだろう。

 

 

92.切羽詰まらないとやらない うまくいかなくなった時に考え出したり、変えようとする

 

私は母親の実家の2階建ての家に住んでいて、台所のシンクから流した水などは外の汚水桝(おすいます)に流れる。
家の裏の土の所に数か所マンホールの小さい蓋があったのは知っていたが、中を見たことはなかったのだが、数個あるマンホールのうちの一つを開けたことがある。
開けた理由はそのマンホールから水が溢れ出していたからだ。
マンホールのふたを開けたら、汚水桝の中に白いものがたくさんあった。
ネットで調べているとこの白いのは油の塊で、オイルボールとも呼ばれているらしい。
白いものは固くて、匂いも臭かった。それを取って燃えるゴミに捨てた。

その後、何回か汚水桝の白い物を取った。ある日、台所のシンクの排水の所から水が流れずにシンクに水が溢れてきたことがあった。その水が溢れる前から台所の水の流れが遅くなっていることに私は気づいていたが、
水が流れないわけでもないし、流れが遅くなっても流れているので汚水桝が詰まり気味なのだなと思ったけど、汚水桝を掃除しには行かなくて、シンクに水が溢れてきた時に汚水桝を掃除しに行った。
他の人も、こういう風に切羽詰まった時ではないと対処しないこともたくさんあるだろう。

その後、2021年の5月ぐらいの時に台所の水を流すとゴボゴボという音が突然しだした。
お皿などの洗い物はほとんど私がやるのだが、台所のシンクで洗い物などして水を流すとゴボゴボという
音が何回もして、水の流れが遅くなったので、また汚水桝に白い汚れが溜まっているのだろうと思って汚水桝を掃除しに行ったら
白い塊があり、それを取り出した後に、またシンクで水を流しても、まだゴボゴボという音が鳴るので、汚水桝の問題ではないと思った。
その後、ネットで調べているとシンクしたの蛇腹ホースにつまりがある場合があるらしく、排水溝のつまりを取る洗剤を数回使ったが、ゴボゴボ音はなくならなかったので、蛇腹ホースを取ってホースの内部を見たら、ホースの内側にネチャッとしたものが付いていてホース内部が狭くなっていた。
割りばしの先に使い古しの歯ブラシをテープで巻いて付けてネチャッとしたものを取り、その後、水を流したらゴボゴボという音はしなくなった。

私と同じように、シンクの水の流れが悪くなると、つまりを取る洗剤を使っても効果がない人が業者の人に高圧洗浄などをして、
排水溝のつまりを取ってもらう人もいるようだ。排水溝のつまりがひどくない時には排水溝のつまりを取る洗剤も効果はあっても全てのつまりに効果があるわけではないのだろう。台所の油汚れに重曹やセスキ炭酸ソーダが効果があっても、頑固な油汚れには効き目などないのと同じだろう。

自分がやろうとしていることがうまくいかなかったり、いつも同じようにできていることがいつも道りにできなくなった時に、
上手くいかなくなった原因を調べたり、うまくいくように対処しようとしたりするのが人間だろうが、好きなことや、快楽で自分が気持ちよくなることには積極的に変化を起こす人は多くても、どうでもいいことや対処するのが面倒だと思うことなどには、切羽詰まった時に変化を起こそうとする人の方が多いだろう。好きでもないことに対処するのも嫌だけど、対処しないといつも道りに出来ないことなどは、排水溝や汚水桝のつまりなどのように、水の流れが悪くなったり、完全に水が流れなくなった時など、何かがおかしくなっているとか、これからもっとおかしくなりそうだと思った時に切羽詰まった時に対処して変化を起こそうとする。
あいさつでも長年、自分がごく一部の人にあいさつしてきたことを否定されたり、止められたことがない人の方が多いだろうし、
初めにあいさつをしたら、言葉であいさつ返しをされて、無反応や会釈をされた人などほとんどいないくて、初めにあいさつされたら、言葉であいさつ返すことが正しいと信じていることに疑問を持つこともなく、
あいさつを自分にした人の本当の心理について考えることもなく生きてきても、自分の思い道りにならずに、初めにあいさつしたのに、あいさつ返させたい人が無反応だったり、会釈をした時に違和感を感じ、疑問や不満を持ち、相手の心理について考えだしたりするのだ。
嫌いだからあいさつ返さなかったんだと思い、不満を持ったりして、相手の気持ちや信仰心が分かっていなくても、自分が感じたことが正しいと信じたりする。

上手く言っている時には、それが間違っているとは思いにくく、うまくいかなくなった時に、うまくいかない原因について考えだす。
あいさつ信者の中にはあいさつのことで、自分の信仰道りにあいさつを返されても自分が正しいと信じ、あいさつをオウム返しで返されなくて自分の思い道りにならなかった時にも自分に問題はなく、相手がおかしい、間違っていると思い、根拠のない自信を持っているところがあるのだ。

 

 

 

93.制限を手放したらうまくいく場合と、うまくいかない場合がある

「制限を手放せばうまくいく」というようなことを言っている人がいたのだが、他人が信じている決まり(ルール)は言い方を変えれば、決まりという制限だ。
例えば、「値段がついているものに金を払え」とか、
「あいさつをされたら、あいさつ返しをしなければいけない」
「ほとんどの人は給料や印税という形で金を貰うようなことをしなければいけない」と信じている人は自分が正しいと信じていることをしない人に不満を持ったり、嫌がらせをしたり、刑法違反なら逮捕してくるのだ。

みんな、ほとんどの決まりを守っているわけがないが、一部の決まりは守り、自分が守っている決まりを色んな理由から他の人にも押し付けてくる場合がある。
人に対して、自分が正しいと思っている決まりという制限を絶対に守れせたがるところがあったり、自分が守らなくてもいいと許している決まりという制限を守らないことは許すのだ。
「私が守らなくていいと信じていることは守らなくてもいいよ。私が正しいんだよ」と思っていたり、言いたいのだろうが、それを別の言い方で、常識、社会のルール、当たり前、マナー、モラルなどという言葉で言うのだろう。

「制限を手放せ」と言っている人が本を書いて売っているのだが、この本を書いている人は、本に金を払ってもらえなかったら、生活費など色んなことに金を払えなくなるから金は払ってもらわないとやっていけないだろうから、値段ついているものに金を払わなければいけないという制限の決まりには従ってほしいだろうけど。
制限を手放したらうまくいかない場合もあるということだ。

あいさつのことでも、あいさつをしないことは簡単だが、あいさつ信者が「あいさつを初めにされたらオウム返しで返せ」とか
「オウム返しで返さなくても、最低限会釈をしなければいけない」とか「あの子は自分や私の家族に初めにあいさつをしなければいけない」という
正しくもない決まりという制限を勝手に作ったり、信じていて、他人を自分の言いなりにさせようとしている。
あいさつ信者の人が正しいと信じているあいさつ信仰という制限に合わせて従ってあげないと、嫌がらせされたり、身体暴力をやられたり、あいさつ返すまでしつこくあいさつしてきたり、本人のいる近くで不満を言ってきたり、悪態ついてきたり、攻撃してくる場合もあるのだから、そういう面では簡単ではないとも言える。

制限を手放せばうまくいく場合もあるだろうが、自分が正しいと信じていなくて、他の人が正しいと信じている決まりという制限に合わせて従わないと、攻撃されたり、逮捕されたりなどする場合もあるのだから、制限を手放してもうまくいかない場合もあるだろう。
あいさつ非信者や、あいさつ信者であっても知らない人にあいさつしなくてもいいと信じている人が誰かがあいさつしてきてあいさつ返さないと、自分が正しいと信じているあいさつ信者から、どんな態度を取られて何をされるか分からないから、相手に合わせてあげて、あいさつを返す人の方が多いだろうけど。
あいさつ返されたあいさつ信者は、自分の信じているあいさつ返しが正しい信仰は間違っていないんだと自信を深め、
あいさつ返した人の心理、精神を分かっていなくても、分かっていると勘違いして生きているのだろう。



 


脱あいさつ あいさつは正しくない15

2022年10月22日 | 脱あいさつ

目次

第1章から第9章へのリンク
第10章から第12章へのリンク
第13章から第20章へのリンク
第21章から第23章へのリンク
第24章へのリンク
第25章から第28章へのリンク
第29章から第37章へのリンク
第38章から第47章へのリンク
第48章から第52章へのリンク
第53章から第56章へのリンク
第57章から第59章へのリンク
第60章から第67章へのリンク
第68章から第75章へのリンク
第76章から第77章へのリンク
82.嫌われないための防嫌対策
83.人間は人のことを分かっていないところがある
84.自分が正しいと信じていることを一方的に押し付けているのは自転車の防犯登録もあいさつも同じだ
85.あいさつと不審者
86.スケープゴート
第87章から第93章へのリンク
第94章から第99章へのリンク

 

82.嫌われないための防嫌対策

 

言いたいことを具体的に詳しく、はっきり言えば、言いたいことを分かってもらえる場合もある。
無言だったり、言葉で言っていても逆の言い方をしたり、遠回しに言ったり、詳しく言わないと何が言いたいのか分かってもらいにくかったりするし、詳しく言っても言いたいことが分かってもらえない場合もある。
詳しく具体的に言わない理由は人によって違うだろうが、遠まわしに言ったり、はっきり言わないことが大人な態度であるとか、
相手や周りの人から嫌われたくないからという理由ではっきり詳しいことを言わない人もいるだろう。
同じことを言い表すのに色んな言い方をしたりするが、
言った人には意味が分かっていても、聞いた人や読んだ人が、言った人が何を言いたいのか分からなければ言っていない無言と同じようなものだ。

嫌がらせをしている人の目的が、嫌がらせをする人が相手に嫌な思いをしてほしい場合と、相手のせいで不快になったと思っていて、その不快さを発散させるために嫌がらせしている人もいるだろう。
嫌がらせされている人はたくさんいるだろうが、嫌がらせされていること自体に気づいていない人もたくさんいると思う。
嫌がらせをしている人が、嫌がらせをされている人に自分がやった嫌がらせや、嫌がらせしている理由を気づいてほしいと思っていても、
嫌がらせをされている人が気づいていないなら何のために嫌がらせをしているのかということになる。ただの自己満足だ。

嫌がらせをされている人は大体、嫌がらせをしている人から嫌われていたり、見下されていたりするだろう。
多くの人は大勢の人から嫌われたくないだろうし、嫌がらせなどされたくないだろうから、嫌われないようにしようとしているところがあるだろう。
自分が嫌なことは人にはしないようにしているとか、他人に自分が嫌なことはしないようにと言っている人がいるが、こういう人たちは自分と他の人をほとんど同じ人間だとは思っていないだろうに、自分が嫌なことをしなければ人は嫌がっていないという信仰を持っていてバカなところがあるのだ。

同じ共通点があったとしても、全てが同じ人間などいないだろう。だから、他人のことは分からないところがたくさんあるのだ。
他人のことが分からないところがあるから、他人が何を嫌がるのかも分からなかったりする。
かといって、誰かが何かを嫌がっているのを分かっていても、人が嫌がることをやってもいい場合があるなどと思っているところもあるだろう。
生きていく中で、大勢から嫌われないようにするために、大勢と同じことをして仲間だと思われようとするところとか、大勢が悪だと思っていることをやらないようにして、自分の本音や本心にウソをつきながら生きて、嫌われないようにしている人がたくさんいるだろう。
あいさつをする理由も嫌われないためにしている人もいるだろうけど。

この嫌われないようにすることを、寒さを防ぐための防寒対策や刑法違反などのことをされないために監視カメラをつけたりなどすることを防犯対策などと言ったりするが、これに似た言い方をすれば「防嫌対策(ぼうけんたいさく)」や「嫌われないための対策」とか「嫌われないようにするための対策」とか「嫌われることを防ぐための対策」とも言い表せる。

あいさつをする人の理由の一部や、それ以外の多くのことも防嫌対策だろう。
嫌われたくなかったり、好かれるためにする態度を媚売りとか、胡麻すりなどとも言う。
嫌われて不満を言われたり、嫌がらせをされないために防嫌対策という理由であいさつしていても、あいさつを社会のルールや常識、マナー、コミニケーションなどと言う人はたくさんいるだろうが、あいさつしている人の心理、動機、目的に全く関心がないか、ほとんど関心もなかったり、
あいさつしている理由の具体的なことが分かっていないのに、分かったようなことを言っている人もいるのだ。

あいさつする理由を「あいさつは嫌われたくないからやった」とか「大勢と同じことをしないことで変な人とか思われてバカにされたくないからやった」などと本心は言わない人が多いだろうから、人が一部の人にだけあいさつしている理由はあまり分からないだろう。
大勢がやっていることを社会のルール、マナー、モラル、常識などと言い表す人が多くても、あいさつをやっている目的、心理などについては言っていないのだ。
年金は世代間の支え合いとか、給料を貰うようなことをするのは社会参加や社会貢献などと言い表して綺麗事を言う人がいるが、
やっている人たちの心理とか信仰心については言っていないし、あまり分かってもいないだろうし、分かる気もなかったりするだろう。

嫌われないためにというのも、内面で嫌われているだけや、一回だけ不満を言われる程度ならよくても、しつこく不満を言われたり、
嫌われた後に嫌がらせされることを嫌がる人の方が多そうだ。
防嫌対策とか、嫌われないための対策という言い方よりは「嫌がらせされたくない対策」とか「嫌がらせ防止対策」と言った方がいいだろう。

人に不満を持って嫌うのは自分の思い道りにならなったからだろう。
自分の思い道りにならないことの不満に大勢が共感して同じことを感じていると許されて、普通の感覚とか常識的など思われるだろうが、
大勢が嫌がらないことを嫌がると、変人や心が狭いなどと言われて、悪く言いわれやすい。

人が何に不満を持つのかは人によって違うので、自分や自分の周りにいるごく一部の人が嫌がらないようなことを嫌がる人もいるのだ。
大勢が嫌がっていて、それを口に出したり、書く人が多いことは知られやすいが、ごく一部が嫌がっていることや少数の人が嫌がることの場合は、
知られにくいだろう。
大勢から嫌われている人で多くの人が知っているのは、政治家や逮捕されているような人だろう。これ以外の人も色々なことで嫌われているのだ。
あいさつで言えば、初めにあいさつをしないことに不満を持ったり、本人の目の前で悪態ついたり、はっきりと「あいさつもしねーよー」とか
言う人がいるのだ。こういう人は例外中の例外だろう。
あいさつを返されないことに不満を持ったりして、おかしいとか思う人はたくさんいそうだが、あいさつ返さない本人の目の前で悪態ついたり、身体暴力やったり、嫌がらせする人や不満を言う人はあまりいないだろうし、これも例外的な少数派だろう。
防嫌対策や嫌がらせ防止対策は、相手が嫌がることをしなければいいわけだが、同じことをしても、ある人が嫌がらなくても別の人が嫌がったりするのだ。
何をやろうがやらなかろうが、誰かは不満を持つということになる。だから人間関係は難しいのだ。

人間は自分が一番可愛いのだ。自分よりも大切な人がいると言う人がいるが、自分より大切な人がいるからこの人のために死ねるなど思うのは、
自分が大切だから自分の思い道りにしたいということだろう。つまり、自分が一番大切なんだよ。
大切な人が嫌がることした人に嫌がらせしに行くのを、自分より大切な人のためにと言えばかっこが付くのだろうが、自分が大切な人が嫌がっていることで自分が不快だから、嫌がらせに行くのも、自分が嫌な気持ちになりたくないのに嫌な気持ちになったことを嫌がられた人のせいにしていて、
結局は自分が一番大切なんだよ。
人のためにという言葉と自分のためにという言葉は同義語とも言える。
人に喜んでほしいからという理由で何かをやると人のためにというが、自分がそれをやりたいからやっているのだから自分のためとも言える。

人から不満を言われたり、攻撃されたりしている人に、「人のことを考えていない」とか「人のことを分かっていない」などというようなことを
いう人がいるが、それはあからさまに人から不満や攻撃されていない人も同じで、多くの人はほとんどの人のことは考えていないだろうし、
人のことなどほとんど分からないだろう。
人のことを考えたら人が嫌がることはしないかのように思っているような人がいるが、同じ人間ではないのだから、人のことを考えても、ほとんど人のことなど分からないだろう。
あいさつを初めにする人の多くはあいさつを返されたいからあいさつをしてくるだろうが、あいさつ返されないことに「あいさつ返されたいからあいさつしたの分かってるんだろう。何であいさつ返さなかったんだ?」と不満や疑問を持ち、自分に合わせて従わなかったと不満を持つ人がいるが、こういう人もあいさつ返さなかった人の体の状態や、信仰心や気持ちなど知らないだろうし、知る気もない人が多いだろう。
結局、自分が可愛いので自分を擁護して、相手のことを考えはしないような勝手で我がままなことを思っているのだ。

日本以外のアメリカだかどこかの国で、小学生か中学生ぐらいの生徒と先生が性的両思いでセックスして、それがその国の法では違法で先生が逮捕されていたような記憶があるのだが、セックスした2人はお互い性的両思いでセックスしていても、他の誰かがそれをおかしいと思ったり、
逮捕する法律があって、その法律を適用すれば逮捕される場合もあるのだ。

逮捕されることではなくても、私がいとこの子どもにあいさつ返しをしなかったことに、いとこが私の近くで不満を言ったが、私にあいさつした子ども自体が不満を持っていたのか?
あいさつ返されなかった子ども本人がどう思うかではなくて、自分が子どもにあいさつ返してほしいのに
返されないことで不満を持ち、すぐに不満を言う。
人間は自分が可愛いので、自分の思い道りにならないと不満を持つところがある。

 

83.人間は人のことを分かっていないところがある

 

今までに誰かにプレゼント(贈り物)とか、食べ物などを渡された人の中には、本当は渡された物を迷惑したり、嫌がっていたり、いらないと思っているのに、色んな理由から形だけ受け取って貰った人もたくさんいるだろう。
あげた人の中には、相手が受け取ったから嫌がっていないと思う人もいるだろう。
貰われたから嫌がられていないと思った人の中には、またあげようと思う人もいるだろうが、相手は要らないと思っている場合もあるのだ。

あいさつ信者たちは、あまりにも数少ない人にあいさつをしてきて、あいさつした相手の全員か、ほとんどの人に言葉であいさつを返されたから
他の人もみんな言葉であいさつを返すと勝手に自信を持って信じた人がたくさんいるだろう。
そして、この人達はヘレンケラーを知っている人が多いだろうが、初対面の人にあいさつしたら、みんながあいさつを言葉で返すと
信じているバカで頭が悪いところがあり、鈍いところもあるのだ。
根本的に人のことを同じ人間だと思っていないだろうから、人には一部同じところがあると適当に思い込み、自分が正しいところがあると信じているのだ。
本当はあいさつ返しを正しいと信じていない人が、嫌われたくないからなどの理由で渋々あいさつするから、あいさつ返された方が、
「またこの人にあいさつをしよう。今あいさつを返したから、今後も自分があいさつするたびに毎回あいさつを返してくる」などと思って勘違いしたり、「あいさつ返されたのは自分が嫌われていないからだ」「自分の思い道理になってうれしい」などと無意識、意識的に思ったりするのだろう。

人間は全てが自分の思い道りにならなくても、一部は自分の思い道りになることがあると信じているところがある人が多いと思う。
その一つがあいさつで、あいさつを初めにしてあげたら、絶対に100%言葉であいさつを返されると勝手に信じ込んで、ごく一部の人に
初めにあいさつしたら、あいさつした相手全員が言葉であいさつを返すと「ほら私が信じていることが正しいこともある。
あいさつしたら、みんなが言葉であいさつ返すんだよ。」とか「言葉であいさつを返されたいと思っている自分の気持ちが相手に通じたから、
相手は言葉であいさつ返したんだ」「ああ、やっぱり自分が正しい」などと自分が思いたいように都合のいいことを思うのだろう。
人間は自分に都合のいい捉え方をするところがあるのだ。

あいさつをすることを心のふれあいと言う人がいるのだが、あいさつを返させたいと心で思ってあいさつしたら、自分の思い道りにあいさつを返されたことを、自分の気持ちが通じて、心が通じたからあいさつされたと思って心のふれあいと言っていそうだが、みんながあいさつ信者ではないので、あいさつしていても形だけ渋々あいさつしている人もいるのだが、
あいさつ返した人や、初めにあいさつした人がどういう理由であいさつしたのかの心理、理由を分かっていなくても、心のふれあいだと思いたい人は思うのだ。言葉の定義は人によって違うので同じ言葉をどういう定義、意味付けで使っているのかは人によって違うからだ。こんにちはとかのあいさつも同じ言葉とはいえ同じ意味で使っているわけがないのだ。

人が嫌がることをしても多くのことは許されたり、嫌がった方が間違っているとか、おかしいと思われる場合がある。
例外あれど、プレゼントや食べ物などをあげて、物を渡された相手が嫌がっていても、あげた方が悪くは思われないどころか、褒められる場合もあるのだ。
仲間ではない人に気を使ったとか、コミニケーション能力が高いとか、協調性があるなどと良く思われる場合がある。
自分が嬉しいことや、正しいと信じていることをやった人には、やられた人やそれ以外の誰かが迷惑していたりして嫌がっていても
悪く言われない場合があるのだ。
あいさつも、あいさつ返ししろという押し付けを嫌がっていたり、あいさつを返すことを正しいと信じていない人の方が白眼視されたり、
見下されたり、バカにされて、少数派が悪く言われやすいところがある。
いい加減で適当なところなど誰にでもあるだろうが、
例外あれど、そんないい加減で適当なところがある人が普通の人、一般人、堅気の人間、いい人、まとも、正しい人などと良く言われたりする場合もある。

私が中学生の時のある日、姉が家に帰ってきた時に私が姉に「お帰り」と言わないことに対して不満を直接言われたことがある。
それを言われたことに対して、私は自分が間違っているとは思っていないし、悪いとは思っていない。
姉が親や私が返ってきた時にお帰りと言っていた記憶はないが、
私の知らない所で家族にお帰りと言っていることがあったとしても、いつも言っているわけではないだろう。
この私の姉のお帰りと言われたいのに言われないことの不満とあいさつも同じだ。
他人にある言葉を言わせたいのに、自分の思い道りのをことをしないことに勝手に不満を持ち、自分の思い道りのことをしない方が間違っていておかしいと思っているのだ。

日本人を良く言いたがる人が謙虚、控えめ、つつましやか、辛抱強いなどと大げさなことを言うが、そうではないところなどたくさんある。
自分の信じていることには合わせてほしいのに、自分は他人に合わせないところがあるのだ。
日本人には我がまま、自己中心的、支配的、独裁的なところがあるのだ。
自分が信じていることが間違っていても根拠なく正しいと信じ、同じことを信じていない人を見下したり、嫌ったり、気味悪がったり、不思議がるのだ。
やくざや極道、暴力団と言われている大勢から悪く思われている人たちでも不満を持たないであろうことに不満を持って悪態ついたり、
警察を呼べば逮捕されるような嫌がらせをしていても、暴力団ややくざと呼ばれるわけでもない。
やくざ、極道、暴力団と言われている人を怖がっている人がいたり、悪い人間だと思っている人もいるだろうが、やくざや極道、暴力団と言われていない人のことも悪人や犯罪者などと呼んだり、あいさつをしなかった一部の人をダメ人間などと言う人もいるのだ。
やくざのこともダメ人間で劣っている人のように思っている人がいても、やくざと言われている人以外の人にもダメ人間などと言ったりして見下していて同じように言っているのだ。
やくざと言われている人や刑法違反をしていて犯罪者と言われている人などは、札付きの悪という扱いをされていたり、
悪者という言葉のレッテルを張っている人が多いだろうが、
一方で、ほとんどの人は悪い人ではないと言いたいのだろうが、言葉とは言葉遊びであり、どうにでも使えるものなので、誰でも悪人だとも言えるし、悪人なんていないとも言えるのだ。
人や人間以外の生物が嫌がることをしていたり、誰かが悪だと思うことをやっていることを悪や罪と定義づければ、
誰でも悪人であり、犯罪者であり、罪を犯しているとも言える。
人から嫌がられていたり、バカにされているところがあったり、誰かが人間としてしてはいけないと思うことをしている点では、
やくざと言われている人も、普通の人と言われている人も逮捕されるようなことをしている人も同じなのだ。

人によっては、自分も悪いことをしているけれど、それはかわいい悪さで、大したことなどしていないなどと思っていたりして、
自分よりも劣っている格下がいると上から目線になっていて特権階級意識を持っていたりする普通の人や常識人と呼ばれている人がいる。
人を見下したり、上に見たりして人に上下を付けているのは白人だけではない。人を見下すことを悪だと定義づけるなら、みんな悪人だ。
例外はあれど、少数派を悪者扱いすることで、それ以外のほとんどの人は逆に善人であると決めつけ、多数派が正しいと根拠や裏付けもなく適当、いい加減な信仰持っている人達が普通の人や一般人や堅気の人間などと呼ばれて良く言われているのだ。

江戸時代にキリスト教信者が権力者から迫害されて殺されたが、ほとんどの人は権力者側のやったキリスト教信者を殺すことを正しいとは思わないだろう。
ある時代にまかり通っていたことが正しい正義だからまかり通っていたわけではないのだ。
大勢がやっていたり、大勢が感じていることだから正しいということにはならない。
大勢がやっていることを正しいと信じている人がたくさんいるが、一方で例外もあって、大勢が学校に行っているし、子どもの多くも学校に行くことが普通で当たり前で正しいと思っている人もたくさんいるだろうが、
子どもたちも学校の授業を嫌っていたり、「なんで勉強しないとだめなのか?」と疑問を持っている人もいたり、
給料貰うような仕事に行っている人の多くは本当は働きたくないけど金がないとやっていけないから嫌々働いている人もたくさんいたり、
税金や年金を払っているけど本当は払うことを正しいとは思っていないのに嫌々払っていたりなど、大勢がやっていることに疑問を持っていたり、おかしいと思っていたり、間違っていると思っている場合もあるわけだ。
あいさつも同じだ。みんながあいさつ返すことを正しいとは思っていない。あいさつ非信者もいる。

政治家に不満を言う人がいるが、政治家以外の国民も同じようなものなのだ。
政治家が金に汚いとか、国民のことを考えていないとか、ウソをつくと言って不満を言ったりするが、国民もそんな人達なのだ。
全く同じではないから分かりにくくても、似たり寄ったりであり、五十歩百歩、目くそ鼻くそだ。
政治家への不満は、自分の身の回りの人が不満を言っていたり、テレビや新聞などのメディアで政治家に対する不満を言う人がいて、
政治家に不満を持っている人がいることが分かりやすいが、
国民の多くは他人から不満を持たれていても、影で不満を言われていて不満を言われている本人は不満を持たれていることに気づいていなかったり、
本人の目の前で遠回しに不満を言っても、本人や周りの人は遠まわしに不満を言われていることに気づいていなかったりするから、
自分たちが不満を持たれていることに気づいていない場合も多いだろう。

 

84.自分が正しいと信じていることを一方的に押し付けているのは自転車の防犯登録もあいさつも同じだ

 

自転車を買う時に店側から防犯登録をするように言われるが、みんなが防犯登録をしたいなどとは思っていない。
自転車の防犯登録は法律で義務付けられているなどと警察のホームページに書いていたが、その警察自体が法律のすべてなど守っているわけがないのだ。
みんなが自転車の防犯登録の法律を正しいとは信じていない。
信じていない人に防犯登録料を払うように強制している警察側も店側も合法の犯罪をやっているのだ。
店などの値段を付けて何かを売る商売自体が合法の犯罪で合法で詐欺、泥棒をしているだけだ。

警察側や店側が自転車を購入した人に一方的に防犯登録料600円ぐらいを払うように言っているが、払うことをみんなが正しいとは信じていないのに払わなければいけないようにしているのは、
あいさつしたら、あいさつを返せという信仰を持っている人と同じなのだ。
一方的に自分の信仰を押し付けているのだが、
あいさつの場合は、多くの人は社会のルールや常識、コミニケーションなどと言って正当化したり、美化させていて、防犯登録の場合は法律で義務付けられているなどと言い、義務や法律などという言葉で正当化させているのだ。

日本は独裁国家と言う人はあまりいないだろうが、防犯登録を見てもわかるが、権力者側が決めたことに従えと一方的に押し付けてきている独裁国家だ。
あいさつも、あいさつをされた側が満足して喜んでいたとしても、あいさつした方がごく一部の人に一方的にあいさつをして、あいさつされた人が嫌がっていなかったら一方的という言い方をしないのだろうが、
一方的にあいさつをしたら、あいさつされた方がたまたま喜んだりして満足しただけとも言える。
あいさつ信者も一方的で自分のあいさつ信仰が正しいと信じきり、独裁的なところがあるのだが、あいさつ信者が多いので綺麗事で美化されやすい。

自転車の防犯登録に少数の人が不満を言っていたら、権力者側の警察が知っても防犯登録を辞めないだろうが、大勢の人が不満を言ったら辞める可能性はあるだろう。
人が嫌がることをした一部の人は刑法違反で逮捕されるが、ほとんどのことは誰かが嫌がっていても逮捕されないが、防犯登録料を取ることに加担している警察や店側は防犯登録料を払うことを正しいとは信じていない人から金を取っていても逮捕されることはない。ただの差別だ。

防犯登録は義務と言っているが、義務という名目の宗教や教義とも言える。
宗教の押し売りはダメだけど、法律や義務という言葉で言い表しているものの押し売りはしてもいいと言いたいのだろう。
キリスト教や創価学会の人が自分たちが新しい教会や、宗教の建物を建てるのに金が要るから信者ではない人も金を出せと言ってきても払う必要はないと大勢の人は思うだろうが、税金や年金などの権力者側が決めた決まりは守らなければいけない場合があるとして、強制で押し付けることを許しているのだ。法律という宗教の押し売りだ。

誰かの自転車が盗まれた時に防犯登録をしておけば、自転車の持ち主に自転車が返ってくる場合があるから、防犯登録を義務などと勝手に決まりを決めているのだろう。自転車盗難と言われているのは刑法違反だから犯罪という言葉で言っているが、誰かが嫌がることをしていることや、誰かが嫌がっていて正しいという根拠もないようなことを犯罪と言うと定義付けるならば、
防犯登録料を払えというのも犯罪だ。刑法違反ではないから警察呼んでも捕まりはしないし、牢屋には入れられないけど。
防犯登録料を払えというのは合法の犯罪行為だ。
警察も合法をいいことにやりたい放題なところがあるのだ。そして、その警察のやっていることが自分達に都合がいい場合は、
警察が合法でやっていることも違法でやっていることも、多くの人は許しているのだろう。
職務に忠実で真面目などと警察を良く言う人がいるが、警察が法律の全てを守っているわけがない。
刑法を適用して誰かを逮捕していても、その刑法の全てを警察が正しいと信じているわけがない。
正しいと信じてもいない決まりを適用して人のことを逮捕するようなことをしていて、おかしいことをしているのだ。

法律の一部を正しいと信じて守っていたり、正しいとは信じていないのに法律の一部を色んな理由で守っている人が、
自分が守っている一部の法律や、法律以外の決まりを守らない人に対して不満や疑問を持っているが、こういう人たちも法律や法律以外の決まりのほとんどを守ってはいないのだが、自分と同じことをしないことに不満や疑問を持つが、
自分が守らなくてもいいと信じている決まりなどを、他の人から押し付けられることは嫌がり、我がまま勝手なのだ。

 

85.あいさつと不審者

 

ネットで不審者情報と書かれたものをいくつか見たのだが、
他の人なら不審者という言葉で言い表さないことを不審者という言葉で言い表している。
車から中年の人が「遊びに行こう」と声をかけていたということを不審者と言い表していて、その紙には不審者に注意などと書かれているのだ。

言葉の定義、意味付けが違い、言葉が通じていない。不審者という言葉の定義が違う。
遊びに行こうと言っているのは、ナンパという言葉で言い表す人もいるだろうが、おかしいとか、気味が悪いと思えば不審者と呼ぶ人もいるから、遊びに行こうと言った人を不審者と呼ぶ人もいるのだろう。

多くの人の不審者という言葉の定義は、誰かの外見や言動を気味悪がったり、悪いことをしているとか、悪いことをしそうとか、見下している人のことを不審者と定義づけている人が多いと思う。

同じことをしているのに、おかしいとか、気持ちが悪いとか思うと不審者と呼ぶ人がいても、他の人が同じことしたら不審者とは呼ばない勝手なことを思っているだけだろう。
子どもや年金暮らしや身体障害者や、主婦などが給料や印税という形で金を貰っていなことは許して、おかしいとは思わなくても、それ以外の人が給料や印税という形で金を貰っていなことには不満を持ち、見下したり、
不審な目で見たりしている人がいる。

ネットの別の不審者情報について、相模原北警察署からのメールマガジンに書かれていたのを読んだら、夜に自転車で帰宅途中の女が自転車に乗った男に後を付けられる事案が発生したと書かれていて、
その文章の初めに「犯罪情報」などと書かれていた。
以前、数年前の日中に、私が近所の住宅街で自転車に乗っていたら、数メートルぐらい前に制服を着た高校生の女が自転車に乗っていて、
その高校生が後ろの私を見た後に、自転車を早く漕ぎ出したことがあった。
その後、その高校生は再度、後ろを振り返って私を見たような気がするがはっきり覚えていない。
この女子高生は、断定か半信半疑で私が自分の後をつけてきていると思っていたんじゃないかと思うのだが、私は女子高生をつけているのではなくて、女子高生が向かっている方向に用があるから、その方向に向かっていただけのことだ。他の人もこういうことを思われている人がいるだろう。
日本人は子どもの時から鈍くて人のことや物事の正しいことが分からないところがあるのだ。

不審者という言葉をみんな自分に都合のいいように利用して勝手に定義付けて使っているだろうが、言葉とはどうにでも使える。不審者というのは、よくわからない人で謎だと思う人のことを不審だと定義付けるならば、
みんな不審者であるとも言える。ごく一部の人には住所や電話番号などの個人情報を教えても、他の人には教えない。
それ以外の色んなことも多くの人に隠して秘密にしていて不審だとも言える。
地球の一部である畑や田んぼなどの一部を自分達一部のものであると占領するようなことをしていても、多くの人から不審者とは言われにくいだろうが、不審なことしている不審者とも言えるのだ。

同じことをしても自分や仲間や、気持ち悪がってない人がやると不審や不審者とは言わないのに、他の人が同じことをやると不審者と言っているのを差別とも言わないのだ。
日本人が排他的な村社会と言われているのも、こういうところがあるからだろう。

警察が盗難自転車かどうかを調べるために人を止めたり、
職質と言われているようなことをしているのも、職務に忠実とか、仕事や職業と言えばかっこが付くだろうが、これらのことをやられた人の中には嫌がっている人もいるし、嫌がっていなかったとしても、警察のやっているこれらのことは、おかしいことをしている不審者とも言えることだ。
人が嫌がることをしていることを犯罪と言い表すなら、職質や盗難自転車かどうかを調べるために人を止めることも犯罪であり、
それをやっている警察も犯罪者ということになる。
ほとんどの人が誰かが嫌がることをしても逮捕にはならないけど、一部の人は逮捕されるような差別していることを、差別犯や差別犯罪者とも言える。

警察のもいい例だが、不審者と言う人も不審者と言うことだ。他人の姿は自分の姿だ。
他人が嫌がっていることして税金から給料という形で金を貰っても逮捕されるわけでもなし、不審者、変質者と言われるわけでもない。
警察の一部はおかしいことしているけど、ほとんどの警察はまともであると信じている人もいるんだろうが、警察という組織、集団自体がおかしいとも言えるが、警察も警察以外もほとんどの人まともないい人だと信じている人がたくさんいるのだろう。
見抜けている人が、警察のことを国営の暴力団、やくざで、一般に暴力団と言われている人との違いは、国営か私営の違いだと言っている人がいたが、
良い得ているが、ほとんどの人は一部の警察を悪くは言っても、ほとんどの警察のことを悪くは思っていないだろう。
人を逮捕したり、牢屋にいれることが正しい根拠などどこにもないが、大勢がやってもいいことだと信じているから、逮捕する法律はまかり通らす場合が多いのだろう。

私は以前、家の中で独り言を言っていた。その独り言の内容はあいさつのことなどの不満、悪口で、特定の個人や大勢がやっていることの一部について独り言を言っているのだが、その声が家の外に漏れている時があるみたいで、隣人の小野という男の老人に嫌われている。
私の家の隣で大声で他の人に私の悪口を言っている。独り言に不満を言っている小野が自分も私が独り言を言っていない時に、
「何をごにょごにょ独り言言よーんじゃ」と何度か言っているのを聞いたことがあったり、鳥がキーキー大声で鳴いている時に小野が「うるせーんじゃ」
と大声で言っていたことがあった。
自分も音の面では私の独り言よりも大きい音を出していて、草刈り機などの音出していたり、私への嫌がらせだと思っているが、小野の家の母屋から離れた所に以前、職場に使っていた建物があり、その建物の壁を外から、
金づちか金づちみたいなものでカンカンと大きな音を出して叩いてたり、クワの刃の部分を上に向けて、金づちか金づちみたいなもので大きい音出して叩いていたりした。
そんな小野が数年前に私が家のリビングにいた時に、リビングの外から小野の声で「不審者がいると犬吠える」という声が聞こえたのだが、
不審者と言ったのは私のことを言ったのだと思っている。
その当時うちには犬がいたのだが、うんこをする前とか、それ以外の時にもワンワン吠えることがよくあったので、
犬はおかしい奴を見抜けるから、私の家から犬の吠え声がするのは、独り言を言っているおかしい奴がいるから犬が吠えていると言いたいのを
「不審者」という言葉で表したんだろうが、小野がやっていることも誰かがおかしいと思うことをやっているので、
小野も不審者ということになる。不審者と言う人が不審者だ。
小野は外で猫を飼っているが、猫を外飼いしていることを嫌がっていたり、迷惑している人もいるが小野はそれを知らなさそうだ。

人が嫌がることは人によって違うのだ。人が喜ぶことも人によって違う。
多くの人はそれを頭では分かっているのだろうが、実際、現実に人がいろんな言動を取っているのを見て、自分と同じことをしていないかったり、
自分が正しいと信じていることをやらないとおかしいと思う場合もあるのだ。

数年前に、近所のお大師堂の前を私の母親と通りすがった時に、お大師堂に60代ぐらいの男の人が上半身はノースリーブの白い下着を着て座っていて、
お大師堂から離れた所で、私の母親が同町内のじいさんにお大師堂にいた年配の人のことを言ったら、じいさんが同町内でネズミ捕りをしている警察の所のお大師堂の所にいた人のこと言ったらしいが、ほとんどの人なら警察には言わないだろう。私はその人を怪しいとも不審とも思わなかったけど。
同じ外見の人を見ても、気味悪がったりして警戒する人もいれば、気味悪がらない人もいるのだ。
気味悪がっても、みんながその人を不審者とは呼ばないし、警察に連絡したりはしないだろう。

あいさつについても、おかしいと思われるのは、あいさつを返さなかった方か、あいさつされて会釈だけした方が不審がられて、おかしい人や、
異常な人と思われやすいだろうが、あいさつしたらあいさつ返すことが正しいと信じているあいさつ信者が間違っていることを信じている不審な人とも言えるのだ。
何で一部の人にだけあいさつをさせたがっているのかを隠していて不審だ。
あいさつ返さなかった方が不審な不審者という感じだろうが、バカと言う人がバカと同じで、あいさつ返さないことを不審だと思う人も、
あいさつ返すことが正しいと信じている自分の信仰を同じことを信じていない人に押し付けている不審者とも言える。

相手のことを全然知らないか、よく知りもしないのに断定か半信半疑で人のことを決めつけて、自分の感じたことに自信を持っているようなところが
日本人にはあるのだろう。自分の一部は知ってほしいけど、別のことは知ってほしくない。
自分のことは知ってほしいところがあっても、相手のことは全く知ろうとしないか、ほとんど知ろうとはしないところが、人間には誰にでもあると思う。
あいさつ信者があいさつ非信者のことや、あいさつ信者の中にも知らない人にあいさつしなくてもいいという信仰を持っている人がいることを知らずに、一方的に自分の信じていることを押し付けているのも、相手のあいさつについての信仰を知らなかったり、知る気もないのだ。

 

 

86.スケープゴート

 

子ども全員か、ほとんどの子どもはいい人(善人)だと信じている人がいる。
子どもはいい人だから悪いこと、おかしいことをしないと信じている人がいるが、こういう人の中には子どもが悪いこと、おかしいことをしていると思ったら、その原因、理由は大人のせいだという理由をつける人がいるのだ。
自分が感じて信じていることが正しいと思っていて、それが外れていたとしても、自分の感じたことが正しいと思う場合には、自分が感じていることが正しいと思えるような理由をつけるのだ。

子どもをいい人だと思いたい人が子どもが悪いこと、おかしいことをしていると思った場合に、「大人がおかしいから子どもがおかしいことをする」と言う人もいるし、「親の躾がなっていない」とか「大人が教えていないから」「大人の心を吸った」「大人の真似をした」と思う人もいるのだ。
もし、大人が同じことをしたら本人が悪いとか、変人や悪人などと言って悪く言うことも、子どもがやれば悪く言わずに、大人のせいにするのだ。
大人のせいにしているのもをおかしいとも言える。
子どもは大人の真似をしていると言っている人がいるが、子どもはほとんどの大人の真似などしているわけがないし、大人の色んなことを馬鹿にしたり、見下している子どももいるのに、大人のせいにばかりしているのもおかしいのだ。
大人も、自分より年上の大人の影響を受けているところもあれば、年下の影響を受けているところもあれば、色んなことの影響を受けているだろう。
今、子どもの人も20才過ぎて年齢が大人になれば、年齢が子どもの人がおかしいとか悪いと思うことをしたら、大人のせいだと言われだすのだろう。

好きな人や、いい人だと思う人や自分のことを悪く言わないために、特定の一部の人を悪者に仕立てたり、問題視してスケープゴートにしているのだ。
人間は自分の感じたこと、信じていることが正しいと根拠や裏付けもなく信じているところがあるので、子どもをいい人だと思いたい人は、悪いことをしていると思っても、それを子どものせいにはしないのだ。
子どものことでは大人をスケープゴートにする人も多いだろう。
逆に、初対面で出会った人の雰囲気などを見て悪人だと思ったら、その後、その悪人だと思った人が悪いと思うことをしたら、自分が初対面の時に感じたことは正しかった、自分が感じたことが正しいと自信を持つ人もいるだろう。自分が感じたことが正しいと信じているところがあるのだ。

国民が不満を持っていることの一部は政治家のせいであると信じている人がいる。
こういう人は、政治家に不満を持ったり、言ったり、あからさまな攻撃をしたりするが、政治家の方に問題があるとは思っていない人からすれば、なんで政治家のせいにするのか理解できないだろう。
信じていることが真逆だったり、違うことを信じているので同じことに対して同じことを思わないのだ。

あいさつにおいても、あいさつをしたら返すのが正しいとか、あの人が初めにあいさつしてこなければいけないと信じている人は、
根拠なくても自分が正しいと信じこんでいるので、あいさつしてほしいのにあいさつしない方がおかしいと思い、あいさつしない方をスケープゴートに使う人もいるのだ。
日本人のことを謙虚、控えめ、つつましやかなどと言っていて大げさなことを言っているが、あいさつやあいさつ以外で、そうではないところがたくさんある。

 


脱あいさつ あいさつは正しくない14

2022年10月22日 | 脱あいさつ

目次
第1章から第9章へのリンク
第10章から第12章へのリンク
第13章から第20章へのリンク
第21章から第23章へのリンク
第24章へのリンク
第25章から第28章へのリンク
第29章から第37章へのリンク
第38章から第47章へのリンク
第48章から第52章へのリンク
第53章から第56章へのリンク
第57章から第59章へのリンク
第60章から第67章へのリンク
第68章から第75章へのリンク
76.自分が正しいと思い込んでいるところがある人間
77.人のせいにする人達とあいさつ
78.学校の先生の罪、親の罪、みんなの罪
79.日本人は自分を基準に物事をとらえる所がある
80.自分の姿を相手に見ているあいさつ信者 .
81.脱あいさつ、脱学校(だつがっこう)、脱金社会(だつかねしゃかい)
第82章から第86章へのリンク
第87章から第93章へのリンク
第94章から第99章へのリンク

 

76.自分が正しいと思い込んでいるところがある人間

 

釈迦を祖とする仏教の宗派が100を超えてると書いている本を読んだことがあるが、なんで同じことを言っているものに宗派が100を超えているというおかしなことになってるのか?
人が同じことを言っている人の言い分を同じように捉えていないからだ。
あいさつでも、あいさつをしろと他人から言われても、誰にでもあいさつはせずに、一部の人にしかあいさつしなかったり、
あの人があいさつ返さなかったら許さずに、この人なら許すという勝手な決まり作っていて、人に教えてもらったと言っているような人がいたり、実際はあいさつの決まりを独自に勝手に自分が決まりを作っていたり、
勝手に信じていることを、同じことを信じていない人に押し付けたり、
自分の思い道りにあいさつしない人を攻撃してきたり、見下してダメ人間などと言っている人もいる。

昔、私が小学校の時にそろばんを習いに行っていた。ある日、そのそろばん教室でそろばん以外のことで、伝言ゲームをしたことが一回あった。
私が覚えている限り、私が伝言ゲームをしたのは、それが初めてで、その後は伝言ゲームはやったことはない。
伝言ゲームとは、前の席に座っている人が後ろの人にある言葉を言い、後ろの人は自分が聞きとった言葉を自分の後ろの人に言っていき、
一番後ろの席に座っている人が聞き取った言葉をみんなに言うというようなことだ。
初めに言った人の言葉が最後の人まで伝わらない場合もあるだろう。
世の中や社会などと呼ばれている大勢の集団が生きているこの世界はこの様なものなのだ。

例えばAさんが言った言葉が「おじいさんが腕立て伏せをした時にオナラをした。」とBさんに言い、BさんはAさんが言ったのと同じ言葉を聞き取り、Cさんに「おじいさんが腕立て伏せをした時にオナラをした。」と言ったら、
Cさんが「言ってることちゃんと伝わったよ、おじいさんが腕折ってオナラをしたと言ったんだよね。」と言っているようなもんだ。
CさんはBさんから聞いた言葉をそのまま聞き取ったと信じ込んでいても実際は間違っているのだ。
伝言ゲームの場合、そこに参加している人全員が聞き取った言葉を紙などに書いておけば、どこで間違って伝わっているのかが
分かるだろうが、伝言ゲームをやっても誰の所で間違って伝わっているのかは紙とかに書いていないので分からないだろう。

ある一人の人の見た目を見たり、ある人の生き方や言動を知っても人によって思うことが違い、真逆のことを思っている場合もあるのだ。
思った本人は相手が自分にそう思わせたのだと信じ込んでいる場合があるのだ。
嫌な気持ちになったのは相手のせいで嫌な気持ちになったと信じている人もいるのだ。
同じ言動や態度を取っても他の人なら同じことを思っていない。

他の人も言っているが「みんな他人に関心がない」とか「自分を知りたいのは自分だけで、他の人は他人に興味がない」という感じのこと言っていたりするが、多くの人に関心がある人もいるだろうが、そういう人は例外の人で、多くの人はほとんどの人のことや、物事や世の中にあまり関心、興味はないと思う。
自分が感じたことが大切だから、自分が嫌な気持ちになった原因や理由を相手のせいにしたり、他人のせいにする場合があるのが人間と言われている生物だろう。
相手の信仰や気持ちが分からないという以前に、あまり分かる気もない人がたくさんいるのだろう。
でも、好きな人や尊敬している人などのことには関心、興味があり調べたり、好意的に喋りかけたりする。
どうでもいい人や嫌いなだけの人に喋りかけたり、あいさつしたり、調べるのは表面的な形だけだったり、仕事関係の人にやってる場合が多いだろう。

あいさつでも、他人のあいさつに対する信仰や気持ちを知らないし、知る気もない人があいさつのことを社会のルール、人間のルール、常識などと言ったり、子どもや職場の新人などに対してあいさつするようにと言う人もいるのだ。
大勢と同じことをするのが正しいと信じている人がたくさんいるだろうし、
大勢と同じことをしていないと変な目で見られたり、バカにされたりするのが嫌だろうからあいさつしている人もいるだろう。

我が身可愛さがあり、自分や好きな人のことをあまり悪く言いたくない人が、自分達が間違ったことを信じていたり、やったりしたことを人のせいにしたりして、自分を問題視することはあまりなかったりする。
「あの人が言ってたり、やっていたりするから信じたんだ」などと思ったり、言ったりして人のせいにしていてもそれはウソなのだ。
自分の意見がない人は他人の言っていることを真に受けやすいなど言う人がいるが、人間は他人の言っていることや、やっていることのほとんどは取り入れもせずに、正しいとは信じない人が多いだろうに、
一部のことについては、裏付けを取らずに勝手に信じこんだり、他の人にもそれを正しいこととして言ったりして、自分が信じたことは根拠もなく正しいと信じているところがあるのだ。
裏付けや根拠がないことを信じないことも出来るのに、根拠なく自分が正しいと信じているところがある日本人のことを
控えめ、謙虚、つつましやかなど言う人がいるが、
いい加減で、適当で勝手で大雑把などとはあまり言わずに、名もなきその他大勢の庶民、国民などと言われている人たちを良く言いたいのだろう。

幼稚園や学校などで子供の時にあいさつしろと言われて、幼稚園ぐらいの時にあいさつを正しいと信じる人はあまりいないだろうが、
同じ人や別の人に初めにあいさつしたら、面白いように同じ言葉が返ってきて、面白がった人もいるだろう。
10代や20代や60代の人で今まで周りにいるほとんどの人にあいさつしなかった人も、一部の人にあいさつしてあげたら、全員があいさつ返してきたから
世界中のみんながあいさつしたら返すと勝手に間違ったことを信じてる人もたくさんいるのだろう。

今までうまくいっていたから今後も同じようになると思っていることを例えで言うならば、ある28歳の男がいて、この人は今までに27人の女をセックスに誘って断られたことがなく、27人の女全員とセックスをしてきた。
ある日、Aさんという女をセックスに誘ったのに無言でその場を去って行って、セックスを断られた28歳の男が不満を持ち、腹を立て、
「何でセックスを断られたのか分からない、俺のセックスの誘いを今まで断った奴なんかいないのに」と不思議がっているようなものだ。
この男が今まで20人以上の女をセックスに誘い、面白いように、すんなりとセックス出来てきて、今後も自分がセックスに誘えば女は断らないんだと
勝手に信じ込んでいたのが、自分の思い道りにならずにセックスを断られて勝手に嫌な気持ちになっているようなものだ。

今までうまくいってきたことを、これからも同じようにうまくいくと無意識、意識的に思っているので、自分の思っていることが、思い道りにならなかった場合に疑問を持ったり、不思議がったり、不満を持ったり、びっくりしたりするのだ。
災害があった時に、その災害にあった地域の人が、自分の住んでいる地域に災害が起きるとは思わなかったというようなことを言っていたり、
東日本大震災の後、私の母親と犬が寝ていた部屋には大きな衣装ダンスなどが数個あるので、私が衣装ダンスと天井の間につっぱり棒をつけていたら、
私の母が「岡山に地震はこない」というようなことを言ったのだが、
それを言った前にも後にも岡山に地震はきている。私の母が言いたいのは、岡山には小さい地震はおきても、大きな地震はおきないと言いたいんだろうが。

知っていることは「既知」と言い、知らないことを「未知」と言ったりするが、誰でも知らないことの未知の方が多くて、知っていることの既知の方が少ないのだ。
それなのに、自分は人間や世の中をすごい知っているように言う人もいる。
あいさつを社会のルール、人間のルールなどと言っているのも、実際は人のことをあまり知らない人がこんなことを言っているのだ。
少数の人にしかあいさつしてきていないのに、数十億いると言われている人類の全員があいさつ返すと勝手に信じているような人がいるのだ。
あいさつを初めにしたら、あいさつされた人はあいさつ返すと勝手に信じ込んで、分かった気になり、知ったかぶるのだ。
大勢と同じことしておけば何とかなると信じ込んで、根拠や裏付けもないことを正しいことの様に言ったり、思ったりしている人の方が、
まともな人や正しい人であるかのように言われたり褒められたりする場合もある。
だから、あいさつする人を素晴らしい人など言う人が出てくるのだろう。

あいさつしたらみんながあいさつ返すと勝手に信じ切っていたり、言葉であいさつ返さなければいけないと信じている人の中に、
あいさつ返さなかったり、会釈だけした人を変な目で見たり、見下したりしてダメ人間などと言う人がいる。
あいさつ返されたいからごく一部の人にだけあいさつしてきて、みんながあいさつ返すと間違ったことを信じているわけだが、
もし、相手があいさつを返さないことを分かってたら初めからあいさつなどほとんどの人はしないだろう。
つまり、相手のあいさつについての信仰などを知らない人が、その人のあいさつの信仰などについて知っていると思っているのだ。
そして、自分が正しいと信じているあいさつ返しををしなかった人を不審がり、変な目で見て、バカにしたり格下に見たりする人もいるわけだ。

 

 

77.人のせいにする人達とあいさつ

 

2021年6月7日の夜10時代に私が家のリビングにいた時に、珍しく外から誰かの声がしたのでリビングの窓を開けたら二人の男の喋り声が聞こえてきた。
歩きながら喋ってい私の住んでいる家の前を通り過ぎていくのならば声は小さくなっていくはずだが、同じぐらいの声の大きさで喋っているのがずっと聞こえていたので、喋っている人たちは歩いて喋っているのではなくて、同じ場所で喋ている感じだった。
その人達が誰なのかの私の推測は、私の住んでいる家から道を挟んだ斜め前の家に住んでいるおじいさんと、別の場所に住んでいるこのおじいさんの中年の息子だと思った。
私の住んでいるところは田舎で大道りの近くではないし、昼も夜もあまり人や車が通るところではないし、以前にも夜に同じ人の声を何回か聞いたことがある。
私はこの時間帯にはリビングにいることが多いが、喋り声を聞くことはほとんどないのに同じ場所でずっと喋っている人がいるのは、すぐ近くに住むおじいさん親子だと思った。
しゃがれた元気のない声の人はおじいさんの声で、大きい声で元気のある声の人は息子の声だろうと思った。
私の親がここのおじいさんの奥さんのことをハラダさんと呼んでいたのでハラダという人みたいだ。
2人とも片言で短く喋っていて、喋っている声が全部が聞こえたわけではないが、元気のある声の方が「○○で見た」と言った。
しゃがれた声の方が何かを言った後に、元気のある声の方が「愛想がない」「変わっている」と言っているように聞こえた。
私の勘違いの可能性もあるが、愛想がない、変わっているというのは私のことを言っているような気がした。「○○で見た」と言っていた
○○は、私が住んでいる所から数キロ離れた場所の地名で、私はこの地域に自転車で何回も行ったことがあり、
この人がその地域で私を見たことを言っているような気がしたのだ。
愛想がないと言った元気がある声の人の前に何かを喋った方は「あいさつしなかった」か「あいさつ返さなかった」と言ったのではないかと私は推測している。それに対して愛想がない、変わっていると言っていると思った。

以前、数回このじいさんに初めにあいさつされたことがあるのだが、私は言葉であいさつを返さなかったので、このじいさんはあいさつのことで私のことを嫌っていたりなどして私に不満を持っている可能性があると思う。
このじいさんのあいさつは、私の目を見ずにあいさつをしてきていて、珍しい変わっているあいさつをしている。
別の日にじいさんが私があいさつを返すかを確認するための実験的な感じの態度を取ってきたあいさつをしてきたことがある。
ある日、私が家の裏側から表の庭の方に行こうと歩いていた時に、数メートル先にハラダじいさんが自転車にまたがって、じっと止まっていた。
じいさんは私の方は見ておらず、じいさんの体は私から見て横を向いていた。だんだん、じいさんの方に近づいて行って私がじいさんの隣に来た時に、こんにちはとじいさんが言ったことがあったのだが、私は言葉ではあいさつはしなかった。

あいさつを初めにする人の多くはあいさつをする時に相手の目を一瞬にしろ、じっと見るにしろ、目を見る人が多いだろうが、
このじいさんは目を見ずにあいさつしてくるのだ。6月7日に聞こえてきた愛想がないとか、変わっていると言っているのが私のことを言っていようが、言っていなかろうが、このじいさんのあいさつは珍しい変わったあいさつをしているとも言えるし、人の目を見ずにあいさつをすることが、
愛想がないあいさつをしていて無機質、機械的で、いかにも形だけのあいさつをしているとも言える。
あいさつに限らずに人と喋る時に、何かの作業をしていて目が離せない状況でもない時に、全く人の目を見ないことを嫌がる人がいるが、自分がそれを嫌でなかったり、嫌がっている人がいることを知らなければ、
目を見ずに喋ることを嫌がっている人がいることを知らない人もいるのだ。
人の目を見るのが怖いなどと言う人がいるが、ほとんどの人はそんなことは思っていないだろう。

この親子は私の住んでいる家から聞こえてくるドアを閉める大きい音に不満を持っている人達だと思っている。
この人達が明らかにドアの音に不満を持っていることに私が気づきだしたのは2020年の前半の時で、私が家の庭にいた時に一階の部屋のドアを叔父がすごい大きい音で一回閉めた後にハラダさんの家の方から
大きい音で一回ドアを閉める音がしたのだが、ドアを閉める音がうるさいと思って不満を表すためにドアを閉めたと思った。
ハラダさんのとこは近くに、じいさんの男の兄弟も住んでいるみたいで、この兄弟の人が不満を持ってドアを閉めた可能性もあると思った。
2020年の6月か7月ぐらいの夜の7時か8時頃に、私が暗がりの中で庭にいたら、道路の右側から誰かが一人歩いてきて左の方に通り過ぎて行った。
そのすぐ後にハラダさんの家の方から、ものすごい大きい音で一回車のドアを閉める音がした。
その時にハラダさんの家の前に軽自動車が止まっていた。以前から何度もハラダさんの家の前にシルバーの軽自動車が止まっているのは見たことがあって、その車はハラダさんの息子の車だと思う。
私はその時にハラダさんの家の前に止まっていた車も以前何回も見た車も同じ車だと思っていて、大きい音で車のドアを閉めたのはハラダさんの息子がやったと思っている。
では、なんでハラダさんの息子が大きい音で車のドアを閉めたのかの理由は、私の家から聞こえてくる大きい音で家のドアを閉めるていることで、この息子の親か、近くに住んでいるこの息子の叔父が嫌な思いをしていることに対して不満を持っているからやったのだろうと思っている。

この車のドアを閉める前の月ぐらいのある日の夜に、ハラダさんの家の方から外で大きい声で「隣の家」という声が聞こえてきたことがある。
その後「気をつけて」という声がしたのでハラダさんのところの息子の一人が兄弟が帰る時に気をつけてと言ったのだろうと思っている。
ここのじいさんの奥さんから息子が2人いると聞いたことがあるので、その日、息子2人が親の所に訪ねて来ていた時に、
親か叔父が息子に対して私の住んでいる家から聞こえてくる
ドアを閉める大きな音に対する不満を言ったのだろうと思っている。だから外に出た時に「隣の家」と言ったのだろうが、たまたま外で言った可能性もあるし、私の家に住んでいる人に聞かせたいから、わざと外に出た時に言った可能性もあると思った。
これらのことから見ても、夜にすごい大きい音で車のドアを閉めたのはハラダさんの2人の息子のどちらかだろうと思っている。
この大きい音を出した息子は私を庭で見た時に、私がすごい大きい音で家のドアを閉めている奴だと思ったのか、大きい音でドアを閉めている奴ではなくても、家族も同罪と思って不快になり大きい音でドアを閉めたのだろう。
どちらの理由で大きい音でドアを閉めていても、私の住んでいるところは住宅街なので大きい音でドアを閉めることで周りの他の人や、この人の身内にも音が聞こえているはずだが、そのことが頭になくて人のことを考えていないところがある可能性もあるわけだし、周りの家に住んでいる人に音が聞こえているのが分かっていて凄い大きい音を出していたとしても、他の人のことを考えてはいないところがあるわけだ。
この息子は大きい音で家のドアを閉めている方が悪気があろうと、悪気がなかろうと自分の身内が大きい音で迷惑して嫌な思いをしていて、
自分たちが嫌がることをしているのは相手が自分たちのことを考えていないからだと思っていそうな気もするが、自分も大きい音で家のドアを閉めている相手や、他の近所の人のことを考えていないところがあるから音で嫌がらせをしているのだ。

その後、2021年8月の上旬の月曜日の深夜1時代ぐらいに、私がリビングにいて電気をつけてインターネットをしていた時にハラダさんの家の方から男の声で「まだ起きてんのか。はよー死にねー」という声が聞こえてきた。
この2時間くらい前の前日の夜11時代ぐらいに、ハラダさんの家の方から車を閉める音が一回聞こえた。息子が車で来た時にドアを閉める時の音か、
車で帰っていく時に車のドアを閉めた音だと思った。
翌日の深夜12時代にまた車のドアを閉める音が聞こえたので、前日の11時代の車のドアの音は来た時の車を閉める音で、
12時代の音は息子が帰っていく時の車のドアを閉める音だと思っていたら、
深夜1時代に、「まだ起きてんのか。はよー死にねー」という声が聞こえたので、嫌がらせで音を出すために外に出てきて車のドアを閉めただけで、
その後に親の家にまた入ったか、一旦どこかに車で行って1時間後ぐらいにまた親の家に戻ってくるということをやっていそうな感じがするとも思った。
「まだ起きてんのか。はよー死にねー」と言っていたのは、ハラダさんの息子が言ったのではないかと思っている。

この同じ月の8月に私は庭の井戸ポンプの防音をするために、井戸ポンプの周りを木の板で囲うことにした。
木の一部はホームセンターのナフコで買って切ってもらい、他に使う木は以前からうちの家にあった長細い木を使うことにした。
玄関を閉めて、細長い木を玄関で手動のノコギリで切る作業を2日間連続でやり、その時に電動ドライバーも使った。
一週間後ぐらいに、また木を手動のノコギリで切り、合計3日間手動のノコギリで木を切る作業をやった。
3回目にノコギリで作業した日の翌日か2日後ぐらいの平日の昼頃にハラダさんの家の方の近距離から電動で木を切る音が短時間してきて、
その後、ヤスリで擦るような音も聞こえた。更にその後、電動で金属を切る音が短時間した。
今住んでいる母親の実家の所に引っ越して来てから、この家に10年ちょっと住んでいて、家にいる時間が長いが、こんな音を家の近くで聞いたことなど一度もない。
私が3日間ノコギリと電動ドライバーを使った後に、ハラダさんの家の方から電動で木などを切る音がしたのは、私の家から出てくる手動ノコギリで木を切る音や電動ドライバーの音と、以前からうちの家のドアを閉める音に不満を持って、ハラダじいさんか、じいさんの兄弟が音で嫌がらせ、仕返しをしたいからやったのではないかと思っている。
ハラダさんや、それ以外の人がたまたま電動のノコギリを使っただけで、シンクロニシティ―なんじゃないのかとか思う人もいるかもしれないが、私は違うと思う。
その後、翌月ぐらいに数回電動で金属を切る音が短時間だけ聞こえた。

私たちが住んでいる所から少し離れた同町内の住宅街の中に昔、店に使っていたようなシャッターがある建物がある。
聞き間違いかもしれないが、以前私の親が、そこがハラダさんの所と関係があるようなことを言っていた気がするのだが、
2020年の後半に、そのシャッターがある場所の近くを私が自転車で通っていた時に、ハラダさんの家の方から聞こえてきたのと同じ電動で金属を切る音が聞こえてきたので左後ろを振り返ると2人の大人がいて、その人たちが金属を切っていたのだ。
もし、私が以前親から聞いたのが間違いではなければ、ハラダじいさんか、じいさんの兄弟は昔、その場所か別の所で電動で金属を切る仕事をしていた可能性があるのではないかと思った。
うちの家に住んでいる者に嫌がらせ、仕返しの意味で電動で金属を切る音を出すためだけに、新品か中古で電動のこぎりをわざわざ買ってきて音を出すのなら、家のドアを閉める音で嫌がらせをすることも出来るだろうが、わざわざ数回、短時間だけ電動のこぎりを嫌がらせ、仕返しに使うためだけに買わないと思うので、以前に仕事で電動のこぎりを使っていたことがあって使い方が分かっていた可能性があるのと、電動のこぎりを元職場から借りてきている可能性もあると思った。

私はごみを捨てに行くのはほとんど夜なのだが、2020年か2021年の後半のある日の朝の早い時間に、自転車の前かごにゴミ袋を乗せて捨てに行こうとした時に自転車が横に倒れて、自転車のベルが一回鳴った。その翌日ぐらいの夕方に私が家にいた時に、私の家の庭の前の方から自転車のベルが一回鳴り、そのあと少しして自転車のベルがもう一回鳴ったのだ。
いつも自転車のベルの音を聞くことはほとんどないのに、私の自転車が朝に倒れてベルが鳴った翌日ぐらいに鳴った自転車のベルの音は、
ハラダのじいさんがやっている可能性があると思った。
以前の朝6時ぐらいの時に私が庭の作業をしていた時に誤って足をプランターの上に置いた時にプランターが音を立てて割れたことがあるのだが、その後ハラダさんの家の方から足音がしたのだが、ハラダじいさんが、いつも聞かない音を聞いて様子を見に来た可能性があると思っている。
自転車のベルの時もベルが鳴った後に外に出て見に来たか、窓を開けて見た可能性があって、私が外にいたのを見て、嫌いな家の奴が自転車のベルを鳴らしたから、気に入らなくて自転車のベルを意図的に嫌がらせの目的で鳴らした可能性があると思った。

2020年の8月か9月ぐらいに、同じ家に住んでいる叔父の部屋のクーラーが壊れていて、ハラダさんの家の近くにあるうちの家の建物の2階にクーラーがある部屋があり、そこを叔父が使うことになったので、私がその部屋で短時間だけ掃除機をかけた翌日ぐらいに、ハラダさんの家の方から掃除機の音がしてきた。
今までハラダさんの家の方や近所で掃除機をかける音など聞いたことがない。
ハラダじいさんか、その兄弟の人が掃除機をかける音を嫌がらせ、仕返しの目的でやっているのではないかと思った。

2020年後半の夜6時ぐらいに私が家にいる時に、いつもなら車が閉まる音はほとんど聞こえないのに連続して4回車のドアが閉まる音がしたので、
ハラダさんの息子が嫌がらせ、仕返しの目的でやっているのではないかと思い、家の裏から外に出て見に行ったら、ハラダさんの家の前に、見覚えのある軽自動車が止まっていて、車の前の部分だけが見えた。
運転席に誰か座っていて白い手袋だか、軍手みたいなものを付けている時だった。
ドアを閉めているところを見てはいないが、いつもならこの時間帯に車のドアが閉まる音などほとんど聞こえないのに、4回も連続で閉まる音が聞こえ、
外に出たら音がした方に人が乗っている車が止めてあったのは、その車に乗っていたのはハラダさんの息子で、その人が嫌がらせで音を出していると思った。

叔父が一階の部屋のドアを大きい音を出して閉める部屋のドアには2020年5月に私がドアダンパーを付けたので、その後、一階のそのドアから大きい音が出ることはなかったが、2020年の8月の上旬ぐらいのある日、
ドアダンパーを付けたドアがある部屋から、ものすごい大きい音で一回ドアが閉まる音が聞こえた後に、ハラダさんの家の方から車のドアが閉まる音が一回した後、一回目のドアの音よりも更に大きい音で車のドアが閉まる音が聞こえたのだが、ハラダじいさんか、近くに住んでいる兄弟の人が私の叔父が閉めたすごい大きい音で部屋のドアを閉めたことに対する不満の仕返し、嫌がらせで車のドアを2回閉めたのではないかと思っている。

叔父がものすごい大きい音で部屋のドアを閉めているのも珍しいだろうし、おかしくても、それに対する不満を表すために、
その音を出しているわけではない近所の人や、自分の身内が住んでいる家の隣で身内にも聞こえる大きな音を出して不満を表しているハラダさんのところの人達も、ある意味似たり寄ったりの目くそ鼻くそ、五十歩百歩なのだ。
他の多くの人なら、ものすごい大きい音なら例外あれど嫌がる人は多いだろうし、そこまで大きい音ではない音に対しても不満を持っている人もいるだろうが、音で仕返し、嫌がらせはしない人が多いと思う。もし、その大きい音を出すことで、他の人にその音が聞こえたら悪いと思う人が多いだろうから、音で嫌がらせする人は少ないと思う。隣人の小野やその息子が私の独り言の音に対する不満を持ち、音の嫌がらせをしてきているが、大きい音だから許さないのではなくて、独り言が気持ち悪いから許さないという不満、嫌悪感だろうが、音の大きさは別として自分が許せない音を出す人に対して、
音の嫌がらせをしている点ではハラダさんのところも小野のところも同じだ。

不快になったのは不満を持った相手のせいだと思っているのだが、音で嫌がらせをすることで自分が嫌いではない近所の他の人や、
自分の家族にも嫌がらせで出している音が聞こえているのだからバカなことをしているのだ。
自分が不快になったのを相手のせいにしている人はたくさんいるだろうが、自分も誰かから嫌がられたりして、迷惑されているのだ。
自分が不快になったのは自分のせいではないとか、自分は人が嫌がることはしていないと思っている人もいるだろう。
あいさつでも、自分があいさつしてほしいのにあいさつされないことで疑問や不満を持ち嫌な気持ちになったことを他人のせいに
している人がいるから、あいさつしなかった人に怒りだしたり、嫌がらせしたり、相手に不満を言うのだ。

 

 

78.学校の先生の罪、親の罪、みんなの罪

 


学校の先生や親が子どもにあいさつするように言っていて、
正しくもない間違っているあいさつを大勢が正しいと信じているから、あいさつを人間として正しいことであるとウソを付いている。
子どもも鈍いところがあり、みんながあいさつをしたいわけではないことに気づかない子どももたくさんいるだろうし、自分があいさつさせたい人にだけあいさつを求めて勝手なあいさつしているだけ。

人が嫌がることをしていることや、正しくない不正を罪と呼ぶとするなら、あいさつ運動を学校でしていたり、それ以外でも先生や親が誰かにあいさつをするように言っているのも罪だ。
みんなが誰にでもあいさつしたいわけでもないし、あいさつを返すことや、初めにあいさつをすることを正しいとは信じていない人もいて、あいさつを嫌がっている人や迷惑している人もいるのだから、あいさつをするように言っている学校の先生や親やそれ以外の人にも罪があるとも言えるのだ。
一般に罪と言えば、刑法違反で逮捕されるようなことをしたことを罪と言う場合が多いが、誰かが嫌がることをしている点では同じことなのだ。
言葉の定義は人によって違うから、あることを罪と言う人は罪と言い、罪と言わない人は罪とは言わない。

あいさつ信者は、いい加減、適当にあいさつの決まり(ルール)を決めつけて自分がやりたい時にだけあいさつしているだけだ。
あいさつに限らず、誰かが嫌がることなどみんなやっているのに、ほとんどのことは罪とは呼ばれない場合が多いが、みんな罪があるとも言えるのだ。

「日本人は国家犯罪に甘い」と言っていた人がいるが、権利者側がやった刑法違反に甘いところがあると言っているのだろうが、刑法違反ではなくても、日本人は権力者側が決めたことで自分に都合がいいことや、正しいと思うことを権力者が決めた場合は、それをまかり通らして甘いのだ。
政治家や知事などを権力者と言うが、多数派も勢力の強い権力者の様になっていて、あいさつをされたら、あいさつを返さなければいけないことが人間の正しさだと大勢が信じているのだ。
あいさつ返しをしないことは刑法違反ではないが、刑法違反をした人よりもあいさつ返しをしない人に対しての方がよっぽど嫌っていたり、見下している人もいるのだ。
人がひどいと思うことは刑法違反だけではないのだから、あいさつ返さないことに対しても、ひどいことをしていると思う人はいるから、
あいさつ返しをしない人を見下したり、嫌うのだ。
日本人は例外除いて、多数派に甘くて少数派に冷たいとも言える。
日本人だけではなくて、日本人以外も大体こんな感じだろうけど。
あいさつを返さない少数派に冷酷なところがあり、自分の適当な、あいさつ信仰はまかり通らせて自分に甘いところがある。

 

 

79.日本人は自分を基準に物事をとらえる所がある

 

日本人は英語に比べると、はっきり主語を言わずに言葉を使ったり、
主語以外のことでも、はっきり言わずに、あいまいな言い方をするなどと言われていたりするが、日本人にはっきり言わないところがあるのは、
はっきり言うと都合が悪いから、あいまいな言い方をしたり、遠回しに言っている場合と、はっきり言わなくても自分の言いたいことが通じると思っている場合と、はっきり言わないことで自分の言いたいことが通じないと思っていてもはっきり言わない場合があるだろう。

日本人に英語を使う外国人のことを、I(アイ)と言って、私はと言うのは、自分中心であるかのように言っていた人がいるが、日本人が主語を言わないことが多いから、自分のことを言っていないということにはならないし、
「私は」と言っていないから自分中心に物事を捉えていないとは言えない。
日本人は主語を抜いたりして、はっきり言わないところがあるだけで、自分中心なところがある人達だろう。
あいさつのことでもそうだが、はっきり言わなくても自分に合わせて従ってほしいと思っているようなところがあるのだ。
自分の思い道りにならないと不満を持ったり、不満を言ったり、嫌がらせをしたりするようなところがある。

日本人のことを人の気持ちが全部わかる人が多いとか、ほとんど人の気持ちが分かると思っている人もいるみたいだが、
私は日本人は、ほとんど人の気持ちが分からない人だと思う。
日本人がはっきり物を言わないところがあるのは、相手の言葉の定義とか、相手のことを全く分かっていなかったり、ほとんど分かっていないのに、はっきり言わなくても自分言いたいことを分かってもらえるとか、
相手が自分に合わすべきだと思っているところがあるからだと思う。
だから、自分の言いたいことを相手が分からなかった場合に、気づかないとか、気がきかないなどと、不満を言っているのも、
自分の言いたいことが相手に通じていないのを、相手を原因にして、相手に問題があると思っているところがあるのだ。

例えば、Aさんの数メートル離れた所にコップが2つあって、コップの近くにBさんがいた時に、AさんがBさんに、Aさんから見て左側にあるコップを取ってほしいことをはっきり言わずに、「Bさん、左のコっプ持ってきて」と言ったら、BさんがBさんから見て左のコップを持って行ったら、
Aさんが「それじゃない。左のコップって言っただろ。」と言い、Bさんが「だから、左のコップ持ってきたでしょ」と言ったことに、
Aさんが「あんたから見て左じゃなくて、私から見て左のコップのことを言ったんだ。気が利かないな」と言ったとする。
Aさんは自分の思い道りにならないことをBさんに問題があると思い、Bさんに気が利かないと不満を言っているが、自分が詳しいことをはっきり言わなかったことを問題視はしていないのだ。
日本人には多かれ少なかれAさんのようなところがあるのだ。
AさんはBさんに分かる言い方をしなかったことを問題視するのではなくて、
Bさんが自分の言いたかったことを分からなかったことを問題視して自分に問題があるとは思わない。
日本人は自分に甘いと言われていたりするが、それに気づいていない人もたくさんいるだろうが、自分可愛さがあり、自分が相手より大切なら、相手よりも自分を擁護して自分のことを正当化しやすいのだ。
人間は自分が可愛くて大切なのだから、コップのことでも自分が思いたいように思うだけなのだ。
Bさんが気が利かないと思いたい人はそう思うし、Aさんの言い方が気が利かないと思う人は、そう思うだけのことだ。
人間は自分が思いたいようにしか思わないのだ。

誰かが言っていたことだが、クモの巣に引っかかったクモを先生がクモの巣から放したことに、一人の子どもが「クモがかわいそう」と言ったという。
先生のやったことに多くの人は共感するだろう。蝶がクモに食べられたり、クモの巣に引っかかったまま死んだらかわいそうと思って、
クモの巣から蝶を放したがる人がいる一方で、他の人はクモが蝶をエサとして食べなかったら生きていけないからクモがかわいそうと思う人もいるということだろう。
あいさつも同じで、あいさつを返されなかった人の方が大勢から憐れまれたり、かわいそうとか思われそうだし、あいさつ返さなかった人の方が悪く言われやすかったり、変な目で見られるだろう。
クモのことで言えば、クモがかわいそうと言った方が変わっている人と思われるだろう。
あいさつでも、あいさつ返さなかった少数派の方が、おかしい人や、変わっている人と思われやすいだろう。
大勢と同じことをやらなかったり、大勢と同じことを思っていないと変な目で見られたり、バカにされやすいのだ。

日本人があいさつされたら返すことが正しいと信じていることは「私はあいさつを返すことは正しいと信じている」と言えるが、
この言い方を主語を抜いた言い方で言えば「あいさつを返すことは正しいと信じている」と言えば、みんながあいさつを返すことを正しいと信じているというようにも捉えられる言い方になる。
主語を入れていえば、「私はあいさつを返すことを正しいと信じている」とか「俺はあいさつを返すのを正しいと思っている」ということになるが、
日本人の中には例外はあれど、「私は」を「私たち」にするようなところがあるのだろう。
だから、「私はあいさつを返すことを正しいと信じている」は
「私たちはあいさつ返すことを正しいと信じている」というように思っているようなところがあるから、あいさつしたらみんながあいさつ返すと間違ったことを信じているところがある感じもする。
「自分がやられて嫌なことはやらないように」というようなことを言う日本人がいるが、自分が嫌なことを他の人もみんな嫌がっていると思う人もいるのだろう。
自分が嫌がっていることを他の少数の人や大勢の人が嫌がっている場合もあるだろうが、全ての人が嫌がっているということはないだろう。
日本人が自分中心に人間を捉えているところがあることのいい例だ。

 

 

80.自分の姿を相手に見ているあいさつ信者

 

あいさつしたら、オウム返しで返されると信じている人や、最低限会釈などを求める人の中に、自分の思い道りにあいさつを返さなかった人に不満を言ったりして悪態ついてきたり、ネットに不満、悪口を書く人がいるが、ほとんどの人なら、あいさつ返されなくて不満を持っても内面で思っているだけか、本人のいない所で誰かに不満を言うだけだろう。
ネットに不満、悪口を書いていたり、本人の近くで不満を言ったりして悪態ついたり、嫌がらせをしたり、身体暴力を振るう人など例外中の例外だろう。

あいさつをしたらあいさつ返しをすることが正しいとか、オウム返しで返すことが正しいと信じている人は自分は大勢と同じ普通の人で、まともな人だと思っている人もいるだろう。
あいさつを返さない人を常識なっていないとか、変わっているとか、ダメ人間などと言って見下したり、嫌っている人が自分も独自にあいさつの決まり(ルール)を決めつけて勝手なあいさつをしていて、
自分はほとんどの人にあいさつしないくせに、自分があいさつをしないことは許し、他の誰かがあいさつをしないことは許さなかったり、
子どもや好きな人が自分にあいさつをしないことは許すような差別をしていたりして、変わったあいさつ信仰を持っている変わり者のあいさつ信者だが、自分が変わっていて、おかしいことに気づいていない人もいるのだ。
あいさつ返さない人に不満を持っている人は、あいさつを返さな人に自分の姿を見ているところもあるのだ。全く同じではないので分かりにくいのだろう。

大勢と同じことをせずにあいさつを返さなかったから常識がなっていないと低評価や悪評価している人も、他のことでは大勢と同じことをしていないところがたくさんあるくせに、それに気づいているところと、気づいていないところがあっても自分には甘いところがあり、悪くは言いにくいのだろう。
キリスト教の信者がたくさんいることを知っていても、キリスト教をよく知ろうとしていなくても、キリスト教を信じていなくても
常識がなっていないとは言わないのに、あいさつを返さないことには、常識がなっていないと不満を持つあいさつ信者もいる。

人の目を見ずにあいさつする人は少数だろうが、少数の人しかやっていないことを変わっていると定義付けるならば、人の目を見ずにあいさつしている人も変わっているあいさつの仕方をしているのだが、
あいさつしたところだけを持ち出して、あいさつは大勢がやっているから変わっていないという人もいるだろう。

 

81.脱あいさつ、脱学校(だつがっこう)、脱金社会(だつかねしゃかい)

 

学校に行く理由を人によって全然違う理由を付けていたりする。
自分が思いたいように思うのだから、同じことに対して同じことを思わないわけだ。
学校に行く理由を、算数や国語や社会など色んな授業を受けることで
同じことに対しても違う見方が出来ることを知るために学校に行くかのように言っている人がいる。
別の人は、学校は行かなくてもいいことを知るために行くと言っている。
大勢と同じことをすることに対して自分が思いたいように思うのだ。
大勢と同じことをすることを美化して綺麗事を言いたい人は、勉強や学び進化などと言って良く言いたがる。
人間として正しいことは、例外あれど大勢と同じことをすることだと信じている人がたくさんいるだろうから、学校に行くことや、あいさつを返すことが正しいと勝手に信じているのだ。
そして、同じことをしない人を見下して、蔑んできたり、バカにする。
例外除いて、大勢と同じことをして、大勢と同じことを感じることが正しい正解だと信じている人がたくさんいる。
大勢と同じことをすることに良い意味を付けて、自分が大勢と同じことをたくさんしてきたことや、大勢と同じことをする多数派を良く言い、例外あれど人間としての正しさは大勢と同じことをすることであると決めつけたい人がたくさんいるのだろう。
自分が嫌ではなかったからとか、自分や大勢に都合がいいことだから良く言って褒めて、他の人にも同じことをさせようとする人がいる。
こういう人が自分達に都合がいいことや、いい思いをしたことを他の人に押し付けても、人のためのいい人などと良く言われたりして褒められる場合が多いだろう。

学校に行くことが正しい根拠や裏付けなどどこにもないし、学校など行かなくてもいいが、学校に行くことを正しいことだと信じていたり、正しいとは信じていなくても、親の中には見栄や体裁、世間体を気にして
学校に行かせたい親もいるだろうし、子どもの中にもそれを気にして学校に行っている人もいるだろう。
大勢と同じことをしていないと異常者と思われたり、不審がられたり、気味悪がられたり、バカにされる場合があるので、こういうことを思われないために、大勢からバカにされたり、嫌われないために学校に行っている人もいるだろう。
学校に行っていない人をバカにしていたり、間違っていると思っている人は、学校に行っていない人が大勢と同じことをしていないから
間違っていると思っていて、おかしいと思っている人もいるだろう。
大勢が学校に行っていなかったら学校に行かないことを許して許可するのだろうけど。大勢が正しいと信じている人はいい加減で適当なのだ。

大人のあいさつ信者の一部は、学校のあいさつ運動などであいさつ返しが人間として正しいことだと子どもに言いたいのだろうが、これも間違いで
あいさつ返しや、あいさつすることが正しい根拠などどこにもない。あいさつを正しいと信じるあいさつ信者がたくさんいるだけだ。
学校には行かなくてもいいというのを、別に言い方でいえば「脱学校(だつがっこう)」で、あいさつは正しいことではなくて、やらなくてもいいというのを別の言い方で言えば「脱あいさつ(だつあいさつ)」だ。
大勢がやっているから正しいと信じていることの中には、金でやっていく世の中が正しい信仰があるが、金でやっていく世の中も不正で間違っているが、この金でやっていく世の中をなくして、辞めていくことは「脱金社会(だつかねしゃかい)」とも言える。

 


脱あいさつ あいさつは正しくない13

2022年10月21日 | 脱あいさつ

目次

第1章から9章へのリンク
第10章から第12章へのリンク
第13章から第20章へのリンク
第21章から第23章へのリンク
第24章へのリンク
第25章から28章へのリンク
第29章から37章へのリンク
第38章から47章へのリンク
第48章から52章へのリンク
第53章から56章へのリンク
第57章から59章へのリンク
第60章から67章へのリンク
68.本当は怖いあいさつ 
69.あいさつと中学生の職業体験
70.あいさつと叔父
71.我が身が可愛い、自分が可愛い人間たち
72.あいさつとバイク関連のこと
73.監視カメラ設置とあいさつ
74.人間は自分が思いたいようにしか思わない
75.自己満足するという気持ち あいさつして自己満足する人
第76章から第81章へのリンク
第82章から第86章へのリンク
第87章から第93章へのリンク
第94章から第99章へのリンク

 

68.本当は怖いあいさつ 

 

ある植物の本を読んでいたら、この本に書かれていたことに、ある子どもがバラについて、痛いトゲを付けていてかわいそうだと言ったという。
バラについて子どもも大人もほとんどの人はそんなことは思わないだろう。
子どもの一人が感じたことや、やったことを子どもだからそういう風に感じたり、やったりしたんだと思う人がいるが、子どもは同じ人間ではないので同じことに対してみんなが同じことなど思うわけない。

更にこの本に書かれていたことに、子どもがこの本の著者に、バラには何でトゲがあるのかと質問したことに、大人がそっけない答えをすると植物に対して好意を持っている子どもの心を傷つけたりすることになる、というようなことを書いていたのだが、これも子どもは同じ人間ではないので、この著者がそっけないと思うことを言っても、子ども全員が同じことなど思うわけがないし、嫌な気持ちになって傷つくわけではないだろう。
この著者はバラにトゲがある理由に、バラがきれいだから腹を立てた人が恨んで付けたのかもしれない、というようなことを子どもに言っているのだが、綺麗事を言っているだけだろう。
まるで、子どもが大人に「赤ちゃんはどうやってできるのか?」とか「なんで妊娠したのか?」という質問に「コウノトリが赤ちゃんを連れてきた」とか「コウノトリが赤ちゃんを運んできた」などと言っているようなものだ。
コウノトリが赤ちゃんを運んできたというのは綺麗事のウソだが、こういう綺麗事の言い分を好む人もいるのだ。

グリム童話を原作のまま出すと都合が悪い人がいるから、グリム童話は話を変えているみたいだ。
ヘンゼルとグレーテルの母親は実の母親ではないという話になっているが、元の話は実の母親だったみたいだが、実の母親が子どもを捨てているというのを子どもや大人が読んだら気に入らなくて不快になる人がいるから、
一部の人に都合が悪いところは話を変えたり、削除したりしているのだろう。
このグリム童話を知っている人はたくさんいても、原作を知っている人はどれだけいるのだろうか?
グリム童話が子ども向けに出されていて、かわいい絵と一緒に書かれているという表面的なところだけ見ているだけで、
原作を子どもや大人の多くが知らなくても、話が変えられているグリム童話の方を知っていて、大勢と同じことを知っているのだと満足している人もいるだろう。
原作と違う話になっているグリム童話を読んでもみんなが同じことなど思うわけがないし、原作を読んでもみんなが同じことを思うわけないし、
親が子どもにグリム童話を読ませたい理由も違うだろう。

あいさつも綺麗事だとも言える。社会のルールやコミニケーションなどと言って綺麗事を言っている人もいるが、あいさつについて、人間としてしなければいけない正しいことで、正しい根拠がなくても正しいことだと信じている人がたくさんいるだろう。
あいさつを初めにしたら、みんなオウム返しであいさつを返したいと信じていると間違ったことを信じている人がたくさんいるだろうし、
あいさつされたのは自分が嫌われていないからだと信じている人もいるだろうが、みんながあいさつ信者ではないし、
みんなが初めにあいさつされてオウム返しを返したりはしない。
あいさつを初めにしなかったり、オウム返しをせずに無反応だったり、言葉であいさつ返しをせずに会釈をした人に疑問や不満を持っている人もいて、
無反応だった人に悪態ついてきたり、見下したり、嫌ったり、嫌がらせするような人もいて、あいさつの現実や実態はおどろおどろしくて残酷なところがあるが、あいさつをしない人を見下したり、攻撃してくるような人がいることを知らない人や、あいさつが自分に都合のいい利点がある人はあいさつや、あいさつする人のことを高評価して良く言う人もいるだろう。
あいさつしない人を嫌ったり、見下したり、攻撃してきたり、許さないようなことを、「本当は怖いあいさつ」とも言えるし、あいさつしない人を見下したり、許さない人のことを、「本当は怖いあいさつをする人」とか、「本当は怖い一部の人にだけあいさつさせたい人の隠された本音」とか
「本当は怖い一部の人があいさつをしないことを許さない冷酷な悪魔さを持ったあいさつ信者」などとも言える。
グリム童話の原作は子どもに知ってほしいと思わない大人もいるだろうが、話を変えてたり、一部都合の悪いところを削除することで子ども向けにしているように、あいさつは正しことでもないし、あいさつ返しが正しいというのは間違っているのに、あいさつは人類みんなが、あいさつ初めにされたらオウム返しをしなければいけないと信じていて、あいさつは知らない人、大切ではない人、どうでもいい人とも関わることが出来る素晴らしい方法、道具(ツール)であると勝手に信じ込んで決めつけている人もいるのだ。

私が20代の時、イズミヤの総菜で働いていた時に、女の中年の同僚が、ニュースで誰かが刑法違反のことをして捕まったことに対して、
その捕まった人の年齢を持ち出して「○〇才の人は怖いねんで」というようなことを言ったのだ。
ある年齢の人が刑法違反の何かをやったから、その人と同じ年齢の人のことも怖い人だなどと思う人もいるのだ。
あいさつでも一部の人にだけ初めにあいさつしてきて、百発百中でオウム返しされたから、他の人もみんなオウム返しであいさつすると決めつけて
間違ったことを信じている人もいたり、あいさつ返しをされなくて、無反応や会釈をされても、正しい根拠がなくても、あいさつ返しはオウム返しが正しいと信じる人もいるのだ。

 

69.あいさつと中学生の職業体験

 

私の行っていた中学では職業体験はなかったが、職業体験というのをやっている中学校がある。
私が図書館に行った時に中学生の子が棚に本を戻す作業をやっているのを見たことがあったり、マルナカというスーパーマーケットで体操服を着た中学生が品出しをしていたのも見たことがある。
地元のケーブルテレビだったと思うが、ラーメン店でラーメンを出している中学生も見た。
職業体験について「働くことの厳しさと喜びを知る」というようなことを言っている人がいたが、まず、働く、仕事という言葉の定義が人によって違うのだ。
多くの人の仕事や働くという言葉の定義は、給料や印税という形で金を貰うことをしているのを仕事や働くと言っている場合が多いだろう。
何かをやっているといなら呼吸をしていることも何かをしているし、寝ることも寝るということをしていて何かはしているのだ。

職業体験は職場から中学生は給料という形で金を貰っていないだろうが、
それを仕事をした、働いたというのだろう。
誰かの役に立っていることを仕事と定義付けるなら、存在しているだけで誰でも誰かから好かれているだろうから、みんな仕事をしていることになるが、給料や印税という形で金を貰っていないだけだ。
中学生の職業体験で金を貰っていないのに仕事や働くなどと言っているのに、他のほとんどのことでは、給料や印税という形で金を貰っていない人のことは仕事をしている、働いているという言葉で言い表さないような差別をしている。
無職やニートと言われてる人が、家の家事、掃除、洗濯、ゴミ出しや畑作業をやったり、ユーチューバーではない人が、動画撮影をしてユーチューブに動画をアップロードしたり、ブログやSNSに文章や写真、動画を出しても仕事や働いているという人はあまりいないだろう。
大勢が給料という形で金を貰っていて、それを正しいと信じていて、金でやっていく世の中を正しいと信じているから、例外除いて給料や印税という形で金を貰っている人の方が正しくて、素晴らしいと信じている人もいるのだ。

世の中も人間も矛盾だらけなのだ。児童労働はダメだと言っているのに、職業体験を仕事や働いていると言って許していたり、ドラマや映画に出ている子役や、子どもの歌手が給料という形で金を貰うことは許しているのだ。
高校生は年齢は子どもだが、バイトをすることは許されているが、
小さい子どもが例外あれど給料を貰うようなことをすることは許さなくても、高校生が子どもとは言えども、もう大きい子どもだから給料という形で金を貰うバイトをすることは許すのだろう。

職業体験をやった中学生が同じ職場に行っているわけではないし、同じ職場に行って、同じ作業をして、周りにいる人が同じでも、
みんなが同じことを思うわけがないのだ。同じ人間の外見を見て嫌う人もいれば、嫌わない人もいるし、同じ人がやった同じ言動を嫌う人もいれば、嫌わない人もいる。
人は同じ人間ではないのだから、同じ経験をしても同じことなど思わない。
給料を貰うような仕事をしている人が同じ理由や目的で給料を貰う仕事に行っているわけではない。
多くの人が給料を貰うような仕事をしている理由は、金がないとやっていけない死活問題だから、金を貰うために給料を貰う仕事に行っている場合が多いだろう。
好きなことや、やりたいことで給料や印税という形で金を貰っている人もいるのだ。

スーパーの品出しをした中学生の中には、その作業を簡単だと思った人もいるだろうし、学校で授業を受けるよりは、給料貰うような仕事をやって金を貰って、その金で自分が欲しい物を買ったり、家族の家計の足しにする方がいいと思う人もいるだろう。
働く厳しさと喜びを知ると言っている人は、給料を貰う仕事をしている人がみんな同じことを感じているかのように言いたいのだろうが、
職場で心身が苦しいと思っても、苦しい、つらい理由は違うだろう。
同僚の体臭や、同僚が机の引き出しを閉める音が大きくて不快になる人もいるのだ。不快で苦しい、つらいと思っていても、不満の内容が違いすぎる。

職場で同じ態度を取ったり、同じ失敗をしても、好きな人や仲のいい人ならば不満を持たなかったり、大目に見たりしてえこひいき差別をしているのだ。
中学生が職業体験中に失敗しても、不満言われたり、怒られる場合はあまりないだろうが、同じ失敗をしたのが、他の人ならば怒られたり、不満を言われるのだ。職業体験に行ったから、給料を貰う仕事をしている人の気持ちが分かるかのように言っているのはウソだ。
金を貰いに給料を貰うような仕事に行っている人や、好きなことや、やりたいことで給料や印税という形で金を貰っている人と、
学校の先生から職業体験に行けと言われて行っている中学生が同じなわけがなくて、働く厳しさと喜びを知るなどと言っているのはバカげている。

中学生などの子どもの多くは、生活費や欲しい物や、行きたいところに行く金を親や祖父母などに出してもらっている人が多いだろうが、
20才以上60才未満ぐらいで学生や主婦(夫)や身体障害でもない人が同じように家族などから金を出してもらっていたら、見下されたり、
不正の正しくないことをやっている人だと思って叩いてくる人もいるが、子どもならば悪くは思われにくいという差別がある。
金でやっていく世の中が正しいと大人も子どもも多くの人が信じているので、金でやっていく世の中を辞めようとはせずに、
子どもも、例外除いて高校生ぐらいから給料を貰うことをしてもいいということにして、人によっては若いうちから給料を貰っている人の方が
しっかりしている人などと高評価するのだ。

あいさつも同じことで、あの人達があいさつしないのは許すけど、この人たちがあいさつしないのは許さないという差別がある。
あいさつは正しくもないことで、あいさつを初めにされてもオウム返しであいさつを返す必要などないのに、学校のあいさつ運動で
あいさつは正しいことで、あいさつを初めにされたらオウム返しであいさつ返しすることが正しいと間違ったことを押し付けているのだ。

 

 

70.あいさつと叔父

 

私は20代半ばから母親の実家に引っ越してきて、この文章を書いている2022年の今は私の母親と独身の叔父と
同じ家に住んでいる。
数年前から、うちの畑に叔父がみかんなどの柑橘類の苗木を植えていて、苗木も大きくなっていて、数年前から、叔父は畑で取れたみかんを近所の一部の人にあげだした。
苗木を植えだした理由も、近所の人にみかんを配っている理由を私は知らない。

みかんを貰った人の一部は何か持ってきていて、ほとんどの人は食べ物を持ってきていたり、花を持ってきた人もいた。
叔父は何かを持ってきた人に対して、何かを持ってきた理由を人によって違う理由を付けていて、80代ぐらいのおばあさんが何かを返して来た理由叔父はについて叔父は、古い人間だからというようなことを言っていたり、
他の人が持ってきたことには「律儀だ」と言っていたりして、違うことを言っている。
何も持ってこない人には「関わりたくねーんだぞ、関わりたくねーんだぞ」と2回同じことを言っていた。
自分が思いたいように思っているのだ。何かを貰って何も持ってこない人のことを自分と関わりたくないからだと思う叔父みたいな人もいれば、
他の人ならそんなことは思わないだろう。
あいさつでも、オウム返しであいさつ返させたいのに、無反応や会釈をした人に疑問や不満を持つ人がいるが、自分の思い道りにさせたくて人を支配したいところがあるのに、自分の思い道りの反応しないことに違和感を感じたりして不満を持つ支配的、独裁的なところがあるのをコミニケーションや社会のルールと綺麗事を言って美化させている人もいる。
人に物をあげることや、何かを貰ったら返すということに対しても、コミニケーションや社会のルールなどと言って分かったようなこと言ったり、
綺麗事を言い美化させる人もいるだろう。

あいさつしたり、人に何かをあげたり、何かを貰って返している理由や目的、動機は人によって違うのに、心理について全くか、ほとんど興味がない人が多そうだ。自分に都合のいい理由を付けて美化したい人もいるのだ。
土産物を返す文化がなくなってほしいと言っている人もいるように、何かを貰って何かを返すことをみんなが正しいとは信じていないし、
みんなが何かを返したいなどとは思っていない。

例外除いて、人に何かをあげて、それを貰った人は何かを返さなくてはいけないと信じている人が多いだろうから、返さなかったら、あげた本人か、それ以外の人に不満や疑問を持たれやすいだろう。
かといって、例外除いて誰かがあげると言ったものを断っても、あげた本人やそれ以外の人から不満や疑問を持たれやすいだろう。
例外は町中などで知らない人が物をあげると言ってきたら断ってもいいとか、知っている人でも、やたら高価なものをあげると言ってきたら断ってもいいと思う人もいるだろうし、動物性の食べ物を食べない人が動物性の食べ物を貰うことを断ってもいいなどだ。
何を断ってよくて、何を断ったらダメなのかは人によって信じていることが違うのだ。
自分が正しいと信じているところが人間にはあるから、自分の信じていることがまかり通らないと疑問や不満を持ったり違和感を感じるのだ。
何かをあげると言われて貰って、何かを返さなくても、あげると言ったものを断っても、不満や疑問を持たれる場合もあるのだから人間関係は面倒なところがある。
大勢がやっていることを社会のルールやコミニケーションなどと言って、分かったようなことをいい知ったかぶっている人もいるのだ。
例外除いて、世の中は初めにやった者勝ちなところがあるので、初めにあいさつしてきた人や、初めに何かの物をあげた人の方が例外あれど、
肩を持たれたり、優先されて、初めに働きかけた人の信仰や欲求を断った人の方がおかしい人だとか、失礼な人などと思われる場合もあるのだ。

誰かにやられた言動が自分の役に立っていたり、人間として正しいことだと思う場合は一方的とは言われにくく、相手が嫌がった場合は一方的と言われやすいが、あいさつを初めにしてくることや、誰かにものをあげることは例外あれど多くの人がやってもいいことだと信じているがゆえに、一方的だとは言われにくいのだ。

叔父がみかんを一部の人にあげだす以前に、叔父より年輩の近所のおじいさんがブドウをうちの家に持ってきたことがあって、
それについて叔父は「○○ちゃん、なんかほしいんだぞ」と言っていた。こんなことを思っている叔父が、その後みかんを近所の人に
あげているのはどういう理由であげているのだろうか?
2021年ぐらいに、うちの畑の空いている所に、叔父は新しいみかんの苗木を2つ植えていたのだが、もっとたくさんの人にみかんをあげようとしているのだろうか?

近所に手作りの食べ物を何度も持ってくる人(この後の文章ではAさんと呼ぶ)がいて、叔父が家で私の母親にその人に会った時に喋ったことについて話していて、「おいしいって言っておいた、おいしくないのに」というようなことを言っていたり、聞き間違いかもしれないけど、別の日にAさんが食べ物を持ってきていることについて叔父が「きちがっている」と言ったように聞こえたのだが、私の聞き間違いかもしれないが、聞き間違いでなければ、何度も食べ物を持ってくることをおかしい、キチガイという言い方をせずに、きちがっていると言っている可能性もある。
別の時にAさんが作ったケーキが一つ一つ袋に入っているもの数個を私の母親がAさんから貰った。
台所の流しの前に叔父が食べる食べ物を置くおぼんがあるのだが、そのおぼんの上に母親がAさんから貰った袋に入っている数個のケーキを置いていた。
そのケーキがなくなっていたので、母親が叔父に聞いたら、「自分のおぼんにケーキがおいてあるから自分に食えということだと思って、
欲しくもないのに食べた」というようなことを言っていた。何かを食べる目的は味覚を満たすためだったり、栄養を取るためだったりなど、
食べる目的は同じではないが、叔父がAさんから貰ったケーキを食べたのは欲しくもないのに食べているのだ。
別の日に、Aさんが持ってきた食べ物が台所にあった時に、叔父が「これ誰が持ってきたんだ。またあのもんか。迷惑なんだよ。」と言った。
こういう感じで誰かから何かを貰ってもみんなが喜んでいるわけでもないし、みんなが貰いたいとは思っていないが、人に何かをあげたり、何かを貰うとコミニケーションなどと言う人もいるだろうが、適当な言葉で片づけているだけで、あげた人や貰った人の心理についてはあまり言及はされないのだ。
叔父は人が持ってきたものにケチは付けているけど、自分は人にみかんをあげていることを、貰った人が迷惑していると思っているのだろうか?
たくさんあげたら失礼になるというようなことを叔父が言っていた時があった気がするが、たくさんもらわなくても、貰ったものを嫌がったり、迷惑している場合もある。
叔父にしろ、叔父以外の人も自分が思いたいようにしか思わないのだ。

何かをしている人自体が、そのやっていることの全てか一部をバカにしていたり、見下していたり、悪いことだと思っていたりなどする場合があるのだ。
あいさつをしている人にはあいさつ非信者もいて、嫌々、正しいとは信じていないのにあいさつしていたり、あいさつ信者でも関わりたくない人や、それ以外の人に渋々あいさつしている場合もあるだろう。
自分の働いている会社や店の商品やサービスをバカにしていたり、自社商品やサービスを買ったことも使ったこともなかったり、
医療に携わっている医者の中には、医療の九割は要らないとか、断薬のすすめなどと言っていたりする人もいるのだ。

何かをやっているからそれが好きだということにはならない。学校や、給料を貰う仕事に行っている人が、学校や職場の人間関係で嫌な思いをしていないということにもならないし、学校や仕事を嫌っていないということにはならない。
多くの人は、給料を貰う仕事をしている人は、金がないとやっていけない世の中だから、給料という金を貰うために行っている人が多いと思っているだろう。
あいさつも、みんながやりたくてやっているわけではないし、みんながあいさつ信者ではないのだ。

叔父が誰かにみかんをあげていても、他の人が何かを持ってきたことにはケチ付けているように、あいさつはしないとダメと信じている人も、全ての人からのあいさつを望んでいるわけではないし、
町中や観光地や空港や駅などで知らない人があいさつしてきたらおかしいとか、変わっているなどと思う人もいるだろうが、例外で
好きな子どもがあいさつしてきたら嬉しがったり、高評価する人もいるだろうが、自分独自の勝手なあいさつの決まりを作って、
人を高評価したり、悪評価したりして独自の裁きをしているのだ。

 

 

71.我が身が可愛い、自分が可愛い人間たち

 

例外はあれど、人間は自分が良い気持ちでいたいとか、嫌な気持ちや不快にはなりたくないと思っているだろうが、
現実は生きていると嫌な気持ちになることがあるわけだ。
根本的に人間は我が身可愛さ、自分可愛さがあるから、自分を悪者にはしたくなかったり、自分を問題視しにくかったりするだろう。
嫌な気持ちになった時に自分が嫌だと思う特徴を持っている対象や、自分が嫌だと思うことをした対象を問題視しやすいのだ。
我が身が可愛いので他人のせいにしやすいのだ。

同じことをしてもあの人ならば許し、この人なら許さないというところは多くの人にあるだろう。仲間のことは許しやすく、仲間ではない人のことは許さない場合があるのだ。
子どもが許されやすいのは大勢の大人が子どもの見た目や雰囲気などで自分の役に立っているから、子どものことは許しやすいのだろう。
家族や友達、恋人も自分の役に立っている場合が多いから許したり、大目に見やすいのだろう。
同じことをしたのが仲間ではない人ならば許さないという冷酷さや差別心を持っているのだ。
人間のことを、同じ人間なんだからと言うような人がいるが、全てが同じ人間など要るわけないし、みんな人のことを根本的に同じ人間だとは思っていないだろう。

嫌な気持ちになったのは嫌がられている方に問題や原因があると無意識、意識的に思って信じている人がたくさんいるのだろう。
逆に嫌がられている方は問題はなくて、嫌がっている方に問題があると多くの人が思っているのが白人の黒人差別、人種差別だ。
肌の色で人を嫌ったり見下したりするのは、ひどいことで間違っていると多くの人は思うのだろうが、それ以外の多くのことは、嫌われている方に問題や原因があると思っている場合もある。
「人が嫌がることをやってはダメ」とか「人が嫌がっていることは今すぐやめさせなければいけない」と言っている人がいるが、
こういう人は大勢が嫌がっていないのならば、一人や少数の人が嫌がっていることはやってもいいとか、例外として一人や少数の人が自分や自分の仲間の場合だとやったらダメだと思っている場合もありそうだ。
動物を食べていることを嫌がっている人がいるのを知っている人はたくさんいるだろうが、多くの人は動物を食べるのを辞めなければいけないとは思わないだろう。
生まれながらの特徴を誰かが嫌がっていることは差別と言うけど、生まれながらの特徴ではないことを嫌がっているのは差別ではなくて区別だというようなことを言っている人がいたが、誰かのことを嫌って嫌がっている点では同じことだ。
例外あれど、大勢と同じことをしない人は見下されたり、悪く言われやすかったり、奇異な目で見られたりするが、
これを生き方差別とか、信仰差別とか、感性差別とか、少数派差別や、自分と同じことを信じていない人差別などと言う人はあまりいないだろう。

 

72.あいさつとバイク関連のこと

 

バイクの一発試験のことを調べていた時に、あるブログに行きついて読んでいると、このブログを書いている人が、一発試験を受けに行った時に、一発試験を受けに来た他の人のことを、曲がる時や乗車時に左右確認をしていないとか、一時停止の標識を無視したりなどをしていることに、
なんでこんなに勉強してきていないんだと思ったみたいで、その原因が日本は法律が義務教育に入っていないから、道路交通法のことは、赤では渡らないという知識しか入っていないからであるというようなことを言っている人がいた。
赤信号では渡ってはいけない、止まれの意味だと知っていても、原則道理に守っていない人の方が多いだろうし、赤信号で止まる理由も、車などが来ている時に事故に合わないためにとか、警察に捕まりたくないからなどの理由の人が多いだろうが、赤信号で止まっているから、赤信号で止まれという決まりを正しいと信じていることにはならない。
誰かにあいさつしたから、他の誰にでもあいさつしているわけではないし、あいさつを知ったから、みんながあいさつを正しと信じているわけではないのと同じことだ。

法律を学校で教えないから、一発試験の時に道交法を守っていないなどと思う人がいても、それは間違っている。
法律の一部を知っていても、赤信号の決まりの様に原則道理に守らなかったり、他の知っている法律でも全く守らなかったりもするだろうし、
法律もそれ以外の決まりもほとんど正しいとは信じていなくて守っていないだろう。
法律をあまり知らないから、一発試験の時に一時停止の標識で止まっていなかったと思う人がいても、教習所などで道交法を知っても、その道交法の全てを守りはしないだろう。ほとんどの決まりなど正しいとは信じていないのだから。
教習所で学科や技能を学んで知っても、免許が取れた後に教習所で習ったことの全てを守っているわけではないのだ。
免許を取るために、道交法を正しいと信じていない人も形だけ道交法を守るような演技しているだけで、目的の免許を取れたら、正しいとは信じていない決まりは、全くかほとんど守っていないのだ。
だから、車やバイクの乗り方も自己流にやっているだけで勝手なことやっているだけだ。
例えば、教習所で教えてもらう車の乗り方は、エンジンをかける前にシートベルトをしなければいけなかったり、バックミラーで後方の確認をすることになっているが、免許が取れた人の多くは普段バックミラーで後方の確認をしない人も多いと思うし、エンジンをかけて車を運転している時にシートベルトを締めている人もいるのだ。
私が教習所に行っていた時にペダルを踏む時には、床から足をはなして踏めと教えられたが、教習所内で男の先生が運転している時にたまたま先生の足を見たら、床にかかとを付けたまま、アクセルとブレーキのペダルを踏んでいた。
車のことを書いているあるWebサイトを読んでいたら、女にはカカトを床から離してブレーキペダルを踏む人が多く、その理由は教習所でそういう風に教えられていることを守っているからだというようなことを書いていた。
何でカカトを床から離してブレーキペダルを踏めと教えているのかについては教えないのだろう。
あいさつも同じで、なんで一部の人にだけあいさつをさせたいのかについては多くの人は言わないのだ。

法律を学校で教えないから法律を守らないと言っているが、法律の一部を知って一部の法律を守っているのは、その法律を正しいと信じて守っている場合と、正しいと信じていないけど、刑法違反で逮捕されたくなかったり、税金Gメンに差し押さえされたくなかったり、誰かから不満を言われたくないからなどの理由や、見栄や体裁などで形だけ一部の法律を守っているだけなのだ。
それに、子どもの時から法律というものがあることを知っているくせに、それを全くか、ほとんど知ろうとしていない人がたくさんいるのだ。
自分に都合のいい法律だけ引っ張り出してきて、その法律を正しいと信じていようが、信じていなかろうが都合よく利用しているだけだ。
法律を学校で先生が教えても、ほとんどの法律など信じるわけがないのだ。
ごく一部の法律や法律以外の決まりを守っている人を真面目な人などと言っている人がいるが、その人たちはほとんどの決まりなど守らないのだ。
ある親が、子どもって親の言うことを聞きませんよね、と言っていたが、多くの子どもは親の言うことを聞かない所と聞くところの両方があるだろうし、親の言うことを全部聞いている人がいるのなら、よほど性質などが似ているか、親の言うことを聞かないことで身体暴力やられたり、
言うこと聞くまでしつこく言ってくるから形だけ言うことを聞いたふりして親に合わせているのだろう。

イスラム教では豚を食べてはいけないと言っていたり、動物を食べていることを嫌がっている人がいることを知っていても、豚や動物は食べてもいいと日本人や日本人以外の多くの人は信じているだろう。
学校で習わなくても、自分が興味のあることなら調べるだろうが、自分が知らないたくさんの法律の全部か、ほとんどを調べようとしないのは、
法律自体に興味もないし、法律をよく知らなくても正しいとは信じていないから調べないのだろう。
もし法律が正しいと信じているのならば調べるだろう。学校で教えてもらっていないから法律を守っていないというわけではない。
学校の授業で習うことなど世の中の一部のことしか習わないし、学校に行っても人間や世の中のほとんどのことなど分かるわけがないのだ。

警察がネズミ捕りをしている場所を知っている人の中には、その場所では道路交通をきっちり守ることをしていても、警察がいない所では同じ道路交通を守ってはいなくて、人によって態度変えているだけだし、
守った道路交通法を正しいと信じているから守ったのではなくて、警察に捕まるのが嫌だから守っているだけで、形だけ守り、決まりを守るという演技しているだけだ。
先生や親がいる所では、この人たちの言うことを聞いていても、いなところで言うことを聞いていない人などたくさんいるだろう。
言うことを聞いているのは、形だけの演技であり、内面では先生や親の信じていることや欲求をバカにしていたり、見下している場合もあるのだ。

ユーチューブでバイクの動画を出している人が、ビッグスクーターのデメリットと言っていることに、バイクとすら認識されていないと言っていた。
私がユーチューブで電動バイクについて調べてた時に、誰かが原付2種のバイクで道を走行している動画を出していて、その人が乗っていた原付2種の電動バイクのことを、「バイクではない。家電」というようなことを言っていた。
電動バイクは静音のようなので、エンジンバイクのような大きい音はしないから、今までエンジンバイクに乗ってきた人で、バイクを運転する時は大きい音が出て当たり前だと思っていると、電動バイクの方が静音だから違和感があるのだろう。
バイクという言葉の定義、意味付けが人によって違うので、電動バイクをバイクではないという人もいれば、ビッグスクーターをバイクという言葉では言い表さない人もいるのだ。
仮面ライダーが載っているような、またがるようなバイクをバイクだと呼びたい人もいるのだろう。
バイクのスクーターで椅子に座っているような乗り方をしている見た目をバカにしている人もいたし、50cc原付について、「車の流れに乗れていなくて、迷惑だから乗るな」というようなことを書いている人もいた。
50ccの原付はおすすめできないというようなことをユーチューブで言っている人もいた。

バイクに乗っている人のユーチューブを見ていたら、バイクや車の免許を取る時に教習所に行ったら、ニュートラルや1速、2速などのことを知らないのに、教官は知っていることを前提に授業をやっていたと言っていた。
あいさつでも、あいさつ信者は初めにあいさつしたら、あいさつされた人はオウム返しであいさつ返すことが正しいと勝手に信じ込んでいるから、無反応や会釈をおかしいと思う人が多いのだろう。
自分のあいさつ信仰がおかしいのではなくて、自分が正しいと信じていることをやらなかった人の方をおかしいと思うのだ。
そもそも、あいさつを信仰や宗教という言葉で言っている人などほとんどいないだろうが。

中国では電動バイクにの売るのに免許も自賠責保険もいらないらしく日本とは真逆の決まりなのだ。
法律も国によって違うし、信じていることも人によって違うので、言葉の定義も、それ以外の色んなことでも色々違うのだ。
ある電動バイクに乗っている人が先進的な乗り物に乗っている優越感があると言っている人がいたが、同じバイクに乗っていたり、電動バイクに乗っている人みんなが優越しているわけがないが、同じ乗り物に乗っていても同じことなど思っていないのだ。
あいさつにおいても、あいさつを初めにしなかったり、オウム返しであいさつをしなかった人に不満を持ち、見下したり、ダメ人間だと言ったり、嫌ったり、不満を言ってくる人がいるが、みんなが同じことなど思っていないのだ。

 

73.監視カメラ設置とあいさつ

 

誰かが家の外に監視カメラを付けていることに対して、プライバシーを侵害するということで誰かから訴えられて、
監視カメラの撤去が認められている場合があるらしいのだが、
言葉の定義しかり、それ以外のことでも一体どういう基準、信仰を持っているのだろうか意味が分からないのは、あいさつと同じでもある。

監視カメラで有名なのは商売をやっている人が店内に分かりやすい大きなカメラを付けていて、その多くは本物のカメラだろう。
客の行動が映像で記録されていたり、野外の場合は、交番の外の所や観光地や駅や堤防など公共やそれ以外の場所の色んなところが撮影されているのに、一部の人がカメラを付けていることを許されずに裁判起こされる人もいるのだ。

自分の住んでいる近所で誰かが監視カメラを付けていることでプライバシーの侵害であるからカメラので撮影するなとか、損害賠償請求をしている人がいるが、損害賠償請求していること自体が不正でもあるのだ。
誰かが嫌がることをしたから嫌がられている人が裁判を起こされた場合などに、金を出せと言っているのもおかしいのだ。
ごく一部の人にだけあいさつさせたいのにあいさつされなくて不快だからと損害賠償払えと言っているようなものだ。
大勢がやっていることや、大勢が許していることや正しいと信じていることは多くの人から許されやすい。

公共の場所が写っているからダメであるというのなら、他のカメラも公共の場所は写っているのに、他の人が付けているカメラは許されて、別の人が付けているカメラは許されないという、えこひいき差別をしている。
裁判官が決めつけた判決が正しいということにはならない。

プライバシーの侵害だというのなら誰でも、それをやっているとも言えるけど。
カメラではなくても、直接人のことを見ていることも、カメラで見ていることも同じようなものだろう。
直接人から見られることで色んな理由で不快になっている人がいても、誰かのことを見るなとはあまり思われないだろう。

あいさつが正しいとか、金でやっていく世の中が正しいとか、裁判官の判決に従えなどと、自分や多数派の信仰を無言や、言葉で押し付けたり、第三者に言わせたりして、自分の信仰心を押し付けていることも相手のプライバシーの侵害とも言えるけど。
バカという人がバカなのだ。プライバシーを侵害されていると思っている人も他人のプライバシーを侵害しているのだ。
他人の信仰心を侵害しているとも言える。
店などで分かりやすい監視カメラで自分の行動を見られていることには不満を持たなかったりして許していたり、嫌であっても許容範囲内の人が多いだろうが、自分の住んでいる近所でカメラを付けられていることを許さない人もいるのだ。
カメラで撮影されている人の承諾もなく監視カメラで撮影しているのはダメだというのなら、店などの監視カメラの場合、撮影されている人の承諾など得ていないだろう。一人でも嫌がる人がいるからやってはいけないというのなら誰も何もできない。カメラでの撮影で言えば、観光地や、町中などで撮影して、その映像を自分だけが見るか、同僚や同級生などに住んでる場所や生年月日などの個人情報を聞いても、プライバシーの侵害とは言われない。
大勢が嫌がらないことや、嫌がっていても許容範囲内のことは許されやすいが、大勢が嫌がることは許されにくい。
人の個人情報や、それ以外のことを聞いてきても、大勢が聞くことや、大勢や自分がおかしいと思っていないことの場合は、
常識やマナー、モラル、コミニケーションなどと言って正当化されやすいし、人間の正しさなどとされたりする。

 

 

74.人間は自分が思いたいようにしか思わない

 

お金が入ってくると言っていたら、言葉は言霊だから金が入ってくるということを言う人がいるが、
その言葉を内面で思ったり、言ったりして金がすぐに入ってきたら、言葉で言っていたから金が入ってきたんだと都合よく思う人もいるのだろう。
8か月後や一年後や、10年後に給料や宝くじなどで金が入って来ても、言葉で金が入ってくると思っていたから金が入ってきたと思いたい人は
言葉に込めた言霊のおかげなんだと都合よく思う人もいるだろうが、私は信じていない。
多くの大人は給料という形か、年金という形で金が入ってきているだろうが、いつもと同じ給料額でも、
いつもの給料額より100円や3000円多く給料を貰ったり、給料以外の形で100円入って来ても1万円入って来ても、10万円入って来ても
金が入ってくると言葉で思っていたり、言っていたから金が入ってきたと思いたい人はそう思うのだ。
信じる者は救われるなどと言ったりするが、自分が思いたいようにしか思わないし、信じたいようにしか信じない

金が入ってきてほしいと言葉で思ったり、言っている人に一度に100円入って来ても、18万円入って来ても、100万円や4億円が入って来ても、
金が入ってきてほしいと言葉で思ったり、言っていたから金が入ってきたのだと言いたいなら、なんで入ってくる金の額に違いがあるのかについては言わないのだ。
ある人が宝くじで一億円が当たった人のことを、宝くじを買うという行動をしたから宝くじが当たったというようなことを言っていたのがウソだろう。
宝くじを買ったことがある人はたくさんいるだろうが、みんなが当選などしていないし、
当選した人も別の時に宝くじを買った時には当選はしていないのに、宝くじを買うという行動をとったから当選したと言っているのは間違っている。
私も過去に何度か宝くじを買ったことがあるが、一度だけ1万数千円が当たったことがあるが、
私が宝くじに当たった理由を宝くじを買うという行動に出たから当たったのだという理由を誰かが付けたとしても、
宝くじが当たっていない場合についてはどういう理由をつけるのだろうか?

「金が入ってこないと言っていると入ってこないので、そういう言葉は使わない方がいい。」と言っている人がいるが、
一方で他の人が言っていることに、金が入ってきてほしいと思っているのに金が入ってこないのは、心の中で金がないから金がほしいと思っている人の
金がないからと思っていることが現実化されたから金が入ってこないのだと言っていたりするのだ。
望む額の金が入ってこないことについてある人は、「金が入ってこない」などと言っているから金が入ってこないと理由を付け、
他の人は「金がないから金が欲しい」と思ったり、言っている人の金がないからという言葉の部分が現実になって金が入ってこないと理由を付けるのだ。
思っていることが現実になるとか、言葉にしたことが現実になると言うのなら、
「今、金がないから金が欲しい」と思っている人に金が入ってこなかった場合には、金がないからと思っていることが現実化されたのだと
理由をつけても、一方で金が欲しいとか、金が入ってくると思ったり、言っているのに金が入って来ていないのはおかしいのだが、
思っていることは何でも現実化するんだと信じたい人などは、金が入ってきてほしいと思っていて金が入ってきたら、
思ったことが現実になったのだと自分に都合のいい捉え方をするのだろう。

ある占いをしている人のブログを読んでいたら、その占い師は思っていることが現実になるというようなことを以前に言っていたようで、
誰かがこの占い師に思っていることが現実にならないと言ったことに対して占い師は、
魂で決めてきたこと以外は現実にはならないという感じのことを書いていた。
思ったことが現実になると信じている人の多くは、思ったことの一部は現実になるけど、現実にならない場合もあると信じているのだろうが、
現実にならない場合があると思っている方は言わないのだろう。
そりゃそうだろう、思ったことは現実になるというのを別の言い方で言えば、願望が叶う、願いが叶う、夢が叶うなどと言ったりするが、
これらのことを売りにして本などを出したりして金を貰っている人は、思ったことが現実になる場合と現実にならない場合があるなどと本や本の帯などに書けば売り上げは減るだろうから本音が言えないのだろう。
例えば、「精神レベルが高い人は願いが叶いやすいけど、精神レベルが低い人は願いが叶いにくいです」とか
「生まれてくる前に魂で決めてきたことは現実になるけど、魂で決めてきていないことは現実にはなりません」とか
「思ったことは現実になる場合と、現実にならない場合があります」などと本の表紙や帯や本の宣伝文に書けば、
これらのことを書かないのより売り上げは減るだろう。
人は自分の思い道りに生きたいだろうが、現実は何でも自分の思い道りにはならないから、引き寄せの法則とか、願望が叶うという
ことが書かれているブログや本などを読みたいと思う人もいるだろうから、この類の本はある程度は売れるのだろうし、
スピリチュアルの人が人気があるところがあるのだろう。

自分が思いたいようにしか思わないのはあいさつも同じで、あまりにも数少ない人にだけあいさつしてきて、
オウム返しを求めて初めにあいさつして、あいさつされた相手全員がオウム返しであいさつ返しをしてきたら、
他の人もみんなあいさつ返しをするんだと勝手に信じる人もたくさんいるのだろう。
自分が大切なので自分の思い道りの態度を取らずにあいさつを返さなかった人を嫌ったり、見下したり、白眼視したり、嫌がらせしてくるのも、
正しい根拠や裏付けがなくても自分が正しいのだと思いたいのに、自分が正しいと信じていることをやらなかった人を間違っている人だと思い嫌ったりする。

金でやっていく世の中が正しいという信仰を持つ金信者の人の中には、「お金がすべてじゃないけど、金は入ってきてほしいよね。
金が入ってくると思っていれば入ってくる。金が入ってこないと思っていれば入ってこない」などという信仰を持つ人もいる。
金がないとやっていけないから、どうやったら金が入ってくるのかに意識を持っていっているだけで、金でやっていく世の中自体が不正で間違っていることに金信者の人たちは気づいていない。
多くの人は成功例を真似したり、大勢のやっていることを真似するのだ。
例えば、金がないとやっていけないこの世の中で、金がたくさん入ってきている金持ちと言われている人たちが
何をやって金が入っているのかとか、普段どんな言動を取っているのかとかを知ったら、その人たちのやっていることの真似をすること
で自分や他の人にも金が入って来る可能性があると信じる人もいる。
あいさつも同じで、大勢がやっていることが例外あれど正しいから大勢に合わせて従えという信仰心だ。
人としての正しさは例外除いて、大勢と同じことをすることと信じている人がたくさんいるのだ。

コロナウイルスはマスクを付けていたら口や鼻から入ってこないと信じている人もたくさんいるのだろうが、
マスクの種類によってはコロナがマスクを通り、感染防止にはならないと言っているような人や、
どんなマスクを付けていても感染防止にはならないと信じている人もいるだろう。

コロナ関連のことで色んな人が言っていることもバラバラで真逆のことを言っていて、コロナ関連のことについてもみんなが同じことなど信じていない。
マスクを付けて呼吸ができるのはマスクから酸素、空気が通過して入ってきているということだが、酸素、空気はマスクを通過してもコロナウイルスなどのウイルスはマスクを通過しないと信じる人は信じるのだろう。

あいさつにおいても、あいさつされたから嫌われていないとか、みんながあいさつを正しいと信じているとか、自分が信じたいように信じ、思いたいように思う。
外見や喋り方や体臭や生き方や信仰心が違うところがあることは百も承知である一方で、人はみんな一部のことでは同じところがあると信じているような人もたくさんいるだろう。
その一つがあいさつで、違うところがあるけれど、あいさつにおいては、みんながあいさつを返すと信じていたり、
みんながあいさつを返さなければいけないと信じていたりする人もいるのだ。
自分に都合のいい捉え方をして、自分に都合のいい信仰を持っているところがあるのだ。
みんながあいさつを返すことを正しいと信じていないし、ヘレンケラーみたいな人もいるし、誰でもいつでも喋りたいわけではないだろう。

 

 

75.自己満足するという気持ち あいさつして自己満足する人

 

あいさつは関わる気もない人や、嫌いなだけの人や、どうでもいい人、大切ではない人にする場合が多いだろうが、そういう人に形だけあいさつして、必要最低限な関りなどという言葉で言い表す人もいるだろうが、
大切でもない、どうでもいい人を、あいさつという言葉で相手にしてあげた自分や自分の好きな人や、あいさつしている人を高評価して良く言ったり、間違ったことはしていないと根拠もなく自己満足をしている
あいさつ信者の人。
自分がどうでもいい人や大切ではない人を相手にしてやったから、あいさつを返してほしいと自分の気持ちは大切でも、
相手の気持ちは分かっていなかったり分かる気もない人が高評価されて、褒められたりして得をするところがある。多数派が得をしやすいところもある。

家族や誰かから金やプレゼントを貰ったことを「気持ち」という言葉で言い表す人がいる。
物や金ではなくて、その物や金を渡した理由は相手を好きだったり、役に立っているところがあるから感謝の気持ちを込めて金や物をあげたんだよ」などという気持ちや想いがこもっているんだと言いたいのだろう。
お互いが両思いの場合は、この言い方はカッコ付くのだろうが、
片方だけが相手のことを好きなだけだったりなどなら、あまりカッコも付かないだろう。
あいさつを例にすると、片方が相手のこと好きで初めにあいさつをして、あなたのことが好きだよという気持ちを込めてあいさつして、
その気持ちが相手に伝わっていても相手は嬉しいとも思っていないかったり、あいさつを初めにした人の自己満足で相手のことを好きだと思ってあいさつしてあげたんだと本人は満足していても、あいさつされた方はめんどくさく、、嫌々あいさつしている場合もあるようなものだ。
関わる気もない人に、あいさつ返しを求めて形だけ初めにあいさつしている人が自分のその気持ちを知ってあいさつしてほしいと望んでいて、
相手が初めにあいさつしてきた人の気持ちを知っていても、知らなくても、あいさつをされても嬉しいとも思っていなかったり、嫌がっている人もいる。
目に見えない思いがこもっていると自分の気持ちは大切でも、相手のことにはほとんどか、全く興味や関心がなくても、
気持ちが大切とでも言えば綺麗事としては美化できるだろう。

誰かと一緒に行動をすることやプレゼントや金を渡すのも両思いならば良く言いやすいが、片思いとかならバカにされたり、良く言われなかったりもする。
あいさつは、大切ではない人にする場合が多いものだろうから、どうでもいい人とあいさつという形だけで関わってあげたあいさつできる人は素晴らしいと、自分や自分と同じことをする人を褒め称えて、同じことをしていないあいさつ返しをしない人を問題視して、あいさつを初めにした人をを正当化する人もいる。
あいさつ信者には、あいさつ返されたいという自分の気持ちは知ってほしくても、あいさつをした理由がどうでもいい人や、嫌いなだけの人や、関わる気もない人や、見下しているだけの人に仕方なくやった、渋々やった、めんどくさくやった、バカにしてやったなどという本心や
本音の気持ちは知られたくない、バレてほしくない人もいるだろう。
あいさつは自己満足でやっている場合もあると言えるが、みんながあいさつを正しいとか、あいさつ返しが正しいと信じていれば、
みんな同じことを思っているのだから、自己満足ではないと思う人もいるんだろうけど。
あいさつをやれと言っていたり、あいさつ返しを求めて初めにあいさつしてきたり、初めにあいさつしないことに悪態をつく人を嫌がっている人もいるのだから。
他人の本音とはあまり関わらずに、自分は相手と一部のことで関わり、触れ合っていいるのだと自己満足しているところは誰にでもあるだろうけど。