目次
第1章から第8章へのリンク
第9章から第10章へのリンク
第11章から第16章へのリンク
第17章へのリンク
第18章から第19章へのリンク
第20章から第24章へのリンク
第25章から第29章へのリンク
第30章へのリンク
第31章へのリンク
第32章から第34章へのリンク
35.不正な金でやっていく世の中で加害者と言われている人も被害者である
36.排他的、閉鎖的なところがある人類
37.人は同じ人間ではないので嫌がることが違う
38.同じことを思っていない人間達
39.一部の人を悪者にしてスケープゴートにしている
第40章から第41章へのリンク
第42章から第45章へのリンク
第46章へのリンク
第47章へのリンク
35.不正な金でやっていく世の中で加害者と言われている人も被害者である
金でやっていく世の中は不正で間違っていて排他的、閉鎖的だ。少数派の金を払わない人が悪者や加害者という言葉で言い表されたりするが、
スリや詐欺師や万引き、窃盗や強盗をやっている人も金でやっていく世の中で迷惑しているだろう。
この人達は金でやっていく世の中の被害者とも言えるのだ。この人達は加害者と言われやすいが被害者でもあるのだ。
多くの人は金でやっていく世の中が正しいと信じている金信者だが、金信者が金でやっていく世の中を正しいと信じて辞めようとしないことに、
金非信者を巻き込んで大勢と同じことをさせようとしている加害者とも言えるのだ。
根拠なく金でやっていく世の中が正しいと信じきり、自分は間違っていないと信じている人が子どもにも大人にもたくさんいるのだ。
値段ついているものや、年金、税金などを払わない人や無職、ニートと言われている人を蔑んだり、下に見たり、死んでほしがっていて、
自分が正しいと信じていることをやらない人を受け付けずに、排除している金信者は排他的だが、社会貢献や家族のためにとか、人のためになどと言い、綺麗事を言って金でやっていく世の中を美化して、ウソをついて生きているのだ。
災害の被災者も精神的にも肉体的にも金やそれ以外のことで色々大変だろう。被災者に義援金を渡せば、助け合い、思いやり、愛などと言って良く言う人もいるだろう。お金ではなくて、お金を渡したいと思ったのは人のことをいい意味で思っているからなんだと言えばカッコが付くが、みんなで助け合っているのならば金でやっていく世の中は要らないのだから、金を払わない人などを逮捕して、人間扱いしていないのだから、
一部の人にいい意味で金を渡しているのを思いやりと言うのならば、汚もいやり(おもいやり)という感じでもある。
一部の人を一時的に金などで援助しているだけなのだ。みんなで助け合いをしていないから、不正である金でやっていく世の中などやっていて、合法なのをいいことに正当化させている人がたくさんいるのだ。
金信者の多くも金でやっていく世の中で苦しんでいるだろう。自分で自分の首を絞めているところもあるわけだ。
金でやっていく世の中という不正な世の中の不都合は、例外あれど少数派のせいにされやすいから、値段ついているものや、年金、税金を払わない人や、無職、ニートなどと言われている給料や印税という形で金を貰っていない人が悪く言われて、見下されやすい。
金信者もスリや詐欺師や万引き、窃盗や強盗と言われている人を刑法を都合よく利用して逮捕することを許している人が多いだろうが、
合法をいいことに無責任に、こんなことをまかり通らせて、泳がされて、野放しにされて、放置されていることに気づいていないのだ。
金信者が金でやっていく世の中が正しいという間違っている不正を根拠もなく信じている信仰心を常識や社会のルールなどと言っていって正当化しているのだ。
本来値段が付いていないものに値段を付けていること自体が、詐欺であり、それで金を取っていることは泥棒をやっているのだ。
刑法を利用して気に入らない人を刑法違反で捕まえて、体の自由を奪い、内面の自由も奪おうとしているのだろうが、
自分達がまかり通らせている、金でやっていく世の中をまかり通らせる自由には逮捕のような強制で止めさせられて、辞めさせられることがないので、
自分が正しいと根拠なく信じていて頭が悪くバカで鈍いところがあるのだ。
もし、大勢の人が金でやっていく世の中はおかしいとか、不正だとか、こんな世の中辞めろとか、金払わない人を逮捕しているのはおかしいなどと言っていれば、多くの人は大勢が感じていることが正しいと信じているだろうから、同じことを思う人が多いだろう。
大勢が金でやっていく世の中を正しいと信じていて、それを否定している人を一度も見聞したことがないか、一部の人が否定しているのは
見聞したことがあっても、少数の人が言っていることは正しいとは思わないのだろう。
自分達が生きてきた中で、誰かが嫌がることをしていない人などいるわけがないのだ。
誰かが嫌がることをしていることを加害行為をしている加害者と言うならば、誰でも加害者である。
誰かのやることで嫌がっていることを被害者と言うならば、誰でも被害者だ。
ガラが悪いと言えば、やくざや暴力団の人だと思う人も多いだろうが、金でやっていく世の中やそれ以外のことで正しくもないことを
正しいこととしてまかり通らせている普通の人や常識人と言われている人もガラが悪いところがあるのだ。
多数派というのも暴力団、やくざとも言える。国も国という暴力団、やくざだ。
誰かが政治の安倍政権のことを、やくざよりも怖いやくざが安倍政権だというようなことを言っていたが、
その安倍政権よりも怖いやくざが国民や庶民や普通の人と呼ばれている人だとも言える。
国民の多くは大勢と同じことをするということを隠れ蓑にして猫をかぶり、自分の本当の信仰心や本音を大勢の人の前で隠してコソコソしているところがある。
権力者側の人を利用して、気に入らない人を逮捕させたり、裁判を起こして自分の望む判決を裁判官にやらせようとしたり、
自分のやってほしいことを自分は直接やらずに他人にやらせたりする。
気に入らない人に身体暴力をやったり、嫌がらせをしに来たり、人のせいにして本人がいる所やいない所で不満を言っている。
直接的に身体暴力をやったり、影で物を壊したりなどしていなくても、気に入らない人を死んでほしがったり、自分や誰かから嫌がられている人だけを悪者に仕立てて、見下したり、不満を言うようなガラが悪いところがあるのだ。
自分や仲間や好きな人がやったら許すことを他の人がやれば許さない差別をしているガラの悪さがあり、悪徳レフェリーみたいなところがある。
影でコソコソ他人の悪口、中傷を言い、本人や大勢の見聞できる所で言っていないから控えめだとか言いたい人もいるだろうが、
本当に控えめだったら言わないだろう。
値段が付いているものに金払わないことや、それ以外のことで、警察が逮捕することを多くの人は許しているだろうが、
自分が直接逮捕したり、牢屋に入れるということをしていないだけで、逮捕を許している人は間接的に人を逮捕して牢屋に入れることに加担しているのだ。
直接やってないからやっていないことにはならない。
金でやっていく世の中自体がガラの悪い暴力社会だとも言えるのだ。金信者もガラが悪い人だとも言える。
金でやっていく世の中が正しいという信仰に従わない人を、警察を利用して逮捕したり、税金Gメンの差し押さえをすることを許したり、
本人や本人の家族などのことも悪く言い、見下している人を身体暴力以外の形で暴力をやっているとも言える。金信者という暴力団だとも言える。
やくざの人や、刑法違反で捕まっているような人や、大勢が正しいことだと信じていることをやらない人をガラが悪い人と思い、見下している人
がたくさんいるだろうが、他人の姿は自分の姿だが、全く同じことをしているわけではないので分かりにくいのだろう。
ガラが悪いと誰かのことを思うのは、自分もそんな人なのだ。
金信者は金でやっていく世の中が正しいのに金払わない奴の言い分なんか聞かなくてもいいと、
自信満々に自分が正しいと信じているのだろうが、金信者は今まで泳がされすぎてるのだ。
大昔は金でやっていく世の中などなかった。
大勢の金信者が勝手に金でやっていく世の中が正しいと信じて異常でおかしい金社会をまかり通らせているのだ。
36.排他的、閉鎖的なところがある人類
言葉は言葉遊びで、自分が勝手に言葉に定義、意味付けを付けて、自分の使いたいように言葉を使っている。
金でやっていく世の中は正しいと信じて、一部の人が使う物や食べ物などを作ることを人のためになどと言えば綺麗事に仕立てることが出来るが、
値段ついているものに金払わない人を逮捕したり、給料や印税という形で金を貰っていない人を例外あれど、見下したりしたり、死んでほしがったりしている金信者は排他的、閉鎖的なのだ。自分の都合のいいものや人は受け付けても、自分に都合の悪いものや人や、間違っていると思うことをしている人を受け付けない人達。
金でやっていく世の中は排他的、閉鎖的な間違っているウソの世の中、社会だ。
排他的、閉鎖的なところがある金信者が合法で正しいと信じているから、この金でやっていく世の中を辞めようとはしない。
大勢と同じことをしていない金を払わない人を牢屋の中に入れたり、見下すようなことをして、金でやっていく世の中を正しいと信じて
排他的、閉鎖的なことをしている人が社会への貢献をしていて、人のためになっていると綺麗事を言って褒められて良く言われたりする。
あいさつでも、関わる気がない人やどうでもいい人にあいさつしたから、排他的、閉鎖的ではないという言葉で言い表す人もいるのだろうが、
一切知る気もない人や、ほとんど知る気もない人、興味ない人に対して排他的、閉鎖的だけど、形だけあいさつしているとも言えるのだ。
知らない人にあいさつしなくてもいいと自分の子どもに教えているから、マンションでのあいさつを禁止してほしいと言っている親のことを、
日本人がおかしくなっているとか言っている人がいる。
この親と知らない人にあいさつをしてもいいと信じているあいさつ信者は目くそ鼻くそ、五十歩百歩なのだ。
知らない人にあいさつしてもいいと信じている人は、所詮ほとんどの人にあいさつなどしておらず、ほとんどの人に初めにあいさつしなくてもいいと勝手にあいさつの決まりを決めつけて信じている。
あいさつ信者があいさつ返しが正しい信仰を禁止されたくない、
否定されたくないと信じているくせに、自分と同じことを信じていない人には排他的、閉鎖的なのだ。
あいさつ信者は、一部の人とあいさつで関わってやろうと一方的に自分の信仰、欲求を押し付けているが、あいさつや、それ以外のほとんどのことで
あいさつさせたい相手と関わる気もないのだ。
知らない人で大切ではない人にあいさつしてあげたら、絶対にオウム返しをしなければいけないと勝手に信じて、人を
自分の言いなりにさせようとしていることを、コミニケーションや社会のルールなどと言いウソついているあいさつ信者の人もいる。
ごく一部の知らない人にあいさつさせたい人が、知らない人にあいさつしなくてもいいと信じている人を非難して叩く滑稽なバカさ。
知らない人にあいさつしてもいいと信じている人が、みんながあいさつ返しを正しいとは信じていないことを知らないのだ。
自分のことは知ってほしいところはあるけど、他人のことはあまり知る気がない人が多いだろうけど。
知らない人にあいさつを返すことが正しいと信じ切っている大勢のあいさつ信者は、あいさつが正しいことではないことに気づいていないのだ。
知らない人にあいさつをしなくてもいいと信じている人と、知らない人にあいさつしてもいいと信じている人は、
どちらも一部の人にはあいさつするけど、ほとんどの人にはあいさつしていないし、ほとんどの人にあいさつしていない点では全く同じなのだ。
信じているところが違うところだけを強調して真逆の様に思える人たちが別の所では同じところがある。
知らない人にあいさつしてあげたら返してほしいと勝手に欲求を持って、自分に合わせてほしいと思っている人が、
あいさつ自体を正しいとは信じていないし、やりたいとは思っていない人がいることは知らないか、知っても相手に合わせようとは思わずに、
不満を持つあいさつ信者もいるだろう。
あいさつを返されないことで自分の思い道りにならずに嫌な気持ちになることを嫌がっているあいさつ信者がいるが、
あいさつを返させようとして、初めにあいさつしてくることを嫌がっていたり、迷惑している人がいることを知らない人が多いのだ。
人が嫌がることしている点でも同じだ。
ごく一部の人を自分の気分次第にあいさつしたりして、自分の言いなりにさせたくても、相手の信仰心や心理や体調を全くか、
ほとんど知る気もなく、排他的、閉鎖的なところがあるあいさつ信者が、あいさつしたから排他的、閉鎖的ではないと言えば綺麗事でカッコが付くが、
相手の内面や体調を全くか、ほとんど知る気もない排他的、閉鎖的な自己満足のあいさつをしているだけだ。
言葉と言葉で関わったと自己満足して、相手の心理とは全くか、ほとんど関る気もないのだ。こういうことをおかしいと言う人は、
ほとんどいないだろう。大勢がやっていることは良く言われやすいからだ。
あいさつ信者はあいさつ返しが正しいという信仰が禁止されるのは嫌なのだろう。
学校であいさつしたら返すことが正しいと押し付けるために、あいさつ運動などという一部の先生たちが信じているあいさつが正しい信仰を押し付けて、信仰心の押し売り、あいさつ宗教の押し売りをしているが、大勢があいさつ返しを正しいと信じているので、
あいさつ運動をおかしいと思う人はほとんどいないだろうし、それを禁止しなければいけないとは思っていない人の方が多いだろう。
あいさつは一方的に初めにやって、相手があいさつ返ししたら一方的ではない、という言葉で言い表す人が多いのだろうが、
一方的にあいさつを初めにして、あいさつされた人が喜んだり、正しいことだと信じていれば良く言われやすい。
セックスや性的なことと似ていて、セックスしたり、キスしたり、お尻や胸を触ったのが、性的両思いの人ならば嬉しかったりして、
許しても、他の人が同じことをしたら強姦、レイプとか痴漢や痴女、犯罪者などと言われるのだ。
あいさつを返せというのを嫌がっている人もいるが、人が嫌がることをしている点では同じなのだ。
大勢が正しいと思うことや、大勢が嫌がらないことを嫌がるとバカにされたり、見下されたりしやすい。
誰でも人が嫌がることなどやっているのに、刑法違反ではないから捕まらなかったり、刑法違反でも捕まらない場合もあり、
差別しているだけだ。
何かの言動をやっても、誰かが嫌がっていなければ悪く言われずに、誰かが嫌がったら、嫌がっている人などから悪く言われたりする。
性的なことはお互いが両思いで良い思いをしていることをコミニケーションなどと言うが、あいさつや他人に喋りかけることは、相手に嫌々喋っていたり、あいさつを正しいと信じていない人が嫌々あいさつしても、コミニケーションと言い良く言う人もいるのだ。
変な言葉だ。他の人よりたくさんの人にあいさつしている人を褒める言い方に、誰よりもあいさつできる人などと言って良く言うバカな人がいるが、
誰よりも一方的な人とか、誰よりも人の信仰心や気持ちを読もうとしていない人とか、誰よりも支配的な人や、誰よりも表面的な人などとは言わないのだ。
関わる気もない人や大切ではない人にあいさつすることは素晴らしいと思うような人は褒めるのだろう。
あいさつをした人の心理の方に興味がある人はほとんどいないだろう。うわべの表面しか見ていないのだ。
自分は人の何かについて禁止などしていない、禁止令など出していないと思う人もいるだろうが、誰でも、やったらダメだと禁止していることはあるだろう。
法律のように言葉であからさまに人に分かるところに決まりを出しているものは分かりやすいいが、内面で禁止だと思っていたり、影で人に不満を言っているのは、自分が正しいと信じていることをやらない人に、それはダメだと禁止しているのだ。
あいさつでも、あいさつ返しをしないことを禁止しているから、あいさつを返さないと不満を持つ。
マンションでのあいさつを禁止してほしいと思っている人のことをおかしいと思っているあいさつ信者は、
あいさつを返さないことを禁止しているのだから、あいさつにおいて何かを禁止しようとしている点では同じで、似たり寄ったりだ。
しかも、あいさつ返しはオウム返しでなければいけないと決めつけて、相手が会釈しても変な目で見たりして、おかしいと思っているあいさつ信者がいる。オウム返し以外のあいさつを禁止しているあいさつ信者もいるのだ。
あいさつして人との関りと言えばカッコが付いて綺麗事になるが、あいさつしている人は排他的、閉鎖的なところもあり、
自分が望む態度を取らずに、あいさつを返さなかったり、オウム返し以外のあいさつ返しを受け付けなかったりして、排他的、閉鎖的なのだ。
自分のやり方に合わせないからあいさつを返さない人が排他的、閉鎖的と思う人がいても、自分達も自分が信じているやり方に合わせない人を受け付けなくて、嫌ったり、見下したり、バカにしたり、
自分と同じことを信じさせようとしたりしていて排他的、閉鎖的なのだ。
あいさつや金でやっていく世の中以外のことでも、誰でも排他的、閉鎖的なとこなどあるのだ。
自分が正しいと信じていることをやらないことを逃げているという言葉で言い表している人がいるが、誰かが正しいと思うことをやらないことを逃げていると定義づけるならば、誰でも逃げでいるのだ。
あいさつしてやったらオウム返しすることが正しいと勝手に信じている人が、オウム返しであいさつ返した人に対しても、
無反応な人に対しても、なんであいさつ返したのか、無反応なのかに全くか、ほとんど興味などなく、相手のことを全くか、ほとんど知る気もないことは相手から逃げているとも言えるが、全くか、ほとんど関わる気もない人にあいさつしたから相手から逃げていないと言えばカッコが付くだろう。
以前、あることで同じ家に住んでいる叔父が私のことを逃げたという言葉で言い表していたのだが、叔父も、それ以外の人もみんな色んなことから逃げているのだ。ほとんどのことに興味がない人の方が多いだろうが、
興味がない対象のことを無視しているとも言えるし、その興味がない対象から逃げているとも言える。
37.人は同じ人間ではないので嫌がることが違う
人が嫌がることは人によって違うので、全ての生物が嫌がることをせずに生きることなど出来ないだろう。
大勢が嫌がることをやっている人は悪く思われやすいが、大勢が嫌がらないか、嫌がっていても許容範囲内ならば嫌がっていることを
やってもいいと許される。大勢が嫌がらないことを嫌がると心が狭いとか、変わっていると言ってバカにされたりする。
バイクに乗っている人や、バイクに乗らない人がバイクの音でうるさいと思っても、自分もバイクに乗っていて利点があるし、
自分もバイクで音を出しているからお互い様だと思っていたり、バイクに乗らない人がバイクの音を嫌がっていても、
バイク以外のことで自分がやることなどで他の人が嫌がることをしているからお互い様と思う人もいるだろう。
バイクの音で嫌がっていても暴走族の人が出している音のようなかなり大きい音は許容範囲外で辞めてほしいと思っている人も、
それ以外の音は許容範囲内の人もいるだろう。人によって許容範囲が違うのだ。
同じバイクの音でも自分や好きな人が出していればうるさいと思わなかったり、うるさいと思っても大目に見る人や、嫌いな人が同じ音を出していたら許さない差別をする人もいるだろう。
白人の黒人差別は有名だが、黒人という理由で嫌ったり見下す人には、嫌がったほうが間違っていておかしいと思われやすい。
他の人種差別や民族差別も嫌がられた方には問題がなくて、嫌がった方が問題視されやすい。
政治家の決めたことに対して思っていることが逆のことや違うことを思っていたり、同じ顔の人をブスと言う人もいれば、かわいい、きれいという人もいるのだ。
誰かが嫌がっていることをやらなくなる理由も、嫌われて不満言われたり、
嫌がらせされたりして攻撃されるのが嫌だからという理由の場合と、
相手が嫌な気持ちになったら悪いからという理由などでやらないのでは、やらない理由が全然違う。
人が嫌がることをやってはいけないと思っている人が自分も相手や他の人が嫌がることをやっているのだ。
自分や好きな人などの少数が嫌がることをしてほしくないと思っている人が、どうでもいい人や嫌いなだけの人が嫌がることはしてもいいと
思っている人もいるだろう。
嫌がっている人に嫌がらせする人もいれば、何もしない人もいるだろう。
38.同じことを思っていない人間達
人間の都合のいい時の仲間意識、不都合な時のトカゲのしっぽ切りで、
日本人の中には、ある時には「日本人は」と日本人を同じ人間のように言い、別の時には同じ日本人でも同じ日本人ではないと思ったり、言ったりする。
人間のことだけではなくて、土地柄についても、大阪と京都は違うと思っている人がいて「大阪はガサガサしている。京都はゆったり」とケンミンSHOWというテレビ番組に出ていた京都人が言っていた。同じ日本人でも県民性によって性格が違うなどと言っているのだ。
京都人も京都人の誰かを嫌っている人いるだろうし、大阪人も大阪人の誰かを嫌っている。
近所や学校、職場の人のことを同県民でも嫌っている人の方が多いだろうけど。
このケンミンSHOWで県民が言っていることも、台本があってヤラセで県民が言っていると思う人もいれば、県民以役者がヤラセで演技で言っていると思う人もいるだろうし、同じ番組を見ても同じことなど思わないだろう。
ケンミンSHOWに出てきたごく一部の人が奈良、和歌山、滋賀には「何もない」など言っていたが、何もないわけないのだが、はっきり具体的な言葉で言っていないのだ。
「自分が好きなところや楽しめる所がない」という意味や「何もないと言った県のことをほとんど知らないし、知る気もない」ということを言いたいのだろう。
田舎に興味ない人や、田舎にたくさんある山に登ったりしない人や、店や有料で入る遊び場がたくさんないところを、田舎には何もないという人がいるのだろうが、都会の方が店がたくさんあるから、その店で遊んだり、食事することができるから都会の方がいいと思う人もいるのだ。。
大阪人の誰かが「大阪を愛する人は大阪から出て行かへん」と言ってたり「大阪には何でもある」など言っている人も、
大阪のほとんどの場所に行ったことはないだろうし、大阪のことや大阪に住んでいる大阪人のこともほとんど知らないだろうけど。
以前、ユーチューブで大阪の岸和田のだんじり祭りの動画に、岸和田に住んでいる人らしき人がだんじりについて悪評価を書いていたが、
大阪人が大阪や大阪人のことになんでも好意を持っているわけではないのだ。
私や私の家族が以前20年ぐらい大阪に住んでいて、私の親は30代の時に大阪に引っ越しているわけだが、大阪のことを「大阪はいいとこ、また大阪に住みたい」とか「華やかな大阪に住めてよかった」というようなことを言っていた。
後から「華やか」の意味を聞いたら、一字一句はっきり覚えていないが「たくさんの人がいて活気があった、たくさん店があった」というようなことを言っていたが、私の母親も大阪のほとんどの場所に行っていないだろうし、ほとんどの大阪人を見たこともなければ、会ったこともないだろうが、大阪はいいとこなどと言うのだ。
人混みが嫌いな人は都会とか人口が多いところは好まないだろうし、店がたくさんあっても、欲しいものが売っていなかったり、
欲しいものがあってもそれを買う金がなかったら買えないわけだから、たくさん店があっても好まない人もいるだろう。
大阪のことについて、姉の知り合いが「大阪は怖いとこ」と言っていたらしい。大阪でどういう経験したかによっては大阪に対する印象も変わるのだ。
みんな主観的に物を言っているので、同じ場所や同じ県民や民族、同じ人種についても人によって言っていることが違うのだ。
私の母づてに聞いたことだが、誰かが岡山について「岡山は埼玉と同じで何もないところだと思っていた」というようなこと言っている人がいたみたいだが、その人は岡山には色んな店が少ないと田舎だと思っていたら、想像よりは店の数が多かったとか思っていそうだ。
岡山県のほとんどは山で山間部に行けば、いかにも田舎だと思うだろうけど、他県から岡山県の岡山駅に着いた後に駅の周辺を見れば、ビルがたくさんあったりして田舎とは思わない人もたくさんいるだろう。同じ県についても、その県のどこを見るかによって印象など全然違う印象を持つのだ。
同じ人間と一緒にいて嫌がる人もいれば嫌がらない人もいるのも同じことだ。
同じコントや漫才を見ても面白いと思う人もいれば、面白いと思わない人もいて、自分の好みに合うと褒めるたり、好きになり高評価する。
みんなが知っていると言っていることのほとんどは、「少しだけ知っている」「ちょっとだけ知っている」「それについてほとんど知らない」という
意味で「知っている」という言葉で言い表しているんだろう。
ユーチューブで新潟県のことを取り上げていたテレビ番組を見たのだが、この番組のコメントに「誰かが新潟は人が住むところではないと言っていて、新潟出身の人が怒っていた」という感じのことが書いてたが、
一方で、マツコデラックスという人が「東京は人が住むところではない」というようなことを言っていた。
都会好きは都会の一部のことを良く言い褒めて、田舎をつまらなくて、楽しむところがないと思っている人は田舎を悪く言ったり、何もないと言う。
この番組の別のコメントに「まだ取り上げられるだけいい。他の県は存在さえ忘れられている」という感じのことが書いてあったと思う。
別のテレビ番組で何かのランキングで日本で一番人気がないパン屋として取り上げられていたパン屋があるのだが、このランキングはウソだろう。日本にあるパン屋のほとんどを日本人は知らないだろうし、知っているパン屋にみんなが行くわけでもない。ほとんどの店は取れあげられていない。
あの人嫌い、あの人は悪人と言われるのは、誰かからその人のことが知られているから嫌いと言われているのだ。
ほとんどの人は知られていないので、好きとか嫌いとか善人や悪人などという以前の話だ。
日本人が民族的優越感に浸って優越したい時は、日本人と日本人以外は違って日本人の方が優れているというようなことを言い、
実際は日本人は日本人のことを同じ人間だと思っていないので、ある時には美形と美形以外に分けたり、高学歴と低学歴や、引きこもりと引きこもり以外や無職と働いている人や、子どもと大人や、悪人と善人や、バカと頭がいい人や、身体障害者と健常者や、精神病者と精神病者以外や
セックスしたことある人とない人、育ちがいい人と育ちが悪い人、しつけがなっている人としつけがなっていない人や、嫌われている人と好かれている人や、暗い人と明かるい人、いじめている人といじめたことない人や、
いじめられている人といじめられていない人や、あいさつできる人とあいさつできない人や、右翼と左翼や血液型性格判断や星座占いなど色々と日本人のことを分けていて同じ人間だとは思ってはいない。
ケンミンSHOWで、同じことを言っていても大阪人が言ったら本音で言っていて、京都人が言ったら裏があり本心では言っていないと大阪人の年配の女の人が言っていたり、京都の人は腹黒いなど言っていたが、同じ番組で大阪人が何かを断る時に、考えとくと言えば断っているという意味だと言っていて、「いらないと言ったら、相手が傷つく」というようなことを言っていて本心を言っていないのだ。
大阪の人は本音を言うなど言っているが、本音の言動を取らない場合もあるのにウソを言っているのだ。
京都の人が本音で言わずに裏があると大阪人の誰かが思うのは、自分達大阪人も本音で言わないところがあるのを
京都人に大阪人の姿を見ているのだろう。他人の姿は自分の姿だ。
値段ついているものや、税金、年金を払うことを正しいと信じている間違ったことを信じている人が、値段ついているものに金払わない人を泥棒と言っているのも自分達の姿で、金でやっていく世の中で人から金を取るという合法の泥棒をやっていることを大勢が許しているが、
他人の姿は自分の姿なのだ。
39.一部の人を悪者にしてスケープゴートにしている
自分以外の政治家、議員、知事などに色んなことを決めさせて、自分達に都合がいい結果になると、自分達は正しいことが分かっていたり、
人生経験豊富で人や物事を見抜けるから、ちゃんとした人を選挙で選んだんだと自分たちに高評価を下して良い評価をする人もいるだろうが、
自分達に都合が悪い結果になったりすると、自分たちのせいではないとして、自分たちの代わりに権力者などが色んなことを決めたことに
不満を言ったり、攻撃したりする。都合のいい時の仲間意識、不都合な時のトカゲのしっぽ切りをする人がいる。
はっきり覚えていないが、以前、何かの本に書いていたのだが、海に船で航海する時に、何かの決まり事を決めて、それを誰かに守らせて、
船の航海がうまくいかなかった場合は、決まりを守らせていた人が決まりを守らなかったから船の航海がうまくいかなかったとして、
その決まりを守らせていた人を殺していたという感じのことが書いていたような気がする。
気に入らないことや、望んでいないことが起きた時に、自分や、ある人たちのせいにはしたくない時に特定の一部の人のせいにするようなことは
昔から日本人も日本人以外もやってきていることだろう。
殺すというところまではしていなくても、何かしらの攻撃をしたり、悪者の汚名を着せるようなことはやってきてるんだろうけど、それは今でもやっているのだ。
いい例が、国、政治、行政などの職に就いている人に不満を持つと、
その不満を持った原因は政治、行政をやっている人のせいであるとして、この人たちに不満を言ったり、攻撃したりするのだ。
「国が悪い」「政治家が悪い」など思ったり、言ったりして、この人たちだけのせいにする人もいるのだ。
多くの人が政治家とか政治や行政の職に就いている人に依存して、自分たちの代わりに自分たちに関する様々なことを
決めてもいいと許して、この人たちが自分達国民に関わることを決めることを許しているのに、権力者側が決めたことが気にいらないと被害者を気取って不満を持つようなおかしなことを思っているのだ。
そんなに不満があるなら、自分たちのことは自分達でやればいいことを何で政治家や行政の人などに依存して甘えてるのかについて問題視する人はあまりいないだろう。
政治家、大臣、官僚とかの国の仕事をしている人には厳しく冷たいところがあり、それ以外の国民には甘いところがある人もいる。
例えば、ある言動を取ったのが大人なら許さずに不満を持つのに、子どもがやったら許すのも同じことだ。要は差別しているのだ。
大勢が住んでいる国で、大勢に関わることについて、その国の国民全員の満場一致は大体ないだろう。
そうすると、常に誰かは不満を持つということになる。
政治家とか国の仕事をしている人に不満を持っている人のことだけを取り上げると、政治家たちは、国民のことを考えていない人などと言われ悪評価されるが、同じことを決めても、それに満足して賛同している
国民もいるわけであり、賛同している人のことを取り上げたら、政治家は国民の望むことをやった人だということになる。
大勢の国民がいる中で、国民みんなが同じことを信じているわけもなく、同じことなど望んでいない。
自分の思い道りにいかずに不満を持った時に、自分や好きな人のせいにしたい人はあまりいないだろう。
自分に甘いのだ。他の人も「日本人は自分に甘い」と言っている人もいるが、そうは思っていない人もいる。
自分や好きな人や善人だと思っている人のせいにしない代わりに、大勢から嫌われていたり、悪人だと思っている人のせいにしやすい。
世の中の一部のことでうまくいかないことなどを誰の責任にするのか、誰のせいにするのかは、大体いつも同じ人達の責任にされやすい。
子どものことは、例外あれど、大人のせいにされやすく、その中でも親や学校関係者のせいにされやすい。
国民が不満を持っている一部のことは政治家、官僚、知事などの権力者側のせいにされやすい。
それ以外では、会社では立場が上の社長などのせいにされやすい。大勢から嫌われている人や、自分が嫌いな人や
格下に見ている人のせいにもされやすい。
日本人を悪く言いたくない人は、日本人がおかしなことしたと思ったら、日本人以外の外国人のせいにしたりするし、
人間を悪く言いたくない人は「罪を憎んで人を憎まず」とか言ったり、「吸血鬼がやらした」「病気のせい」「疲れのせい」「運が悪い」など言って人のせいにはしないのだ。
はっきり言わずに誰かを抽象的な言い方で悪く言う場合「社会が悪い」など言ったりする人もいる。
自分が嫌な気持ちになって不満を持った時に、自分可愛さがあったり、自分が正しいと思っていたりするので、自分以外の人のせいにしやすいのだ。
気に入らないことがあった時に、自分以外のせいにして生きているところがある無名の大勢の人たちは、普通の人や一般人などと言われていたりするが、この名もなきその他大勢の人にも問題はあるのに、
大勢の人と同じ人間であるとして片づける人もたくさんいそうだ。
身代わり人形などというものがあるが、自分たちの災厄の身代わりになってくれるものなどと言ってるみたいだが、この身代わり人形は紙や草や木などを使ったとネットに書いていた。
今も人間以外や自分以外の人間に都合の悪いことを擦り付けて他人のせいにしているところがある。
自分可愛さや我が身可愛さがあるから自分のせいにはせずに他人などのせいにしているところがある。
自分が不快になったり、疲れる原因や理由を他人のせいにしたり、嫌いな人のことを「エネルギーバンパイヤ」や「エナジーバンパイア」や「エネルギーを吸う人」などという言葉で、言い表す人がいるが、
これも身代わり人形のようなものだろう。
自分が不快だったり、疲れているのは自分のせいではなく、自分に問題があるのではなくて、他人のせいであると信じているのだろう。
暗い人やあいさつをしてほしいのにしない人や、不機嫌な人や大きい音でドアを閉める人をエネルギーバンパイヤと呼んでいる人がいるが、
みんながこういう人を嫌わないし、不快になったとしても不快になった原因をその人のせいにはしない。
金でやっていく世の中を正しいと信じている金信者は、値段ついているものに金を払わない人を間違っている悪者に仕立てて泥棒、犯罪者などと言うが、全てのものには本来値段が付いていないのに、値段を付けたり、金を取っているのが不正で間違っていることに気づいておらず、
金信者の方が合法で商売や罰金や税金、年金などを取って、合法の泥棒や詐欺行為をしている合法犯罪をやっているとも言えるのだが、
少数派の値段ついているものに金払わない方をスケープゴートに使い、金でやっていく世の中は正しいと信じて疑わないのだろう。
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