目次
第1章から第8章へのリンク
第9章から第10章へのリンク
第11章から第16章へのリンク
第17へのリンク
18.働いていない人などいない、仕事をしていない人などいない
19.自己満足の人類
第20章から第24章へのリンク
第25章から第29章へのリンク
第30章へのリンク
第31章へのリンク
第32章から第34章へのリンク
第35章から第39章へのリンク
第40章から第41章へのリンク
第42章から第45章へのリンク
第46章へのリンク
第47章へのリンク
18.働いていない人などいない、仕事をしていない人などいない
人間と言われている生物は同じ言葉を同じ意味で使っていなかったりするが、仕事、働く、職業という言葉も、みんなが同じ意味、定義では使っていない。
多くの人が仕事、働く、職業という言葉を使う時の定義、意味付けは、給料という形か、印税という形で金を貰うことを仕事、働く、職業と言っている場合が多いだろう。
いかにも何かの作業をしていて、走ったり、歩いたりなどしていても、家の家事、掃除、洗濯やゴミ出しをしたり、作品を作ったり、小説や自伝や日記を書いたり、どこかに出かけたり、自分の内面と向き合うような内観をしたりなどしていても、給料や印税という形で金を貰っていないと仕事、働いている、職業とは言わない人が多いだろう。
例外あれど給料や印税という形で金を貰っていない人を見下していたり、人間として間違った生き方をしているなどと思っていたりする人もいるのだ。
働いていない、仕事していないと言うと、何もしていないとか、苦しんでいないとか、楽をしているとか、家から出ていない人で、引きこもりであると思う人もいるのだ。
勝手に自分の中で思ったことを現実のことだと間違った捉え方をしているのだ。
人間や世の中のことをほとんど知らなかったり、知る気もない人が多いだろうが、間違っていることを感じているのに、自分が思ったことが正しいと信じていたりするのだ。誰でも知ったかぶっているところはあるだろうが、
金でやっていく世の中が正しいと信じている人も、給料や印税という形で金を貰っていない人を見下している人や、間違っていると思っている人も
知ったかぶりをしているだけだ。
例外として、給料や印税という形で金を貰っていないことを多くの人から許されているのは、天皇家の人や、子どもや、20代の学生や、60歳以上ぐらいの老人や、身体障害の人や主婦や自分が生きてくれているだけでいいと思っている人などだろう。
給料や印税という形で金を貰うことが例外あれど正しいと勝手に信じていて、20歳以上60歳未満ぐらいの人のほとんどは給料か印税という形で金を貰うことが正しいと間違ったことを信じていて、
一部の人は給料や印税という形で金を貰わなくてもいいと勝手に決めていて、えこひいき差別をしている人もたくさんいるのだ。
差別していない人などいないが、何を差別しているかが違うだけだ。
呼吸をしていて、じっとしていることを何もしていないという人もいるだろうが、「存在するということをやっている」とも言えるが、モデルと呼ばれている人はモデルの仕事で無表情で突っ立っていたり、座っているだけだったり、ウソの笑顔や、本当の笑顔でポーズを取ったりしていることを仕事や働いている、職業などという言葉で言い表されているが、
同じようなことをして写真に写っていても、その写真を不特定多数が見れるインターネットなどに出しても、それをやったことで給料や印税という形で金を貰っていないと、仕事や働いているとは言われにくい。モデルと言われている人が仕事や働いている、職業と言われているのは給料という形で金を貰っているからだ。
モデルは存在して生きているだけで仕事をして、働いていると言っているようなものだ。
でも、呼吸して、じっとその場にいるだけだったり、何かを考えていても、内観していても、歩いていても、走っていても、セックスやオナニーをしていても、絵を描いていても、独り言を言っていたり、料理をしたり、家事、掃除、洗濯やゴミ出しなどをしていても、給料や印税という形で金を貰っていないと、働いていない人、仕事をしていない人、職業についていない人などという言葉でほとんどの人たちは言い表してくるだろう。
こんなことを思っているのは、ただの差別だ。給料や印税という形で金を貰っている人の方が例外あれど高評価されて良く言われるのだ。
金でやっていく世の中で大勢の人が苦しんでいることなど分かりきっていることだが、給料や印税という形で金を貰っている人が、
例外あれど人として正しい生き方をしている人にされて、給料や印税という形で金を貰っていない人の方が、間違った生き方をしている人と思われたり、見下されたり、金払わないと逮捕されたり、税金Gメンに差し押さえされたりして悪者扱いされたりする。
誰かの仕事の定義は人の役に立つことと言っている人もいるが、
誰でも家族や親戚、友達や恋人や、家で飼っている犬、猫などに好かれているだろう。
好かれているというのは別の言い方で言えば、自分以外の誰かの役に立っているということだ。
その人が存在しているだけで誰かの役に立っているということだ。
でも、多くの人は世の中にいるほとんどの人のことを好きでもないだろうし、どうでもいい人だとか、嫌いなだけの人だったりするから、
存在しているだけだったり、給料や印税という形で金を貰っていなくて、家事、掃除、洗濯をしたり、ゴミ出しをしたり、犬の散歩に行ったり、走ったり、歩きに行ったり、作品を作ったり、小説や自伝を書いたりなどして、いかにも何かををしていても不満を持ち、見下したりするような冷酷さがあるのだ。
何で仕事をするのか?働くのか?というようなことを言って、それを本の題材にしている人がいるが、給料を貰うようなことをしている人の多くは、金でやっていく世の中で金がないと死活問題で、生活していけなかったり、欲しいものや、やりたいことに金がないとやっていけないから、給料という形で金を貰いに行っている人が多いだろう。
給料や印税という形で金を貰っていない人は「給料を貰っていない仕事をしている」とか「給料を貰っていないだけで、無給で働いている」とも言えるし、「無給の仕事をしている」とも言えるのだ。給料や印税という形で金を貰っていなくても誰かの役に立っているのだ。
仕事をしていない、働いていないなどと言って不満を持ったり、給料や印税という形で金を貰っていなさそうな人に
「働いているのかな?」「仕事してるのかな?」などと言っていたりする人が何を言いたいのかは、給料か印税という形で金を貰っているかを知りたがっている場合が多いだろう。
誰かの役に立っているのかとか、何をしているのかということが知りたいのではなく、給料か印税という形で金を貰うことをしているかが知りたかったり、大勢と同じことをしているのかどうかが知りたいのだろう。
ほとんどの人は金信者で、金信者はほとんどの人は給料か印税という形で金を貰うことが正しいと勝手に信じているから、それをやっていない人を例外あれど許さずに見下したりして、不満を持ち、人として間違っている生き方をしていると思っているのだ。
でも一方で、給料や印税という形で金を貰っていても気に入らないことをやっていたり、気に入らない値段付けていると悪質業者、霊感商法や、ぼったくりなどと言う人もいる。
私のいとこの父親が数年前に、ある職業のことを、ああいう仕事はやくざの人が関係しているというようなことを言ってたり、
「あんなことしないと金を貰えない人もいるんだから」というようなことを言っていた。
給料を貰うようなことをしていてもバカにしていたり、おかしいと思っていたり、見下している場合もある。
給料を貰うようなことをやっていても、給料を貰うようなことをやっていないニートや無職と言われている人に対しても、
どちらのことも悪く言っている場合もあるのだからバカげている。
ガラが悪いとか、おかしいことをしているというのを、やくざと言うとすれば、金でやっていく世の中は不正で間違っている、おかしいことをしているので、金信者はガラの悪い、やくざだとも言える。やくざが関わっている仕事はダメだと思っている人も、自分達も間違っている、おかしいことをやって生きているのだ。
年金暮らしの老人の中には自分達は給料や印税という形で金を貰わなくてもいいけど、例外除いて親や祖父母の年金や給料から生活費が払われていたり、何かをするのに必要な金を出されている人を許さない人がいるが、自分たち年金暮らしの老人が年金を貰うのは正しく、
例外除いて他の人が親や祖父母の年金で生きていることは許さない差別をしていて、老人になって角が取れて丸くなるどころか、
自分達がやってもいいことでも、他の誰かが同じことをすることを許さないという上から目線で、傲慢、高慢なところがある老人もいるのだ。
私が今住んでいる所でも、外に出ると近所に住んでいる団塊世代ぐらいの老人が私を給料貰うようなことをしていない奴というような目つきや
雰囲気を漂わせて、不満たら気な感じで私の方を見ていたりする。
誰かが、老人は総合的に見て強者だと言っていた。年金を貰い、給料や印税という形で金を貰っていなくても多くの人から許されている老人。
年金を取られることを正しいと信じていない人もいるし、嫌がっている人がいるが、人が嫌がることをしていても多くの人から年金を貰うことを許されていて得なところがあるのは立場の強い強者という感じだ。
子どもや老人を弱者という人がいるが、弱者と言われている人の方が強者なところもあるのだ。
子どもは親の給料や、祖父母の年金で生活費を払ってもらってもいいとか、それ以外のことにも金を出してもらってもいいと多くの人から許されていて、老人も家族から金を貰ったり、年金を貰ってもいいと多くの人から許されている強者だとも言えるのだ。
子どもや老人は弱者だから、金の面倒を他の人が見なければいけないのだと思っている人もいるだろうが、子どもや老人や、身体障害の弱者と言われている人以外の人も、金でやっていく世の中で多くの人が苦しんでいて金がないとやっていけないのに、子どもや老人などの一部の人には給料や印税という形で金を貰わないことを許して、他の人が給料や印税という形で金を貰っていないと許さないのは差別だ。
弱者と言われている人よりも、弱者と言われていない無職やニートと言われている人の方が立場が弱いところがある弱者だとも言える。
給料や印税という形で金を貰っていない人に不満を持っている人はユーチューバーを知っているのだろうか?
知っていたとしても、ユーチューバーのことを仕事をしている、働いているという言葉で言い表しているのか?
ユーチューバーがユーチューブから貰っている金を給料という言葉で言い表しているのだろうか?
他の人達もユーチューバーを仕事をしている、働いているという言葉でいい表しているのか、ユーチューバーがユーチューブから金を貰っていることを給料という言葉で言い表しているのかは人によって思っていることが違うだろう。
同じ言葉に対する定義や、意味付けが人によって違うからだ。
ユーチューバーを仕事という人もいれば、仕事とは言わない人もいるだろうし、ユーチューバーがユーチューブから貰っている金を給料という人もいれば、言わない人もいるだろう。
給料や印税という形で金を貰うことは、人の役に立つ、誰かの役に立つことなんだと言いたい人の中には社会参加や社会貢献や助け合いなどと言う人もいるだろうが、本当にみんなで助け合っているのならば、金でやっていく世の中など要らないのだ。
給料や印税という形で金を貰うのは労働の対価で貰ったという人もいるが、給料や印税という形で金貰っていない人も、存在しているだけで
誰かの役に立っている。何かをしていても、給料や印税という形で金を貰っていない人がやっていることは労働という言葉では言い表さない人もたくさんいるだろう。
下らない自己満足の言葉の使い方だ。一体何のために言葉があるのだろうかとも思う。
人に自分が言いたいことを分かってほしい、知ってほしいために言葉を使う場合に、自分が言いたいことが相手に伝わっていないなら一体何のために喋ったのかということになる。
給料や印税という形で金を貰っていない人がやっていることを労働という言葉では言い表さない人が、給料や印税という形で金を貰っていない人が、給料や印税以外の形で金を貰うと不労所得などという言葉で言い表して、おかしなことを言っている。何かをやっている点では同じことなのに差別をしているのだ。
宝くじが当たって金が入ってきた人に、何もしていないのに金が入ってきた不労所得と思う人もいれば、今まで色んなことをやってきても給料や印税という形で金を貰っていなかったけど、今までやってきたことの
ご褒美や報酬として、人間以外の存在である神や天が宝くじで金をもたらしてくれたと思う人もいるだろう。
根拠や裏付けがなくても自分が感じたことが正しいのだと信じているところが誰にでもあるだろうが、金でやっていく世の中が正しいとか、ほとんどの人は給料か印税という形で金を貰うことが正しいと間違ったことを信じていても、自分が正しいと心の中で信じているのだろう。
金でやっていく世の中、金社会が正しいとか、ほとんどの人は給料か印税という形で金を貰うことが正しいと信じて、給料や印税という形で金を貰うようなことをやっていることで誰かの役に立っていると思っている人もいるだろうが、金でやっていく世の中で苦しんでいる人がいるのを知っている人も多いだろうが、金でやっていく世の中で苦しんでいる人がいるのは
自分達ほとんどの人には関係ないことだと思っている人が多いのだろう。
金信者が正しいと信じて辞めようとはしない金でやっていく世の中で、少数であろうが大勢であろうが、金でやっていく世の中で、
金が絡むことで誰かが苦しんでいても、自分に都合にいい捉え方をして、自分達には問題はないと思っている人が多いのだろう。
メルカリやラクマ、ヤフーオークション、フリーマーケットなどで値段を付けて有料で何かを売っていても、多くの人はこれらのことを仕事や働いているとは言わないだろう。
だから、これらのことで売っているものが売れて金が入ってきても、その金を給料と呼ぶ人はほとんどいないだろう。
大勢が商売の仕事と思っているスーパーやコンビニ、本屋や、古本屋、服屋などで有料で商品、サービスに値段を付けていたら、
売れていなくても仕事をしていて働いているという言葉で言い表されるのに、メルカリやラクマ、ヤフーオークション、フリーマーケットなどでは売れていなくても、売れても仕事や働いているとは言わないような差別をしている。
やっていることは同じようなことをしているにも関わらずに。バカの差別だ。
メルカリやフリマなどで有料で中古本を売っても仕事や働いているとは言わない人が多いだろうに、古本屋で中古本を売ってたら、一ヵ月間、誰も本を買わなくても、仕事をして働いている労働者だと言う人が多いだろう。バカげている差別をしている。
人を見ている視点が誰かの役に立っているのかではなく、
大勢と同じことをすることが例外あれど正しいと信じていて、大勢が週に5日、一日7時間か8時間や、それ以上の時間、給料という形で金を貰っているから、他の人も例外あれど同じことをしなければいけないなどと信じている人もいるだろう。
小説などの本を書いたAさんとBさんがいて、CさんがAさんとBさんに何日かけて本を書いたのかを聞いてきて、Aさんが「2年かけて書きました」と言い、Bさんは「2週間で書きました。」と言ったら、
Cさんが2年かけて書いたAさんの方が長い時間をかけて頑張って本を書き、
Bさんの方は一週間で書いたのだから、たいして頑張っていないと思っていたとする。
AさんもBさんも本を書くのにかかった時間は50時間で同じ時間をかけて書いた。
書くのにかかった日数だけを聞けば、Aさんの方が時間をかけて書いていると思う人もいるだろうが、書き始めから書き終えるまでの日数が長いからといって、毎日書いているわけでもない。
Aさんは一年のほとんどは本の文章は書いてはいない。
Bさんの方がAさんよりも文章の量が多い。書き始めから書き終えるまでの日数が違うだけで、書いている時間は同じ50時間かかっている。
長い日数をかけて書いた方がたくさん時間がかかっているのだと思いたければ勝手に、そう思うのだろうが、実際はそうではない場合もある。
働いていない、仕事をしていないと言ったら、何もしていないと捉えたり、楽をしている、苦しんでいないなどと勝手に思う人がいるのも同じことだ。
給料や印税という形で金を貰っている人のことを忙しいと言っている人が、給料や印税という形で金を貰っていない人が何かをしていても忙しいとは言わずに
「やることないんだぞ」とか「働いていないから暇でやっている。」とか暇人などと言っていたりして、給料や印税という形で金を貰っていない人をバカにしていたり、見下している人もいるのだ。
私の家の隣の職場に私の叔母の同級生の団塊世代ぐらいの男の人がいて、その人のいくつかの言動を見聞していると、私を給料や印税という形で金を貰ってない様に思っている感じで、給料や印税という形で金を貰っていないことをおかしいと思っていそうな感じがする。
その人が以前、誰かと電話で喋っているような声が聞こえてきて、
「仕事が趣味みたいなもんですから」というようなことを言っていた。
他の人も趣味が仕事など言ったりするが、趣味や仕事の定義、意味付けは人によって違うが、仕事が趣味というのは、「好きなことをやって、給料という形で金を貰っている」という意味で言っている場合が多いと思う。
金でやっていく世の中は今後なくなるし、不正だが、今後金でやっていく世の中がなくなるまでの間は、好きなことで金を貰う人が今までよりも増えてくると思う。
ハリーポッターの本を書いた人は作家と言われたり、ハリーポッターの小説を書いたことを仕事や働いている、職業と多くの人が言うだろう。
印税を貰うことを仕事や働いているという人が多いから、作家と言われている人達は印税を貰っているから仕事や働いていると言われるのだ。
もし、ハリーポッターの著者がハリーポッターの小説を書いても、誰にも見せなかったり、家族などに無料で見せていたり、
家族などの誰かに見せて、読んだ人から金を100円や3000円や1万円貰っても、フリマやメルカリ、ヤフオクなどで有料で売っても、
ほとんどの人は仕事や働いている、職業とは言わないだろう。
誰か一人が読んでも、大勢が読んでも、給料や印税という形で金を得ているのではなかったら、家族が小説を読んで1000円くれた時に「本代として1000円あげる。あんたが小説書いた給料だよ。」と言われて、小説書いた人が家族から1000円を貰っても、その1000円を給料と呼ぶ人はほとんどいないだろう。
本屋や通販などで紙の本や電子書籍で有料で本が売られていて、その本が売れて印税で金が入ってきたら仕事や働いていると言われるし、売れなくても
仕事や働いている、職業と呼ぶ人が多いだろう。
いかにも何かをしていても、誰かの役に立っていても、有料で何かを売っていて、売れようが売れなくても、給料や印税という形で金を貰っていないと、仕事や職業、働いているとは言われにくいのだ。
給料という形で金を貰うことで他人の家の風呂のカビを落とす作業をしたり、家の掃除などをしていたら仕事や働いている、労働者と言われるのに、
無職やニート、引きこもりと言われている人が家で同じようなことをしていても、働いていない、仕事していない、労働者ではないという言葉で言い表わす人がたくさんいるのだ。
無職や働いていない、仕事をしていないと言われている人が家の家事、掃除、洗濯をやって、親や祖父母、恋人や宝くじや株から金を貰って得ていたら
不満を持つ人がいるが、それ以外の人や、モデルみたいに立っているだけで写真を取られている人が給料や印税という形で金を貰うと許して許可をしていて、合法でも正しい金の貰い方と、間違っている金の貰い方があると勝手に信じている人がたくさんいるのだ。
何かをやっていたり、存在しているだけでも誰かの役に立っていることを知っていても、自分が給料や印税と呼んでいる形で金を貰っていない人を見下していたり、バカにしていて、上から目線で特権階級意識を持っている人もいるのだ。
存在しているだけで誰かの役に立っていたり、何かをしていることを仕事や働いている呼ぶと定義付ければ、働いていない人などいないし、仕事をしていない人などいないのだ。
金でやっていく世の中がなくなれば、他人を見る視点が何をすることで金を貰っているのかと探ったり、疑問を持つこともなくなる。
19.自己満足の人類
「人が嫌がることをしてはいけない」などと思っている人も所詮は人が嫌がることをしているが、人が嫌がることをしていることに自分で気づいていないだけだったり、例外として悪人だと思う人が嫌がることはしてもいいと思っていたり、善人だと思う人に対しても嫌がることをしてもいい場合もあると思っているところもあるだろう。
金でやっていく世の中で大勢が苦しんで、嫌がっているのを多くの人は分かっているだろうが、金でやっていく世の中みたいに大勢が加担していることで、大勢の人が嫌がっている場合は許しやすいのだろう。
人のことや世の中のことをあまり分かっていないのに、分かっていると思い込んでいて、鈍くて鈍感で頭が悪くてバカなところが誰にでもあるのだ。
根拠や裏付けのない自信を持っているところが誰にでもあるのだろう。
自己満足という言葉も、二人以上の人が同じことを感じていたり、やっていたりすることを自己満足と言わない人もいるだろうが、
同じことに対して自己満足している人が2人以上いるだけだとも言えるのだ。
人のためにという言葉と自分のためにという言葉は同義語でもある。人に喜んでほしいからとか、人によかれと思ってやったという人は、
それを自分がやりたいからやったのだから、自分の満足でやっている自己満足で、自分のためにやっているとも言えるのだ。
自分の好きな人や、お世話になったと思う人に感謝を込めた言葉を言ったり、プレゼントをあげたりしているのは、人にあげているから人のためと言う人もいるだろうが、自分があげたいから、あげたい人にだけあげているのだ。あいさつも同じようなもので、自分があいさつ返させたい人にだけ、あいさつをして自分の思い道りの態度を取ってほしくて
やっている、自分のためとも言えるのだが、コミニケーションや社会のルールなどと言う人もいるのだ。
自分がやりたいことをやって自分の満足でやったことを、誰か他の人が満足して良く思えば、誰かのやったことで満足した人は自分の役に立つようなことをしたから、褒めて良く言うのだが、人のためになっていると言えばカッコが付く。
通販で購入した人のレビューを読んでいたら、「手書きのメッセージが書かれていたが、急いで書いたような字だったので、そんなメッセージならいらない」というようなことが書いていた。書いた本人は形だけ書いていようと、そうでなかろうと、良かれと思ってやっているのだろうが、
嫌がっている人もいるのだ。一方的にやっていることで、それを満足したり、喜んだりする人がいれば、一方的と言われにくいだけで、何でも一方的とも言えるのだ。
子どもや美形や犬や猫の見た目は多くの人から好かれやすいが、それは大勢の人が、これらの人の外見、見た目が好きで、自分の役に立っているから
好かれているのだ。子どものAさんが体調が悪くて本人は不快でも、子どもが好きな大人のBさんがAさんを見たらいい気持ちになり、子どものAさんは自分の役に立ったと思うのだ。
好かれた方のAさん自身は体調が悪く心身不快でも、BさんはAさんを見ていい気持ちになるのだ。
別のCさんがAさんを見てもいい気持ちにはならなくて好きだと思わなくても、BさんはAさんを見ていい気持ちになり自己満足しているだけだ。
歌手の歌を聴いて自分の好む歌ならば好きになり、その歌を褒める人がいても、同じ歌を好きではない人が聴いたら嫌いだと思ったり、何が良いのか分からないと思ったりする。
具体例で言えば、歌手の宇多田ヒカルの歌について、ブログに、「作家の村上春樹が分からないと言っている人はいるけど、宇多田ヒカルを分からないと言っている人は聞いたことがない、同じことを思っている人がいたらコメントを下さい」というようなことが書いていた。宇多田ヒカルのことを知らない人もいるだろうし、この人の歌を知っていても好きではない人もたくさんいるだろう。
老人で宇多田ヒカルの歌を好きな人はあまりいないだろうし、普段聞く人もあまりいないと思う。若い人や中年の一部の人に聞いている人や好きな人が多いと思う。
他の人もネットに宇多田ヒカルの歌が何で売れているのか分からないと書いているような人がいた。
でも、宇多田ヒカルの歌は売り上げは多いだろうから、売れている人、人気がある人と多くの人が思うのだろう。
自分の好きな歌手にはたくさんのファンがいて好かれていると思っても、一方で好きではない人もたくさんいるのだ。
あいさつを数少ない人にだけして、全員から必発百中でオウム返しされたら、他の人もみんなオウム返しをすると思う人がたくさんいるだろうが、
みんながオウム返しなどしないし、みんながあいさつを正しいとは信じていないが、みんながあいさつ返すことを正しいと信じているかのように自己満足で思っている人もいるのだ。
誰かのやったことで夢を与えられたというが、はっきり詳しいことを言ってはおらず、誰かのやってたことが自分の役に立ったとか、
自分も将来同じことをしたいと思ったということを、夢を与えられたなどという言葉で言い表していて、はっきり言っていないのだ。
自分の役に立ったのは相手のおかげだと思って、相手を褒めるのだ。
人間は自分に都合のいいことは褒める場合が多いだろう。誰かのやったことなどで不快になれば、相手に嫌な気持ちにさせられたと思うのも、
自分が不快になったのは、相手に原因があると思っているのだ。自分が思いたいようにしか思わない自己満足だ。
日本人には繊細な人が多いと言っている人がいたのだが、
繊細という言葉をみんなが同じ意味付け、定義で使ってはいない。
自分の思い道りにならないことに不満を持ったり、落ち込んだことに対して、他の人が共感するならば繊細などと言われる場合もあるだろうが、
不快になったことを悪く言う場合は、甘いとか、苦労していないからとか、心が弱いとか、わがままなどと言われたりする。
悪人と思っている人が他人から悪く言われて不快になっていても繊細とは言わないだろうが、例外あれど、善人だと思う人が何かで気分が落ち込んでいたり、不快になれば繊細と言われる場合があるのだ。
下らない言葉遊びをして自己満足で言葉を使っているだけだ。誰でも言葉を自己満足で使ってるだけだ。
誰かが嫌がることをしたり、決まりを守らなくても、ほとんどの人は犯罪者や罪人とは言われないけど、一部の人は犯罪者や罪人と呼ばれて、悪い意味で差別されている。
誰かが言っていたことだが、クモの巣に引っかかったクモを先生がクモの巣から放したことに、一人の子どもが「クモがかわいそう」と言ったという。
先生のやったことに多くの人は共感するだろう。蝶がクモに食べられたり、クモの巣に引っかかったまま死んだらかわいそうと思って、
クモの巣から蝶を放したがる人がいる一方で、他の人はクモが蝶をエサとして食べなかったら生きていけないからクモがかわいそうと思う人もいるのだ。自分が思いたいように思うだけなのだ。
自分がされて嫌なことをやっていないから、他人は嫌がっていないと思う人がいるが、そういう人が他人のことを同じ人間だと思っていないところがあるのだ。自分が思いたいように都合のいいことを思っているだけだ。
自分に都合のいい捉え方をして、例外あれど自分が良かれと思うことをやったことで、誰かが嫌がっている場合はやってもいいと思っている人はたくさんいるだろうが、自分に優しいと言えばカッコが付くが、自分に甘いとも言えるのだ。
人のためにやったと言えば許されやすいと思っている人が多いだろうが、人のためにと言ってやっている理由が、他の人が嫌がることすることで、
自分や家族が嫌われたくないとか、嫌われた後に嫌がらせされたり、身体暴力を振るわれたくないなどの自己防衛でやっている人もいるだろうが、
こういう人たちのことを優しい人と言えば綺麗事になり、良く言うことはできる。
自分が嫌ではないことをやったから、他人は嫌がっていなくて、他人に優しいなどと言う人もいるのだろうが、自分や好きな人や善人だと思っている人に対して甘いところがあるから、高評価をして優しいとか、思いやりがあるなどと言う人もいるだろう。
クモの巣に引っかかっている蝶をクモの巣から放した人をやさしいという人はたくさんいるだろうが、その人が肉食していて、動物を殺して食べていても、一面だけ捉えて優しいというのだろう。
他人を評価する時に所詮その人のほとんどのことなど知らないのだが、一部分、一面だけで自己満足で評価するのだ。
ネットで花は人のために咲いていると言っている人がいる一方で、花は人のために咲いているのではないと言っていた人がいた。
花が人のために咲いていると言った人がどういう意味で言っているのか分からないが、自分や大勢の人に花が役に立っていることを人のためと言っているのか、花自体が人に喜んでほしいと思って花を咲かせているんだという意味で言っているのだろうか?
花に限らず、人間のやっていることでも、歌手が恋人や元恋人に対して歌っている歌を、恋人や元恋人以外の人にも聴いてもらってもいいと歌を販売して、たくさんの人がその歌の歌詞を知って、自分の好みに合えば好きになり、褒めるが、自分の役に立っていなければ褒めはしない。
その歌詞は恋人や元恋人に対して思っていることを言っていても、歌詞が役に立った人からしたら、自分に向けた歌詞ではなくても、いい気持ちになり
高評価するのだ。あいさつでも、自分があいさつ返させたいから初めに誰かにあいさつして、相手が嫌々、渋々、形だけあいさつしていても
満足する人は満足するのだ。あいさつした相手の心理を分かっていなくても、分かる気がなくても自分の思い道りにあいさつ返してくれれば満足している自己満足なのに、社交やコミニケーションなどと言えばカッコが付くのだろう。
歌手の宇多田ヒカルが漫画家の人と対談していた雑誌の記事を誰がかブログに出していたのを読んだことがあるのだが、宇多田ヒカルのFirst Loveという歌を結婚式で使った人がいることについて、一字一句はっきり覚えていないが、宇多田ヒカルが自分にとってネガティブなものが、
ポジティブに捉えられているというようなことを言っていたと思うが、音楽も他のこともそんなものなのだ。
作詞家や作曲家が何を言いたいのかに興味がある人もいるだろうが、何が言いたいのかに全くか、ほとんど興味がない人もいるだろう。
作曲家や作詞家がどんな気持ちを歌詞や曲に込めているのかには興味がなくて、自分の好む歌ならば勝手にいい気持ちになり高評価したり、買ったりするのだ。
歌を聴くの自己満足で聴いているだけだ。
あいさつも同じようなところがあり、あいさつを初めにした人や、あいさつ返しをした人の気持ちに興味がない人もたくさんいるだろう。
色んな目的、理由から形だけあいさつをしていて、相手の心理など何も興味がない人もいるのだ。
音楽に人にとって心地いいテンポの音楽があると言っている人がいて、いくつかの歌を例に出していたのだが、曲のテンポは心地よくても、
歌詞を嫌う場合もあるだろう。曲の方は好きで心地よくても、歌詞を嫌っていたり、歌っている人を嫌っていたりなどしたら、
いい気持ちのところと、嫌な気持ちのところと両方あるのだ。同じ人間に対しても、好きなところと嫌いなところと両方あっても、
自分や好きな人が好かれているというところだけを意識したい人は自分に都合のいいように捉えて、好きと言われているところだけを強調する人もいるだろう。
その人の色んな所を知れば嫌う可能性も高いだろうけど、自分や好きな人が好かれたいだけで、嫌われたくないと思う人もいるのだ。
自己否定はダメだという人がいるが、これらの言葉も自分に都合よく自己満足で使う人もいるだろう。
例えば、あいさつで、あいさつ返しが正しいと信じている人はあいさつ返しをしない人を嫌ったり、見下したり、バカにしたりなどをしているのだが、
その人たちは自分の信じていることを否定しないことで、自分と同じことを信じていない人を否定しているのだ。
自分を否定してはダメと言っている人は、自分を否定しないことで、他の誰かのことは否定してもいいと遠まわしに言っているようなものだ。
「自分が感じたことが正しいんですよ。分かる人には人には分かるだろうけど」と言っていた人がいたが、あいさつ返しが正しいことだと信じている人はたくさんいるだろうが、自分の信じていることが正しいと思いたい人は、自分の信じていることをやる人に好意を持ったり、仲間意識を持ったりして、自分の信仰や言動が否定されないと、自分が感じたことは根拠なく正しいのだとか、自分は間違っていないと自信を深めて自己満足する。
人間は自分が可愛いくて、我が身が可愛いから、自分のことをあまり否定されたくないだろう。
自分で自分の色んなことを否定するのもダメだけど、他人からも否定されたくないと思っている人が、自分が間違っていると思うことをやった人などを否定しているのだ。
他人の何かを否定していることを本人に直接言ったか、言っていないかの違いで、誰か他人を否定しているのは同じことだ。
スピリチュアルが人気があるところがあるのは、スピリチュアルの人が自分の心で思っていることが現実になるとか、あなたが感じたことが正しいなどと言うことを言っていたりするので、普段から自分が正しいと信じていて、自分の思い道りにしたい人は自分の背中を押されたと思ったりして、
自分に都合のいいことを言っているところがあるから、スピリチュアルは人気があるのだろう。
自分のお思い道りになってほしいのだから、スピリチュアルの人が、こうすれば願いが叶うと言っていていることを半信半疑や断定的に信じたりするのだ。
自分の思い道りになったのが、自分が願っていたから現実になったと思いたければそう思うのだ。
自分が思いたいようにしか思わない自己満足なのだ。同じことでも信じる人は信じるし、信じない人は信じないのだ。