くるみの世界

金でやっていく世の中や、あいさつが正しいとされていることは間違っているということを主張したいです。

脱金社会 金でやっていく世の中は不正だ5

2023年05月07日 | 脱金社会

 

18.働いていない人などいない、仕事をしていない人などいない

人間と言われている生物は同じ言葉を同じ意味で使っていなかったりするが、仕事、働く、職業という言葉も、みんなが同じ意味、定義では使っていない。
多くの人が仕事、働く、職業という言葉を使う時の定義、意味付けは、給料という形か、印税という形で金を貰うことを仕事、働く、職業と言っている場合が多いだろう。
いかにも何かの作業をしていて、走ったり、歩いたりなどしていても、家の家事、掃除、洗濯やゴミ出しをしたり、作品を作ったり、小説や自伝や日記を書いたり、どこかに出かけたり、自分の内面と向き合うような内観をしたりなどしていても、給料や印税という形で金を貰っていないと仕事、働いている、職業とは言わない人が多いだろう。
例外あれど給料や印税という形で金を貰っていない人を見下していたり、人間として間違った生き方をしているなどと思っていたりする人もいるのだ。
働いていない、仕事していないと言うと、何もしていないとか、苦しんでいないとか、楽をしているとか、家から出ていない人で、引きこもりであると思う人もいるのだ。
勝手に自分の中で思ったことを現実のことだと間違った捉え方をしているのだ。
人間や世の中のことをほとんど知らなかったり、知る気もない人が多いだろうが、間違っていることを感じているのに、自分が思ったことが正しいと信じていたりするのだ。誰でも知ったかぶっているところはあるだろうが、
金でやっていく世の中が正しいと信じている人も、給料や印税という形で金を貰っていない人を見下している人や、間違っていると思っている人も
知ったかぶりをしているだけだ。
例外として、給料や印税という形で金を貰っていないことを多くの人から許されているのは、天皇家の人や、子どもや、20代の学生や、60歳以上ぐらいの老人や、身体障害の人や主婦や自分が生きてくれているだけでいいと思っている人などだろう。

給料や印税という形で金を貰うことが例外あれど正しいと勝手に信じていて、20歳以上60歳未満ぐらいの人のほとんどは給料か印税という形で金を貰うことが正しいと間違ったことを信じていて、
一部の人は給料や印税という形で金を貰わなくてもいいと勝手に決めていて、えこひいき差別をしている人もたくさんいるのだ。
差別していない人などいないが、何を差別しているかが違うだけだ。

呼吸をしていて、じっとしていることを何もしていないという人もいるだろうが、「存在するということをやっている」とも言えるが、モデルと呼ばれている人はモデルの仕事で無表情で突っ立っていたり、座っているだけだったり、ウソの笑顔や、本当の笑顔でポーズを取ったりしていることを仕事や働いている、職業などという言葉で言い表されているが、
同じようなことをして写真に写っていても、その写真を不特定多数が見れるインターネットなどに出しても、それをやったことで給料や印税という形で金を貰っていないと、仕事や働いているとは言われにくい。モデルと言われている人が仕事や働いている、職業と言われているのは給料という形で金を貰っているからだ。
モデルは存在して生きているだけで仕事をして、働いていると言っているようなものだ。
でも、呼吸して、じっとその場にいるだけだったり、何かを考えていても、内観していても、歩いていても、走っていても、セックスやオナニーをしていても、絵を描いていても、独り言を言っていたり、料理をしたり、家事、掃除、洗濯やゴミ出しなどをしていても、給料や印税という形で金を貰っていないと、働いていない人、仕事をしていない人、職業についていない人などという言葉でほとんどの人たちは言い表してくるだろう。
こんなことを思っているのは、ただの差別だ。給料や印税という形で金を貰っている人の方が例外あれど高評価されて良く言われるのだ。
金でやっていく世の中で大勢の人が苦しんでいることなど分かりきっていることだが、給料や印税という形で金を貰っている人が、
例外あれど人として正しい生き方をしている人にされて、給料や印税という形で金を貰っていない人の方が、間違った生き方をしている人と思われたり、見下されたり、金払わないと逮捕されたり、税金Gメンに差し押さえされたりして悪者扱いされたりする。

誰かの仕事の定義は人の役に立つことと言っている人もいるが、
誰でも家族や親戚、友達や恋人や、家で飼っている犬、猫などに好かれているだろう。
好かれているというのは別の言い方で言えば、自分以外の誰かの役に立っているということだ。
その人が存在しているだけで誰かの役に立っているということだ。
でも、多くの人は世の中にいるほとんどの人のことを好きでもないだろうし、どうでもいい人だとか、嫌いなだけの人だったりするから、
存在しているだけだったり、給料や印税という形で金を貰っていなくて、家事、掃除、洗濯をしたり、ゴミ出しをしたり、犬の散歩に行ったり、走ったり、歩きに行ったり、作品を作ったり、小説や自伝を書いたりなどして、いかにも何かををしていても不満を持ち、見下したりするような冷酷さがあるのだ。

何で仕事をするのか?働くのか?というようなことを言って、それを本の題材にしている人がいるが、給料を貰うようなことをしている人の多くは、金でやっていく世の中で金がないと死活問題で、生活していけなかったり、欲しいものや、やりたいことに金がないとやっていけないから、給料という形で金を貰いに行っている人が多いだろう。

給料や印税という形で金を貰っていない人は「給料を貰っていない仕事をしている」とか「給料を貰っていないだけで、無給で働いている」とも言えるし、「無給の仕事をしている」とも言えるのだ。給料や印税という形で金を貰っていなくても誰かの役に立っているのだ。
仕事をしていない、働いていないなどと言って不満を持ったり、給料や印税という形で金を貰っていなさそうな人に
「働いているのかな?」「仕事してるのかな?」などと言っていたりする人が何を言いたいのかは、給料か印税という形で金を貰っているかを知りたがっている場合が多いだろう。
誰かの役に立っているのかとか、何をしているのかということが知りたいのではなく、給料か印税という形で金を貰うことをしているかが知りたかったり、大勢と同じことをしているのかどうかが知りたいのだろう。

ほとんどの人は金信者で、金信者はほとんどの人は給料か印税という形で金を貰うことが正しいと勝手に信じているから、それをやっていない人を例外あれど許さずに見下したりして、不満を持ち、人として間違っている生き方をしていると思っているのだ。
でも一方で、給料や印税という形で金を貰っていても気に入らないことをやっていたり、気に入らない値段付けていると悪質業者、霊感商法や、ぼったくりなどと言う人もいる。
私のいとこの父親が数年前に、ある職業のことを、ああいう仕事はやくざの人が関係しているというようなことを言ってたり、
「あんなことしないと金を貰えない人もいるんだから」というようなことを言っていた。
給料を貰うようなことをしていてもバカにしていたり、おかしいと思っていたり、見下している場合もある。
給料を貰うようなことをやっていても、給料を貰うようなことをやっていないニートや無職と言われている人に対しても、
どちらのことも悪く言っている場合もあるのだからバカげている。
ガラが悪いとか、おかしいことをしているというのを、やくざと言うとすれば、金でやっていく世の中は不正で間違っている、おかしいことをしているので、金信者はガラの悪い、やくざだとも言える。やくざが関わっている仕事はダメだと思っている人も、自分達も間違っている、おかしいことをやって生きているのだ。

年金暮らしの老人の中には自分達は給料や印税という形で金を貰わなくてもいいけど、例外除いて親や祖父母の年金や給料から生活費が払われていたり、何かをするのに必要な金を出されている人を許さない人がいるが、自分たち年金暮らしの老人が年金を貰うのは正しく、
例外除いて他の人が親や祖父母の年金で生きていることは許さない差別をしていて、老人になって角が取れて丸くなるどころか、
自分達がやってもいいことでも、他の誰かが同じことをすることを許さないという上から目線で、傲慢、高慢なところがある老人もいるのだ。
私が今住んでいる所でも、外に出ると近所に住んでいる団塊世代ぐらいの老人が私を給料貰うようなことをしていない奴というような目つきや
雰囲気を漂わせて、不満たら気な感じで私の方を見ていたりする。
誰かが、老人は総合的に見て強者だと言っていた。年金を貰い、給料や印税という形で金を貰っていなくても多くの人から許されている老人。
年金を取られることを正しいと信じていない人もいるし、嫌がっている人がいるが、人が嫌がることをしていても多くの人から年金を貰うことを許されていて得なところがあるのは立場の強い強者という感じだ。
子どもや老人を弱者という人がいるが、弱者と言われている人の方が強者なところもあるのだ。
子どもは親の給料や、祖父母の年金で生活費を払ってもらってもいいとか、それ以外のことにも金を出してもらってもいいと多くの人から許されていて、老人も家族から金を貰ったり、年金を貰ってもいいと多くの人から許されている強者だとも言えるのだ。
子どもや老人は弱者だから、金の面倒を他の人が見なければいけないのだと思っている人もいるだろうが、子どもや老人や、身体障害の弱者と言われている人以外の人も、金でやっていく世の中で多くの人が苦しんでいて金がないとやっていけないのに、子どもや老人などの一部の人には給料や印税という形で金を貰わないことを許して、他の人が給料や印税という形で金を貰っていないと許さないのは差別だ。
弱者と言われている人よりも、弱者と言われていない無職やニートと言われている人の方が立場が弱いところがある弱者だとも言える。

給料や印税という形で金を貰っていない人に不満を持っている人はユーチューバーを知っているのだろうか?
知っていたとしても、ユーチューバーのことを仕事をしている、働いているという言葉で言い表しているのか?
ユーチューバーがユーチューブから貰っている金を給料という言葉で言い表しているのだろうか?
他の人達もユーチューバーを仕事をしている、働いているという言葉でいい表しているのか、ユーチューバーがユーチューブから金を貰っていることを給料という言葉で言い表しているのかは人によって思っていることが違うだろう。
同じ言葉に対する定義や、意味付けが人によって違うからだ。
ユーチューバーを仕事という人もいれば、仕事とは言わない人もいるだろうし、ユーチューバーがユーチューブから貰っている金を給料という人もいれば、言わない人もいるだろう。

給料や印税という形で金を貰うことは、人の役に立つ、誰かの役に立つことなんだと言いたい人の中には社会参加や社会貢献や助け合いなどと言う人もいるだろうが、本当にみんなで助け合っているのならば、金でやっていく世の中など要らないのだ。
給料や印税という形で金を貰うのは労働の対価で貰ったという人もいるが、給料や印税という形で金貰っていない人も、存在しているだけで
誰かの役に立っている。何かをしていても、給料や印税という形で金を貰っていない人がやっていることは労働という言葉では言い表さない人もたくさんいるだろう。
下らない自己満足の言葉の使い方だ。一体何のために言葉があるのだろうかとも思う。
人に自分が言いたいことを分かってほしい、知ってほしいために言葉を使う場合に、自分が言いたいことが相手に伝わっていないなら一体何のために喋ったのかということになる。
給料や印税という形で金を貰っていない人がやっていることを労働という言葉では言い表さない人が、給料や印税という形で金を貰っていない人が、給料や印税以外の形で金を貰うと不労所得などという言葉で言い表して、おかしなことを言っている。何かをやっている点では同じことなのに差別をしているのだ。
宝くじが当たって金が入ってきた人に、何もしていないのに金が入ってきた不労所得と思う人もいれば、今まで色んなことをやってきても給料や印税という形で金を貰っていなかったけど、今までやってきたことの
ご褒美や報酬として、人間以外の存在である神や天が宝くじで金をもたらしてくれたと思う人もいるだろう。

根拠や裏付けがなくても自分が感じたことが正しいのだと信じているところが誰にでもあるだろうが、金でやっていく世の中が正しいとか、ほとんどの人は給料か印税という形で金を貰うことが正しいと間違ったことを信じていても、自分が正しいと心の中で信じているのだろう。
金でやっていく世の中、金社会が正しいとか、ほとんどの人は給料か印税という形で金を貰うことが正しいと信じて、給料や印税という形で金を貰うようなことをやっていることで誰かの役に立っていると思っている人もいるだろうが、金でやっていく世の中で苦しんでいる人がいるのを知っている人も多いだろうが、金でやっていく世の中で苦しんでいる人がいるのは
自分達ほとんどの人には関係ないことだと思っている人が多いのだろう。
金信者が正しいと信じて辞めようとはしない金でやっていく世の中で、少数であろうが大勢であろうが、金でやっていく世の中で、
金が絡むことで誰かが苦しんでいても、自分に都合にいい捉え方をして、自分達には問題はないと思っている人が多いのだろう。

メルカリやラクマ、ヤフーオークション、フリーマーケットなどで値段を付けて有料で何かを売っていても、多くの人はこれらのことを仕事や働いているとは言わないだろう。
だから、これらのことで売っているものが売れて金が入ってきても、その金を給料と呼ぶ人はほとんどいないだろう。
大勢が商売の仕事と思っているスーパーやコンビニ、本屋や、古本屋、服屋などで有料で商品、サービスに値段を付けていたら、
売れていなくても仕事をしていて働いているという言葉で言い表されるのに、メルカリやラクマ、ヤフーオークション、フリーマーケットなどでは売れていなくても、売れても仕事や働いているとは言わないような差別をしている。
やっていることは同じようなことをしているにも関わらずに。バカの差別だ。
メルカリやフリマなどで有料で中古本を売っても仕事や働いているとは言わない人が多いだろうに、古本屋で中古本を売ってたら、一ヵ月間、誰も本を買わなくても、仕事をして働いている労働者だと言う人が多いだろう。バカげている差別をしている。

人を見ている視点が誰かの役に立っているのかではなく、
大勢と同じことをすることが例外あれど正しいと信じていて、大勢が週に5日、一日7時間か8時間や、それ以上の時間、給料という形で金を貰っているから、他の人も例外あれど同じことをしなければいけないなどと信じている人もいるだろう。

小説などの本を書いたAさんとBさんがいて、CさんがAさんとBさんに何日かけて本を書いたのかを聞いてきて、Aさんが「2年かけて書きました」と言い、Bさんは「2週間で書きました。」と言ったら、
Cさんが2年かけて書いたAさんの方が長い時間をかけて頑張って本を書き、
Bさんの方は一週間で書いたのだから、たいして頑張っていないと思っていたとする。
AさんもBさんも本を書くのにかかった時間は50時間で同じ時間をかけて書いた。
書くのにかかった日数だけを聞けば、Aさんの方が時間をかけて書いていると思う人もいるだろうが、書き始めから書き終えるまでの日数が長いからといって、毎日書いているわけでもない。
Aさんは一年のほとんどは本の文章は書いてはいない。
Bさんの方がAさんよりも文章の量が多い。書き始めから書き終えるまでの日数が違うだけで、書いている時間は同じ50時間かかっている。
長い日数をかけて書いた方がたくさん時間がかかっているのだと思いたければ勝手に、そう思うのだろうが、実際はそうではない場合もある。
働いていない、仕事をしていないと言ったら、何もしていないと捉えたり、楽をしている、苦しんでいないなどと勝手に思う人がいるのも同じことだ。

給料や印税という形で金を貰っている人のことを忙しいと言っている人が、給料や印税という形で金を貰っていない人が何かをしていても忙しいとは言わずに
「やることないんだぞ」とか「働いていないから暇でやっている。」とか暇人などと言っていたりして、給料や印税という形で金を貰っていない人をバカにしていたり、見下している人もいるのだ。

私の家の隣の職場に私の叔母の同級生の団塊世代ぐらいの男の人がいて、その人のいくつかの言動を見聞していると、私を給料や印税という形で金を貰ってない様に思っている感じで、給料や印税という形で金を貰っていないことをおかしいと思っていそうな感じがする。
その人が以前、誰かと電話で喋っているような声が聞こえてきて、
「仕事が趣味みたいなもんですから」というようなことを言っていた。
他の人も趣味が仕事など言ったりするが、趣味や仕事の定義、意味付けは人によって違うが、仕事が趣味というのは、「好きなことをやって、給料という形で金を貰っている」という意味で言っている場合が多いと思う。
金でやっていく世の中は今後なくなるし、不正だが、今後金でやっていく世の中がなくなるまでの間は、好きなことで金を貰う人が今までよりも増えてくると思う。

ハリーポッターの本を書いた人は作家と言われたり、ハリーポッターの小説を書いたことを仕事や働いている、職業と多くの人が言うだろう。
印税を貰うことを仕事や働いているという人が多いから、作家と言われている人達は印税を貰っているから仕事や働いていると言われるのだ。
もし、ハリーポッターの著者がハリーポッターの小説を書いても、誰にも見せなかったり、家族などに無料で見せていたり、
家族などの誰かに見せて、読んだ人から金を100円や3000円や1万円貰っても、フリマやメルカリ、ヤフオクなどで有料で売っても、
ほとんどの人は仕事や働いている、職業とは言わないだろう。
誰か一人が読んでも、大勢が読んでも、給料や印税という形で金を得ているのではなかったら、家族が小説を読んで1000円くれた時に「本代として1000円あげる。あんたが小説書いた給料だよ。」と言われて、小説書いた人が家族から1000円を貰っても、その1000円を給料と呼ぶ人はほとんどいないだろう。
本屋や通販などで紙の本や電子書籍で有料で本が売られていて、その本が売れて印税で金が入ってきたら仕事や働いていると言われるし、売れなくても
仕事や働いている、職業と呼ぶ人が多いだろう。
いかにも何かをしていても、誰かの役に立っていても、有料で何かを売っていて、売れようが売れなくても、給料や印税という形で金を貰っていないと、仕事や職業、働いているとは言われにくいのだ。

給料という形で金を貰うことで他人の家の風呂のカビを落とす作業をしたり、家の掃除などをしていたら仕事や働いている、労働者と言われるのに、
無職やニート、引きこもりと言われている人が家で同じようなことをしていても、働いていない、仕事していない、労働者ではないという言葉で言い表わす人がたくさんいるのだ。
無職や働いていない、仕事をしていないと言われている人が家の家事、掃除、洗濯をやって、親や祖父母、恋人や宝くじや株から金を貰って得ていたら
不満を持つ人がいるが、それ以外の人や、モデルみたいに立っているだけで写真を取られている人が給料や印税という形で金を貰うと許して許可をしていて、合法でも正しい金の貰い方と、間違っている金の貰い方があると勝手に信じている人がたくさんいるのだ。
何かをやっていたり、存在しているだけでも誰かの役に立っていることを知っていても、自分が給料や印税と呼んでいる形で金を貰っていない人を見下していたり、バカにしていて、上から目線で特権階級意識を持っている人もいるのだ。
存在しているだけで誰かの役に立っていたり、何かをしていることを仕事や働いている呼ぶと定義付ければ、働いていない人などいないし、仕事をしていない人などいないのだ。
金でやっていく世の中がなくなれば、他人を見る視点が何をすることで金を貰っているのかと探ったり、疑問を持つこともなくなる。

 

 

19.自己満足の人類

 


「人が嫌がることをしてはいけない」などと思っている人も所詮は人が嫌がることをしているが、人が嫌がることをしていることに自分で気づいていないだけだったり、例外として悪人だと思う人が嫌がることはしてもいいと思っていたり、善人だと思う人に対しても嫌がることをしてもいい場合もあると思っているところもあるだろう。
金でやっていく世の中で大勢が苦しんで、嫌がっているのを多くの人は分かっているだろうが、金でやっていく世の中みたいに大勢が加担していることで、大勢の人が嫌がっている場合は許しやすいのだろう。
人のことや世の中のことをあまり分かっていないのに、分かっていると思い込んでいて、鈍くて鈍感で頭が悪くてバカなところが誰にでもあるのだ。
根拠や裏付けのない自信を持っているところが誰にでもあるのだろう。

自己満足という言葉も、二人以上の人が同じことを感じていたり、やっていたりすることを自己満足と言わない人もいるだろうが、
同じことに対して自己満足している人が2人以上いるだけだとも言えるのだ。

人のためにという言葉と自分のためにという言葉は同義語でもある。人に喜んでほしいからとか、人によかれと思ってやったという人は、
それを自分がやりたいからやったのだから、自分の満足でやっている自己満足で、自分のためにやっているとも言えるのだ。
自分の好きな人や、お世話になったと思う人に感謝を込めた言葉を言ったり、プレゼントをあげたりしているのは、人にあげているから人のためと言う人もいるだろうが、自分があげたいから、あげたい人にだけあげているのだ。あいさつも同じようなもので、自分があいさつ返させたい人にだけ、あいさつをして自分の思い道りの態度を取ってほしくて
やっている、自分のためとも言えるのだが、コミニケーションや社会のルールなどと言う人もいるのだ。
自分がやりたいことをやって自分の満足でやったことを、誰か他の人が満足して良く思えば、誰かのやったことで満足した人は自分の役に立つようなことをしたから、褒めて良く言うのだが、人のためになっていると言えばカッコが付く。

通販で購入した人のレビューを読んでいたら、「手書きのメッセージが書かれていたが、急いで書いたような字だったので、そんなメッセージならいらない」というようなことが書いていた。書いた本人は形だけ書いていようと、そうでなかろうと、良かれと思ってやっているのだろうが、
嫌がっている人もいるのだ。一方的にやっていることで、それを満足したり、喜んだりする人がいれば、一方的と言われにくいだけで、何でも一方的とも言えるのだ。

子どもや美形や犬や猫の見た目は多くの人から好かれやすいが、それは大勢の人が、これらの人の外見、見た目が好きで、自分の役に立っているから
好かれているのだ。子どものAさんが体調が悪くて本人は不快でも、子どもが好きな大人のBさんがAさんを見たらいい気持ちになり、子どものAさんは自分の役に立ったと思うのだ。
好かれた方のAさん自身は体調が悪く心身不快でも、BさんはAさんを見ていい気持ちになるのだ。
別のCさんがAさんを見てもいい気持ちにはならなくて好きだと思わなくても、BさんはAさんを見ていい気持ちになり自己満足しているだけだ。

歌手の歌を聴いて自分の好む歌ならば好きになり、その歌を褒める人がいても、同じ歌を好きではない人が聴いたら嫌いだと思ったり、何が良いのか分からないと思ったりする。
具体例で言えば、歌手の宇多田ヒカルの歌について、ブログに、「作家の村上春樹が分からないと言っている人はいるけど、宇多田ヒカルを分からないと言っている人は聞いたことがない、同じことを思っている人がいたらコメントを下さい」というようなことが書いていた。宇多田ヒカルのことを知らない人もいるだろうし、この人の歌を知っていても好きではない人もたくさんいるだろう。
老人で宇多田ヒカルの歌を好きな人はあまりいないだろうし、普段聞く人もあまりいないと思う。若い人や中年の一部の人に聞いている人や好きな人が多いと思う。
他の人もネットに宇多田ヒカルの歌が何で売れているのか分からないと書いているような人がいた。
でも、宇多田ヒカルの歌は売り上げは多いだろうから、売れている人、人気がある人と多くの人が思うのだろう。
自分の好きな歌手にはたくさんのファンがいて好かれていると思っても、一方で好きではない人もたくさんいるのだ。
あいさつを数少ない人にだけして、全員から必発百中でオウム返しされたら、他の人もみんなオウム返しをすると思う人がたくさんいるだろうが、
みんながオウム返しなどしないし、みんながあいさつを正しいとは信じていないが、みんながあいさつ返すことを正しいと信じているかのように自己満足で思っている人もいるのだ。

誰かのやったことで夢を与えられたというが、はっきり詳しいことを言ってはおらず、誰かのやってたことが自分の役に立ったとか、
自分も将来同じことをしたいと思ったということを、夢を与えられたなどという言葉で言い表していて、はっきり言っていないのだ。
自分の役に立ったのは相手のおかげだと思って、相手を褒めるのだ。
人間は自分に都合のいいことは褒める場合が多いだろう。誰かのやったことなどで不快になれば、相手に嫌な気持ちにさせられたと思うのも、
自分が不快になったのは、相手に原因があると思っているのだ。自分が思いたいようにしか思わない自己満足だ。

日本人には繊細な人が多いと言っている人がいたのだが、
繊細という言葉をみんなが同じ意味付け、定義で使ってはいない。
自分の思い道りにならないことに不満を持ったり、落ち込んだことに対して、他の人が共感するならば繊細などと言われる場合もあるだろうが、
不快になったことを悪く言う場合は、甘いとか、苦労していないからとか、心が弱いとか、わがままなどと言われたりする。
悪人と思っている人が他人から悪く言われて不快になっていても繊細とは言わないだろうが、例外あれど、善人だと思う人が何かで気分が落ち込んでいたり、不快になれば繊細と言われる場合があるのだ。
下らない言葉遊びをして自己満足で言葉を使っているだけだ。誰でも言葉を自己満足で使ってるだけだ。
誰かが嫌がることをしたり、決まりを守らなくても、ほとんどの人は犯罪者や罪人とは言われないけど、一部の人は犯罪者や罪人と呼ばれて、悪い意味で差別されている。

誰かが言っていたことだが、クモの巣に引っかかったクモを先生がクモの巣から放したことに、一人の子どもが「クモがかわいそう」と言ったという。
先生のやったことに多くの人は共感するだろう。蝶がクモに食べられたり、クモの巣に引っかかったまま死んだらかわいそうと思って、
クモの巣から蝶を放したがる人がいる一方で、他の人はクモが蝶をエサとして食べなかったら生きていけないからクモがかわいそうと思う人もいるのだ。自分が思いたいように思うだけなのだ。

自分がされて嫌なことをやっていないから、他人は嫌がっていないと思う人がいるが、そういう人が他人のことを同じ人間だと思っていないところがあるのだ。自分が思いたいように都合のいいことを思っているだけだ。
自分に都合のいい捉え方をして、例外あれど自分が良かれと思うことをやったことで、誰かが嫌がっている場合はやってもいいと思っている人はたくさんいるだろうが、自分に優しいと言えばカッコが付くが、自分に甘いとも言えるのだ。
人のためにやったと言えば許されやすいと思っている人が多いだろうが、人のためにと言ってやっている理由が、他の人が嫌がることすることで、
自分や家族が嫌われたくないとか、嫌われた後に嫌がらせされたり、身体暴力を振るわれたくないなどの自己防衛でやっている人もいるだろうが、
こういう人たちのことを優しい人と言えば綺麗事になり、良く言うことはできる。
自分が嫌ではないことをやったから、他人は嫌がっていなくて、他人に優しいなどと言う人もいるのだろうが、自分や好きな人や善人だと思っている人に対して甘いところがあるから、高評価をして優しいとか、思いやりがあるなどと言う人もいるだろう。
クモの巣に引っかかっている蝶をクモの巣から放した人をやさしいという人はたくさんいるだろうが、その人が肉食していて、動物を殺して食べていても、一面だけ捉えて優しいというのだろう。
他人を評価する時に所詮その人のほとんどのことなど知らないのだが、一部分、一面だけで自己満足で評価するのだ。

ネットで花は人のために咲いていると言っている人がいる一方で、花は人のために咲いているのではないと言っていた人がいた。
花が人のために咲いていると言った人がどういう意味で言っているのか分からないが、自分や大勢の人に花が役に立っていることを人のためと言っているのか、花自体が人に喜んでほしいと思って花を咲かせているんだという意味で言っているのだろうか?
花に限らず、人間のやっていることでも、歌手が恋人や元恋人に対して歌っている歌を、恋人や元恋人以外の人にも聴いてもらってもいいと歌を販売して、たくさんの人がその歌の歌詞を知って、自分の好みに合えば好きになり、褒めるが、自分の役に立っていなければ褒めはしない。
その歌詞は恋人や元恋人に対して思っていることを言っていても、歌詞が役に立った人からしたら、自分に向けた歌詞ではなくても、いい気持ちになり
高評価するのだ。あいさつでも、自分があいさつ返させたいから初めに誰かにあいさつして、相手が嫌々、渋々、形だけあいさつしていても
満足する人は満足するのだ。あいさつした相手の心理を分かっていなくても、分かる気がなくても自分の思い道りにあいさつ返してくれれば満足している自己満足なのに、社交やコミニケーションなどと言えばカッコが付くのだろう。

歌手の宇多田ヒカルが漫画家の人と対談していた雑誌の記事を誰がかブログに出していたのを読んだことがあるのだが、宇多田ヒカルのFirst Loveという歌を結婚式で使った人がいることについて、一字一句はっきり覚えていないが、宇多田ヒカルが自分にとってネガティブなものが、
ポジティブに捉えられているというようなことを言っていたと思うが、音楽も他のこともそんなものなのだ。
作詞家や作曲家が何を言いたいのかに興味がある人もいるだろうが、何が言いたいのかに全くか、ほとんど興味がない人もいるだろう。
作曲家や作詞家がどんな気持ちを歌詞や曲に込めているのかには興味がなくて、自分の好む歌ならば勝手にいい気持ちになり高評価したり、買ったりするのだ。
歌を聴くの自己満足で聴いているだけだ。
あいさつも同じようなところがあり、あいさつを初めにした人や、あいさつ返しをした人の気持ちに興味がない人もたくさんいるだろう。
色んな目的、理由から形だけあいさつをしていて、相手の心理など何も興味がない人もいるのだ。

音楽に人にとって心地いいテンポの音楽があると言っている人がいて、いくつかの歌を例に出していたのだが、曲のテンポは心地よくても、
歌詞を嫌う場合もあるだろう。曲の方は好きで心地よくても、歌詞を嫌っていたり、歌っている人を嫌っていたりなどしたら、
いい気持ちのところと、嫌な気持ちのところと両方あるのだ。同じ人間に対しても、好きなところと嫌いなところと両方あっても、
自分や好きな人が好かれているというところだけを意識したい人は自分に都合のいいように捉えて、好きと言われているところだけを強調する人もいるだろう。
その人の色んな所を知れば嫌う可能性も高いだろうけど、自分や好きな人が好かれたいだけで、嫌われたくないと思う人もいるのだ。

自己否定はダメだという人がいるが、これらの言葉も自分に都合よく自己満足で使う人もいるだろう。
例えば、あいさつで、あいさつ返しが正しいと信じている人はあいさつ返しをしない人を嫌ったり、見下したり、バカにしたりなどをしているのだが、
その人たちは自分の信じていることを否定しないことで、自分と同じことを信じていない人を否定しているのだ。
自分を否定してはダメと言っている人は、自分を否定しないことで、他の誰かのことは否定してもいいと遠まわしに言っているようなものだ。
「自分が感じたことが正しいんですよ。分かる人には人には分かるだろうけど」と言っていた人がいたが、あいさつ返しが正しいことだと信じている人はたくさんいるだろうが、自分の信じていることが正しいと思いたい人は、自分の信じていることをやる人に好意を持ったり、仲間意識を持ったりして、自分の信仰や言動が否定されないと、自分が感じたことは根拠なく正しいのだとか、自分は間違っていないと自信を深めて自己満足する。
人間は自分が可愛いくて、我が身が可愛いから、自分のことをあまり否定されたくないだろう。
自分で自分の色んなことを否定するのもダメだけど、他人からも否定されたくないと思っている人が、自分が間違っていると思うことをやった人などを否定しているのだ。
他人の何かを否定していることを本人に直接言ったか、言っていないかの違いで、誰か他人を否定しているのは同じことだ。

スピリチュアルが人気があるところがあるのは、スピリチュアルの人が自分の心で思っていることが現実になるとか、あなたが感じたことが正しいなどと言うことを言っていたりするので、普段から自分が正しいと信じていて、自分の思い道りにしたい人は自分の背中を押されたと思ったりして、
自分に都合のいいことを言っているところがあるから、スピリチュアルは人気があるのだろう。
自分のお思い道りになってほしいのだから、スピリチュアルの人が、こうすれば願いが叶うと言っていていることを半信半疑や断定的に信じたりするのだ。
自分の思い道りになったのが、自分が願っていたから現実になったと思いたければそう思うのだ。
自分が思いたいようにしか思わない自己満足なのだ。同じことでも信じる人は信じるし、信じない人は信じないのだ。

 

 


脱金社会 金でやっていく世の中は不正だ4

2023年05月07日 | 脱金社会

 

17.隠されている信仰心

 

自分が正しいと信じていることを「宗教」という言葉で言い表すならば、
多くの人は「例外あれど、大勢が信じていることや大勢がやっていることは正しいことである」と信じてるだろうから、
大勢が正しい宗教、大勢宗教、多数派宗教の信者であり、教祖とも言える。

自分が信じていることが正しいということを「宗教」という言葉を使って別の言い方で言えば自分宗教、自分教、自分が正しい宗教という感じだ。
みんな自分という国の王様なのだ。
多くの人は、宗教の押し売りはしたらダメだけど、宗教と言われていない決まり(ルール)の場合は押し付けてもいい場合と
押し付けてはいけない場合があると思っているだろう。

値段ついてるものに金払わなかったり、税金、年金払わなかったり、学校行かなかったり、給料や印税という形で金を貰っていないことなどを間違っていると思っていたり、逃げていると言う人がいるのも、
自分の信仰心から外れることをしている人が気に入らなくて、自分が正しいと信じているからだろう。
大勢と同じことをしている人は例外あれど正しくて、常識人、普通の人、などという言葉で言い表して良く言ったりする。
大勢と同じことをやっている別の理由は「長いものには巻かれろ」で立場の強い者や勢力の強いものには逆らわずに従ったり、
合わせておいた方が無難だということだろう。

本当はやりたくなかったり、正しいと信じてないけど、大勢と同じことをしたり、周りの人と同じことをした方が、嫌われたり、嫌がらせされたり、悪態つかれたり、不満を言われたり、逮捕されたり、
税金Gメンから差し押さえをされたりする可能性や危険性が低いから大勢と同じことをしている人もいるだろう。
今後の人との関係に支障をきたさず、嫌われて攻撃を受けないための処世術、うまく生きていくための生存戦略でもあるのだ。

例外あれど人間は自分の思い道りにしたいと思っているだろうから、自分の思い道りにならなかったら、不満を持ち、腹立てたり、怒ったりして、不快になり嫌な気持ちになる。
自分が正しいと信じていたり、自分可愛さ、わが身可愛さがあるから、
自分の思い道りにならなかった原因や理由を他人のせいにしたり、自分以外の何かのせいにする場合がある。

あいさつされたいのにあいさつされなかったことに不満を持つ人が、
例外あれど、不満を持って不快になったことを、自分を問題視しすることはなく、あいさつしなかった相手のせいにして、不満を言ったり、悪態ついたり、攻撃したりするのも、不快になるのを人のせいにしているからだ。

仕事をすることを、社会貢献、人のため、自分を表現するための手段、人に愛を与えるための手段などという人がいるが、カッコ付けた言い方をして綺麗事を言っていて、金でやっていく世の中を正当化したいのだろうが、
本当に全ての人の生活の面倒とかをみたり、色んなことをみんなで助け合っているのだったら金など要らない。
金でやっていく世の中自体がおかしくて、変で間違っていて、不正なのだ。

戦争、戦が人のためだったなどと言っている人がいても、実際は敵軍や同民族のことも攻撃して、排除しているので、人のためにと言ってる言い方もおかしいのだ。
あいさつを「常識、社会のルール、人間のルール、人間の基本、当たり前、マナー、モラル、コミ二ケーションのツール(道具)」など言って美化して、綺麗事を言って、カッコ付けた言い方をしたがる人がいるが、実際はあいさつのルール(決まり)は人によって違うし、みんながあいさつを正しいとは信じていないし、あいさつする動機、目的など人によって違うのだ。
みんなを仲間だと思っていたら金でやっていく世の中など要らないし、あいさつも、例外除いて、大切ではない人、どうでもいい人、関わる気もない人にやっている場合が多いだろうから、みんなを仲間だと思っていたり、大切な人なら、あいさつしなくなる人の方が多いだろう。

「赤信号みんなで渡れば怖くない」など言ったりするが、「正しくないこと(不正)も、大勢でやれば怖くないし、間違ってない」などと
多くの人が思っていそうだ。
ネットで調べたところによると、日本の法律では歩行者、自転車が赤信号を渡って信号無視するのは道路交通法違反で罰金又は科料(懲役)になるらしいが、実際は警察に見つかっても、ほとんどは罰金にも懲役にもならないだろう。
日本人のほとんどの人は法律の一部を信じていて、その法律に従わない一部の人に不満を持ち、例外あれど、刑法違反した人を逮捕させても、自分たちは同じ法律の中の道路交通法は原則道りに守っていなかったり、
ほとんどの法律を知りもしないし、知る気もなく、いい加減、適当に法律を利用しているのだ。
「苦しい時の神頼み」のような言い方をすれば、「都合のいい時の法律頼み」みたいな感じだ。
こういういい加減で適当で、変な差別してる人たちが普通の人や、まともな人などと良く言われているのだ。

昔、物事が正しいのかウソなのかを判断するためや、善悪を判断するのに、神明裁判(しんめいさいばん)、神判、盟神探湯(くかたち、くかだち、くがたち)と言われているものをやっていたみたいだが、
今でも日本人も日本人以外も同じようなことをやっているとも言える。

 

 

以下の文章は、ウィキペディアの神明裁判から一部を引用しました。


 

「神明裁判(しんめいさいばん)とは、神意を得ることにより、物事の真偽、正邪を判断する裁判方法である。古代、中世(一部の地域では近世まで)において世界の各地で類似の行為が行われているが、その正確な性質は各々の神、宗教によって異なる。ヨーロッパでは神判[注釈 1](Trial by ordeal)、日本では盟神探湯(くがたち)が行われた。」


「神明裁判」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』
ウィキペディアの神明裁判へのリンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%98%8E%E8%A3%81%E5%88%A4
2022年8月1日 (月) 08:17 UTC


ウィキペディアの神明裁判からの引用はここまで。

 

 


以下の文章は、ウィキペディアの探盟神湯から一部を引用してます。


「探盟神湯(くかたち、くかだち、くがたち)は、古代日本で行われていた神明裁判のこと。ある人の是非・正邪を判断するための呪術的な裁判法(神判)である。探湯・誓湯とも書く。 概要 対象となる者に、神に潔白などを誓わせた後、探湯瓮(くかへ)という釜で沸かした熱湯の中に手を入れさせ、正しい者は火傷せず、罪のある者は大火傷を負うとされる。毒蛇を入れた壷に手を入れさせ、正しい者は無事である、という様式もある。あらかじめ結果を神に示した上で行為を行い、その結果によって判断するということで、うけいの一種である。」

「盟神探湯」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』
ウィキペディアの盟神探湯へのリンクhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%9F%E7%A5%9E%E6%8E%A2%E6%B9%AF
2022年8月19日 (金) 10:03 UTC

ウィキぺディアの探盟神湯からの引用はここまで。

 

 

「自分が正しい」と思っていることを神という言葉で言い表せば、みんな自分のことを神だと思っているところがあるとも言える。
自分が正しいと思っているところがあることに根拠や裏付けなどなくても、自分が思ったことが正しいと思っているところがある。

裁判所で裁判官が判決しなくても、普段から自分が色々なことや人間について、勝手に色々決めつけて生きているのが人間だろう。
盟神探湯(くかたち、くかだち、くがたち)で「毒蛇を入れた壷に手を入れさせ、正しい者は無事である」というおかしな信仰と同じようなことは今でもやっているのだ。
例えば、犬に吠えられたり、噛まれた人は悪い人であるとか、子どもから嫌われた人や食べ物などは悪いものであるとか、
子どもが感じたことは正しいと信じている人とか、大勢がやっていることや大勢が感じていることが正しいと信じている人とか、
あいさつをされたら、あいさつ返しをすることが正しいとか、
誰かから嫌だと思う言動をされたのは、その言動をとられて嫌がった本人に原因があるなどと信じている人がいるようなことや、それ以外のことでも、
自分が感じたことが正しいという根拠や裏付けがなくても勝手に正しいと信じているのだ。
壺の中の毒蛇が、犬や子どもや大勢に代わったようなもので、盟神探湯(くかたち、くかだち、くがたち)と同じようなことは今でもやっているのだ。

みんなが裁判官の判決を正しいとは信じてはいないし、みんなが同じ法律を信じてはいないのだ。
裁判でいえば、職業上の裁判官が神みたいになっていて、
被告人や容疑者などと呼ばれている人や、裁判官以外の人が裁判官の判決を正しいと思っていなくても、裁判官の判決に従えという強制をしている。
裁判官が変われば同じことでも判決は変わるのだから、いい加減なことをしているのだ。

盟神探湯(くかたち、くかだち、くがたち)の「毒蛇を入れた壷に手を入れさせ、正しい者は無事である」という変なおかしい信仰の毒蛇が、今では裁判官に代わっただけだ。
神明裁判(しんめいさいばん)の「物事の真偽、正邪を判断する」というのを人間の裁判官がやっていて、裁判官が神のようになっている。
正しいとか正しくないなどの信仰は人によって違うのだ。善も悪もないという人もいる。

値段のついてるものに金を払わないとか、税金、年金を払わない人を社会のクズとか、ダメ人間とか言ったりして悪く言うのは、
大勢と同じことをしていないからとか、法律の一部が正しいと信じていて、刑法や税制や年金制度が正しいと信じているのは、盟神探湯(くかたち、くかだち、くがたち)で「毒蛇を入れた壷に手を入れさせ、正しい者は無事である」という信仰の毒蛇が大勢や法律に代わっただけだ。

「社会が許さない」という人がいる。この言葉に隠している意味も「大勢が許さない」と言いたいのだろう。
大勢や法律の一部が正しいと信じているのも、そう感じている自分が正しいと言いたいのだろうから、実際は「私は大勢や法律の一部が正しいと信じている」という言い方よりは、「自分が感じたことが正しいと信じている」と言った方がいいだろう。
人間は自分が正しいと信じているのだ。自分が感じたことがすべて正しいとは思っていなくても、自分の感じたことは正しいところがあると思っているのだろう。

 

 

以下の文章はウィキペディアの神明裁判の一部を引用しました。


「神判とは 中世ヨーロッパ国家には捜査とか取り調べといった治安維持をつかさどる組織はほとんど存在せず[注釈 3]、告発された者の有罪無罪を判断する方法は限られていた。神判は、神の奇跡をたよりに真実を知る方法であり、当時の民衆から支持されていた裁判方法である[5]。」
「水審による神判を受ける人。司祭が口上を読み上げ、手足を縛った被告を水に沈める。沈んだままなら無罪、浮かべば有罪である[注釈 2]。」

「神明裁判」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』
ウィキペディアの神明裁判へのリンクhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%98%8E%E8%A3%81%E5%88%A4
2022年8月1日 (月) 08:17 UTC

 


ウィキペディアの神明裁判の引用はここまで。

 

西洋の神判という裁判で水審というのがあったみたいだが、手足を縛って水に人を沈めて浮かんだら有罪で、沈んだままだったら無罪だという信仰があったみたいだが、今だったらほとんどの人は、こんな水審など信じないだろう。
神判というのが当時の民衆から支持されていたというが、今も日本でも日本以外でも、大勢が信じていることや、大勢がやっていることは
正しいことであると多くの人から支持されている。
金でやっていく世の中が正しいとか、あいさつ返しが正しいことだとか、刑法違反で逮捕することはやってもいいとか正しいとか、
子どもは学校に行くことをしなければいけない、学校に行くのが正しいことであるとか信じている人がたくさんいるのだ。
昔も神判が民衆から支持されていたというのは、大勢が正しいと信じていたり、納得していることはまかり通らせてもいいと信じている人がたくさんいたのだろうが、神というのが大勢や多数派になっているのだ。それを言葉ではっきり言わないだけだろう。
普通の人や一般人などという言葉で多数派の大勢のことを言い表しているが、普通の人や一般人などと言われている人が神のようにされて素晴らしいものとされているところがあるのだ。
昔も今も、色々と言葉の言い方を変えているだけで、根拠や裏付けがないことを正しいことや真実として勝手に信じていて、
同じことを信じていない人にも自分の信仰心を押し付けている。
あることが正しいか、正しくないかの判断は、大勢がやっていることや大勢が正しいと信じていることが正しいことだと信じているところが多くの人にあり、そう信じたければ、それが正しいと信じるのだ。

あいさつ返しを正しいと信じている多くの人は、数少なすぎる人に初めにあいさつしてきたら、あいさつした相手がみんな百発百中でオウム返しをしてきたから、あいさつ返しは正しいし、人間はみんながあいさつ返しをしなければいけないと無意識、意識的に思ったのだろう。
大勢と同じことを感じていることが嬉しかったり、安心だったり、一部のことにおいて仲間だと思われたいと思っているところがある人もいるだろう。

例外あれど、人は大勢の人から嫌われたくないだろうし、嫌われることで不満を言われたり、悪態つかれたり、身体暴力を振るわれたり、
影から嫌がらせをされて攻撃されるのも嫌だろうから、そんなことされないためには人が嫌がる言動を取らないようにしたり、人が嫌がる外見をしないようにしたり、体臭に気を使ったりして、本当はやりたくないことや、正しいと信じていないことを嫌々、仕方なくやってる人もたくさんいるだろう。
そのやりたくないことを渋々、嫌々やっていることを誰かは、気を使ってる、人に合わせた、やらされてる、付き合いだから、などと言ったり、
大勢の人がやっていることを、常識、社会のルール、人間のルール、人間の基本、当たり前、マナー、モラルなどと言っている。

人は言葉の定義、意味付けが通じていない所があるのに、
多くの人は、全ての言葉の定義が自分と同じだとは思っていなくても、ほとんどの言葉の定義が自分と同じだと思っていそうだ。
常識、社会のルール、人間のルール、人間の基本、当たり前、マナー、モラルなどの短い言葉を使い、はっきり具体的に言わなくても
その言葉に付けている自分独自の定義、意味付けを分かってくれて当たり前だと思っているところもあるだろう。

同じ発音だけど別の言葉で、言葉の定義も違う言葉を同音異義(どうおんいぎ)と言うが、同音異義以外の言葉でも、同じ発音で同じ言葉ではあるけど、その言葉に付けている定義、意味付けが違ったり、
同じ文章、歌詞などに対する意味付け、解釈は結構違う場合が多いと思うが、誰でも人によって思ってることや、言葉などの定義、意味付けが違うことにあまり気づいていないところもあるだろう。
具体例で言えば「常識」という言葉の定義は人によって違い、
「人として正しい決まり(ルール)だから、みんながこの決まり(ルール)を守らなければいけない」という定義の人や
「大勢がやっていることを常識と呼ぶ」という定義の人、
「正しいことではないけど、大勢がやっていることはやらなければいけない」などの定義、意味付けをしている人がいると思う。
常識には必要な常識と要らない常識があると言っている人もいた。

多くの人は「常識、社会のルール、人間のルール、人間の基本、当たり前、マナー、モラル」などの言葉に隠している意味は、
「自分が信じていることが正しいから、自分の思い道りの言動を取ってほしい」と思ってるのだろう。
そして、思い道りの言動を取らないと不満を持つのだ。
人を自分の思い道りにしたがっていたり、根拠や裏付けはないけど自分が感じたことが正しいと色んなことを信じていて、その信仰を全くか、ほとんど他の人に言っていないのは、信仰の闇、心理の闇というような感じだ。誰が何を信じているのか分からなくて謎だから闇なのだ。

人間は人によって言葉の定義の信仰や、それ以外でも色んなことに対する信仰や、感じていること(思っていること)が違う場合があると頭では分かっている人はたくさんいても、実際としてはあまり分かっていない感じがする。

みんなが金でやっていく世の中を正しいとは信じていないことを知らない人がたくさんいるのだ。
みんなが法律を正しいとは信じていない。法律を信じている人も法律の一部を信じているだけで、ほとんどの法律など信じてないだろうし、
ほとんどの法律を知らないだろうし、知る気もないだろう。

金でやっていく世の中を正しいことだと信じて正当化する人達は、美化して綺麗事で社会貢献、人のため、助け合いなどと言うだろうけど、
本当にみんなで助け合っていたら金など要らないのだ。
でも、みんなで助け合いをしていないこの人類で生きていくには、金でやっていく世の中を正当化させないと、生活費、光熱費を払わないと生活していけないし、欲しいものを買うのにも金が必要だったり、色んなことに金が要る。
多くの人が給料を貰いに行くような仕事をしている動機、目的は金を貰うためにやりたくないことをしているのだろう。
給料や印税という形で金を貰っている人のことを、人の役に立っているなどと良く言って美化しても、金でやってく世の中で大勢の人が苦しんでいる。

大勢と同じことをしていなくて、値段ついているものに金払わない人や、年金、税金を払わない人を敵視して、悪く言ったり、
例外あれど、給料や印税という形で金を貰っていない人を敵視したりして悪く言うのは、少数派狩り、少数派叩きをしているのだ。
戦争と同じで、人のためにと言っていても、敵軍のことも同民族のことも攻撃しているのだ。

もし、大勢の人が値段ついているものに金を払わなかったり、税金、年金を
払っていなかったり、金でやってく世の中が間違っている、おかしいと信じる金非信者だったり、金払わないことで逮捕する法律がおかしいと思っているなら、金信者も大勢と同じ人間だと
思われたい人が多いだろうから、金を払わないことに不満があっても、不満は言わなくなるか、金信者も金非信者になると思う。
例外あれど、多くの人は正しいことは、大勢と同じことをすることだと信じてるだろうから、大勢がやっていることが正しいと信じて、大勢の多数派の方を支持するだろう。

覚醒剤をやってたり、所持してると覚醒剤取り締まり法で逮捕になるが、何のために逮捕してるのか?
健康にいいと言われてる食べ物も、一方で体に悪いとか言われてたり、
体にいいと言われている食べ物や飲料も食べ過ぎるとよくないとか言われていたりしても、法律で規制されていないので逮捕にはならない。
酒で体がおかしくなったりしても、酒を飲んだり、販売したり、買うことでは逮捕にはならない。
精神科で処方される薬を「自殺衝動がおきる」とか「向精神薬は覚醒剤と同じ」など言う人もいるが、覚醒剤取締法みたいなものがあるわけではないので、精神科の薬を飲んで心身不調になっても、薬を飲んでいる人や、薬を処方している人や、薬を作っている会社の人は逮捕にはならない。

覚醒剤で心身が不調になっている人がいたら「廃人」とか「ダメ人間」とか呼ばれて、劣っている人間や低俗のように言う人がいても、
精神科で処方される薬で心身不調になっていてもあまり悪くは言われない。
同じように心身不調になっていても、逮捕されるようなことなら悪いことや、おかしいと思い、逮捕されるようなことではなかったらおかしいとは思わない人もたくさんいるのだろう。
法律の一部が正しいと信じて、誰が作ったのかもあまり分からないような法律という決まり(ルール)の一部を信仰する大勢の人達。
覚醒剤で心身がおかしくなると思っている人もいるのだろうが、覚醒剤をやっていなくても心身がおかしところなど誰にでもあるだろう。
金でやっていく世の中自体がおかしいし、それを信じている人もおかしくて、間違った信仰を持っているのだ。

精神病とか、心の病などと言われているものを、みんなが信じているわけではない。
一部の人が、おかしいと思う言動を取った人を精神病や人格障害や心の病などと言っていて、心、精神に病気があるとして、色んな病名を付けて
それを信じる人は精神病があると信じているのだ。精神病も信仰なのだ。

誰かが日本人のことを、子どもの時からたくさん否定されていて自分に自信がないと言っている人がいたが、この人の言っていることは間違っている。
日本人は自分の信じていることや言動を否定されても、自分が正しいと信じているところがある。
子どもの時から親や先生や大人や他人の信じていることや生き方を、正しいとは信じていないところがあったり、バカにしたり、否定しているところがあったり、他人の言うことを聞かないところがあるのが日本人だろう。

日本人は自分が正しいと信じていることをやらない人に不満を持ったり、嫌がらせをしたり、刑法違反なら逮捕させたりするようなこと
をしているのに、日本人は自分に自信がないなどと言う人がいるのだ。
自分の感じていることが正しいのか、そうではないのか、どちらか分からないと思って自信がないところがあるのは日本人も日本人以外も同じだろう。
一方で根拠もない自信を持っているところが誰にでもあるだろうに、日本人が根拠もなく自信を持っているところがあることは言わずに、
自信がない方を持ち出して、日本人は自分に自信がなくて、自信がない理由は他人のせいで、他人が褒めたりとかして良く言わなかったからだ
と思っている人がいるのだ。

人間として、あれはやったらダメで、これはやっていいとか、いい人はやってもいいけど、悪人はやったらダメなどと勝手に根拠もなく自分が感じたことが正しいと信じているところが日本人にはあるのだ。
金でやっていく世の中や、あいさつ返しは正しい、人を逮捕することもやってもいいことだと勝手に信じている人が日本人にはたくさんいるのに、自分に自信がないなどと言っているのだ。
根拠はないけど自分が感じたことが正しいと勝手に感じていて、その自分が感じたことと同じことを感じている人がいると、
より自分が正しいと自信を持つ人が多いだろう。
自分が正しいと根拠もなく信じているのに、自分の感じたことを否定されたり、止められると不満を持ち、他の人にどう思うのかを聞いて、一人でも自分を肯定する人がいたら、自分が感じたことが正しいのだと安心して、自信を持つ日本人もいるだろう。

自分に自信がないから、子どもや大勢が信じていることや、やっていることの方が正しいと感じて信じているところがある人がいるが、
そういう人は自分に自信がないのではなくて、逆に自分の感じていることに自信があるから、子どもや大勢が感じていることの方が正しいと信じているのだ。例えば、日本人の多くはイスラム教やキリスト教や、宗教と言われているものを信じていない人が多いだろうが、そんな人たちも、金でやっていく世の中や、あいさつ返しは正しいし、やらなければいけなことだと信じている人がたくさんいるのは、自分が感じたこと、信じていることは根拠もなく正しいと信じているところがあるということなのだ。
自分に自信がないというのは一部のことに自信がないと思っているだけで、他のことには自信を持っているのだ。

日本人の中に大勢と同じことをしないことに不満を持つ人がいるのも、大勢と同じことをすることが正しいと信じているのに、
それをやらないから間違っていることをしていると思って不満を持ち嫌う場合と、自分が嫌々やっていることと同じことをやらないから、羨ましさや、妬みなどで不満を持っている場合や、
元々嫌っている人だから不満を持っている場合などがあるだろう。
なんにせよ、自分の思い道りになっていないことが気に入らないのだ。

自分のやりたことや、信じていることををまかり通らせてやっている理由を、他の人がやってもいいと言ったからやったとか、
他の人に指示されたからなどと言っている場合があるが、他の人がやっていいと言っても、やらない場合もあるのに、
やった本当の理由は隠している場合が多いのだろう。

法律やそれ以外の決まりがたくさんあることを日本人は知っていても、詳しく知ろうとはしなかったり、知っている決まりのほとんどを守っていなかったり、守っていても原則どうりには守っていなかったりなどして、
ほとんどの決まりを正しいとは信じていないのは分かり切っていることだ。
一部の決まりを正しいと信じて守り、その決まりを他の人にも守らせようとしているところが日本人にはあるのだ。
あからさまに他人に自分の信じていることを押し付ける場合と、内面で不満を持っているだけの場合と、影で本人以外の人に不満を言ったりなどしていて、不満の表し方が違うだけだ。
自分が感じたことが正しいと信じているところがあるのに、正しいと思うことをしない人に疑問や不満を持っているところが
日本人にはあるのだ。

 

 


脱金社会 金でやっていく世の中は不正だ3

2023年05月07日 | 脱金社会
目次
第1章から第8章へのリンク
第9章から第10章へのリンク
11.大勢と同じことをしていたら無難だと思っている人が多そう
12.多くの人がやっていることのほとんどはやりたくないことだろう
13.言葉という変なもの おかしい変な基準 おかしい変な法律
14.全ての人に対して愛があるのなら金でやっていく世の中など要らない
15.2人のサッカー選手に見る日本人の独裁的、支配的さ
16.見下している人やバカにしている人、おかしいと思う人について言い表す言葉
第17章へのリンク
第18章から第19章へのリンク
第20章から第24章へのリンク
第25章から第29章へのリンク
第30章へのリンク
第31章へのリンク
第32章から第34章へのリンク
第35章から第39章へのリンク
第40章から第41章へのリンク
第42章から第45章へのリンク
第46章へのリンク
第47章へのリンク

 

11.大勢と同じことをしていたら無難だと思っている人が多そう

 

私がごみを捨てに行くゴミ捨て場は、檻みたいなゴミ捨て場でカギが掛かっている。
燃えるごみは火曜と金曜の週2回で、資源ごみと埋め立てゴミは、それぞれ月に一回ずつあって、
ゴミ当番がゴミの日の前日の夜6時から8時までにカギを開けに行かなければいけない決まりがあり、
ゴミ当番は一回やると次の当番にカギを渡しに行く決まりになっている。
こんな決まりいらないと私は思うが、何のためにこんな決まりを作っているのだろうか?
火曜の当番が、翌日が資源ごみだった場合に火曜にカギを閉めて、次の当番にカギを渡しに行ったら、
その日の夜にはカギを開けないといけないのに、何のためにゴミ捨て場を閉めないといけないのか?
カギを閉めずにずっと開けておけばいいことだ。
ゴミ捨て場の中にあるバケツや、ほうきなどを誰かに取られるかもしれないという理由でカギを閉めるようにしているとするのならば、ゴミの日や、その前の日などは開いている時もあるわけだから、なんでゴミ捨て場を閉めるのか?

 

もし、当番の人がカギを開け忘れていたり、開けに行くのが面倒だからなどの理由でカギを開けなかったら、開けなかった人が不満を持たれて、「地域のルールを守れ。人に迷惑かける」とか言う人が絶対にいるだろうが、ゴミ捨て場の決まり(ルール)を作った人や、その決まりを正しいと信じている人や、その決まりを嫌々守っている人を問題視したり、おかしいと思う人はあまりいないだろう。
ゴミ捨て場の決まり(ルール)だけではなくて、他の決まりでも同じことだ。
大勢がやっていることは問題視されにくく、大勢と同じことをしない人は変は目で見られたり、問題視されやすい。
 
同じ日本でもゴミ捨て場事情など全然違うのだ。私が大阪に住んでいた時に、いくつかのマンションに住んでたが、ゴミ当番なんてなかったし、ゴミ捨て場にカギなど掛かっていなかった。
日本人は人の気持ちが分かるという人もいるが、あまり人のことを分かっていないだろう。

 

ゴミ捨て場にカギが掛かっていて当番が開けなければいけない決まりを、やる必要がないと思っていたり、嫌がったり、面倒くさがっている人はたくさんいるだろうが、町内会の上の人にカギを掛けなくてもいいのではないかと言っても、自分の言い分が通るかどうかも分からないし、町内会の人やそれ以外の人から不満を持たれても嫌だから言わない人もいるだろう。
ある集団の中で、上の立場の人や、それ以外の人が決まりを決めて、大勢がその決まりを守っていると、決まりを守らない人の方が不満を持たれやすく、ほとんどの人が決まりを守っていなかったら、守っている人の方が奇異な目で見られたり、バカにされたりする場合もあるだろう。
少数派の方が変な目で見られやすいのだ。
自分が属している集団で大勢が守っている決まりや、権力者や立場の強い人の決めたことの場合はその決まりを正しいと信じていなくても、決まりを守っていた方が無難だと思っている人が多いのだろう。
年金や税金を払うことを正しいと信じていなくても、税金Gメンが強制で差し押さえをしに場合があるから、法律や権力者側の方に嫌々、渋々合わせて従うようなことをしたり、誰かから不満を言われたくないから形だけ信じていない決まりを守っている人もいるだろう。



12.多くの人がやっていることのほとんどはやりたくないことだろう

 

多くの人がやっていることのほとんどはやりたくないことを色んな理由でやっていると思う。
やりたくないことをやっている理由は次の文書に書いたような理由だと思う。
・本当は給料を貰うような仕事をやりたくないけど、金がないと自分や家族の死活問題だから嫌々、給料貰うような仕事をしている。
・本当はあいさつを正しいと思ってないから、やりたくないけど嫌われたくないからやっている。
・本当は値段ついてるものに金を払うことを正しいとは思っていないけど、逮捕されたくないし、自分や家族が嫌われたり、
嫌がらせされたりして、攻撃されるのが嫌だから金を払ってる。
・本当は町内会費を払いたくないけど嫌々払ってる。
・本当は嫌いな人と関わりたくない、会いたくもないけど、関わらないと給料という金が入ってこなかったり、不満を言われるのが嫌だから嫌々関わってる。
・本当は葬式、法事に行きたくないし、行くことを正しいとは思っていないけど、嫌われたくないから、大勢と同じ人間だと思われたいから行っている。
・本当は税金払いたくないけど、税金Gメンの差し押さえが嫌だから払っている。
・本当は年金払いたくないけど、老後のために嫌々払っている。
など、本当はやりたくないのに、なんで嫌々やったりしているのかの理由は、
人から嫌われたくない、嫌われることで嫌がらせされたりして攻撃されたくないとか、
自分のことを大勢と同じことをする普通の人や常識人だと思われたいからなどの理由が多いだろう。

今までは権力者や多数派に合わせる人が多かった時もあるが、これからは権力者や多数派に合わせることはあまりなくなるだろう。
今までの時代の中には長年、権力者などの立場が上の人や多数派に色んな理由から合わせて従う人が多かっただろうが、今後は、そういうことが少なくなってきて、例外あれど、自分の本当の信仰心を隠さずに出したり、自分の本心、本音を出す人が増えるだろう。

自分の信仰心や本音を隠さずに外側に出して大勢と同じことをしていないことに不満を持たれて、悪く言われて低評価、悪評価される場合は、わがまま、勝手、人のこと考えていない、自己中心的、一人でも嫌がることは今すぐやめさせろ、犯罪者、罪、変人、変わっているなどと言われたりするが、
自分の信仰心や本音を隠さずに外側に出したことを高評価される場合は、純粋、ピュア、自分を持っている、アイデンティティー、自主性、オリジナリティー、独創性などと言われたりする。

大勢と同じことをしていなくても、自分や大勢の人から役に立っていることや、尊敬されて上に見られていることならば許されやすいだろう。
今までは大勢と同じことをしていないと変な目で見られたりバカにされやすいところがあったが、
今後は例外あれど、大勢と同じことをしていない人が今までほど変な目では見られなくなると思う。
今後はよほど気に入らないことをしていたり、よほど嫌いな人や見下している人などでない限り、今までよりも個人が尊重されやすくなるだろう。

テレビでSNSに誰かが書いていることがテレビに出ていて、土産物返す文化がなくなってほしいと言っている人がいた。
この人は土産物を返すことを正しいと信じていないのに、嫌われたくないからとか、大勢と同じ人間だと思われたいとか、変わっているとか思われたくないから、嫌々、形だけ土産物を返しているのだろう。他の人も同じ理由で渋々、嫌々何かを返している人もいるだろう。
土産物を返すことを文化という言葉で言い表す人もいるのだ。日本人がお風呂に入ることも文化と言っている人がいたが、これらのことを文化と言っている人は、土産物を返している人や風呂に入っている人の心理や信仰心、動機には触れていないのだ。
大勢がやっていることを文化という言葉で言い表していて、人の内面については言っていない。
あいさつ返しを大勢がやっていることを、社会のルールやコミニケーションなどと言う人も、あいさつしている人の信仰心や心理、動機には触れていない。
土産物を返すのが嫌だったり、あいさつ返しを正しいと信じていなかったりして、やりたくないなら、やらないことも出来るが、本音や本当の信仰心をまかり通らせると嫌われたり、嫌がらせされたり、逮捕されたりなどしたくなくて、相手の望んでいそうなことに合わせたり、大勢と同じことする場合があるのだ。
大勢の人がやっていなかったり、特に自分の身の周りにいる人がやらなくなったりすると、今まで嫌々やってきたことも堂々とやらなくなる人が多いと思う。
例外として、大勢は大勢でも、人類全体の中の大勢はやっていなくても、自分が属している少数の集団の中で少数派だった場合、その少数の集団の中の誰かから不満を持たれるのが嫌で、正しいと信じているわけではない、やりたくないことも嫌々やる場合もあるだろう。
例えば、田舎では神社のことをやる当番があったりするのだが、多くの人はやりたくないだろうし、その決まりを正しいとは思っていないだろうが、形だけ当番をやっている人も多いだろう。どこの地域にも同じ当番の決まりがあるわけではなくても、同じ地域に住んでいる一部の少数の人から、あそこの家の人だけやっていないと不満を持たれたりするのが嫌だからやる人もいるだろう。
自分が属している集団の中で大勢と同じことをしないことで嫌われて、不満を言われたり、嫌がらせをされたりして、攻撃されるのを嫌がる人が多いだろうから、大勢と同じことをするのが無難だと持っている人も多いだろう。

あいさつも同じことで、あいさつしてきた人や周りの人に、あいさつ返さないと変な目で見られたくないなどの理由で、形だけ渋々あいさつ返していたり、通夜、葬式、法事が、自分が大勢と同じと思われたいとか、嫌われたくないとかの見栄、体裁で、亡くなった人のことを全く知らなかったり、どうでもいいと思っている人だったり、何の思い入れもない人の通夜、葬式、法事に行くことを、常識人とか、きっちりしている人などと言えばカッコが付いて、綺麗事にはなるが、
本当は通夜、葬式、法事に行きたくもないのに形だけ行っているだけの人もいるのだ。
通夜、葬式、法事に行っている人の心理には興味がない人が多いだろうし、大勢と同じことをしていれば常識的、一般的などと言われやすい。
私の叔母が「みんな株内辞めたがってる。誰も言わないから」と言っていた。株内は葬式や法事に来るが、本当は葬式や法事に行きたくなくても、形だけ行っている人もいるのだ。
あの人は大勢と同じことをやっていると思っている人に、なんで大勢と同じことをやっているのかについて興味がない人が多いだろう。

防寒対策や、防犯対策などの言い方に似せた言い方をすれば、嫌われないために何かをやったり、やりたいことをやらないのは、防嫌対策(ぼうけんたいさく)という感じだ。嫌われないため対策や、攻撃されないため対策や、嫌がらせされない対策などとも言える。
人が色んなことをやっているのも、やりたくないことを嫌々やっていることの多くは、防嫌対策だろう。

触らぬ神に祟りなしと言うが、現実生きていくのに間接的、直接的に人と関わる場合が多いだろうし、
人間以外の生物も周りにいて、自分以外の人は自分と同じ人間ではないのだから、誰かが嫌がる言動を取ったり、誰かが嫌がる外見をしていたりなどすれば、嫌われたり、その後、嫌がらせされたり、攻撃される場合があるのだから人間関係は難しい。周りに人がいて、触らぬ人間に祟りなしというわけにはいかなくて、何かをやった言動で不満を持たれる場合もあれば、無言だったり、何の言動を取っていなくても不満を持たれる場合もあるのだから。
人間は自分が可愛い、我が身が可愛いので、自分の思い道りにならないと不快になり、嫌がった相手のせいにする場合がある。
直接不満を言われたり、嫌がらせされたり、裁判起こされたりしても面倒だし、嫌だろう。
だから、相手に合わせて、嫌々従ったりして合わせたり、イエスマンになることで相手は満足して自分の信仰心や感じたことが正しいと思ったりして満足したり、嫌な思いをしないだろうが、相手に合わせた人は本当に自分が信じていることや本音、本心をまかり通らせることが出来なくて嫌な思いをしたり、不満足だろう。誰かが良い思いをすると他の人は嫌な思いをする。
多数派が優先される場合が多いだろうが、多数派が良い思いをして嫌がらなくても、少数派が嫌がったりする。

 

13.言葉という変なもの おかしい変な基準 おかしい変な法律

 

日本の法律に動物愛護法違反という、おかしい変な法律の決まり(ルール)がある。
食用(食べることを目的にしている)の動物以外の動物を殺したり、虐待したら逮捕になっても、食用の動物を殺したり、販売したり、買ったり、食べることは逮捕にならないという変な差別をしている。
食用動物を殺して食べることは虐待ではないと言っている人がいるが、変な言葉遊びしているだけだ。
人への身体暴力で、子どもを躾るために、あざができない軽い身体暴力をやることを許す人はたくさんいるだろうが、あざができるぐらいに暴力をやれば虐待などと言ったりするが、暴力をやっている点では同じだ。
似たり寄ったりのことをしていても、言葉を変えたら違うもののように見せかけている所があるのだ。

食用や食用以外の牛、豚、鶏、魚に身体暴力をやると、ひどいとか、冷酷とか思う人もたくさんいるのだろうが、食用の牛、豚、鶏、魚を殺したり、食べるとことはおかしいとは思わなかったり、ひどいとか、冷酷だとは思わない人も多いだろう。
同じように食用でも犬猫を食べたらおかしいとか、ひどいと思う人はたくさんいるだろう。
一体何を基準に冷酷とか、ひどいと思っているのだろうか?変な基準で物事を決めている人達の多くは普通の人や一般人などという言葉で言い表されている。

多くの人が色んなことを許す基準のひとつは、大勢が許していることや、大勢がやっていることは許す人が多いだろうけど。
犬猫を食べるのは大勢の感覚からズレているけど、牛、豚、魚、鶏、卵を食べるのは大勢と同じことやっているから間違っていないと思い、
食べてもいいと大勢の人が信じているのだろう。例外あれど大勢がやっていることは許されやすい。
もし、日本人のほとんどの人や人類のほとんどが、牛、豚、魚、鶏、卵を食べなかったり、大勢が肉食がおかしいとか、ひどいことしていると思っていると雑誌、テレビ、新聞などで取り上げられたら、
ほとんどの人は大勢から嫌われたくないだろうし、大勢がやっていることは例外あれど正しいと思う人も多いだろうから、多くの人は肉食をしなくなるだろうし、肉を店で売ることや、肉を買うことや、動物性のものを食べることで逮捕になる法律ができたら、逮捕されるのが嫌だろうから肉食する人はほとんどいなくなるだろう。

警察が身体暴力をした人の一部を逮捕するが、その警察の多くも肉食をしている人が多いだろうが、食用の牛、豚、鶏、魚などの動物を殺していることには逮捕はせずに、食用以外で殺したり、身体暴力をやると逮捕する場合があるのもおかしいことをしていて、えこひいき差別をしているのだ。

 

14.全ての人に対して愛があるのなら金でやっていく世の中など要らない

スピリチュアルの人で、「愛を出すとお金が入ってくる」と言っている人がいた。
愛という言葉の定義は人によって違うが、誰かのことをいい意味で思っていたり、誰かの役に立つような言動を取ったり、誰かの役に立つ外見をしていたりなどして、誰かの役に立っていることを愛と言っている感じがする。誰かの役に立っていても、自分がやらなくてもいいと思うことをやっていたり、間違っているとか、悪だと思うことの場合は愛とは言わずに、甘やかし、過保護、過干渉などと言ったりする場合がある。
赤ちゃんは愛の存在、多くの大人を癒すというようなことを言っていた人がいるが、何もしなくても、いてくれて存在しているだけで大勢の人の役に立っている人のことを愛がある人と言いたい人もいるのだ。
誰かから好かれていて役に立っているところなど誰にでもあるだろう。でもそれで誰でも金が入ってくるわけではない。
誰かの役に立っていることを愛と言い、愛があるから金が入ってきたなどと言えばカッコが付くだけだ。
大人で無職、ニートと言われている人や、子どもや年金暮らし、
天皇家の人などが給料や印税という形以外で金が入ってきているわけではないのは同じなのに、子ども、年金暮らし、天皇家の人などが給料や印税という形以外で金を貰っていることは許しても、ほとんどの大人が
給料や印税という形で金を貰うことをしていなかったら許さないような差別をしていて、ほとんどの人は価値がないか、価値が低い人だと見下している
のだろうが、例外除いて無職やニートと言われている人が給料や印税という形で金を貰うことをしていないのを許さないというのは、この人たちに愛がないとも言えるが、給料や印税という形で金を貰っている多くの人のことも、どうでもいい人だとか、見下している場合もあるのだ。

金がないとやっていけないから、自分や誰かに金が入ってきたことを美化して、綺麗事を言い、愛があるから金が入ってきたなどと良く言い、金でやっていく世の中を正当化させたいだけなのだ。
自分の役に立つものを作った人、自分の役に立つ外見をしている人の一部に金を渡しても、別の役に立った人には金は渡さない場合もあるのだから、
愛を出すとお金が入ってくるというのはウソである。
売られている商品を買っても、間違って買ったりなどして、買った後に後悔している場合もあるのに、金が入ってきたのは愛があるからだと良く言ってバカなことを言う人もいる。

給料や印税という形で金を貰うことをしている時に、自分と同じ職場の人や、自分が売っている商品を買う人に対しては褒めたり、
感謝をしている場合があるのは、自分が必要とされたいという存在意義が満たされたり、金がないとやっていけないから、自分が売っている物を買われたら、金が入ってきて自分の利益になるから褒めているわけで、自分の役に立った人を褒めているだけだ。
でも、自分の役に立っている人たちなどを良く言って褒めるのを愛や、他己愛がある、などの言葉で良く言っても、良く言って褒めた理由をはっきり言っていないのだ。
店や会社、個人が商品、サービス、物を売っても、買う人もいれば、買わない人もいるのだ。
スピリチュアルの人の本もある程度は売れていても、ほとんどの人は買っていないだろう。
その本を全ての人が知っても、ほとんどの人は買ってまで読みたいとは思わないだろう。
本を買って読んだ後に、内容に共感しないから途中までしか読まない人もいたりなどして、全部を読んでいるわけでもない。
同じことをやって金を貰える人と貰えない人がいるのもただの差別である。金を貰ってても給料や印税や年金という形で金貰っている人の方は悪く言われにくいが、例外除いて無職やニートと言われている人が金を貰うと悪評価されやすく、悪い意味で差別されている。

自分や大勢の人に給料や印税という形で金が入ってきたのは、こういう形で金が入ってきた人達に愛があるからと思う人がいる一方で、
工場で作られた食品には愛がないなどと言っている人がいたり、気に入らない値段を付けている人に悪質商法やぼったくり、この値段詐欺などと言っている人もいるのだ。

お金はエネルギーだと言っている人がいるがウソだ。内面で何かを思っていたり、何かを色んな理由でやっていたりすることをエネルギーというのならば、誰にでもエネルギーはある。金が全く入ってこない人もいれば、金が入ってきたとしても、入ってくる金額が全く違う。
エネルギーが多いからたくさんの金が入ってきたというのならば、歌手や芸能人などでたくさん金が入ってきている人が他の人よりも
エネルギーが多いから金がたくさん入ってきているとは思わない。大勢から好かれている歌は大勢から買われて、歌手にたくさんお金が入ってきて
いるのを、その歌手にエネルギーが多いからだと思う人もいるのだろうが、
エネルギーがあって何かを作って売っても、それが求められていなかったり、好かれてもいなかったら買ってもらえなくて金は入ってこない。
金でやっていく世の中という不正社会を大勢の金信者がまかり通らせていて、商売の場合、誰かから求められているものや、好かれている物を売らなければ買ってもらえずに金が入ってこなくてやっていけないような異様で異常な世の中なのだ。
商売以外でも、職場の人から嫌われて、あからさまに悪態つかれたりするので、人から好かれなければ上手くやっていけないから、同僚や客に良く思われたいために媚売りをする人もたくさんいるだろう。
本当に全ての人のことをいい意味で思っていて、全ての人に愛があるのならば金でやっていく世の中などやっているわけがない。

 

15.2人のサッカー選手に見る日本人の独裁的、支配的さ

以前、テレビに日本人のサッカー選手が2人出ていた番組を見たことがあるのだが、その番組に出ていたサッカー選手は外国のサッカーチームに属していたみたいで、外国の選手に対する不満を言っていた。「日本人は周りの人に気を遣うじゃないですか」というようなことを言っていたり、
外国の選手のことを「エゴのプレー」というようなことを言っていた。
日本人が人に対してエゴという言葉を使う場合は、いい意味で言っていない場合が多いだろうが、外国人選手に対してエゴのプレーと言っていた日本人選手は外国人選手に対する不満を持ってエゴと言ったのだろうが、
外国人の姿も自分達日本人の姿なのだ。
日本人は周りに気を使うと言っているのも、日本人の一面であり、日本人は常に周りに気を使ってなどいないし、日本人は子どもの時から人の気持ちがほとんど分からない人達だろうが、他人のことをほとんど分かっていなかったり、分かる気もないところもたくさんあるのに、人に気を使っているなどと言えば、日本人に対する綺麗事や美化にはなる。

日本人は自分に甘いと言われていたりするが、自分達日本人が他人の気持ちが分からないところがあったり、人の信仰心や気持ちが分かっても、何でも相手に合わせるわけでもないのに、日本人は周りに合わせるが、外国人はそうではないと思っている人もいるのだ。
日本人も日本人以外も他人に合わせる所はあるだろうが、他人に合わせて気を遣う理由は色々違うだろう。
日本人が一部の人や、権力者が決めた一部のことを正しいと信じていないのに従って合わせるのは逮捕されるのが嫌だったり、
税金Gメンに差し押さえされたくないから、嫌われたくないから、大勢と同じと思われたいからなどの見栄、体裁などの理由でやっていたりする場合が多いだろう。
知っているほとんどの決まりを守らなかったり、他人の要望、欲求に従わずに合わせないところがあるのが日本人なのに、
色んな理由で他人に合わせて従ったところだけを持ち出して、日本人は周りに合わせるなどと言っている人がいるだけだ。

権力者は、いかにも自分達に合わせて従えという上から目線だが、権力者だけがそんな人間なわけではなくて、国民にもそういうところがあるのだ。
日本人が自分の思い道りにしたいと思っているのに、自分の思い道りにならないと、本人のいる所や本人のいない所で不満を言ったり、嫌がらせをしたり、刑法違反なら刑法を都合よく利用して逮捕させるようなことをして、自分の思い道りの言動をやらない人を嫌ったり、見下して、不満を持つのだ。

2人のサッカー選手は、外国人選手がサッカーの練習や試合の時や、それ以外の時の言動で、同じチームの外国人選手が自分の思い道りのプレーをしなかったりなどしたことに不満を持ち、エゴのプレーとか、外国人は周りに気を遣わないなどと不満を持ったのだろう。
日本人は根拠がなくても自分が感じたことに自信を持っているところがあり、自分が正しいのになんで自分の思い道りの言動をしないのだろうと不満や疑問を持っているところがあるから、このサッカー選手達は自分に問題があるのではなくて、自分達から不満を持たれた外国人選手に問題があり、
おかしいと思ったのだろう。
日本人の中には、根拠なく自分が正しいと信じ、自分の思い道りにならない人に不満を持つ独裁的さや、支配的さがあるのだ。
日本人は自分の思い道りにならなかったことの不満を影で本人以外に言う場合が多いだろう。人に対する不満を持ったり、
言っていたりしても、謙虚、控えめなどと言われているところがある。
一部の他人に色んな理由で合わせて気を使ったと言えばカッコがついても、形だけ表面的に合わせて、後から影でコソコソ不満を言ったり、
後から不満を持っている相手に不満を言ったりしていても、周りに気を使っているなどと言って、一部の人の要望に応えたり、
一部の決まりだけを守っている日本人を良く言う人もいるのだ。

日本人が周りに気を使うと言ったサッカー選手は、周りの一部の人に合わせているところがある日本人の心理の内面の部分については言及していないのだ。
人間は自分が可愛いので、自分の好む外見の人や、自分の望む言動を取った人を褒めて高評価するところがある。
自分の思い道りの言動を取らないから不満を持つのだ。
2人のサッカー選手は外国人選手が自分の思い道りの言動を取らないことを問題視して不満を言っているが、自分達が不満を持ったことを問題視していないのだ。
外国人選手が周りに気を遣わないと不満を持つのは、自分も人に気を遣わないところがあるからだろう。
他人の決めた決まりを、断定的や半信半疑で信じて守るのは、自分がその決まりを正しいと信じているから守っているのだが、
誰かの決めた決まりや、他人の要望に合わせたのを、正しいとは信じていないのに形だけ仕方なくやった理由が、嫌われたくない、嫌がらせされたくないなどの理由でやっているのならば、他人に気を使っていると言えばカッコが付いても、自分に気を使っているとも言えるのだ。
他人を優先させたと言えばカッコが付き、優しい、思いやりなどと言われやすいだろうが、他人を優先させたと言われている人が、いつでも他人を優先させているわけがないし、自分の都合で色んな理由から他人を優先させる場合があるというだけだ。

「日本人は世界一やさしい。分かる人にはわかる。」と言った日本人の占い師のじいさんがいるのだが、ある政治家の人が亡くなったことについて、あの人は殺されるような人だというようなことを言っていたのだが、
日本人が世界一やさしいと言っていて、こんなことを言っているのもおかしいし、日本人の多くは動物を食べているだろうし、動物を食べることを嫌がっている人がいることを知っている人もたくさんいるだろうし、
イスラム教で豚を食べてはいけないと言われていることを知っていて、豚を食べているのがイスラム教の信者に対して、気を使っていないとか、
失礼だとは、ほとんどの人は思わないだろう。
一番やさしいなら、あいさつをしてほしいのに、あいさつをしなかったからと不満を持ったり、嫌がらせしてきたり、嫌ったりしないだろうが、
日本人の中には、あいさつしてほしいのにしないことで、見下してきたり、嫌う人もいるのだ。

これから人間は、他人の意見に合わせる人と、自分の本音に従う人に分かれるというようなことを言っている人がいるが、
多くの人は、他人に合わせている所と合わせていない所の両方があるだろう。
何から何まで全て自分の本音がまかり通るわけがなく、自分の本音に従った言動を取っても、刑法違反なら逮捕される場合もあり、
自分の信仰や本心が何でもまかり通るわけではない。
下らない言葉遊びをしていて、他人の意見に合わせている人と言われている人が、他人が決めた決まりのほとんどを守っていなかったり、
他人の欲求、要望の全てに合わせてはいないのだ。
本人のいる前では相手の言うことを聞いているふりをして演技をしていて、本人がいない所では言うことを聞いていなくても、
他人の意見に合わせるなどと言えばカッコが付くのだ。
正しいと信じていなかったり、やりたくないのに誰かからやれと言われたことをやったら、他人に合わせたと言えばカッコ付いて良く言われるが、
やれと言った本人のいない所では言うことを聞いていないのだから、他人に合わせていないとも言えるが、
他人に合わせたという言い方をした方がカッコが付くし、いい感じに言えるので、こういう言い方をするのだろう。カッコつけて、本音を言っていないのだ。

 

 

16.見下している人やバカにしている人、おかしいと思う人について言い表す言葉

人間の中には「常識、社会のルール、人間のルール、人間の基本、当たり前、マナー、モラル、法律」などの言葉を名目、建前にして、
自分が根拠や裏付けもなく正しいと信じていることを、
同じことを信じていない人にも押し付けて、自分の言いなりにさせて、自分の思い道りにさせたいと思っているところがあるのだ。

自分が正しいと信じていることをしなくて見下している人やバカにしている人や、おかしいと思う言動や態度の人などに対しては、
「マナー違反、モラルの欠如、非常識、常識はずれ、親の躾がなっていない、猿みたい、頭おかしい、キチガイ、DQN(どきゅん)、罪人、犯罪者、罪、世間知らず、獣、畜生、悪魔、人間の姿した人間ではない奴、低俗、低レベル、バカ、アホ、変人、変わり者、変な奴、変態、変質者、精神異常者、精神障害、人格障害、精神病、病気、気持ち悪い」などの言葉で言い表している人はたくさんいるだろう。

言葉の定義は人によって違うとはいえ「常識、社会のルール、人間のルール、人間の基本、当たり前、マナー、モラル」
などという言葉の定義、意味付けは「人として正しいこと」とか
「例外あれど、大勢と同じことをするのが人として正しいことである」とか
「正しくはなくても大勢と同じことをしなければいけない」などの定義、意味付けの人が多いと思う。

 


脱金社会 金でやっていく世の中は不正だ2

2023年05月07日 | 脱金社会

 

9.国家や権力者や法律は異常なカルト宗教で、多くの国民もそんな権力者に依存していたり、法律の一部を正しいと信じていておかしいのだ

昔、日本で国家に都合の悪いことを言ったとか、権力批判したことで特高警察に逮捕されていたみたいだ。
昔、明治時代生まれの作家の小林多喜二(こばやしたきじ)が特高警察に逮捕されて、逮捕された後に警察から拷問をされて昭和8年に拷問死しているみたいだ。
特高警察は、無政府主義、社会主義、共産主義や、国家の存在を否定する人などに取り締まりや査察などをしていたらしい。
小林多喜二は何度か逮捕されたり、刑務所にも入れられていたみたいだ。
詳しくは知らないが、小林多喜二が逮捕されたのは、国家に都合の悪い思想を持っていたり、小林多喜二が書いた蟹工船という本が不敬罪で法律違反だったから逮捕されているのだろう。

多くの人は、国家に都合の悪いことを信じていて、それを言ったりなどしていることで思想犯などと言われたりして逮捕されている人がいることを
知らない人もたくさんいるだろう。
私が30代の時に、小林多喜二以外のことをネットで調べていた時に、小林多喜二が逮捕されたり、拷問死で亡くなっていることや、
思想犯などという言葉が使われていることを初めて知ったのだ。
誰でも世の中や人間や色んなことについて、ほとんど知らない無知なのだ。

小林多喜二が恋人に書いた手紙に「闇があるから光がある。そして闇から出てきた人こそ、一番本当に光の有難さが分かるんだ。」というようなことを書いたらしい。
私がこの手紙のことを知ったのは2021年の12月21日で、2021年12月20日にいつもは見に行かないエキサイトブログのサイトに行き、
ブログのジャンルがたくさんある中でスピリチュアルというジャンルが気になったので、そこをクリックしたら、
スピリチュアル人気ランキングの中の誰かのブログで
「闇から現れる光」とブログの題名に書いてあるブログを読んだ。2021年12月21日にグーグルで「闇から光」と検索していたら、
検索結果に小林多喜二が書いた、闇があるから光があるという文章が出てきて、初めて小林多喜二がこういう文章を書いていることを知った。
誰かがブログでこの小林多喜二の闇があるから光があると書いていたことに対して「闇が有るから光が有るは間違いです」と書いていた。
同じ文章を読んでも同じことを思うわけではないし、闇があるから光があるという言葉に小林多喜二はどういう意味を込めて言ったのだろうか?
闇が有るから光が有るは間違いだと言った人も小林多喜二が言いたかった意味を分かっているのかどうかは分からない。

日本人には小林多喜二を知らない人もいるだろうし、知っていても小説家ということぐらいしか知らない人もいるだろうし、
小林多喜二が、闇があるから光があると書いている手紙があるのを見聞したことがない人の方が多いだろう。
ネットに誰かが色んなことを書いていても、ほとんどは多くの人から見聞されないだろう。不特定多数が見聞できる所に出していても、
知られていないことの方が多いのだ。多くの人もほとんどのことに興味、関心がないだろうから、ほとんどのことを調べたりはしないだろう。

逮捕されたり、刑務所に入れられていると知れば、悪いことをしたからだと思い、なんで逮捕されたのかとかを全くか、ほとんど知ろうとはせずに、
逮捕されたとか、刑務所に入れられたことがあるというところだけを持ち出して、見下したり、バカにして、蔑んだりする人もいるのだ。
多くの人はほとんどの人や物事や世の中に関心、興味がなくて、一部のことだけにしか関心がないだろう。

国家、権力者側の人や、それ以外の人達に都合が悪いことや、自分と同じことを信じていない人を逮捕したり、裁判を起こしたりするようなことは、
今も日本や日本以外の国でもやっているので、そういう意味では小林多喜二が生きていた時も、その後も同じところがあるのだ。
金でやっていく世の中が正しいと信じている金信者の多くは、金を払わない人を逮捕してもいいと信じている人がたくさんいるだろうから、
自分と同じことを信じていない人を理解する気もないところがあったり、見下したりして嫌っている点では権力者側も、それ以外の国民も同じだ。

思想犯と言われている人が国家に都合の悪いことを信じていて、その人たちが国家に都合の悪いことをしようとしていると、権力者側の警察はそれを止めようとしたり、逮捕をして、犯罪者や罪人という言葉で表すことで、自分達に都合が悪いことをしている人達に汚名を着せて悪い印象を持たせようとしているが、誰かが信じていることをまかり通らせてやったことで、
誰かが嫌がったり、迷惑したりして、不利益なところがあることを思想犯という言葉で言い表すならば、誰でも思想犯だろう。金でやっていく世の中が正しいと信じている多くの金信者は、金でやっていく世の中で大勢が苦しんでいて、金非信者や金信者のどちらも苦しむことをやっている。
あいさつについても、みんながあいさつを返すことを正しいとは信じてはおらず、あいさつを初めにしろとか、あいさつを返せという態度を取られて嫌がっている人や迷惑している人もいるのだ。
自分が正しいと信じていることをまかり通らせることで誰かが嫌がっている。
金信者やあいさつが正しいと信じているあいさつ信者は、自分の思い道りにならないことで不快なのは、自分が気に入らない言動や態度を取った人のせいだと信じている人がたくさんいるだろう。

思想という言葉の定義は人によって違うとはいえ、何かの決まり(ルール)という意味で使っている場合が多いと思う。
何かの決まり、ルールを信じているというのは、宗教や教義と言われていることと同じで、宗教と言われていなくても、何かを信じている信仰心を誰でも持っているだろう。
一般に宗教と言われている、キリスト教やイスラム教や創価学会やエホバの証人や幸福の科学などの信者の人が自分達に都合の悪い人や、
気に入らない人を部屋などに閉じ込めたり、身体暴力をやればカルト宗教や、おかしい宗教と言われるだろうが、国や法律ならカルトとは言われにくいのだ。

国家、権力者側が、自分たちに都合の悪い人間や大勢と同じことをしない一部の人を逮捕しても、カルト国家とか、カルト法、カルト法律とは言われにくいだろうし、逮捕することを正当化している国民のことをカルト国民などとは言わないのだ。
カルトの定義、意味付けも人によって違うとしても、宗教と言われている集団に属している人が、その宗教の教義を信じてやったことなどで、
おかしいことをしていると思ったり、間違っていることをしていて異常だと思うと、カルト宗教と言う人が多いだろうが、宗教と言われているものではなくても、誰かがおかしいとか、間違っていると思うことはやっているが、そのほとんどはカルトとは言われにくいだろう。

国家、権力者側はカルト国家なのだ。権力者側は法律で国民を縛り、言いなりにさせたいところがあるわけで、自分達権力者側に都合が悪いことをやると、権力者側の人は自分達の思い道りにならないことを嫌がるのだろうが、
自分達の信仰を押し付けている国民が不満を持つのはよくても、自分達が不満を持つことは許さない特権階級意識を持って、高慢、傲慢なところがあるのだ。
自分の自由は許しても、他人の自由は許さないところがある。国家や権力者側は自分達が決めた決まりを押し付けて、言うことを聞かないと
逮捕したり、牢屋に入れるような異常なことをやっているのだ。
国家、権力者側は正しくもない、間違っている決まりを押し付けている異常な宗教集団、カルト宗教なのだ。

金でやっていく世の中もカルト宗教なのだ。この金でやっていく世の中で、値段ついているものに金を払わない人や税金、年金を払わない人を見下したり、逮捕したり、税金Gメンの差し押さえをしているのも不正で異常で間違ったことをしているのだ。
あいさつしたら、あいさつ返すことが正しいという信仰を持ち、あいさつ返ししない人を嫌ったり、見下したり、嫌がらせしに来たりして攻撃しに来たりする人がいるが、あいさつもカルト宗教で異常な、おかしい宗教なのだ。大勢がやっていることが正しいと信じている人が多いから、
金でやっていく世の中やあいさつも正当化する人が多いのだろうが、これらが正しい根拠などどこにもないのだ。
正しいことで、すべきことだと勝手に信じている人が多いだけだ。
大勢と同じことをしていると、普通とか、常識人とか言われて悪くは言われにくく、金でやっていく世の中が正しいと信じていることや、あいさつが正しいと信じている人がたくさんいるのも、
一度もこれらのことに対して否定されなかったり、止められたことがないか、否定されることを言われたり、止められても、根拠がなくても正しいと信じているから、自分の信仰が間違っていて、おかしいとか異常だとは思わないのだろう。

国家、権力者側が国民を自分達の言いなりにさせたくて、国民を自分達の所有物のように思っているところがあるのだろう。
権力者側が人を同じ人間だとは思っていなくて、人に上下を付けて、ヒエラルキー、カーストがあり、国民にもそういうところがある。
小林多喜二が拷問死で亡くなったことに、誰かが「日本人は国家犯罪に甘い」というようなことを書いていたり、小林多喜二のこと以外のことでも、
日本人のことを「日本人は自分に甘い」と書いている人がいた。
日本人の中には、上の立場の人がやったことに甘いところがあり、同じことを下の立場で自分が好きでもない人がやれば許さないような差別をしている人もいる。
上の立場の人に甘いだけではなくて、多数派や好きな人にも甘いところがあるのだ。
政治家が税金から違法で金を取ったことを、コソ泥の方がましであるかのように言っていた私の叔父が天皇家が特別扱いされていることは許しているみたいだ。
天皇家関連のことに税金から毎年100億以上を取っていても、多くの人は合法だからとか、天皇家の人を上に見ていたり、
好きだからなどの理由で許して許可している人もいる。
これらのことも合法か違法の違いで、誰かが嫌がっていたり、間違っているとか、不正だと思っていることをやっている点では同じなのだ。

引きこもりや無職やニートと言われている人のことを悪く言ったり、見下したり、不満を持ったり、気味悪がっている人もいて、
この人達が何もしていないと思っている人もいるが、家の外に出て何かをしていても、小林多喜二がやられたようなことをされたり、自分が信じていること、思っていることを書いたり、他人に話していても、外に出て自分がやりたいことをやっても不満を持たれたり、逮捕されたりする場合もあるのだ。
何もやっていないと不満を持ち、何かをやっていても不満を持つ人もいるのだ。自分が気に入らないことならば何をやっても不満を持つのだ。
やらないことに勇気がないと不満を言う人もいれば、何かをやっても刑法違反ならば逮捕して、罪人や犯罪者と言って悪く言い、
刑法違反でなくても図々しい、出しゃばり、調子乗ってる、勘違いしている、おかしいなどと言い悪評価される場合もある。

昔、日本で戦国時代ぐらいの時にヨーロッパに生きていたジョルダーノ・ブルーノという人が地動説を主張していた。
地球は自転と公転していて、宇宙の中心は太陽だというのを地動説と言われていて、地球は動かなくて、宇宙の中心は地球であるというのが天動説と言われているみたいだ。
当時のキリスト教の人は天動説を信じていたみたいで、ブルーノは地動説を主張していたので火刑で処刑されたと言われている。
でも他の人は、この処刑はブルーノが地動説を主張していたから処刑になったのではないと言っている人もいる。
ブルーノは地動説以外でもキリスト教の教会制度を強く批判していたことで、火刑になったのではないかと言っている人もいる。
同時代に生きていた有名なガリレオもブルーノと同じように地動説を信じていて裁判を起こされていたみたいだが、処刑にはなっていないみたいだ。
ブルーノやガリレオが生きていた地域で立場が強かったキリスト教の人が信じていたことに否定的なことを言っていて処刑になったり、
裁判を起こされたり、牢屋に入れられている。
自分の信じていることを大勢が見聞できる所に主張しても、こういう扱いをされる場合もあるのだ。

天動説と地動説については、今も昔も人によって信じていることが全然違うのだ。
ネットの質問サイトの回答を読んでいたら、「天動説が間違っているなら、地動説も間違っている。地動説が正しいなら、天動説も正しい」というようなことを書いている人もいたし、学校では地球は自転や公転すると教えているが、みんながそれを信じているわけではない。
地球は自転、公転すると信じている人の中には、宇宙の中心が太陽だとは信じていない人もいるだろう。
私は宇宙に中心があるとは信じていないので、そういう意味では天動説も地動説も正しいとは信じていない。

みんな他人が決めた決まりや、人が言っていることの全てを信じてはいない。ほとんどの決まりを正しいとも信じていないだろう。
自分が何であれは正しくて、これは正しくないと感じたかの理由も分からないだろう。
今生きている人は地球は自転、公転していると信じている人が多いと思うのだが、それを信じている人たちが地球が自転や公転しているのを
直接見たわけではなくても、自転、公転していることが正しいと信じたいから信じているのだろう。
自分が正しいと信じていないことを信じている人をバカにしたりする時に、それが正しい根拠や裏付け、証拠を言えと言う。
裏付けや根拠がないから正しいと信じない場合がある人たちが、別のことでは正しいという根拠や裏付けのないことを断定的や半信半疑に信じていて、
それを同じことを信じていない人にも押し付けるのだ。

金でやっていく世の中や、あいさつなどがそれで、金でやっていく世の中が正しいとか、値段ついているものに金を払わないことで逮捕することが正しいという根拠などどこにもないし、あいさつ返しをすることが正しいという根拠もどこにもないが、これらを正しいと信じている人がたくさんいるから、金でやっていく世の中や、あいさつを辞めようとはしないし、間違っているとか、不正だとは思わずに自分に都合のいい捉え方をしているだけなのだ。
自分が正しいと信じたいことだけを信じて、自分が正しいとは信じていないことは信じないだけのことだ。
日本人が無宗教や無神論者という人がいるがウソで、日本人は色んなことを信じているが、一般に宗教と言われているもの以外のことには、自分達が信じていることを宗教や教義や信仰、信者、教祖という言葉で言い表さない場合が多いだけだろう。
多くの人は金でやっていく世の中が正しい宗教の信者で、あいさつ返しが正しいし、しなければいけないと信じているあいさつ信者だろう。

権力者とかの立場が強い人に逆らうと殺されたりする場合があるのは、昔から日本でも日本以外でもある。
今、同じことをやれば、おかしいとか間違っていると大勢が思うことも、昔はまかり通っていたのだ。
金でやっていく世の中も、今は世界中でまかり通っていて、たくさんの物とかサービスに値段を付けてよくて、一部のものには値段を付けてはいけないとか、税金や年金の制度が正しいと信じている人がいるが、これが間違っていることも後の時代になれば分かることだ。
今後、絶対に金がなくてもやっていける世の中になるが、徐々に金でやっていく世の中が間違っていて、金を払わない人を逮捕したり、刑務所にいれたりすることが間違いだと多くの人が気づいていくだろう。

昔から、人間には自分達と同じ信仰を持っていない人、気に入らない人に不満を持ち、嫌がらせしたり、見下したり、罪名をつけたりして、
自分たちの方が正しいと正義を気取って裁判にかけたり、捕まえたり、殺したりして排他的、閉鎖的なところがあるのだ。
誰にでもあることだろうが、本当に正しいことと、正しいと信じていることを一緒にしているのだ。
大勢がやっているから正しいとか、尊敬している人などの一目置いている人が決めたことだから正しいと勝手に正しくもないことを正しいと信じ込んでいるところがあるのだ。

私の叔母が以前、橋本元大阪知事が知事をしていた時に「給料を下げて凄いと思う」というようなことを言ったので、私がすごいと思わないと言うようなことを言ったら、「他の知事は下げてないのに下げたからすごいと思う。
知事に文句がある人は知事になったらいいと思う」という感じのことを言った。
私は知事に文句も不満も言っていない。給料を下げたことをすごいと思わないと言ったことを文句という人もいるのだ。
この叔母は、みんなが世の中や国や県などのことを、政治家や知事や市長などが決めることが正しいと信じていない人がいることを知らないか、
知っていても、自分が政治家などの上の立場の人を上に見ているから、立場が下の人は上が決めたことに逆らうなという信仰を持っているのだろう。
叔母の今までの喋っていたことを聞いていても、上から目線の高慢なところがある人だとは思っていたが、根拠はなくても自分が正しいと信じているところが叔母にはあるのだ。

みんなが金でやっていく世の中を正しいと信じていないし、金でやっていく世の中は不正だが、知事が給料を下げたことを良いことと感じ、
他の知事などと比較して、他の人は給料下げていないからスゴイなどと思うバカな国民もいるのだ。
金でやっていく世の中で多くの人が苦しんでいるが、知事が給料を下げようが金でやっていく世の中に橋本元知事も加担していて、
人が嫌がったり、苦しんでいる金でやっていく世の中を辞めようとはしていないのはおかしいとも言えるのだ。
橋本元知事のことを誰かは、橋本の独裁を許すなと言っている人もいたが、こういうことを言っている人は、知事の決めた政策とかの方に不満があったり、おかしいと思っていることを決めているから、独裁を許すなと言っているのだろう。
同じ知事に対して、日本国民が同じことを思っているわけではないのだ。
私の叔母は、以前、私が言ったことで気に入らないことがあって許せなくて、別々の日に3回、私に対して嫌味をしつこく言ってきたことがある。
人間は自分が一番可愛いので、自分が気に入らないことをした人のことは嫌ったり、不満を言ってきたり、許さなかったりするが、
自分が良いことだと思うことや、自分に都合のいいことをすると褒めて高評価したり、好きになったりするのだ。
人や物事を自分中心に捉えているだけだ。だから、叔母が知事の決めたことで誰かが嫌がっていることを知っても、自分が嫌でなければ、他の人が嫌がっていても、嫌がられている人を悪くは思わなさそうだ。

叔母の様に、政治家や知事や市長などの権力者側を上に見ていて、よほど自分が気に入らないことを権力者が決めたりしない限り、
下の立場の国民は権力者の決めたことに従わなければいけないと信じている人もたくさんいるだろう。
権力者に従わなければいけないと勝手に信じて、同じことを信じていない人にも自分の信仰を押し付けてくる信仰の押し売りをしている国民もいるのだ。
自分の言いなりなってほしいけど、自分の信じていることを一切説明しないか、詳しいことは言わずに人を自分の思い道りにさせようとしている。

白人至上主義で白人が一番上で偉いから、白人以外の人に対して、白人に合わせて従えと白人が思っていたり、言ったりすれば、
白人の人種差別という人もいるだろうが、誰かを見下していたり、バカにしていても、ほとんどは差別とは言われない場合が多いだろうが、
ただの差別なのだ。叔母が権力者側の知事に文句がある人は知事になったらいいと思っているのも、権力者という立場が上の人を、それ以外の人よりも
上に見ていて、権力者以外の人を下に見ているところがあるのだ。
自分が感じたことが正しいと思って、自分と同じことを思わない人がおかしいと思っているところがあるのだろう。
知事や政治家などは選挙で大勢の人から投票された人が選ばれるわけだが、「知事に文句がある人は知事になったらいいと思う」
と言っているのは、大勢から求められている人ではない人が知事に不満を言うのはおかしいとでも言いたいのだろう。
たくさんの人から好かれてる人や求められている人の方が、そうではない人よりも素晴らしい人で立派な人であると思っている人もいるだろう。

言葉とは、それぞれが勝手に都合よく使っているもので、自分の言葉の定義が正しいと信じているから、同じ言葉の定義を持っていない人が間違っていると思っている場合もあるだろう。日本は民主主義と言われるがウソだ。
民主主義の定義も人によって違うが、誰かの民主主義の定義は「国のあり方を決める権利は国民が持っている」というようなことを言っているが
この定義で日本を見るならば、日本は民主主義ではない。
「選挙権が多くの国民に与えられていて、政治家や知事などを国民が選ぶことが出来るから民主主義なんだ」とでも言いたい人もいるだろうが、
国民や世の中のことを政治家や知事や市長が決めることを正しいとは信じていない人もいるのに、一方的に国民に選挙権を与えて、
国民の代表を選ばせてあげていると言いたいのだろうが、自分が投票した人が当選しない場合もあるし、政治家や知事や市長に立候補した人達の誰に対しても政治家や知事や市長になってほしいと思わない人もいるだろう。
どう見ても、国のあり方を国民のほとんどは決める権利など持っていなくて、一部の国民が政治家、知事、市長などの権力者になっているだけで、
この権力者側が大勢の国民に関わることなどを勝手に決めているだけだ。
だから、日本は独裁国家なのだ。下らない言葉遊びをしているだけで、たくさんいる国民の信じていることが何でもまかり通るわけでもなく、全ての国民の要望が通るわけでもない。日本に限らずに他の国でも同じことだ。

例えば、AさんがBさんとCさんに、それぞれ一人一人に5枚の服を持ってきて「この中から好きな服を一枚選んでいいよ。あなたに選択の自由を与えてあげる」と言ったとする。
Bさんが5枚の服の中に好きな服が一枚あって、喜んで一枚の服を選び「Aさんはやさしい。私に選ばさせてくれた」と言い、Aさんを褒めた。
Cさんは5枚の服の中に好きな服もなく、どの服も選ばなくて、「私が欲しい服を持ってきてくれなくて、Aさんは私のことを分かっていない」と不満を言っている。こんな感じなのが民主主義と言われているものだろう。
自分が政治家や知事や市長になってほしい人が当選すれば満足して、
自分が望んでいる人が当選しようが、しなかろうが、政治家や知事や市長が決めたことに満足していれば不満は持たずに、気に入らなことをしたら不満を持つのだ。
こんなことを昔からずっとやってきているのに、国民もバカで頭が悪いところがあるのだ。

昔は幕府を倒幕して別の幕府を作ったり、江戸幕府から明治政府になって、今まで政治をやっていたのを幕府と言っていたのを政府と言い方を変えただけだろう。
言葉の言い方を変えているだけで、一部の権力者が多くの国民を支配しているのは昔と変わっていない。
権力者だけが国民を支配しているのではなくて、国民も国民を支配していたり、支配しようとしているところがある。

独裁国家の定義は、国の一番上の立場の人や、一番上の人の周りにいる少数の人によって、大勢の国民に関わることを決めて、大勢が上が決めたことが気に入らなかったりすると、独裁国家と言われやすいだろうが、日本も国民の一部が選んだ権力者側の人が大勢の国民に関わることを決めていて、誰かは嫌がっているのだから、独裁国家と言われている国と同じなのだ。民主主義と言って国民に権力者を選ばせるようにしていても、
国民が色んなことを直接決めているわけではないのだから。

政治家などの権力者が気に入らないことをすれば、辞めろなどと言ったり、他の人に変えようとしてしているが、誰が政治家などの権力者側になっても、誰かは常に不満を持つだろうから、そういう意味では誰が権力者になっても同じだとも言えるのだ。
どんな人か分からない人に国民の多くも依存していて、自分達の代わりに色んなことを決めろと依存している国民もおかしいとも言えるのだ。
政治家や知事や市長に依存しないことも出来るのに、多くの人が権力者側に依存していて、自分達でやっていこうとしていない人もたくさんいるのだから。
そもそも、権力者側が色んなことを決めてやることにも金が要るわけだが、金でやっていく世の中自体が不正で間違っていて、その金でやっていく世の中を土台にして、政治をやっていておかしいことをしているのだ。権力者側も国民も間違っていて不正な金でやっていく世の中に加担しているのだ。

 

 

10.人間の裏の顔と表の顔  みんな泳がされていて、野放しにされていて、ほったらかしにされているところがある

 

私が20代前半で大阪に住んでいた時、万引きで逮捕された後、警察署に連れて行かれた。狭い部屋に連れて行かれたら、男の私服の警察がいた。
その警察は逮捕された人に名前とか聞いて事務的なことをやる係りの警察だろう。
その部屋で私が興奮して何かを喋っていたら、ガラが悪そうな私服を着た背の低い男の警察が入ってきて「お前、クスリやっとんか?」と言った。
その後、私は意識はあるが床に倒れていて、仰向けになっていた。別に演技で倒れていたわけではない。
目をつむって仰向きに倒れていたら、私の顔に細かい水が何度もかかったのだが、多分、警察が霧吹きで何度も私の顔に水をかけていたのだと思う。
警察が水を私にかけていたのは、私を見下げてバカにしているからやったと思っている。水を使った軽い暴力を警察はやってきたのだ。
その後、多分、担架でどこかに運ばれたみたいだ。
その日か、別の日か覚えていないが、私は病院に運ばれたみたいだった。
私は意識はあるが倒れている。病院から私が多分、担架で運ばれて出ていく時に、警察が担架を持っているのだろうが、「看護婦さん笑ってた」というようなことを私を運んでいる人が言った。
私が逮捕されて倒れているのは演技で倒れているフリをしていると思った女の看護師の人が私のことをバカにして笑っていたのだろう。
それを警察が見ていて、看護婦さん笑っていたと言ったのだと思う。
私は意識はあったが、演技で倒れているわけではない。

順番とか全部覚えていないが、その後、逮捕された後に連れて行かれた警察署とは別の場所に私は連れて行かれたのだと思う。
その別の場所は留置所だろう。私は寝ている時を除いてほとんど横になっていて目をつむっていた。
はっきり覚えていないが、5日だか一週間ぐらいして釈放と言われて、その場所を出ていく前の日ぐらいに一回ぐらい、出された食べ物とお茶を飲んだが、それ以外は飲み物も食べ物も飲食しなかった。

この留置所に連れてこられた時に意識はあるが倒れていた私に、そこの職員の人だと思われる人が私の服を脱がしたみたいだ。
留置所の決まりで何か武器とか持っていないか見るために服を脱ぐような決まりがあるのだろう。
留置所に来るほとんどの人は倒れていないだろうから、自分で服を脱ぐのだろうが、私は倒れていたので他の人が私の着ていた服を脱がした。
他の人が私の服を脱がした後、誰かが「お前も女だったんだな」とか「妊娠しているのに」というようなことを言っていた。
私の外見、見た目を見て勝手に男だと思っていた職員がいたのだろうが、その人が私の胸を見たか、男性器や金玉がないのを見て女だと思って「お前も女だったんだな」と口に出して言ったのだろう。
私は妊娠したことはないが、太っていて腹が出ていたのを妊娠しているから腹が出ていると勘違いした人が「妊娠しているのに」などと言い、
子どもを妊娠しているのに万引きなんかして刑法違反をしておかしいとでも思ったのだろう。
この留置所の職員は私について勘違いして間違ったことを思っているのだ。

この人たちも、ほとんどの人も金信者で金でやっていく世の中が正しいと信じているのだろうが、その信仰が間違いであり、金でやっていく世の中は不正で、正しいことではなくて間違っているのだ。
逮捕することが正しいという根拠などどこにもない。誰かが嫌がることや、誰かかが間違っているとか、不正だと思っていることなど誰でもやっているのだ。
具体例でいえば、動物を食べることを、ひどいと思っている人がいたり、人間は動物を食べるようにはできていないなどと言っている人がいたり、
あいさつを返せとか、初めにあいさつをしろという態度を取る人や、あいさつしないことに悪態ついてきたり、不満を言ってくることを嫌がっている人もいるのだ。
それ以外でも、人間や人間以外の生き物などが嫌がることなど誰でもやっているのだが、気づいていない場合が多いのだろう。

自分が格下に見ている人に対して、刑法違反したからと逮捕したり、留置所や刑務所に入れることが正しいという根拠はどこにもないが、
今の日本の法律上では逮捕は合法なので、まかり通らせているのだろう。
江戸時代の権力者はキリスト教信者を迫害して殺していて、それがまかり通っていたが、今はそんなことをしてはいない。
ある時代にまかり通っていて常識とされていることが、別の時代には常識だとは言われないし、おかしいことだと多くの人から思われていることもあるのだ。

みんなで助け合いしていたら金でやっていく世の中などやっているわけがないのだ。
あいさつを一部の人にさせたいと思い、あいさつさせたいのにあいさつしなかった人を、見下したり、ダメ人間と言ったり、嫌ったり、嫌がらせをしたりして攻撃してくるのも、例外あれど、あいさつさせたい人を仲間だと思っていなかったり、大切だと思っていないからだ。
例外除いて、友人や恋人や家族や、自分が好きな人ならば、初めから相手にあいさつしないか、相手があいさつ返さなくても許す場合が多いだろう。
あいさつさせたがるのも、金でやっていく世の中をやっているのも、ほとんどの人を仲間と思っていないし、大切ではなかったり、どうでもいい人だから、これらのことをやっているのだろう。

留置所に入れられている時に私を見張って監視している人がいた。
そのうちの一人は私を逮捕した警察署の女の警察のような感じがした。この女が別の人と喋っていたのが聞こえてきたのだが、
一字一句覚えていないが、聞き間違えかもしれないが、自分は金出してここまで来ているというようなことを言っていたと思う。
私がいた留置所は、この女の警察がいた警察署以外の場所で、この留置所の場所まで自費で来ていたのだろうか?
この女が「友達が子どもを虐待している。その気持ちが分かる。」というようなことを言った後に、一字一句覚えていないが、
こいつ見ていると暴力振るってやりたいというような感じのことを言っていた。暴力と言ったのか、殴ってやりたいという言い方か、はっきり覚えてはいないが、こんな感じのことを言っていた。
警察は暴行罪で身体暴力をやった人の一部を逮捕するが、その警察がこんなことを思っているのが現実なのだ。
気に入らない人や、見下している人に身体暴力をやりたがっている人や、自分の友達が子どもを虐待していることを知っていても逮捕にはしていないような人が、他の人が身体暴力をやったら逮捕するようなことをしていて、えこひいき差別をしていて、自分に都合のいいように、いい加減に刑法を利用しているのだ。
私が留置所の牢屋の中に入れられている時に、なぜか私は下の服を脱いでいる時があったのだが、私を監視している人が、それを見て言ったのだろうが、「気持ち悪い」と言っていた。

留置所にいる時に警察が取り調べで来ていたのだろうが、意識はあるけど目をつむっている私を他の部屋に連れて行って、私が床に仰向けに置かれている。
男の警察が言ったのだろうが、一字一句覚えていないが、男の声で「お前のせいで、お母さんが謝りに行っているんだぞ」というようなことを言っていた。
私の母親がお前の代わりに店に謝りに行っているんだぞと言っているのだろう。
この後、数年経って私の母親から聞いたが、私の母親が店に行っている時に警察も一緒に行っていたみたいで
警察が「起訴はしないでほしい」というようなことを言っていたみたいだ。店の人は金を払ってもらったらいいというようなことを言っている人もいたみたいだ。

万引きと言われているのは店で商品の物に金を払わずに持って行くことを言い、泥棒とも言われるが、他のことで泥棒と言われているのはスリ、空き巣、強盗、などの刑法違反のことをやっていることだが、刑法違反ではないが税金を国が取ったり、天皇家の人や警察などにも
税金泥棒という人もいるが、刑法違反ではないために、刑法違反で泥棒と言われている人ほどは泥棒とは言われない。
誰かが嫌がっていたり、間違っていると思っていることで、人から金や物を取っていることを泥棒というのならば、誰でも直接的、間接的に泥棒をやっている。
一部の人は、商売している人を悪魔の商売人と言ったりするが、商売など全て悪魔の商売で不正だとも言えるのだ。
でも、みんなで助け合いしていなくて金がないとやっていけないこの世の中で、商売している多くの人達や、給料を貰ったり、年金、税金、罰金などで金を取ることをしている人や、それを正しいと信じている人を
正当化させて、泳がせて、野放しにして、放置していて、ほったらかしにしているのだ。
ほとんどの人達は、自分の外見や言動や信仰のごく一部を否定されたり、不満を言われることはあっても、自分のほとんどのことを否定されたこともなければ、ほとんどのことに不満を言われたことがない人が多いと思う。

数年前にテレビを見ていた時に、小学生ぐらいの子役の女の子が親から規制されたことがないと言っていた。
人によっては小さい時に周りにいる人から一度も自分の色んなことに対して否定されたことがない人もいるだろう。
その後、周りにいる人の数が増えてくると、自分の色んなことに不満を言われたり、否定されたりする人の方が多いだろうが、
否定されても自分が正しいと信じている人もたくさんいるだろう。
金でやっていく世の中がいい例で、値段が付いているものや、年金や税金などに金を払わない人がいることを多くの人は知っていても、
払わない方が間違っているとか、不正であると、正しい根拠もなく信じている人が多いのだ。
こういう金信者が多い理由は、大勢が値段がついているものや、年金、税金に金を払っていて、これらの金を取ることが刑法違反ではなく、
警察や税金Gメンみたいな強制が入るわけでもないから、正しいと信じ切っている人が多いのだろう。

私は20年以上父親に会っていなかったのだが、2021年8月4日の午後に同じ家に住んでいる私の母親のいた部屋に私が行った時に、
私の母親が「今朝、お父さんが亡くなった」と言った。
この前の月の7月14日ぐらいに私の母親に父親の弟から、父親のことで電話があった。私の母親は私の父親の心臓が弱っているというような感じのことを言っていた。
7月15日には電気ショクをやったと母親から聞いた。7月16日に父親が入院している病院に私の兄弟と一緒に行った時に病院の先生が言っていたのは、
心不全とか、全身臓器障害とか、全身の動脈硬化とか言っていたと思う。
世の中や社会と言われているところも、人間の体に例える場合があるが、
この金でやっていく世の中も病気で障害で異常だとも言えるのだ。
金でやっていく世の中で例外あれど少数派を悪者に仕立て、牢屋の中に入れたり、給料や印税という形で金を貰っていない人を下に見たり、
死んでほしがっている人もいたりして、異常で異様な不正のおかしいことをして、イカレたことをしているのが金でやっていく世の中だ。
みんなで助け合おうとしていなくて、好きな人などの一部の人とは深く関わったり、職場の人や近所の人などで嫌いなだけの人や、どうでもいい人とはあいさつなどで表面的な関りをしているだけだったり、人間扱いしていなかったり、嫌な人を職場から辞めさせようとしたりしていたりする。
一部の人とだけ関わり、その中のほとんどの人とは、関わる気もないのに表面的な対応で関わっている人もたくさんいるだろう。
いい例があいさつで、例外除いて大切ではない、仲間ではない人に表面的、うわべだけ、形だけであいさつしているだけの人もたくさんいるだろう。
金を使うことで人の役に立つのではなくて、ほとんどの人を仲間だと思っていないし、大切だとも思っていないから、金でやっていく世の中をまかり通らせているのだ。

みんなか、ほとんどの人を仲間で大切だと思っているのなら金でやっていく世の中などやっているわけがない。
大勢と同じことをすることが例外あれど素晴らしい、正しいことだと信じたい人がたくさんいるのだろう。
こんな金でやっていく世の中は、体で言えば全ての細胞に栄養が送られているわけではなかったり、血管の一部が詰まっていて、脳梗塞や心筋梗塞みたいなもので、一部の人には金や物の巡りが良くて、入って来ても、
他の人には金が全くか、ほとんど入ってこないようなおかしいことになっている。
何かをやっていたり、存在しているだけで誰かの役に立っていても金が入ってこない人や、ほとんど入ってこない人もいるような、えこひいき差別社会の金でやっていく世の中は、病気や障害のある間違っている世の中なのだ。

好きな人や、両思いの人や、自分の役に立った人や集団などには金を渡したり、何かがあった時に面倒を見たりしても、それ以外の人には面倒を見ないか、面倒を見ても、恩着せがましかったり、上から目線だったりして形だけの対応をしている場合が多いだろう。
あっちの血管には血は流れてくるけど、こっちの血管には血は流れてこないという体だと不健康や病気、障害と言われているような体の状態だ。
私は心臓のことあまり知らないが、父親が入院していた病院の先生が父親の心臓の血管の太い血管のことを言っていたのだろうが、3本の血管のうち2本が詰まっていて、1本もきれいな血管ではないというようなことを言っていた。
体の全ては繋がっているから、心臓の太い血管や脳の血管が足や腸とは関係がないということにはならない。
大勢と同じことをしなかったり、大勢が正しいと思うことをしなかったからとか、値段ついているものに金を払わないからと逮捕したり、罰金を取ったり税金を払わないから税金Gメンの差し押さえをすることをまかり通らせて、その人達の言動を止めて規制して、押さえつけているが、
大勢の人が金信者なので、金でやっていく世の中をまかり通らせていることを辞めようとはしない。
辞めようとはしないのは、多くの人が生きていくのに、みんなで助け合いをする気がない人が多いので、金がないと自分や好きな人や、いい人で善人だと思っている人たちが生きていけなくなり、死活問題だから金でやっていく世の中を辞めようとはしないのだろう。
これを誰かは金に代わるものがないからと言ったりしているが、
ほとんどの人を大切と思っていなかったり、仲間だと思っていない人が多いから、金を通じて、かろうじて、どうでもいい人や嫌いなだけの人と関わっているような感じだろう。
関わる気がない人や、どうでもいい人に形だけあいさつする人が、あいさつという言葉を通じて形だけ関わっているような感じだ。
金でやっていく世の中で大勢の人は苦しんでいたり、仕事と大勢が呼んでいる、給料という形で金を貰うようなことを嫌々やっている人がたくさんいても、それに代わるものがないし、金でやっていく世の中が正しいと信じている金信者達は、金でやっていく世の中という不正でおかしい異常な世の中を辞めて変えようとはしないのだ。

物や金を取るのではなくても、正しくもないことを他の人に押し付けて、自分の言うことを聞けと、直接的や遠まわしに人を自分の言いなりにさせて、
自分の思い道理にさせようとすることは信仰泥棒とも言える。
金でやっていく世の中は不正で間違っているが、金でやっていく世の中が正しいと信じて、金社会に加担している金信者は金非信者を逮捕したり、見下したりして、信仰泥棒をしているのだ。
逮捕して牢屋に入れたりすることを他人の人生を泥棒しているとか、時間泥棒しているとか言わないし、罰金を取ることも不正だが、
罰金を取ることを泥棒とは言わずに、差別しているのだ。
金信者の多くは、店の人が金がないとやっていけないから、値段ついているものに金払わないと店の人の迷惑になると思ったりする人もいるのだろうが、金でやっていく世の中で金信者も金非信者も大勢の人が苦しんでいて迷惑しているのだ。
金でやっていく世の中を正しいと信じて辞めようとはしないけど、払わなければいけないと思っている金を払わないことに対しては不満を持ち、
刑法違反なら逮捕することを許している人も、自分が金を取られることが気に入らないと思っていることには不満を持っていて勝手で、おかしい差別をしているのだ。

合法で金を取っていても、気に入らない値段を付けて商売していたり、それで給料を貰っていると、ぼったくり、悪質商法、霊感商法などと言い、合法でも不満を持ち、非難する差別をしている。
平均の相場より高い値段をぼったくり、悪質という人が相場の値段なら許している一方で、同じことを金を取らずにやっている人が給料や印税という形で金を貰っていないと不満を持つような、イカレている、おかしいところがあり、差別をしているのだ。
具体例で言えば、無職と言われている人が、自分や家族などの他の人の自転車のパンクの修理をしても、仕事や働いているとは言わないのに、
相場の値段で自転車屋の人が自転車のパンクを修理すると仕事や働いている、職業と呼んでも、自転車屋の人で相場よりも高い値段で金を取ると許さずに悪質と言っているようなものだ。
同じことをしていたり、同じようなことをしているのに、相場より高い値段を付けていることを悪質と言っている人も、
他のたくさんのものに値段付けたり、罰金、年金、税金などを取ることは許している悪質なことをしているとも言えるのだ。悪質という人も悪質ということだ。

金でやっていく世の中で、自分が正しいと思うことで金を取ることは許すくせに、合法でも違法でも自分が納得いかないことや、悪だと思うことで金を取ることは許さないのだろう。
言葉は同じ言葉の定義が人によって違って、自己満足の言葉遊びをしている。だから、悪も善もないとも言えるが、
多くの人が一部の人を悪人や悪と言っているので、それならば誰か一人や一匹でも嫌がったり、迷惑していることを悪だと定義付けるのならば、
金でやっていく世の中で多くの人は苦しんでいるのだから金でやっていく世の中や、この金でやっていく世の中を正しいと信じていて辞めようとしない金信者も悪だとも言える。
自分がひどいと思うことうあ、自分に都合の悪いことをしたことを、悪だと言いやすいだろう。自分達も誰かから嫌がられたり、迷惑されているのだ。
本来全てのものに値段などついていなことは分かり切っていることだが、自分や大勢と同じことをしている人達を悪く言わずに、
好きな少数派などは例外として、少数派を悪者に仕立てることで楽をしていたり、上から目線になり優越心に浸っているのだろう。
刑法違反をしている人や、金払わない人を泥棒と言っている人も、誰かが嫌がることをしていることや、金でやっていく世の中という不正な世の中を
正しいと信じたり、まかり通らせていることを悪だと言うとすれば、自分達も悪だということになる。本来値段が付いていないものに値段を付けたり、
税金や年金などを取っていることも泥棒であり、泥棒と言う人も泥棒で、他人の姿は自分の姿だ。

警察が「お前のせいで、お母さんが謝りに行っているんだぞ」というようなことを言っていた続きだが、私は逮捕されてから、その時まで飲食を一切していなくて数日が経っていたのだが、
何も食べていないし、飲んでいないことで体の解毒でもおきていたのだろうが、口の中に粘ついていたものが出てきていて、
それが仰向けになって、目をつぶっている私ののどの方に流れてくるので、
口からその粘ついたものを一回吐き捨てた次の瞬間、私の片方のほっぺたを警察に一回、平手打ちされてビンタされた。
軽い暴力だが、平手打ちしてきた警察は暴行罪で捕まりはしていないだろう。
暴行罪もそれ以外の刑法も、刑法以外の法律も正しいことではない。一部の人が勝手に法律を決めて、自分達に都合よく法律を使っているだけなのだ。
気に入らない暴力の一部には暴行罪を適用して逮捕しても、他の身体暴力には暴行罪は適用しないし、侮辱罪や名誉棄損罪なども、言葉を使っている人のほとんどは中傷、悪口を言っているだろうに、
ほとんどの人には、これらの法は適用されない。ただの差別であり、法律とは差別法だ。都合よく法律を利用している人も差別者だ。

この警察が、私のことを、甘えているというようなことを言ったのだが、
誰でも色んなことに甘えているだろう。金でやっていく世の中が合法なのをいいことに甘えて、金社会をまかり通らせて、金を使って生きているのだ。
警察は合法で税金から給料という形で金を貰っているのも甘えているのだ。
悪人だと思う人に身体暴力をやっても逮捕されないと思って、逮捕した人に甘えて身体暴力をやっているとも言えるのだ。
ほとんどの法律や、法律以外の決まりを守らないくせに、一部の法律や決まりを守り、自分達はほとんどの決まりは守らなくても許されると甘えているのだ。
見下している人にはボロクソな言動をやってもいいと甘えて、そんな言動をやっている自分を許していて自分に甘い。他人に自分の姿を見ているのだ。

私が平手打ちされた日の前か後か覚えていないが、私は体調が悪くなり、声を出して唸っていたら、監視して見張っている人に、うるさいと言われた。
これが街中や、どこかで好きな人や、どうでもいい人が倒れていようが、倒れていなかろうが、唸っていたり、いかにも調子が悪そうな人がいたら、
大丈夫とか言うのは常套句だろうが、私が倒れていてほとんど目をつむっていること自体を演技だと思っているのか、演技だとは思っていなくて
本当に調子が悪いと思っていても、万引きした人間だと見下していて、人間扱いしていないからこういう態度を取るのだろう。
一部の人は、万引きや万引き以外のことで過去の行いが悪いから、そんな態度を取られている、因果応報、しっぺ返し、自業自得などと思ったり、
前世の行いが悪かったのだとか、前世のカルマ(業)の清算だと思うのだろう。
多くの人は子どもを上に見ていたり、好きだろうから、子どもが同じことをしたら大人のせいにしたり、大目に見たり、警察は呼ばないだろう。

私は起きている間は、ほとんど目をつむっていたが、たまにトイレのドアを足でどんどん叩いていた。
しっこ(尿)をするのにも、ほとんどトイレにはいかずに、寝転んだままやっていたので、そこの職員が私にオムツを履かせていた。
私がいた留置所の個室には洋式の便器のトイレがあって、そこを使ったことがある。
便座に座った時の顔の位置らへんには、外からトイレの中が見えるようにしていて、ガラスがあったか、なかったか忘れたが
便座に座った時の私の上半身がそこから見えていた。
その時に監視している人が「遺影みたい」と言っていた。
私が飲まず食わずでいて、2日か3日ぐらいたった時に、私のいた牢屋の中に医者だか病院の人が点滴を打ちに来た。

逮捕されて、5日だか一週間ぐらい経っていた時ぐらいに、監視していた女(多分、警察の女)が私のことを、はっきり覚えていないが「トリになる」か「ハトになる」というようなことを言っていた。
その次の日ぐらいに私は釈放された。
警察署の方で私が釈放になることを知った同僚の警察が、私を牢屋の外で監視していた女の警察に電話か何かで釈放されると言ったのだろう。
ネットで調べていると、「ハトになる」という言葉を釈放と書いているのがあったので、鳥(トリ)ではなく、ハトと言っていたのかもしれない。
釈放とは言わずに、隠語ではっきりとは言わなかったのだろう。

犯罪という言葉は例外あれど、逮捕されるようなことをしている場合や、逮捕されたことがある人に犯罪を犯しているという場合が多いだろうが、
不正をやっていたり、誰かが嫌がることをしていることを罪、犯罪と定義付けるのならば、みんな犯罪をやっていて、罪を犯している犯罪者だ。
赤ちゃんや子どもでさえ親などが面倒を見ることを嫌がっているようなところがあり、育児、子育ての苦しみという言葉は有名だろう。
みんな他人が嫌がることをしたり、誰かが不正で正しくないと思っていることをやっている点では同じだし、法律違反をしていない人などいるわけがないが、法律違反をしている点では同じだが、自分や多数派には甘くて、大勢がやっていることで大勢や少数が嫌がっていることを悪く言う人はあまりいないという差別をしているのだ。
この差別を犯罪という言葉で言えば、差別罪、差別犯罪、えこひいき罪などという言葉で言い表せる。
自分達は犯罪や罪は犯していない、犯罪者ではないと多くの人が思っているだろうが、その意味は、刑法違反したことがない、逮捕されたことがないという意味だろうが、罪は犯していないとか、犯罪者ではないと言われている人も、誰かが嫌がることをやったり、誰かが不正で間違っていると思うことをやっているのだ。
具体例で言えば、動物を食べていることを嫌がっている人がいて、「こんな人類なくなればいいのに」と書いている人もいたり、
人間は動物を食べるようにはできていないと言っている人もいる。
不正の金でやっていく世の中で大勢の人が苦しんでいても、その金社会に加担していても罪や犯罪という人はほとんどいないのだ。

一部の人だけを悪者や悪人や犯罪者、罪を犯しているなどと言って悪く言って、格下に見て、蔑んでいたりして、特定の一部の人だけを悪く言うのを中傷(悪口)とは言わずに、汚い差別をしている人が普通の人や一般人などという言葉で言い表されている。
刑法違反ではないので、人が嫌がることをしていたり、不正で間違っていることをしていても、ほとんどの人は逮捕されることはないが、
逮捕されるようなことではないことで、不正をやっていたり、差別をしている人などを、私は合法犯罪者や合法犯などと呼んでいる。
みんな合法犯罪者で合法犯だ。大勢が犯罪者と言っている人との違いは、刑法で違法か、刑法で違法ではないかの違いだ。

やくざや暴力団と言われている人をガラの悪い人達で悪の象徴のように思っている人もいるだろうが、警察のことを、国営の暴力団と言っている人がいるが、いい得ている言い方だ。
一般にやくざ、暴力団と言われている人との違いは、私営か国営の違いだとその人は書いていた。分かっている人は分かっているのだ。
警察も逮捕する人の体の自由を拘束することをやっているのも、
逮捕された後に逮捕した人に身体暴力をやるのも、いかにも身体暴力をやっていても、多くの人は警察を暴力団とは言わないだろう。
警察も警察以外の人も身体暴力や、言葉で人に悪口(中傷)を言うようなことをしていて、言葉の暴力をやっていても、暴力団や、やくざや、チンピラとは呼ばれにくい。
見下している人に対しては身体暴力をやることを許す人が多いのだろう。
善人と思っていても、子どもに言うことを聞かせるためなどに身体暴力をやってもいいと思っている人もいるのだから、
悪人だと思って見下している人には、なおのこと身体暴力はやってもいいと思っている人もいるということだろう。
警察も暴力団だが、国民や普通の人や一般人と呼ばれている人も暴力団、やくざとも言える。
やくざの全員か、ほとんどのやくざでも不満を持たないか、不満があっても嫌がらせをしたりして攻撃してこないようなことに、
不満を持ったり、不満を言ってきたり、嫌がらせなどをして攻撃してきたりしてくる人もいるのだから、やくざよりやくざ、暴力団より暴力団なところがあるのだ。
普通の人、常識人、一般人、いい人、善人などと言う言葉で言い表されている人達が、ほとんどのことに対して、泳がされて、野放しにされて、
放置され、ほったらかしにされまくっているのだ。
合法をいいことに、やりたい放題の所もあるのだろうし、大勢がやっていることは安心してやるようなところがあり、この金でやっていく不正の間違った世の中を正しいと信じている人の方が多いので、金でやっていく世の中をなくしていこうとはしない人が多いのだろう。

正しいと思う生き方をしている人のことは高評価して好きになったり良く言い、間違っているとか、不正だと思うようなことをしている人のことは、見下したり、嫌ったり、死んでほしがったり、悪態ついたり、
嫌がらせをしたり、蔑んだりしているところがあるのが
人間と言われている生物であり、人のことは一部分や、一面を見たり聞いたりしただけでは分からないところもたくさんあるのだ。

警察を正義と思いたいような人は警察のことを良く言うのだろうが、見下している人には人間扱いしないようなところもある。
自分がいい人や普通の人と思っている人が、自分だったら嫌わないことや、嫌っても死んでほしいとは思わないようなことで、
死んでほしがっている人もいるのだ。
本人以外が知らないことや、大勢が知らないことを裏の顔や裏というのならば、誰でも裏の顔などあるのだ。
裏の方が多いだろう。誰かについて大勢が知っていることや、大勢に見せている言動などの姿は表と言うとすれば、表で見せている顔は
本音や本心を言っていなかったり、大勢と同じことをするという演技をしている場合も多いだろう。
あいさつを形だけするのも表の顔で、あいさつした理由、動機などの裏の部分は隠しているのだ。
知っている人について、ほとんど知らないだろうに、自分が知らない裏の部分を考慮はせずに、知っている部分だけで自分が思いたいように都合のいいことを思っているのだ。
世の中も大勢に知られていないことの方が多いし、人間のことも知らないことの方が多くて裏の方が多いのだが、知らない方には興味もなかったりして、意識しにくいのだろう。

 

 

 


脱金社会 金でやっていく世の中は不正だ1

2023年05月07日 | 脱金社会

 

1.金でやっていく世の中は間違っていて不正だ

 


この金でやっていく世の中は間違っていて不正だ。
正しくもないことを正しいこととしてウソを付いているのが金でやっていく世の中なのだ。
世の中の色んなことに金が絡んでいて、ありとあらゆるものに値段、価格が付いている。
金以外のことでもウソが多いので、社会、世の中と言われているところははウソで出来ているとか、世の中、社会はウソまみれとも言える。

この金でやっていく世の中、社会自体が正しくもない、間違っている、不正な世の中、社会だが、この金でやっていく世の中、社会を正しいことで、正当だと多くの人は信じているのだ。

「人のために」という美名、綺麗事の言葉で金でやっていく世の中を正当化する人もいるのだろうが、人のためにと言っていても、この金でやっていく世の中で大勢の人が苦しんで、迷惑しているので、人のためになっていないとも言えるのだ。
本来全てのものに値段や価格がつていないことは分かり切っていることだが、例外除いて、大勢がやっていることが正しいと根拠なく信じていたり、
金でやっていく世の中がないと死活問題で生きていけないと思っている人が多かったり、自分や多数派に甘かったりするので、
金でやっていく世の中を正当化させる人が多いのだろう。

今後、遅かれ早かれ、絶対に金がなくてもやっていける世の中になるが、
そんな世の中になった時に誰かがこんな感じのことを思ったり、言うだろう。
「昔は金を払うのが常識だったけど、今は金払わなくてもやっていけるのが常識になった。大勢がやっていることが例外あれど正しいんだよ」
そして、今後は人間は肉食をしなくなり、動物性のものを食べなくなるだろうが、誰かが「昔は牛、豚、鶏、魚、卵を食べるのが普通だったけど、今は食べないのが普通なんだよ」とか言いそうだ。
同じことをしているのに大勢がやっていたら、普通や常識、社会のルール、当たり前などと言い、大勢がやっていないことには、あまり普通や常識などとは言わないだろう。

 

2.金信者と金非信者

 

法律もウソであり、みんなが法律を正しいと信じているわけではない。
一部の法律を正しいと信じていても、全ての法律を信じているわけではなくて、自分の都合のいいように法律を利用しているだけだ。
一般に宗教と言われているキリスト教や創価学会などの人が、自分たちの信じている教義(ルール)を守らなかったからとか、
入信しなかったからなどの理由で、部屋に閉じ込めたり、身体暴力でも振るえば、カルト宗教などと呼ばれたり、異常でおかしい宗教と
思う人も多いだろう。

刑法違反して逮捕されたり、大麻取締法や覚醒剤取締法や動物愛護法で逮捕されたり、罰金取られたりしても、
税金を払わなかった人に差し押さえしても、法律はカルトとか、
カルト宗教、カルト法などとは呼ばれず、法律や金でやっていく世の中がおかしいとか、間違っているとは思わず、
多くの人は警察に逮捕されるようなことをやった方が間違っていて悪いと信じているのだ。

金でやっていく世の中自体が正しくもない不正でウソであるにもかかわらず、多くの人は
金でやっていく世の中が正しいという信仰を持っているのだ。
金でやっていく世の中が正しいと信じている人を私は、金信者(かねしんじゃ)と呼んでいて、
金でやっていく世の中が正しいと信じていない人のことは、金非信者(かねひしんじゃ)と呼んでいる。
みんなが金信者ではない。人類の中の多くは金信者だろう。

多くの人は法律のほとんどを信じていないだろうが、一部の法律は正しいと信じているのだろう。
その正しいと信じている法律は、刑法や大麻取締法や覚醒剤取締法や動物愛護法などの逮捕されるような法律や税制や年金制度とかを信じている人が多いと思う。

私は法律の一部を正しいと信じている人を法律信者と呼んでいる。
刑法違反した人を逮捕することを多くの人は正しいと信じているだろうが、こういう人を刑法信者と呼んでいる。
法律の一部を守っている人を真面目な人、普通の人などと呼んで
高評価する人もいるが、真面目な人、普通の人と言われてる人が、いい加減で適当に自分に都合のいいように法律を利用しているのだ。

著作権法が正しいと信じている人がいる。著作権法違反になるから漫画のキャラクターを描いた絵をネットに出してはいけないと言っている人も、
他の法律は知らなかったり、知る気もなかったり、正しいと信じていなくて守らなくてもいいと信じている法律もあるだろう。
自分が正しいと信じている法律を守れと思っている場合と、正しいとは信じていないのに見栄、体裁などで勝手に法律の一部の決まりを守り、
同じ決まりを守らない人に不満を持つ人もいるのだ。例外除いて、大勢と同じことをしない少数派を問題視して、正しいとも信じていない法律を守っている人や、正しくもないのに勝手に正しいと信じている一部の法律を守っている人が普通の人や真面目な人と言われたりするのだ。
自分が信じていることが正しいと思っているから、自分に合わせて従ってほしいのだろう。

著作権法自体が間違いで不正でウソの決まりだ。もし、同じ決まりを宗教と言われているイスラム教やキリスト教などで著作権法という同じ決まりを決めていても、その決まりを正しいとは思わない人が多いだろうが、国の法律で決められていた場合は正しいと信じたり、正しいと信じていなくても守らなければいけないと信じる人もいるのだ。国に色んなことを押し付けられてやらされていると思っている人が、一方で国の決めたこと正しいと信じて守ったり、正しいと信じていない決まりを守っているだけで、正しいと信じていない決まりをなくそうとしたり、変えようとはしなかったり、その決まりを正しいと信じている人を問題視はせずに国を悪く言って、国のせいにばかりする人もいる。
金でやっていく世の中自体が不正だが、漫画家や作家が本や漫画に値段付けて売っているのも不正なのだ。
漫画をネットなどに出して著作権法違反で逮捕されている人がいるが、漫画家も不正をやっているのだ。

日本人は無宗教、無神論者など言われていて、宗教に入っていないように言う人もいるが、宗教と言われていないだけで、日本人は色んな決まり(ルール)を信じている。
その信じている決まり(ルール)の一部は法律の一部、刑法、常識、社会のルール、人間のルール、人間の基本、当たり前、マナー、モラル、道徳などと言っている。

自分が信じている決まり(ルール)を他人にも信じさせようとしたりしていて、自分の信仰心を押し付けて、押し売りしているところが日本人にはある。
日本人を控えめ、謙虚、つつましやかなど言って良く言っていたりするが、
本音や本心を大勢が見聞できる所で、自分の名前とか顔の個人情報をさらして言っていないだけで、影で本音、本心を言ったり、影から嫌がらせをしていたりもするのだ。

 

 

3.法律という差別法

 

私は昔、店で万引きして逮捕されたことがある。
多くの人は逮捕されるようなことしたり、逮捕されると悪者、犯罪者、罪人などの言葉で呼ぶだろう。
下らない言葉遊びで、言葉の定義をはっきり具体的に言っていない。
悪者、犯罪者、罪人という言葉に隠している意味、定義を言っていないのだ。

金でやっていく世の中をみんなが正しいとは信じていないが、金を払わない人を逮捕するのは、逮捕という言葉の名目、建前の迫害、差別で少数派(マイノリティー)への迫害だとも言える。
逮捕を正当化している人の中には、子どもとか、好きな人とか、自分が刑法違反で逮捕されるようなことをしても警察を呼ばなかったり、自首しないのに、えこひいき差別をして、都合よく法律を利用している。
金でやっていく世の中は不正でイカレているが、ほとんどの人はこの金社会をおかしいとは思っていないだろうから、万引きされた店の人が金がないとやっていけないから迷惑しているんだぞなどと思うのだろうが、
金信者の多くも金非信者も金でやっていく世の中で迷惑して苦しんでいる人がたくさんいる。
合法だから捕まらないだけで、商売は合法の不正であり、合法の泥棒、詐欺をやっているのだ。
全てのものに値段が付いていないのは考えなくても分かることだが、みんなで本当の助け合いをする気もない人が多いだろうし、
金でやっていく世の中が正しいと信じている人が多いので、この金社会を辞めようとしない人が多いのだろう。
男尊女卑に似せて言えば、例外除いて、多数派尊少数派卑みたいなものだ。
例外除いて多数派が正しくて、えらいというのを亭主関白に似せた言い方をするならば、多数派関白という感じだ。

自分達も誰かが嫌がることをしたり、法律や法律以外のほとんどの決まりを守りもしないのに、逮捕にはならないという差別をしている。
同じことをしても、あの人なら許して、こいつは許さないと思っても、それを差別や偏見だという人はあまりいないだろう。
許された方は人徳があり、許されなかった方は人徳がないから許されなかったのだという理由をつける人もいる。
自分の好きな外見をしていたり、自分が好きな言動を取った人、自分の役に立っているところがある人は許したり、大目に見たりする場合があり、
人徳があるなどと言い、嫌いなだけの人や見下している人は自分の役に立っていないから、人徳がない人などと呼んだりして、同じことしても悪評価をしている場合があるが、これじゃあ、白人の黒人差別と同じようなものだ。
好きな人のことは悪く言わずに、嫌いな外見の人のことは悪評価していたり、自分が好きな人ではなかったり、自分の役に立っていないから悪評価したり、許さないのも差別だ。

法律とは、頭がおかしい法律、頭がおかしい刑法、頭がおかしい差別法、キチガイ法などとも言える。
こんな法律を都合よく利用する人たちを、普通の人など言い良く言う人もいるのだろう。

何かのテレビ番組で、海で生きている野生の一匹のあるイルカについて、一字一句覚えていないが、誰かが「人間の世界と同じで、頭がいい人は集団から追い出される。
このイルカも同じで、頭が良くて群れから追い出されたか、
自分から群れを出てきたのだろう」というようなことを言っていたと思う。
人間の世界で頭がいいと思われている人みんなが属している集団から追い出されるわけではないが、追い出される場合もある。
金でやっていく世の中のことも同じで、大勢と同じように値段ついているものに金払ったり、年金や税金を払う人を正しいと
信じている人が多いから、金を払わないと強制で逮捕されたり、罰金取られたり、牢屋に入れられて迫害されて追いやられる。金でやっていく世の中という間違った不正を信じている人や、値段ついているものに金払う人の方が、まともな正しい人にされているのだ。

 

 

4.合法泥棒、合法詐欺

 

金でやっていく世の中はウソであり、正しくなくて、不正で間違っているが、大勢の人が金信者なので、自分たちの信仰を正しいことだとまかり通らせるためには、自分達と同じことを信じていない人や、自分たちと同じことをしない人に対して、刑法を利用して逮捕させる差別をして、おかしいことをしている世の中、社会でイカレてる、頭がおかしい世界だ。

本来ならば値段や価格がついていないものやサービス、土地などに値段を付けるのは合法の詐欺だし、金を取るのは合法の泥棒で、金泥棒とも言えるし、合法の不正で金を客から取って、給料や印税を貰っているのも、給料泥棒、印税泥棒、金泥棒と言える。みんな泥棒なのだ。

税制や年金制度や、損害賠償や罰金、皇室費、生活保護などで金を取るのも合法の泥棒だ。
刑法違反で逮捕されるような違法の泥棒と言われている人や、盗人などと言われている人と違うのは、合法か違法の違いであって同じことをしているのだ。
バカという人がバカと言うが、泥棒と言う人が泥棒なのだ。合法の泥棒なのか、違法の泥棒なのかの違いだ。
詐欺はダメと詐欺師を逮捕していいと思っている人が、自分たちも合法の詐欺を正当化させているのだ。
警察が人から罰金を取ったり、税金から給料を貰っているのも合法の詐欺であり、合法の泥棒なので、差別をして、おかしいことをしているのだ。バカの差別、アホの差別だ。

政治家が税金から100万円を法律違反で取ることが、こそ泥よりもひどいことしていると言う人がいて、「こそ泥なんかかわいいもんだ」など言っている人がいる。
多分、こそ泥という言葉は、こそこそ泥棒するという意味で使っているのかもしれないが、金でやっていく世の中は正しくもない不正なのに、堂々(どうどう)と税金や年金や給料や印税などを取って
合法で泥棒をしているので、どうどう泥棒、堂々どろぼうなどという言い方でも呼べるだろう。
こそ泥というような言い方をするのなら、堂々どろぼう、どうどう泥棒は、どう泥とでも呼べばいい。

老人の中には若者を「苦労したことがない」とか「恵まれた時代に育っている」など言う人がいたり、格下に見ている人もいるが、そんな年下の人間が払った年金で生きていたりする。
法律では合法の年金制度も、年金制度は合法の詐欺制度、泥棒制度で、その年金を貰っている老人も年金泥棒だ。
自分は人に迷惑することはしていないと思っていても、大勢が金でやっていく世の中で迷惑して苦しんでいて、この金でやっていく世の中に加担しているのだが、自分は関係ないと思っている人もいるだろう。

商売、商いなどと言われているものも、本来値段がついていないものに値段付けてるのは詐欺だ。
別のいい方なら、本来値段がついていないものに値段付けるのはウソをついてる。
金がないとやっていけないので正当化するのだろう。
大勢がやっていることは許されやすいし、人のためと言っても許されやすい。

私の母親が今まで携帯を使っていた会社(この後の文章ではA社と呼ぶ)以外の別の会社でスマホを買って契約しようとしている時に、A社に母が電話をかけて、電話番号だか、何かの引継ぎをしようとしている時、A社からスマホを3万安くすると言ったらしい。
こういうのを引きとめ対策と言っていいる人がいた。
別の会社の方で契約するのを辞めて、後日、母がA社の携帯店に行ったら、
11万ぐらいするスマホを勧められたらしく、そのスマホより安いスマホは3万の割引はできないらしい。
私の母親はこういうことを「汚いことしているわけではない」という感じのこと言っていた。
多分、A社の人は「3万安くなるとは言ったけど、すべてのスマホが3万安くなるとは言っていない」とでも言いたいのだろう。こういうのを良く言いたがる人は「頭がいい」とか「賢い」など言って高評価して褒めるんだろうが、
悪く言ったら「詐欺」「汚い」など言って悪評価や低評価する人もいるだろう。

気にいらない値段には「この値段は詐欺」などと言ったり、税金を取っていることを税金泥棒と言ったり、警察など公務員が気にいらない時に税金泥棒と言ったりするが、妥当だと思っている値段には不満を持たない。
本来は全てのものにもサービスにも値段などついていないので、値段付けていること自体が本当はおかしいのだ。
金でやっていく世の中自体が不正で、人から金を取ろうとしたり、取ったりするのは詐欺だが、法律上は合法で、違法ではないので逮捕にはならないだけだ。

不正(正しくない)をやっていることを汚いと定義付けるとしたら、
金でやっていく世の中自体が汚いし、それに加担する人も汚いということになる。
政治家や一部の人を金に汚いとか、金の亡者など言ってバカにしたり、不満を持つのも自分たちの姿だということになる。
他人は自分を映す鏡だ。目くそ鼻くそ、五十歩百歩だ。
政治家が国民のことを考えていないと思っているのも、自分たち国民の姿でもある。

人の幸せを祈るなどと思っている人がいても、実際はほとんどの人の生活とかの面倒はみていない。
ほとんどの人の面倒を見るのは自分たちがやることではないと大勢の人は思っているだろうけど。
人の幸せを祈っている人も、大勢が迷惑して苦しんでいる金でやっていく世の中に加担しているのだ。

 

5.不正の税制

 

税制は公平と言う人がいるが公平ではない。
税が使われているもので、社会貢献していて、人の助けになっているという人がいても、本当にみんなで助け合いをしているのならば、金でやっていく世の中などいらないのだ。一円も要らない。
一部の人や、一部のことに税という金を使っているだけで、すべてのことに税を使っているわけではない。
全てのことから税を取るわけではないし、金でやっていく世の中自体が不正のウソなので、税制が公平というのは間違っている。

「税金は社会や世の中の役に立っていて、社会や世の中に貢献している」など言う人は、部分を取り出して、自分や大勢がやっていることを美化して、綺麗事を言い、税制を正しいことだと正当化したいのだろう。
本当にみんなで助け合いしてるのならば、金は要らないのだから、税金も要らないのだ。
一部のことから税金を取り立てて、ほとんどのことからは税金は取らないという、おかしいことをしてるのを、社会や世の中の役に立っていて、貢献しているなどと、カッコ付けたことを言い正当化している人もいるのだ。

「愛のこもっている料理を作って、家族や、恋人や客に貢献して役に立っている」と思っている人がいたとしても料理に使われている食材に、動物の肉や、動物のダシなどの動物性のものが入っていることを嫌がっている人もいる。
肉など動物性のものが入っている料理を好まない人もいるし、肉食は即辞めるべきと言っている人や、人間は動物を食べるようにはできていないと言う人もいる。誰かが肉料理を喜んでいて、愛がある料理などと言っても、嫌がっている人もいるのだ。

金でやってく世の中で、大勢が苦しんで迷惑しているが、一部の人間や生物や地球のことに金を使ってることを、社会や世の中に貢献しているなどと大げさに言い、美化して、綺麗事を言い、カッコ付けて、さも正しいことのようにして正当化しているのだ。

「社会や世の中の役に立っていて、貢献している」と言っている意味は、
「人の役に立っていて、人に貢献している」と言いたい人が多いのだろうが、金でやっていく世の中で、多くの人が苦しんでいたり、迷惑してることは、大勢の人達は分かっているだろうが、そんな金でやっていく世の中を「人の役に立っていて、人に貢献している」というのも、ある意味、滑稽でおかしいのだ。
一部のことから税を取り立て、特に本人の同意もないのに税を取り立てて、税金Gメンの差し押さえをやってまで、金を取ろうとしているのを「社会や世の中の役に立っていて、貢献している」「人の役に立っていて、人に貢献している」などと言ってるのはおかしいのだ。みんなが金信者ではないということが分からずに、日本人は、自分たちが信じていることを宗教や、教義、信仰などの言葉では言い表さずに常識、社会のルール、考え方などと言っている人もたくさんいるだろう。

戦争や戦や乱がいい例で、人のために、お国のためにと言っていても、人のことを攻撃して排除したりしている。
税金を払うことで、「社会や世の中の役に立っていて、貢献している」と言っても、自分に入ってきた金を自分以外の一部の人や生物や地球のことに出していて、一部の人などに役に立っていても、ほとんどの人に金を出していないし、全てのことに税金など使っていない。

あいさつで例えるなら、「あいさつは人の役に立っていて貢献しているんですよ」と言ってるような感じだが、みんながあいさつしたいわけではない
「あいさつされて嬉しかった」という人がいるが、あいさつされた人みんなが嬉しいわけではない。
逆にあいさつを正しいと思っていなかったり、あいさつ返しするのを面倒だと思ってたり、あいさつ返した相手と関わりたいとも思っていない人もいるだろう。
あいさつ返されないことで不快になる人がいるが、みんが不快になるわけではない。
あいさつは社会のルールという人が、ほとんどの人にあいさつしていなかったりするが、社会のルールという言い方より、あいさつを正しいと信じている人が勝手に自分独自のあいさつの決まり(ルール)を作っているのは、
「支離滅裂なルール」とか「めちゃくちゃなルール」「あいさつは統一されていないルール」「バラバラなルール」「勝手なルール」とか言った方がいいと思うけど。
社会などという言葉で言って、言葉の意味をはっきり言わなければ、カッコが付くのだろうけど、具体的に言うとカッコが付かなくなるだろう。
誰かのあいさつの決まりは「あいさつしないとダメだけど、それは自分がやりたいときにだけやればいい。自分があいさつしないところがあるのは許すけど、一部の人があいさつしないところがあるのは許さない、ダメ人間と言って見下して、軽蔑してやる。」などと思っている人もいるだろうが、
具体的にこういう本心を言ったらカッコが付かないだろう。

みんながすべての人のことを好きだったり、尊敬したり、仲間だと思っていたり、生きてくれてるだけでいいと思っていたら、あいさつなど要らないのと同じことで、みんなで本当に助け合いをしているのだったら、金など要らないので、金でやっていく世の中、社会など要らないのだ。
多くの人は、金を自分以外の人に渡したり、使ったりすることや、好きな人やお世話になった人や、自分の仲間などに金を渡したり、プレゼント
などを買ってあげることを「人のために」とか「金じゃない」などと言って美化して、カッコつけているのだろう。

 

6.バカの差別、他人の姿は自分の姿

 

生活保護の人を悪く言う人がいる。
生活保護を貰っている人のことを不正受給している人と、不正受給ではない人に分けていたりして、不正受給の人は生活保護を貰ったらだめだけど、不正受給でない人は貰ってもいいなどと信じている人がいる。
自分達から取った税金から出ている生活保護の金を生活が大変だと思わない人には与えなくていいけど、本当に生活が大変な人には与えてもいいと思っている人もいる。

生活保護費は税金から出ているが、その税金を国民から取っていること自体が正しくもない不正なのだが、それに気づいていない人もたくさんいるのだ。
だから、根本的に法律自体が不正でおかしいのだが、自分達が気に入らない人は合法でも違法でも許さずに、合法でも違法でも自分たちが気に入っている人とか仲間とかだったら許している場合もあり、えこひいき差別をしている。

都合のいい法律や正しいと信じている法律の場合は適用して都合よく利用し、正しいと思わない法律は適用しないのだ。
国民もいい加減で適当でバカなところがあるが、国民の多くは普通の人や、一般人や善人などと言われているのだろう。

ゴミ捨て場の決まりで、ゴミ捨て場にカギが掛かっているのをゴミ当番の人が開けなかったら、当番の人に不満を持つ人が多いと思うが、
ゴミ捨て場にカギを掛けていること自体がおかしいとか、ゴミ捨て場にカギを掛ける決まりを正しいと信じている人や、決まり守っている人の方がおかしいとは、あまり思わないのと同じようなもので、法律の一部を正しいと信じて守り、同じことをしない人を牢屋に入れたり、裁判やったり、「まじめな人が損をする」など言って、例外あれど、大勢と同じことをする多数派を良く言い、少数派が悪く言われるのだ。

生活保護の人に働けなどと言ったり、思ったりして不満を持つ人もおかしいのだ。
なぜかというと、仕事の面接に行っても要らないから不採用で落とされる場合もあるし、採用されて働いても人間扱いされなかったり、辞めさせようとしてきたりなどしている場合もある。
ああ言えばこう言う、ああやればこう言うという感じで、逆のことをやっても不満を持ったり、不満を言ったりして嫌ったりする。

合法で金でやっていく世の中をやっていくことを正しいと信じている人が、自分達が合法で給料や印税を貰ったり、年金や税金などを取ることは許すのに生活保護の人が合法で金を貰っていると悪く言う人や、良く思わない人がいて差別をしている。
金でやっていく世の中を正しいと信じている金信者が、別の金信者が合法で金を得ていることに不満を持つ人もいるのだ。

以前、新聞の折り込みチラシの中に仏教の僧侶が書いていると思われる紙が入っていて、それを読んでいると、一字一句はっきり覚えていないが、「昔は家族、親戚に生活保護を貰っている人がいたら恥ずかしいから
面倒見てましたよ。貰えるもん貰っとけで生活保護貰って」みたいな感じのことが書いてあったと思う。
他人の姿は自分達の姿で、合法をいいことに貰えるもん貰っとけで給料、印税、皇室費や、おこずかいやお年玉、募金や寄付や年金などの金を貰っているのは同じことだが、生活保護の人にはケチをつけて不満を言っているのも、ただの差別、偏見である。
仏教徒も貰えるもん貰っとけで、檀家から金を貰ったり、托鉢で金や食べ物を貰っているが、合法で金とか貰っているのは同じことだろう。

どうみても他の国民達より特別扱いされている天皇家の人が税金から皇室費を貰っているが、そのうちの一部は天皇家の人に対する生活保護とも言えるし、年金貰っている老人は生活保護とは言われないが、
これも生活保護とも言える。
生活保護の人たちが、生活保護の金で、クーラーやスマホやガソリン代とか
日常で使うものなどに金を使っていると不満を言う人がでてくるだろうが、それならば年金や皇室費も同じようなものだろう。
だから、みんな合法の金泥棒なのだ。給料や印税を貰うのも、金がないとやっていけないから合法をいいことに貰えるもん貰っとけで金を貰っているのだ。

給料や印税という形で金を貰う理由付けに、労働に対する対価とか、神様から貰ったなどの意味や理由をつける人がいる。
大勢が仕事や職業と呼んでいることをやった人には、給料や印税という形で金を与えたらいいけど、多くの人が仕事や職業と呼んでいないことで何かをしている人は例外あれど金を貰わなくてもいいと信じている人が多そうだ。

無職と言われている人が家の家事、掃除、洗濯や、それ以外の何かをやっていても金など一円も貰えなかったり、家族とか誰かから金貰ったとしても、一か月とか半年、一年で数百円とか数千円と一万円やそれ以上の金を貰っていたとしても、給料、印税を貰うことをしている人ほどは金は貰えない人が多いだろうから、何かをしている労働に対する対価で給料、印税という形で金を貰っているというのはウソである。
神様が金くれたのだというのなら、誰かは金貰えても、別の人は貰えないのは、どういうえこひいき差別している神なのかということになる。

バカにしてたり、見下している仕事などに「怪しい仕事」などと言ったり、
合法で仕事していても、「あんなことしないとお金が入ってこない」などと言ってバカにしたり、おかしい仕事と、まともな仕事があると分けている人がいるが、金でやっていく世の中自体が不正で正しくもない世の中、社会であり、こんな世の中自体が怪しくて、おかしい、胡散臭いことをしている世の中、社会なのだ。

 

7.ウソを正しいことのように言わないと生きていけない人類

 

 

多くの人は金がないと食べ物も食べられない、生活費を払えない、欲しいものも手に入らないなど、金がないとやっていけないので、
金でやっていく世の中を、さも正しいことのように仕立てて生きているのだろう。
そして、その金でやっていく世の中で都合の悪いことは、例外あれど少数派のせいにしたり、大勢から嫌われたり、不満を言われている政治家のせいにしたりする。

江戸時代にキリスト教に禁教令が出されていて、キリスト教の信者が殺されていたみたいだが、キリシタン迫害など言われているが、
殺されないためには、ウソをついてキリスト教徒ではないと言わないと生きていけなかっただろう。

大勢がやっていることが例外あれど正しい、法律の一部が正しい、刑法が正しいなどと信じて、都合よく法律、刑法などを利用している法律信者、刑法信者もおかしいのだ。

「かわいいは正義」という人がいる。どういう意味で言ってるのかよく分からないが、多分、かわいい子のやることはなんでも許せるとか、かわいい子や、かわいいものを見ていると自分にとって都合がいいので
良いことであるなどの意味だろう。
この意味だと、昔から誰かが「カワイ子ちゃん、美人は許す」など言っている人もいるが、自分の役に立っている人は許すけど、同じことを自分の役に立っていない人がしたら許さなかったりする差別をしているのだ。

正しいこととは何かということについて、多くの人は
「自分が感じたことが正しい」「子供が正しい、子どもが正義」
「例外除いて、大勢が感じていることや、大勢がやっていることが正しい。多数派が正義。」「法律の一部が正義」だと信じていそうだ。
ほとんどの人は、いい人の善人で一部の人が悪人だと信じ、いい人たちがやっていることは、例外あれど何してもいいという信仰を持って、金でやっていく世の中を正当化させている人もいるだろう。

例外あれど、子どもが悪いと思うことやおかしいと思うことをしたら、子供のせいにはせずに大人のせいにする場合があるように、
大勢がやってることを正しいことだとまかり通らせて正当化させるためには、同じことをしない少数派(マイノリティー)を問題視して敵視したり、
悪者扱いする場合がある。
例外あれど、多数派(マジョリティー)には甘くて、少数派(マイノリティー)に冷酷なところがある。

戦争についても未だにウソを言っているが、数年前にテレビで戦争のことを「お国のために、天皇のために、家族のためにと思って行った戦争」みたいなことを言っていたが、一部ウソを言っている。
お国のために、天皇のためにと思って戦争に行った人もいるだろうけど、みんなが同じことを思って戦地に行ったわけではないだろう。
戦時中、戦争反対者が特高に逮捕されていたり、非国民などと呼ばれているのに、みんなが同じことを思っていたかのようなウソを言ってる。
テレビで戦地に行った人が戦時中に「なんで戦争なんかやらないとダメなんだ」とか「なんでこんな変な作戦やらないとダメなんだ」と言ったら隊長から処罰されたとうようなことを言っていた。
戦争に行った人が、渋々、戦争に行っている人もいて、戦争に行ったけど何で戦争なんかやらないといけないんだと思っている人もいるわけだが、
金でやっていく世の中についても、みんなが金信者ではなく、金でやっていく世の中がおかしいとか、不正だと思っている人もいるのだ。

時代の流れや、新しい時代を作ったとか、時代の流れに合わせる、時代の流れを受け入れるなどと言っている人がいるが、
こういう感じに使われている時代という言葉の場合は、時代という言葉を大勢という意味で使っている場合が多いと思う。
ある同じことを大勢がやったり、大勢が同じ物を持っていたり、大勢が同じことを信じていることを時代と言っているのだろう。
時代の流れに合わせるとか、時代の流れを受け入れると言っているのは、大勢がやっていることに合わせるということだろう。
つまり、自分が正しいと信じていないことでも、大勢がやっていることに合わせるということだ。
今で言えば、世界中の多くで、時代は金でやっていくのが正しいと信じている人が多い時代、あいさつ返すのが正しいと信じている人が多い時代、
スマホの時代や車の時代だということだ。

大勢と同じことをしていないと変な目で見られやすいところがあったり、悪いことだと思われたり、見下される場合もある。
あいさつを返さない人が変な目で見られやすかったり、嫌われたり、見下されるのも同じことだ。
時代の流れは神が作っていると信じている人もいるだろう。大勢が信じていることや、やっていることは神様にやらされていることだとか、
神様に許されていることだからやってもいいと信じている人もいるだろう。

要は、人間がたくさんいて、同じ土地を誰の者とするのか、二人以上の人間が一緒に行動したり、何かをするときに、
信じていることが違う中で、誰の思い道りにさせるのかは、例外あれど、自分や自分が上だと思っている人や好きな人や、
自分の仲間を優先させたり、多数派を優先させる場合が多いだろう。
主導権争いをしていて、金でやっていく世の中では法律を都合よく利用して、強制で無理やり金を払わない人を逮捕したり、
牢屋の中に閉じ込めるのだ。
絶対に金でやっていく世の中が正しいと信じていて、本来全てのものに値段が付いていないことは考えなくても分かることだが、
自分に都合のいい捉え方をしている金信者達の多くは、金を払わなかった人達の信仰や、その人たちの生きてきた環境などを考慮や配慮などせずに、刑法を利用して強制で逮捕させることを許している人が多いだろう。
この金信者の人達も、誰かに嫌がることをしていたり、誰かが間違っていて不正だと思うことをやったことで、強制で檻の中や建物の中に閉じ込めたら、それをおかしいと思ったり、不満を持つ人の方が多いだろう。
自分達は誰かが嫌がることや、誰かが間違っていて不正だと思うことをやっても許されるべきだと思っている人が多いと思う。
自分や多数派には甘いところがあり、汚いところもあるのだ。

スーパーに張っていたポスターに、「万引きは窃盗罪です」と書いていた。
警察は逮捕したりする時に人の体を無理やり押さえつけたり、手錠をかけたりとか、昔は特高警察が逮捕した人を拷問しているが
万引きは窃盗罪ですという言葉の言い方を真似して警察のことを言い表すと「警察は暴力団です」とか「警察は暴力集団です」とも言える。
バカという人がバカで、あいさつをしなかった人に不満を持つ人が、
自分もほとんどの人にあいさつしていなくて同じことをしているように、暴力振るった人を逮捕している警察の中にも暴力振るっている人もいるのだ。
警察のことを「おまわりさん、お巡りさん、お巡り」など呼ぶが、「汚まわりさん、汚巡りさん、汚巡り」とも言える。
警察自体や警察を良く思っている人は、警察が逮捕した人に身体暴力をしている場合があることを知らなかったり、逮捕された人を見下して、格下に見ている人や、劣っていると思っている人などは、逮捕された人に身体暴力をやってもいいと信じている人もいるのだろう。
自分に都合のいい汚い信仰を持っているのだ。身体暴力をやった一部の人を逮捕する警察が他の誰かに身体暴力やっていたり、
やってもいい身体暴力があると信じている警察もいるのだ。

罪という言葉は大抵、刑法違反とか警察に逮捕されるようなことをした人に使う人が多いだろうが、罪という言葉を、「美しさは罪」とか「知らない罪」と言ったりする場合もあったり、刑法違反ではない、警察に逮捕されることではないことで、ひどいことをしてると思った相手や、気に入らないことをした人に罪があると言う場合もある。
罪という言葉の定義、意味付けを同じ意味で使っているわけではないのだ。

逮捕された人に、罪を犯した、犯罪者や罪人と呼んでいる人が罪という言葉にどういう定義を付けてこの言葉を使っているのだろうか?
法律の刑法に違反したことを罪と呼んでいるのか、人が嫌がったり、迷惑することをしたことを罪と呼んでるのか、それとも、間違ったことをしている、不正(正しくないこと)をしていることを罪と呼んでるのか、
どういう定義、意味付けで罪という言葉を使って、窃盗罪などと言ったり、罪人、犯罪者などと言っているのかの理由を言わない場合が多いだろう。

間違ったことをしている、不正で正しくないことをしていることを罪と言うなら、金でやってく世の中は不正をやっていて、正しくないことをやっていて間違っているし、警察が税金から給料という形で金を貰ったり、
罰金を取ってることも不正なので、「警察は合法泥棒です」とか「警察は合法罪です」とか「警察は合法で不正やっています」とか
「みんな合法の泥棒です」とか「みんな合法罪です」「金でやっていく世の中は不正です」「商売は合法の泥棒、合法の詐欺です」とか
「警察は合法の罪人です」とか「警察は合法犯罪者です」などとも言える。

人が迷惑することをしたことを罪と呼んでいるのなら、金でやっていく世の中で大勢の人が迷惑して嫌がっていて、その金でやっていく世の中に大勢が加担していることを何で罪とは言わないのか?
部分を見て全体を見ず、小を見て大を見ずのようなことしていて、
一部の人が嫌がられていることや、法律違反をしたことは非難したり、見下して問題視するが、一部の人がやったことだけ問題視したり悪く言って、えこひいき差別をしている。
自分たちが合法でやっている色んなことに対して、誰かは嫌がっているが、
誰かが嫌がっているほとんどのことは、多くの人は悪いとかひどいとは思われていなことが多いだろうし、多くの人から泳がされていたり、野放しにされていたり、許されている場合が多いのだ。
人や人間以外の生物が嫌がることをしても、ほとんどの人は罪や悪などとは言われないし、刑法違反で逮捕になるようなことはない。
自分に都合のいい捉え方をして差別をしている。

 

8.職務質問自体が犯罪とも言える

 

警察がやる職務質問は法律で誰かが勝手に決めた決まりで、その法律の決まりの内容は「警察官職務執行法第2条に基づき、警察官が異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、
若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者又は既に行われた犯罪について、若しくは犯罪が行われようとしていることについて知っていると認められる者を停止させて質問することである」という決まりのようだ。

法律の職務質問の法に「異常な挙動」と書いているが「異常」の定義など人によって違う。
私は以前、30歳前後ぐらいの時に、岡山県の住宅街の公園の中の道を自転車で走っていた。
私のいる所から一番近い出入口付近の外の所にパトカーが一台止まっていた。
パトカーが止まっていた出入り口付近の公園内の所に大きい木があり、その木の近くに椅子があるのだが、私はその椅子に座って店で買ってきた物を飲食しようとしていたのだが、近くにパトカーがいる所で食べるのも嫌なので、公園で飲食するのは辞めることにした。私はパトカーが止まっている出入口の方からは出て行かずに、別の出入口から出ていこうとして、自転車で右側の方にある別の出入り口の方に向かって自転車を走らせた。公園の出入り口付近に私がいた時に、左側から気配を感じて左を向くとパトカーが私のいる方にバックして来て、パトカーから2人の警察が降りてきて、
そのうちの一人が私の方に向かって歩いて近づいてきながら「どこに住んでる」と偉そうに言ってきた。
私はどこに住んでいるのかは答えなかったけど別のことを喋って、その場を立ち去った。

職質は必要だという人もいるけど、職質されてもそれに答えないことも出来るのだったら何のために職質する必要があるんだろうか?
自分たちのいる方向に来なかったということで「異常な挙動をした奴」とか「不審・怪しい」と思い難癖つけて、どこに住んでるのかとかを聞いてどうしたいのだろうか?
職質してきて、相手が返答しても、ウソをつくことなど簡単であり、年齢や職業などを聞かれてもウソを付くことも出来るし、質問に答えないことも出来る。
職質することを「仕事です」とか「職務です」「疑うのが仕事です」と言えばカッコが付いて、美化出来て、いい感じの理由付けになるんだろうけど。

警察など法律のほとんどを知らないだろうし、知る気もないだろうし、知ってる法律も全てを守っているわけでもないのに、
「職質は疑うのが仕事だからです」と言う警察もいるのだ。いい加減、適当に自分に都合よく法律を利用して、上から目線なところが警察にはあるのだ。
仕事や職業と言えばカッコが付くところがあり、多くの人は仕事や職業と言えば怪しむこともあまりないのだろう。

警察が職質している本当の動機、目的自体が怪しいし、
警察が職務質問している本当の理由、動機、目的は次の文章に書く理由、心理などでやってそうだ。
・職務質問を隠れ蓑にして、警察が正義の戦士のウルトラマンや仮面ライダー、アンパンマンなどを気取りたいため、
偉人、英雄願望、ヒーロー願望などのためにやってる警察もいるだろう。
・職務質問という言葉や職質の法律を隠れ蓑、名目、建前にして差別、偏見をやっている。
・仕事という言葉の美名のもとに差別・偏見をしている。
・職務質問や仕事という仮面を付けて差別・偏見をしている。
・世のため、人のためというふりして、自分の個人的な主観で職質をしている。
・法律を盾にして、虎の威を借る狐で強気になり、特権階級意識を持って調子に乗って、上から目線で職質している。

誰かを不審という人も不審なのだ。警察が職質している理由も不審で怪しいし、それ以外のことでも自分達の色んなことを隠していて不審だ。
職質されて色んな理由で嫌がっている人もいるだろうが、警察は職質しても捕まりはしない。
職質することで世のため、人のためのようなふりをして、人が嫌がることをしているが、嫌がっていることにも気づいていない場合もあるだろう。
おかしな、不審な異常な奴に職質してやったと警察や警察以外の一部の人は満足だろうが、職質されている人の職場の人や近所の人などが、職質されているのを見て職質されている人に悪印象を持つことで、
職質されてる人間の印象が悪くなったり、職質されてる人の家族の印象が悪くなる可能性もあるが、警察なんかそんなことも意識していない人が多いだろう。世のため人のための正義で法律で許されていることだから職質をやっていいと思う警察もいるだろう。
法律自体が正しいことではないし、職質の法律も正しくもない。世の中の多くでは正しくないことが正しいとされて、まかり通っているのだ。

人が嫌がることした一部の人たちは刑法違反で捕まるが、
警察から職質されることで、職質された人が嫌がっていても警察は逮捕にはならない。
アンパンマンが悪役にパンチして殴っても多くの人は許すだろうが
正義のいい人は、悪人だと思う人や見下している人に何をやってもいいというような信仰を持っている人もいるだろう。
子どもがやることが許されやすいところがあるのは、子どもが善人のいい人で正義だと思っていたり、子どもを好きな人が多いからだろう。
みんな誰かが嫌がることをしているが、ほとんどの人は捕まらずに一部の人だけが捕まるという差別をしているのだ。

そして、みんな不審とも言える。地球は人間のものではないだろう。
その地球上の土地の一部分を自分達のものであると思っている人もいる。
自分達がどこに住んで、どこの田んぼや畑を使っているのかを、全ての人に言う人はあまりいないだろう。
地球の一部を自分の物だと思っている人は、その場所に住んだり、使ったりしていても、自分が住んでいる場所は他のほとんどの人の土地ではないと思っているので、ほとんどの人に対して、どこの土地を使っているのかとか、どこに住み着いているのかは隠しているのだ。
自分たちの個人情報や色んなことをほとんどの人に隠しながら生きていることは不審だとも言えるし、そういう人たちのことを不審者とも言える。
自分がおかしいと思う言動を取った人や、悪人だと思う人などを不審者という人が多いだろうが、自分達も不審者なのだ。

自分達は地球の一部や人を自分の思い道りに支配して、言いなりにさせたいところがあっても、他の人がそれをやっているのは許さないところがある。
金でやっていく世の中という不正を、さも正しいことのように仕立てている世の中も怪しく、胡散臭い、イカレてる、異常な世の中で頭のおかしい世の中だ。
そんな社会、世の中に生きているほとんどの人を普通の人で、まともな人だと多くの人が思っているのだろう。