『オスカー・ワイルド』読み終わりました^^
面白かったし最後まで厭きなかったです
それはもうひとえにオスカー・ワイルドという人物の人生が波乱に満ちていて
どんな小説よりもありえないことが起きていたからではないかと思いますがw
この人生を歩んだ人がもし創作上の人物ならやりすぎと感じたかもwww
”現実は想像をはるかに超える”ということでしょうか
ワイルドの人生でやはり一番すごみがあるのは裁判とボウズィー(ダグラス卿)の関係かな
ボウズィーのすることなすこと普通そんなことする人いないでしょ!と思うし
それに振り回されるワイルドもいい加減止めれば?と思ってしまう
DV夫とそれに振り回される妻の関係なんかだと実際にあることかもしれませんが
表面化しないことが多いから現実的な感じがしません^^;
ワイルド自身の言葉
「私は人生こそ精魂をつぎ込んだが、作品には才能しか注がなかった」
という言葉は裁判・有罪・投獄と読み進めると、本当に納得してしまいます
もし裁判を上手く切り抜けて無罪になり投獄もされなかったら
ここまで後世に語り継がれる人ではなかったのかもしれないと感じます
作品が凡庸というのではなく人生が作品を上回る迫力で展開したというのと
彼が裁判で有罪にならなければ同性愛者だったことは公にはならなかったかもしれないですし
彼の死後同性愛に関する噂はあったとしても忘れ去られたかもしれませんよね
そうなれば同性愛の殉教者としての扱いはなかったでしょうし
この時代、同性間でセックスする男性というのは普通でないにしてもかなり存在したようです
しかしあまりの嫌悪感から誰も直視しなかったことでうやむやにされてしまったようですし
ワイルドの親しい友人ですら有罪になったのちも同性愛者(正確にはその概念はまだ無いのですが)だと信じていない人もいたようです
そんなワイルドですがが刑期を短縮するために自ら同性愛者だといいます
同性愛者=精神病ということで刑期を短縮しもらおうと考えたのです
残念ながら減刑自体は却下されますが・・・
最初は病気として社会に認知されるというのは
今の性同一性障害を思い出させます
病気として始まった同性愛もその後の活動で病気ではないという認識が一般化されます
(まだ多くの人が差別感情をもっているようですが)
この前読んだ『LGBTを読みとく』では
性同一性障害は今のところ”直すべき負の価値観を抱えた性のあり方”という考えで治療を施す病気だとされている
しかし脱病理化し、病気ではない多様な性のあり方の一部と考えた方がよいという立場です
ただ違法な治療での危険性から当該者を救うという意味では有意義だとも言っています
私も性の不一致は病気だという考えには反対です
性同一性障害は病気ではないけれども、安全な治療が受けられるようになるのが最良なのではないでしょうか
同性愛が病気で出発し、徐々に病気ではないという考えに社会を変えていったように
『LGBTを読みとく』では同性愛が”行為から人格へ”の移行する過程が
オスカー・ワイルドの裁判を追って解説されていたので
ワイルド裁判が同性愛の一つの契機になると私は受け取っていたのですが
『オスカー・ワイルド』では1980年代後半にワイルド裁判がイギリスで初の同性愛裁判と説が出て
イギリス同性愛史の画期とみなす時期があったけれど
2000年代以降はそういう考えではなくなり歴史家の間では特別視されなくなった
と書かれています
有名な裁判で説明に使うのにわかりやすい事例だということなのでしょう
近い話題の本を続けて読むと理解が深まりますが
新たな疑問も出てくるのは常です^^;
そうしてまた次の本が読みたくなるという
本読み地獄?天国?ですね(笑)
私はLGBTからの流れで『オスカー・ワイルド』を読んだので
同性愛および同性愛者の社会的立場の変遷に主眼を置いて読みましたが
そこにこだわらないと、やはり一番注目されるのは
オスカーとダグラス卿の関係じゃないでしょうか
この二人の熱くもどうしようもない腐れ縁はすごいですよw
そこも結構楽しめ?ます
オスカー・ワイルド - 「犯罪者」にして芸術家 (中公新書) | |
宮崎 かすみ | |
中央公論新社 |
LGBTを読みとく ──クィア・スタディーズ入門 (ちくま新書) | |
森山至貴 | |
筑摩書房 |
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