国家戦略室 (アンダーグラウンド)

日本本来の政治、統治、歴史についての研究

統計の不正

2019年02月05日 | Weblog

統計不正については学べる点がある 

1、統計はごまかせる。

 数学的にはごまかしができるはずはない。しかし、抽出や運用、さらには数式の運用さえ人の手に任せられているかぎり、ごまかしがきく。

 原発やスタップ細胞を思い起こしてみればわかる。絶対安全だったか、有ると証明されたか?

2、組織的な責任の所在と真犯人をわけて考えるべき。

 野党は政争のために矛先を間違えている。

 いつものことだが、組織上の責任者と実施を指示したものとの区別を明確にする必要があり、そのための法律を作成する必要がある。

 同じであれば真犯人としてあげるのもいいが、別に真犯人がいてその責任を上司がかぶっていては、いちいち責任者がやめなくてはならない。これでは聖人君子であっても継続が無理。

 原発の運用の方向性などはもちろん上の責任者によってきまり、上を変えて方向性を変えてもらわねばならないが、統計操作が官僚責任者の采配であれば、その官僚を処罰しなければいつまでたっても不正は改まらない。

 合議制の多い行政組織であっても会議出席者の名前を明記保管し、当時の担当者を洗い出せるようにしておかなければならない。実施の責任者の名前も記しておかねばならない。民間ではやることを官僚ができないのはどういうわけか。

 それでも隠蔽があるのなら、国民が記録できるようネットでの公表を義務付ける。

 隠蔽を指示した人物をあぶり出す機構を作らないと、再発する。

 野党はこれで相手を倒すことを考えるのではなく、行政を適正に運用するにはどうすればいいか。提案すべき。

 自民の良識派と協力すれば、野党の評価もあがる。それをやらずに政党批判すればまたかと思われる。

 

 


千島の交渉

2019年01月23日 | Weblog

 竹島でも千島でも実効支配されるから不利になってくる。

 うやむやな時期に手をうっておかないからだ。

 事なかれ主義うやむや主義、官民の分離はこれに関しては不利に働く。ロシアがまともな交渉をやるか?

 第二次世界大戦の経緯が物語っている。ロシアは最後にどんでん返しをやる。

 二島返還などとだまされてはならない。

 国も土は海域、防衛問題に直結する。政治的妥協が国防を危うくする。国同士ではロシアという国は信じるに値しない。

 国際裁判所に仲裁に入ってもらえ。


国教樹立

2018年01月24日 | Weblog

国教については、ドイツでグナイストら複数の憲法学者にすすめられていたにも関わらず、明治憲法では決めなかった。

その理由はおそらく、明治維新、古代の制度にならって神祇官がすぐに作られたが数年を経ずして降格、廃止になったこととも関係があるだろう。

日本の宗教といえば神道か仏教だが、仏教の教理からは天皇は出てこない。天皇は神道の教義から導き出されており、天皇陛下を国の中心に据えるとすれば神道しかない。

ところが明治維新いざ神祇官を設置してみると様々な教派間で意見の対立があり、まとまらない。

伊藤博文らの目には神道が国をまとめるに役立つとは到底思えず、欧米列強と肩を並べてゆくには宮中と内閣を切り離す必要があると考えた。

思うに古代の神祇官制度は、神託の存在が前提とされている。つまり神の意思を何らかの形で知り、それを国政に反映することを前提としている。

ところが、この時、神の意思をうかがう方法が失伝していた。

少なくとも神祇官にいた役職者たちは伝統を重んじ、口伝や祭祀を伝えていたが、肝心の神意をうかがうという方法を知らなかった。(占いレベルではあったかもしれない)故に形式の違いで論争になり、派閥争いになり、それが国の方針を固めようとする時期に機能しなかった。

実は在野では出口王仁三郎が生まれたのは明治四年で、彼が想念になるには少し時間が必要であったが、彼が学んだ本田神徳という霊学の大家はすでに(文政5年1月13日1822年2月4日) - 明治22年(1889年4月9日)神がかりや神占の研究をしていた。後に副島種臣が弟子となっている。

伯家神道のが学頭高浜清七郎という人が宮中に呼ばれそうになったが結局実現しなかった。

すでに、わが国の宗教間、宗派間の対立があること、国民をけん引するだけの内容が、仏教にも神道にももはやなく、いずれかを国教としてもちいても、教義教派の対立が生じて、それが政治に影響することが見えていたからである。

明治維新。1968年 神祇官制度が作られた。


君主立憲VS天立君主

2018年01月21日 | Weblog

いままで説明をあいまいにしてきた部分について現在の意見をまとめて書いておく。誤りかもしれないし、今後変わるかもしれないが、現時点の考えという事でご容赦願いたい。

明治憲法では井上毅と伊藤博文の意見が対立し、また識者の意見も対立して、明治憲法はどちらでも解釈できるように憲法を作った。

 

キーワードになるのが「輔弼」ということばで、簡単に補助あるいは助言と承認と解釈すべきかどうかいろいろ意見はあるだろう。

そして最も大きな意見の対立は、政府あるいは内閣、議会の輔弼なしに天皇が独断で採決できるかという事である。

この点について出口王仁三郎は天皇陛下の独裁でいいとして天立君主説をとり、天皇機関説を軍部と一緒になって批判した。

天皇機関説は天皇は国の機関の一部であるから、そういうわけにはいかない。憲法が上にあり、天皇が下にある立憲君主の立場をとった。

昭和天皇は明治憲法を立憲君主として解釈されていた。また張作霖爆殺事件の教訓から、天皇が強権を発動すれば国の組織が壊れてしまうという危機感を持たれていた。

この点について昭和天皇は終戦後に終戦時は昭和天皇の決裁で周旋できたのに開戦時はなぜできなかったのかと聞かれ、開戦時はそれをやったとしても軍部が内乱を起して日本がめちゃくになっただろうという予測を挙げた。

秩父宮が憲法停止して親政にするようを意見具申したという噂もあるが、天皇はこの時、明治天皇の意向が立憲君主であったと信じ込まれていたようだ。

また他所で専制君主といわれることを嫌っていた。立憲君主として自らを意識されえいたおであろう。

現代の視点から見れば、天皇陛下のお立場が法的に正しく、出口王仁三郎や、軍部での天皇機関説排撃は時代遅れのナンセンスという事になる。

そう思われる方は、ここから先を読まないでほしい。理解できないであろうから。

また私はそれに対して反論するつもりもない。反論している時間が惜しい。

私は出口王仁三郎が書いているように、天立君主立憲が正しいと思っている。

そしてその君主は祭祀を通じて天皇として立てられたその人である。

現在の祭祀が正しいかどうかはわからない。正しい方法を伝えていた家が断絶し、太古の祭祀を行う方法も散りじりになってしまった。

一種のシャーマニズム国家が日本のあるべき姿だとしたら、その祭祀方法が今ではわからなくなってしまっている。決められた一族が、太古に決められた方法で、決められた時期に行うことで、人間天皇が天照大神と一体になり、完璧な政治がおこなわれると考える人びともいる。

 

 

近世中世を経て変節した祭祀がどの程度正しいかもわからない。

そもそも三種の神器が同殿同床になっていないこと、天皇が関東おられること自体が「いいのか」とも思われる。

ただそのようなオカルト的側面は真面目に語られる時代ではないし、即物的な理由から天皇と皇室のあり方が考えられ、決められる今日である。

私はできるだけ出口王仁三郎の考えに近づこうとしてきた。それは、現代の大本の解釈かどうかは別として、明治初期、あるいは戦前の思想に近いものがあった。

危険思想として現代人が捨て去ってきたものである。

私は出口王仁三郎の残した文献を手掛かりに、明治初期や戦前の思想を読み解いてみると、そこには世間で学者の言っていることと違う問題点が見えてきた。

これは議論してわかるものではない。

仮説を立て、文献を探してゆくと必ず見えてくる情景がある。

議論するには反論しなければならないが、その時間は私にはないので結論だけの推論を記しておく。

この説は現代にあっては極めて少ないマイノリティであるので、書籍が存在しないのだ。

この書物のあふれる時代に・・。

昭和天皇は天皇機関説に反対ではなかったといわれる。また秩父宮の天皇親政に対して反対意見を出されていた。政治に積極的に介入されようとしなかった。という話が事実であれば、昭和天皇の意見は出口王仁三郎の意見とは異なっていた。

出口王仁三郎は天皇機関説に反対し、天皇親政を主張していた。そのことは今や文献を検索すればわかる。

おろかにも出口王仁三郎が自分の出自を盾に自分が天皇になろうとしていたなどというのはまるっきり誤謬で、出口王仁三郎は皇道を正しい道に戻そうと必死だったのである。

 ところが、天皇主義のなかには天皇機関説に共産主義思想を混ぜて説く思想家が力を持ち始めた。それが北一輝と大川周明であった。彼らの説は畢竟国家主義であり、天皇は機関の一つの役割に過ぎない。またファシズムの影響を受けた思想を紛れ込ませた統制派もあるが、これも天皇の意見が違っていれば天皇を意見を聞かなくてもいい、天皇を変えるという考えまで行く思想だった。

 つまりひとくくりに戦前の天皇制といっても違いがあった。

 現代思想から見れば、皇道派の出口王仁三郎や真崎らの考えの方が危険思想のように見えてしまうかもしれない。天皇親政など言うのはできるものではない、と思っている人も多い。また他国の歴史では国王の独裁体制がうまくゆかなかった例が山ほど歴史書として流布している。

 正直、専制と、独裁体制と天立君主立憲の線引きがあいまいだと思われるだろう。

 出口王仁三郎は天皇は独裁でいいという。天皇は民主的に決まるのではなく、天立であるから、天に伺うほかない。うかがう方法を私は知らない。すでにかなり前に失伝しているらしく日本書紀には継承権のトラブルが度々みられる。それで現在は長子相続になっている。民が決めるものではない。そしてそれを決める法も勝手に民が決めてよいものではない。

 憲法については君主の意思と民の公論にて決めることは可であるが、君主の意思に反して法律をつくるというようなことはあり得ない。君主の意思が先で、大臣や議会の議論はその意思決定を実際の形にして運用するために議論する。

 私は天立君主立憲とはそういうものであると考え、天皇は憲法の方向性や運用にかかわり、場合によっては緊急停止、変更などの指示を出すべきだと思う。

 生きた運用の命令は神から天皇へ、天皇から国民へと向かう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「輔弼」という言葉

2017年12月27日 | Weblog

大日本帝国憲法には輔弼という言葉が使われる。

日本国憲法では

「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。」とされておりこれがそれに近いものとされている。

輔弼といい、助言と承認といい、いずれにしても主体は天皇にあるということを多くの解釈者は忘れている。

いまの日本では助言と承認を与えているのは天皇の方であって、実際に決めているのは内閣ではないのか。

大日本帝国憲法においても、天皇を輔弼するのであって逆ではない。旧憲法では一般国務について「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」(55条1項)と定められていた。

この解釈が天皇機関説の美濃部と、上杉穂積とで違った。

美濃部は大臣の輔弼がなければやるべきことをやっちゃいけないと解釈したが、穂積と上杉は国務大臣の輔弼は天皇の統治権行使には不可欠なものではないとしていた。

輔弼を助けと承認と解釈してわかりやすく説明すると、

戦前の憲法「国務各大臣は、天皇を輔弼し、その責めに任ず。」には二つの解釈が可能だった。

A、天皇は絶対大臣の助け承認なしになんかやっちゃいかんという解釈。・・・美濃部達吉

B、いやいや助けと承認をうけるのが手順だけどなくても天皇は権利行使できるという解釈。・・・穂積、上杉

 

結論から言えば、明治憲法は二つの意見を持つ人たちの合作であった。伊藤博文は立憲君主を目指したが、井上毅は伝統法学と古典の立場から憲法を構築したが、いずれも宗教的素養がなく、国教樹立にまでは至っていない。

井上にとってはそれが両親であったかもしれぬが、出口王仁三郎は国教樹立の必要性を説いている。

 

いろいろと書いてきたが、天皇親政という視点からみると、この複雑なほつれがとけてくる。

天皇が憲法を通じて国民を統治し、大臣は家臣として天皇を補助し天皇の意思の具現化を補助すると考えるべきであろう。

大臣が天皇を助けるのであって逆ではない。

明治憲法はどちらにも解釈できるよう作られていた。あるいは盲点だったかもしれないが、元田あたりはわかっていたようだ。明治天皇もそれを許した。

 

 

 

 

 

 

 



 

 




超訳 憲政大意(穂積八束)

2017年11月25日 | Weblog

国家統治の主権の所在に違いがあるのは国体に違いがあるからである。

主権の所在は歴史の結果により、国民の確信からでる。

各国歴史が違い、国民の歴史が違うために国家の体制が異なる。

主権は国家の意思であり、主権がなければ国家もない。

しかし、国家は自然意思をもってはいない。人の意思を国家の意思とする。

いかなる人の意思権力を国家の意思とするかは歴史の流れを見、国民の確信に問うべきであって、国体の違いはここから生じる。

特定一人の意志権力を国家の意思とするものは君主国体

多数の群衆の意志権力を国家の意志権力とするものを民主国体という。

国家内部の主権存立の態様の違いであり、国家そのものに種別があるのではない。

君主国、民主国の違いは国家の種類の違いとしてみるのではなく、国体の違いとみる。

国家の概念と国体の概念とを区別することは、立憲政治の本質を明らかにする一大要件である。

統治主権の行動の形式をさして政体という。国体の違いは主権存立の違いからくるが、政権はすでにある主権の行動のいかんをいう。国体と政体は異なった概念である。

故に国体が同じであって政体が異なることがある。政体が同じで国体が違うこともある。一定の国体が一定の政体に伴うものではない。

国体と政体の変更は革命である。政体の変更は制度の改正である。

しかるにこの二つの概念を混同しているために(他国の)立憲政体を導入しようとして混乱してる。我が国固有の国体と政体は昔から変わっていない。

民主主義は国体の論

三権分立は政体の論である。

欧米では国体論と政体論を混同した。ルソー、モンテスキューの思想が欧米を席巻したが、その思想は決して新しいものでなく、それ以前にもあった。

我が国の国体は君主制。

国体の違いは歴史の成果によるものであり、その善悪をいうべきものではない。

今もしく偏狭な欧米の国体論で我が国の国体を軽んじるようなことがあれば、天与の最鋭の武器を捨て民族自滅を招くほかない。

 

憲法の制定は政体の革新としてみる。国体に変化なし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


戦前の皇道主義と統制主義の誤解

2016年10月18日 | Weblog

戦前の天皇制は複雑ではあるが大きく分けて2種類に分けられる。

国家の枠組みの中に天皇を配置して考える天皇制と・・・天皇機関説

国家の枠組みを超えて、天皇制を考える天皇制・・・天皇主権説

後者の方が極端に見えるだろうが、北一輝、大川周明らの理論は前者であり、美濃部達吉も前者である。

出口王仁三郎といわゆる皇道派は後者にあり、前者は統制派である。

 統制派に属する永田鉄山は殺害されたが、その部下であった東條英機もまた統制派であ。

 永田がいれば軍部が変わっていたともいわれるほど存在感のある人物であったが、実はファシストを崇める謀略家で、実際には皇道派を陥れたといわれている。

 2.26事件は皇道派が仕掛けたといわれているが、実はバックには統制派がいた。

 しかしながら当時の青年将校達はこうした理論の違いが結局どういう結果を産むかをしらなかった。

 有名な2.26の仕掛け人いわれていた北一輝は統制派の一人であった。

 

 北一輝は出口王仁三郎に協力を求めたが、うまくあしらわれて返されたとい。

 皇道派の真崎甚三郎は評価が低く、昭和天皇からも疎まれていたようだが、

彼の北一輝、大川周明評は正しい。

 彼は「思想問題を研究し、北一輝の『日本改造法案大綱』はロシア革命におけるレーニンの模倣でありそれを基にした国家改造は国体に反する、大川周明の思想は国家社会主義であって共産主義と紙一重の差である、と結論づけた。そして軍人の革新運動への参加は、軍を破壊するだけでなく、国を危うくすると認識し、軍人がそうした思想家に近づくことを警戒していた」

・・・・ウィキペディア

極東裁判でも「証拠の明白に示すところは真崎が二・二六事件の被害者であり、或はスケープゴートされたるものにして、該事件の関係者には非ざりしなり」との評価から無罪になり、釈放された

 彼の日記によれば「日本の滅亡は主として重臣、特に最近の湯浅倉平、斎藤実、木戸幸一の三代の内大臣の無智、私欲と、政党、財閥の腐敗に因る」

としている。

木戸幸一については、統制派のトップ東条英機を推挙した人物として有名である。

 東條に罪ありとせば、東條を推挙した木戸にも大きな罪があるが、そのことはあまり語られていない。

 内大臣に問題があったことを指摘する資料はあまり表面に出てこないが、事実であろうと推察する。

 昭和天皇は天皇機関説に反対さえていなかった。といわれている。

 イギリスの立憲君主制を学び、過去に直接介入して失敗した苦い経験をもっていたからである。それゆえ、皇道論者が極端に見え、人選を誤られたともいえる。

 昭和天皇は明治天皇の時のように人がいないといわれたが、在野には出口王仁三郎のごとき天才がいた。戦略の天才としては石原莞爾もいた。

 内大臣が人選を誤ったということに尽きる。

 石原莞爾は、満州事変を成功させたが、中国に侵攻しないという天皇の大局的な判断に反していた。

 結果を考えると日本は満州事変をおこすべきではなかった。天皇陛下の判断が正しかった。

 石原莞爾は戦略の天才ではあっても、外交のすべての事情を呑み込んでいるわけではなかった。 

 彼はどちらかといえば、真崎甚三郎を馬鹿にしていた。

 2.26事件の時は反乱軍を穏やかにおさめようとする彼を面罵して、強硬鎮圧に動いた。

 このときの石原完爾の行動は天皇陛下の考えと一致していたため、陛下は満州事変を起こした石原を分からない人物と評している。

 つまり陛下は石原完爾の欠点と長所を完全に把握してはいなかった。

 石原完爾は統制派とみなされていたが東条とは対立していた。

  

 


なぜ国家の機関として天皇制を組み込むと問題が起きるのか。

2016年10月17日 | Weblog

いわゆる天皇機関説である。

天皇即国家という説と天皇機関説が対立したことがあった。

天皇即国家といった教授に、じゃあ天皇陛下が某国いったら日本国も某国行くんですかと揶揄した学生がいたとか。

抽象論としてはわからないでもないが、天皇が国家であるという表現はどうも理解がしにくい。天皇というのは人間である。その人間と国家という組織、国土をイコールで結ぶのも無理があるような気がしてならない。

しかしながら天皇機関説は天皇は理論上の国家に拘束される。議会が力を持てば、天皇は政治力を失う。実際そうなってしまった。

実は明治憲法は伊藤博文がそのように作ったのである。伊藤博文が目指したのは立憲君主であり、君主立憲ではない。つまり議会が、いうところの政府が、天皇の意思に反して戦争を起こす事が可能になる。

日本の場合は君主の意思を制限することで戦争が起きた。そのことをGHQは理解しておらず、戦後の政治家も憲法学者も理解していない。

だが伊藤博文ばかりに責任を負わせるのが正しいとも思えない。

日本は明治に神祇官という制度を作ったのだが、この時に武内宿禰のような人物が現れなかったのである。

このとき出口王仁三郎が神祇官になっていればまたちがったのであろうが、まだ生まれていなかった。

天皇陛下の皇道を説くものとして、出口王仁三郎が登場したと考えてよい。

両者が対立すると考える者は内部にも外にもいるが、これは出口王仁三郎自身も言っているように頭の抜けた連中で、実際出口王仁三郎の中には天皇家の縦の糸に対して、天皇を補佐する系統としての出口があったと思われる。

ところが天皇側は出口王仁三郎を理解せずに大弾圧をしたがために、憎む人もいる。

四代目の教主補栄二という人は、出口王仁三郎が探し出してきた人であるにもかかわらず、天皇制を重要とはみていなかった。したがってその後継者が、天皇制をしっかりと考えているとは考えにくい。日本が共和制になるのではないか、天皇家が単なる家として存続するようなというような左傾がかった記述を見たことがある。このような思想を語り始めたがために、左よりとして後継者からはずされてしまった。理由があったのである

天皇陛下が人でありながら、かかる壮絶な大戦と境遇をくぐりぬけて生きたことに、さすがのウェッブ裁判官も神だといったという。

人であり、肉体をもち病にかかり弱さがありながら、同時に人としての気高さとやさしさをもち、タミのことを想う君主を、われわれ国民は日本国の中心としてはいけないのだろうか。欲にまみれた政治家を中心にしなければ、ならないのだろうか?

TPPの問題一つにとっても、このようなものを簡単に受け入れようとする政治家の気が知れない。

アメリカに脅されているのか、何かと交換条件にされているのか。

日本を守ってやるからTPPに参加しろといわれているのか?

このような時にこそ、陛下に判断を問うべきである。日本はアメリカに手を引かれても、TPPへの参加を回避したほうがよいでしょうか?

もし陛下が天に伺えば必ず回答があるだろう現在出口王仁三郎のいた大本ではTPPは反対である。

農本主義であり、自給自足を広げるのが基本的な考え方である。自給自足を広げて日本国内にブロックをつくり、それを型として世界に広げてゆく。逆なのだ。

イギリスが疲れて欧州連合から脱退した。ところがTPPではその脱退すら難しい。こんなものに手を染めるべきではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本の君主論で世の中を見てみる。

2016年10月09日 | Weblog

我々は民主主義の考え方で物事を見るのに慣れてしまっている。

民主主義に反対すると、専制君主主義になると思っている。

あれかこれか。まるで性能の悪いパソコンのようだ。

ところが、日本の君主主義の考え方からすれば、どちらも極端だ。

君とタミがあるとすれば、君がタミを奴隷的に扱うのでなければ、タミが君の専制を嫌って君主政を打ち倒すのでもない。

君とタミが仲の良い親子のように互いに思いあって国づくりをするのが、日本の君主政である。

ところが欧米ではこの考え方が消滅しまった。日本でももはや消えてしまっている。

これは民主主義の御用学者が、自分たちの視点で解釈して抹殺してしまったのである。

今日民主主義に反対するものはマイノリティであり、白眼視される。

しかし日本はどちらなのだ。君主がいる民主主義国家?

論理的に全く筋が通っていない。

日本的君主主義の立場からいえば、国民は民主主義という欧米人が編み出した虚構論理を信じさせられているのである。

デモクラシーとうのはまだわかる。民衆が権力をもつという意味あいならその通りであろう。

しかしこれに民主という言葉を当てはめるのはまずい。民が主となる。

語源から考えれば民は奴隷を意味する奴隷が主人になる。これは国家の統治機構を逆さまにすることを意味してしまう。

故にこの国民主権だの民主主義だのという言葉を安易に憲法に入れてもらいたくないのだ。

故にここではカタカナで「タミ」と表記する。

こんな世の中であるが、私は数少ない君主論者として、物事を解釈してみる。

世間がご立派な憲法を立て、陛下がそれを認めようと、

原則は、天が、タミのために君主を立てたと考える。故に君主は天の意思を自分の意思として、タミを愛でる。天とは何かといえば神であり、森羅万象を司っている意思である。森羅万象が神の肉体であり、そこには意思があると古代人や私は考えている。

人間に肉体があり、意思などの目に見えない心があって動きがあるのはその神のあり方の相似だとも言われている。

すなわちミクロコスモスとマクロコスモスの発想は、日本の古来から存在した。

あるいは人間の肉体は神殿に例えられる。

世界は日本がドイツのヒトラーの如く、世界制覇を狙って他国への侵略を繰り返したと断罪した。

しかし、石原莞爾がいう如く、ペリーが日本に大砲で脅しをかけなければ、日本はおとなしくしていたのである。アメリカが日本を搾取し始めたがゆえに日本は動き始めた。

太閤時もそうである。仕掛けたのはポルトガルである。

神功皇后の時でさえ、実は熊襲新羅の結託があったといわれている。いまは侵略として評判の悪い神話だが、新羅が熊襲をたきつけたとすれば、そりゃあ日本だって怒る。がこのあたりはあくまで異説。

 「神功皇后が三韓征伐を先にしようか、熊襲を先に討とうか、と云う事があった。その時の御神勅に「西方に国あり、これを先ず先にせよ、そうすれば熊襲の如きは戦わずして、従う」と云う御神勅があった。」

つまり新羅と熊襲は関係している。本体は新羅だから、新羅を打てば熊襲は崩れるということになる。

そこで大陸侵攻となった。

今でいえば、○○○のスパイが日本の○○党や、○○○という組織を使って日本を混乱せしめようとするようなもので、枝を叩いても終わらず、結局は元を絶たねば解決しないということ。

 

 

 


一厘の仕組み

2016年10月05日 | Weblog

1900年から3050年前にウシトラに閉じ込められたという。紀元前11世紀 殷周革命後ということになろうか。

 

古事記の大后息長帯日売命 の帰神のところに一厘の仕組みが書いてあるという。

これは三韓征伐の話であり、神が西国統治を支持して神功皇后が大陸侵攻した話である。

天岩戸開きというのは日本の皇室の権威が大陸に知らされることではなかろうか。

おそらく戦前の人間は、この故事を頭に入れて大陸新進出を武力を用いて行ったのではないかと推察する。

また明智の献策、太閤の大陸進出、日本側の中国に対する尊大な態度も太古の歴史に基づくものだったのかもしれない。

お筆先に「艮の金神大国常立尊が神功皇后様と出て参る時節が近よりたぞよ。此事が天晴れ表に現はれると世界一度に動くぞよ、もう水も漏らさぬ経綸が致してあるぞよ」とある事は艮の金神国常立尊の【世界的進出の経綸】を申されたものである。即ち神功皇后様が三韓征伐を遊ばされた如くと云ふ意味、又神功皇后様【として】現はれて来るぞと云ふ意である。又「神功皇后様は昔は大将でありたが、今度はお伴であるぞ」といふ意味の筆先があるが、あれは事の大小を比較して示されたもので、彼の神功皇后の三韓征伐に比べては事件の拡がりが非常に大きいと云ふ意味である。

と月鏡にある。

また手のひらかえすというのは、ひっくりかえっている民主主義が君主主義にもどるということではなかろうか。

つまり、一瞬のうちに君主主義が復活して、皇道が世界に認められる時が来るということ。そのとき今ある制度が、そのまま逆転して、所有権が拝借健とされ、金本位制度がコメ本位となる。世界が12の区画で統治されるなどが出現する。

12の王国だろうか。

しかいこれが起きるとすれば、相当な世界変動が予想される。九分九厘までいって、どうしようもなくなった時といわれている。

かつて6回あった天変地異の七回目の後だとも言われている。

また第二次大戦後よりも、本当に火の雨が降るといわれている。

 

 

 


日本国憲法自民党草案の問題点

2016年09月25日 | Weblog

前文

「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。」

国民主権という考え方は虚構論理に基づくものであり、憲法に入れるべきではない。しかしながら、それでは現今の国民は納得できないであろうから、別の文章を考案せざるを得ない。

現今の法律学者を動員すれば必ずこの国民主権を入れるべしという話になるだろう。だがこれは「日本固有の文化」に反する。

天皇と書いてスベラギと読みこれは統治者を意味する。したがって天皇を戴くとする限り、それは統治者を戴くという意味であり、国民が統治者であるが如き表現は矛盾をはらんでいる。

それともう一つ「国民」という概念である。選挙により代表者が政治運営を行うということを、国民主権によって政治が行われるというのはイコールではない。ありていにもうさば複数の意志を多数決と通じて一つの意思と「みなす」という大雑把な擬制が行われているだけの話である。これは国民の総意ではない。

政治が多数決によって動くということはやむを得ぬ部分もあるとは思われるが、それを国民という単数の意思とみなすのは一種のゴマカシであり、政治哲学の欺瞞である。

しかしながら、現在の「自由民主」党がこれを言うわけはない。言えるわけはない。

国民や党がこの憲法を推すとすれば、それは神の定めた天皇制国家を否定して、国民が好き勝手に国を動かすという点においては変わらない。

もっとも危険なのは、天皇制を強化しながら同時に国家主義を強化して、天皇を国家の従属物のように扱う考え方である。

日本国民は勘違いしていて、戦前は天皇制が強かったから軍部が暴走したと思っている。そうではない。天皇は平和主義で戦争にならないようにと願っておられた。ところが、天皇の意思に反して自分勝手な国への思いを優先させたがために軍部が暴走したのであり、天皇機関説が広まり、天皇を国家の従属物と考えたがためである。

今日の日本も同様であり、天皇機関説をもとに日本国憲法ができており、憲法草案もかわらない。この状態で軍備を強化し、国民主権によって国を動かせば、戦前と同じ方向に歩むリスクはある。対北朝鮮との交渉は、外交官が陛下の意思を奉戴して対さなければこじれる。

憲法で否定しようが、政治が国民の手で動こうがほんとうは日本の統治権者は天皇であるが、ただ天皇が国民のことを想い、国民という赤子が頑張ろうとして作った憲法を天皇が遵守して権威を与え、どうにか運営されているというのが現実である。そのことを陛下が知ってやっているか、知らずにやっているかどうかはわからない。しかし、しかしそうした形で君民共治の体裁をとっているのである。

天皇の神秘的な力が国を形成しているともいえるし、それは国民の潜在意識に潜む天皇への想いかもしれない。それを象徴という言葉で表すことは悪くはない。しかし国民主権といい、国民の統治という言葉は避けることが賢明であろう。明言しないほうがいい。

占領軍は日本の牙を抜くために憲法九条を設定し、天皇制を利用して民主主義を根付かせようとした。

当然天皇なしで民主主義を導入することも考えられたであろうが、実際にはそれでは反乱が起きると考えたのであろう。

 

 

 

 

 

 

 






 我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
 日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。


 我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。


 日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。


主権とは何か。

2016年09月24日 | Weblog

主権という言葉はもともとは神が君主にその権利を与えるところから起こっている。

外国では王権神授といわれるが、我が国では皇権神授である。国民から来るのではない。

ただ、統治方法は「うしはく」ではなく「しらす」といわれるように、覇道ではなく親和道とされている。

上から支配したり、脅したり、して従わせるのではなく、おおみこころを知ることにより、心服して従う道である。

トップが下を隷従させるのではない。実はタミに民の字を当てるのは甚だ不適切である。

民の字は、逃げ出す奴隷の目を刺してつぶして脱走しないようにしたという漢字から来ている。

我が国ではタミをオオミタカラと呼んだ。国の宝という発想である。

また、神はオオミタカラのためにキミを立てたとされる。(仁徳天皇)

天の政治の理を地上に移す。神と君とタミが一つの心で進む道である。

そのためにたとえば、土地の所有をどう考えるかを例にとってみる。

いまの時代、土地は国有地以外は私有になっている。

それは「私」のものというところから出発している。

しかしながら、もともとは神のものである。その権限を君主たる天皇陛下に与えたとすればそれは天皇陛下のものである。われわれは天皇陛下から土地を借りることになる。したがって所有権ではなく拝借権となる。

今の社会は天地が逆転しているから、所有権となっているが、天地が元通りになれば拝借権となる。

陛下の御意志を想い、有効に土地を活用しようということになる。また、土地を穢すような核エネルギーの開発はやらなくなる。

陛下の権限により経済、軍備、政治が動く。陛下の権威により紙幣が発行される。すると紙幣の扱いが変化し始める。

経済学者は人間が功利的であるという前提で市場原理を考えるが、紙幣が陛下の御稜威により発行されるとすれば、陛下に対する想いが紙幣の扱いを変化させることを考えに入れていない。

人々に陛下の尊いことを周知せしめ、人々がそれを「知る」ことにより、陛下の御稜威により発行される紙幣の扱い、その扱いによって、人々の心に変化が起きる。

その心理的変化が経済の流れを変えてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本国憲法前文の国民主権という虚構論理

2016年09月24日 | Weblog

【解説】

 国政が国民の厳粛な信託によるもの・・・・・国政はもちろん国民が信託しているものでなくてはならない。

 しかしながら「その権威は国民に由来する」としたのが、逆さまの世といわれる根本原因である。
そんなこと誰が決めたのだ。その国民とはだれなのだ。私は日本国民の国籍を有するが、そのようには考えていない。

「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」としているが、このわれらというのは誰なのだ!

 少なくとも私ではない。この憲法の制作者が無理やりわれわれをそうなさしめようとした。憲法の制作者がわれわれの思考をそのように強いた。

 つまり日本国民「われら」と思じ考えを持っているという前提からこの憲法はなり立っている。

 ところがそれがそうではないとしたら、その前提自体が決めつけだとしたら。

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「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


【解説】

 われらというのは日本の大使が他国に向けて発するメッセージのようである。日本の国家としての宣言ともいうべき内容で、この部分の内容に関しては特段いうことはない。