シオンの議定書について詳しくは他を検索していただきたい。
ユダヤ人の長老が陰謀を企て、他民族を畜生化して支配するという内容でその会議の議事録のようなものである。某ロシア人が入手したもので前書きでは興味深い文章を残している。
聖なる神父たちの言葉によれば「反キリストの所業はすべてキリストの御業の模倣である」と。
これは偽書であると言われており、また、発表したニールスはちょっと変人だったという宣伝が盛んに行われるが、出口王仁三郎はこれを下記のように判じている。
神靈界
大正八年十二月九日
『本年五月十日(大正八年)伊勢御礼参拝の途次、数名の随行員と共に東都に上り、某氏の手より、魔素の陰謀シオンの決議書を手に入れ熟読すれば、故教祖の御手を通じて国祖国常立尊の予告し、警告し玉ひし、外国の悪神の秘密計画書にして、神諭の所謂「外国から廻ってきた筆先」であることを知って非常に驚倒すると共に、注意周到なる大神の天眼通力に感服せざるを得ませんでした。神諭に石屋の陰謀とか、【我が在る】の悪計とか出て在るのは、即ち魔素(マツソン)秘密結社の事を示されたものである。吾人は天下の形勢に鑑み、慎重の態度を採って赤裸々に発表することを見合せて居ったのであるが、時機の切迫と共に東京の「公論」という雑誌に、弥々今回発表されて了ったから、有志の諸君は同誌を一部購入して、明治ニ十五年からの大本の神諭と、対照されたならば、実に大本大神(国祖大神)の数千年間の御苦心と、故教祖の天下無比の神格者で在った事が首肯される事と思ふのであります』
大本神諭の以下のところを読むと日本の神がこれに対抗するシステムを作っていたことが述べられている。
天地の先祖をなくして悪の行方で世界の頭となりて、此先を悪をモウ一つ強く致して、まぜこぜでやりて行かうとの、初発の目的通りに、此処までは、トントン拍子に、面白い程上りて来たなれど、此の日本には、神の深い経綸が世の元から致してありて、日本の仕組通りに九分九厘まで来たぞよ。
悪神の仕組も九分九厘までは来たなれど、モウ輪止りとなりて前へ行くことも出来ず、後へ戻ることも出来んのが、現今のことであるぞよ。仕放題の利己主義の行方で、末代此世を悪で立てゝ行くことの目的が、今迄は面白い程昇れたなれど。(大正四年旧十二月二日)
外国の悪神の企みは、神界にては三千年余り前から、仕組を悪神が致して居りたなり、外国の人民を使うて斯世を乱しにかゝりてからでも、二千年になる永い経綸であるから、世界隅々までも、山の谷々までも、水も漏らさぬ仕組を致して居るぞよ。(大正八年八月十一日)
この2000年とか3000年とかいう年代は神界の年数なので、現界の日数と一致するかどうかも分からないが、悪神の陰謀はここ百年とかいうわけではなさそうである。
ペンネーム竹田日恵という人が、ソロモン王が魔術を持つ異教の石屋をあつめたのがきっかけだったとも書いているが定かではない。
出口王仁三郎は石屋の陰謀で世界が混乱しているとは言っている。そしてシオンの議定書はユダヤの一部がこの石屋=マッソン=フリーメイソンを使って世界をコントロールしようとしていることを描いている。
日本人はこんな話はあまりまともに信じられないだろうが、イタリヤの内閣がこのフリーメーソンがらみで総辞職したP2事件というのがあった。そのころはフリーメーソンに関するかなりの記事が真面目に表に出た。フルーメーソンは実在する。
当時は中東の在る戦争で、フリーメイソンが両方にかかわって争いを興すなどという記事を一般の週刊誌で読んだことがある。
二度の大戦も経済戦争もこのフリーメイソンがかかわっているといわれている。
出口王仁三郎はフリーメイソンに対して批判はしているが、ユダヤ人に関しては大部分が憑依されているが一部は真正の信仰を持ち続けているといったニュアンスを霊界物語の6*巻で登場人物に述べさせている。
宇野正美という人が、ユダヤ人の中には本当はユダヤ人でない人もいるという内容の書物も描いているが、ではだからと言ってすべてのユダヤ人が善とは言い切れないだろう。
アインシュタインはユダヤ人で後に平和運動に参加したが、原爆開発の大きなきっかけを作った。
本人が意識するしないは別として、歴史に大きくかかわり、善の中に、悪、悪の中に善、善に見えて悪、悪に見えて善が存在する。
エスペラントの創始者ザメンホフもユダヤ人。
マルクスもユダヤ人である。大量の粛清が行われるなどマルクスも思わなかっただろう。しかしマルクスの思想は神に抵抗する大きな武器となってしまった。
マルクスはモチーフを原始共産制から得ている。原始共産制はシャーマニズムを土台としており、それなくして原始共産制は正しく機能しない。ところがマルクスはシステムだけを抜き取り肝心の魂を無きものとし、国家という概念をトップにおいて経済システムを考案した。だから失敗した。
マルクスのシステムは原始共産制の模倣である。
国家という抽象的な概念を理論の頂点に据えて統治機構を考える点については北一輝も大川周明も同様である。彼らはそのシステムの中に天皇を位置づけて理論を構築した。
これを見抜いていたのが真崎甚三郎で
「北一輝の『日本改造法案大綱』はロシア革命におけるレーニンの模倣でありそれを基にした国家改造は国体に反する、大川周明の思想は国家社会主義であって共産主義と紙一重の差である」と述べている。
真崎甚三郎の説は天皇機関説ではない。天皇を超法規的に扱う。天皇は憲法に拘束されず、むしろ憲法の改変、実施に権力を持つ。
その根拠は天照大御神のシャーマニズムである。
王仁三郎の皇道も同様の考え方に立っているため、北一輝らに手を貸さなかった。
天皇陛下は立憲君主としてふるまおうとされていた。
昭和天皇の独白録には次のように書かれている。
開戦の際東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下における立憲君主としてやむを得ぬことである。もし己が好むところを裁可し、好まざるところを裁可しないとすれば、これは専制君主となんら異なるところはない。終戦の際は、しかしながら、これとは事情を異にし、廟議がまとまらず、議論分裂のままその裁断を私に求めたのである。そこで私は、国家、民族のために、私が是なりと信ずるところに依て、事を裁いたのである。
今から回顧すると、最初の私の考えは正しかった。陸海軍の兵力の極度に弱った終戦の時においてすら無条件降伏に対し「クーデター」様のものが起こったくらいだから、もし開戦の閣議決定に対し私が「ベトー」を行ったとしたらば、一体どうなったであろうか。
(中略)
私がもし開戦の決定に対して「ベト―」をしたとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の命の保証もできない、それはよいとしても結局凶暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、はては終戦も出来かねる始末となり、日本は滅びることになったであろうとおもう。
(注:ベトー veto=拒絶)
陛下の意図を内閣が実施することができなかった。東條は努力したとはいわれるが、そこまで国を陛下を追い込んだのは東條である。
ところで出口王仁三郎はこのことについては述べていないが、別のところで、天皇陛下は独裁でいいといわれている。議会は天皇陛下のいうことをどのように実施するかという機関であって、それに反対するような議会はけしからんというわけである。これは農村座談会という昔の記事で出口王仁三郎が語っているのを読んで初めて判明した。
大本はもともと天皇親裁政治が目標だったのである。
それを戦後隠したり、後継者がいやあれは時代に合わせて王仁三郎が言ったことで本意は他にあったなどというから、形式だけの一地方宗教のように受け取られるのである。
この視点から王仁三郎の書物をよむと、すべてとはいわないまでも大本の多くの書籍の真意が判明する。
アジアに進出して明光国を作ろうとしてたという意図を調べてゆくと、もとはアジアが日本であり、もっとさかのぼると世界が日本であった時代があり、それが再来すると予言しているのである。
これは確かに今の時代には言えない。中国のみならず他国が激怒する。
昭和天皇は立憲君主であることにこだわり、出口王仁三郎は天立君主立憲つまりは天皇陛下の独裁、親裁政治を企図していたという事実が浮かび上がってくる。
昭和天皇は立憲君主にこだわらずベトーを発すれば大混乱が起きることを予想して戦争の開始を承認したという。
また昭和天皇はイギリスの王室を参考にしていたから立憲君主にこだわったともいう。立憲君主は天皇機関説である。故に昭和天皇は天皇機関説に対しては反対はしていなかったと言われている。
昭和天皇は生涯立憲君主を正しいものと信じておられたようだ。戦時中一時憲法を停止すべきとの秩父宮との論争があったとのことが思い起こされる。
これをみてみると昭和天皇がシャーマンとして判断したのではないことが分かる。昭和天皇は英国王室をモデルに立憲君主という統治形態にこだわったのである。
つまり天皇にはすでに天皇とアマテラスオオミカミの神霊を一体化させるような方法が断絶していた徒も考えられる。
皇室で明治時代までこれを教えていたのは伯家神道の白川家であったが、白川家は明治維新に引き離され、今日断絶している。
明治憲法が作られる時には実はこの点については元田 永孚(もとだ ながさねなどが懸念していた。
この時代にはまだ天皇親裁を理解する人物も存在したのである。
しかしながら伊藤博文は立憲君主を想定して明治憲法をつくらせた。
つまりすでにこの時に日本の運命は決した。
また更にさかのぼってそれ以前。
明治維新の時に神祇官に人を得ることができなかったのも原因であると思われる。
明治維新には吉田神道や伯家神道、平田篤胤の流れをくむ国学者などがあつまり、神祇官内部での意見がかなり混乱していた。本格的な神がかりの伝承は絶えており、在野で本田神徳などという人物が試験的にいろいろやっているだけであった。
つまり形式と理論のよせ集めで、本当のところ神の声を聞けるものなどいなかった。
また後に伊勢派と出雲派で祭神論争等も起こり、混乱した神道を頂点に置く国造りは困難と政治家が判断していたようだ。
明治15年1月24日、内務省は政教分離の通達を発し、神官の教導職兼務を廃した。
この時まだ大本は興っていなかった。出口直が神懸ったのは明治25年、出口王仁三郎が合流したのが明治31年と少し遅かった。