情操教育等という言葉を使っている限りは情操教育はおぼつかない。おもいやり、きくばり、等できるだけ平易な漢語を使わない教育が必要だ。
日本語本来の力というのが、やまとことばにあって、まずは脳に大きな影響をあたえる。今のところこうした研究は皆無に近い。
外来語の使用は否定しようもないが、大和言葉の発掘と使用は国語学者の急務であり至上課題だ。
やまとに大和と当てるがごとき使用もなるべくは控えたい。
これは国粋主義的な思いからではない。
私たちが魂の力を発揮したければ、やまとことばを再興して、自らの魂に力を与えなくては成らない。
これは翻訳に傾く学者には困難であるし、門外漢には関心が薄い。
一音一音に意味があり、それは言葉に魂と宇宙の学びが込められている。
音声は空気を振動させ、伝搬する。身体を振動させる。脳に振動が伝わる。
欧米を基準とした言語学ではなく、日本語からみた言語学を構築するべきである。
その際、平安時代の音声が必ずしも正しいとは限らない。古いからいいとは限らない。
本来の日本は一度崩壊し、漢文化を使ってたてなおされたために、やまとの文化はいったん地下にもぐった。
カタカナは漢字から発達したものではなく、音声の響きが腹部に響く形から、あるいはある種の図形から考案されている。
この事実を真実だと知ったときには鳥肌が立つ。
身口意というが、体と心の間に真言があり、それが言霊である。
原始仏教の思想にはあまりないが、これは密教では重視されており、出口王仁三郎も本当の言霊をつかったのは空海くらいだといっている。
密教の継承がなぜ日本におこなわれたか。
これは密教がもともと日本から伝搬していた太古の宗教を仏教に焼き直したものだったからである。
空海は四国で誰かに密教のルーツとなる太古神道の言霊の口伝を受けていたと考えられる。
左手と右手で合わせて音を出す。火足り、水極まり、合わさり音がでる。
音声はもっと複雑だが、息、口腔などの作用で声ができる。息とは意気ではないか。
神の名は唱えることで空気を振動させ、神と同調する。
同調した神名はまさに単なる音声ではなくこの世に現れた神であり、私たちの存在を照射する。
われわれが神名を唱えるというよりも、神名が神であり、われわれの心身を振動させ、振動を広げてゆく。
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