出口王仁三郎は英語教育には否定的で、彼ならエスペラントをやれというだろう。だがエスペラントはまだ国際語として利用できるほと、広がっていない。
国際語としてエスペラントの可能性について暗示していたバハイ内部でさえ、英語が優勢である。
いまの時代、英語がなくては国際人ではいられないというのが、一般的な見方であろう。だが、日本人の多くは英語が不得手であり、その理由が、明確になっていないまま、実用的理由から英語の早期教育が導入され、さらに今回のような大騒動が起きた。
かなり長期間英語を學んでも身に付かない、あるいは日本に長くいると習得した語学力も維持できないという声も聞く。
理由は学習の仕方に問題があるとも言われるが、言語構造の違い、それによる脳の形成と機能など、議論はあるが、実用性から反対論が声を潜めている。
同じラテン語から派生した言語だと構造がにていたり、単語に類推のきくものがあるため、記憶も定着しやすい。
エスペラントの学習にしても英米人やヨーロッパ人にとってはかなり有利である。
日本語教育の分野では最近の言語学の知見が紹介される。母国語同様二つの言語を同じように操るには言語的な才能、環境、言語修得の意欲が必要とされる。
母国語が中国語である台湾人が長く日本にいると母国語が出てこなくなるので困っていたことがある。母国語でさえ操りにくくなる。
絶えず二つの言語に接触しているならまだしも、そうでないなら、日常使わない言語は衰退ししやすい。
要は外国語をどの程度学ぶ必要があるかということをおさえないと、教育の目標が定まらない。
外国の文献を読むため、取引のため、外交のためいうのであれば、それぞれの目的に絞って学習しないと無駄になる。
例外はもちろんあるだろう。だが無駄が多すぎえば実利も、意欲も削がれる。
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