ニーチェを読むうちに原始仏教を理解するいくつかのヒントがあった。
特に因果論の否定は大きい。
え?因果律を否定するの?というと驚く方も多いだろう。
種があって実がなる。そこから「結果」という漢字・概念が存在し、その種子を原因と称する。
因は物事の成り立ちが依って立っているところを示している。
これがあるのはかれがあったから、それを更にさかのぼってもともとは・・という意味で原を付ける。
ところが原因と呼ばれるものにもさらに原因がある。そうするとさっき言った原因は本当の原因ではない。
そういうのを因果の連鎖という人もいるが、特定の事象を原因といい、そこから生じた事象を結果といいなれてしまうと、根本原因、最終結果とでもいうものが存在しないことがわかる。
苦しみがあるのは、私がこの世に存在するからだともいえるし、世の中が悪いせいかもしれない。世の中を悪くしているのは政治家かもしれないし、権力者かもしれない。
生まれ変わりがあるとして、前世の因縁かもしれない・・・と考えたのが仏教と土着宗教の結合の始まりだった。
この世あの世をわたっての因果応報というのはもとは仏教の思想ではない。仏教はむしろこうした因果応報の輪廻のしがらみから自由になる解脱の道を示そうとしていた。
初期の仏典には釈迦が生まれる前や、死後のことを説こうとしたのではないということが示されている。
それは無記といわれ、死後どうなるか、生まれる前はどうなったかなどとの質問には釈迦はあえて答えず沈黙したという。
あんまりしつこくいってくる弟子には、「語られぬものは語られぬままに受け取れ、それは修行に役立たぬ」と説教したのである。
つまり釈迦の思想は生まれ変わりを論ずるものではなく、、生老病死という人間が直面する現実からどうやったら逃れられるかということだった。
釈迦が再発見した縁起は、12の縁起としてまとめられた、これには大きく二つの解釈法がある。
A群は輪廻転生説から説明しているもの。これは当時のインドにある輪廻転生によって説明したのもの。
B群は認識が存在しなければ名(概念)も色(目に映る景色、色相)も、記憶も苦しみも何もなりたたない、あるとかないとかいえないという、認識論的な発想だった。
B群が本来の形に近いと考える。
我々が触っている物体は我々の感覚と認識という脳の働きを通して物体と認識される。生老病死の苦しみも、記憶や、将来の不安、実際に肉体の衰えから来る痛み、苦しみなどを認識することから生じてくる。だが深い睡眠にみられるように意識が途絶えている時は、それらがあるとかないとかいうことはわからない。他人が見てあっても本人にはあるともないともいえない。どんな苦しみも認識を遮断すれば存在という基盤を失う。
ここから誤った解釈が一つある。仏教は瞑想と教団の環境を整えるために厳しい戒律を設けていた。そのため、感覚や意念を遮断することが修行の重要な道理と考えてしまった人がいたようである。
欲望から様々な手段を講じて離れることは説いているが、すべてに対する心意思の作用を停止させるのが仏教の教えではない。これは、経にもそういう問答の書いてあるものがある。
心を鎮静させる修行方法(定)も取り入れてはいるが、それが本旨ではない。
認識の消滅は絶えず起こっており、これを観察してゆくのが縁起生滅観である。初期の仏教はこれを智慧として、最重要視している。
戒、定、慧とあるが戒、定、は正しい慧を獲得するための前提であった。
後世、四諦説は苦しみと苦しみのもとと、苦しみの消滅と八つの正しい道と整理されている。
しかし古い経典によっては、苦しみと苦しみが生じる縁起の道跡をみつめ、苦しみの滅状態と苦しみが縁によって滅する道跡を見つめるという翻訳表現をとっているものがある。これは四相縁起と言われているがこの四相縁起の説明が、八正道説や、医者の例えとごっちゃになって四諦説が成立したと私は考える。
苦しみが滅するというのは痛みが消えるというような実際の治癒のプロセスではなく、たとえば自分の死への恐怖がない時のこと、死を想像していない瞬間のことである。
死が自分に恐怖を与えるのは、私が死を認識しているときだけである。
これから洗濯をしなくちゃなどと別のことに集中すると死も死の恐怖も消えている瞬間がある。禅の考案などは、これを気づかせるためのものと推察する。思考が恐怖に力を与えているということをありのままに覚知するというのでもあろうか。
夢中になれる趣味に没頭していると時間さえ忘れることがある。これは時間認識も思考との縁で生じていることが分かる。
少なくとも死等についての認識もその瞬間だけはなくなっている。
結局考えていないことをあとから気づくというところから始まるのだが、そういう関係性に気づいてゆくと、死の恐怖から一歩退いて物事を見る感覚が生まれてくる。
心頭滅却すれば火もまたすずしとは言うが、火が涼しいと感じるようでは日常生活がこまる。やけどしてしまう。火は熱い、時には危険と感じながらも冷静さを保っていくというのが目標であるような気がする。
人の記憶が恐怖に連続性を与えてしまう。
古い仏典の中で語られている釈迦の伝記がある。釈迦が人の居ない森林で瞑想をしていると獣の声が聞こえてきたという。最初のうちはそれが怖くて心が乱れたが、もともと、命を投げ出す覚悟で出家したのに、自分は何考えてんだとばかり反省してみると、実際には獣は襲ってこないので不安が心を乱していることに気づき、命を投げ出し来るままに任せようという気になった時に心が落ち着いたという体験談が書いてあった。
はじめて読んだ時は、まあそうなんだけど、そう思っても不安なのが普通人で、それで克服できちゃうのが超人仏陀なんだよなあ。と思った。
しかし釈迦の原初の説教と比べて考えると、釈迦はたとえばなしで大事なことを示していたことがわかる。
それは、現実に襲ってきたわけでない獣への恐怖は心が作り出すいわば幻影に恐れおののいているのである。
われわれは生きる上で、また死や病を前にして、必要以上に自分の心を恐怖で煽り立て、心を乱している。
このことに気づくということが一番大事で、物事に対する想像や記憶が感情を膨らまそうと自分を襲ってきたときに記憶や感情が認識でなり立っていることを強く意識する。
認識しなければカゲロウのように何もこちらをかく乱することはできない。
だがこれは危険を予測しないということではない。リスクを承知で出家してきた釈迦が死を恐れるなど何事かということだ。
これを一つ一つ考えていってみる。確かに耐え難い疼痛のようのものは存在する。
しかしいわゆる阿羅漢と言った人々は苦痛を受けても一種の精神的な観法でで苦痛をやわらげることができたらしい。
古い仏教典では「第一の矢は受けても第二の矢は受けない」という表現が使われている。
つまり神経刺激は、それをきっかけにして生じる思い、解釈によって疼痛が耐え難いものになるというのだ。
ニーチェも似たようなことを言っている。個体の侵害という解釈によって苦痛の程度が左右される。死という「とるにたらぬ生理的変化」と書いている。
ニーチェによれば、物質というものは存在しない。それは「我」という概念が投影されたものであるという。
けっこう誤解されているがニーチェは唯物論者ではない。物質すらないといっている。釈迦が違うのは釈迦は感覚を離れて「物質(自体)」があるともないとも言わないという事である。
諸行無常の諸行も、物が変化すると翻訳するのは間違いである。色とは、物ではない。より正確には、白黒を含めた色である。しかも変化というのは、すでに比較による思考の解釈が、混入している。
分かりにくい表現で申し訳ないがこの点についてはミリンダ王の問いという書物にナーガセーナとミリンダ王との問答の中に似たような質疑応答がある。
私というものが存在するのではなく、もろもろの属性の総称をわたしというだけ。
色受想行識つまり色は目に見える部分、受は感受、想は想念、行識は、意識の総称に過ぎず、当時支配的であったアートマンの理論を否定したのである。
これがいわゆる仏教の玉ねぎ論であり、剥いていけば人間は核がなく、個体の存続があるわけでなく、流れるようにそれらが生じては消えているだけで、ただそれらには関係性があり、意識がなければ事象の認識はできないところを意識が消えれば名色も消えると説いたのである。
仏教の場合は、実体についての議論には及ばない。カントのいう物自体、プラトンのいう形相などについて、釈迦は議論を回避した。
無我とよく言うが、これは当時の思想にアートマンという人間ののなかに核になる存在があるという思想があったため、こんなものはないと否定したのである。
これが、日本でいうところの霊魂を否定したものであるかどうかは、議論がある。仏教の全体的な印象としては、無霊魂説に傾いているようにみえる。あるいは釈迦自体は、色受想行識は我じゃないといっただけなのかもしれない。
これは、イエスが、天国についてあまり詳しくのべなかつたのと似ている。知ったところで悪いことをするやつは悪いことをする。形而上の議論に時間を費やすことをあえて回避したとみられる。
意識がなければ名色が消えるからこの部分だけは間違いないというところから出発している。
「誰が受ける」かという問いかけには対しては、「それは問い方が間違っている、何によって受があるかと問うべき」という返しがかなり古い経典に残されている。
釈迦は「受」の主体の有無に触れることなく、今まさに感じている「受」がどういうときにあり、どういうときにないかをみつめなさいと言っている。
まあ、実際理屈の上ではなんとなくわかったようなわからんような、いやわからんというところである。
これは唯識論でもなく、むろん唯物論でもない。一種のセラピーに近い。
縁起の核心部分は識あって名色があり、名色があれば識がある。
行というのは意行と訳されることが多いが、識別するという知的行動の背後にある心理的な動きを示している。
これらは今の概念では説明が難しいが当時の一般的な概念(法)であったという。釈迦は当時の概念を使って説明すると書いた経典があった。
色受想行識(五蘊)は釈迦が編み出した特殊な概念ではない。当時流布していた概念を拾い上げて釈迦がそれ利用して縁起を説いたのである。
意識があるから色と名前がある。意識がなくなれば色も名称も、感覚もない。
それ以上でもそれ以下でもない。この実際の生起関係をみつめる。
「我」という恒常的な個体が存続するのではなく、刹那に変転する色受想行識を仮に「我」と呼んでいるに過ぎないという。
縁起や五蘊説は結局こうした観照的な視点を獲得することで、われわれがかなり大昔に文化的に引き入れた我執視点の自己認識のゆがみを是正しようとするものではないかと理解するに至った。
確かに釈迦は「古道を発見した」といっていた。自分の発見だとは述べていない。そこから古代7仏の話や阿弥陀仏の話も現れてくるがそれが後世の付け加えだったとしても、再発見であったということは、重要な点である。
病になっても死にそうになっても冷静な視点を獲得するためには、日ごろから物事の見方を練習しておかねばならない。
とまあ思ったわけではあるが、ここでタイムアウト。
優雅な学生生活は終わり、社会に放り出された。
社会に出ると仏教の哲学や座禅など、くその役にも立たない。
座禅したって翌日には仕事する退屈な朝がくるし、人間関係にもみくちゃにされてストレスも多く、縁起をみようが五蘊を見ようがまったく現実ののしかかる重さにうんざりした。
全く役に立たないのだ。むしろ求道に必要だった繊細さと道徳心は感覚がとぎすまされすぎて社会で成功するにはじゃまだった。仏教の哲学なんぞこの重苦しい現実の前には役に立たない。ニーチェだって同じ。
大乗の教えの必要性がひろまったのはこうした修行できない人びとは悟ることも救われる事もできないのかという現実があったからだろう。
だが残念ながら大乗教典の多くは私が読んだ限り、人為的で、抽象的におもわれた。あるものは理解できず、これまた何の役にたつのか、原始仏教よりも空虚に思われた。
法華経は皇室祭祀について、密教は太古の高天原教えの焼き直しであると出口王仁三郎が書いたのを読むまでは、投げていた。空海だけが、本当の言霊を操っていたというから、当時の神道奥義は伝承が途絶えていたのだろう。空海のあやまりといえば本地垂迹仏で、これは仏が神の形であらわれるということであるが、これはさかさまで、この時代、神が仏の姿をかりて人守っていたのである。伊勢神道などではそのように説いていたらしい。その後、空海が四国に八十八か所を設けたり、古語拾遺の斎部氏が四国で祭祀を継続していたことがわかり、空海が古代神道のエッセンスを斎部氏の伝承者から一部伝授され、太古神道と仏教が混じり合った密教が空海の中で符合したのではないかと想像した。
そもそも密教は原始仏教とはあまりにも異なっており、ヒマラヤ奥地の太古の宗教がその時々の宗教勢力をかいくぐるために仏教の形をとってきたものと考えられた。その頂点に立つ阿闍梨である恵果が、そのルーツである日本の祭祀の素養をもつ空海と肝胆相照らすこととなったと考えると筋が通る。
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